放生津湾口海戦(1582)
天正十年、越中魚津城を巡る織田と上杉の攻防は、陸海一体の封鎖戦。本能寺の変前日に落城し、籠城将は玉砕。この悲劇は上杉家存続と柴田勝家の運命に影響を与え、戦国史の転換点となった。
天正十年 越中沿岸の攻防: 「放生津湾口海戦」の実像と魚津城の悲劇
序章: 「放生津湾口海戦」への視座
天正10年(1582年)、越中国の沿岸で繰り広げられた織田信長軍と上杉景勝軍の攻防は、戦国時代の終焉を象徴する激しい戦いの一つであった。利用者様がご提示された「放生津湾口海戦」という名称は、この一連の戦役における重要な側面を捉えている。しかしながら、この呼称は特定の単一の海戦を指す固有名詞として、当時の一次史料や後世の編纂物において確立されたものではない点を、まず明確にしておく必要がある 1 。
本報告書では、この「放生津湾口海戦」を、天正10年3月から6月にかけて行われた「魚津城の戦い」と不可分一体の、一連の海上作戦の総称として再定義する。すなわち、織田軍による魚津城への海上封鎖、兵站遮断作戦、そしてそれに抗おうとする上杉軍の補給・連絡の試みと、それに伴って富山湾、特にその要衝である放生津湾口で発生したであろう小規模な衝突の全体像を指すものとして論を進める。
この視座に立つことで、陸上における壮絶な籠城戦と、海上で繰り広げられた制海権を巡る静かなる戦いが、いかに密接に連動し、互いの趨勢を決定づけていたかを立体的に解明することが可能となる。戦国時代の「海戦」といえば、九鬼嘉隆の鉄甲船が毛利水軍を破った第二次木津川口の戦いのような、華々しい艦隊決戦が想起されがちである 2 。しかし、歴史上、海軍力の行使は、より地味で戦略的な兵站線の確保や遮断という形で、戦いの帰趨に決定的な影響を与えることが少なくない。
「放生津湾口海戦」という固有の名称が歴史に定着しなかった事実そのものが、この戦いの本質を物語っている。これは、両軍の主力艦隊が激突する決戦ではなく、織田軍が圧倒的な物量を背景に、魚津城の生命線を断つために遂行した、持続的かつ組織的な「封鎖戦」であり「兵站の戦い」であった。柴田勝家のような歴戦の将は、過去の戦いを通じて兵站の重要性を熟知しており、海路の完全な遮断こそが、難攻不落の城を落とすための最善手であることを理解していた 3 。したがって、本報告書は、この陸海一体の作戦を丹念に追うことで、魚津城の悲劇の根源と、本能寺の変という歴史の激動の中でこの戦いが果たした真の役割を明らかにすることを目的とする。
第一部: 天下布武の最終局面 ― 越中対陣の戦略的背景
第一章: 織田信長の北陸方面戦略
天正10年(1582年)3月、織田信長は甲州征伐を完遂し、長年の宿敵であった武田氏を滅亡させた 6 。これにより、信長の天下統一事業は最終段階へと移行し、その戦略的矛先は、西国の毛利氏、関東の北条氏、そして北陸の上杉氏という残された三大勢力へと集約された。中でも上杉氏は、かつての同盟関係を破棄して以来、信長にとって目の上の瘤であり、天下布武の総仕上げとして、その打倒は喫緊の課題であった。
武田氏の滅亡は、対上杉戦略の前提条件を劇的に変化させた。信長は、この好機を逃さず、上杉家を完全に包囲し、殲滅するための壮大な布陣を敷く。北陸方面からは、筆頭宿老・柴田勝家を総大将とする主力軍団を越中へ進攻させる。同時に、旧武田領の信濃には森長可を、上野には滝川一益を配置し、関東方面からも越後を窺わせた 1 。これは、越後の本国を北陸、信濃、関東の三方から同時に圧迫する、まさに鉄壁の包囲網であった。この大戦略の一環として、越中における上杉方の最後の拠点・魚津城の攻略が開始されたのである。
