最終更新日 2025-09-07

府内湾口の戦い(1586)

天正十四年、豊薩合戦で島津家久は府内湾を制圧。戸次川で豊臣先遣隊を壊滅させたが、大友宗麟は臼杵城で「国崩し」を使い抗戦。豊臣本隊の到来で島津は撤退し、戦国の論理が天下に屈した転換点となった。

天正十四年 豊薩合戦における府内湾岸の戦略的攻防 ―戸次川の敗戦から臼杵城の防衛まで―

序章:落日の大友、昇竜の島津 ―九州の覇権、最後の激突へ―

天正14年(1586年)、九州の地は、まさに乾坤一擲の転換点を迎えようとしていた。かつて北九州六ヶ国を支配下に置き、キリシタン文化を積極的に受容して国際都市・府内(現在の大分市)の繁栄を築き上げた豊後の大友氏は、その栄光の影を急速に失いつつあった 1 。その決定的な契機となったのが、天正6年(1578年)の日向国における耳川の戦いである 3 。この一戦で、大友宗麟率いる大軍は島津義久の軍勢に歴史的な大敗を喫し、田北鎮周、佐伯惟教、角隈石宗といった数多の宿老・猛将を失った 4 。この敗北は単なる一合戦の勝敗に留まらず、大友氏の軍事的中核を崩壊させ、領国経営の根幹を揺るがす事態へと発展した。家中の統制は乱れ、当主・大友義統の求心力は著しく低下し、国人衆の離反が相次いだのである 3

対照的に、薩摩の島津氏は、義久、義弘、歳久、家久の四兄弟が結束し、破竹の勢いでその版図を拡大していた 3 。耳川の勝利で九州南部の覇権を確立すると、肥前の龍造寺氏を沖田畷の戦いで破り、さらに肥後国を平定 3 。これにより、島津氏は大友氏の本拠地・豊後への侵攻路を完全に確保し、九州統一に王手をかけるに至った 3

この九州における勢力図の激変を、畿内から注視していたのが、天下統一事業を推し進める豊臣秀吉であった。天正13年(1585年)に関白に就任した秀吉は、全国の大名に私闘を禁じる「惣無事令」を発令し、九州の情勢に本格的に介入を開始する 6 。これは、島津氏の際限なき膨張を抑止し、豊臣政権の権威の下に九州を再編成しようとする明確な意図の表れであった。

存亡の危機に瀕した大友宗麟は、この千載一遇の好機を逃さなかった。天正14年4月、宗麟は自ら大坂城に赴き、秀吉に謁見。島津氏の侵略を訴え、豊臣家の救援を直訴したのである 8 。この宗麟の外交行動は、単に弱者が強者に助けを求めるという単純な構図に留まらない。彼は、九州の一地方大名間の紛争を、秀吉の進める「天下統一」という壮大な事業の文脈の中に巧みに位置づけた。これにより、島津氏の豊後侵攻は、豊臣政権の権威に対する「反逆」という大義名分を付与され、九州の戦いは中央政権の代理戦争としての性格を帯びることとなったのである。

一方、島津義久は、秀吉の停戦命令や九州国分案を、頼朝以来の名門たる島津家が「成り上がり者」の命令に服するものではないとして、これを公然と拒絶 6 。秀吉の介入を意に介さず、九州統一の総仕上げとして、豊後への全面侵攻を断行する。

本報告書で詳述する「府内湾口の戦い」とは、この豊薩合戦の過程で発生した、特定の海戦を指す名称ではない。むしろ、大友氏の首都・府内が面する府内湾の制海権と、そこに至る補給路の支配を巡る一連の軍事行動の総体を指す、戦略的な局面と捉えるのが最も実態に即している。その帰趨は、海戦ではなく、戸次川における陸戦の決定的敗北によって定められた。本報告書は、島津軍の豊後侵攻から、戸次川での激闘、府内城の陥落、そして大友宗麟最後の抵抗となった臼杵城での沿岸防衛戦までを時系列で再構築し、府内湾岸の支配権を巡る攻防の全貌を明らかにすることを目的とする。

