最終更新日 2025-09-02

揚北衆の乱(1564~67)

永禄十一年、越後の揚北衆・本庄繁長は、恩賞への不満と武田信玄の調略に応じ、上杉謙信に反旗を翻した。繁長は寡兵ながらも本庄城に籠城し、夜襲やゲリラ戦で上杉軍を苦しめ、約一年間持ちこたえた。この乱は謙信の領国経営の課題を露呈させ、後の上杉家を揺るがす内乱の伏線となった。

越後の独立精神 ― 揚北衆の乱(本庄繁長の乱)の真相と上杉謙信の国家構想

序章: 揚北衆とは何か ― 越後における「国衆」の特異性

阿賀野川の北に割拠した誇り高き武士団

日本の戦国時代、越後国(現在の新潟県)の北部に、一際強い独立性と誇りを抱いた武士団が存在した。彼らは、越後の中部を流れる阿賀野川(古くは揚河と呼ばれた)の北岸地域に割拠していたことから、「揚北衆(あがきたしゅう)」と総称される 1 。この揚北衆は単一の氏族ではなく、本庄(ほんじょう)氏、色部(いろべ)氏、中条(ちゅうじょう)氏、黒川(くろかわ)氏、鮎川(あゆかわ)氏、新発田(しばた)氏といった複数の国人豪族によって構成される、一種の連合体としての性格を有していた 3

彼らの多くは、鎌倉幕府と直接主従関係を結んだ御家人の流れを汲んでおり、代々その土地を支配してきた領主としての自負心が極めて強かった 2 。戦国時代に入り、越後守護代であった長尾氏(後の上杉氏)の支配下にあっても、彼らは単なる家臣ではなく、半ば独立した領主として振る舞おうとする気風に満ちていたのである 5

上杉謙信(長尾景虎)の越後統一と揚北衆の微妙な関係

「軍神」と謳われた上杉謙信(当時は長尾景虎)が越後を統一した後も、その支配体制は後世の徳川幕府のような中央集権的なものではなかった。むしろ、独立性の高い国衆たちとの連合政権に近い形態であり、特に誇り高い揚北衆をいかに掌握し、上杉家の軍事力として効果的に組み込むかは、謙信の領国経営における最大の課題であり続けた 5

この関係をさらに複雑にしたのが、謙信が掲げた「義」の戦いであった。関東管領としての職責を果たすための関東出兵や、宿敵・武田信玄との川中島での死闘は、必ずしも越後の国衆たちの所領拡大という実利には結びつかなかった 6 。彼らにとっては、多大な軍役の負担のみを強いられる「奉公」であり、その見返りが少ないことへの不満が潜在的に蓄積していく構造にあった。

本レポートの視点:期間設定(1564-67年)の解釈

本稿で扱う「揚北衆の乱」は、一般的に永禄11年(1568年)から永禄12年(1569年)にかけて発生した「本庄繁長の乱」を指すことが多い 3 。しかし、ご依頼の期間である「1564年から1567年」は、この大規模な反乱が勃発する直前の時期にあたる。

この事実に鑑み、本レポートではこの期間を、永禄4年(1561年)の第四次川中島合戦以降に顕在化した上杉家中の不協和音が、永禄11年(1568年)の本庄繁長の蜂起へと至るまでの「乱の胎動期」と位置づける。この視点を採用することで、この反乱が一個人の突発的な行動ではなく、越後国が抱える構造的な問題が時間をかけて醸成された結果であったことを立体的に解き明かすことを目的とする。

この乱は、単なる一個人の不満が引き起こした偶発的な事件ではない。それは、上杉謙信の統治構造が内包していた「遠心力」と、武田信玄という外部勢力が巧みに利用した「求心力」とが衝突した、いわば必然的な帰結であった。謙信の統治は、それぞれが独立領主である国衆の連合体という脆弱性を常に抱えていた。彼らの忠誠心をつなぎとめる最大の要因は、恩賞、すなわち領地の加増であったが、謙信の「義戦」はその原資を生み出しにくかった。この構造的矛盾に対し、武田信玄が「謙信からの離反」という、より魅力的な選択肢を提示した時、国衆が自らの利益を最大化するためにそれに靡くのは、戦国時代の冷徹な論理であった。本庄繁長の行動は、この矛盾が臨界点に達し、顕在化した象徴的な事件だったのである。

