最終更新日 2025-09-03

放生津沖の海戦(1573~92)

越中富山湾の制海権は、上杉謙信、織田、佐々成政、豊臣秀吉と変遷。陸上支配が海上権を左右し、水軍は陸戦を補助。秀吉の「富山の役」で陸海一体の完全包囲が完成し、戦乱の海は終焉を迎えた。
Perplexity」で合戦の概要や画像を参照

越中富山湾制海権争奪史(1573-1592)―「放生津沖の海戦」の全体像と実相―

序章:越中という「係争地」と富山湾の戦略的価値

戦国時代の越中国は、特定の戦国大名による強力な支配が確立されることなく、常に内外の権力闘争の渦中にあった 1 。その地政学的な位置が、越中を宿命的な「係争地」たらしめていた。東には越後の長尾氏(後の上杉氏)、南には甲斐の武田氏、そして西からは加賀一向一揆の圧力が絶えず加わり、後には天下統一を目指す織田氏、豊臣氏という中央の巨大権力がその触手を伸ばす、まさに強国がひしめく十字路であった。国内に目を向ければ、守護である畠山氏は在京し、その支配は名目上のものでしかなく、実権は新川郡の椎名氏、婦負・射水郡の神保氏といった守護代や国人衆が分有する状態が続いていた 2 。この権力の空白と在地勢力の抗争が、外部勢力にとって介入の格好の口実を与え、越中の戦乱は、その実態としてしばしば上杉氏と武田氏、あるいは上杉氏と織田氏の代理戦争という様相を呈したのである 1

この複雑な権力闘争の中心に位置し、その戦略的価値を決定づけていたのが、越中が抱く広大な内湾、富山湾であった。日本海航路の要衝として、富山湾は兵糧や武具といった軍需物資の輸送、さらには軍勢そのものの迅速な移動を可能にする兵站上の大動脈であった。能登半島が天然の防波堤のように湾を抱き込む独特の地形は、湾内の制海権を掌握する者に対し、安定した海上交通路と敵対勢力への補給路を遮断する強大なアドバンテージを与えた 4

とりわけ、湾の西部に位置する放生津湊は、単なる港以上の意味を持っていた。鎌倉時代には越中守護所が置かれ、古くからこの地の政治・経済の中心地として栄えていた 6 。明応の政変(1493年)で京を追われた室町幕府10代将軍足利義材がこの地に下向し、「放生津幕府」と称される政権を樹立した事実は、放生津が中央の政局にも影響を及ぼすほどの権威と経済力を備えた都市であったことを物語っている 3

したがって、本報告書で扱う「放生津沖の海戦」とは、特定の年月日に発生した単一の海戦を指すものではない。それは、天正元年(1573年)の上杉謙信による越中平定から、豊臣政権による支配が安定化する1592年前後までの約20年間にわたり、この富山湾の制海権を巡って繰り広げられた一連の軍事行動の総称と定義するのが妥当である。その実態は、華々しい艦隊決戦というよりも、陸上における城の攻略と密接に連携した海上封鎖、沿岸拠点の制圧、水陸共同作戦といった、より兵站に重きを置いた地道かつ戦略的な戦いの連続であった。越中の在地勢力はあくまで駒であり、真のプレイヤーは上杉、織田、豊臣といった巨大権力であった。彼らにとって富山湾の支配は、越中統治という局地的な目的以上に、北陸全体の覇権、ひいては天下の趨勢を左右するための重要な布石だったのである。

表1:越中・富山湾の制海権を巡る主要年表(1573-1592)

年代(西暦)

陸上の主要動向(越中中心)

海上の主要動向(富山湾・日本海)