第一部:島津、豊後に侵攻す ―二方面からの進撃と鶴賀城の攻防―

第一章:進軍

天正14年(1586年)10月中旬、九州統一の最後の障壁である大友氏を打倒すべく、島津軍は満を持して豊後への侵攻を開始した 10 。その作戦は、大友方の防衛戦力を分散させ、内部からの崩壊を誘う、周到に計画された二方面からの同時進撃であった。

一方の主攻は、島津義弘率いる約3万の主力軍団である 10 。彼らは肥後口から豊後国へ侵入。この進軍を容易にしたのが、大友氏の重臣であった入田義実と志賀親度の寝返りであった 10 。彼らは島津軍の先導役を務め、豊後の地理に不案内な侵攻軍を効率的に導いた。10月22日、義弘軍はまず高城を陥落させると、鳥岳城、津賀牟礼城など大野郡の諸城を次々と攻略していった 10 。しかし、島津方に寝返った志賀親度の嫡男である志賀親次(洗礼名ドン・パウロ)は、父の裏切りに与せず、居城である岡城に立てこもり徹底抗戦の構えを見せた 3 。岡城は天然の要害に守られた堅城であり、親次の奮戦もあって、島津義弘の主力をもってしても容易には陥落させられなかった 10

もう一方の別動隊を率いるのは、島津四兄弟の末弟にして、沖田畷で龍造寺隆信を討ち取った猛将・島津家久であった 3 。彼が率いる約1万の軍勢は、日向口から豊後南部の海岸線に沿って北上を開始した 10 。この家久軍の進撃は、大友方の防衛網に深刻な動揺を与えた。

島津軍の二方面侵攻は、単なる兵力の分割ではなかった。義弘率いる主力が内陸部の岡城など重要拠点を攻撃することで、大友軍主力の注意を内陸部に釘付けにする。その間に、より兵力の少ない家久の別動隊が、府内への最短経路である沿岸部を迅速に進撃する。この陽動と本攻の組み合わせにより、大友方は防衛戦力を集中させることができず、各個撃破されていく。そして、豊臣からの先遣隊が到着した頃には、彼らは府内南方の要衝・鶴賀城という、目前の危機への対処を迫られる状況に追い込まれていた。これは、決戦の場を自軍に有利な地点(戸次川)に設定するための、島津方の高度な戦略であったと言える。

第二章:鶴賀城攻防戦

島津家久率いる日向方面軍の最終目標は、大友氏の本拠地・府内であった。その府内を防衛する上で、南からの玄関口に位置するのが鶴賀城(大分市上戸次)である 12 。この城を落とさずして、府内への道は開けない。天正14年12月初旬、家久軍は鶴賀城を包囲し、総攻撃を開始した 3

城を守るのは、大友氏の忠臣・利光宗魚であった 3 。宗魚は寡兵ながらも地の利を活かして頑強に抵抗し、島津軍の猛攻を幾度となく跳ね返した 13 。しかし、兵力で圧倒的に優る島津軍の波状攻撃の前に、城の陥落は時間の問題と見られていた。

まさにその時、大友氏にとって待望の援軍が豊後の地に到着する。秀吉の命令を受け、軍監・仙石秀久に率いられた、長宗我部元親・信親親子、そして十河存保ら四国の諸将からなる豊臣先遣隊約6,000である 9 。大友義統は府内で彼らを盛大に迎え入れ、府内の川には仙石秀久を迎えるための「仙石橋」が架けられたと伝わる 12 。そして、この連合軍の最初の目標として、風前の灯であった鶴賀城の救援が決定された。連合軍は鶴賀城の対岸、大野川を挟んだ竹中(大分市竹中)に着陣し、決戦の機を窺うこととなる 12 。鶴賀城を巡る攻防は、九州の覇権を左右する、戸次川での大規模な衝突へと発展する直接的な引き金となったのである。

