最終更新日 2025-09-07

庄内・藤島城の戦い(1588~92)

天正16年、本庄繁長は十五里ヶ原で最上軍を破り庄内を奪還。しかし、後の庄内一揆を扇動した嫌疑で改易される。藤島城は一揆の拠点となったが、直江兼続に鎮圧された。

出羽庄内攻防史 ― 十五里ヶ原の激突から藤島城の動乱まで(1588-1592)

序章:戦乱前夜の庄内

出羽国庄内地方は、戦国乱世の奥羽において、極めて重要な戦略的価値を持つ地であった。肥沃な庄内平野は豊かな穀倉地帯を形成し、日本海交易の拠点たる酒田湊は莫大な経済的利益を生み出す。この地の支配権は、地域の覇権を確立する上で不可欠な要素であり、周辺の有力大名である上杉、最上、小野寺といった諸氏が虎視眈々とその機会を窺っていた。

この地を代々支配してきたのは、名門・大宝寺氏(武藤氏)であった。しかし、戦国末期にはその権勢にも陰りが見え始めていた。第17代当主・大宝寺義氏(武藤義氏)の治世は内政が乱れ、領民からは「悪屋形」と揶揄されるほど人心が離反していた 1 。この内部の脆弱性を見逃す者はいなかった。天正11年(1583年)、出羽の覇権拡大を目論む山形城主・最上義光と内通した重臣・東禅寺義長(前森蔵人)が謀反を起こし、義氏は居城の尾浦城を急襲され、非業の最期を遂げる 1

義氏の死後、家督は弟の義興が継承した。しかし、一度揺らいだ支配体制を立て直すことは容易ではなかった。求心力を欠いた義興は、外部の力に活路を求め、父の代からの盟友であった越後国の勇将・本庄繁長との連携を強化する。その証として、繁長の次男・千勝丸(後の大宝寺義勝)を養子として迎え入れた 2 。だが、この策は裏目に出る。外部からの養子縁組は、庄内地方の独立性を重んじる国人衆の不信感をかえって煽る結果となり、領内の亀裂は一層深まっていった 4

この好機を最上義光が見過ごすはずもなかった。天正15年(1587年)10月、義光は再び東禅寺義長と結託し、大宝寺義興の居城・尾浦城へ大軍を差し向けた。内憂外患に苛まれた大宝寺軍に抗う術はなく、尾浦城は落城。義興は自害(一説には山形へ連行された後に死去)し、養子の義勝は辛うじて城を脱出、実父・本庄繁長が治める越後村上城へと逃げ延びた 5 。これにより、庄内地方は事実上、最上氏の勢力圏へと組み込まれ、東禅寺氏がその統治を担うこととなったのである。

第一部:天正十六年、庄内奪還戦 ― 十五里ヶ原の激突

第一章:好機到来 ― 最上・伊達の対立と上杉景勝の決断

最上氏による庄内支配は盤石ではなかった。その支配体制が確立される間もなく、奥羽の勢力図を揺るがす新たな火種が燻り始める。天正16年(1588年)1月、最上氏の姻戚である大崎氏の家中で内紛が勃発すると、これに奥州の独眼竜・伊達政宗が武力介入を開始した(大崎合戦)。最上義光にとって、妻の実家である大崎氏の危機は看過できるものではなく、政宗の野心を挫くため、自軍の主力を大崎領へと派遣せざるを得ない状況に追い込まれた 1

この一連の動きは、庄内地方単独の紛争が、いかに奥羽全体の勢力均衡と連動していたかを如実に物語っている。一つの地域での衝突が、ドミノ倒しのように他の地域での力関係に影響を及ぼし、新たな紛争の火種となる。最上・伊達間の対立という、庄内とは直接関係のない出来事が、結果的に庄内の運命を決定づける戦いの引き金となったのである。

