最終更新日 2025-09-02

揖斐・横山峡口の戦い(1567)

永禄十年、織田信長は美濃攻略の最終段階で、西美濃三人衆の内応により揖斐川流域を戦わずして掌握。この戦略的勝利により、信長は後顧の憂いなく稲葉山城へ電撃作戦を敢行。わずか十五日間で斎藤氏を滅亡させ、長年の宿願を達成し、天下布武の拠点「岐阜」を誕生させた。

永禄十年 織田信長による美濃最終攻略戦の全貌 ―『揖斐・横山峡口の戦い』の実相と稲葉山城陥落の時系列分析―

序章:美濃を巡る宿願 ―父子二代の悲願と戦略の転換―

「揖斐・横山峡口の戦い」という呼称は、永禄10年(1567年)に織田信長が成し遂げた美濃国平定の最終局面を象徴する、極めて重要な戦略的段階を示唆するものである。これは単一の合戦を指す固有名詞ではなく、稲葉山城攻略に至る過程における西美濃の掌握と、そこに至る進撃路の確保という一連の軍事行動の総称と解釈するのが最も妥当である。本報告書は、この「揖斐・横山峡口」が内包する戦略的意義を解き明かしつつ、稲葉山城陥落に至る全過程を、史料に基づき時系列で詳細に再現し、その歴史的実像を明らかにすることを目的とする。

美濃攻略は、信長にとって父・織田信秀の代からの宿願であった。信秀はかつて、美濃の主・土岐頼芸を支援するという名目で再三美濃へ侵攻したが、天文16年(1547年)の「加納口の戦い」において、斎藤道三の巧みな戦術の前に大敗を喫した 1 。この敗北は、織田家にとって大きな痛手となり、信秀は道三との和睦を選択せざるを得なくなる。その証として、道三の娘・帰蝶(濃姫)が信長に嫁いだことは広く知られている 1 。信長にとって美濃平定は、単なる領土拡大に留まらず、父の雪辱を果たすという二代越しの悲願でもあった。

道三が息子・義龍に討たれた「長良川の戦い」(弘治2年/1556年)以降、信長は美濃への侵攻を本格化させるが、その道のりは決して平坦ではなかった 3 。当初、信長は本拠地の清洲城から直接、西美濃方面への侵攻を試みたが、この地域は斎藤家の重臣たちが強固な防衛網を敷いており、戦況は一進一退を繰り返した 3 。森部の戦いでの勝利はあったものの 3 、新加納の戦いでは敗北を喫するなど 4 、力攻めだけでは美濃を制することが困難であることを痛感させられた。

この状況を打開する戦略的転換点が、永禄6年(1563年)の小牧山城の築城と、それに伴う本拠地の移転である 3 。尾張の北端に位置する小牧山に拠点を移したことで、信長は攻撃の主軸を、強固な西美濃から、斎藤家の支配が比較的脆弱であった東美濃・中濃へとシフトさせることが可能となった。これは単なる地理的な移動ではなく、敵の強固な正面を避け、弱点を突くという、信長の戦略思想の成熟を示すものであった。

小牧山城を拠点として、信長は東美濃・中濃の国人衆に対し、調略と武力を織り交ぜた切り崩し工作を粘り強く展開する。鵜沼城、猿啄城を次々と攻略し 7 、永禄8年(1565年)には堂洞城を巡る攻防戦に勝利して中濃地方の大部分を勢力圏に収めた 7 。この地道な外堀の埋め立て作業により、斎藤家の本拠地・稲葉山城は徐々に孤立し、その支配体制は内部から静かに侵食されていった。したがって、永禄10年の電撃的な稲葉山城陥落は、決して偶然の産物や単なる奇襲の成功ではない。それは、数年間にわたる周到な戦略と、状況に応じて攻撃正面を変更する柔軟な思考の末に手繰り寄せられた、必然的な勝利だったのである。

第一部:落日の斎藤家 ―内部から崩壊する名門の権威―

織田信長の美濃攻略が最終的に成功した背景には、敵である斎藤家内部の深刻な崩壊があった。国盗りの梟雄・斎藤道三、そして父を討って実権を握った斎藤義龍という二代の強力な当主が相次いで世を去った後、永禄4年(1561年)に家督を継いだのは、義龍の子・斎藤龍興であった 9 。当時まだ14歳という若年の龍興には、百戦錬磨の家臣団を束ねるだけの器量と求心力が欠けていた 9 。龍興が一部の側近のみを寵愛し、譜代の重臣たちを遠ざけるようになると、家中の不満は急速に高まっていった 11