関連する国内情勢

1573年

上杉謙信、越中をほぼ平定。

富山湾が「上杉の海」となる。

室町幕府滅亡。

1577年

謙信、能登・七尾城を攻略。手取川で織田軍に勝利。

上杉水軍、七尾城を海上封鎖。

-

1578年

上杉謙信、急死。御館の乱が勃発。

上杉氏の海上支配力に動揺が生じる。

織田信長、勢力を拡大。

1581年

織田軍(柴田勝家)、越中に本格侵攻。

-

-

1582年

魚津城の戦い(3月~6月3日)。佐々成政が越中支配を開始。

織田軍による海上封鎖。上杉氏、制海権を喪失。

本能寺の変(6月2日)。

1583年

賤ヶ岳の戦い。柴田勝家、敗死。

-

豊臣秀吉、実権を掌握。

1584年

佐々成政、末森城を攻めるも敗退。

前田氏との間で沿岸部の緊張高まる。

小牧・長久手の戦い。

1585年

豊臣秀吉、「富山の役」で越中に侵攻(8月)。

豊臣水軍、富山湾を完全封鎖。

秀吉、関白に就任。

1587年

佐々成政、肥後へ転封後、切腹。

-

九州平定。

1592年頃

越中が前田氏の支配下で安定。

富山湾、前田氏の管理下に置かれる。

文禄の役。

第一章:上杉謙信の制海権確立と「上杉水軍」の実像(1573年~1578年)

謙信による越中平定と制海権掌握

天正元年(1573年)に至る上杉謙信の越中平定は、富山湾の制海権争奪史における第一幕の完成を意味するものであった。謙信の越中への介入は、当初、同盟者である椎名氏の救援という名目であったが、度重なる一向一揆の蜂起と武田信玄の策動に業を煮やした謙信は、やがて越中そのものを自らの領国として組み込む方針へと転換する 2 。その総仕上げとなったのが、元亀3年(1572年)9月の尻垂坂の戦いである。武田信玄の西上作戦に呼応した加賀・越中一向一揆連合軍を神通川西岸で撃破した謙信は、返す刀で一揆勢の拠点であった富山城を攻略 1 。翌年にかけて椎名康胤の松倉城などを制圧し、長年にわたる越中の騒乱に終止符を打った 12

この陸上における一連の勝利は、単に敵対勢力を駆逐しただけではなかった。それは、富山湾沿岸に点在する放生津、魚津といった主要な港湾拠点を完全に上杉氏の管理下に置くことを意味した。これにより、富山湾の制海権は名実ともに謙信の手に帰し、北陸における上杉氏の支配体制は盤石のものとなった。この安定した海上交通路の確保こそが、謙信が次なる目標として能登、そして加賀へと進出する上での戦略的基盤となったのである。

能登・七尾城攻略における水陸共同作戦

謙信の戦略において、水軍がいかに重要な役割を担っていたかを如実に示すのが、天正5年(1577年)の能登畠山氏の居城・七尾城の攻略戦である。能登半島の中央に位置する七尾城は、天然の良港である七尾湾を擁する難攻不落の要害であった。謙信はこの城を攻略するにあたり、陸上から大軍で包囲するだけでなく、同時に水軍を動員し、海上からの補給路と脱出路を完全に遮断する、高度な水陸共同作戦を展開した 14

史料によれば、1万を超える上杉軍が船団を組んで能登半島に上陸したとされ、上杉水軍は七尾湾を封鎖し、海と陸の両面から城を包囲した 15 。この完璧な海上封鎖は、物理的に城を孤立させただけではない。湾内に展開する上杉の大船団は、籠城する畠山軍に対して強烈な心理的圧迫を与え、その戦意を著しく削いだ。結果として、城内では長続連(ちょう つぐつら)ら主戦派に不満を抱く遊佐続光(ゆさ つぐみつ)といった重臣たちが謙信に内応し、内部から崩壊。七尾城は陥落に至った 14 。この戦いは、上杉水軍が単なる兵員輸送部隊ではなく、敵の戦略的重心を破壊し、戦局を決定づける能力を持った戦略的兵力であったことを証明している。制海権の掌握が、陸上の戦闘を有利に進める上でいかに決定的な要素であったかを示す好例と言えよう。

「上杉水軍」の実像と「上杉の海」の完成

では、この「上杉水軍」とはいかなる組織だったのであろうか。その拠点は、本国越後の直江津や柏崎といった港であり、能登平定後は七尾湾に面した熊木城なども水軍基地として活用されたと推測される 16 。その構成は、専門的な水軍衆に加え、支配下に置いた越中や能登の沿岸地域の国人衆を動員した混成部隊であったと考えられる。彼らの主な任務は、兵員や兵糧の輸送、敵拠点に対する海上封鎖、そして敵の海上からの侵攻を警戒する警固活動であった 19

