最終更新日 2025-09-03

手取川口・大聖寺城攻防(1577)

天正五年、上杉謙信は七尾城を陥落させ、手取川で織田軍を奇襲し大勝。しかし謙信の急死で上杉家は内乱に陥り、織田軍は北陸を再奪還。この戦いは「幻の合戦」として語り継がれる。
Perplexity」で合戦の概要や画像を参照

手取川の戦い(1577年):織田・上杉、北陸に雌雄を決す ― 合戦のリアルタイム分析と歴史的意義

序章:龍虎、北陸に相見える ― 宿命の対決への序曲

天正5年(1577年)、日本の歴史は大きな転換点を迎えようとしていた。天下布武を掲げ、畿内を平定し、その勢力を西へ東へと怒涛の如く拡大する織田信長。一方、越後にあって「義」の旗を掲げ、関東管領としてその武威を天下に轟かせる上杉謙信。この二人の巨星が、北陸・加賀国の手取川で激突することになる。この戦いは、単なる一地方の領有権を巡る争いではなく、戦国時代を象徴する二つの巨大な軍事・政治思想が初めて直接対決した、歴史的必然とも言うべき事件であった。

かつて、信長と謙信は敵対関係にあったわけではない。むしろ、甲斐の武田信玄という共通の脅威を前に、「濃越同盟」と呼ばれる協力関係を結んでいた時期もあった 1 。信玄は、その強大な軍事力で信長の背後を脅かし、同時に謙信の領国・越後にも絶えず圧力をかけていた。この地政学的な状況が、美濃を本拠とする信長と越後の謙信とを、利害の一致のもとに結びつけていたのである。

しかし、天正元年(1573年)の信玄の死は、この微妙なパワーバランスを根底から覆した。信玄という重石が取れたことで、信長は西方への攻略に集中できるようになり、その勢力は爆発的に拡大する。天正4年(1576年)には、重臣・柴田勝家を北陸方面軍の総司令官に任じ、加賀一向一揆の鎮圧と北陸地方の平定に本格的に乗り出した 3 。これは、信長にとって武田氏が影響力を行使していた北陸という「権力の真空地帯」を自らの勢力圏に組み込む絶好の機会であった。

一方、謙信にとって信長の北陸進出は、自国の西の玄関口を脅かす、看過できない侵略行為であった。信長が対武田への軍事協力に消極的であったことへの不満も燻っていたとされる 4 。ここにきて、謙信は長年対立してきた加賀の一向一揆と和睦し、信長との対決姿勢を明確にする 4 。かつての同盟者は、北陸の覇権を巡る最大の競争相手へと変貌した。手取川の戦いは、この両雄の戦略的目標が北陸という一点で交差し、衝突が不可避となった瞬間に起きたのである。

本報告書では、この手取川の戦いに至る前哨戦「七尾城の戦い」から、合戦当日の両軍の動き、そして戦後の歴史的影響までを、時系列に沿って詳細に分析し、その全貌を解き明かすことを目的とする。


【表1】手取川の戦い 主要関連年表(天正4年~天正6年)

年月日(西暦)

出来事

天正4年(1576年)11月

上杉謙信、能登・七尾城への第一次攻撃を開始。

天正5年(1577年)3月

謙信、関東情勢の緊迫化により、一旦越後へ帰国。

天正5年(1577年)5月

謙信不在の隙に、七尾城の畠山軍が反撃。上杉方の支城を奪還。

天正5年(1577年)閏7月

謙信、再び能登へ出陣。第二次七尾城攻城戦が始まる。

天正5年(1577年)8月8日

織田信長、七尾城救援のため柴田勝家を総大将とする北陸方面軍を派遣。

天正5年(1577年)9月15日

城内の疫病蔓延と遊佐続光らの内応により、七尾城が陥落。

天正5年(1577年)9月18日

謙信、七尾城を出て加賀・松任城に入城。織田軍は手取川南岸の水島に着陣。

天正5年(1577年)9月23日

手取川の戦い 。織田軍が七尾城落城を知り撤退を開始したところを、上杉軍が追撃し撃破。

天正6年(1578年)3月13日

上杉謙信、春日山城にて急死。

天正6年(1578年)3月以降

謙信の後継者を巡り、上杉景勝と上杉景虎による内乱「御館の乱」が勃発。


第一章:能登の落日 ― 七尾城、一年間の死闘

手取川での激突の直接的な引き金となったのは、能登半島に聳える天下の堅城・七尾城を巡る約一年にも及ぶ攻防戦であった。この戦いは、上杉謙信の軍事的天才性を示すと同時に、戦国時代の城攻めが単なる武力の衝突だけでなく、情報、調略、そして兵站がいかに重要であったかを物語っている。