この北陸方面軍の指揮を執る柴田勝家にとって、越中平定は単なる一作戦以上の意味を持っていた。彼は織田家随一の猛将として知られる一方、天正5年(1577年)の手取川の戦いでは、上杉謙信の前に生涯唯一とも言われる大敗を喫していた 3 。この雪辱を期す勝家にとって、謙信亡き後の上杉家を打倒し、越中を完全に制圧することは、織田家筆頭宿老としての自らの地位を不動のものとし、過去の汚名を返上するための絶対的な使命であった 10 。
第二章: 存亡の機に立つ上杉景勝
一方、上杉景勝が置かれた状況は、絶望的というほかなかった。天正6年(1578年)の「軍神」上杉謙信の急死は、上杉家に巨大な権力の空白を生んだ。その後継を巡って景勝と上杉景虎との間で繰り広げられた家督争い「御館の乱」は、国力を著しく疲弊させ、多くの国人衆の離反を招き、謙信が築き上げた一枚岩の体制を内部から崩壊させた 1 。
景勝が直面していたのは、まさに四面楚歌の状況であった。東の織田軍との間にかろうじて存在した緩衝地帯、甲斐の武田氏は滅亡し、織田の大軍が国境に迫る 6 。さらに、足元である越後国内では、譜代の重臣であった新発田重家が織田方と通じて反乱を起こし、常に背後を脅かす存在となっていた 1 。景勝は、外敵と内憂によって完全に身動きを封じられ、まさしく存亡の機に立たされていたのである 12 。
このような状況下で、景勝にとって越中の魚津城や松倉城といった諸城は、織田軍の越後本国への侵攻を食い止めるための最後の防衛線であった 6 。この防衛線を失うことは、本拠地である春日山城が織田軍の脅威に直接晒されることを意味し、上杉家の滅亡に直結する。したがって、魚津城の防衛は、景勝にとって国運を賭した戦いであった。
かつて謙信が越中で繰り広げた戦いは、神保氏や椎名氏といった現地の国人領主を介した代理戦争の様相を呈していた 13 。しかし、天正10年の時点では、状況は一変していた。織田軍は佐々成政を越中に深く根付かせ、在地勢力をほぼ制圧・吸収しており、もはや代理戦争の段階は終わっていた 16 。魚津城に籠もるのは、中条景泰をはじめとする上杉家譜代の精鋭たちであり、彼らは景勝の直属部隊であった 1 。これは、戦いが織田信長と上杉景勝という二大勢力の存亡をかけた、後戻りの許されない総力戦へと変質したことを示している。魚津城攻防戦の凄惨さと、そこに込められた悲壮な覚悟は、この「次がない」という極限状況から生まれた必然であった。
第二部: 越中攻防の舞台 ― 地の利と海の利
第一章: 最後の砦、魚津城
魚津城は、越中東部に位置し、日本海に面した平城であった 19 。城のすぐそばを北陸道が通過し、魚津港という良港を擁することから、古くから交通および軍事上の要衝として機能していた 6 。上杉方にとって、この城は越後への侵攻を防ぐ最終防衛ラインであると同時に、能登・加賀方面への影響力を維持するための重要な拠点であった。一方、織田方にとっては、ここを奪取することが越後侵攻の橋頭堡を確保することを意味し、戦略的価値は極めて高かった。
しかし、魚津城はその構造上、大きな弱点を抱えていた。堅固な山城である松倉城の支城という位置づけであり、海に面した平城であったため、大規模な軍勢による包囲攻撃に対しては脆弱であった 19 。特に、織田軍が動員したような数万の兵力と圧倒的な物量の前では、長期間の籠城は極めて困難を極める。城兵が唯一希望を託すことができるとすれば、それは海上からの補給、あるいは援軍の到来のみであった。この地理的条件が、富山湾の制海権の重要性を決定的なものとしたのである。
第二章: 生命線としての富山湾と放生津湊
富山湾は、越後と越中を海路で結ぶ最短ルートであり、兵員や兵糧といった物資を大量に、かつ迅速に輸送するための大動脈であった。陸路が敵によって遮断された場合、この海上交通路が唯一の生命線となる。魚津城の籠城戦において、富山湾の制海権がどちらの手に帰すかは、城の運命、ひいては上杉家の運命を左右するほどの重要性を持っていた。