この斎藤家の権威失墜を象徴する決定的な事件が、永禄7年(1564年)2月に発生した、竹中半兵衛(重治)による稲葉山城乗っ取りである 5 。半兵衛は龍興の側近から櫓の上から小便をかけられるという屈辱的な仕打ちを受けたとされ、これをきっかけに主君への諫言を決意したと言われる 14 。半兵衛は舅である安藤守就と共謀し、人質として城内にいた弟・重矩の手引きを利用して、わずか十数名の手勢で難攻不落の稲葉山城を白昼堂々占拠した 11

この奇襲に対し、龍興は全く抵抗できず、寝間着姿のまま城を脱出するという醜態を晒した 14 。この事件は、斎藤家の当主が自らの居城を守ることすらできないという事実を内外に示し、その権威を完全に失墜させた 2 。信長はこの機に半兵衛に城の明け渡しを求めたが、半兵衛はこれを拒絶。彼の目的は主家を乗っ取ることではなく、あくまで主君・龍興の目を覚まさせるための「諫言」であったとされ、約半年後に城を龍興に返還している 5 。しかし、一度地に落ちた権威は回復せず、この事件を境に家臣団の離反は加速していく。

こうした状況下で、ついに斎藤家の屋台骨を支えてきた重臣たちが、龍興を見限る決断を下す。北方城主・安藤守就、曽根城主・稲葉一鉄(良通)、大垣城主・氏家卜全(直元)の三名、すなわち「西美濃三人衆」である 8 。彼らはいずれも道三の代、あるいはそれ以前の土岐氏の時代から美濃に仕えてきた名門であり、その影響力は絶大であった 12 。度重なる諫言も龍興に聞き入れられず、逆に疎まれたことへの不満 11 、そして信長の執拗な調略と、日に日に衰退していく斎藤家の将来性に見切りをつけたことが、彼らを織田方への内応へと踏み切らせた複合的な要因であったと考えられる 12 。彼らの離反は、斎藤家の内部崩壊がもはや修復不可能な段階に達したことを意味していた。

第二部:永禄十年八月、運命の十五日間 ―稲葉山城陥落のリアルタイム詳解―

永禄10年(1567年)8月、織田信長による美濃最終攻略戦の幕が切って落とされた。その作戦は、敵はおろか味方の想像すら超える速度で展開され、わずか半月で美濃の名門・斎藤氏を滅亡へと追い込んだ。以下に、信頼性の高い一次史料である『信長公記』の記述を骨格とし、他の記録を補いながら、その運命の十五日間を時系列で詳解する。

【表1】美濃最終攻略戦 タイムライン(永禄10年8月1日~15日)

日付 (西暦1567年)

時間帯 (推定)

織田軍の動向

斎藤軍の動向

西美濃三人衆の動き

8月1日

終日

西美濃三人衆からの内応の使者を受理。人質受領の使者(村井貞勝ら)を派遣。

-

信長へ内応を申し入れ、人質提出を約束 2

8月上旬 (日付不詳)

-

「三河方面へ出陣」との偽情報を流布。人質の到着を待たずに小牧山城から電撃出陣 9

偽情報により油断し、初動が遅れる 9

人質を準備し、信長の使者を待つ。

同日

夜間 (推定)

稲葉山城と尾根続きの瑞龍寺山へ進軍し、これを占拠 2

突如現れた軍勢に混乱。「敵か味方か」と戸惑う 17

-

同日深夜~翌日未明

-

混乱に乗じ、城下町「井口」に放火。強風を利用し、稲葉山城を「裸城」化する 2

城下からの火の手により、さらに混乱。防御拠点を失う。

-

8月14日

終日

稲葉山城の四方を鹿垣で完全に包囲。包囲網を完成させる 2

完全に孤立無援となり、戦意を喪失。

信長の陣に到着。神速の用兵に驚愕し、改めて忠誠を誓う 17

8月15日

終日

降伏を受け入れる。

城兵が降伏。斎藤龍興は舟で長良川を下り、伊勢長島へ脱出 2

織田軍に合流し、美濃平定に協力。

八月一日:内応の密約

永禄10年8月1日、信長が小牧山城にいるもとへ、西美濃三人衆からの使者が到着した。その内容は、「信長公の味方に参じますので、その証として我らの人質をお受け取りください」という、美濃の運命を決定づける内応の申し出であった 2 。信長はこれを即座に承諾し、人質を預かるための使者として、重臣の村井貞勝と島田秀満を西美濃へと派遣した 8 。通常であれば、人質の安全な到着を確認してから軍を動かすのが、この時代の常識であった。

