最終更新日 2025-09-02

志苔館の戦い(1567)

永禄十年、志苔館での大規模合戦記録はないが、長禄元年コシャマインの戦いと永正九年ショヤ・コウジ兄弟の戦いで二度陥落。和人による経済的搾取とアイヌの抵抗が激しく衝突し、小林氏の悲劇と蠣崎氏の台頭を招いた。北のフロンティアにおける和人とアイヌの歴史を象徴する。

志苔館の戦い ― 北方世界におけるもう一つの戦国史

序章:1567年の蝦夷地と「志苔館の戦い」を巡る歴史的真実

利用者によって提示された永禄十年(1567年)という年は、日本の歴史、特に「戦国時代」という枠組みにおいて極めて象徴的な座標軸である。この年、尾張の織田信長は美濃稲葉山城を攻略して岐阜城と改め、「天下布武」の印判を用い始めた 1 。旧来の室町幕府体制が機能不全に陥る中、新たな天下統一への意志が明確に示された、まさに本州における戦国史の大きな転換点であった。

しかし、津軽海峡を隔てた蝦夷地(現在の北海道)に目を転じると、そこには本州の激動とは異なる、独自の時間の流れが存在した。この1567年という年に、志苔館を舞台とした大規模な合戦があったことを示す信頼に足る同時代史料は、現在のところ確認されていない。当時の蝦夷地は、蠣崎氏の第四代当主・蠣崎季広の治世下にあった。季広は天文二十年(1551年)頃に「夷狄之商舶往還之法度」を定め、長らく続いたアイヌとの大規模な武力抗争に終止符を打ち、交易を基軸とした比較的安定した関係を構築していた時期にあたる 2 。本州が統一へ向かう激しい陣痛に喘いでいた頃、蝦夷地は地域的な小康状態を享受していたのである。

この本州の歴史と北方世界の歴史が示す展開の「非同期性」こそ、戦国時代の蝦夷地を理解する上で不可欠な視座である。利用者の問いが指し示す「志苔館の戦い」という歴史事象の核心は、1567年ではなく、それより約一世紀前と半世紀前に起きた二つの壮絶な抗争にこそ見出される。すなわち、長禄元年(1457年)の「コシャマインの戦い」と、永正九年(1512年)頃の「ショヤ・コウジ兄弟の戦い」である 4 。この二度の戦いにおいて、志苔館はアイヌ民族による和人支配への抵抗の象徴的な標的となり、凄惨な攻防の末に陥落するという悲劇に見舞われた。

したがって、本報告書は、まずこの年代設定に関する歴史的真実を明らかにした上で、志苔館の運命を決定づけた二つの大抗争の実態に迫るものである。それは単に年代の誤りを訂正するに留まらない。本州中心の「戦国時代」という画一的なイメージから離れ、北のフロンティアで繰り広げられた、生存圏と経済的利権を巡るもう一つの戦国史の扉を開く試みとなるであろう。

第一章:北の辺境の砦、志苔館 ― その構造と戦略的価値

津軽海峡を望む要害

志苔館は、現在の函館市街地の東方、津軽海峡に面した海岸段丘の突端に築かれた中世の平山城である 6 。南は海に開け、西は旧志苔川、東は深い沢という三方を自然の要害に守られたこの立地は、海上交通の監視と、内陸への防御の両面において優れた戦略的価値を有していた 8 。この館は、14世紀末から15世紀初頭にかけて蝦夷地へ進出した津軽の安東氏の被官、すなわち和人領主たちが渡島半島南岸に築いた一連の拠点群「道南十二館」の一つであり、その最東端に位置する最前線基地であった 9 。館主は、上野国を発祥とするとも伝わる小林氏が代々務め、アイヌとの交易、そして時には軍事衝突の最前線という、緊張をはらんだ役割を担っていたのである 5

縄張と防御施設 ― 発掘調査が明かす実像

志苔館の縄張りは、曲輪(郭)が一つだけの「単郭方形館」と呼ばれる比較的簡素な形式である 8 。しかし、その防御施設は決して脆弱なものではなかった。発掘調査の結果、館の四方は堅固な土塁と深い空堀によって厳重に守られていたことが判明している。特に北側の土塁は高さ4メートルから4.5メートルに達し、北側と西側の空堀は幅5メートルから10メートル、最大深さ3.5メートルという大規模なものであった 4

