応仁の乱(1467~77)
応仁・文明の大乱 ― 戦国乱世を拓いた十一年間の軌跡
序章:混沌への序曲
大乱前夜の室町幕府:脆弱化する権威と社会の軋轢
応仁・文明の乱(以下、応仁の乱)として知られる11年間の大乱は、突如として歴史の舞台に現れたわけではない。その根は、室町幕府が内包していた構造的脆弱性と、15世紀半ばの日本社会が直面していた深刻な軋轢の中に深く張られていた。
幕府権威の動揺を決定づけたのは、1441年の嘉吉の乱である。6代将軍足利義教が守護大名である赤松満祐に暗殺されるというこの未曾有の事件は、将軍の権威が絶対的なものではないことを天下に示し、幕府の求心力を著しく低下させた 1 。義教亡き後、幼少の将軍が続いたことで、幕政は有力守護大名たちの合議制、あるいは権力闘争の場へと変質していく 2 。将軍はもはや絶対的な調停者ではなく、有力大名間の勢力均衡の上に立つ不安定な存在となり、これが後にあらゆる紛争を武力解決へと向かわせる温床となった。
社会経済的な側面を見れば、当時の日本は深刻な不安に覆われていた。相次ぐ天候不順による飢饉は民衆の生活を直撃し、各地で土一揆や徳政一揆が頻発していた 1 。これは、既存の荘園公領制という支配体制に対する民衆の不満が、もはや抑えきれないレベルに達していたことの証左である。社会の底流では、旧来の秩序に対する不信感が渦巻いていた。
本報告書が描き出す「生きた歴史」としての大乱の全体像
応仁の乱は、しばしば8代将軍足利義政の後継者争いが原因であると単純化して語られる。しかし、それは大乱の複雑な全体像の一面に過ぎない。実際には、将軍家の継嗣問題、管領家である畠山氏・斯波氏の家督争い、そして幕府の主導権を巡る二大有力大名、細川勝元と山名宗全の覇権争いという、複数の紛争が連鎖的に絡み合った複合的災害であった 2 。
本報告書は、この11年間にわたる戦乱の軌跡を時系列に沿って詳細に追うことで、そのダイナミズムを再現することを試みる。そして、単なる権力闘争の記録に留まらず、この戦いが武士、公家、僧侶、そして民衆に至るまで、社会のあらゆる階層に何をもたらしたのかを明らかにする。応仁の乱は、室町幕府という一つの「システム」が限界に達し、構造的に破綻した瞬間の記録である。単独相続制への移行が激化させた家督争いの圧力 2 、守護代や国人といった中間層の台頭による地方の自立化の動き 5 は、もはや幕府の統制能力を超えていた。その意味で、この大乱は新たな時代の到来を告げる「産みの苦しみ」であり、来るべき「戦国」という時代を不可逆的に準備した、日本史の巨大な分水嶺であった。本報告書は、その過程を徹底的に解き明かすことを目的とする。
第一部:大乱の胎動 ― 紛争の火種はいかにして燎原の火となったか
応仁の乱の勃発は、単一の原因によるものではなく、複数の火種が相互に影響し合い、燃え広がった結果であった。将軍家の内紛、名門守護家の分裂、そして幕府を支える二大巨頭の対立。これら三つの要素が、いかにして京都を焼き尽くす大火へと発展したのかを検証する。
第1章 将軍家の継嗣問題:足利義政の優柔不断と日野富子の役割
足利義政の人物像と政治的資質
大乱勃発時の将軍、8代足利義政は、本質的に政治家よりも芸術家であった。彼は政務への関心を次第に失い、後に東山文化として結実する水墨画や庭園作庭といった芸術活動に没頭した 6 。この政治的無関心は、彼の優柔不断な性格と相まって、幕府が直面する諸問題の解決を著しく困難にした。特に、畠山氏や斯波氏の家督争いにおいて、義政の裁定は二転三転し、対立を鎮めるどころか、むしろ憎悪を煽る結果を招いた 2 。絶対的な調停者たるべき将軍がその役割を果たせなかったことが、全ての紛争が武力に訴える形で解決を求められる素地を形成した。
後継者問題の発生
長らく男子に恵まれなかった義政は、1464年、仏門にあった弟の義尋を還俗させ、足利義視と名乗らせて自らの後継者に指名した 9 。このとき、管領であった細川勝元が義視の後見人となったことは、極めて重要な意味を持つ 11 。これにより、次期将軍は「細川派」であると見なされ、後の対立構造の明確な伏線が引かれたのである。
足利義尚の誕生と日野富子の動向
ところが翌1465年、義政と正室・日野富子の間に待望の男子、義尚が誕生する。これにより、後継者問題は一気に複雑化した。後世に成立した軍記物語『応仁記』などでは、富子が我が子・義尚を将軍に据えるべく、山名宗全と結託して義視の排斥を画策した「悪女」として描かれることが多い 9 。
しかし、近年の研究では、この通説に疑問が呈されている。富子の実家である日野家は代々幕府の財政を担っており、富子自身も政治から逃避する夫に代わって、破綻寸前の幕府財政を切り盛りする現実的な政治家としての一面を持っていた 7 。彼女の行動は、単なる母性だけでなく、機能不全に陥った幕府という組織を内部から支えようとする強い危機感に根差していた可能性も指摘されている 15 。彼女は、義尚を将軍にすることが、不安定化した幕府を再建する道だと信じていたのかもしれない。
第2章 名門の亀裂:畠山氏・斯波氏における家督争いの激化