【表1:豊薩合戦(府内湾岸攻防)における両軍の編成比較】

勢力

軍団

総大将/指揮官

主要武将

推定兵力

水軍

島津軍

肥後口軍

島津義弘

新納忠元

約30,000

限定的

日向口軍

島津家久

伊集院久宣、新納大膳亮

10,000~18,000

散発的活動(佐伯湾など)

大友・豊臣連合軍

豊後勢

大友義統

-

不明(劣勢)

若林鎮興率いる大友水軍

豊臣先遣隊

仙石秀久(軍監)

長宗我部元親、長宗我部信親、十河存保

約6,000

輸送船団のみ

この両軍の編成は、来るべき決戦の様相を如実に物語っている。特に、戸次川で直接対峙することになる島津家久軍が1万を超える兵力を有していたのに対し、豊臣先遣隊はその約半分の6,000に過ぎなかった 9 。この圧倒的な兵力差を無視した仙石秀久の拙速な作戦指導が、悲劇的な結末を招くことになる。

第二部:戸次川の激闘 ―天正十四年十二月十二日、その一日―

天正14年12月12日(西暦1587年1月20日)、戸次川(大野川)の河原は、豊臣政権の威信と島津の九州統一の夢が激突する舞台となった 9 。この日の出来事は、九州の戦国史における最も劇的な一日として記憶されることになる。

第一章:軍議 ―渡河を巡る対立―

決戦前夜の12月11日、鶴賀城の対岸に位置する鏡城(大分市竹中)に布陣した大友・豊臣連合軍の陣中では、作戦を巡って激しい議論が交わされていた 12 。鶴賀城を包囲していた島津家久軍が、連合軍の出現を見て包囲を解き、後退する動きを見せた。これを見て、軍監の仙石秀久は千載一遇の好機と判断した。彼は、秀吉から「本隊の到着を待て」と厳命されていたにもかかわらず、手柄を焦るあまり、即時渡河して追撃すべしと強硬に主張したのである 6

この無謀な提案に対し、四国で数多の修羅場をくぐり抜けてきた長宗我部元親と十河存保は猛然と反対した 9 。彼らは、島津軍の撤退が偽装であり、連合軍を川に誘い込むための罠である可能性を鋭く指摘し、慎重な行動を求めた 12 。しかし、仙石は秀吉が任命した「軍監」であり、その権威は絶対であった。彼は元親らを「臆病者」と罵り、聞く耳を持たなかったという。結局、現場の状況判断よりも中央政権の権威が優先され、連合軍は仙石の独断により、無謀な渡河作戦を決行することとなった。

この軍議での対立は、単なる作戦上の意見の相違に留まらない。寄せ集め軍の構造的欠陥を露呈するものであった。仙石は豊臣政権の代理人として「手柄」を立てること、元親らは「大友救援と自軍の保全」という、それぞれが異なる目的意識を持っていた。この指揮系統の不統一と目的意識の乖離という内部の不協和音こそが、島津家久が付け入る最大の隙となったのである。

第二章:戦闘経過(時系列)

【表2:戸次川の戦い タイムライン(天正14年12月12日)】

時刻(推定)