この千載一遇の好機を、越後の上杉景勝は見逃さなかった。宿敵である最上義光が伊達政宗との戦いに忙殺され、庄内方面の守りが手薄になっている今こそ、失地回復の絶好の機会である。景勝は、実子・大宝寺義勝の旧領回復という大義名分を掲げる本庄繁長に対し、庄内への出陣を正式に下命した 1 。繁長にとっても、息子の無念を晴らし、最上氏に雪辱を果たすための戦いが、ついに始まろうとしていた。

第二章:合戦のリアルタイム詳報

侵攻開始(天正16年8月)

天正16年(1588年)8月、本庄繁長・大宝寺義勝父子が率いる上杉・武藤連合軍は、越後と出羽の国境に聳える鬼坂峠を越え、庄内地方への電撃的な侵攻を開始した 2 。その進軍は迅速かつ果断であり、道中の菅野代館や関根城、清水城といった最上方の諸城を次々と攻略し、瞬く間に旧大宝寺氏の本拠・尾浦城へと迫った 2

両軍の布陣と兵力分析

本庄軍の侵攻に対し、庄内を預かる東禅寺義長・勝正兄弟は、籠城ではなく野戦での迎撃を決断。最上義光からの援軍である草苅虎之助らと合流し、尾浦城下の十五里ヶ原に布陣した。両軍は千安川を挟んで対峙し、庄内の覇権を賭けた決戦の火蓋が切られようとしていた 7

兵力については諸説あるが、数の上では最上・東禅寺連合軍が優勢であったと見られている。しかし、その実態は複雑であった。最上軍の主力は依然として伊達政宗との戦線に釘付けにされており、十五里ヶ原に集結した兵は、庄内の国人衆を中心とした寄せ集めの感が否めなかった。一方、本庄繁長が率いる上杉軍は少数精鋭であり、何よりも「鬼神」とまで謳われた繁長の卓越した指揮能力が、兵力差を補って余りある強みとなっていた 8


【表1】十五里ヶ原の戦い 両軍戦力比較

項目

上杉・武藤連合軍

最上・東禅寺連合軍

総大将

本庄繁長

東禅寺勝正(右馬頭)

主要武将

大宝寺義勝(本庄義勝)

東禅寺義長(筑前守)、草苅虎之助

推定兵力

約5,000 6 ~ 数千 2

10,000~18,000 6 ※優勢であったが実数は不明

兵力評価

少数精鋭。繁長の指揮能力が高い 8

数では優勢だが、主力は伊達戦線にあり、寄せ集めの感が否めない 6

勝敗要因

巧みな調略による内部分裂誘発 2 。奇襲戦法の成功 7

指揮系統の混乱。大将の相次ぐ戦死。


勝利への布石 ― 本庄繁長の調略

兵力で劣る繁長は、正面からの激突が不利であることを見抜いていた。彼の真骨頂は、戦いが始まる前に勝敗の趨勢を決する「調略」にあった。合戦に先立ち、繁長は周到な「下工作」を仕掛けていたのである 6 。その内容は、最上氏や東禅寺氏の強引な支配に不満を抱く庄内の国人衆や、旧大宝寺家臣団に対し、内応や戦闘への不参加を働きかけるものであったと推測される。この情報戦は功を奏し、最上・東禅寺連合軍の結束は開戦前から大きく揺らいでいた。砂越城主・砂越氏が東禅寺兄弟に陥れられ、戦いの最中に逃亡を余儀なくされたという記録は、この内部混乱の激しさを物語っている 9

開戦と序盤の推移

周到な調略に加え、繁長は戦術においても敵の意表を突いた。一説によれば、合戦は夜陰に乗じた本庄軍の奇襲によって始まったとされる。繁長は別動隊約3,000の兵に密かに千安川を渡らせ、最上軍の背後を突かせたのである 7 。事前の調略によって士気が上がらず、足並みの揃わない最上軍は、この予期せぬ前後からの挟撃を受けてなすすべもなく混乱に陥り、戦いの序盤で早くも総崩れの様相を呈した 7 。合戦の主導権は、完全に本庄繁長の手中にあった。

