最終更新日 2025-09-02

志苔館周辺小戦(1568)

永禄十一年、志苔館周辺で大規模合戦の記録はないが、蠣崎季広の和睦政策下でも和人とアイヌの間に小規模な衝突は発生し得た。交易独占による経済的摩擦や文化の違いが背景にあり、記録に残らない「小戦」が、当時の蝦夷地の複雑な緊張関係を象徴している。

1568年蝦夷地における和人・アイヌ関係史の考察:志苔館周辺の緊張と「小戦」の実像

序章:1568年、志苔館をめぐる謎

日本の戦国時代史において、1568年(永禄11年)は織田信長が足利義昭を奉じて上洛を果たし、天下布武への道を歩み始めた画期として知られる。しかし、同時代、北の辺境である蝦夷地(現在の北海道)で「志苔館周辺小戦」と呼ばれる武力衝突があったとする記録は、松前藩の公式史書である『新羅之記録』をはじめ、信頼性の高い主要文献には見出すことができない 1

この「記録の不在」は、単に史料が散逸した結果と片付けるべきではない。むしろ、1568年という特定の時点における蝦夷地の政治・社会状況そのものが、大規模な合戦を許容しなかった一方で、局地的な紛争の火種を常に内包していたことの証左と捉えるべきである。

本報告書は、特定の合戦の有無を確定させることに主眼を置くのではなく、この「記録されざる小戦」というキーワードを手がかりとして、1568年前後の蝦夷地、特に道南地域における和人とアイヌの関係性の実態を、可能な限り「リアルタイム」に近い形で解明することを目的とする。なぜこの時期、志苔館という場所で紛争が起こり得たのか、あるいは起こり得なかったのか。その背景を多角的に分析することで、本州の戦国史とは異なる、北方の独自の歴史的ダイナミズムを明らかにしていく。

まず、1568年という時代を歴史の大きな潮流の中に位置づけるため、15世紀から17世紀初頭にかけての和人とアイヌの関係史における主要な出来事を以下に整理する。

表1:和人・アイヌ関係史 主要年表(15世紀~17世紀初頭)

年代

主要な出来事

概要

1457年

コシャマインの戦い

和人との交易摩擦を背景とした大規模なアイヌの蜂起。志苔館を含む道南十二館の多くが陥落。武田信広の活躍で鎮圧される 3

1512年

ショヤコウジ兄弟の戦い

アイヌが再び蜂起。志苔館が再度陥落し、館主の小林良定が敗死する 4

1515年

蠣崎光広、ショヤコウジ兄弟を謀殺

蠣崎光広が和睦を装い、酒宴の席でアイヌの指導者をだまし討ちにする 5

1529年, 1536年

蠣崎義広によるアイヌ首長の謀殺

蠣崎氏によるアイヌ有力者の排除が続く。タナサカシ、タリコナといった首長がだまし討ちに遭う 6

1550年頃

「アイヌ商船往還の制」制定

四代目当主・蠣崎季広が東西のアイヌ首長と和睦。交易の管理・独占体制を確立し、大規模な武力衝突に終止符を打つ 6

1568年

【本報告書の調査対象時点】

和睦体制下での約18年が経過。表向きの平和の裏で、局地的な緊張が潜在する時期。

1593年

蠣崎慶広、豊臣秀吉から蝦夷地支配を公認される

蠣崎氏が安東氏から独立し、中央政権公認の領主(大名)としての地位を確立する 2

1604年

松前藩の成立

徳川家康から黒印状を与えられ、松前氏(蠣崎氏から改姓)によるアイヌとの交易独占権が公的に保証される 9

1669年

シャクシャインの戦い

松前藩の不公正な交易に対し、シャクシャインを中心にアイヌが大規模に蜂起する近世最大の和人・アイヌ間戦争 11

この年表が示すように、1568年は大規模な戦争と戦争の間に位置する、いわば「静かなる緊張」の時代であった。この特異な時代背景こそが、「大戦」ではなく「小戦」という言葉でしか語り得ない紛争の可能性を読み解く鍵となる。

