最終更新日 2025-09-08

忍城の戦い(1590)

忍城の戦いは、1590年の小田原征伐における豊臣秀吉軍と北条氏の支城・忍城の攻防。石田三成の水攻めにも屈せず、成田長親や甲斐姫らの活躍で城は落城せず開城。三成の評価に影響を与え、戦国終焉を象徴する戦いとなった。

【専門家報告書】天正十八年 忍城の戦い ―「不落の城」の真実と、戦国終焉の政治劇―

序章:天下、関東へ

天正18年(1590年)、日本列島は統一への最終段階にあった。関白・豊臣秀吉は、四国、九州を平定し、その権威は西日本一帯に及んでいた 1 。残すは関東の北条氏と奥州の諸大名のみであり、天下統一は目前に迫っていた。この壮大な事業の総仕上げとして発動されたのが「小田原征伐」である。

小田原征伐の勃発:秀吉の野望と北条氏の誤算

豊臣政権は、天下統一の法的根拠として「惣無事令」を発布していた。これは、大名間の私的な領土紛争を禁じ、すべての裁定を豊臣政権に委ねさせるという画期的な法令であった 2 。当初は九州を対象としていたが、天正15年(1587年)には関東・東北にも適用範囲が拡大された。しかし、関東に一大勢力を築き上げていた北条氏政・氏直親子は、秀吉への上洛要求を先延ばしにし、従属の意思を明確にしなかった 1

決定的な亀裂を生んだのが、天正17年(1589年)10月の「名胡桃城事件」である。秀吉の裁定により真田氏の所領と定められていた上野国の名胡桃城を、北条方の将・猪俣邦憲が奪取した 2 。これは惣無事令への明白な違反行為であり、秀吉に北条討伐の絶好の口実を与えた。秀吉はこれを機に全国の諸大名へ動員を命じ、総勢21万とも22万ともいわれる、日本史上類を見ない大軍を編成した 1

これに対し、北条軍の兵力は約5万から8万程度とされ、兵力差は圧倒的であった 2 。北条氏は、かつて上杉謙信や武田信玄の猛攻を凌いだ小田原城の堅固さを頼み、主力を小田原城に集結させて籠城するという戦略を選択した。しかしこれは、秀吉の圧倒的な兵站能力と、関東一円に広がる支城網を各個撃破するという豊臣方の戦略を見誤った判断であったと言える 1

武蔵国の要衝・忍城:沼沢に浮かぶ「浮き城」の地政学的価値

小田原征伐において、豊臣軍の標的の一つとなったのが、武蔵国北部に位置する忍城(おしじょう)である 1 。この城は、利根川と荒川という二大河川に挟まれた広大な低湿地帯に築かれていた 4 。城の周囲は沼や深田が天然の堀を形成し、城へ続く道は細く限定されていた 2 。この特異な地形から、忍城は「浮き城」あるいは「水の城」と称され、守りやすく攻めにくい難攻不落の名城として知られていた 7

その堅固さは歴史が証明しており、かつて上杉謙信や北条氏康といった名将の攻撃にも耐え抜いたと伝えられ、「関東七名城」の一つに数えられている 4 。忍城は15世紀後半、在地豪族の成田氏によって築かれ、以来、北武蔵における政治・軍事の中心地として機能してきた 4

当時の縄張りは、「忍城古城図」などの後世の資料から推定することができる 11 。沼沢地の中の微高地に本丸、二の丸、三の丸といった主要な曲輪が独立して配置され、それらが橋で結ばれるという、水の利を最大限に活かした防御構造であった 6 。大手門や、後に激戦地となる南方の佐間口など、各所に設けられた虎口(出入り口)は、湿地帯によって狭められた攻撃路を効果的に迎撃できるよう設計されていたと考えられる。

開戦前夜の両陣営:小田原へ向かう城主と、留守を預かる者たち

小田原征伐が始まると、忍城主・成田氏長は北条氏の動員令に応じ、兵約500を率いて小田原城での籠城に加わった 1 。これにより、忍城の正規兵力は著しく手薄となり、防衛体制に大きな不安を抱えることとなった 12