将軍家の継嗣問題と並行して、幕府の屋台骨である三管領家のうち、畠山氏と斯波氏でも深刻な内紛が進行していた。
畠山氏の内訌
河内・紀伊などを領する畠山氏では、当主の畠山持国が、一度は後継者とした甥の政長と、後に生まれた実子の義就との間で後継者指名を巡って揺れ動き、家中は政長派と義就派に真っ二つに分裂した 2 。この争いに介入した将軍義政は、当初義就を支持し、次に政長を支持するなど裁定を覆し続けた。この一貫性のない介入が、両者の対立を私闘の域を超えた、幕府公認の紛争へと格上げしてしまった 2 。
斯波氏の混迷
越前・尾張などを領する斯波氏においても、当主の座を巡って斯波義敏と斯波義廉が激しく争い、ここでも幕府の介入が混乱を助長した 1 。
これらの家督争いは、単なる一族内の問題では収まらなかった。幕府内での影響力拡大を狙う細川勝元が畠山政長・斯波義敏を支援し、それに対抗する山名宗全が畠山義就・斯波義廉を支援したことで、両家の内紛は、細川・山名両陣営による代理戦争の様相を呈していった 2 。各家の当事者たちは、自らの正当性を担保し軍事的に勝利するために、中央の最大権力者である細川か山名のどちらかに与する必要があった。逆に、細川・山名も相手方より優位に立つため、これらの家督争いを自陣営に有利な駒として利用した。この相互依存的な関係が、問題を解決不可能なまでに複雑化させたのである。
第3章 両雄の相克:細川勝元と山名宗全、避けられなかった権力闘争
応仁の乱の対立構造を最終的に規定したのは、細川勝元と山名宗全という二人の実力者の対立であった。
協力から対立へ
勝元は宗全の養女を正室に迎えるなど、両者は当初、縁戚関係にもある協力者であった 2 。しかし、嘉吉の乱で没落した赤松氏の旧領を巡る問題が、両者の間に亀裂を生じさせる。勝元が赤松政則による旧領回復を支援したのに対し、赤松氏の旧領の一部を支配していた宗全はこれに猛反発した 1 。さらに、前述の畠山・斯波両氏の家督争いでそれぞれ対立する派閥を支援したことで、幕府の主導権を巡る両者の対立は決定的なものとなった 2 。
文正の政変(1466年)
大乱前夜の1466年、将軍側近の伊勢貞親らが足利義視の排斥を画策する「文正の政変」が起こる。この時、勝元と宗全は共通の敵を排除するため一時的に協力し、貞親らを失脚に追い込んだ 3 。しかし、この政変は皮肉な結果をもたらす。将軍親政派という両者の間に存在した緩衝材が取り除かれたことで、勝元と宗全の権力闘争が幕政の前面に剥き出しの形で現れることになったのである 8 。
この政変は、応仁の乱における「最後の安全装置」が外れた瞬間と位置づけられる。将軍義政が自らの側近すら守れなかった事実は、彼がもはや両雄をコントロールできない無力な存在であることを天下に示し、武力衝突への最後の心理的障壁を取り払った。両者は自らの手で、破局へと至る道を切り開いてしまったのである。
第二部:炎上する首都 ― 時系列で辿る応仁・文明の乱
複雑に絡み合った対立の火種は、ついに京都の市中で爆発し、11年間にわたる大乱の幕を開けた。ここでは、刻一刻と変化する戦況を時系列に沿って追い、首都が焦土と化していく過程を詳述する。
【表1】応仁の乱 東西両軍 勢力比較表
項目 |
東軍 |
西軍 |
総大将 |
細川勝元 |
山名宗全(持豊) |
名目上の総大将 |
足利義政(8代将軍)、足利義尚(9代将軍) |
足利義視(義政の弟、後に合流) |
主要参加大名(開戦時) |
細川氏一門、畠山政長、斯波義敏、京極持清、赤松政則、武田信賢など |
山名氏一門、畠山義就、斯波義廉、一色義直、六角高頼、土岐成頼など |
推定兵力 |
約16万 |
約11万(後に大内政弘の数万が加わる) |
本陣の位置 |
細川勝元邸(現・上京区)、花の御所(将軍御所)を確保 |
山名宗全邸(現・西陣)、五辻通大宮東 |
注:兵力は『応仁記』に基づくもので、誇張が含まれる可能性がある 10 。本陣の位置は、東軍が室町通沿いの花の御所を中心に布陣したことから「東陣」、西軍が堀川通沿いの山名邸を中心に布陣したことから「西陣」と呼ばれた 20 。
第1章 応仁元年(1467):戦端開かる
1月:御霊合戦 ― 最初の火花
応仁の乱の直接的な戦端は、畠山氏の私闘として切られた。1月17日深夜、管領を罷免され追い詰められた畠山政長は、自らの邸宅に火を放つと、約2,000の兵を率いて上御霊神社に布陣した 16 。翌18日、ライバルの畠山義就が3,000余の兵でこれを攻撃。戦闘は終日に及んだ 24 。
この時、将軍義政はこれをあくまで畠山家の私闘とし、諸大名に介入を禁じる。細川勝元はこの命令を忠実に守り、同盟者である政長に援軍を送らなかった。一方、山名宗全は将軍命令を公然と無視し、義就に兵を送って加勢した 23 。結果、政長軍は敗走。勝元は「味方を見捨てた」と武将としての面目を失ったが、この屈辱と宗全の露骨な挑戦が、彼に全面戦争を決意させた 2 。
5月:上京の戦い ― 全面市街戦へ