第一部: 乱の胎動 ― 永禄年間の不協和音

遠因:第四次川中島合戦(1561年)における謙信の采配と家中の亀裂

本庄繁長の乱に至る伏線は、永禄4年(1561年)に遡る。戦国史上屈指の激戦として知られる第四次川中島合戦は、上杉・武田両軍に甚大な被害をもたらし、結果的には痛み分けに近い形で終結した 9 。この戦いにおいて、上杉家中に深刻な亀裂が生じる。謙信の「七手組」と称された有力武将の一人、長尾藤景が、謙信の作戦指導に対して公然と異を唱え、非難したのである 9 。部隊指揮官としての立場から、藤景には大いに思うところがあったのであろう。この一件により、謙信と藤景の関係には修復しがたい溝が生まれ、軍神のカリスマをもってしても、家中を完全に一枚岩にまとめることの困難さが露呈した。

導火線:長尾藤景の誅殺と本庄繁長の功績なき任務(1568年)

永禄11年(1568年)、謙信はついに、かねてからの対立者であった長尾藤景・景治兄弟の誅殺を決断し、その実行者として揚北衆の猛将・本庄繁長に白羽の矢を立てた 9 。繁長は、祝宴に招き寄せて謀殺するという、極めて困難かつ不名誉な手段を用いてこの任務を遂行。その際、自らも負傷するほどの働きを見せた 9

しかし、この「汚れ仕事」とも言える任務に対し、謙信からは一切の恩賞が与えられなかった 9 。この処遇が、繁長のプライドを深く傷つけ、上杉家への不満を決定的なものにした。

この一連の不可解な人事は、単なる謙信の失念や吝嗇と見るべきではない。むしろ、二人の危険な有力国衆、すなわち長尾藤景と本庄繁長を衝突させ、共倒れ、あるいは少なくとも一方を弱体化させることを狙った、冷徹な政治的計算があった可能性が考えられる。謙信にとって、藤景は統制の難しい政敵であり、繁長もまた独立心の強い潜在的な脅威であった。この二人を直接対決させ、さらに繁長には謀殺という不名誉な手段をとらせた上で恩賞を与えない。これは繁長の影響力拡大を抑制し、家中における自身の権力を強化しようとする、極めてマキャベリスティックな権力闘争の一手と解釈できる。しかし、この策は繁長の自尊心を過度に刺激し、結果として彼を敵の手に押しやるという、最悪の裏目に出ることになる。

黒幕の影:甲斐の武田信玄による調略と「謙信包囲網」の形成

繁長の不満が頂点に達したその時、絶妙な好機と捉えて接触してきたのが、甲斐の武田信玄であった。当時、信玄は謙信の上洛を阻止し、自らの西方戦略(特に駿河侵攻)を有利に進めるため、越後国境周辺の国衆や諸勢力に対し、活発な調略活動を展開していた 9

信玄は、恩賞への不満を募らせていた繁長に接近し、反乱を唆した 7 。信玄の狙いは、越後国内に内乱を引き起こすことで謙信を足止めにし、その間に戦略目標を達成することにあった。繁長はこの誘いに応じ、長年仕えた主君に反旗を翻すことを決意。ここに、越後を揺るがす大乱の幕が切って落とされるのである。

第二部: 合戦のリアルタイム詳報 ― 本庄繁長の乱(1568-1569)

【表1】揚北衆の乱 関連年表(1568-1569)

年月

上杉方の動向

本庄・武田・周辺勢力の動向

備考

永禄11年 (1568)