主不在の城の留守を預かる城代には、氏長の叔父にあたる成田泰季が任命された 2 。そして、その嫡男である成田長親もまた、父と共に城に残ることになった。この時点では、誰もがこの長親という人物が、この未曾有の国難において中心的な役割を担うことになるとは予想していなかった 6 。豊臣の大軍が刻一刻と迫る中、忍城は限られた戦力で、その運命の時を迎えようとしていた。


【表1】忍城の戦い 詳細年表

年月日(天正18年)

豊臣軍の動向

忍城・成田軍の動向

関連事項

3月29日

山中城を半日で攻略、小田原へ進軍

-

-

4月3日

小田原城の包囲を開始

-

北条氏の籠城策が本格化

5月下旬

石田三成、館林城を開城させる

-

忍城への圧力が強まる

6月4日

三成軍、忍城の包囲を完了し、攻撃を開始

籠城軍、地の利を活かし豊臣軍を撃退

-

6月5日

力攻めを継続するも、多大な損害を被る

奮戦を続ける

小田原の成田氏長、徳川家康を通じ降伏の意向を内々に打診 16

6月6日

三成、忍城包囲を完了

-

-

6月7日

三成、丸墓山古墳に本陣を移し、水攻めの準備を検討

城代・成田泰季が急逝。嫡男・成田長親が総大将に就任

籠城軍の指揮系統に激震

6月8日

前田利家、上杉景勝らが一時的に合流し攻撃

甲斐姫の活躍伝承など、激しい抵抗を続ける

-

6月9日~14日

石田堤の築堤工事を昼夜兼行で実施

籠城を継続

豊臣政権の圧倒的な動員力を見せつける

6月12日

秀吉、氏長の命乞いを理由に、三成に水攻めの実行を正式に命じる 16

-

氏長の降伏意思が事実上黙殺される

6月16日

利根川・荒川から堤内への注水を開始

城は浮き城状態となるも、完全には水没せず

-

6月18日

豪雨により石田堤が決壊。 豊臣軍に多数の溺死者発生

籠城を継続。一説には城兵が堤を破壊

忍城はさらに攻めにくい泥沼の要塞と化す

6月下旬~7月上旬

堤の修復と並行し、散発的な攻撃を継続。浅野長政らが援軍に加わる

正木丹波守、甲斐姫らが各所で奮戦

泥沼の中での死闘が続く

7月5日

-

-

北条氏政・氏直が降伏し、小田原城が開城

7月上旬

小田原城開城の報を受け、開城交渉を開始

城主・氏長からの使者を迎える

-

7月16日

-

忍城、開城。 籠城軍は堂々と退去

約1ヶ月半にわたる攻防戦が終結


第一章:攻防の幕開け(天正18年6月4日~8日)

豊臣軍、忍城へ着陣:石田三成、初陣の重圧

天正18年(1590年)6月初旬、豊臣秀吉の命を受けた石田三成率いる部隊が、武蔵国忍城に迫った 12 。その数、およそ2万3000 1 。総大将に抜擢された三成は、当時31歳。これまで検地や兵站管理といった後方支援、すなわち「吏僚」としての卓越した手腕で秀吉の信頼を勝ち得てきたが、大軍を率いる実戦指揮官としての経験は皆無に等しかった 2 。この抜擢の背景には、秀吉が子飼いの腹心である三成に武功を立てさせ、その経歴に箔をつけさせようという、一種の親心があったと見られている 2

三成の軍には、大谷吉継や長束正家といった、同じく豊臣政権の中枢を担う奉行衆が名を連ねていた 2 。彼らは後に、関ヶ原の戦いにおいて三成と共に西軍の中核を成すことになる。この忍城攻めは、彼らにとって共に戦場に立つ初めての経験であり、その後の彼らの関係性を形成する上での重要な原体験となった可能性が指摘される。

最初の猛攻と挫折:地の利に阻まれる大軍

6月4日、三成は忍城の大宮口に本営を設け、城の包囲を完了させると、間髪入れずに総攻撃を開始した 2 。城攻めには籠城側の10倍の兵力が必要という当時の定説に鑑みれば、豊臣軍の兵力は十分すぎるほどであった 1 。しかし、彼らの前には忍城特有の地形が立ちはだかった。