大友・豊臣連合軍の動き

島津軍の動き

備考

昼過ぎ

鏡城にて軍議。仙石秀久が渡河を決定。

鶴賀城の包囲を解き、戸次川対岸に伏兵を配置。

仙石と元親の対立。

夕刻

仙石秀久隊を先陣に渡河を開始。

伏兵部隊が林や川岸に潜み、敵の渡河を待つ。

島津得意の「釣り野伏せ」の準備完了。

渡河完了直後

先陣の仙石隊が島津軍の偽の少数部隊を追撃。

偽の部隊が後退し、連合軍を深くに誘い込む。

日没前後

追撃で陣形が伸びきったところを、伏兵に三方から包囲・攻撃される。仙石隊は真っ先に敗走。

潜んでいた全軍で一斉に総攻撃を開始。

戦闘開始。連合軍は大混乱に陥る。

仙石隊の崩壊により、後続の長宗我部隊、十河隊が孤立。

孤立した部隊を包囲殲滅。

長宗我部信親、十河存保らが討死。

深夜

長宗我部元親、仙石秀久らが辛うじて戦場を離脱。

追撃は行わず、戦場の確保と首実検。

連合軍の死者1,000人以上。島津軍の大勝利。

12月12日の夕刻、仙石秀久の部隊を先頭に、連合軍は戸次川の冷たい流れに足を踏み入れた 9 。対岸では、島津軍の少数の部隊が挑発的な攻撃を仕掛けては後退を繰り返していた 19 。これを追撃すべく、仙石隊はさらに前進する。しかし、それは島津家久が巧妙に仕掛けた罠であった。

連合軍の主力が渡河を終え、陣形が伸びきった瞬間、川の両岸の林や物陰に潜んでいた島津軍の伏兵が一斉に鬨の声を上げた 18 。島津家伝統の必殺戦術、「釣り野伏せ」が発動したのである。左右と正面の三方向から挟撃され、連合軍は一瞬にして大混乱に陥った 18

先陣の仙石隊は、真っ先に戦線を放棄して敗走 9 。この総大将にあるまじき行動が、連合軍の崩壊を決定づけた。指揮系統を失った後続の長宗我部隊と十河隊は、完全に孤立し、島津軍の猛攻の前に次々と討ち取られていった 18 。長宗我部元親の嫡男・信親は、中津留の河原で奮戦するも、鈴木大膳に討ち取られた。享年22 9 。信親に従っていた700余の兵も主君と運命を共にしたという。十河存保もまた、この乱戦の中で壮絶な最期を遂げた 9

第三章:敗走

わずか4時間余りの激戦で、連合軍は1,000人以上の死者を出し、壊滅した 12 。戦いは島津軍の圧倒的な勝利に終わった。

軍監であった仙石秀久は、多くの家臣を見捨て、僅かな供回りとともに戦場を離脱し、海を渡って自身の領国である讃岐まで逃げ帰った 9 。一方、長宗我部元親は、最愛の嫡子・信親を失うという筆舌に尽くしがたい悲しみを背負いながらも、辛うじて戦場を脱出。九州を離れ、伊予の日振島まで落ち延びた 9 。信親の愛馬「白滝」は主人の死を知らず、戸次川のほとりで待ち続けたという哀しい伝説が今もこの地に残されている 12

この戸次川での大勝により、島津軍の前に大友氏の本拠地・府内へと続く道は、完全に開かれた。豊臣政権の先遣隊を撃破したという事実は、島津の武威を九州全土に轟かせると同時に、秀吉の怒りに火を注ぐ結果となるのである 7

第三部:府内湾岸の攻防 ―制海権と最後の抵抗―

戸次川での決定的勝利は、豊後における軍事バランスを完全に覆した。島津軍は府内湾岸地域へと雪崩れ込み、大友氏の支配体制は最終的な崩壊の時を迎える。しかし、その中で老将・大友宗麟は、旧来の戦術とは一線を画す最後の抵抗を見せることになる。

第一章:府内城、陥落

戸次川での先遣隊壊滅という衝撃的な報せは、府内城にいた大友義統を恐怖のどん底に突き落とした。義統は、父・宗麟が築き上げた壮麗な府内館と城下町をほとんど戦うことなく放棄し、北方の龍王城(宇佐市安心院町)へと逃走したのである 3 。指導者の戦意喪失は、組織の崩壊を意味する。

戸次川の戦いの翌日、天正14年12月13日、島津家久の軍勢は抵抗を受けることなく府内に入城した 3 。南蛮貿易で栄華を極めた国際都市は、島津軍によって焼き払われ、焦土と化した 22 。これにより、府内湾に面した港湾機能、そして大友氏の生命線であった海上補給路は、完全に島津軍の掌握するところとなった。ここに、「府内湾口」は事実上、島津の手に落ちたのである。