七尾城を落とした謙信は、返す刀で加賀へと進撃。手取川の戦いで、信長が派遣した柴田勝家率いる織田軍を撃破する 14 。この勝利により、越中・能登・北加賀にまたがる広大な領域が上杉氏の支配下に入り、謙信はその生涯で最大の版図を築き上げた 2 。これに伴い、富山湾は完全に上杉氏の内海、すなわち「上杉の海」と化した。この安定した制海権は、謙信の領国経営を支える経済的基盤であると同時に、彼が夢見たであろう上洛への足がかりとなるはずであった。謙信存命中の富山湾は、彼の強大な軍事力によって、束の間の静謐を保っていたのである。

第二章:潮流の変化 ― 謙信の死と織田勢力の侵攻(1578年~1582年)

御館の乱と上杉氏の弱体化

天正6年(1578年)3月、上杉謙信のあまりにも突然の死は、北陸の勢力図を一変させる激震となった。謙信という絶対的なカリスマを失った上杉家では、二人の養子、景勝と景虎の間で家督を巡る凄惨な内乱「御館の乱」が勃発する 1 。この内紛は、謙信が一代で築き上げた強大な軍事国家の結束を内部から蝕み、その国力を著しく消耗させた。越中をはじめとする遠方の支配地に対する統制力は急速に弱まり、北陸に巨大な権力の空白が生じた。この状況は、天下統一を着々と進める織田信長にとって、まさに千載一遇の好機であった。謙信の死によって、北陸への進撃を阻む最大の障壁が取り除かれたのである。

織田北陸方面軍の進撃

信長は機を逃さなかった。筆頭家老である柴田勝家を総大将に任じ、与力として佐々成政、前田利家といった歴戦の武将を配した強力な北陸方面軍を編成 22 。その目的は、上杉氏の勢力圏を切り崩し、北陸道を完全に織田家の支配下に置くことにあった。織田軍はまず、長年信長を苦しめてきた加賀の一向一揆を制圧 21 。その後、雪崩を打って越中へと侵攻を開始した。

上杉方は、謙信没後の混乱から立ち直れず、織田軍の圧倒的な物量の前に各地で敗退を重ねる。天正6年(1578年)の月岡野の戦いで上杉方の椎名小四郎らが敗れると、越中における織田方の優位は決定的となった 1 。かつて謙信が築いた「上杉の海」であった富山湾の沿岸拠点も、陸上からの圧力によって次々と織田勢力に蚕食されていった。

クライマックス:魚津城の戦いにおける海陸の攻防

天正10年(1582年)3月、柴田勝家率いる織田軍は、上杉方が越中で維持する最後の拠点、魚津城に狙いを定める。魚津城は日本海に面した港湾都市であり、海からの補給が可能な海城であった 27 。この城の攻防戦は、必然的に富山湾の制海権の帰趨を決する、越中支配の最終決戦となった 28

織田軍は、陸上から城を幾重にも包囲する一方、海上からもこれを封鎖し、魚津城を完全な孤立状態に陥れた。信長は、かつて石山本願寺との戦いにおいて、九鬼嘉隆率いる水軍を駆使した海上封鎖作戦で勝利を収めており、その兵站遮断の有効性を熟知していた 30 。その戦訓が、この魚津城攻めでも遺憾なく発揮されたのである。海からの圧力が、籠城する上杉軍の希望を少しずつ、しかし確実に奪っていった。

上杉景勝は、この窮状を救うべく、自ら5000の兵を率いて魚津城に近い天神山城まで進出する 27 。天神山に翻る上杉軍の旗は、籠城兵にとって最後の希望の光であったに違いない。しかし、景勝の背後では、信濃から森長可、上野から滝川一益といった織田軍の別動隊が越後本国に迫っていた 33 。景勝は、魚津城の救援と本国防衛という苦渋の選択を迫られ、断腸の思いで天神山から兵を引かざるを得なかった。この撤退は、魚津城の運命を決定づけた。織田軍の厳重な海上封鎖が、景勝による有効な救援策を阻んだとも言える。