第一部:戦場としての志苔館 ― 過去の記憶と16世紀の現実

第一章:志苔館の興亡

1568年時点の志苔館周辺の状況を理解するためには、まずこの館がどのような場所であり、どのような歴史を辿ったのかを把握する必要がある。志苔館は単なる建造物ではなく、和人とアイヌの衝突の記憶が刻まれた、象徴的な空間であった。

道南十二館と志苔館の戦略的価値

14世紀から15世紀にかけて、本州から蝦夷地へ渡来した和人たちは、交易や漁業の拠点として、またアイヌからの防衛拠点として、渡島半島南部に「館(たて)」と呼ばれる fortified settlements を築いた。これらは後に「道南十二館」と総称される 13

志苔館(しのりだて)は、これら十二館の中で最も東に位置し、現在の函館市志海苔町、函館空港に近接する海岸段丘上に築かれた 15 。西に志海苔川、南に津軽海峡を望み、対岸の下北半島まで一望できるこの地は、海上交通の要衝を監視する上で絶好の立地であった 15 。発掘調査によれば、館は土塁と空堀に囲まれた台形の郭を持ち、特に西側の大手口には二重の空堀が設けられるなど、堅固な防御構造を備えていたことが確認されている 15

さらに、1968年に館の近隣から約38万枚もの古銭が入った甕が発見されたことは、志苔館が単なる軍事拠点ではなく、日本海交易ルートに連なる経済活動の重要な中心地でもあったことを物語っている 14 。館主は小林氏とされ、津軽の安東氏の配下としてこの地を治めていた 13

二度の陥落:和人・アイヌ間抗争の最前線

その戦略的重要性と経済的繁栄ゆえに、志苔館は和人とアイヌの間に大規模な抗争が発生した際、常にその最前線となった。

【時系列解説】コシャマインの戦い(1457年)

1456年、和人の鍛冶屋とアイヌの若者の間で起きた小刀を巡るトラブルが殺人事件に発展し、翌1457年、アイヌの首長コシャマインが全道的な蜂起を呼びかけた 6。アイヌ軍の猛攻の前に和人の館は次々と陥落し、志苔館もその例外ではなかった。激しい攻防の末、館は陥落し、館主の小林良景は討死したと記録されている 3。この戦いは最終的に武田信広によってコシャマイン親子が討ち取られ終結するが、志苔館の陥落は、アイヌにとって和人支配を打ち破るべき象徴的な攻略目標であったことを示している。

【時系列解説】ショヤコウジ兄弟の戦い(1512年)

コシャマインの戦いから半世紀以上が経過した1512年(永正9年)、再びアイヌが蜂起し、ショヤコウジ兄弟がその指導者となった。この戦いにおいても志苔館は主要な攻撃目標となり、与倉前館、宇須岸館と共に攻め落とされた 4。この時、館を守っていたのは良景の子とされる小林良定であったが、彼もまた父と同様に館と運命を共にし、自害したと伝えられる 5。

以下の表は、志苔館が経験した二つの悲劇を比較したものである。

表2:志苔館が関わった主要な合戦の比較

項目

コシャマインの戦い(1457年)

ショヤコウジ兄弟の戦い(1512年)

発生年

1457年(長禄元年)

1512年(永正9年)

原因

和人との交易上のトラブル、殺人事件

不明(和人の進出に対する継続的な反発と推定)

アイヌ側指導者

コシャマイン

ショヤコウジ兄弟

和人側(館主)

小林良景

小林良定

結果

武田信広により鎮圧

蠣崎光広により鎮圧(指導者は後に謀殺)

志苔館の状況

陥落・館主討死

再度の陥落・館主自害

16世紀の現実:廃館と権力構造の変化

二度にわたる壊滅的な打撃を受けた後、志苔館が再び歴史の表舞台に登場することはなくなる 17 。これは、単に館が破壊されたからという物理的な理由だけではない。より本質的には、道南和人社会の権力構造そのものが大きく変化したことによる。