3月

謙信、越中へ出兵。畠山氏の内紛に介入し、守山城を攻撃 3

謙信の不在を突き、本庄繁長が本庄城で挙兵。周辺の揚北衆に同調を促す密書を送る 3

中条藤資、色部勝長、鮎川盛長らは同調せず。中条は繁長の謀反を謙信に通報 7

3月25日

謙信、繁長謀反の報を受け、越中から春日山城へ急ぎ帰還 7

4月中旬

安田能元・岩井信能を信濃飯山城へ派遣。信越国境を封鎖し、武田軍の侵入に備える 7

謙信の初動。繁長本体より、背後の武田軍との連携を断つことを優先する冷静な戦略。

5月

繁長に攻撃された鮎川氏へ、鉄砲の玉薬などを送り支援 7

繁長、謙信方の鮎川氏領・大場沢城を攻撃 7

揚北衆内部での戦闘が開始される。

7月-8月

春日山城に留まり、信玄の動きを注視。関山方面へは上杉景信らを派遣して備える 7

武田信玄、飯山・関山方面へ出兵し、謙信を牽制。同時に陸奥の蘆名氏、出羽の伊達氏、庄内の大宝寺氏らに繁長支援を要請 7

信玄の陽動。直接的な軍事介入は避けつつ、外交と軍事圧力で謙信を釘付けにする。

10月20日

謙信、遂に本庄城へ向け親征を開始。この時、養子の顕景(後の上杉景勝)が初陣を飾る 3

武田軍の本格的な介入がないことを見極め、満を持しての出陣。

11月7日

本庄城への包囲網を完成させ、攻撃を開始。猛攻により外曲輪を突破する 7

繁長、本庄城に籠城し、徹底抗戦の構えを見せる。

上杉軍の総兵力は約1万と推定される 9

11月-12月

力攻めを避け、本庄城の四方に付け城を構築しての持久戦に移行 7 。攻城戦や繁長軍の夜襲により、1000名ほどの死傷者を出す甚大な被害を受ける 9

繁長、籠城戦と夜襲・ゲリラ戦を巧みに組み合わせ、上杉本軍を翻弄。上杉軍の荷駄隊襲撃なども行い、補給線を脅かす 3

猛将・繁長の戦術が冴え、戦局は膠着状態に陥る。

永禄12年 (1569)

1月10日

包囲中の陣にて、揚北衆の重鎮・色部勝長が繁長軍の夜襲を受け討死(病死説もあり) 5

繁長、決死の夜襲を敢行し、敵将を討ち取る大戦果を挙げる。

上杉方にとって大きな痛手。忠実な揚北衆の重鎮を失い、士気にも影響。

2月-3月

蘆名・伊達氏の調停を受け入れ、和睦交渉に応じる。

繁長、完全に孤立。武田からの支援は兵糧のみに限られ 8 、継戦能力が限界に。伊達氏、蘆名氏が和睦の仲介に乗り出す 10

外部からの支援が途絶え、繁長は降伏を決意せざるを得なくなる。

3月

和睦成立。繁長の帰参を許す。

繁長、降伏し本庄城を開城。嫡男・顕長を人質として差し出す 15

約1年間にわたる反乱が終結する。

謙信の一連の対応は、極めて冷静な戦略眼に基づいていた。繁長の反乱という「患部」をすぐに切除するのではなく、まず武田信玄という外部からの「出血」を止めることを最優先したのである。繁長の反乱がもたらす最大の危険は、武田軍と連携され、越後国内で挟撃されることであった。そのため謙信は帰国後、すぐには本庄城へ向かわず、信越国境の飯山城を固め、武田軍の侵入経路を物理的に遮断する「止血」措置を講じた 7 。夏の間、信玄が国境付近で牽制行動をとっても、謙信は春日山城から動かず、迎撃部隊を派遣するに留め、敵の陽動に乗らなかった。そして、武田軍の本格的な介入がないことを確信した10月、満を持して本庄城の「外科手術」に取り掛かった。この的確な手順こそが、上杉家の崩壊を防いだ最大の要因であったと言えよう。

第三部: 戦場分析 ― なぜ本庄城は落ちなかったのか

上杉謙信自らが率いる大軍を相手に、本庄繁長はなぜ一年近くも持ちこたえることができたのか。その要因は、城郭、兵力、そして戦術の三つの側面に求めることができる。

城郭の視点:中世山城としての本庄城(村上城)の構造と防御機能

乱の舞台となった本庄城(後の村上城)は、標高135メートルの臥牛山に築かれた平山城であった 16 。当時の城は、石垣を多用した近世城郭ではなく、自然地形を巧みに利用し、木柵や土塁、堀切で防御を固めた中世式の山城であった 16