東禅寺兄弟の壮絶なる最期

味方の敗色が濃厚となる中、東禅寺兄弟は武士としての意地と誇りを懸け、壮絶な戦いを見せる。まず、兄の東禅寺義長が、崩れゆく自軍を顧みず敵本陣目がけて突撃を敢行し、奮戦の末に討ち死にした 2

兄の死を知った弟の東禅寺勝正(右馬頭)は、鬼神の如き形相で最後の突撃に打って出る。既に満身創痍であったが、単騎で敵陣を突破し、本庄繁長の本陣へと迫った 6 。味方の兵士を装って巧みに繁長に接近すると 12 、佩用していた名刀「正宗」を抜き放ち、繁長の兜を目がけて渾身の一太刀を浴びせた。この一撃は繁長の兜をこめかみから耳の下まで深く切り裂いたが、惜しくも致命傷には至らなかった 2 。力尽きた勝正は、その場で繁長の側近たちに囲まれ、壮絶な最期を遂げた。この時、勝正が振るい、繁長の手に渡った一振りの刀こそ、後に徳川将軍家の至宝として天下にその名を知られることになる「本庄正宗」である 2

最上軍の総崩れと合戦の終結

両大将を相次いで失った最上・東禅寺連合軍は、完全に指揮系統を失い、算を乱して敗走した。朝日山城などで散発的な抵抗が続いたものの、もはや戦局を覆す力はなく、ことごとく鎮圧された 6 。この戦いにおける最上方の戦死者は2,500余名にのぼったとされ、庄内奪還を目指した本庄繁長の圧倒的な勝利に終わった 2

第三章:戦後処理と庄内の新秩序

十五里ヶ原での大勝により、庄内の支配権は再び動いた。大宝寺義勝は尾浦城への復帰を果たし、庄内地方は名目上は大宝寺氏、実質的にはその宗主である上杉氏の領有するところとなった 2 。本庄繁長は余勢を駆って最上領の東根まで進軍したが、そこで最上勢の猛反撃に遭い、撤退している 6

この敗戦の報は、山形城の最上義光を震撼させた。義光は自ら大軍を率いて救援に駆けつけようとしたが、時すでに遅く、途中で敗報に接し、兵を退くしかなかった 2 。この敗北により、最上氏の勢力は一時的に後退を余儀なくされる 6 。一方、最上氏の台頭を快く思っていなかった伊達政宗は、この結果を歓迎した。天正16年9月10日付で、上杉方に付いた国人・小国彦二郎に宛てて上杉の勝利を祝す書状を送っており、当時の奥羽における敵の敵は味方という、複雑な外交関係を浮き彫りにしている 6

しかし、この戦いには一つの大きな問題があった。それは、天下人・豊臣秀吉が発令した「惣無事令」の存在である。天正15年(1585年)に関白に就任した秀吉は、全国の大名に対し、私的な領土紛争を禁じる法令を発布していた 17 。十五里ヶ原の戦いは、形式上この惣無事令に違反する私戦であった。最上義光はこれを逆手に取り、上杉氏の違法行為であると秀吉に訴え出た 19

これに対し、上杉側はあくまで「旧領回復のための正当な戦い」であると主張した。最終的に、この裁定は上杉側に有利な形で決着する。秀吉は上杉氏の庄内領有を追認したのである 19 。一説には、秀吉が事前に庄内と佐渡への進出を許可していたとも言われる 20 。この裁定の背景には、秀吉の巧みな政治戦略があった。惣無事令は、絶対的な平和維持法規ではなく、天下統一を円滑に進めるための政治的道具であった。当時、秀吉にとって最大の課題は、いまだ完全に服従していない関東の北条氏や、その先に広がる奥羽の伊達・最上といった巨大勢力をいかに統制するかという点にあった。既に恭順の意を示している腹心の上杉氏に庄内を領有させ、最上氏の勢力拡大に楔を打ち込むことは、秀吉の奥羽戦略にとって極めて好都合であった。したがって、上杉氏の「違反」は黙認され、むしろその結果が公的に承認されることになったのである。