内部対立に揺れる能登畠山氏

当時の能登国は、守護大名・畠山氏によって統治されていた。しかし、その権力は著しく衰退し、実権は「畠山七人衆」と呼ばれる重臣たちの合議制によって運営されていた 6 。当主は幼年の畠山春王丸であり、家中は深刻な派閥対立に揺れていた 8 。筆頭家老である長続連(ちょう つぐつら)・綱連(つなつら)父子は、急速に勢力を拡大する織田信長との連携を模索する「親織田派」であった 6 。これに対し、同じく重臣である遊佐続光(ゆさ つぐみつ)や温井景隆(ぬくい かげたか)らは、地理的に近い越後の上杉謙信に接近する「親上杉派」を形成し、両派の対立は一触即発の状態にあった 10

この能登の政情不安こそが、謙信に介入の絶好の口実を与えた。謙信は、かつて畠山氏から人質として越後に送られていた上条政繁を新たな当主として擁立し、能登の治安を回復するという大義名分を掲げ、天正4年(1576年)11月、大軍を率いて能登へと侵攻した 8

難攻不落の城と謙信の戦略

長続連ら親織田派は、謙信の介入を断固として拒否し、七尾城での籠城戦を選択した 8 。七尾城は、天然の要害を利用して築かれた日本五大山城の一つに数えられる堅城であり、その縄張りは謙信の居城・春日山城にも匹敵すると言われた 8

「軍神」と謳われた謙信をもってしても、この巨大な山城を力攻めすることは容易ではなかった 4 。そこで謙信は、正面からの攻撃を避け、七尾城を孤立させる兵糧攻めに戦術を切り替える。熊木城や富来城といった七尾城の支城群を次々と攻略し、補給路を完全に遮断したのである 4 。戦況は膠着し、謙信は能登で越年することとなった。

天正5年(1577年)3月、関東で北条氏政が不穏な動きを見せたため、謙信は本国の仕置を兼ねて一時越後へ帰国する 4 。この好機を逃さず、七尾城の畠山軍は反撃に転じ、奪われた支城の一部を奪還するなど意気を見せた 9

内部からの崩壊 ― 疫病と内応

しかし、畠山方の反撃は長くは続かなかった。同年閏7月、謙信は再び能登へ出陣。驚いた長続連らは、奪い返した城を放棄し、再び七尾城に全兵力を集結させて籠城した 4 。この時、周辺の領民も半ば強制的に城内に籠もらせたため、城内の人口は1万5000人近くに膨れ上がったと言われる 8

この過密状態が、七尾城に悲劇をもたらす。長期の籠城により城内の衛生環境は極度に悪化し、疫病が蔓延した 3 。兵士たちは敵の刃ではなく、病によって次々と倒れていった。そして、ついに当主である畠山春王丸までもが病死してしまう 3

絶望的な状況の中、長続連は最後の望みをかけて、息子の長連龍(つらたつ)を安土の織田信長のもとへ援軍要請の使者として派遣した 9 。しかし、救援は間に合わなかった。城内の惨状と、援軍が来る見込みの薄さに、親上杉派の遊佐続光はついに決断する。彼はかねてより謙信と通じており、このまま抗戦しても未来はないと判断し、温井景隆らと共に謙信に内応することを密約した 9

天正5年9月13日、中秋の名月の夜。七尾城攻略を目前にした謙信は、本陣で月見の宴を催し、有名な漢詩「十三夜の詩」を詠んだと伝えられる 8

霜は軍営に満ちて秋気清し

数行の過雁月三更

越山併せ得たり能州の景

遮莫家郷憶遠征

(霜は陣営に満ち、秋の気は清らかである。雁の列が空を渡り、月は夜更けに冴え渡る。越後・越中に加え、能登の景色までも手に入れた。故郷の者が遠征の身を案じていようとも、今は構うものか) 14

