志賀城の戦い(1550)
天文16年、武田信玄は志賀城を攻囲。救援に来た上杉憲政軍を小田井原で撃破し、城を陥落。その過酷な戦後処理は、後の「砥石崩れ」の遠因となった。
血戦と遺恨の十七日間:志賀城の戦い(天文十六年)の全貌 ― 武田信玄の冷徹な戦略と「砥石崩れ」への序曲
第一部:序章 - 天文十六年、信濃佐久郡の緊張
戦国時代の信濃国を巡る攻防史において、一つの合戦がその後の戦局に決定的な影響を及ぼし、深い遺恨を残すことがある。天文16年(1547年)に繰り広げられた「志賀城の戦い」は、まさにそのような戦いであった。この戦いは、甲斐の虎・武田晴信(後の信玄)による信濃平定事業の重要な一里塚であると同時に、彼の戦略の冷徹さと、それが引き起こした国人衆の怨嗟を象徴する事件として記憶されている。本稿では、この志賀城の戦いの全貌を、合戦に至る背景から戦闘の推移、そして後世にまで及んだ影響に至るまで、時系列に沿って詳細に解き明かす。
1-1. 年号の特定と「砥石崩れ」との関係性の解明
本合戦を論じるにあたり、まずその年号を正確に特定する必要がある。一般に「1550年」として言及されることがあるが、これは3年後の天文19年(1550年)に武田軍が村上義清に歴史的な大敗を喫した「砥石崩れ(戸石崩れ)」の年号である 1 。志賀城の戦い自体は、『高白斎記』や『勝山記』といった信頼性の高い一次史料に基づき、**天文16年(1547年)**の出来事であることが確定している 4 。
この年号の混同は単なる誤記に留まらない。志賀城の戦いにおける武田軍の勝利と、その後のあまりにも過酷な戦後処理は、信濃の国人たちの心に消しがたい遺恨の火をつけた。この怨念こそが、3年後の砥石城において、武田軍が寡兵の守備隊に攻めあぐね、村上本隊の反撃を受けて壊滅的な敗北を喫する直接的な心理的要因となったのである 6 。すなわち、志賀城での戦術的勝利は、3年後の戦略的敗北の種を蒔くという、皮肉な因果律の中に位置づけられる。この戦いは、後の「砥石崩れ」へと至る物語の序曲であり、両者を一つの連続した出来事として捉えることで、その歴史的意義は初めて明らかになる。
1-2. 甲斐の虎、東へ:武田晴信の信濃侵攻戦略
天文10年(1541年)、父・信虎を追放して家督を継いだ武田晴信は、武田家の対外戦略に大きな転換をもたらした。信虎時代は信濃の佐久郡や小県郡への侵攻を試みていたが、晴信はまず、より豊かで戦略的価値の高い諏訪地方の制圧を第一目標に据えた 3 。天文11年(1542年)、晴信は諏訪頼重を謀略によって滅ぼし、諏訪郡を掌握。この地を信濃侵攻の確固たる拠点とすることに成功した 7 。
諏訪平定後、晴信の目は再び東の佐久郡に向けられた。これは、北信濃に勢力を張る村上義清や、信濃守護として府中(松本)に拠る小笠原長時といった強敵との本格的な対決を前に、後背地の憂いを断つための戦略的布石であった。特に佐久郡は、関東管領・上杉憲政が勢力を持つ上野国(現在の群馬県)と碓氷峠を通じて繋がっており、この連絡路を遮断することは、信濃の反武田勢力が外部からの支援を得る道を閉ざす上で不可欠であった 8 。天文15年(1546年)5月には、佐久の有力国人である内山城主・大井貞清を降伏させ、佐久郡南部における影響力を着実に拡大していた 4 。
1-3. 抵抗の拠点・志賀城と城主・笠原清繁
武田氏の侵攻に対し、佐久郡で最後まで抵抗の意志を崩さなかったのが、志賀城主・笠原清繁(通称:新三郎)であった 9 。志賀城(現在の長野県佐久市志賀)は、標高約877メートルの山頂に築かれた堅固な山城であり、上野国へと通じる碓氷峠に近く、関東からの支援を得やすいという地政学的な利点を持っていた 9 。
城主の笠原清繁は、信濃佐久郡の国人である依田笠原氏の当主で、一説には諏訪氏の一族とも伝わる 6 。彼は武田氏の軍門に降ることを潔しとせず、関東管領・上杉憲政に救援を求め、徹底抗戦の道を選んだ。この決断の背景には、笠原氏が上杉家臣で西上野の菅原城主・高田憲頼と縁戚関係にあったことも大きく影響している 6 。外部からの援軍という具体的な希望が、彼の抵抗を支える最後の砦となっていたのである。
1-4. 斜陽の権威:関東管領・上杉憲政の苦境