御霊合戦後、両陣営は京都へ続々と兵力を集結させた。5月、細川勝元は先手を打ち、将軍義政が居住する花の御所を占拠。将軍と天皇を自陣営に取り込むことで「官軍」の立場を確保した 16 。これに対し、山名宗全は自邸を中心に西側に陣を敷き、ここに「東軍」「西軍」の呼称が定着する 10 。
5月26日早朝、東軍が西軍の諸陣地へ総攻撃を開始。一条大宮の細川勝久邸や、大名屋敷が密集する上京(かみぎょう)一帯が主戦場となった 24 。公家や武士の壮麗な邸宅が立ち並ぶ都大路は、史上初めて本格的な市街戦の舞台となり、戦国の世の到来を告げる鬨の声が響き渡った。
8月~9月:大内政弘の上洛と戦局の転換
開戦当初、戦況は一進一退であったが、秋にかけて西軍に強力な援軍が到着する。周防・長門など西国6ヶ国の守護であり、日明貿易を掌握する実力者、大内政弘が数万(一説に3万)の大軍を率いて海路を東上し、西軍に合流したのである 2 。これにより西軍の兵力は東軍を凌駕し、戦局は一気に西軍優位へと傾いた。
10月:相国寺の戦い ― 史上最大級の市街戦
兵力で優位に立った西軍は、東軍への総攻撃を開始する。その最大の激戦地となったのが、花の御所の東隣に位置する禅刹・相国寺であった 24 。10月3日、畠山義就、大内政弘らを主力とする西軍が、相国寺に陣取る東軍部隊に襲いかかった。両軍合わせて数万の兵が、寺の境内や周辺の邸宅地で激突。東軍は火を放って西軍の突撃を防ごうとし、京都北部はたちまち炎に包まれた。この戦いで相国寺の七重塔をはじめ、多くの堂宇や周辺の邸宅が灰燼に帰した 24 。
戦闘は2日間に及び、双方に数千人の死傷者が出た。結果は痛み分けに終わったが、この戦いによる消耗は両軍ともに激しく、これ以降、京都でこれほど大規模な会戦が行われることはなくなった。戦いは、決定打を欠いたまま長期的な膠着状態へと移行していく 24 。
第2章 応仁二年~文明四年(1468-1472):泥沼化する戦線
相国寺の戦いを境に、京都での戦いは様相を変えた。大規模な野戦は影を潜め、小規模な衝突、夜襲、放火、そして敵の兵糧を断つための補給路攻撃が日常となった 8 。この泥沼の戦況の中で、戦争の目的そのものが変質し、戦火は全国へと拡大していく。
戦線の膠着とゲリラ戦の日常化
戦線は堀川や小川を挟んで膠着し、両軍は防御陣地を固めて睨み合った。この市街地での消耗戦において、主役となったのは正規の武士ではなく、臨時に雇われた足軽たちであった 1 。彼らはその機動力を活かし、敵陣への放火や略奪といったゲリラ戦術を展開し、組織的な戦闘よりも無秩序な破壊が横行するようになった 26 。都は、もはや戦場であると同時に、無法地帯と化した。
足利義視の西軍参加(1468年)
戦局をさらに複雑にしたのが、足利義視の動向であった。東軍の総大将として擁立されていた義視であったが、兄・義政や日野富子との関係が悪化し、軍内での立場を失っていく。身の危険を感じた義視は、応仁2年(1468年)に京都を脱出して伊勢へ出奔。その後、山名宗全の迎えに応じて西軍に合流した 1 。
これにより、西軍は単なる反乱軍ではなく、「もう一人の将軍候補」を擁する正統な勢力であると主張する大義名分を得た。西軍は義視を将軍として「西幕府」とも言うべき体制を整え、ここに日本は二つの幕府が並立する異常事態に陥る 1 。戦争の目的は、当初の家督争いから「どちらの幕府が正統か」というイデオロギー闘争の側面を強め、和睦による終結を一層困難にした。
戦火の全国への拡大
大名たちが京都での戦いに釘付けになっている間、彼らの領国は統治の空白地帯となった。この機を逃さず、各地で守護の権威に挑戦する動きが活発化する 5 。
摂津、河内、近江といった畿内周辺では、両軍に属する国人領主たちの間で激しい戦闘が繰り返された。特に西軍の大内政弘は、数万の軍勢を維持するための兵站線確保が死活問題であり、補給拠点である兵庫を巡って東軍と熾烈な攻防を繰り広げた 24 。
地方における最も象徴的な出来事が、越前で起こった。東軍に属していた斯波氏の守護代・朝倉孝景は、主君である斯波義敏と対立すると、文明3年(1471年)に西軍へ寝返り、実力で義敏らを越前から追放。ついには幕府から越前守護に任じられるに至った 1 。家臣が主君を倒し、その地位を奪う「下剋上」の典型例であり、応仁の乱がもはや京都だけの内乱ではなく、日本社会の構造そのものを揺るがす全国規模の内戦へと変貌したことを示している 10 。
第3章 文明五年~文明九年(1473-1477):終焉への道
長期化する戦乱は、当事者たちの気力と体力を蝕んでいった。戦争を牽引してきた指導者たちの死を契機に、厭戦気運が急速に高まり、大乱は終息へと向かう。
指導者の相次ぐ死(1473年)
文明5年(1473年)3月18日、西軍総大将の山名宗全が陣中で病死する。享年70 27 。その死から2ヶ月も経たない5月11日、あたかも後を追うように、東軍総大将の細川勝元も病に倒れた。享年44 27 。大乱を始めた二人の巨頭が相次いで世を去ったことで、戦争を継続するための強力な政治的意志とリーダーシップが失われた。これを機に、両軍の間には急速に厭戦気分が漂い始める 10 。
厭戦気運と和平交渉