この詩には、能登平定を目前にした謙信の万感の思いが込められている 17 。そしてその二日後の9月15日、遊佐続光らが城内で反乱を起こし、城門を開いて上杉軍を招き入れた。これにより、徹底抗戦を主張した長続連・綱連父子をはじめとする長一族はことごとく討ち取られ、難攻不落を誇った七尾城は、ついに陥落した 8

七尾城の陥落は、物理的な攻撃によってではなく、長期籠城がもたらした疫病という「内部からの崩壊」と、謙信の巧みな調略による「情報戦の勝利」によって決定づけられた。これは、戦国時代の攻城戦が、兵力だけでなく、兵站、衛生管理、そして諜報といった複合的な要素によって決まることを示す、まさに典型的な事例であった。

第二章:織田北陸方面軍、出陣す ― 内なる亀裂

七尾城で長続連らが絶望的な籠城戦を続けていた頃、安土の織田信長は、その救援要請に応えるべく、大規模な遠征軍の派遣を決定していた。この北陸方面軍は、織田家の総力を結集したとも言える豪華な陣容であったが、その内には深刻な亀裂を抱えていた。この内部対立こそが、手取川での悲劇的な結末を招く大きな要因となる。

織田軍オールスターの陣容

天正5年8月8日、信長は北陸方面軍の出陣を命じた 9 。総大将には、織田家筆頭家老であり、北陸方面の攻略を任されていた柴田勝家が就いた 3 。そして、その麾下には、羽柴秀吉、丹羽長秀、滝川一益、前田利家、佐々成政、稲葉一鉄といった、織田軍団の中核をなす錚々たる武将たちが名を連ねた 12 。総兵力は4万とも5万とも言われ、謙信の軍勢を数で圧倒していた 3 。さらに信長自身も、後詰として1万2000の軍勢を率いて出陣する計画であり、この戦役にかける信長の意気込みが窺える 12

この軍団は、まさに当時の日本で最強と目される戦闘集団であった。しかし、その強大な力の裏側で、指揮系統の歪みと将帥間の反目が渦巻いていた。

総大将・柴田勝家と羽柴秀吉の対立

問題の中心にいたのは、総大将の柴田勝家と、援軍の将として加わった羽柴秀吉であった。両者はかねてより不仲であったと伝えられている 3 。勝家は織田家の宿老中の宿老であり、信長の父・信秀の代から仕える古参である。一方の秀吉は、足軽からの叩き上げで信長の寵臣となった新興勢力の代表格であった。その出自も性格も対照的な二人の間には、常に緊張関係が存在した。

この個人的な感情対立は、信長が採用した「方面軍システム」によって、さらに増幅されることになった。信長は、広大化する領土と戦線を効率的に管理するため、柴田勝家を北陸方面軍司令官、明智光秀を畿内・丹波方面、そして羽柴秀吉を中国方面の司令官に任命し、それぞれに大きな裁量権を与えていた 23 。このシステムは、方面軍司令官同士に熾烈な功績争いを促す効果があった。彼らは互いにライバルとして、誰が最も早く、そして大きな戦功を挙げるかを競い合っていたのである。

今回の北陸遠征では、本来、中国方面の攻略を担当する秀吉が、勝家の指揮下に入るという異例の編成が取られた。これは、秀吉にとって、ライバルである勝家の手柄を立てるために働くことを意味し、彼のプライドが許さなかったであろうことは想像に難くない 22

進軍の途中、作戦方針を巡って勝家と秀吉の意見は激しく対立した。そしてついに、秀吉は総大将である勝家に無断で軍を率いて戦線を離脱し、居城である長浜へ引き上げてしまうという前代未聞の行動に出た 3 。この身勝手な行動は信長の逆鱗に触れ、秀吉は一時的に謹慎を命じられることになる 19

秀吉の離脱により、織田軍は兵力を減らしただけでなく、何よりも軍内の士気と統制に大きな乱れを生じさせた 3 。この事件は、単なる将軍同士の犬猿の仲というレベルに留まらない。それは、信長という絶対的な調停者が不在の場では、織田家の重臣たちがいかに容易に分裂しうるかという構造的欠陥を露呈したものであった。そしてこの亀裂は、5年後の本能寺の変の後、信長の後継者の座を巡って勝家と秀吉が雌雄を決することになる「賤ヶ岳の戦い」において、決定的な伏線となるのである 26