笠原清繁が頼みとした関東管領・上杉憲政は、当時、その権威を大きく揺るがせていた。志賀城の戦いの前年、天文15年(1546年)4月、憲政は相模の北条氏康に「河越夜戦」で歴史的な惨敗を喫し、関東における支配力を著しく低下させていたのである 4 。
このような状況下での信濃出兵は、失墜した権威を回復するための危険な賭けであった。家中の重臣、特に知勇兼備で知られた長野業正は、「北条氏康という強敵に加え、武田晴信まで敵に回すのは得策ではない」と強く諫言したと伝えられる 5 。しかし、憲政はこの忠告を退け、出兵を強行する。これは、彼の焦りと、関東管領としての威信を何としても示さねばならないという政治的窮状の表れであった。
この救援軍派遣の決定と、その迎撃戦である「小田井原の戦い」は、単に志賀城の運命を決定づけただけではない。この戦いでの完膚なきまでの敗北は、上杉憲政がもはや関東の秩序維持者としての実力を失ったことを内外に証明する結果となり、関東における北条氏のさらなる台頭を許すことになった。そして、最終的には憲政が越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼って落ち延び、関東管領職を譲渡する遠因ともなったのである 13 。志賀城の戦いは、武田の信濃平定における一戦闘であると同時に、関東の政治地図を塗り替える大きな歴史の転換点に位置づけられるべき事件であった。
第二部:合戦詳報 - 血戦の十七日間(時系列解説)
天文16年(1547年)閏7月、武田晴信は志賀城攻略のため、満を持して甲府を発した。ここから約17日間にわたる攻防戦は、武田軍の周到な戦略と、籠城側の絶望的な抵抗、そして運命を分けた救援軍の壊滅という劇的な展開を辿ることになる。以下に、史料に基づき、その詳細な経過を時系列で追う。
【重要資料】志賀城の戦い タイムライン表
本合戦の全体像を俯瞰するため、主要な出来事を時系列で整理した表を以下に示す。これにより、複雑な戦闘の推移を明確に把握することができる。
日付(天文16年) |
時刻(旧暦) |
出来事 |
主な関連人物 |
参照史料 |
閏7月9日 |
- |
武田軍先手(大井貞清ら)が甲府を出陣 |
大井貞清 |
『高白斎記』 14 |
閏7月12日 |
- |
武田晴信、本隊を率いて甲府を出陣 |
武田晴信 |
『高白斎記』 14 |
閏7月20日 |
- |
武田本隊、桜井山(臼田町)に着陣 |
武田晴信 |
『高白斎記』 14 |
閏7月24日 |
卯の刻~午の刻 |
志賀城への総攻撃開始、城を完全包囲 |
武田晴信、笠原清繁 |
『高白斎記』 12 |
閏7月25日 |
未の刻 |
金堀衆が城の水の手(水源)を破壊 |
- |
『高白斎記』 4 |
8月上旬(推定) |
- |
上杉憲政、救援軍の派遣を決定 |
上杉憲政、金井秀景 |
『関八州古戦録』 5 |
8月6日 |
卯の刻~申の刻 |
小田井原の戦い 。武田別動隊が上杉救援軍を撃破 |
板垣信方、甘利虎泰 |
『高白斎記』 5 |
8月7日 |
- |
武田軍、討ち取った首級を志賀城下に陳列 |
山本勘助(伝) |
『妙法寺記』 5 |
8月10日 |
午の刻、子丑の刻 |
武田軍総攻撃。外曲輪、二の曲輪が炎上 |
- |
『高白斎記』 12 |
8月11日 |
午の刻 |
本丸陥落。笠原清繁・高田憲頼ら討死 |
笠原清繁、荻原昌明 |
『高白斎記』 6 |
閏七月二十四日:包囲網完成
閏7月12日に甲府を出立した武田晴信の本隊は、20日に志賀城に近い桜井山城(現在の長野県佐久市臼田)に着陣した 14 。周到な準備の後、閏7月24日の卯の刻(午前6時頃)から午の刻(正午頃)にかけて、志賀城への本格的な攻撃が開始され、城は武田の大軍によって完全に包囲された 12 。籠城側の兵力は、笠原勢に加え、縁戚である高田憲頼が率いてきた上野の兵を合わせても、武田軍に比べて圧倒的に少数であったと推測される 11 。
閏七月二十五日:生命線を断つ
包囲開始の翌日、武田軍は力攻めと並行して、城の弱点を突くための巧みな作戦を実行した。未の刻(午後2時頃)、武田軍に所属する鉱山採掘の専門家集団「金堀衆」が、城の生命線である水源(水の手)を発見し、これを断つことに成功した 4 。堅固な山城といえども、水の供給を絶たれれば長期の籠城は不可能となる。この一撃は、籠城兵の士気に深刻な打撃を与え、志賀城は早くも窮地に陥った。