防御思想の核心は、館の正面玄関にあたる西側の大手口に見ることができる。ここには土橋を挟んで二重の空堀が穿たれ、侵入しようとする敵に対して多重の障害を形成していた 7 。さらに詳細な調査からは、この防御施設が時代と共に強化されていった過程も明らかになっている。築城当初は、断面がV字型の「薬研堀」に木橋が架けられていたが、後の改修で、より防御効果の高い断面が箱型の「箱薬研堀」へと造り替えられ、橋も堅牢な「土橋」へと移行したのである 4 。これは、アイヌとの緊張関係が高まる中で、館の防御能力を絶えず向上させようとした和人領主の切実な意志の表れと言えよう。郭内からは7棟分の建物跡が確認されており、それらの周囲も当初は柵で囲われ、後に塀へと強化されたと考えられている 4

戦略的重要性とその裏面の脆弱性

平時において、志苔館は交易拠点として大きな役割を果たした。海に面した立地は本州との交易船の往来に便が良く、周辺のアイヌとの物資交換の中心地として機能したであろうことは想像に難くない。しかし、この戦略的優位性は、ひとたび大規模な軍事衝突が発生した際には、致命的な脆弱性へと転化した。

道南十二館の「最東端」という地理的位置は、すなわち最も孤立しやすいことを意味する 9 。中世日本の籠城戦は、味方からの援軍、すなわち「後詰め」の到来を前提とした時間稼ぎの戦術であった 13 。しかし、十二館はそれぞれが独立した領主によって支配されており、強固な軍事同盟で結ばれていたわけではなかった。もしアイヌ側が電撃的に蜂起し、各個撃破戦術をとった場合、館同士が連携して組織的な後詰めを送ることは極めて困難であった。志苔館は堅固な防御施設を有してはいたが、単郭である以上、籠城できる兵力や備蓄できる兵糧・物資には自ずと限界がある。四方を敵の大軍に囲まれ、後詰めの望みが絶たれた状況下では、その陥落はもはや時間の問題であった。

志苔館が二度にわたって陥落した悲劇の根源は、館そのものの物理的な防御力の欠如というよりは、それを支えるべき道南和人社会全体の軍事ネットワークの脆弱性という、より大きな戦略的欠陥にあった。平時の交易拠点としての利便性と、有事における軍事的孤立という相克こそが、志苔館の運命を決定づけたのである。

第二章:慟哭の烽火 ― コシャマインの戦いと志苔館の陥落(1457年)

開戦前夜 ― 軋むフロンティア

15世紀中葉の蝦夷地は、和人の進出が新たな段階に入り、先住民族であるアイヌとの間に深刻な軋轢を生んでいた。和人商人たちは、鉄製品や米、漆器といったアイヌ社会にはない物品をもたらす一方で、その交易はしばしば不公正なものであった 15 。アイヌが産出する毛皮や海産物に対し、和人側が不当に安い交換比率を強いるなど、経済的な搾取が横行し、アイヌの間に不満が鬱積していた 17

この不均衡な経済構造を象徴するのが「マキリ(小刀)」の存在であった。アイヌは優れた狩猟民族であったが、製鉄技術を持たなかったため、狩猟や解体、木工など日常生活のあらゆる場面で不可欠なマキリを、和人の鍛冶屋に製作してもらうか、交易で手に入れるしかなかった 18 。この一方的な依存関係は、和人側に優越感と傲慢さを、アイヌ側に屈辱と不満を蓄積させる土壌となった。フロンティアの平和は、薄氷の上にあったのである。

発端 ― 志苔の鍛冶屋、一滴の血が奔流となる

康正二年(1456年)、志苔館のお膝元である志海苔の集落で、ついに堪忍袋の緒が切れる事件が起きる。一人のアイヌの若者が和人の鍛冶屋にマキリを注文した。しかし、完成したマキリの品質は劣悪で、価格も不当に吊り上げられていた。若者が抗議すると、激しい口論へと発展。逆上した鍛冶屋は、そのマキリで若者を刺殺してしまったのである 18