跡を継いだ細川政元(勝元の子)と山名政豊(宗全の孫)の間で、和睦交渉が進められた 27 。しかし、大乱はもはや総大将個人の意志でコントロールできるものではなくなっていた。戦争の継続によって自らの目的(旧領回復や領国支配の確立)を果たそうとする者たち、特に河内での戦いを続ける畠山義就や、播磨の支配権を巡って山名氏と争う赤松政則らが和平に強く抵抗したため、全面的な終結には至らなかった 2 。
大内政弘の帰国と西軍の瓦解(1477年)
膠着状態を最終的に打破したのは、軍事的な要因であった。西軍最大の兵力を提供していた大内政弘は、10年近くに及ぶ長期の在京により、本国である周防・長門の情勢が不安定化することを深く憂慮していた 1 。これ以上の駐留は国益に反すると判断した政弘は、文明9年(1477年)、ついに全軍を率いて領国へと引き上げた。
西軍は、その戦力の中核を失い、組織的な抵抗はもはや不可能となった。これを好機と見た諸大名も、相次いで京都を離れ、自領へと帰国していく。9月には畠山義就が主戦場を河内へ移すため京都を去り 27 、11月には足利義視も土岐成頼に奉じられて美濃へ下った 27 。こうして西軍は事実上解体され、11年間にわたり首都を舞台とした大乱は、明確な勝者が決まらないまま、自然消滅という形で幕を閉じた。
この終結の仕方は、応仁の乱の本質を象徴している。乱の主体はもはや総大将ではなく、参加する各武将の個別の利害に分散していた。彼らにとって京都での勝敗は二の次であり、大乱という「秩序が崩壊した状態」そのものが、自らの野心を実現する好機だった。したがって、乱の終結は「和平」によるものではなく、最大の軍事力を提供していた大内氏の合理的な経営判断による「軍事バランスの崩壊」がもたらした、極めて現実的な帰結だったのである。
第三部:戦争と社会の変貌
応仁の乱は、単なる武士階級の権力闘争に留まらなかった。その長期にわたる市街戦は、戦いのあり方そのものを変え、社会の基層にまで深刻な影響を及ぼした。破壊の担い手として新たな階層が登場する一方、民衆は自衛のために立ち上がり、新たな社会秩序を模索し始めた。
第1章 戦場の主役、足軽:新たな戦術と破壊・略奪の実態
足軽の台頭
応仁の乱の戦場風景を、それ以前の合戦と大きく異ならしめたのは、「足軽」と呼ばれる新たな兵種の登場であった 28 。彼らは特定の主人を持たない傭兵的な歩兵であり、その多くは飢饉で土地を離れた農民や、ならず者たちで構成されていた 1 。甲冑も着けない軽装で、戦場を身軽に駆け回ることからその名がついたとされる。
戦術の変化
足軽の大量動員は、戦術に革命をもたらした。武士による名誉を重んじた一騎打ちに代わり、足軽が用いる長い槍での集団戦法が戦闘の主役となった 30 。また、彼らはその機動力を活かして、市街地での放火、後方攪乱、補給部隊への奇襲といったゲリラ戦を得意とした 31 。関東の武将・太田道灌は、いち早く足軽の組織的運用の重要性に着目し、「足軽軍法」と呼ばれる戦術を編み出したとされ、その後の戦国時代の戦い方に大きな影響を与えた 31 。
破壊と略奪の担い手
足軽たちにとって、戦場は「稼ぎの場」であった。彼らに支払われる報酬はごくわずかであり、その主な収入源は戦場での略奪行為(乱取り)であった 26 。この略奪は、大名たちによって半ば公然と黙認、あるいは奨励されていた。兵士の士気を維持し、不足しがちな兵糧を現地調達する、極めて合理的な戦術の一環でもあったからである 33 。
その結果、京都の街は徹底的な破壊に晒された。足軽たちは敵味方の区別なく寺社仏閣や民家に押し入り、食料や財宝はもちろんのこと、仏像、建具、果ては建物の柱や屋根板まで、金目の物は何でも剥ぎ取っていった 29 。彼らの無慈悲な破壊と略奪が、京都の荒廃を決定的なものにしたのである。
第2章 荒廃する都と頻発する一揆
京都の壊滅的被害
11年間の戦火が止んだ時、かつて壮麗を誇った都の姿は見る影もなかった。特に主戦場となった上京は、ほぼ全域が焼け野原と化した 6 。花の御所と呼ばれた将軍邸、相国寺、妙顕寺をはじめとする数えきれないほどの寺社仏閣、そして公家や武家の邸宅が焼失し、貴重な古典籍や美術品の多くが永遠に失われた 24 。乱の直前に15万人と推定される京都の人口も、戦火を逃れて地方へ避難した者や、戦闘・飢餓・疫病で命を落とした者により、激減したと考えられている 37 。
土一揆・徳政一揆の激化
大乱による統治機構の麻痺は、社会の底辺でくすぶっていた不満を爆発させた。乱以前から頻発していた農民による土一揆は、権力の空白に乗じてさらに規模を拡大し、組織化していく 38 。
その最も先鋭的な現れが、乱終結後の文明17年(1485年)に起こった「山城の国一揆」である。南山城の国人衆と農民が一体となって蜂起し、この地で依然として戦闘を続けていた畠山義就・政長両軍に対し、国外退去を要求。これを実力で成し遂げた後、彼らは「国掟」を定めて、実に8年間にもわたり守護のいない自治共同体を運営した 39 。これは、武士階級の支配を民衆が自らの力で排除した、日本史上画期的な出来事であった。
惣村の自治と武装化