城の周囲に広がる沼や深田は、大軍の展開を著しく困難にした 6 。兵馬はぬかるみに足を取られ、ようやく城壁に近づいても、城内からの鉄砲や弓矢による正確な迎撃に晒された。豊臣軍は多大な死傷者を出し、初日の攻撃は完全に頓挫した 18 。6月8日には、北陸方面から転戦してきた前田利家や上杉景勝、さらには真田昌幸といった歴戦の猛者たちが一時的に攻撃に加わったが、それでも城の堅い守りを打ち破ることはできなかった 2 。忍城は、その「浮き城」の名に恥じない鉄壁の防御力を見せつけたのである。

城内の激震:城代・成田泰季の急逝と「のぼう様」長親の登場

豊臣軍が力攻めに苦慮していた頃、忍城の内部ではそれを上回る激震が走っていた。籠城戦の開始からわずか3日後の6月7日、指揮官である城代・成田泰季が病により急逝したのである(一説には戦死とも) 2 。指導者を失った籠城軍は、絶望的な状況に追い込まれた。

泰季は死の床で、「万が一の時には、我が嫡男・長親を代わりに総大将とせよ」との遺言を残した 19 。これを受け、泰季の妻と城主・氏長の娘である甲斐姫は、一門や家臣を集め、成田長親を新たな総大将とすることを命じた 19 。この成田長親という人物は、際立った武功もなく、家臣や領民からは「でくのぼう」を捩って「のぼう様」と呼ばれ、親しまれつつもどこか侮られている「凡人」であったと伝えられている 2 。この予期せぬリーダーの登場は、籠城軍に混乱よりもむしろ一種の結束をもたらした可能性がある。

正規の兵力はわずか500弱 1 。これに、城下から逃げ込んできた農民、町人、さらには僧侶までが加わり、籠城軍の総勢は約3,000人に膨れ上がった 6 。これは単なる烏合の衆ではなかった。成田氏は代々、用水路の開削や商業政策に力を入れるなど、領民本位の統治を行ってきたとされ、その人望がこの土壇場において、領民たちの自発的な協力を引き出したのである 15 。武勇や知略ではなく、人徳によって人々をまとめ上げた「のぼう様」の存在が、絶望的な状況下で戦い続けるための精神的支柱となったのかもしれない。


【表2】両軍の戦力比較

項目

攻城側(豊臣軍)

籠城側(成田軍)

総兵力

約 23,000人 1

約 3,000人(正規兵 約500人、その他農民・町人ら) 1

総大将

石田三成

成田長親(当初は成田泰季)

主要武将

大谷吉継、長束正家、佐竹義重

正木丹波守、柴崎和泉守、酒巻靱負、甲斐姫

援軍(一時参加)

前田利家、上杉景勝、真田昌幸、浅野長政

なし

戦力比

約 8 : 1

-


第二章:空前の大土木工事(6月9日~16日)

水攻めという選択:秀吉の威信をかけたパフォーマンス

力攻めの失敗により、石田三成は作戦の根本的な転換を迫られた。彼は本陣を、忍城を一望できる丸墓山古墳へと移し、新たな攻略法を模索した 18 。そして、三成が下したとされる決断が、城の周囲に長大な堤防を築き、河川の水を引き込んで城を水没させる「水攻め」であった。

しかし、この作戦選択の背後には、より複雑な政治的力学が存在した。近年の研究では、水攻めは三成自身の発案ではなく、総大将である豊臣秀吉の強い意向、あるいは直接的な命令によって強行されたという見方が有力となっている 8 。事実、三成が6月13日付で上司格の浅野長政に宛てたとされる書状には、「諸将は水攻めの用意ばかりして、城へ攻め寄せる気配すらない」「このようなやり方では時間がかかりすぎる。まずは力攻めをすべきではないか」といった趣旨の不満と焦りが記されている 3

では、なぜ秀吉は水攻めに固執したのか。その理由は、軍事的な合理性を超えた、高度な政治的パフォーマンスにあったと考えられる。秀吉はかつて、天正10年(1582年)の備中高松城攻めで水攻めを成功させ、劇的な勝利を収めた経験があった 3 。小田原征伐の主目的は、北条氏を滅ぼすことだけではない。関東・奥州の未だ服従せぬ諸大名に対し、豊臣政権の圧倒的な国力を見せつけ、戦わずして屈服させるという、壮大な示威行為でもあった 1