コシャマインの戦いを鎮圧した武田信広は、その功績によって蠣崎氏の家督を継ぎ、道南の和人社会における絶対的な指導者としての地位を確立していく 3 。蠣崎氏は、かつてのような独立した館主たちの連合体ではなく、自身を頂点とする中央集権的な支配体制を構築しようとした。その過程で、各地の館主は蠣崎氏の家臣として松前の城下への集住を促され、志苔館の小林氏もまた蠣崎氏に従属したとされる 13

これにより、志苔館のような辺境の独立した館は、その戦略的価値を失い、事実上廃館となったと推定される 18 。発掘調査では16世紀以降のものとされる礎石を用いた建物跡も確認されているが 5 、これは限定的な再利用(例えば、漁業や交易のための一時的な駐留地など)があった可能性を示すもので、かつてのような堅固な軍事拠点としての機能は完全に失われていたと考えられる。

したがって、1568年時点の志苔館は、もはや正規の軍事拠点ではなく、過去の激戦の記憶を留める「古戦場」あるいは廃墟に近い存在だった可能性が高い。もしこの地で「小戦」が起きたとすれば、それは城郭をめぐる攻防戦ではなく、その土地の利用権や交易上のトラブルをめぐる、より小規模で散発的な衝突であったと考えるのが妥当である。

第二章:和人・アイヌ間抗争の構造

志苔館の二度の陥落は、個別の事件であると同時に、15世紀から16世紀にかけての蝦夷地における和人とアイヌの構造的な対立関係を象徴するものであった。その対立の根源には、経済、文化、そして領土をめぐる深刻な摩擦が存在した。

和人の蝦夷地進出の主たる目的は、アイヌがもたらす毛皮や海産物といった北方の産物を入手し、本州で売却することによる交易利潤の獲得にあった。当初、両者の関係は比較的対等な交易パートナーであったかもしれない。しかし、和人の人口増加と定住化が進むにつれて、和人側はより有利な交換レートを求め、時には詐術や暴力を用いてアイヌから産物を収奪することもあった 7 。コシャマインの戦いの直接的な引き金が、和人によるアイヌの若者の殺害であったことは、こうした日常的な搾取と緊張関係が存在したことを示している 6

また、和人による漁場や資源の独占的な利用は、狩猟・漁撈・採集を基盤とするアイヌの生活圏(イオル)を直接的に脅かすものであった。和人が自らの居住地と農地を拡大していく行為は、アイヌにとっては生存基盤そのものを侵食される侵略行為に他ならなかった。

これらの経済的・領土的摩擦は、文化的な価値観の相違によってさらに増幅された。和人社会の領主による排他的な土地所有の概念は、自然をカムイ(神)からの借り物と捉え、共同体で利用するアイヌの伝統的な世界観とは相容れないものであった。

コシャマインの戦いやショヤコウジ兄弟の戦いといった大規模な蜂起は、こうした積年の不満と危機感が爆発したものであり、それは単なる経済闘争ではなく、自らの文化と生活様式を守るための民族的な抵抗戦争としての性格を強く帯びていた。そして、これらの戦いの結果、蠣崎氏という新たな統一権力が台頭し、和人とアイヌの関係は新たな段階へと移行していくことになる。

第二部:1568年の蝦夷地 ― 蠣崎季広の時代の「リアルタイム」

1512年のショヤコウジ兄弟の戦い以降、蝦夷地では大規模な戦争は記録されていない。しかし、それは平和が訪れたことを意味するのではなく、紛争の形態が変化したことを示している。1568年の道南社会は、蠣崎氏四代目当主・蠣崎季広(かきざき すえひろ)が構築した、巧妙かつ矛盾をはらんだ支配体制の下で、静かな緊張をたたえていた。

第三章:蠣崎氏の台頭と支配体制の確立

コシャマインの戦いという未曾有の危機は、皮肉にも道南和人社会に新たな秩序をもたらした。この戦いで軍功を挙げた武田信広は、蠣崎家の養子となり家督を継承すると、その卓越した武力と政治力をもって、乱立していた他の館主たちを次々と自らの支配下に組み込んでいった 3