第二章:海からの抵抗 ―臼杵城籠城戦―

府内を追われた大友氏であったが、その命運が尽きたわけではなかった。府内から南へ下った臼杵の丹生島城では、隠居していた大友宗麟が最後の指揮を執っていた 1 。府内を制圧した島津家久軍は、次なる目標としてこの臼杵城に迫った。

当時の臼杵城は、四方を海に囲まれ、干潮時にのみ陸と繋がる砂州が現れるという、天然の要害であった 10 。陸からの大軍による包囲が困難なこの海城で、宗麟は切り札を用意していた。それは、天正4年(1576年)にポルトガル商人から入手した、最新鋭のフランキ砲であった 24 。宗麟が「国崩し」と名付けたこの大砲は、本来艦砲として用いられるものであり、その射程と威力は当時の日本の兵器とは比較にならなかった 23

宗麟は、この「国崩し」を城の櫓に据え付け、海上から接近しようとする島津軍の兵船や、対岸に築かれた陣地に対して砲撃を加えた 10 。その轟音と破壊力は島津兵の度肝を抜き、大きな心理的打撃を与えた 27 。島津軍は、天険の地に加え、未知の新兵器まで備えた臼杵城を攻めあぐね、ついに攻略を断念して撤退を余儀なくされた 10 。この臼杵城防衛には、若林鎮興が率いる大友水軍も宗麟と共に籠城し、海上からの警戒や兵站維持に重要な役割を果たしたと記録されている 29

この府内城と臼杵城の対照的な結末は、大友氏の衰退が単なる軍事力の問題だけでなく、指導者層の資質の差に起因することを示唆している。当主・義統が伝統的な武士の価値観の中で敗戦から逃走を選んだのに対し、父・宗麟はキリスト教や南蛮貿易を通じて得た新しい技術と知識を駆使し、陸の強者である島津に対し、海の地の利と新兵器という非対称な戦力で対抗するという、柔軟かつ先進的な戦略眼を見せたのである。

第三章:水軍の動向と制海権

豊薩合戦における海上の戦力は、陸戦ほど大規模ではなかったものの、戦局の行方を左右する重要な要素であった。

大友水軍の中核を担っていたのは、佐賀関の一尺屋を本拠とする若林氏であった 30 。彼らは豊後水道の地理を熟知し、毛利水軍との交戦経験も有していたが 29 、その勢力は局地的なものであり、島津の陸からの大軍を単独で阻止する力はなかった。彼らの活動は、臼杵城での籠城戦のように、沿岸防衛や補給路の維持に限定されていた。

一方の島津水軍も、大隅・日向平定の過程で水陸両用作戦の経験を積んではいたが 33 、豊後侵攻における役割は限定的であった。佐伯湾の諸浦を襲撃するなどの散発的な活動は見られたものの 35 、主力はあくまで陸軍であり、豊後水道の制海権を完全に掌握するには至らなかった。

この状況が、島津軍にとっての戦略的限界を意味していた。彼らは陸路で豊後を席巻したが、臼杵城のような海城を完全に包囲・攻略することができなかった。制海権を握れない以上、臼杵城は海からの補給や連絡が可能であり、いずれ来援する豊臣本隊の上陸拠点となりうる。事実、豊臣政権の麾下には、来島通総(元村上水軍)が率いる伊予水軍など、瀬戸内海を支配する強力な水軍が存在した 36 。彼らが秀吉の本隊と共に九州へ渡海することは確実であり、島津軍は陸で勝利を収めながらも、海から来る豊臣の大軍によって戦略的に包囲されるという致命的なリスクを常に抱えていたのである。島津の快進撃は、豊臣政権が掌握する圧倒的な「制海権」という壁の前に、その限界を露呈していたと言えよう。