水攻めは、堤防建設という大規模な土木工事を伴う。短期間でこれを成し遂げることは、莫大な財力と人々の動員力なくしては不可能である 3 。秀吉は、この忍城攻めを、豊臣政権の力を誇示するための絶好の舞台装置と捉えたのである 22 。三成は、主君の壮大な政治劇の実行者という、極めて困難な役割を担わされたと言える。

石田堤の築堤:昼夜兼行で進められた長大堤防の建設実態

秀吉の命令一下、前代未聞の大土木工事が開始された。丸墓山古墳を起点とし、忍城をコの字型に囲む堤防の建設計画が進められた 23 。その規模については諸説あるが、総延長は実に14kmから28kmにも及んだと記録されている 7 。これは、備中高松城の堤防(約3km)を遥かに凌駕する規模であった 4

三成は、この巨大プロジェクトを驚異的なスピードで遂行した。高額な賃金を提示して近隣の住民を労働力として動員し、昼夜兼行で工事を進めさせた 18 。その結果、わずか1週間足らず、6月9日から14日にかけて、この長大な堤防、後に「石田堤」と呼ばれる巨大建造物が完成したのである 6 。この事実は、戦術の是非はともかく、プロジェクトマネージャーとしての石田三成の卓越した実務能力を物語っている。

注水開始:利根・荒川の水を引き込む

6月16日、堤防は完成し、ついに利根川と荒川の水が堤の内側へと引き込まれた 18 。濁流はたちまち広大な平野を満たし、忍城はあたかも湖に浮かぶ孤島のような様相を呈し始めた。しかし、城が築かれていた場所は周囲の土地よりわずかに地盤が高かったため、城郭の主要部が完全に水没するには至らなかった 6 。それでも、城外との交通は完全に遮断され、籠城軍は物理的にも心理的にも追い詰められていった。


【表3】日本三大水攻めの比較(備中高松城・紀州太田城・忍城)

項目

備中高松城の戦い

紀州征伐(太田城)

忍城の戦い

実行年

天正10年(1582年)

天正13年(1585年)

天正18年(1590年)

指揮官

羽柴秀吉

羽柴秀吉

石田三成(秀吉の命令)

堤防規模(総延長)

約 3 km 4

不明

約 14~28 km 4

建設期間

約 12日間 25

不明

約 5~7日間 6

地形的条件

盆地状の低湿地で、水攻めに適していた

低湿地帯

広大な平野で、堤防が長大化し水攻めには不向きだった 3

結果

成功(城主・清水宗治の自刃により開城)

成功(降伏・開城)

失敗 (堤防決壊、本城陥落後に開城)


第三章:水の攻防と武人たちの意地(6月17日~7月上旬)

堤の決壊:天災か、人災か

注水開始からわずか2日後の6月18日、戦況を大きく揺るがす事件が発生する。折からの梅雨による豪雨で増水した水が、完成したばかりの石田堤の一角を突き破り、決壊したのである 2

この決壊の原因については、単なる自然災害(豪雨)と見る向きが強いが、複数の要因が指摘されている。一つは、籠城側による破壊工作である。『成田記』などの後世の軍記物には、城兵が決死隊を編成し、夜陰に乗じて堤の一部を切り崩したという記述が見られる 26 。また、築堤に動員された地元農民たちが、豊臣軍への反感から意図的に手抜き工事を行った可能性も示唆されている 4 。短期間での長大な堤防建設には、構造的な脆弱性が内在していたことも否定できない。

いずれにせよ、決壊した堤から溢れ出した濁流は、皮肉にも攻め手である豊臣軍の陣営に襲いかかった。この鉄砲水により、数百名(一説には270名)の兵士が溺死するという大惨事となった 6 。さらに、放出された水は城の周囲をより一層深い泥沼に変え、馬はもちろん、徒歩での進軍すら困難な状況を生み出した 18 。水攻めは、忍城に決定的な打撃を与えることなく、むしろその防御力を高めるという皮肉な結果に終わったのである。