応仁の乱は、日本の民衆に「権力は真空を嫌う」という事実と、「自らの力で地域を統治できる」という成功体験を同時に与えた。戦乱から村の生活と財産を守るため、村落では「惣(そう)」と呼ばれる地縁的な自治組織が急速に発達した 41 。彼らは寄合を開いて村の意思を決定し、独自の掟(惣掟)を定め、年貢の徴収さえ自ら行うようになった 42 。そして、外部からの侵略に対抗するため、自衛のための武装化を進めた 43 。
足軽の台頭と惣村の武装化は、表裏一体の現象である。どちらも、既存の武士階級によらない「新たな暴力の主体」が歴史の表舞台に登場したことを意味する。戦場では足軽が、村落では武装した農民が、自らの実力で行動するようになった。これは、身分秩序に基づいた旧来の社会システムが、根底から崩壊し始めたことの証左に他ならない。応仁の乱は、エリート層の内部抗争であったと同時に、社会の基層から構造を覆す地殻変動を引き起こしたのである。
第四部:戦国乱世の幕開け ― 応仁の乱が遺したもの
応仁の乱は、明確な勝者を生まないまま終結した。しかし、その11年間の戦いが日本社会に残した爪痕は深く、一つの時代を終わらせ、全く新しい時代―戦国乱世―の幕を開ける決定的な要因となった。
第1章 権威の崩壊:室町幕府の有名無実化と荘園公領制の終焉
幕府権威の完全失墜
11年間にわたる内乱を自力で収拾できず、将軍自身が一方の勢力に担がれる存在にまで成り下がったことで、室町幕府の権威は地に落ちた 10 。乱後も幕府は組織として存続するが、その支配権が及ぶのは京都とその周辺地域に限られ、全国の武士を統制する能力を完全に喪失した 45 。将軍の命令はもはや絶対ではなく、各地の武士たちは幕府の権威を顧みず、自らの実力によって領地の拡大を目指すようになる。
荘園公領制の崩壊
幕府権威の失墜は、中世日本の経済基盤であった荘園公領制の崩壊を決定づけた。乱を契機として、地方の守護や国人領主による荘園への侵略(横領)が全国で加速する 41 。京都に本拠を置く公家や寺社といった荘園領主たちは、遠隔地の荘園からの年貢収入を完全に断たれ、経済的に没落した 10 。これにより、土地の所有権は名目上のものとなり、現地の武士による実効支配(一円知行)が常態化する 46 。古代以来続いてきた複雑な土地支配構造は解体され、武力による土地の直接支配という、より単純で暴力的な原則が社会を覆うことになった。
第2章 下剋上の奔流:守護大名の没落と戦国大名の誕生
守護大名の変質と没落
応仁の乱は、地方の支配者であった守護大名のあり方も一変させた。長期にわたる京都での戦いで財政的に疲弊し、何よりも領国を長期間留守にした守護大名の多くは、その支配基盤を大きく揺るがした 3 。彼らの不在を好機と捉えた守護代や有力な国人たちが領国の実権を掌握し、主君である守護を追放、あるいは傀儡化する事例が相次いだ 5 。
生き残った守護大名も、もはや幕府から任命された地方官僚としての性格を失い、自らの武力と才覚でのみ領国を統治する独立した君主、すなわち「戦国大名」へと変質せざるを得なかった 45 。
下剋上の時代の到来
守護代が守護を凌駕し(越前の朝倉氏など)、家臣が主君を討つ「下剋上」が、もはや例外ではなく時代の常識となった 48 。家柄や血筋といった伝統的な権威は色褪せ、個人の武力、知略、そして運といった「実力」が全てを決定する、過酷な実力主義の時代の幕が開かれたのである。
第3章 新たな秩序の萌芽:地方文化の興隆と自立する都市
応仁の乱は破壊と混沌をもたらしただけではなかった。旧秩序の崩壊は、新たな文化や社会が生まれる土壌ともなった。
文化の地方伝播
戦火を逃れた多くの公家、僧侶、芸術家たちが、地方の有力大名を頼って京都から下向した。これにより、それまで京都に集中していた高度な文化や学問が全国に伝播した 28 。守護大名たちもこれを積極的に受け入れ、自らの権威を高めるために文化の保護・育成に努めた。その結果、大内氏が治めた周防の山口、今川氏の駿府、朝倉氏の越前一乗谷など、地方に「小京都」と呼ばれる洗練された文化都市が誕生した 28 。
商業都市の発展
堺や博多といった港湾都市は、戦乱の中でその重要性を飛躍的に高めた。彼らは諸大名に軍資金を融通し、兵糧や武具といった物資を供給することで巨万の富を築き、大名さえ無視できない経済力を手にした 6 。これらの都市では、有力商人たちによる「会合衆」などの自治組織が発達し、武装して自衛にあたるなど、大名の支配を受けない独立した政治勢力として戦国の世に存在感を示した。
応仁の乱は、日本の権力と文化の中心を「中央(京都)」から「地方」へと拡散させる、巨大な遠心分離機の役割を果たした。政治権力は戦国大名へ、文化は地方都市へ、経済力は堺のような自治都市へと分散した。この「権力の分散」こそが戦国時代の本質であり、応仁の乱はその不可逆的な引き金を引いたのである。後の織田信長や豊臣秀吉の事業は、この一度バラバラに拡散した権力・文化・経済を、全く新しい論理の下で「再統一」する試みであったと位置づけることができる。
結論:日本史の分水嶺として