八月上旬(日付不詳):欺瞞と電撃

しかし、信長の思考は常識の枠を超えていた。彼は、兵を招集するにあたり「三河方面へ出陣する」と触れ回ることで、斎藤龍興の注意を逸らす欺瞞作戦を実行した 9 。そして、西美濃へ派遣した使者が人質を連れて帰還するのを待つことなく、「俄かに御人数出だされ」(『信長公記』)、突如として美濃へ向けて進軍を開始したのである 17 。この決断は、敵だけでなく、内応を約束したばかりの西美濃三人衆にとっても全くの想定外であった。

合戦第一局面:先手必勝の拠点確保

織田軍の目標は、稲葉山城そのものではなく、まずその南西に位置し、尾根続きとなっている戦略的要衝・瑞龍寺山(現在の水道山)であった 18 。信長は軍勢を率いて一気にこの山へ駆け上がり、占拠した 2 。稲葉山城の城兵たちは、山続きの場所に突如として大軍が出現したことに狼狽し、「是れは如何に。敵か味方か」(『信長公記』)と右往左往するばかりで、有効な迎撃態勢を全く取ることができなかった 17 。この心理的混乱こそが、信長の第一の狙いであった。

合戦第二局面:「裸城」化作戦

斎藤方が混乱の極みにある、まさにその時を捉え、信長は次の一手を打つ。城下の町「井口」への放火である 2 。『信長公記』は、その日の天候について「其の日、以外に風吹き候」と特筆している 17 。信長はこの強風を計算に入れ、火を放つことで瞬く間に城下町全域を炎上させた。これにより、稲葉山城は城下からの兵站や支援を完全に断たれ、防御拠点としての機能も失った、文字通りの「裸城」と化したのである。

八月十四日:包囲網の完成

城下町を焼き払った翌日、信長は城の四方を鹿垣(移動式の防柵)で幾重にも囲み、稲葉山城を完全に封鎖した 2 。この頃、ようやく内応した西美濃三人衆が信長の陣に挨拶に訪れた。彼らが見たものは、自分たちの人質がまだ到着していないにもかかわらず、既に主君の居城が完璧に包囲されているという信じがたい光景であった。『信長公記』は、彼らがその神速の用兵に「肝をひやし」、驚愕しながらも信長に礼を述べたと記している 17 。この一連の出来事は、彼らに信長の非凡な軍才を改めて認識させ、織田家への忠誠を決定的なものにした。

八月十五日:終焉

出陣からわずか半月。完全に孤立無援となり、家臣団の離反にも直面した斎藤龍興は、もはや籠城を続ける戦意を喪失した 7 。8月15日、城兵は降伏し、龍興は数名の供とともに城を脱出。舟に乗り、長良川を下って伊勢長島の一向一揆衆のもとへと落ち延びていった 2 。これにより、斎藤道三から三代続いた美濃斎藤氏は、事実上滅亡した。

この稲葉山城攻略戦における信長の最大の武器は、兵力や兵器ではなく、敵味方の思考速度を凌駕する「時間」の圧倒的な支配であった。三人衆からの内応という情報を得た瞬間、信長は「人質の確認」という常識的なプロセスを省略し、即座に行動を開始した。この決断は、敵である斎藤方の対応時間を奪うだけでなく、味方である三人衆が心変わりする時間的猶予すら与えなかった。瑞龍寺山占拠から放火、包囲までの一連の行動は、物理的な空間を制圧すると同時に、「敵が次の一手を考える時間」そのものを破壊する行為であった。結果として、斎藤方は有効な反撃策を講じる間もなく心理的に圧倒され、最小限の戦闘で崩壊した。これは、物理的な損害を極小化し、戦略的勝利を最大化するという、極めて高度な戦術思想の表れであった。

第三部:『揖斐・横山峡口』の戦略的意義の再検証

利用者様が当初提示された「揖斐・横山峡口の戦い」という名称について、その戦略的意義を再検証する。まず「横山」という地名であるが、戦国時代の美濃国において、この稲葉山城攻略戦に関連する著名な「横山城」や「横山峡」の存在は、主要な史料からは確認できない。近江国には、姉川の戦いで織田軍の重要拠点となった横山城が存在するが 20 、これは美濃の戦いとは直接関係がない。したがって、この「横山峡口」という呼称は、近江横山城の戦略的重要性からの類推、あるいは揖斐川上流の横山ダム周辺 24 に見られるような峡谷地帯を指す地理的なイメージから生まれたものである可能性が高い。