救援の望みが完全に絶たれた天正10年6月3日、3ヶ月にわたる攻防の末、城将の中条景泰をはじめとする13人の武将たちは自刃を選び、魚津城は壮絶な最期を遂げた 28

しかし、歴史の皮肉はあまりにも残酷であった。魚津城が落城するわずか1日前の6月2日、遠く離れた京の都で、主君・織田信長が明智光秀の謀反によって斃れるという未曾有の事変(本能寺の変)が起きていたのである 33 。もし、あと1日、いや数時間でも持ちこたえていれば、彼らの運命は変わっていたかもしれない。

魚津城の落城は、単なる一城の陥落ではなかった。それは、謙信以来続いてきた上杉氏による富山湾の海上支配が完全に終焉し、その覇権が織田氏、そしてその後の佐々成政へと移行したことを象徴する、時代の転換点だったのである。

第三章:佐々成政の時代 ― 束の間の海上支配と限界(1582年~1585年)

本能寺の変後の権力闘争と成政の台頭

本能寺の変は、北陸の情勢を再び混沌の渦に巻き込んだ。魚津城を落としたばかりの柴田勝家ら北陸方面軍は、主君の横死という報に接し、急遽軍を撤退させる 34 。この権力の空白を突いて、佐々成政は越中一国の平定に乗り出した。彼は、なおも抵抗を続ける上杉方の残存勢力を一掃し、天正11年(1583年)頃までには、名実ともに越中の支配者としての地位を確立した 12

成政は富山城を本拠と定め、大規模な改修を施した 5 。さらに、領民の支持を得るべく、暴れ川であった常願寺川の治水事業に着手し、「佐々堤」と呼ばれる堅固な堤防を築くなど、領国経営にも非凡な才覚を見せた 38 。これは、彼が越中を一時的な拠点ではなく、恒久的な支配地として統治しようという強い意志を持っていたことの証左である。越中一国を掌握したことで、富山湾の制海権もまた、彼の掌中に収まったかに見えた。

富山湾の支配と地政学的孤立

しかし、中央の政局は成政に味方しなかった。信長の後継者を巡る争いは、賤ヶ岳の戦いにおける羽柴秀吉の勝利で決着し、成政が与した柴田勝家は北ノ庄城で自害に追い込まれた 42 。この結果、成政は北陸において完全に政治的に孤立することになる。東には依然として上杉景勝が、そして西の加賀・能登には秀吉方についた旧友・前田利家が控え、成政の越中は両勢力に挟撃される形となった 3

この地政学的な孤立は、富山湾の支配にも暗い影を落とした。天正12年(1584年)、秀吉と徳川家康・織田信雄が対峙した小牧・長久手の戦いが勃発すると、成政は信雄・家康方に呼応し、利家の領国である能登の末森城へ侵攻する 44 。しかし、この戦いは利家の迅速な救援により失敗に終わり、成政は撤退を余儀なくされた 45 。この対立は、富山湾の西側沿岸部における軍事的緊張を極度に高め、両勢力間での海上交通の妨害や、小規模な衝突が頻発した可能性が高い。

成政にとって、四方を敵に囲まれた状況下で、富山湾は外部と繋がる唯一の窓口であり、文字通りの生命線であった。しかし、彼は上杉謙信や豊臣秀吉のような、大規模な水軍を組織し、能動的な海洋戦略を展開する能力を持っていなかった。彼の水軍力は、領内の港湾を防衛し、治安を維持するという受動的な役割に留まっていた。彼が家康に秀吉との再戦を促すため、厳冬の立山連峰を越えるという無謀ともいえる「さらさら越え」を決行した伝説は 45 、彼の陸路における絶望的な孤立を象徴すると同時に、海上からこの包囲網を打開する有効な手段を持ち合わせていなかったことの何よりの証明であった。成政は富山湾の制海権を物理的に「所有」はしていたが、それを自らの窮地を救うための戦略的資産として有効に「活用」することはできなかったのである。彼の悲劇は、織田政権下の一方面司令官としては極めて有能であったものの、信長亡き後の全国的な政局を読み解き、独立大名として生き残るための大局的な戦略、とりわけ海洋戦略の重要性に対する認識を欠いていた点にあったと言えよう。