第三章:交錯する運命 ― 凶報を知らぬ進軍と、龍の潜伏

天正5年9月15日に七尾城が陥落してから、23日に手取川で両軍が衝突するまでの約一週間は、まさに両軍の運命が交錯する時間であった。片や、目的を達成し、次なる一手を冷静に打つ上杉軍。片や、致命的な情報を得られないまま、破滅へと突き進む織田軍。この期間の両軍の動きを追うことで、戦いの帰趨が戦闘開始前夜に、すでにほぼ決していたことが明らかになる。

龍の南下 ― 謙信の迅速なる次の一手

9月15日に七尾城を陥落させた謙信の行動は、迅速かつ的確であった。彼は能登の平定に時間をかけることなく、すぐさま織田軍の迎撃へと動く。まず、加賀と能登の国境に位置する末森城を17日に攻略し、織田軍の北上ルートを完全に封鎖した 21

そして9月18日、謙信は自ら主力を率いて七尾城を出立し、南下を開始する。彼の目標は、加賀平野の要衝であり、手取川のわずか10km北に位置する松任城(現在の石川県白山市)であった 3 。松任城に入城した謙信は、ここで全軍を潜ませ、織田軍が手取川を渡って罠にかかるのを静かに待ち構えた。彼の軍事行動は徹底した情報統制の下で行われ、織田方にはその動向が全く伝わっていなかった。

凶報を知らぬ進軍 ― 織田軍の致命的誤認

一方その頃、柴田勝家率いる織田軍は、秀吉の離脱という内紛を抱えながらも、七尾城救援という当初の目的を遂行すべく北上を続けていた。彼らは加賀の一向一揆勢力と交戦しつつ、梯川を越え、ついに手取川の南岸に到達した 3 。9月18日、織田軍は手取川南岸の「水島」(現在の白山市水島町)に広大な陣を布いた 21

しかし、この時点で織田軍は致命的な状況認識の誤りを犯していた。彼らは、自軍の作戦目標である七尾城が、3日も前に陥落しているという事実を全く知らなかったのである 34 。七尾城からの連絡が完全に途絶えていることに不審を抱きつつも 34 、彼らは依然として自分たちが「救援軍」であると信じ込み、手取川を渡って能登へ進軍する計画を進めていた。

この情報格差は、絶望的と言ってもよかった。織田軍は、謙信がすでに目と鼻の先の松任城に潜んでいることなど知る由もなかった 39 。彼らは、存在しない城を救うために、敵が周到に準備した罠の中へと、自らの足で踏み込んでいこうとしていたのである。

織田軍の敗因の根源は、この後の戦闘そのものよりも、むしろこの段階における「戦場認識(Battlefield Awareness)」の完全な欠如にあった。信長は情報収集を極めて重視し、その軍団を鍛え上げてきたはずであった 40 。しかし、この戦役においては、敵主力の動向はおろか、作戦目標の消滅という根本的な事実すら掴めていなかった。これは、謙信側の卓越した情報統制と、織田軍の偵察能力の限界、あるいは長年の連戦連勝が生んだ慢心がもたらした結果であったのかもしれない。この情報的劣勢が、後の戦術的判断の全てを誤らせる直接的な原因となったのである。


【表2】手取川の戦いにおける両軍の編成比較

項目

上杉軍

織田軍

総大将

上杉謙信

柴田勝家

主要武将

鰺坂長実、遊佐盛光、上条政繁、吉江景資、斎藤朝信、柿崎景家(諸説あり)など

丹羽長秀、滝川一益、前田利家、佐々成政、稲葉一鉄、長連龍など

推定兵力

約20,000 21

約40,000(秀吉離脱前) 3

状況

七尾城を攻略し士気旺盛。敵の情報を完全に把握し、地の利を得て待ち伏せ。

目的(七尾城)を失い、敵情不明。総大将と有力武将の対立により指揮系統に乱れ。


第四章:手取川、奔流の夜 ― 天正五年九月二十三日の激闘

天正5年9月23日、その日は朝から冷たい雨が降り続いていた。手取川の水位は見る見るうちに増し、普段の穏やかな流れは、全てを飲み込まんとする濁流へと姿を変えていた。この日、織田軍はついに自らが置かれた絶望的な状況を悟り、そして上杉謙信は、この千載一遇の好機を逃さなかった。この夜の出来事は、戦国史に残る一方的な殲滅戦として、後世に語り継がれることになる。