終章:戦いの帰結と歴史的意義

戸次川での勝利と府内制圧によって、島津氏の豊後平定は目前に迫った。しかし、大友宗麟が臼杵城で時間を稼いでいる間に、戦局は新たな段階へと移行する。天正15年(1587年)、豊臣秀吉の弟・秀長が率いる10万を超える本隊が、瀬戸内海を渡り九州に上陸を開始したのである 3

この圧倒的な物量の前に、島津軍は豊後での足場を維持することが不可能となった。家久らは占領地を放棄して日向へと撤退を開始 7 。その後、豊臣本軍との根白坂の戦いでの敗北を経て、同年4月、島津義久は降伏し、秀吉に臣従した 7

一連の戦いの結果、関係者の運命は大きく分かれた。戸次川での敗戦と命令違反の責を問われた仙石秀久は、秀吉の逆鱗に触れ、領地を没収された上で高野山へ追放された 9 。これは、豊臣政権の厳格な軍規を天下に示す象徴的な処分であった。最愛の嫡子を失った長宗我部元親の悲嘆は深く、その後の彼の人生に暗い影を落とした 20

九州平定後、大友義統は秀吉によって豊後一国の安堵を認められたが 14 、その支配体制はもはや盤石ではなかった。父・宗麟は、島津の降伏を見届けることなく、津久見の地で病没した 14 。そして大友氏は、後の文禄の役における義統の失態を理由に改易され、ここに戦国大名としての歴史に幕を閉じることになる。

「府内湾口の戦い」と総称されるこの一連の攻防は、戦国時代の終焉を象徴する戦いであった。島津氏の行動原理は、あくまで九州という領域内での覇権確立という、旧来の戦国大名の論理に基づいていた。しかし、彼らが最終的に対峙した相手は、もはや大友氏という一地方大名ではなく、豊臣秀吉という「天下人」の権威と、その動員する圧倒的な物量、そして制海権であった。戸次川における島津家の戦術的勝利は、豊臣本隊の上陸という戦略的現実の前には、何の意味もなさなかった。

この戦いは、一個の地方勢力の武力がいかに強大であっても、中央集権政権が動員する国家規模の兵站と制海権の前には屈せざるを得ないという、新しい時代の到来を告げる画期であった。府内湾岸での攻防は、戦国の論理が「天下」の論理に飲み込まれていく、歴史の大きな転換点だったのである。