第二部:豊臣政権下の波紋 ― 庄内一揆と藤島城

十五里ヶ原の戦いから約2年、庄内地方は再び動乱の渦に巻き込まれる。しかし、この新たな紛争は、かつての戦国大名同士の領土を巡る「私戦」とは全く性質を異にするものであった。それは、豊臣政権という中央権力の政策に対し、地域の国人や農民が蜂起した「一揆(反乱)」であった。この紛争の質の変容は、庄内地方が戦国という「私戦の時代」から、中央集権的な「公儀の時代」へと移行する、歴史の大きな転換点を象徴している。

第四章:天下統一と奥州仕置

天正18年(1590年)、小田原征伐によって北条氏を滅ぼし、名実ともに天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、その総仕上げとして奥羽地方の仕置(奥州仕置)に着手した 18 。全国の支配体制を均質化するため、秀吉は各地で「太閤検地」と呼ばれる大規模な検地を強行する 23 。庄内地方においては、領主である上杉氏が検地奉行を担当し、この政策が推し進められた 24

しかし、土地の所有関係を根本から覆し、年貢の基準を中央集権的に決定する太閤検地は、古くからの慣習や権益を拠り所としてきた在地の地侍や農民にとって、到底受け入れられるものではなかった。支配体制の急激な変化に対する不満と反発は瞬く間に庄内全域に広がり、やがて大規模な一揆となって爆発した 3

第五章:藤島城攻防と一揆の鎮圧

蜂起した一揆勢は、かつて大宝寺氏の重臣・土佐林氏の居城であった藤島城を主要な拠点とし、ここに立てこもって上杉氏の支配に激しく抵抗した 21 。一揆の鎮圧を命じられたのは、上杉家の宰相として辣腕を振るっていた直江兼続であった。しかし、一揆勢の抵抗は予想以上に激しく、兼続は藤島城の攻略に手こずり、一度はその鎮圧に失敗するほどの苦戦を強いられた 21

力攻めでは鎮圧が困難と判断した兼続は、天正19年(1591年)5月、謀略へと戦術を転換する。和議を装って一揆の指導者たちを誘い出し、騙し討ちにするなど、非情な手段を用いてようやく一揆を鎮圧することに成功した 21 。この一連の動乱は、庄内地方における豊臣政権の支配が、地域の激しい抵抗を乗り越えて、ようやく確立されたことを示している。

第六章:勝者たちのその後

庄内一揆が鎮圧された後、事態は予期せぬ方向へと展開する。十五里ヶ原の戦いで庄内平定の最大の功労者であったはずの本庄繁長・大宝寺義勝父子に対し、この一揆を裏で扇動したという嫌疑がかけられたのである 3

繁長が謀反を企てたという確たる証拠は存在しなかった 27 。しかし、この嫌疑の裏には、複雑な政治的力学が働いていた。十五里ヶ原での圧倒的な勝利により、繁長は庄内地方において絶対的な影響力と武名を手にした。その存在は、中央集権化を推し進める豊臣政権や、上杉家中の権力を一手に掌握しようとしていた直江兼続にとって、統制の難しい潜在的な脅威と映った可能性は否定できない。特に、新たに獲得した庄内を直接統治したい上杉家執行部にとって、在地で絶大な人気を誇る繁長の存在は、むしろ障害となり得た。英雄の武功が、皮肉にも彼自身を危険視させる要因となったのである。一揆扇動の嫌疑は、この危険因子を排除するための格好の口実であった。

結果として、繁長・義勝父子は秀吉の命により改易処分となり、所領を没収された上で大和国へと配流された。これにより、名門・大宝寺氏は名実ともに歴史の舞台から姿を消すこととなる 3 。しかし、繁長の武名は天下に轟いていた。文禄元年(1592年)、秀吉が朝鮮出兵(文禄の役)を開始するにあたり、父子は肥前名護屋に参陣したことで赦免され、上杉家の家臣として復帰を許された 3