覚知と撤退 ― 織田軍の混乱

9月23日の夜、手取川北岸の水島に布陣していた織田軍本陣に、ついに凶報がもたらされた。七尾城はすでに陥落し、上杉謙信率いる本隊が、目と鼻の先の松任城に入っているというのである 12 。この報告に、織田軍首脳は震撼した。救援という作戦目的は消滅し、逆に自軍が敵主力の目前で、増水した大河を背にするという、最悪の戦術的状況に陥っていることを悟ったからである。

総大将・柴田勝家は即座に決断を下した。全軍撤退である 42 。夜陰に紛れて密かに手取川を南岸へ渡り直し、敵の追撃を振り切る以外に活路はなかった。しかし、4万近い大軍が、暗闇と豪雨の中で、増水し荒れ狂う川を渡って撤退するのは至難の業であった。命令は混乱を呼び、部隊は統制を失い、渡河点は将兵でごった返した。彼らは文字通り「背水の陣」を強いられたが、それは覚悟の上ではなく、不意を突かれた末の、死への逃走であった 3

闇夜の追撃 ― 軍神の戦術

この織田軍の混乱を、松任城の謙信が見逃すはずがなかった。彼は、敵が最も無防備になり、指揮系統が麻痺する「撤退行動中」という絶好の機会を待っていたのである 39

謙信は全軍に出撃を命じた。上杉軍は闇と雨を味方につけ、渡河の混乱で右往左往する織田軍の背後に音もなく忍び寄り、一斉に襲いかかった 42 。視界の利かない暗闇の中、突如として背後から鬨の声とともに襲いかかってきた越後兵に、織田軍は完全にパニックに陥った。組織的な抵抗は不可能であった。

将兵は我先にと川に飛び込むが、激しい濁流は容赦なく彼らを飲み込んでいく。川岸で踏みとどまろうとする者は、上杉軍の猛追撃の餌食となった。討ち取られる者、川に流されて溺死する者、その数は瞬く間に増えていった。史料によれば、この夜の追撃戦で織田軍は約1,000名が討ち取られ、さらにそれを上回る多数の将兵が手取川の濁流に消えたと記録されている 3

謙信の戦術は、完璧であった。彼は、①敵が最も混乱する「撤退中」を狙い、②視界を奪い恐怖心を煽る「夜間」を選び、③敵の行動を物理的に阻害する「増水した河川」を天然の障害物として利用した。これは、孫子の兵法で言うところの「天の時、地の利、人の和」を全て味方につけた戦術であった。手取川は古来より「暴れ川」として知られ、その地形と特性を知り尽くしていたであろう謙信は 37 、織田軍の数的な優位性を、地理的、時間的、そして心理的な不利を押し付けることで完全に無力化したのである。自軍の損害を最小限に抑え、最大の戦果を挙げる。手取川の戦いは、戦国時代における地形と天候を最大限に活用した、戦術の芸術品とも言うべき一戦であった。

第五章:戦いの後 ― 勝者の夭折と、敗者の再起

手取川での一方的な勝利は、上杉謙信の名声をさらに高め、北陸の情勢を一時的に大きく塗り替えた。しかし、歴史の皮肉は、この戦いの真の結末を誰もが予想し得ない形で迎えることになる。戦術的な大勝利は、必ずしも戦略的な成功には結びつかなかったのである。

勝利の果実と謙信の急死

手取川の戦いの後、謙信は敗走する織田軍を深追いすることはせず、能登の完全掌握を優先した 44 。七尾城の普請を行い、その絶景を称賛する手紙を残している 21 。加賀、能登、そして越中の一部までを勢力下に収めた謙信は、この勝利に大きな自信を得た。「(信長は)案外に手弱の様体、この分に候わば、向後天下までの仕合わせ、心やすく候(信長は存外弱い。この調子ならば、今後の天下取りも容易であろう)」と述べ、次なる上洛への意欲を燃やしたとされる 39