第四章:最終局面 ― 豊臣秀吉の「富山の役」と水軍による海上封鎖(1585年)

秀吉の越中侵攻と「船手衆」の動員

天正13年(1585年)8月、関白に就任し、名実ともに天下人となった羽柴秀吉は、自らの権威に服さぬ最後の有力大名の一人、佐々成政を屈服させるため、自ら大軍を率いて越中へと進発した。世に言う「富山の役」である 49 。その軍勢は7万から10万とも言われ、成政が動員可能な約2万の兵力を質・量ともに圧倒していた 49 。秀吉は、かつて前田利家が成政攻略のために整備した呉羽丘陵の白鳥城に本陣を構え、眼下に広がる富山城を睥睨する形で、一大包囲網を敷いた 45

この戦いにおいて、秀吉の戦略の周到さを最もよく示しているのが、陸軍の動員と並行して、強力な水軍を編成・投入していた点である。現存する『越中攻め陣立書』には、方面軍の一部隊として「船手衆」が明確に記されており、因幡の宮部継潤と丹後の細川忠興が率いる計4,000の水軍兵力が動員されていたことがわかる 49 。彼らに与えられた任務は、富山湾を海上から完全に封鎖し、放生津をはじめとする全ての港湾機能を麻痺させ、成政のあらゆる退路と補給路を断つことにあった。

陸海一体の完全包囲と成政の降伏

秀吉の命令一下、豊臣水軍の艦隊が富山湾に進入し、湾岸の要所を次々と制圧していった。これにより、富山城に籠もる佐々成政は、陸からの大軍に加えて、海からも完全に包囲されることとなった。外部からの救援はもちろん、海路での脱出という最後の望みさえも、無情に断ち切られたのである。この陸海一体の完璧な包囲網を前にして、成政は戦う前からその勝敗を悟らざるを得なかった。後に秀吉が「成政を降参させるのに太刀も刀もいらなかった」と豪語したと伝わるが 53 、それはまさに、直接的な戦闘を交える以前に、圧倒的な兵站能力と戦略によって敵の戦意を喪失させた、この作戦の成功を物語るものである。

万策尽きた成政は、織田信雄の仲介を通じて秀吉に降伏を申し入れた。彼は自ら富山城を出て、呉羽山麓の安養坊で剃髪し、僧衣をまとって秀吉の本陣に出頭し、恭順の意を示した 45 。秀吉は成政の降伏を受け入れ、その命は助けたものの、領国の大半を没収。越中のうち婦負・射水・砺波の三郡は前田利長に与えられ、成政には新川郡一郡のみが安堵された 3

この「富山の役」における豊臣水軍による富山湾の完全封鎖は、上杉謙信の時代から約20年にわたって続いた越中・富山湾の制海権争奪史に、最終的な終止符を打つものであった。これ以降、富山湾は豊臣政権、そしてその後の江戸幕藩体制下における加賀前田藩の安定した支配下に置かれ、二度と戦乱の舞台となることはなかった。一地方の制海権が、中央の巨大な統一権力によって完全に管理・統制される時代の到来を告げる、象徴的な出来事だったのである。

第五章:戦国期富山湾の海戦術と船舶に関する考察

これまでの約20年間にわたる富山湾の制海権争奪史を概観すると、そこでの「海戦」が、瀬戸内海の村上水軍に見られるような艦隊同士の決戦とは異なる様相を呈していたことがわかる。ここでは、当時の技術的・戦術的側面から、富山湾における海戦の実態を考察する。

表2:主要勢力の水軍能力比較

項目

上杉氏(謙信期)

織田氏(北陸方面軍)

佐々成政

豊臣秀吉

推定規模

中規模

(必要に応じ)大規模

小規模

圧倒的大規模

主要拠点

直江津、柏崎、熊木城

不明(敦賀湊などか)