城の縄張りは、複雑な地形を活かして多数の腰曲輪、敵の侵攻を阻む長大な竪堀、土塁、そして複雑な動線を強いる虎口(城門)などが効果的に配置されていた 18 。特に城の東側は傾斜が比較的緩やかで地形が入り組んでいるため、多段的な防御陣地を構築することが可能であったと推測される 18 。さらに、『上杉年譜』には「南方は深田洋々として湖水の如し、西は大海原、特に大河は郭をめぐり、地利無双の城地たり」と記されており、湿地帯や日本海、河川に囲まれた天然の要害であったことがわかる 14 。このような地形的利点が、大軍による包囲・攻撃を困難にし、長期の籠城戦を可能にしたのである。

兵力の視点:上杉軍一万に対し、寡兵で抗戦した本庄軍の兵力と士気

この戦いにおいて、両軍の兵力には圧倒的な差があった。上杉軍は、家中の主立つ武将が総動員され、その兵力は約1万に達したと推定されている 3 。対する本庄軍は、「寡兵」であったと記録されており、具体的な数字は不明である 9 。しかし、繁長の後の石高が約1万1千石であったこと 19 、そして戦国期の一般的な軍役が「百石につき五人」程度であったこと 20 から計算すると、繁長が動員できる中核兵力は500名から600名程度であったと考えられる。これに領内の地侍や農民兵を最大限動員したとしても、その総数は2,000名から3,000名程度であった可能性が高い。

1万対3千以下という絶望的な兵力差にもかかわらず、一年近くも持ちこたえた背景には、兵の士気の差があった。上杉軍の兵士にとって、この戦いは主君の命令による「内輪揉め」の鎮圧であったのに対し、本庄軍の兵士にとっては、自らの土地と家族、そして誇りを守るための決死の防衛戦であった。この士気の高さが、兵力差を埋める大きな要因となったのである。

戦術の視点:籠城戦とゲリラ戦を組み合わせた本庄繁長の卓越した指揮能力

本庄繁長の武将としての真価は、その卓越した戦術眼にあった。彼は単に城に籠って防御に徹するのではなく、籠城戦と城外での迎撃戦を組み合わせた、柔軟な「ハイブリッド戦術」を展開した 3

特に繁長が得意としたのが夜襲であった。闇に紛れて城から打って出ては上杉軍の陣を急襲し、損害を与えては素早く城内に撤退する戦法を繰り返した。永禄12年1月には、この夜襲によって上杉方の重鎮・色部勝長を討ち取るという大戦果を挙げている 12 。さらに、大軍の弱点である兵站線にも着目し、上杉軍の荷駄隊を襲撃して補給を妨害するゲリラ戦も展開した 3

これらの巧みな戦術によって、上杉軍は攻城戦の過程で1,000名もの死傷者を出すという手痛い損害を被り、戦局は完全に膠着した 9 。名将・上杉謙信が率いる本軍を相手に、これほどの損害を与え、戦を長期化させた繁長の武名は、この一戦によって越後のみならず、広く天下に知れ渡ることとなった 3

【表2】本庄城攻防戦における両軍の比較

項目

上杉軍

本庄軍

総大将

上杉謙信(輝虎)

本庄繁長

推定兵力

約10,000名

約2,000~3,000名(推定)

主要武将

直江実綱、色部勝長、上杉景勝(初陣)など上杉家中の主立つ武将

本庄繁長、一族郎党、配下の国人

基本戦略

包囲・持久戦(付け城の構築)

籠城を基本としつつ、積極的な迎撃戦を展開

戦術的特徴

正攻法による包囲、外郭からの順次攻略

夜襲、ゲリラ戦、兵站攻撃を組み合わせた非対称戦

強み

圧倒的な兵力と物量、謙信の采配

地の利、高い士気、繁長の卓越した戦術眼

弱み

大軍ゆえの兵站維持の困難さ、攻めあぐねによる士気の低下

兵力・物量の劣勢、外部からの支援の途絶

この比較表は、単なる兵力差だけでは戦の帰趨は決まらないという、戦国の現実を如実に示している。本庄軍が善戦できたのは、地の利を最大限に活かし、兵力で劣る弱者が強者に抗うための非対称戦を徹底して遂行した繁長の指揮能力に負うところが大きい。

第四部: 乱後の波紋 ― 越後国衆体制の再編と遺恨

戦後処理:繁長の赦免と嫡子・顕長の人質提出

約1年にわたる激しい攻防の末、乱は和睦という形で終結した。驚くべきことに、あれほど手こずらされた謀反人である本庄繁長に対し、謙信は死罪ではなく赦免という寛大な処置を下し、再び上杉家の家臣として迎え入れた 6 。これは、繁長の比類なき武勇を高く評価し、敵に回すよりも味方として活用する方が得策であると判断した、謙信の度量の大きさと、冷徹な現実主義者としての一面を示すものである。