引用文献

  1. 大友宗麟- 维基百科,自由的百科全书 https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E5%AE%97%E9%BA%9F
  2. 大友宗麟- 維基百科,自由的百科全書 https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E5%AE%97%E9%BA%9F
  3. 島津の猛攻、大友の動揺、豊薩合戦をルイス・フロイス『日本史』より - ムカシノコト https://rekishikomugae.net/entry/2024/01/07/131015
  4. 島津義弘の戦歴(2) 大友・龍造寺と激突、そして天下人と対決 - ムカシノコト https://rekishikomugae.net/entry/2023/01/09/001111
  5. 戦国時代の九州戦線、島津四兄弟の進撃【まとめ】/元亀2年から天正15年まで(1571年~1587年) - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。 https://rekishikomugae.net/entry/2024/02/07/092742
  6. 九州平定 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E5%B9%B3%E5%AE%9A
  7. 戸次川古戦場 - しまづくめ https://sengoku-shimadzu.com/spot/%E6%88%B8%E6%AC%A1%E5%B7%9D%E5%8F%A4%E6%88%A6%E5%A0%B4/
  8. 大海原の王 「大友宗麟」 - 大分市 https://www.city.oita.oita.jp/o029/bunkasports/citypromotion/documents/5147ff54002.pdf
  9. 戸次川の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E6%AC%A1%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  10. 豊薩合戦 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%96%A9%E5%90%88%E6%88%A6
  11. 「九州征伐(1586~87年)」豊臣vs島津!九州島大規模南進作戦の顛末 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/713
  12. 戸次川の合戦 - 大分市 http://www.oct-net.ne.jp/moriichi/battle11.html
  13. 仁木英之『大坂将星伝』第四章 戸次川 Illustration/山田章博 | 最前線 https://sai-zen-sen.jp/works/fictions/osakashousei-den/04/01.html
  14. 大友氏のその後 https://www.city.oita.oita.jp/o205/documents/ootomosinosonogo.pdf
  15. 仙石秀久(仙石秀久と城一覧)/ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/10495_castle/busyo/45/
  16. 島津、豊後蹂躙図とリーダーシップ 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(18) https://bungologist.hatenablog.com/entry/2021/06/16/182908
  17. 戸次川の合戦と鶴賀城 | 大分市デジタルアーカイブ 〜おおいたの記憶〜 https://oitacity-archive.jp/tsurugajou/
  18. 戸次川の戦い(九州征伐)古戦場:大分県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/hetsugigawa/
  19. 島津の九州制圧戦 /戸次川の戦い/岩屋城の戦い/堅田合戦/豊薩合戦/ - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=kQMvTSXgexo
  20. 戸次川の戦い~長宗我部元親・信親の無念 | WEB歴史街道 - PHP研究所 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4552
  21. 豊薩合戦、そして豊臣軍襲来/戦国時代の九州戦線、島津四兄弟の進撃(7) https://rekishikomugae.net/entry/2024/01/23/203258
  22. 連載 「大友時代を生きた人々」 - 国際文化学部鹿毛敏夫教授の - 「島津勝久~府内沖浜で没した当主~」 - 名古屋学院大学 https://www.ngu.jp/media/ooitagoudoushinbun001.pdf
  23. 【理文先生のお城がっこう】歴史編 第35回 九州の城1(大友氏と臼杵(うすき)城) - 城びと https://shirobito.jp/article/1290
  24. 臼杵城・大友砲(国崩し) - ニッポン旅マガジン https://tabi-mag.jp/ot0792/
  25. 関連略年表 - 九州の動き https://www.kyuhaku.jp/exhibition/img/s_39/zu01.pdf
  26. 幕末に使われた大砲の種類/ホームメイト - 名古屋刀剣博物館 https://www.meihaku.jp/arquebus-basic/cannon-type/
  27. 【大分県】臼杵城の歴史 大友宗麟が築いた軍艦島 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/2278
  28. 臼杵城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%BC%E6%9D%B5%E5%9F%8E
  29. 若林鎮興 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A5%E6%9E%97%E9%8E%AE%E8%88%88
  30. 【エピソード22】若林鎮興―大友水軍の大将― | 国際文化学部 | 名古屋学院大学 https://www.ngu.jp/intercultural/column/episode22/
  31. 大友氏を支えた佐賀関の港 - 大分市 https://www.city.oita.oita.jp/o205/documents/saganoseki.pdf
  32. 佐賀関港の「みなと文化」 https://www.wave.or.jp/minatobunka/archives/report/112.pdf
  33. 大隅平定、肝付兼亮が降る/戦国時代の九州戦線、島津四兄弟の進撃(2) - ムカシノコト https://rekishikomugae.net/entry/2022/05/28/231620
  34. 島津家久のすごい戦績、戦国時代の九州の勢力図をぶっ壊す! - ムカシノコト https://rekishikomugae.net/entry/2024/03/07/155220
  35. 渡 辺 克 己 - 「NAN-NAN」なんなん~大分合同新聞社×別府大学 http://www.nan-nan.jp/lib/bungo014a1.pdf
  36. 来島氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%A5%E5%B3%B6%E6%B0%8F
  37. 来島通総とは 李舜臣に挑んだ村上水軍の雄 - 戦国未満 https://sengokumiman.com/kurushimamitifusa.html
  38. 大友宗麟| 歡迎來到津久見市觀光協會主頁!! https://tsukumiryoku.com/zh-TW/pages/54/
  39. 九州に覇を唱えたキリシタン大名・大友宗麟の真実 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/6766?p=1