この一人の若者の死は、単なる殺人事件ではなかった。それは、長年にわたってアイヌ民族が耐え忍んできた和人からの蔑視と搾取の象徴であった。この報は瞬く間に渡島半島を駆け巡り、各地のコタン(集落)で燻っていた怒りの炎に油を注いだ。一滴の血は、やがて蝦夷地の歴史を塗り替える巨大な奔流の源となったのである。

蜂起と進撃 ― コシャマイン立つ

事件を契機に、渡島半島東部のアイヌの有力な首長であったコシャマインが総大将として立ち上がった 22 。彼の呼びかけに応じ、各地のアイヌが一斉に蜂起。長禄元年(1457年)5月14日、和人に対する全面戦争の火蓋が切られた 22

アイヌ軍の進撃は凄まじかった。和人の油断と、アイヌの地の利を活かした戦術、そして何よりも積年の恨みに支えられた士気の高さが、戦局を決定づけた。彼らはまず箱館(宇須岸館)を攻略すると、破竹の勢いで西進。道南十二館のうち、実に10もの館が次々と攻め落とされ、和人勢力はわずか1年にして壊滅の危機に瀕した 23 。多くの和人が殺害され、あるいは海を渡って本州へ逃げ帰った。

志苔館攻防戦 ― リアルタイム再現

事件の震源地であった志苔館は、当然、アイヌ軍の最初の主要な攻撃目標となった。館主・小林太郎左衛門尉良景のもとに、アイヌ蜂起の急報と、周辺の館が陥落したという絶望的な知らせが次々ともたらされる。

  • 【包囲】
    良景は直ちに籠城を決断し、館の門を固く閉ざす。周辺の集落から逃げ込んできた和人たちで、広くはない郭内は混乱と恐怖に包まれた。間もなく、大地を揺るがすような鬨の声と共に、コシャマイン率いるアイヌの大軍が姿を現す。彼らは志苔館を幾重にも取り囲み、外部との連絡を完全に遮断した。
  • 【攻防】
    アイヌ軍の主たる武器は弓矢であった。特に、トリカブトの毒「スㇽク」を鏃に塗った毒矢は、かすり傷でも死に至る恐るべき威力を誇った 24。無数の毒矢が雨のように館内へ降り注ぐ。対する和人側は、土塁の上から弓や石つぶてで必死に応戦する。夜になると、アイヌ兵は闇に紛れて堀を渡り、土塁や柵に取り付いて火を放とうと試みる。小林良景は自ら陣頭に立ち、兵を叱咤激励しながら防戦を指揮するが、敵の猛攻は昼夜を分かたず続いた。
  • 【疲弊】
    数日が経過しても、他の館からの援軍が到着する気配はなかった。それどころか、他の館も同様に攻撃を受けているか、既に陥落したという噂が館内の人々の心を蝕んでいく。水も食料も、そして戦うための矢も次第に底を突き始める。兵士たちの疲労は極限に達し、絶望が士気を奪っていった。一方、アイヌ軍の攻撃は衰えることなく、館の防御施設は徐々に破壊されていった。
  • 【陥落】
    ついに、連日の猛攻によって西の大手口の門が破られたか、あるいは防御が手薄になった東側の沢沿いからアイヌ兵が侵入したか、館内に鬨の声が響き渡る。なだれ込んできたアイヌ兵と和人守備隊との間で、壮絶な白兵戦が展開された。しかし、数で劣り、疲弊しきった和人側に勝ち目はなかった。
  • 【最期】
    館主・小林良景は、最後まで太刀を振るって奮戦したと伝えられるが、衆寡敵せず、無数のアイヌ兵の刃の前に倒れた 4。主を失った館は炎に包まれ、阿鼻叫喚の地獄と化した。こうして、和人の東方における拠点・志苔館は、アイヌの怒りの炎の中に飲み込まれ、陥落したのである。