無論、無条件の赦免ではなかった。恭順の証として、繁長の嫡男・顕長(千代丸)が人質として春日山城に送られ、所領も一部没収された 15 。これにより、本庄氏の勢力は一時的に削がれ、謙信は揚北衆に対する統制を強化した。

勢力図の変化:鎮圧に功のあった鮎川氏の台頭と新発田氏の地位向上

乱の鎮圧後、揚北衆内部の勢力図は大きく塗り替えられた。謙信に最後まで忠誠を尽くした氏族が重用され、新たなパワーバランスが形成された。特に、繁長の攻撃に耐え抜いた鮎川氏や、鎮圧に功績のあった新発田氏が台頭し、揚北衆内での主導的な立場を担うようになった 3

また、乱の最中に討死した色部勝長に対しては、その忠節を高く評価し、跡を継いだ子の顕長の家臣団内での序列を、本庄氏よりも上位にすることを約束するなど、明確な論功行賞による家臣団の再編が行われた 5

未来への遺恨:この乱が「御館の乱」、そして「新発田重家の乱」へと繋がる伏線

しかし、この乱後の新たな秩序は、次なる対立の火種を内包していた。本庄繁長の乱が残した遺恨と、再編された揚北衆内の力関係は、後の上杉家を揺るがす二つの大きな内乱へと繋がる伏線となる。

天正6年(1578年)、謙信が後継者を定めぬまま急逝すると、養子の上杉景勝と上杉景虎の間で家督を巡る内乱「御館の乱」が勃発する 22 。この時、本庄繁長は景勝方に付き、その武勇を遺憾なく発揮して勝利に大きく貢献。かつての反逆の汚名を雪ぎ、景勝政権下で再び重鎮としての地位を回復した 23

一方で、同じく景勝方として戦った揚北衆の雄・新発田重家は、御館の乱後の論功行賞に強い不満を抱いた 24 。景勝の権力基盤である上田衆など譜代の家臣が優遇され、自分たち国衆の功績が軽んじられたと感じたためである 25 。この不満は、かつての本庄繁長が抱いたものと全く同質であった。そして、この不満に中央の織田信長からの調略が結びついた時、歴史は繰り返される。新発田重家は反旗を翻し、実に7年もの歳月を要する大規模な反乱「新発田重家の乱」へと発展するのである 26

本庄繁長の乱から新発田重家の乱に至る一連の内乱の連鎖は、個々の武将の不満という個人的な問題を越え、上杉家の「恩賞配分システム」そのものに構造的な欠陥があったことを示している。上杉家は、国衆の強大な軍事力に依存しなければ領国を維持できないにもかかわらず、彼らを満足させるだけの恩賞、特に新たな領地を安定的に供給する能力に欠けていた。この構造的欠陥こそが、謙信という絶対的なカリスマの死というタガが外れた瞬間に噴出し、上杉家の国力を内側から著しく消耗させる真の原因となったのである。

終章: 揚北衆の乱が問いかけるもの

戦国大名による国衆統制の困難性と多様性(上杉、武田、織田の比較考察)

揚北衆の乱は、戦国大名が独立性の高い国衆をいかに統制したかという、戦国時代を貫く普遍的な課題を浮き彫りにする。その統制方法は、大名によって多様であった。

  • 上杉謙信の方式(連合盟主型): 謙信は、自らのカリスマと「義」を旗印に、国衆たちの上に君臨する連合盟主として振る舞った。国衆の独立性をある程度認めつつ、軍役を課すこの方式は、強力な軍団を形成する一方で、恩賞の原資が乏しく、常に内部分裂の危険をはらんでいた 5
  • 武田信玄の方式(被官化型): 信玄は、侵攻と調略を巧みに組み合わせ、敵対する国衆を打ち破った後、信濃の真田氏のように有能な者を積極的に家臣団に組み込み、被官化していった 28 。外様であっても実力次第で重用し、武田家への忠誠心を植え付けたのである 29
  • 織田信長の方式(中央集権型): 信長は、柴田勝家や羽柴秀吉といった腹心の将を方面軍司令官に任命し、その指揮下に現地の国衆を組み込むという、より中央集権的なシステムを構築した 30 。抵抗する者は徹底的に殲滅し、支配地域を直轄地化・再配分することで、国衆の独立性を根本から解体し、織田家の部品として再編成しようとした。