泥沼の死闘:各持ち場における攻防の詳細

水攻めが頓挫した後も、豊臣軍は堤の修復を試みつつ、散発的な攻撃を続けた。戦いは泥沼の中での消耗戦の様相を呈していく。この絶望的な状況下で、籠城軍の士気を支えたのは、各持ち場を守る武将たちの獅子奮迅の働きであった。

佐間口の激戦:筆頭家老・正木丹波守の奮戦

城の南方に位置する佐間口は、攻防の最前線となった。この重要拠点を守備していたのが、成田家筆頭家老・正木丹波守利英(まさきたんばのかみとしひで)である 27 。槍の名手として知られた丹波守は、自ら先頭に立って寡兵を率い、豊臣方の浅野長政、大谷吉継、長束正家といった名だたる武将たちの猛攻を幾度となく跳ね返した 28 。その鬼神の如き戦いぶりは、数で劣る籠城軍の兵士たちを大いに鼓舞したと伝えられている。

大手門の攻防と甲斐姫の出陣伝承

水攻めの失敗後、豊臣方は浅野長政や真田昌幸・信繁(幸村)親子らを援軍として投入し、力攻めに転じた 6 。彼らが大手門に迫った際、城主・成田氏長の娘である甲斐姫が、自ら甲冑を身にまとい、200騎余りの兵を率いて城門から討って出たという逸話が残されている 2

『成田記』などによれば、当時19歳であった甲斐姫は、成田家伝来の名刀「波切」を振るい、敵兵を次々となぎ倒したという 13 。その勇猛果敢な姿に兵士たちは奮起し、数の上で圧倒的に優位であったはずの豊臣軍の侵入を阻止することに成功したとされる 6 。この伝承の史実性については慎重な検討が必要であるが、甲斐姫が武勇に優れた女性であったことは広く知られている。彼女の祖母にあたる妙印尼(みょういんに)も、かつて金山城の籠城戦を指揮した女傑であり、その血筋が甲斐姫にも受け継がれていたのであろう 19

籠城下の実態:兵糧、衛生、そして民の士気

約3,000人もの人々が、1ヶ月以上にわたって閉ざされた城の中でどのように生活していたのか。当時の籠城戦の実態から推察すると、その環境は極めて過酷であったはずである。

第一に、兵糧と水の確保が挙げられる。籠城戦は兵糧の備蓄量が勝敗を左右する 30 。忍城は急な籠城であったため、十分な兵糧が準備されていたかは疑問が残る。水攻めによって城の周囲が水で満たされたことは、飲料水となる井戸の汚染を引き起こし、深刻な水不足に繋がった可能性もある 32

第二に、衛生管理の問題である。多数の人間が密集して生活する中で、排泄物や戦死者の処理は死活問題となる 33 。不適切な処理は疫病の蔓延を招き、戦闘能力を著しく低下させるからだ 32 。水に囲まれた状況下では、これらの処理は一層困難を極めたであろう。

このような極限状況下で、なぜ忍城の士気は最後まで衰えなかったのか。その鍵は、総大将・成田長親の特異なリーダーシップにあったと考えられる。彼は武勇や知略で兵を率いるタイプの将ではなかったが、その人柄は領民から深く慕われていた 15 。軍議の場では部下の意見を調整する役割を果たしたとされ、人々が自発的に働きたくなるような雰囲気を作り出す能力に長けていたのかもしれない 34 。圧倒的な武力ではなく、人間的な魅力と結束力が、この奇跡的な籠城戦を支えたのである。

第四章:終焉への道(7月上旬~16日)

小田原城、落つ:本城陥落の報と籠城軍の動揺

忍城が泥沼の攻防を繰り広げている最中、関東の戦局全体を決定づける出来事が起こった。天正18年(1590年)7月5日、3ヶ月にわたる包囲の末、北条氏の本拠地・小田原城がついに開城したのである 3 。当主の北条氏直は降伏し、父の氏政は自刃を命じられた。これにより、北条氏による関東支配は事実上終焉を迎え、各地で抵抗を続けていた支城は、戦い続ける大義名分を失った。