一方で、「揖斐」という地名は、この攻略戦において決定的に重要な意味を持つ。揖斐川流域は、西美濃三人衆の拠点、すなわち稲葉氏の曽根城、氏家氏の大垣城、安藤氏の北方城などが点在する、彼らの勢力基盤そのものであった 15 。現在の揖斐川町歴史民俗資料館に、西美濃三人衆の一人である稲葉一鉄の甲冑が所蔵されていることからも 27 、この地域と彼らの強い結びつきが窺える。

この事実を踏まえると、「揖斐・横山峡口の戦い」の実相が浮かび上がってくる。これは、刀や槍を交える大規模な野戦や攻城戦を指すのではなく、**「西美濃三人衆の内応によって、織田軍が揖斐川流域という戦略的回廊を、戦わずして掌握した」**という戦略的勝利そのものを指すものと再定義できる。三人衆が織田方への合流を決定した時点で、稲葉山城の西側防衛線は事実上崩壊した。彼らが自らの領地を通って信長の本隊に合流する過程で、斎藤方に与する小規模な抵抗勢力との衝突や、織田軍の別動隊による渡河支援・進路確保といった軍事行動はあったかもしれない。しかし、それは方面軍全体の帰趨を決するような大規模な「戦い」ではなかった。

結論として、「揖斐での戦い」は、稲葉山城を攻めるための前提条件を整えるための**「後方における政略的・戦略的勝利」**であった。この目に見えない「戦い」に勝利したからこそ、信長は後顧の憂いなく、全軍を稲葉山城への電撃作戦に集中させることができたのである。稲葉山城攻めにおいて、西美濃からの大規模な援軍が龍興のもとに駆けつけなかったのは、その方面における「戦い」が、火蓋を切る前に既に終わっていたからに他ならない。

第四部:多様な記録と語り継がれる英雄譚

稲葉山城の戦いは、その劇的な結末から、複数の史料に記録され、後世には様々な英雄譚を生み出した。しかし、その描写は記録者によって異なり、歴史の多面性を物語っている。

【表2】主要史料における稲葉山城の戦いの記述比較

項目

『信長公記』(太田牛一)

『フロイス日本史』(ルイス・フロイス)

合戦の性格

内部からの切り崩しと奇襲による攻城戦

野戦における戦術的勝利が主

主要戦術

西美濃三人衆の内応、神速の進軍、城下への放火、完全包囲

夜間の伏兵、敵の旗印を用いた偽装、挟撃戦術

斎藤龍興の動向

籠城の末、舟で伊勢長島へ脱出

野戦で敗れた後、数名の供と騎馬で京、堺へ脱出

合戦期間

8月1日から15日までの約半月間

短期間の決戦として描写(具体的な日数は不明)

二つのナラティブ ―『信長公記』と『フロイス日本史』―

信長の側近であった太田牛一が記した『信長公記』は、本報告書でも主軸とした通り、西美濃三人衆の内応という「政略」と、信長の神速の「奇襲」を勝利の最大の要因として描いている 17 。これは、信長の非凡な指導力と決断力を強調する意図が明確に見て取れる、いわば「内部からの視点」である。

一方、イエズス会宣教師ルイス・フロイスが、伝聞情報を基に記した『フロイス日本史』は、全く異なる合戦の様相を伝えている 4 。フロイスによれば、信長は夜間に軍勢の一部を敵の背後に忍び込ませ、斎藤方の家臣の旗印を掲げさせて味方と誤認させた。そして、龍興が進撃してきたところを前後から挟撃し、野戦で壊滅的な打撃を与えた後に稲葉山城を陥落させたとされる。これは、より戦術的で劇的な展開を特徴とする「外部からの視点」である。

両者の記述は一見矛盾するように見えるが、必ずしもそうとは限らない。これらは合戦の異なる側面を捉えている可能性がある。例えば、フロイスが記述する野戦は、稲葉山城の本格的な包囲が始まる前に行われた前哨戦であった可能性も考えられる。両史料を併読することで、政略、奇襲、そして戦術的駆け引きが複雑に絡み合った、より立体的で複眼的な合戦像が浮かび上がってくる。

英雄譚の形成 ―木下藤吉郎(豊臣秀吉)の役割―

稲葉山城攻略は、後世、豊臣秀吉の立身出世物語における重要な一場面として、様々な伝説で彩られることになった。その代表格が「墨俣一夜城」の伝説である 8 。これは、秀吉が敵地である美濃の墨俣に、川の上流で加工した木材を流して運び、一夜にして砦を築き上げたという逸話である。また、稲葉山城の裏手の崖から、蜂須賀小六らとともに少人数で潜入し、内部から混乱させて落城に導いたという物語も広く知られている 28