戦局の転換 ― 英雄・武田信広の登場

志苔館をはじめとする10の館が陥落し、和人勢力はもはや風前の灯火であった。生き残った者たちは、西方の花沢館と茂別館の二つに立てこもるのみであった 23 。この絶望的な状況を覆したのが、当時、花沢館に客将として身を寄せていた武田信広という一人の武将であった。若狭武田氏の出身ともいわれる信広は、その類稀なる武勇と統率力で、敗残兵と化していた和人たちを瞬く間に再編・掌握する 26

信広は、いたずらに籠城を続けるのではなく、打って出ることを決意。1458年、現在の北斗市七重浜において、追撃してきたコシャマイン軍を迎え撃った。信広は、いったん退却するふりをしてアイヌ軍を誘い込み、密林に潜ませていた伏兵で包囲するという巧みな戦術を用いた。混乱するアイヌ軍の中心で指揮を執るコシャマインとその息子を、信広は五人張りの強弓で自ら射殺したと伝えられる 20

総大将を失ったアイヌ軍は統率を失い、一斉に潰走した。この七重浜での劇的な勝利により、一年にも及んだ大乱は和人側の勝利で終結した。そして、この戦いにおける圧倒的な功績により、武田信広は道南和人社会の新たな指導者として台頭し、やがて蠣崎氏の家督を継承。後の松前藩へと続く、新たな支配体制の礎を築くことになったのである 21

第三章:繰り返される悲劇 ― ショヤ・コウジ兄弟の戦いと二度目の落城(1512年)

半世紀後の蝦夷地

コシャマインの戦いから約半世紀。武田信広、そしてその子である蠣崎光広の時代となり、道南における和人の支配体制は再建され、以前にも増して強化されていた。信広は勝山館を築いて政治・軍事の中心とし、アイヌとの交易を管理下に置くことで、蠣崎氏の権力基盤を固めていった 21 。しかし、武力によって押さえつけられたアイヌの不満が完全に消え去ったわけではなかった。和人による経済的優位と、時に見せる傲慢な態度は、依然として対立の火種を燻らせ続けていた。

再び上がる蜂起の狼煙

永正九年(1512年)、再びアイヌが大規模な蜂起に踏み切る。今回の指導者は、ショヤとコウジという兄弟の首長であった 4 。蜂起の原因の詳細は史料に乏しいが、コシャマインの戦いと同様に、交易を巡るトラブルや和人からの圧迫が背景にあったと推測される。彼らの軍勢は、再び道南各地の和人館へと矛先を向けた。その最初の標的の一つが、かつてコシャマインによって陥とされた因縁の地、志苔館であった。

志苔館、二度目の悲劇

コシャマインの戦いの後、志苔館は再建され、再び小林一族が館主を務めていた。この時の館主は、半世紀前に父・良景が討死したその場所で、雪辱を期していたであろう息子の小林弥太郎良定であった 5 。ショヤ・コウジ兄弟率いるアイヌ軍が来襲すると、良定は父の二の舞にはなるまいと必死の防戦を繰り広げた。しかし、歴史は無情にも繰り返される。半世紀前と同様、他の館からの有効な援軍はなく、志苔館は孤立無援の戦いを強いられた。

攻防の具体的な経過は伝わっていないが、結果は同じであった。衆寡敵せず、館は再びアイヌ軍の猛攻の前に陥落。もはやこれまでと覚悟を決めた小林良定は、父が討たれたこの館で、自ら命を絶ったと記録されている 4 。父子二代にわたる志苔館の悲劇は、和人とアイヌの根深い対立を象徴する出来事として、歴史に刻まれた。

謀略による鎮圧

この蜂起に対し、当時の蠣崎氏当主であった蠣崎光広は、父・信広とは異なるアプローチで臨んだ。父が戦場での圧倒的な「武勇」によって敵を打ち破ったのに対し、光広は冷徹な「謀略」を用いたのである。

光広は、正面からの武力衝突だけでは犠牲が大きいと判断したのか、あるいはアイヌ側の結束が固いと見たのか、和睦を申し入れると偽ってショヤ・コウジ兄弟をおびき出した。そして、和睦成立を祝う酒宴の席を設け、油断した兄弟を家臣に命じて斬殺するという、非情な騙し討ちによって乱の首謀者を排除した 4 。大将を失った蜂起軍は瓦解し、乱は鎮圧された。