八月六日:運命の分水嶺「小田井原の戦い」
城内で絶望的な状況が続く中、笠原清繁らが唯一の希望としていた上杉憲政の救援軍が、ついに碓氷峠を越えて信濃国内へと進軍してきた。しかし、この動きは武田晴信の想定の範囲内であった。
救援軍の進発
上杉憲政は、重臣・長野業正の諫言を振り切り、金井秀景を大将とする西上野衆を救援として派遣した 5 。その兵力については諸説あるが、武田方を上回る大軍であったとも伝えられる。彼らは関東管領の威信をかけ、志賀城の解放を目指した。
武田軍の迎撃
一方、晴信の対応は迅速かつ的確であった。彼は志賀城の包囲を一部の部隊に任せると、自軍の主力から精鋭を選りすぐり、譜代の重臣である板垣信方と甘利虎泰を大将とする別動隊を編成。これを救援軍の迎撃に向かわせた 4 。全軍を動かすのではなく、機動力のある別動隊で叩くという判断は、晴信の卓越した戦術眼を示すものであった。
戦闘経過
天文16年8月6日、卯の刻(午前6時頃)、両軍は小田井原(現在の長野県北佐-郡御代田町)で激突した 4 。戦いの詳細は不明な点も多いが、結果は武田軍の一方的な圧勝であった。『高白斎記』には、この戦いが申の刻(午後4時頃)まで続き、関東勢は多数が討ち取られたと記されている 13 。武田軍は敵将14、5名を討ち取り、討ち取った首級は3000にも上ったと伝えられる 4 。数に勝るとも言われた上杉救援軍は、歴戦の武田軍の前に組織的な抵抗もできずに潰走し、壊滅した。
八月七日:絶望の光景
小田井原での勝利の後、武田晴信は戦国史上でも類を見ない、冷酷非情な心理戦を実行する。城内から救援軍の到着を今か今かと待ちわびていた笠原勢の目の前に、翌8月7日の朝、信じがたい光景が広がった。
武田軍は、前日の戦いで討ち取った敵兵3000の首級を、志賀城から見下ろせる場所に持ち込み、槍先に掲げ、あるいは棚にずらりと並べて陳列したのである 4 。『妙法寺記』は、「此の首をシガ城を廻り悉く御掛け候。是を見て要害の人数も力を失い候。(これらの首を志賀城の周りにことごとく掛けた。これを見て城内の者たちは力を失った)」と、その時の様子を生々しく伝えている 13 。味方の無残な姿と、救援の望みが完全に断たれたという厳然たる事実を突きつけられた籠城兵の士気は、完全に崩壊した。
八月十日~十一日:落城
城兵の戦意を根こそぎ奪った武田軍は、8月10日、総攻撃を再開した。午の刻(正午頃)に外曲輪が、子丑の刻(午前2時頃)には二の曲輪が次々と焼き落とされた 4 。もはやこれまでと覚悟を決めた城主・笠原清繁は、援軍に来ていた高田憲頼父子らと共に、城門を開いて最後の突撃を敢行したという説もある 13 。
しかし、衆寡敵せず、翌8月11日の午の刻(正午頃)、ついに本丸は陥落。城主・笠原清繁は武田家臣の荻原昌明に討ち取られ、その二人の息子、そして高田憲頼父子もまた、この地で壮絶な討死を遂げた 4 。享年33であった 6 。こうして、17日間にわたる凄惨な攻防戦の末、志賀城は落城した。
第三部:戦後処理 - 勝者の論理と敗者の末路
志賀城の陥落後、武田晴信が下した処置は、戦国時代の慣習を考慮しても、際立って過酷なものであった。それは、敵対者への徹底的な見せしめであると同時に、信濃平定事業における経済的側面をも考慮した、極めて冷徹な「勝者の論理」に基づいていた。この戦後処理こそが、後に深い遺恨を生む直接の原因となる。
3-1. 城主一族の最期と武田軍の論功行賞
城主であった笠原清繁は、二人の息子と共に討死し、依田笠原氏の嫡流は事実上ここで断絶した 13 。また、救援に駆けつけ、最後まで運命を共にした上野の高田憲頼とその息子も討ち取られ、志賀城と共に散った 10 。
この戦いにおける武田軍の勝利は、参戦した将兵に恩賞として分配された。特に、敵将の首級や捕虜、そして占領地などが論功行賞の対象となった。中でも、後述する笠原清繁の夫人は、戦功著しかった武将への「褒美」として与えられることとなる。
3-2. 「乱取り」の実態:人身御供とされた人々