同年12月、謙信は一旦、居城である春日山城に凱旋した 42 。そして翌天正6年(1578年)3月、関東への遠征準備を進めていた最中、城内の厠で倒れ、そのまま急死してしまう 3 。享年49。死因は脳溢血であったと言われている 3 。生涯最後の戦いとなった手取川の戦いは、彼の軍歴の頂点を飾る輝かしい勝利となったが、その果実を味わう時間は、彼には残されていなかった。

謙信の死は、上杉家に巨大な混乱をもたらした。彼は後継者を明確に定めていなかったため、二人の養子、上杉景勝と上杉景虎の間で家督を巡る凄惨な内乱「御館の乱」が勃発する 37 。この内紛は上杉家の国力を著しく消耗させ、手取川の勝利によって得た北陸での優位性を、自らの手で放棄する結果を招いた。

敗戦からの再起 ― 織田軍の逆襲

一方、手取川で壊滅的な敗北を喫した織田軍であったが、この上杉家の内紛という僥倖に乗じて、息を吹き返す。戦線離脱した羽柴秀吉は信長の怒りを買ったものの 19 、やがて許され、中国方面での戦いに復帰する。

そして、敗軍の将となった柴田勝家は、雪辱を期して北陸戦線の再構築に着手した。上杉家が内乱で身動きが取れない隙を突き、勝家は佐々成政、前田利家らと共に徐々に勢力を回復。数年の歳月をかけて、加賀、能登、そして越中へと再び侵攻し、かつて謙信が手にした領土を一つずつ奪い返していく。その過程のクライマックスが、天正10年(1582年)の「魚津城の戦い」である。この戦いで勝家は上杉方の最後の拠点を陥落させ、北陸平定をほぼ完了させた 50

結果的に見れば、手取川の戦いは、上杉家にとって「戦術的な大勝利と戦略的な大敗北」の典型例となった。謙信個人の軍事的才能によって得られた完璧な勝利は、彼の死という一つの偶然によって、全ての意味を失った。逆に、織田家はこの手痛い敗戦から教訓を学び、最終的には北陸地方の完全支配という戦略目標を達成したのである。この戦いは、一人の天才の死が、いかに戦局を、ひいては歴史の流れそのものを大きく左右するかを示す、劇的な実例として歴史に刻まれている。

終章:手取川の戦いの歴史的意義 ― 「幻の合戦」の真相

手取川の戦いは、上杉謙信と織田信長という戦国時代を代表する両雄が、その軍団を率いて激突した唯一の戦いとして、歴史上極めて重要な意味を持つ 3 。しかしその一方で、この合戦は史料の乏しさから、その実像を巡って様々な議論を呼び、「幻の合戦」と評されることさえある 53 。本章では、この戦いが持つ真の歴史的意義と、なぜ「幻」と呼ばれるに至ったのか、その真相に迫りたい。

史料の沈黙と合戦の実像

手取川の戦いが「幻」と称される最大の理由は、織田信長の一代記であり、一級史料とされる太田牛一の『信長公記』に、この戦いに関する詳細な記述がほとんど見られないことにある 53 。『信長公記』は、柴田勝家らの北陸出陣と、羽柴秀吉の途中離脱については記しているものの、上杉軍との大規模な戦闘と、その一方的な敗北については、事実上沈黙している 21

この沈黙は、合戦そのものが存在しなかったことを意味するのだろうか。そう結論付けるのは早計である。上杉側の史料や、戦後に謙信が家臣に与えたとされる感状などには、夜襲によって織田軍を撃破したことが記録されており、何らかの大規模な軍事衝突があったことは疑いようがない 21

では、なぜ『信長公記』は沈黙するのか。最も有力な説は、これが意図的な情報操作、あるいは「不都合な真実」の隠蔽であるというものである。『信長公記』は、信長の偉業を後世に伝えるという明確な目的を持って編纂された「公式記録」である 54 。方面軍とはいえ、織田家の主力部隊が、これほどまでに一方的な大敗を喫したという事実は、信長の威信を著しく傷つけるものであった。筆者の太田牛一が、主君の不名誉となるこの敗戦を意図的に矮小化、あるいは無視した可能性は極めて高い。つまり、「幻の合戦」という言葉は、合戦がなかったという意味ではなく、勝者と敗者の「記録」に対する姿勢の非対称性そのものが生み出した、歴史学的な謎と捉えるべきなのである。この戦いは、史料を批判的に読み解くことの重要性と、歴史は必ずしも勝者によってのみ語られるわけではないことを示す、興味深い事例と言える。