この鎮圧方法の変遷は、蠣崎氏の支配様式の質的な変化を象徴している。父・武田信広の時代は、まだ和人領主たちをまとめ上げ、アイヌに威を示すための、個人のカリスマ的な武力が不可欠であった。一方、息子の光広の時代には、蠣崎氏の支配はより組織的かつ盤石なものとなり、敵対勢力を効率的に、そして確実に排除するための、より現実的で計算高い政治的権謀術数が選択されるようになった。これは、本州の戦国大名たちが、単なる武辺者から領国を経営する冷徹な政治家へと変貌していった過程と軌を一にするものである。蠣崎氏もまた、蝦夷地という独自の舞台で、着実に「戦国大名化」への道を歩んでいたのである。

第四章:戦いの遺産 ― 志苔館が物語るもの

志苔館を巡る二度の戦いは、多くの血を流し、小林父子の悲劇を生んだ。しかし、その跡地から発見された数々の遺物は、戦いの歴史の裏側で、この地が活発な経済活動の中心地であったという、もう一つの顔を我々に示してくれる。

考古学的知見 ― 銭と陶磁器が語る経済

志苔館の歴史を語る上で欠かせないのが、考古学的な発見である。特に、昭和四十三年(1968年)に館跡から約300メートル離れた地点の工事現場で偶然発見されたものは、世の注目を集めた。それは、越前焼や珠洲焼の大甕三つにぎっしりと詰められた古銭であり、その総数は実に38万7514枚にも及んだ 4 。これは日本国内において一箇所から発見された古銭の量としては最大級であり、現在「北海道志海苔中世遺構出土銭」として国の重要文化財に指定されている 11

この大量の古銭は、志苔館が単なる辺境の軍事拠点ではなく、大規模な貨幣経済が浸透した、きわめて重要な交易センターであったことを雄弁に物語っている。館跡の発掘調査でも、中国産の青磁や白磁、そして日本の瀬戸、越前、珠洲といった各地で生産された陶磁器が多数出土している 4 。これらの遺物の多くが15世紀前半のものであることから、コシャマインの戦いで陥落する前の志苔館が、日本海交易ネットワークの北の結節点として、いかに繁栄していたかが窺える。

松前藩の公式史書である『新羅之記録』は、蠣崎氏の武功と支配の正統性を強調するため、どうしても「戦いの歴史」に記述が偏りがちである 33 。しかし、政治的な意図を含まない考古遺物は、文献史料が語らない「経済と交易の歴史」を静かに、しかし明確に示してくれる。この経済的繁栄こそが和人支配の基盤であり、同時にアイヌにとっては搾取の源泉ともなり、激しい抗争の根本的な原因となった可能性が高い。武力と経済力、この両輪によって北のフロンティアにおける支配が成り立っていたという立体的な歴史像は、文献と考古学という二つの史料群を突き合わせることで初めて浮かび上がってくるのである。

歴史的意義 ― 蠣崎氏台頭の礎石として

志苔館の二度の落城を含む、15世紀から16世紀初頭にかけての和人とアイヌの激しい抗争は、結果として道南の政治地図を大きく塗り替えた。コシャマインの戦いでは、志苔館の小林氏をはじめとする多くの和人領主が討死、あるいは勢力を失った。この権力の空白を埋める形で台頭したのが、武田信広を祖とする蠣崎氏であった 21 。志苔館の悲劇は、蠣崎氏、すなわち後の松前藩による蝦夷地支配体制が確立されるための、いわば「産みの苦しみ」であったと位置づけることができる。志苔館をはじめとする諸館の犠牲の上に、蠣崎氏による統一権力が築かれていったのである。

和人とアイヌの関係史における位置づけ

志苔館の歴史は、北のフロンティアにおける和人とアイヌの関係が持つ二面性を象徴している。一方では、陶磁器や古銭が示すように、互いの産物を交換し合う活発な「交流」と経済的な相互依存関係があった。しかし、その裏側では、不公正な取引や文化的な摩擦が絶えず、ひとたび利害が激しく衝突すれば、血で血を洗う凄惨な「対立」へと発展した。この交流と対立が複雑に絡み合う緊張関係こそが、近世に至るまでの北方世界の歴史を貫く基調であった。志苔館は、その栄華と悲劇の両方を通じて、その事実を現代に伝えている。