信広の子・光広、孫・義広の代には、謀略やだまし討ちといった非情な手段も用いながら、対抗勢力や抵抗するアイヌの有力者を排除し、蠣崎氏の支配権は盤石なものとなっていく 5 。特に、1515年にショヤコウジ兄弟を和睦の酒宴に誘き出して殺害した事件は、蠣崎氏の支配戦略を象徴している 6 。彼らは、もはや単なる一地域の領主ではなく、蝦夷地における和人社会全体の代表者、そしてアイヌに対する唯一の交渉窓口としての地位を確立したのである。

この流れを決定づけたのが、四代目当主・蠣崎季広であった。彼の時代、1545年から1583年にかけて、蠣崎氏は単なる武力による支配から、交易の独占と制度化を通じた、より高度な支配体制へと移行を遂げる。季広は、父祖たちが繰り返したアイヌとの絶え間ない武力衝突が、長期的には双方にとって不利益であることを見抜いていた 7 。彼は、武力一辺倒ではない、新たな共存(あるいは支配)の形を模索したのである。

第四章:「アイヌ商船往還の制」と緊張下の共存

1550年(天文19年)頃、蠣崎季広は、100年近く続いた和人とアイヌの敵対関係に終止符を打つべく、画期的な和睦政策を打ち出した。これは「アイヌ商船往還の制」あるいは「夷狄商舶往還の法度」と呼ばれるもので、その後の蝦夷地の歴史を大きく規定することになる 6

この制度の骨子は、以下の通りである。

  1. アイヌ社会の公認と間接統治: 蝦夷地の西側(日本海側)は瀬田内(現在のせたな町)の首長ハシタイン、東側(太平洋側)は知内(現在の知内町)の首長チコモタインを、それぞれの地域のアイヌの代表者(首長)として公式に認める 7
  2. 経済的利益の供与: 和人地に来航する本州の商船から蠣崎氏が徴収する関税の一部を、「夷役」として両首長に分配する 7
  3. 交易の独占と管理: アイヌと和人の交易の場を、蠣崎氏の本拠地である松前(および上ノ国)に限定する。これにより、蠣崎氏は全ての交易を管理下に置き、仲介者として独占的な利益を得る体制を構築した 7
  4. 服属儀礼の強要: 『新羅之記録』によれば、アイヌの船が和人地の沖合を通過する際には、蠣崎氏への敬意を示すために帆を下げて航行することが義務付けられたとされる 7

この政策は、一見するとアイヌの自治を認め、経済的利益を与えることで平和を構築しようとする融和策のように見える。季広自身、アイヌの有力者に宝物を与えて歓心を買ったり、不正を働く和人商人を取り締まったりするなど、公正な統治者として振る舞おうとした形跡がある 23

しかし、その本質は、より巧妙な支配体制の構築にあった。この制度の真の狙いは、アイヌが本州の商人と直接自由に交易することを禁じ、全ての交易ルートを蠣崎氏の管理下に置くことで、経済的な主導権を完全に掌握することにあった 7 。アイヌの有力者を体制内に取り込み、利益を分配することで、アイヌ社会の内部から蠣崎氏への反発を抑え込もうとする、高度な間接統治戦略であった。

この体制は、大規模な戦争を抑止する効果はあったものの、新たな火種を生み出すことにもなった。交易を独占されたアイヌは、蠣崎氏や和人商人が提示する不公正な交換レートを受け入れざるを得なくなる 7 。蠣崎氏の目が届かない辺境の地では、和人商人による詐欺や暴力行為が横行したであろうことは想像に難くない。

つまり、 マクロレベルでの「平和」体制の確立が、ミクロレベルでの無数の「紛争」を誘発する という、逆説的な構造が生まれていたのである。1568年は、この体制が定着し、その矛盾が社会の随所に現れ始めていた時期であった。記録に残らない「小戦」は、まさにこの構造的矛盾から生まれた必然的な帰結であった可能性が高い。

第五章:1568年、道南社会の情景

以上の分析を踏まえ、1568年当時の道南社会の様子を、あたかもその場にいるかのように再現してみよう。それは、決して均一な社会ではなく、中心と辺境で「平和」の質が全く異なる、多層的な世界であった。

和人地の中心部(松前・上ノ国)