「原因が不明で、勝者もいない」戦いだったのか、再考
応仁の乱は、しばしば「日本史上最も無意味な戦争」の一つと評される。当初の目的であった将軍家の継嗣問題や畠山氏の家督争いは、11年の歳月の中で完全に忘れ去られ、誰が何のために戦っているのかさえ曖昧になった。そして、明確な勝者が決まることなく、主要人物の死と厭戦気運によって自然消滅的に終結した。その点において、確かに「滅茶苦茶な戦争」であったと言える 6 。
しかし、本報告書で論じてきたように、その混沌の背後には、室町幕府システムの構造的破綻という明確な歴史的必然性が存在した。また、大局的な勝者はいなくとも、個々の参加者にはそれぞれの利害と目的があった。そして、越前を掌握した朝倉孝景のように、大乱を利用して自らの野望を達成した、明確な「勝者」も確かに存在したのである。
「終わりのない戦い」が切り拓いた戦国という新たな時代
応仁の乱は、京都では終わった。しかし、その戦いの論理、すなわち「実力が全てを決定する」という下剋上の思想と、その担い手である武士たちを、日本全国に解き放った。その意味で、応仁の乱は終わることなく、「戦国時代」という形で日本全土へと拡散していったのである。
この大乱は、中世的な権威と秩序を破壊し尽くした、一種の「創造的破壊」であった。そして、その焼け跡から、実力主義、地方分権、そして新たな文化の担い手たちが登場する土壌を整えた。応仁の乱は、中世を終わらせ、近世(戦国時代)を準備した、日本史における最も重要な分水嶺の一つであったと結論付けられる。それは、一つの古い世界が死に、新しい世界が生まれる瞬間の、長く、そして壮絶な記録なのである。
付録
【表2】応仁の乱 詳細年表
年(西暦/和暦) |
京都での主な動向 |
地方での主な動向 |
1467年(応仁元年) |
1月: 畠山政長と義就が衝突( 御霊合戦 )。応仁の乱勃発。 3月: 「応仁」に改元。 5月: 東西両軍が全面衝突( 上京の戦い )。 8月: 大内政弘が数万の兵を率いて上洛、西軍に加わる。 10月: 相国寺の戦い 。京都北部が焦土と化す。 |
5月: 赤松政則が播磨に侵攻し、旧領回復を目指す。 |
1468年(応仁二年) |
11月: 足利義視が東軍を離反し、西軍に迎えられる。 |
戦火が摂津・河内・近江など畿内周辺に拡大。 |
1469年(文明元年) |
1月: 足利義尚が将軍継承者として披露される。 7月: 西軍が摂津の東軍諸城を攻略。 |
大内政弘が兵庫を補給拠点として確立。 |
1470年(文明二年) |
京都での戦線は膠着。小競り合いと放火・略奪が日常化。 |
大内氏内部で政弘の伯父・教幸が東軍に寝返り、摂津の戦況が変化。 |
1471年(文明三年) |
- |
5月: 朝倉孝景が主家・斯波氏を追放し、越前の実質的支配者となる(下剋上)。 |
1472年(文明四年) |
戦乱の長期化により、両軍ともに疲弊。 |
地方での戦闘は継続。守護不在の領国で国人・守護代が勢力を伸長。 |
1473年(文明五年) |
3月: 西軍総大将・ 山名宗全が病死 。 5月: 東軍総大将・ 細川勝元が病死 。 12月: 足利義尚が9代将軍に就任。 |
両将の死により、地方の武士たちが独自に動き始める。 |
1474年(文明六年) |
細川政元と山名政豊の間で和睦交渉が進むが、全面和平には至らず。 |
加賀で本願寺門徒と富樫氏の対立が激化。 |
1475年(文明七年) |
京都での戦闘は散発的になる。 |
- |
1476年(文明八年) |
厭戦気運が広がる。 |
- |
1477年(文明九年) |
9月: 畠山義就が河内へ撤兵。 11月: 大内政弘が周防へ帰国 。土岐成頼らが足利義視を奉じて美濃へ帰国。西軍が事実上解体し、 乱が終結 。 |
関東で長尾景春の乱が勃発。 |
乱後 |
1485年(文明十七年): 山城の国一揆 。国人・農民が畠山両軍を追放し、8年間の自治を行う。 |
1488年(長享二年): 加賀の一向一揆 。一向宗門徒が守護・富樫政親を滅ぼし、約100年間の「百姓の持ちたる国」を現出させる。 |
(主要な出来事を抜粋 1 )
引用文献
- 10分で読める歴史と観光の繋がり 戦国時代の幕開け応仁の乱、足利義政が発展させた東山文化 日本の美意識〝わび・さび〟/ゆかりの世界遺産・銀閣寺と龍安寺、小京都 津和野 | いろいろオモシロク https://www.chubu-kanko.jp/ck.blog/2022/01/13/10%E5%88%86%E3%81%A7%E8%AA%AD%E3%82%81%E3%82%8B%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%A8%E8%A6%B3%E5%85%89%E3%81%AE%E7%B9%8B%E3%81%8C%E3%82%8A-%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%B8%E3%81%AE%E8%BB%A2/
- 『複雑で難解な応仁の乱を読み解く』 https://itami-bunbora.main.jp/freestudy/photo/201812ounin1-36.pdf