蝦夷地と本州の歴史対比年表(15世紀~16世紀)

西暦

蝦夷地(道南)の主な出来事

本州の主な出来事

関連資料

1456年

志苔の鍛冶屋事件(コシャマインの戦いの発端)

-

18

1457年

コシャマインの戦い勃発。志苔館陥落、小林良景討死。

-

4

1458年

武田信広、コシャマイン親子を討ち、乱を鎮圧

-

20

1467年

-

応仁の乱 勃発(〜1477年)。戦国時代へ。

-

1512年

ショヤ・コウジ兄弟の戦い。志苔館、再落城。小林良定自害。

-

4

1514年

蠣崎光広、拠点を徳山館(松前)へ移す

-

31

1551年

蠣崎季広、「夷狄之商舶往還之法度」を定める

陶晴賢の謀反(大寧寺の変)

2

1560年

-

桶狭間の戦い

31

1567年

(蠣崎氏による道南支配の安定期)

織田信長、稲葉山城攻略。「天下布武」を開始。

1

1593年

蠣崎慶広、豊臣秀吉から蝦夷島主として承認され安東氏から独立

-

31

1604年

松前慶広、徳川家康から黒印状を受け松前藩が成立

江戸幕府 開府(1603年)

31


結論:戦国時代の「もう一つの戦史」としての志苔館

志苔館を巡る二度の攻防戦は、本州の戦国大名たちが繰り広げた領土拡大や天下統一を目的とする合戦とは、その様相を大きく異にする。それは、文化も言語も異なる二つの民族が接触するフロンティアにおいて、生存圏と経済的利権、そして民族の誇りを賭けて繰り広げられた、熾烈な闘争であった。そこには「天下」という統一的な概念はなく、より根源的で切実な利害が剥き出しの形で衝突していた。

本報告書の冒頭で触れた永禄十年(1567年)という年に、我々は再び立ち返らなければならない。この年、本州では織田信長という新たな統一権力の胎動が始まり、日本の歴史が大きく旋回を始めた。一方で、北の蝦夷地では、志苔館の悲劇を含む数多の抗争を経て、蠣崎氏という新たな地域権力がその支配を固め、独自の歴史を歩み始めていた。この対照的な姿は、我々が「戦国時代」という言葉から想起する単一のイメージがいかに一面的であるかを教えてくれる。

今日、国指定史跡として整備された志苔館跡に立ち、眼前に広がる津軽海峡を望むとき、我々の目に映るのは単なる土塁と空堀の遺構ではない。それは、和人とアイヌ、二つの民族が時に交易品を手に交わり、時に武器を手に激しくぶつかり合った、北の大地の壮大な歴史の原点そのものである。志苔館の物語は、日本の戦国時代が、中央の動向のみならず、列島の周縁部で展開された多様でダイナミックな「もう一つの戦史」によっても形作られていたことを、力強く後世に伝えているのである。