終章:歴史的意義と後世への影響

天正16年(1588年)の十五里ヶ原の戦いから、天正19年(1591年)の庄内一揆鎮圧に至る一連の動乱は、出羽国庄内地方における戦国時代の事実上の終焉を告げるものであった。在地国人衆が割拠し、私的な武力闘争が繰り返された中世的な支配体制は完全に崩壊し、上杉氏、そして後には最上氏、酒井氏といった近世大名による一元的な領国支配へと移行していくのである。

この激動の時代は、後世に数々の伝説を残した。寡兵をもって大軍を打ち破った本庄繁長は、この戦いによって「鬼神」の武名を不動のものとし 8 、その後も上杉家随一の猛将として、関ヶ原の戦いでは伊達政宗と死闘を繰り広げるなど、生涯を戦場で駆け抜けた 8 。また、東禅寺勝正の壮絶な最期と共に繁長の手に渡った名刀「本庄正宗」は、やがて徳川家康の所有となり、徳川将軍家第一の家宝として代々受け継がれた 6 。しかし、この天下の名刀もまた数奇な運命を辿り、第二次世界大戦後、進駐軍に接収された後、現在に至るまで行方不明となっている 6

一方で、敗者たちの記憶もまた、この地に深く刻まれている。激戦の舞台となった十五里ヶ原の古戦場跡(現在の山形県鶴岡市)には、本庄繁長に一太刀を浴びせた東禅寺勝正の墓と、名もなき戦死者たちを弔う4基の首塚が今も静かに佇んでいる 5 。それらは、庄内地方が戦国乱世の混沌から近世の秩序へと移行する、その産みの苦しみを現代に伝える、貴重な歴史の証人である。


【表2】庄内攻防史 年表(1583年~1592年)

年月

出来事

関連人物

典拠

天正11年 (1583)

東禅寺義長の謀反、大宝寺義氏が自害。

大宝寺義氏, 東禅寺義長, 最上義光

1

天正15年10月 (1587)

最上・東禅寺軍が尾浦城を攻略。大宝寺義興が自害。

大宝寺義興, 最上義光, 本庄繁長

5

天正16年1月 (1588)

大崎合戦勃発。最上義光、伊達政宗と対立。

最上義光, 伊達政宗

1

天正16年8月 (1588)

本庄繁長・義勝父子、庄内へ侵攻。十五里ヶ原の戦い勃発。

本庄繁長, 大宝寺義勝, 東禅寺兄弟

6

天正16年9月 (1588)

伊達政宗、上杉方の勝利を祝す書状を送る。

伊達政宗

16

天正17年7月 (1589)

大宝寺義勝、上洛し秀吉に謁見。庄内領有を公認される。

大宝寺義勝, 豊臣秀吉

3

天正18年 (1590)

奥州仕置。庄内で太閤検地が開始され、庄内一揆が蜂起。

豊臣秀吉, 上杉景勝

21

天正18年~19年 (1590-91)

一揆勢が藤島城に籠城。直江兼続が出陣し、これを鎮圧。

直江兼続, 一揆勢

21

天正19年 (1591)

本庄繁長・義勝父子、一揆扇動の嫌疑で改易・配流。

本庄繁長, 大宝寺義勝, 豊臣秀吉

3

文禄元年 (1592)