開城交渉:城主からの使者と城兵たちの葛藤

小田原城の陥落は、忍城の運命にも直結した。しかし、ここでも戦いの帰趨は単純な軍事行動だけでは決まらなかった。実は、忍城主・成田氏長は、籠城戦が本格化する前の6月5日の時点で、徳川家康を介して豊臣方へ内々に降伏の意向を伝えていた 16 。にもかかわらず、秀吉は6月12日付の書状で、その情報を知りながらも石田三成に水攻めの実行を命じている 16 。これは、秀吉が忍城の降伏を受け入れず、意図的に戦闘を継続させたことを強く示唆する。前述の通り、関東の諸大名に対する「見せるための戦い」を完遂するため、秀吉は忍城という抵抗の舞台が必要だったのである。

小田原城開城後、秀吉の命を受けた城主・氏長は、忍城に開城を促すための使者を派遣した 6 。使者には、氏長の家臣である松岡石見守と、秀吉の家臣・神谷備後守が立ったとされる 34 。しかし、城兵たちの抵抗の意思は固かった。攻城側から提示された「退城の際に運び出せる荷物は、一人につき馬一頭分のみ」という条件に対し、籠城側は「我々の誇りを侮るものだ」と激しく反発し、交渉は一時難航したという 34 。この逸話は、最後まで武士としての名誉を重んじた籠城軍の気概を物語っている。

「不落の城」の明け渡し:堂々たる退去

最終的に、双方の条件は秀吉自身の仲裁によって整えられ、7月16日、忍城はついに開城した 34 。約1ヶ月半にわたる攻防戦の末、忍城は一度も力によって陥落することはなかった。

開城の日、成田長親や甲斐姫をはじめとする籠城軍の一行が城を後にする際、城下の民衆は道端に集まり、彼らに惜しみない拍手と喝采を送ったと伝えられている 13 。軍事的には敗北であったかもしれないが、彼らは郷土と誇りを守り抜いた英雄として、人々の心に深く刻まれたのである。

終章:戦いの遺したもの

忍城の戦いは、戦国時代の終焉を象徴する数多くのドラマと教訓を残した。それは単なる一地方の攻防戦に留まらず、関わった人々のその後の運命を大きく左右し、歴史の転換点を鮮やかに映し出している。

武将たちのその後:それぞれの運命

  • 石田三成: この戦いは、三成の経歴に深い影を落とした。水攻めの失敗は、たとえそれが秀吉の命令であったとしても、総大将である三成の責任と見なされた。これにより「戦下手」という不名誉な烙印を押され、豊臣家中の武断派の諸将との対立を一層深める原因となった可能性がある 12 。この時に形成された評価が、10年後の関ヶ原の戦いでの敗北にまで繋がっていったと考えることもできよう。
  • 成田長親: 開城後、城主の氏長と共に会津の蒲生氏郷に預けられた。その後、氏長が大名として復帰した際に一族内で対立が生じ、烏山を去って流浪の身となったとされる 34 。しかし晩年は、息子が仕えていた尾張徳川家のもとに身を寄せ、名古屋で穏やかに生涯を終えたと伝えられている 34 。歴史の表舞台から姿を消した彼の後半生は、「のぼう様」と呼ばれたその人柄を偲ばせる。
  • 甲斐姫: 彼女の運命は、この戦いを機に劇的に変わる。その美貌と武勇が秀吉の目に留まり、側室として召し出された 19 。秀吉の寵愛を受けたことにより、領地を没収されていた父・氏長は下野国烏山に2万石を与えられ、大名としての家名を再興することができた 35 。彼女の存在は、成田家の存続に決定的な役割を果たした。これは、個人の能力が中央の新たな権力構造に組み込まれ、活用されていく時代の到来を象徴している。
  • 正木丹波守利英: 最も対照的な道を歩んだのが、筆頭家老の正木丹波守である。その武勇は広く知れ渡り、多くの大名から仕官の誘いがあったはずだが、彼はそのすべてを断った 28 。主君の成田氏にも従わず、戦いの地である忍に留まり、武士の身分を捨てた。そして、この戦いで亡くなった敵味方双方の戦死者を弔うため、私財を投じて高源寺を建立し、静かにその生涯を終えた 28 。彼の生き様は、中央の権力や立身出世といった価値観とは一線を画し、土地との強い結びつきや、そこで生きた人々への責任を重んじる、古き良き「坂東武者」の精神性を色濃く反映している。