落首が語る同時代の評価と歴史的イメージ

史料の寡黙さとは対照的に、この戦いの衝撃を雄弁に物語るものが存在する。それは、合戦直後に京の都などで流行したとされる、以下の落首(風刺歌)である。

上杉に 逢うては織田も 名取川 はねる謙信 逃ぐるとぶ長

(上杉謙信に遭遇しては、織田軍も手取川で手痛い目に遭う。「はねる」ように勢いづく謙信を前に、「とぶ」ように逃げ帰る信長(の軍)よ) 3

「名取川」は手取川のことであり、「とぶ長」は信長を揶揄した表現である 3 。信長本人はこの戦いに参加していないが、織田軍の総大将としてその敗北の責任を負うべき存在として描かれている 3 。この短い歌は、手取川における織田軍の惨敗と、上杉軍の圧倒的な強さが、当時の人々の間でいかに鮮烈な印象をもって受け止められたかを如実に示している。

この落首に象徴されるように、手取川の戦いは、「軍神・上杉謙信」の伝説を決定的なものとした。数で勝る織田の最新鋭軍団を、地形と天候を味方につけた鮮やかな戦術で一蹴したこの一戦は、彼の軍事的才能が神がかっていたことを証明する、最高の事例として後世に語り継がれた。そしてそれは、織田信長という当代随一の覇者でさえ、謙信の前では敗北を喫し得たという事実を、人々の記憶に強く刻み込んだのである。

手取川の戦いは、謙信の急死によって戦略的には未完に終わった。しかし、戦国最強は誰かという、歴史のロマンを掻き立てる問いかけに対し、この戦いは今なお力強い一つの答えを提示し続けている。それこそが、この「幻の合戦」が持つ、不滅の歴史的意義なのであろう。