- 【戦国時代の幕開け】応仁の乱って何のこと?分かりやすく簡単に解説 https://sengokubanashi.net/history/ouninnoran/
- 応仁の乱/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7077/
- 「下剋上と応仁の乱」下剋上はなぜ起きた? - 岡山の加藤学習塾 https://katogakushujuku.jp/blog/200422
- 江戸前夜の日本:応仁の乱がもたらした大変動|松尾靖隆 - note https://note.com/yaandyu0423/n/n11b7aa2306ac
- 日野富子|ヒロインの視点|シリーズ記事 - 未来へのアクション - 日立ソリューションズ https://future.hitachi-solutions.co.jp/series/fea_heroine/03/
- 応仁の乱とは何か?戦国時代を生んだ大乱 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=_tLn0X_FXP8
- 日野富子とはどんな人物で何に影響を与えたか? - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/9886/
- 応仁の乱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E4%BB%81%E3%81%AE%E4%B9%B1
- 応仁の乱について|社会の部屋 - BIGLOBE http://www7a.biglobe.ne.jp/~gakusyuu/rekisi/ouninnoran.htm
- 「応仁の乱の原因は日野富子」はデマである…学習院大学教授が解説「歴史的大乱の本当のきっかけ」 不和の元凶という「濡れ衣」を着せられただけ - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/91858?page=1
- 大河ドラマ 花の乱/ホームメイト - 名古屋刀剣ワールド https://www.meihaku.jp/taiga-list-detaile/hana-no-ran/
- なぜ日野富子は「金の亡者」になったのか? - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/7048
- 応仁の乱に生きる日野富子 http://ktymtskz.my.coocan.jp/C/hino0.htm
- 御霊合戦…畠山義就と政長の不毛なお家騒動と応仁の乱のはじまり - 北条高時.com https://hojo-shikken.com/entry/2017/04/08/170206
- 細川勝元 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%8B%9D%E5%85%83
- 山名宗全は、応仁・文明の乱の終わりを見ずに隠居?【戦国武将の話】 - ラブすぽ https://love-spo.com/article/busyo02/
- 応仁の乱は日本の歴史の変革期です - 見本 https://umenoyaissei.com/ouninnoranhanhanihonnorekishi.html
- 都市史14 応仁・文明の乱 - 京都市 https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/toshi14.html
- 「西陣」の名前の由来にもなった「応仁の乱」 - 京都知新 - MBS 毎日放送 https://www.mbs.jp/kyoto-chishin/kyotocolumn/walk/84164.shtml
- 応仁の乱から550年 “東陣”にスポットが当たっています - リビング京都 https://www.kyotoliving.co.jp/article/170603/last/c/index.html
- 応仁の乱勃発地 - 京都観光Navi https://ja.kyoto.travel/tourism/single02.php?category_id=9&tourism_id=49
- 6.応仁の乱勃発~上御霊社の戦い https://itami-bunbora.main.jp/freestudy/photo/201812ounin37-72.pdf
- 御霊合戦 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E9%9C%8A%E5%90%88%E6%88%A6
- 12.長期化の要因 https://itami-bunbora.main.jp/freestudy/photo/201812ounin73-108.pdf