歴史的評価の変遷:石田三成への烙印と再評価の動き

江戸時代を通じて、忍城の戦いは主に『成田記』などの軍記物語によって語り継がれてきた。これらの物語は、籠城側の英雄的な抵抗と、それを率いた成田長親や甲斐姫の活躍を強調する一方で、石田三成を水攻めに固執して失敗した無能な将として描く傾向があった 8 。この「歴史像」は長く人々の間に定着し、三成の評価を決定づける一因となっていた。

しかし近年、秀吉が三成に宛てた書状などの一次史料の研究が進むにつれ、この通説は見直されつつある 17 。水攻めが秀吉自身の強い命令であったこと、三成自身はむしろ力攻めを主張していたことなどが明らかになり、彼は主君の政治的意図の忠実な実行者であり、その失敗の責任を一身に背負わされた犠牲者であったとする再評価の動きが活発化している 18

忍城の戦いが語り継ぐもの

現代において、この戦いが再び脚光を浴びるきっかけとなったのが、小説・映画『のぼうの城』である 4 。この作品は、成田長親という、従来の英雄像とは全く異なるユニークなリーダー像を提示し、多くの人々の共感を呼んだ。それは、武力や知力だけが人を動かすのではなく、人徳や調整能力、そして何よりも民を思う心が、時に強大な権力をも凌駕しうることを示唆している。

結論として、忍城の戦いは単なる一地方の攻防戦ではない。それは、豊臣秀吉による天下統一事業の最終段階における壮大な政治劇であり、中央集権化の波に洗われる地方武士団の抵抗と葛藤の物語であった。そして、石田三成の苦悩、成田長親の人徳、甲斐姫の決断、正木丹波守の矜持といった、登場人物たちの多様な生き様を通して、戦国という時代の終焉と、新たな時代の価値観の胎動を映し出す、多層的で示唆に富んだ歴史的事件なのである。

引用文献

  1. 農民あがりの秀吉には屈しない...忍城を奮戦させた“成田長親の人望” https://rekishikaido.php.co.jp/detail/10231
  2. 忍城の戦い(1/2)豊臣軍の猛攻を耐え抜いた「浮き城」 - 日本の旅侍 https://www.tabi-samurai-japan.com/story/event/335/
  3. 石田三成は戦下手なんかじゃない!?忍城の水攻めに反対した本音を大暴露! - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/140643/
  4. あの秀吉も落とせなかった城~忍城 – Guidoor Media | ガイドアメディア https://www.guidoor.jp/media/oshijo-castle/
  5. 【埼玉の城】忍城を徹底解説!石田三成の水攻めにも屈しなかったお城の秘密!! - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=sRIp_X0UuLw&pp=ygUNI-e1oueIm-W_jeWfjg%3D%3D
  6. 甲斐姫 戦国武将を支えた女剣士/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/14207/
  7. 忍城の歴史観光と見どころ - お城めぐりFAN https://www.shirofan.com/shiro/kantou/oshi/oshi.html
  8. 石田堤 ~石田三成の水攻めの跡~ - 関東地方整備局 https://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000670313.pdf
  9. 成田甲斐(なりた かい) 拙者の履歴書 Vol.60~忍城を守りし女武将の誇り - note https://note.com/digitaljokers/n/n54fff51b4dc6
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  11. 忍城 石田堤 丸墓山 余湖 http://yogokun.my.coocan.jp/saitama/osijou.htm
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  38. 成田長親を演じた野村萬斎が、長親の子孫と400年の時を超えて名古屋で対面! https://press.moviewalker.jp/news/article/33988/
  39. 甲斐姫(かいひめ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E7%94%B2%E6%96%90%E5%A7%AB-1064365
  40. 【漫画】甲斐姫の生涯~豊臣軍を大苦戦させた姫武者~【日本史マンガ動画】 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=6_GKP4OvAzo
  41. 忍城 -正木丹波守のこと- - 不動庵 碧眼録 https://bunbu-fudoan.hatenablog.com/entry//201211/article_6.html
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