蠣崎氏の拠点である松前や上ノ国は、統治の中心地として、また交易の中心地として活況を呈していた。本州から津軽海峡を渡ってきた商船が数多く停泊し、米、酒、鉄製品、漆器といった和人の産品が陸揚げされる。それと引き換えに、アイヌが内陸や沿岸部で手に入れたラッコや熊の毛皮、干し魚、昆布といった産物が集積され、再び本州へと運ばれていく 21

ここでは、蠣崎氏による厳格な統制が敷かれている。交易は定められた場所で行われ、価格も蠣崎氏の意向が強く反映される。武士や役人たちが常に目を光らせており、大きな騒乱が起こることはない。一見すると、秩序だった繁栄が実現されているように見える。しかし、その繁栄は、アイヌからの経済的収奪と、彼らの自由な経済活動を制限することによって成り立っている「管理された平和」であった。

和人地の辺境(志苔館周辺)

一方、松前から東へ数十キロメートル離れた志苔館周辺の情景は、全く異なっていた。かつて和人支配の拠点であった館は、今は土塁や堀の跡を残すのみで、風雨に晒されている。蠣崎氏の直接的な統治の力は弱く、和人の居住地も散在している。

しかし、この地が完全に寂れていたわけではない。眼下の志海苔港 15 や周辺の河口は、依然として豊かな漁場であり、和人の漁民とアイヌが日常的に顔を合わせる場所であった。ここでは、松前のような公式の交易ルートを外れた、非公式な物品の交換が行われていたかもしれない。あるいは、サケが遡上する川の漁業権をめぐって、和人とアイヌの間で小競り合いが絶えなかった可能性もある。

蠣崎氏の統制が及びにくいこうした辺境では、和人商人がアイヌを騙して安価で産物を手に入れようとしたり、アイヌの伝統的な領域(イオル)を侵して漁撈や採集を行ったりといった、無法な行為がまかり通っていたであろう。こうした個々のトラブルが、暴力的な衝突、すなわち記録に残らない「小戦」へと発展する土壌は、常に存在していた。

アイヌのコタン(村)の視点

アイヌの側から見れば、蠣崎氏の新たな体制に対する評価は、立場によって大きく分かれていたはずだ。チコモタインのような、体制に取り込まれて経済的利益を得る首長層は、この「平和」を歓迎したかもしれない。

しかし、大多数の一般のアイヌにとっては、交易の自由を奪われ、生活必需品を不利なレートで交換させられる、新たな抑圧の始まりであった 7 。特に、志苔館周辺に住むアイヌは、かつて二度にわたって和人の拠点を打ち破ったという誇りと記憶を持っていた。彼らにとって、横暴な振る舞いをする和人への反発心は根強く、些細なきっかけでその不満が爆発することは十分に考えられた。

このように、1568年の道南社会は、中心における「管理された平和」と、辺境における「緊張をはらんだ無秩序な平和」が併存する、複雑な様相を呈していた。ご依頼の「志苔館周辺小戦」は、まさにこの「辺境の平和」の脆さが露呈した、象徴的な出来事であったと解釈することができる。

第三部:歴史的解釈 ―「志苔館周辺小戦」は存在したか

これまでの分析を通じて、1568年という時代と志苔館という場所が持つ歴史的文脈を明らかにしてきた。最後に、これらの考察を統合し、「志苔館周辺小戦」の存在について、歴史学的な結論を導き出す。

第六章:史料の沈黙が語るもの

特定の歴史的事象の有無を判断する上で、最も重要なのは史料の記述である。この点において、「志苔館周辺小戦(1568)」は、主要な文献史料にその名を残していない。

最大の根拠となる松前藩の正史『新羅之記録』は、1646年に成立したものであり、件の年から約80年後に編纂されている 2 。この史書は、単なる事実の記録ではなく、徳川幕府に対して松前氏による蝦夷地支配の正統性を主張するために作られた、「公式の歴史」としての性格を色濃く持つ 2 。そのため、松前氏の支配が盤石でなかった時代の不都合な事件や、アイヌとの和睦政策が必ずしも順調ではなかったことを示すような小規模な反乱・紛争は、編纂の過程で意図的に省略されたか、あるいは重要でないとして記録されなかった可能性が非常に高い。