引用文献

  1. 【謙信と信長(1)】武田信玄と徳川家康の確執、それぞれの遺恨 | SYNCHRONOUS シンクロナス https://www.synchronous.jp/articles/-/203
  2. 北陸を制し勢いに乗る上杉謙信、逃げる織田軍は川に飛び込み溺死…謙信最強伝説を生んだ「手取川の戦い」 上杉謙信が天下の堅城「七尾城」を落としたのは死の前年だった (2ページ目) - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/83195?page=2
  3. 手取川の戦い古戦場:石川県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/tedorigawa/
  4. 能登・七尾城 ~"軍神"上杉謙信をうならせた難攻不落の堅城 | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/8240
  5. file-5 上杉謙信と戦国越後 - 新潟文化物語 https://n-story.jp/topic/05/
  6. 七尾城攻め1576〜77年<その2>~統一を目指す織田信長と上洛戦中の上杉謙信の角逐の場に https://www.rekishijin.com/9004
  7. 七尾城の戦い(七尾城をめぐる戦い) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/54/memo/3475.html
  8. 七尾城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E5%B0%BE%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  9. 決戦!七尾城 - 能登畠山氏七尾の歴史 https://nanao.sakura.ne.jp/wars/1576_nanaowars.html
  10. 上杉謙信が苦戦した「七尾城の戦い」が物語る能登七尾城 https://sengoku-story.com/2021/10/12/noto-trip-0002/
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  15. 漢詩「九月十三夜」上杉謙信 - 吟詠詩歌例示 https://example.anjintei.jp/e1-kansi-kugatsujusanya.html
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  17. 上杉謙信の「十三夜」 - 風なうらみそ~小田原北条見聞録 - ココログ http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-a410.html
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  24. 織田家臣団 - 未来へのアクション - 日立ソリューションズ https://future.hitachi-solutions.co.jp/series/fea_sengoku/02/
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  26. 鬼柴田・柴田勝家とは?織田家筆頭家老の生涯と、豊臣秀吉との激闘の真相 - 戦国 BANASHI https://sengokubanashi.net/column/shibatakatsuie/
  27. 超入門! お城セミナー 第110回【歴史】信長の後継者を決めた賤ヶ岳の戦い。実は城が重要な役割を担っていた!? https://shirobito.jp/article/1308
  28. 賤ヶ岳の戦いとは/ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/16977_tour_058/
  29. 豊臣秀吉と柴田勝家が戦った「賤ヶ岳の戦い」とは?|信長の次の天下人を決めた重要な戦い【日本史事件録】 https://serai.jp/hobby/1143117
  30. 賤ヶ岳の戦い - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7258/
  31. 【合戦解説】賎ヶ岳の戦い 羽柴 vs 柴田 〜 織田家を我が物にしたい羽柴秀吉とそれを阻止したい柴田勝家がついに激突する 〜 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=ABjT1ZrxvXc
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  34. 第4回 上杉・織田両軍と手取川の合戦 https://www.hokukei.or.jp/contents/pdf_exl/hokuriku-rekishi2409.pdf
  35. 手取川古戦場|スポット|【公式】石川県の観光/旅行サイト「ほっと石川旅ねっと」 https://www.hot-ishikawa.jp/spot/detail_13448.html
  36. 品野城・河野島・明知城…織田軍はこんなにも敗北を喫していた | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/8241?p=1
  37. 手取川戦国物語~手取川の戦いからシミュレーションする「はねる上杉謙信」と「逃る織田信長」 https://sengoku-story.com/home/tedorigawa/
  38. 能登・七尾城 ~"軍神"上杉謙信をうならせた難攻不落の堅城 | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/8240?p=1
  39. 【戦国時代】手取川の戦い~能登と加賀を駆け抜ける信長の奇襲に敗れた柴田勝家 (2ページ目) https://articles.mapple.net/bk/1223/?pg=2
  40. 加来耕三氏 情報戦を制した戦国武将たち:第1回織田信長の“情報重視”と“危機管理”:HH News & Reports:ハミングヘッズ https://www.hummingheads.co.jp/reports/contribution/c03/110912_01.html
  41. “無敵の上杉謙信が、天下を獲れなかった理由”歴史に学ぶ「勝つための戦略」 https://diamond.jp/articles/-/86015
  42. 手取川の戦い~はねる謙信、逃げる信長 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4360
  43. 【織田信長vs上杉謙信】戦国のドリームマッチ「手取川の戦い」!実は無かった説も!【きょうのれきし3分講座・9月23日】 - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=vZX3RdolKVE
  44. 【今日の出来事】手取川の戦い - 戦国魂ブログ https://www.sengokudama.jp/blog/archives/2505
  45. 手取川の歴史 - 国土交通省 https://www.mlit.go.jp/river/toukei_chousa/kasen/jiten/nihon_kawa/0414_tedori/0414_tedori_01.html
  46. 上杉謙信はまさに戦国最強だった! 「毘沙門天の化身」が駆けた数々の戦場とは【武将ミステリー】 | 和樂web 美の国ニッポンをもっと知る! https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/13940/6/
  47. 上杉謙信の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/33844/
  48. シナリオ:手取川の戦い - 信長の野望・創造 with パワーアップキット 攻略wiki https://souzou2013.wiki.fc2.com/wiki/%E3%82%B7%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%AA%EF%BC%9A%E6%89%8B%E5%8F%96%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  49. 【これを読めばだいたい分かる】上杉謙信の歴史 - note https://note.com/sengoku_irotuya/n/nf245ce588cdb
  50. 魚津城の戦い https://www.city.uozu.toyama.jp/attach/EDIT/003/003170.pdf
  51. 魚津城 - 城びと https://shirobito.jp/castle/1373
  52. 弾薬も城兵も尽きた絶望の80日間。魚津城12将がみせた最期のパフォーマンス - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/85451/
  53. 444年経た今、上杉謙信と織田信長の「手取川合戦」を再検証 | SYNCHRONOUS シンクロナス https://www.synchronous.jp/articles/-/185
  54. 謙信×信長 : 手取川合戦の真実 - 新書マップ https://shinshomap.info/book/9784569854717
  55. 【書評】乃至政彦「謙信×信長 手取川合戦の真実」(PHP新書)|三城俊一/歴史ライター - note https://note.com/toubunren/n/n026acb86a982