引用文献

  1. 信長の野望・革新 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E9%95%B7%E3%81%AE%E9%87%8E%E6%9C%9B%E3%83%BB%E9%9D%A9%E6%96%B0
  2. 『信長の野望・天道』武将総覧 http://hima.que.ne.jp/tendou/tendou_data.cgi?up1=0
  3. 蠣崎季広(かきざき すえひろ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E8%A0%A3%E5%B4%8E%E5%AD%A3%E5%BA%83-1064553
  4. 【続日本100名城・志苔館(北海道)】海を渡り和人が築いた室町時代の城 - 城びと https://shirobito.jp/article/1362
  5. 志苔館 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.shinori.htm
  6. 101 志苔館 - 城旅 - WordPress.com https://inakabito.wordpress.com/home/%E7%B6%9A100%E5%90%8D%E5%9F%8E%E7%9B%AE%E6%AC%A1/%E2%84%96101%E3%80%80%E5%BF%97%E8%8B%94%E9%A4%A8/
  7. 志苔館① ~道南十二館の一つ~ | 城館探訪記 - FC2 http://kdshiro.blog.fc2.com/blog-entry-2501.html
  8. www.takamaruoffice.com https://www.takamaruoffice.com/100meijyou/shinoridate/#:~:text=%E7%B8%84%E5%BC%B5%EF%BC%88%E3%81%AA%E3%82%8F%E3%81%B0%E3%82%8A%EF%BC%89,%E3%82%84%E3%81%8B%E3%81%9F%EF%BC%89%E3%81%A8%E8%A8%80%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82
  9. 志苔館(しのりだて)#101『和人とアイヌが戦った道南十二館の一つ』 | 犬山城を楽しむためのウェブサイト https://www.takamaruoffice.com/100meijyou/shinoridate/
  10. 志苔館(北海道函館市)の詳細情報・口コミ | ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/castles/3
  11. 史跡志苔館跡 - 函館市 https://www.city.hakodate.hokkaido.jp/docs/2018032900043/
  12. 国史跡 志苔館跡 https://sirohoumon.secret.jp/shinoridate.html
  13. 「籠城戦」って勝ち目はあるの?【超入門!お城セミナー】 - 城びと https://shirobito.jp/article/271
  14. 籠城戦 ~城を守る合戦~/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/58782/
  15. シャクシャイン 日本史辞典/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/shakushain/
  16. シャクシャインの戦い|世界大百科事典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=794
  17. 2.03.01アイヌ民族とその生活 https://www.town.kamifurano.hokkaido.jp/hp/saguru/100nen/2.03.01.htm
  18. コシャマインの戦い http://nature.blue.coocan.jp/kaisetu-kosyamainnotatakai.htm
  19. 羅臼町のアイヌ民族マキリ鞘 - 斜里町立知床博物館 https://shiretoko-museum.jpn.org/media/shuppan/kempo/2910s_tobe.pdf
  20. 志苔館(しのりだて) - 古城の歴史 https://takayama.tonosama.jp/html/shinori.html
  21. コシャマインの戦いの発端~三守護体制が招いたアイヌ首長の蜂起~ - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/2256/?pg=2
  22. 北海道ゆかりの人たち第二十八位 コシャマイン - note https://note.com/hokkaido_view/n/n74b933133529
  23. コシャマインの戦(コシャマインのたたかい)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E3%81%93%E3%81%97%E3%82%84%E3%81%BE%E3%81%84%E3%82%93%E3%81%AE%E6%88%A6-3229863
  24. アマッポ - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%83%83%E3%83%9D
  25. アイヌとトリカブト - 北海道野生動物研究所 http://www.yasei.com/ainutotorikabuto.html
  26. 第367回:花沢館(武田信広が活躍した道南十二館の一つ) - こにるのお城訪問記 https://tkonish2.blog.fc2.com/blog-entry-391.html
  27. 蠣崎氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A0%A3%E5%B4%8E%E6%B0%8F
  28. 【函館市】詳細検索 - ADEAC https://adeac.jp/hakodate-city/detailed-search?mode=text&word=%E3%82%B3%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%B3
  29. 【コシャマインの戦い】 - ADEAC https://adeac.jp/hakodate-city/text-list/d100040/ht000500
  30. 武田信広(たけだのぶひろ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E5%BA%83-849823
  31. その信廣が築いた『勝山館跡』 コシャマインの戦いを征し - 北海道上ノ国町 https://www.town.kaminokuni.lg.jp/kouhou/pdf/1247_86611983.pdf
  32. 志苔館 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E8%8B%94%E9%A4%A8
  33. 東京 8/20 「中世北方史」 入間田 - アイヌ民族文化財団 https://www.ff-ainu.or.jp/about/files/sem1403.pdf
  34. コシャマインの戦いに関する『新羅之記録』の史料的検討 Study on the records about the Koshamain B https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/record/468/files/3.pdf
  35. 16 アイヌ民族に関わる歴史 https://visit-hokkaido.jp/ainu-guide/pdf/ainu_guide_p16.pdf