文禄の役。繁長・義勝父子が赦免され、上杉家に家臣として復帰。

本庄繁長, 大宝寺義勝, 豊臣秀吉

3

引用文献

  1. 1588 十五里ヶ原戰役: WTFM 風林火山教科文組織 https://wtfm.exblog.jp/14810385/
  2. 十五里ヶ原合戦 https://joukan.sakura.ne.jp/kosenjo/juugorigahara/juugorigahara.html
  3. 大宝寺義勝 - BIGLOBE http://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/jin/DaihoujiYoshikatsu.html
  4. 武家家伝_大宝寺氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/daiho_k.html
  5. 十五里ヶ原古戦場 (じゅうごりがはらこせんじょう) - 山形県 https://www.pref.yamagata.jp/cgi-bin/yamagata-takara/?m=detail&id=1612
  6. 十五里ヶ原の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%BA%94%E9%87%8C%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  7. 「武士の時代 中世庄内のつわものたち」 - 酒田市 https://www.city.sakata.lg.jp/bunka/bunkazai/bunkazaishisetsu/siryoukan/kikakuten201-.files/0203.pdf
  8. 本庄繁長 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%BA%84%E7%B9%81%E9%95%B7
  9. 砂越城 https://joukan.sakura.ne.jp/joukan/yamagata/sagoshi/sagoshi.html
  10. 県指定史跡 十五里ヶ原古戦場/東禅寺右馬頭の墓 - 南奥羽歴史散歩 https://mou-rekisan.com/archives/20698/
  11. 私説・藤沢周平 /「『残照十五里ケ原』ゆかりの地案内板」藤島城跡に建つ② 青山 崇 http://koichikato.world.coocan.jp/minpou/minpou2010/minpou2010.10.24/newpage5.html
  12. 本庄正宗 - 名刀幻想辞典 https://meitou.info/index.php/%E6%9C%AC%E5%BA%84%E6%AD%A3%E5%AE%97
  13. 十五里ヶ原古戦場 http://www3.omn.ne.jp/~nishiki/jugorigahara.htm
  14. 諸家の武将 http://www3.omn.ne.jp/~nishiki/history/sonota.html
  15. 六十里越街道の歴史~歴史変遷・戦国時代の六十里越街道 [ 酒田河川国道事務所 ] https://www.thr.mlit.go.jp/sakata/road/60history/004.html
  16. 【美術展覧会場】本間家伝来の宝もの 第一部 絵画と歴史資料 - 本間美術館 https://www.homma-museum.or.jp/%E3%82%A4%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%88/ai1ec_event-2173/
  17. 惣無事令 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%A3%E7%84%A1%E4%BA%8B%E4%BB%A4
  18. 【開催】奥羽再仕置430年記念プロジェクト「奥羽再仕置と南部領」 - もりおか歴史文化館 https://www.morireki.jp/info/3882/
  19. 上杉家の武将 http://www3.omn.ne.jp/~nishiki/history/uesugi.html
  20. 上杉景勝は何をした人?「家康を倒す絶好の機会だったのに痛恨の判断ミスをした」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/kagekatsu-uesugi
  21. 奥羽再仕置 年 - 新潟県立歴史博物館 https://nbz.or.jp/uploads/2021/11/d02ab3177c0bcd18d7d49d1b55a3e3a3.pdf
  22. 奥州仕置 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E5%B7%9E%E4%BB%95%E7%BD%AE
  23. 日本史/安土桃山時代 - ホームメイト https://www.meihaku.jp/japanese-history-category/period-azuchimomoyama/
  24. 奥州仕置とは 葛西・大崎一揆VS豊臣with政宗? - 戦国未満 https://sengokumiman.com/japan/osyushioki.html
  25. 藤島城の見所と写真・100人城主の評価(山形県鶴岡市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/1705/
  26. 2020年10月号「トランヴェール」戦国の雄 上杉謙信・景勝を支えた揚北衆 - JR東日本 https://www.jreast.co.jp/railway/trainvert/archive/2020_trainvert/2010_03_part.html
  27. 本庄繁長とは? わかりやすく解説 - Weblio国語辞典 https://www.weblio.jp/content/%E6%9C%AC%E5%BA%84%E7%B9%81%E9%95%B7
  28. 本庄繁長(ほんじょうしげなが)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%9C%AC%E5%BA%84%E7%B9%81%E9%95%B7-1108654
  29. 【刀剣紹介】本庄正宗 - 日本刀の世界 ~日本の様式美~ https://nihontoblog.hatenadiary.jp/entry/2017/11/04/170157