武田軍による戦後処理で最も悲惨であったのは、城内に籠城していた非戦闘員に対する扱いであった。『勝山記』などの史料によれば、武田軍は佐久郡において大規模な「乱取り(人狩り)」を行い、志賀城に立て籠もっていた兵士の家族、女性や子供、さらには城下に避難していた領民までもが生け捕りにされた 6 。
彼らは奴隷として甲斐国へと連行され、人身売買の対象とされた。甲斐に縁者を持つ者は、身代金を支払うことで身柄を請け戻すことが許されたが、その金額は2貫文から10貫文(現在の価値で数十万から百万円以上)という、一般庶民には到底支払えない高額なものであった 6 。結果として、身請けされなかった多くの人々は、人買いに売り払われるか、武田家の奴隷として過酷な労働に従事させられる運命を辿った。この処置は、敵対勢力の人的資源を根絶やしにすると同時に、戦争の「収益」を最大化しようとする晴信の冷徹な経済感覚をも示している。
3-3. 悲劇のヒロイン:笠原清繁夫人のその後
捕虜とされた人々の中でも、特に悲劇的な運命を辿ったのが、美貌で知られた笠原清繁の夫人であった。彼女は、この戦いで功績のあった甲斐都留郡の領主・小山田信有(出羽守)に「褒美」として与えられ、彼の側室となることを強要された 6 。一説には、小山田が20貫文で彼女を買い取ったともいう 17 。
彼女は故郷を遠く離れた小山田氏の本拠地・駒橋(現在の山梨県大月市)へと送られた。その悲劇は後世の人々の同情を深く集め、江戸時代に編纂された『甲斐国志』にまで、彼女にまつわる伝承や哀れな童謡が残されていることが記されている 6 。一人の女性の悲運は、この合戦の非情さを象徴する物語として、長く語り継がれることとなった。
第四部:歴史的考察 - 志賀城の戦いが残した遺恨
志賀城の戦いは、単に一つの城が落ち、一つの国人領主が滅んだというだけの出来事ではない。この戦いとその後の過酷な処置は、信濃の政治情勢に大きな変動をもたらし、後の戦国史を左右する重要な伏線となった。武田晴信の冷徹な戦略がもたらした短期的な勝利は、長期的な視点で見れば、新たな、そしてより困難な戦いを呼び込む原因となったのである。
4-1. 遺恨の連鎖:「砥石崩れ」(1550年)への伏線
本稿で繰り返し指摘してきたように、志賀城の戦いが残した最大の遺産は「遺恨」であった。首級の晒し首や、女子供を含む領民の人身売買といった常軌を逸した処置は、恐怖による支配を意図したものであったが、それは同時に信濃の国人衆の間に武田氏への強烈な憎悪と復讐心を植え付けた 6 。
この遺恨が爆発したのが、3年後の天文19年(1550年)9月の「砥石崩れ」である。当時、信濃平定の総仕上げとして村上義清の支城・砥石城に攻めかかった晴信は、わずか500名の城兵を相手に、7000ともいわれる大軍をもってしても攻めあぐねるという異常事態に直面した 1 。この時の砥石城の守備兵には、志賀城の戦いの生き残りや、家族を殺され、あるいは奴隷として奪われた縁者が多数含まれていたと伝えられる 6 。彼らは復讐心に燃え、死を恐れぬ頑強な抵抗を見せた。武田軍がこの予期せぬ抵抗に疲弊したところを、村上義清の本隊に背後から強襲され、横田高松をはじめとする多くの将兵、一説には1000人もの死者を出すという、晴信生涯最悪ともいえる大敗を喫したのである 2 。志賀城で蒔かれた憎しみの種は、3年の時を経て、砥石城下で武田軍の血を吸って咲いたと言えよう。
4-2. 信濃平定と川中島の戦いへの道
一方で、志賀城の陥落が武田氏の信濃平定を大きく前進させたことも事実である。この勝利により、武田氏は佐久郡を完全に制圧し、上野国との連絡路である碓氷峠口を確保した 4 。これにより、信濃における最大の敵対勢力であった村上義清は、関東管領からの支援ルートを断たれ、戦略的に孤立することになった。
この後、晴信は西の小笠原長時を破って府中を制圧し(天文19年)、ついに村上義清との直接対決に臨む。砥石崩れという手痛い敗北はあったものの、真田幸隆の調略によって砥石城を落とすと、天文22年(1553年)には村上氏の本拠・葛尾城を攻略し、義清を越後へと追いやることに成功した 3 。そして、越後の長尾景虎(上杉謙信)が義清を庇護したことから、両雄の永きにわたる宿命の対決、「川中島の戦い」の幕が切って落とされるのである 13 。その意味で、志賀城の戦いは、村上氏を孤立させ、信玄と謙信の対決構造を生み出す上で、決定的な役割を果たした前哨戦であったと位置づけることができる。