『新羅之記録』には、蠣崎氏がアイヌの首長を酒宴に招いてだまし討ちにするなど、その支配の非情さを物語る記述も含まれている 24 。しかし、これらは結果的に蠣崎氏の支配を確立した「成功譚」として描かれている。一方で、和睦政策が破綻しかけたような、支配の汚点となりうる記録は排除されやすい。

また、アイヌ側には文字による記録文化がなかったため、彼らの視点からこの時期の出来事を伝える文献は存在しない。口承叙事詩であるユーカラなどには、和人との戦いの記憶が織り込まれているものもあるが、特定の年月日や場所を歴史的事実として特定することは極めて困難である。

したがって、「史料に記録がない」という事実は、「そのような出来事は一切なかった」という証明にはならない。むしろ、それは松前藩の公式史が描こうとした「平和で安定した支配」のイメージの裏側に、記録からこぼれ落ちた無数の小さな軋轢や衝突が存在したことを示唆している。

第七章:総合的結論

本報告書における全ての分析を総合し、「志苔館周辺小戦(1568)」に関する最終的な見解を以下に提示する。

結論①:名称と年号が特定された組織的な「合戦」は存在しなかった可能性が高い。

『新羅之記録』をはじめとする信頼性の高い史料に一切の記述が見られないこと、1568年時点で志苔館は軍事拠点としての機能を喪失していたと推定されること、そして蠣崎季広の和睦政策によって大規模な武力衝突が抑制されていた状況を鑑み、和人・アイヌ双方の組織的な軍隊が衝突するような、固有名詞で呼ばれるべき「合戦」は存在しなかったと結論付けるのが妥当である。

結論②:しかし、記録に残らない「小戦(=小競り合い)」は発生し得た、むしろ必然であった。

蠣崎氏による交易独占と、それに伴う末端での和人商人による不公正な行為は、アイヌの間に常に不満の火種を燻らせていた 7。特に、蠣崎氏の統制が及びにくい辺境である志苔館周辺においては、漁場や資源の領有をめぐる争い、あるいは交易上の個人的なトラブルが、散発的・偶発的な暴力の応酬に発展することは十分に考えられる。

ご依頼の「志苔館周辺小戦」とは、こうした無数に発生したであろう、しかし歴史の記録には留められなかった局地的な紛争の一つが、何らかの形で(例えば、地域の和人側の伝承や、アイヌの口承伝承として)後世に伝えられたものである可能性が考えられる。

総括:戦国時代の蝦夷地における「戦」の特質

最終的に、「志苔館周辺小戦」というキーワードは、我々に戦国時代の蝦夷地における「戦」の特質を問い直させる。本州の大名間で行われた領土や覇権をめぐる戦争とは異なり、この地における紛争の本質は、和人とアイヌという、異なる文化と経済システムを持つ二つの民族集団間の接触と摩擦にあった。

1568年という時代は、コシャマインの戦いに代表されるような大規模な武力蜂起の時代から、経済的支配と、それに対する日常的かつ局地的な抵抗へと、紛争の形態が質的に変化していく、まさにその過渡期に位置づけられる。

この意味において、「志苔館周辺小戦」は、特定の歴史事件を指す固有名詞としてではなく、この過渡期の複雑で矛盾に満ちた社会状況を象徴する、一つの「歴史の影」として捉えるべきであろう。それは、公式の歴史が語らない、辺境の地で生きた人々のリアルな緊張関係を我々に垣間見せてくれる、貴重な問いかけなのである。

引用文献

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  24. Untitled - アイヌ民族文化財団 https://www.ff-ainu.or.jp/about/files/sem1403.pdf
  25. 蠣崎季広(かきざき すえひろ/蠣崎季繁) 拙者の履歴書 Vol.155~道南に生きた蝦夷の守護 https://note.com/digitaljokers/n/n6be7135702b2
  26. 中近世の蝦夷地 - 北海道デジタルミュージアム https://hokkaido-digital-museum.jp/hokkaido/kaitaku/