富山、放生津

大坂、若狭、因幡など全国

指揮官

河田長親など

柴田勝家(総覧)、(九鬼嘉隆など)

成政自身

宮部継潤、細川忠興など

船種構成

関船・小早船主体

関船・小早船主体、鉄甲船(別戦線)

関船・小早船主体

安宅船・関船・小早船の混成

戦略思想

陸上作戦補助、水陸共同作戦

海上封鎖、兵站遮断

領内沿岸防衛

陸海一体の完全包囲、示威行動

特記事項

能登攻略で実績

石山合戦での実績を応用

独立した海洋戦略の欠如

全国規模での動員力

軍船の種類と想定される戦闘様相

戦国期の軍船は、主に安宅船(あたけぶね)、関船(せきぶね)、小早船(こばやぶね)の三種類に大別される 32

  • 安宅船 : 「海上の城」とも称される大型戦闘艦で、重厚な装甲と多数の兵員・武装を搭載できた 55 。しかし、その巨体ゆえに機動性に乏しく、建造・維持コストも高い。富山湾のように外洋に面し、時に波が高くなる海域では、指揮艦や海上拠点としての限定的な運用に留まった可能性が高い 56
  • 関船 : 安宅船より一回り小さく、機動力と戦闘力のバランスに優れた中型戦闘艦 58 。快速性を活かして敵船団に接近し、攻撃を仕掛けるのに適しており、富山湾における海上封鎖や沿岸襲撃といった作戦の主力であったと推測される 60
  • 小早船 : 最も小型で快速な船であり、数十人の漕ぎ手によって高速で移動できた 32 。その機動力を活かし、偵察、伝令、奇襲攻撃、あるいは本隊の護衛など、多岐にわたる任務で活躍したと考えられる。

これらの船を用いた戦闘は、まず遠距離からの攻撃で始まったと想定される。木造船が主流であった当時、火矢(ひや)や、火薬を詰めた土器を投擲する焙烙火矢(ほうろくひや)は極めて有効な兵器であった 32 。特に焙烙火矢は、炸裂時に破片を飛散させ、敵兵を殺傷すると同時に船体にも損傷を与え、火災を誘発する効果があった 63 。このような火器による攻撃で敵船を混乱させ、その防御力を削いだ後、関船や小早船が高速で敵船に接舷し、兵士が乗り移っての白兵戦で最終的な決着をつけるのが、当時の海戦の一般的な戦術であった 32

陸上拠点との連携の重要性

富山湾における一連の紛争で一貫して見られるのは、制海権と沿岸の城郭支配が不可分であるという事実である。魚津城や放生津城といった港に隣接する城は、水軍にとっての補給基地、兵員の休息・集結地、そして荒天時の避難場所として機能した。逆に、水軍はこれらの城郭を海上から防衛し、敵に包囲された際には補給を担うという、相互に依存し合う関係にあった。

この連携の重要性を最も悲劇的に示したのが、魚津城の戦いである。織田軍の海上封鎖によって制海権を完全に奪われた結果、魚津城は陸海から孤立し、救援の望みも絶たれて落城に至った。この事例は、いかに堅固な城であっても、制海権を失えばその戦略的価値は半減し、やがては無力化されるという、戦国期における海城の宿命を物語っている。富山湾の争奪史は、海と陸が一体となった総力戦の様相を呈しており、水軍の運用能力が、そのまま陸上の戦況を左右する決定的な要因となっていたのである。

結論:陸を制する者が海を制す ― 富山湾制海権争奪が示す戦国期の真理

天正元年(1573年)から約20年間にわたる富山湾の制海権を巡る一連の軍事行動、すなわち「放生津沖の海戦」の歴史を俯瞰すると、そこには戦国時代の権力闘争における普遍的な真理が浮かび上がってくる。