しかし、これらの劇的な逸話は、同時代の信頼性の高い史料である『信長公記』には一切記述が見られない。そのため、史実としての信憑性は極めて低い、あるいは後世の創作である可能性が高いと考えられている。特に『絵本太閤記』のような江戸時代の読み物を通じて、庶民の人気を博す中で形成されていった英雄譚である。

これらの伝説は、史実とは言えないものの、文化史的には重要な価値を持つ。それは、信長の美濃攻略において、力攻めだけでなく、調略や奇策、そして前線基地の確保といった多角的な戦略が重要視されていたという事実を象徴する物語として機能しているからである。秀吉という稀代の出世頭の物語に組み込まれることで、稲葉山城の戦いは、単なる歴史的事件から、人々の記憶に深く刻まれる英雄譚へと昇華されていったのである。

終章:天下布武の拠点「岐阜」の誕生

永禄10年8月15日、稲葉山城の陥落をもって、織田信長は父・信秀の代からの悲願であった美濃平定を、ついに成し遂げた。この勝利は、単なる一国の平定に留まらず、信長の、そして日本の歴史の大きな転換点となった。

美濃を手中に収めた信長は、直ちに本拠地を小牧山城から稲葉山城へと移した 2 。そして、この地から天下統一事業を本格的に開始するという強い意志を、新たな地名に込めた。城の名を「稲葉山城」から**「岐阜城」

へ、城下町の名を「井口」から 「岐阜」**へと改めたのである 1 。この「岐阜」という名は、古代中国において、周の文王が拠点とし、天下統一の基礎を築いたとされる聖地「岐山」の麓に由来する 2 。信長は、自らを周の文王になぞらえ、この地を新たな天下経営の拠点とする決意を天下に示したのだ。

この意志表明をさらに明確にしたのが、有名な**「天下布武」**の朱印の使用開始である。永禄10年11月頃から、信長はこの四文字を刻んだ印判を公的な文書に用いるようになった 5 。これは一般に「武力をもって天下を統一する」と解釈されがちだが、一説には古代中国の書物『左伝』に見える「七徳の武」(暴を禁じ、戦を止め、大を保ち、功を定め、民を安んじ、衆を和し、財を豊かにする徳)を天下に布く、という平和国家建設の理念が含まれていたとも言われる 31 。いずれにせよ、この印の使用は、信長の戦いが領土拡大のための私戦から、天下の再統一という公的な大義を持つ事業へと昇華したことを示す画期的な出来事であった。

信長は軍事・政治面だけでなく、経済政策にも着手した。自らの奇襲作戦で焼き払った城下町を復興させるため、商工業者が自由な営業活動を行える「楽市楽座」の政策を実施し、岐阜の町は急速に活気を取り戻し、日本有数の経済都市へと発展した 2

稲葉山城の攻略は、信長に尾張・美濃という濃尾平野の広大で豊かな経済基盤を完全に掌握させ、足利義昭を奉じて上洛するための道を切り開いた。近年の岐阜城跡の発掘調査では、信長が山上の天守周辺にも庭園のような空間を設け、来客をもてなしていた可能性が指摘されるなど 32 、その統治の実像は今なお新たな発見によって更新され続けている。この戦いは、織田信長が尾張の一戦国大名から、天下の行く末を左右する「天下人」へと飛躍する、決定的な分水嶺であったと結論付けられる。

引用文献

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  2. 【解説:信長の戦い】稲葉山城の戦い(1567、岐阜県岐阜市金華山) 信長は如何にして美濃平定を成し遂げたのか? https://sengoku-his.com/485
  3. 織田信長の美濃侵攻 前半 - よしもと新聞舗:岐阜県瑞穂市情報お届けサイト https://www.yoshimoto-shinbun.com/history/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7%E3%81%AE%E7%BE%8E%E6%BF%83%E4%BE%B5%E6%94%BB/
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  13. 【岐阜県】岐阜城(稲葉山城)の歴史 信長に天下の夢を見させた山城! https://sengoku-his.com/880
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  22. 横山城(滋賀県長浜市)の詳細情報・口コミ | ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/castles/6179
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  24. はたご岩 | 子供とお出かけ情報「いこーよ」 https://iko-yo.net/facilities/51634
  25. 奥揖斐峡 クチコミ・アクセス・営業時間|揖斐川 - フォートラベル https://4travel.jp/dm_shisetsu/11308357
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  30. 稲葉山城の戦い古戦場:岐阜県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/inabayamajo/
  31. 織田信長公と岐阜 |特集記事 - エエトコタント岐阜市 https://cool-gifucity.jp/feature/%E3%81%9D%E3%81%AE%E4%BB%96/p4826/
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