- 完全戦国年表1467-1519 - Merkmark Timelines https://www.merkmark.com/sengoku/nenpyo/ksnx_10.html
- 応仁の乱が日本の歴史に与えた影響とは? - BEST TiMES(ベストタイムズ) https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/6252/
- #311 足軽とはどんな人たち?|社会科教員のネタ帳 - note https://note.com/shakaikakoneta/n/nba5d0ac7ae1d
- 俺たち足軽、夢は次の秀吉様 水がないなら梅干し戦術 https://craft.asahi.com/article/2020/06/ashigaru/
- 足軽大将 日本史辞典/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/ashigaru-taisho/
- 略奪、強姦なんでもあり!実はとんでもなく酷かった戦国時代の足軽たちのリアル - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/232451/2
- 【総集編】足軽の戦場~戦闘・食事・略奪・海外での戦い~【日本史マンガ動画】 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=Ev2nJz3tUYk
- 【感想】NHK 歴史探偵「ハードボイルド!応仁の乱」を視聴しました|hayahi_taro - note https://note.com/hayahi_taro/n/n16ce51c34638
- 夢と野望をかけた応仁の乱をゆく|一日乗車券でめぐる京都観光と寺社仏閣歩き https://kyobura.web.fc2.com/05ounin/ounin.html
- 応仁の乱ゆかりの地を歩く VOL.2 https://yamasan-aruku.com/aruku-206/
- 近代以前の日本の都市人口統計 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%83%BD%E5%B8%82%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88
- 応仁の乱は戦国時代の発端!?応仁の乱の原因と乱による影響とは… - キミノスクール https://kimino-school.com/study/post-2138/
- 歴史年表 ① https://tsukurukai.com/_src/sc359/nenpyo.pdf
- 【中学歴史】「15世紀のおもな一揆」 | 映像授業のTry IT (トライイット) https://www.try-it.jp/chapters-2904/lessons-2924/point-2/
- 荘園制から戦国大名による支配 - 礎の歴史的展開 https://suido-ishizue.jp/tenkai/04.html
- 4章-1 総合演習②外交史 - 要点 - Z会 https://www.zkai.co.jp/wp-content/uploads/sites/18/2021/07/08190408/KC_J3M_4.pdf
- 社会経済史:中世 - かーしゅうの一橋大日本史論述 https://kashu-nihonshi8.com/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E7%B5%8C%E6%B8%88%E5%8F%B2%EF%BC%9A%E4%B8%AD%E4%B8%96/
- 「惣村とは?」「自治的な村ってどういう意味?」室町時代の惣村の特徴や土一揆、についてわかりやすく解説! - 元予備校講師の受験対策ブログ https://kiboriguma.hatenadiary.jp/entry/souson
- 【中学歴史】「下剋上の風潮」 | 映像授業のTry IT (トライイット) https://www.try-it.jp/chapters-2904/lessons-2919/point-2/
- 南北朝の内乱と荘園制の崩壊 ー 武士による土地支配への転換点|松尾靖隆 - note https://note.com/yaandyu0423/n/n832058b44c49
- 山川2003/変更箇所[中世] - つかはらの日本史工房 https://tsuka-atelier.sakura.ne.jp/kyoukasyo/yamakawa2003/yamakawa0303.html
- 足利義政 - 確かめよう、日本の歴史 https://gakusyu.shizuoka-c.ed.jp/society/kyoutsu/nihon_rekisi/06muromachi/muromachi-08.html
- 下剋上 日本史辞典/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/gekokujo/