第一に、この争奪史は、富山湾の制海権が、常に越中の陸上における軍事的優位を確立した勢力によって掌握されたという「陸主海従」の原則を明確に示している。上杉謙信は、まず陸上の戦いで一向一揆や在地勢力を平定することで、沿岸の港湾拠点を確保し、富山湾を「上杉の海」とした。織田軍もまた、加賀から陸路を進撃し、月岡野の戦いを経て上杉勢力を駆逐した上で、最後の拠点である魚津城を陸海から包囲し、制海権を奪取した。佐々成政の支配も、豊臣秀吉による平定も、全てはこの原則に則っている。水軍は単独で勝利を掴むことはできず、その活動は常に陸上作戦を補助し、その成果を確実なものにするための従属的な役割に留まった。海を制するためには、まず陸を制することが絶対的な前提条件だったのである。

第二に、この紛争の最終的な帰結は、戦国時代の終焉と、新たな統一権力の時代の到来を象徴している。最終的な勝者となった豊臣秀吉の戦略は、それ以前の地方権力者のそれとは次元を異にするものであった。彼は、特定の戦闘での戦術的勝利に固執するのではなく、全国規模での圧倒的なリソース動員力、水軍を含む多様な兵科を統合的に運用する高度な戦略、そして敵を戦わずして屈服させる兵站と情報戦を駆使した。

「富山の役」において、秀吉が陸から10万近い大軍で富山城を包囲し、同時に「船手衆」を動員して富山湾を完全に封鎖した作戦は、まさにその「新しい戦争の形」の典型であった。これはもはや、一地方の覇権を巡る争いではなく、天下統一という大事業を完遂するための、中央の巨大権力による秩序の強制であった。「放生津沖の海戦」の終結は、この新しい時代の論理が、個々の武将の武勇や局地的な勢力争いといった古い時代の論理を完全に凌駕した瞬間を、歴史に刻み込んでいるのである。富山湾は、この日を境に、戦乱の海から、天下泰平の世を支える経済の海へと、その姿を変えていった。

引用文献

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  3. 越中国 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A%E4%B8%AD%E5%9B%BD
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  32. 海賊が最強艦隊に?知られざる戦国時代の海上戦と英雄たち | レキシノオト https://rekishinote.com/naval-battle/
  33. 富山県魚津市・悲劇の籠城戦~市指定史跡 魚津城跡 - 季節の話題(長野県内の市町村) http://wingclub.blog.shinobi.jp/%E3%80%90short%20trip%E3%80%91%E5%8C%97%E9%99%B8/%E3%80%90%E5%AF%8C%E5%B1%B1%E7%9C%8C%E9%AD%9A%E6%B4%A5%E5%B8%82%E3%83%BB%E4%B8%8A%E6%9D%89%E8%BB%8D%E3%81%A8%E7%B9%94%E7%94%B0%E8%BB%8D%E3%81%AE%E6%BF%80%E6%88%A6%EF%BD%9E%E9%AD%9A%E6%B4%A5%E5%9F%8E%E8%B7%A1%E3%80%91
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  52. 安田城を考える2 - 富山市 https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/maibun/yasuda/y-kouza/y-kouza2.htm
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  54. 戦国時代の船 おうちで村上海賊‟Ⅿurkami KAIZOKU" №9 http://suigun-staff.blogspot.com/2020/05/urkami-kaizoku9.html
  55. 戦国時代の海戦で活躍!海上専門の戦闘集団「水軍」はどんな船でどのような戦いを繰り広げたのか? | 歴史・文化 - Japaaan - ページ 2 https://mag.japaaan.com/archives/238731/2
  56. 安宅船 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%AE%85%E8%88%B9
  57. 戦国時代の軍船はどんな構造だった? - ほのぼの日本史 https://hono.jp/sengoku/warship/
  58. 村上海賊 - 日本海難防止協会 https://www.nikkaibo.or.jp/pdf/592_2022-2.pdf
  59. 関船 せきぶね - 戦国日本の津々浦々 ライト版 https://kuregure.hatenablog.com/entry/2024/11/01/231715
  60. 信長の時代の軍船 | 信長の鉄甲船の復元模型、阿武丸 https://www.sayama-sy.com/lb
  61. 多島海|水の話|フジクリーン工業株式会社 https://www.fujiclean.co.jp/fujiclean/story/vol36/part202.html
  62. 火矢 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E7%9F%A2
  63. 焙烙火矢 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%99%E7%83%99%E7%81%AB%E7%9F%A2