4-3. 結論:志賀城の戦いが戦国史に刻んだもの
志賀城の戦いは、武田信玄という戦国武将の二面性、すなわち、卓越した軍事・戦略的才能と、目的のためには手段を選ばない非情さを、鮮烈に映し出す合戦であった。彼は周到な準備と迅速な判断で敵の救援を断ち、堅城を陥落させる見事な手腕を示した。しかしその一方で、戦後の処置においては、敵対勢力の戦意を根こそぎ奪うため、人間性を度外視したともいえる残虐な手段を躊躇なく用いた。
この戦いは、短期的な軍事的勝利が、いかにして長期的な遺恨を生み、予期せぬ手痛い敗北を招きうるかという、歴史の普遍的な教訓を我々に示している。志賀城の悲劇は、単なる一地方の攻防戦に留まらず、武田信玄の信濃平定という大事業の転換点となり、さらには関東の勢力図の変化、そして川中島の戦いへと連なる、戦国史の大きな潮流を形作る重要な一要素となったのである。血と涙、そして深い遺恨の上に築かれた信玄の覇業の一端を、この戦いは雄弁に物語っている。
引用文献
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- 小田井原の戦い - 箕輪城と上州戦国史 - FC2 https://minowa1059.wiki.fc2.com/wiki/%E5%B0%8F%E7%94%B0%E4%BA%95%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
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- 武田信玄の信濃侵攻① ~諏訪への侵攻~ | 歴史の宮殿 https://histomiyain.com/2018/01/03/post-137/
- 武田信玄の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7482/
- 笠原新三郎首塚 - 恨みを飲んだ将の首塚の怪 - 日本伝承大鑑 https://japanmystery.com/nagano/kasahara.html
- 信濃 志賀城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/shinano/shiga-jyo/
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- 武田晴信の志賀城攻め&人身売買 - 箕輪城と上州戦国史 https://minowa1059.wiki.fc2.com/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E6%99%B4%E4%BF%A1%E3%81%AE%E5%BF%97%E8%B3%80%E5%9F%8E%E6%94%BB%E3%82%81%EF%BC%86%E4%BA%BA%E8%BA%AB%E5%A3%B2%E8%B2%B7
- 悲劇の城・志賀城跡2 志賀城の戦い・・・ | オコジョの散歩道 浅間を仰ぎながら https://eiwc2678zy1m.fc2.net/blog-entry-2510.html
- らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~ - 志賀城 (佐久市志賀) - FC2 https://ranmaru99.blog.fc2.com/blog-entry-544.html
- 志賀城 - DTI http://www.zephyr.dti.ne.jp/bushi/siseki/shiga.htm
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- 武田信玄の信濃侵攻⑥ - 歴史の宮殿 https://histomiyain.com/2018/02/28/post-301/
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- 甲斐武田氏-戦った戦国大名- - harimaya.com http://www2.harimaya.com/takeda/html/t_arasou.html