この比較を通じて、揚北衆の乱は、上杉謙信の統治モデルが抱える固有の脆弱性を露呈させた象徴的な事件として位置づけることができる。

「義」の武将・謙信の現実的な領国経営

この乱はまた、「義」の武将という謙信のパブリックイメージの裏にある、冷徹なリアリストとしての一面を我々に提示する。長尾藤景の誅殺命令や、乱後の本庄繁長に対する現実的な処断(赦免)に見られるように、謙信は単なる理想主義者ではなかった。彼は、越後という一国の平和と安定を維持するためには、非情な政治的決断も厭わない、優れた領国経営者であった。彼が掲げた「義」とは、この不安定な国衆連合を束ね、領国を守るための、極めて高度な政治的理念であったのかもしれない。

一地方の反乱が戦国全体の情勢に与えた影響の総括

本庄繁長の乱は、単なる越後国内の一地方の反乱に留まらなかった。この乱によって謙信が約1年間、越後に釘付けにされたことは、武田信玄の駿河侵攻を間接的に助け、織田信長の上洛戦線にも少なからぬ影響を与えるなど、戦国全体の地政学的なバランスに影響を及ぼした。

さらに深刻だったのは、その長期的な影響である。この乱が残した遺恨は、後の新発田重家の乱を誘発し、謙信亡き後の上杉家の国力を大きく削ぐ結果を招いた。その国力の疲弊は、織田信長の北陸方面軍による侵攻に対する抵抗力を著しく弱め、戦国時代末期の勢力図に決定的な影響を与えた。阿賀野川の北で燃え上がった揚北衆の独立精神は、巡り巡って上杉家の、ひいては日本の歴史の行方を左右する一因となったのである。

引用文献

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  2. 2020年10月号「トランヴェール」戦国の雄 上杉謙信・景勝を支えた揚北衆 - JR東日本 https://www.jreast.co.jp/en/railway/trainvert/archive/2020_trainvert/2010_01_part.html
  3. 本庄繁長の乱とは? わかりやすく解説 - Weblio国語辞典 https://www.weblio.jp/content/%E6%9C%AC%E5%BA%84%E7%B9%81%E9%95%B7%E3%81%AE%E4%B9%B1
  4. 越後諸氏 - 箕輪城と上州戦国史 - FC2 https://minowa1059.wiki.fc2.com/wiki/%E8%B6%8A%E5%BE%8C%E8%AB%B8%E6%B0%8F
  5. 2020年10月号「トランヴェール」戦国の雄 上杉謙信・景勝を支えた揚北衆 - JR東日本 https://www.jreast.co.jp/railway/trainvert/archive/2020_trainvert/2010_01_part.html
  6. 上杉謙信の家臣団/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/91115/
  7. 本荘繁長の乱 - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/ka/HonjouShigenagaNoRan.html
  8. 本庄繁長の乱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%BA%84%E7%B9%81%E9%95%B7%E3%81%AE%E4%B9%B1
  9. 「本庄繁長の乱(本庄城の戦い、1568年)」牙を剥く上杉の鬼神 ... https://sengoku-his.com/801
  10. 本庄繁長(ほんじょうしげなが)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%9C%AC%E5%BA%84%E7%B9%81%E9%95%B7-1108654
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  27. 歴史と概要 新発田重家と上杉景勝の抗争 2 https://www.city.shibata.lg.jp/kanko/bunka/shiro/gaiyo/1005180.html
  28. 武田家と真田信繁(幸村)~「日ノ本一の兵」の赤いルーツを探る~武田氏と真田氏編 - 山梨 https://www.yamanashi-kankou.jp/special/special2016-02.html
  29. 武田信玄(タケダシンゲン)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%8E%84-18666
  30. 戦国大名27I 織田信長Ⅸ 家臣団の統制 方面軍団長制の採用【研究者と学ぶ日本史】 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=1jyzqSh7fPE
  31. 織田信長 家臣団相関図 - 戦国未満 https://sengokumiman.com/odanobunagakashindan.html