その富山湾の海上交通を管制する上で、鍵となるのが放生津湊(現在の射水市新湊地区)であった。放生津は、古代の万葉の時代から歌に詠まれ、中世には日本海交易の拠点として大いに栄えた港湾都市である 21 。鎌倉時代には越中の守護所が置かれ、室町時代には明応の政変で京を追われた将軍・足利義材が亡命政権(「放生津幕府」)を樹立するなど、越中の政治・経済・文化の中心地として、他のどの湊よりも重要な役割を果たしてきた歴史を持つ 23 。
この歴史ある湊を擁する放生津の湾口部は、富山湾全体の海運を扼する戦略的要衝であった。ここを織田水軍に押さえられることは、魚津城への海上からの補給路が完全に断たれることを意味する。魚津城の将兵にとって、放生津から吹く風は、希望の便りか、それとも絶望の報せか、そのどちらかを運んでくる運命の風であった。
第三部: 両雄の戦力 ― 陸軍と水軍の編成
第一章: 織田北陸方面軍の陣容
天正10年の越中攻めに投入された織田北陸方面軍は、信長が有する最強の軍団の一つであった。
- 指揮官: 総大将は織田家筆頭宿老の柴田勝家。その与力として、越中方面の平定を実質的に担ってきた佐々成政、加賀を本拠とする前田利家、そして勝家の甥であり猛将として知られる佐久間盛政といった、織田家が誇る歴戦の勇将たちが名を連ねた 1 。
- 陸上兵力: 動員された総兵力は約40,000と推定されている 1 。これは、魚津城に籠城する上杉軍の10倍以上にも達する圧倒的な大軍であり、その物量差は開戦当初から戦いの帰趨を予感させるものであった。
- 新兵器の導入: 織田軍は、多数の鉄砲を組織的に運用する戦術を得意としていたが、この魚津城攻めではさらに大砲(「国崩し」とも称される火砲)が使用されたことが一次史料から確認されている 1 。これは、北陸地方における最古の大砲使用例とされ、織田軍の技術的優位性を示すものであった。ただし、この大砲は当初から不良品であり、前田利家が修理を依頼したものの、それが完了したのは落城わずか2日前の6月1日であったため、実際の攻城戦における効果は限定的だったと考えられている 1 。
- 水軍戦力: 織田信長は、九鬼嘉隆率いる強力な水軍を擁し、石山合戦などでその威力を証明していた 2 。北陸方面においても、柴田勝家が兵糧輸送のために数百艘の船を徴発したという記録が残っており 5 、若狭武田氏の水軍などもその指揮下にあったと見られる 28 。放生津湾の海上封鎖には、これらの水軍戦力の一部、あるいは加賀・能登・越中の沿岸で徴用された在地船団が動員され、組織的な封鎖作戦を展開したと推測される。
第二章: 上杉越中守備軍の構成
圧倒的な織田軍に対し、上杉方は絶望的な兵力でこれを迎え撃つこととなった。
- 籠城将: 城代の中条景泰を中心に、山本寺孝長、吉江景資、竹俣慶綱ら、いずれも謙信の代から上杉家に仕えた譜代の重臣13将が守備の任にあたった 1 。彼らは「魚津在城衆」として、その悲壮な最期と共に後世に名を残すことになる。
- 籠城兵力: 城内の兵力は約3,800(諸説あり)とされ、織田軍に対して兵力差は10対1以上という、極めて厳しい状況であった 1 。
- 後詰部隊: 上杉景勝は、直江兼続らと共に約5,000の兵を率いて救援に向かったが、前述の通り多方面からの戦略的圧力により、積極的な攻勢に出ることは叶わなかった 6 。
- 水軍戦力: 上杉謙信は、かつて手取川の戦いに際して水軍を効果的に用い、七尾城を海上から包囲するなど、日本海における制海権の重要性を熟知していた 9 。また、本庄繁長のように水上での活動を得意とする武将も存在した 29 。しかし、謙信の死と御館の乱による国力の低下は、その水軍力にも深刻な影響を与えていた。天正10年の時点で、織田方の組織的な海上封鎖に対抗できるほどの艦隊行動は不可能であり、おそらくは小規模な伝令船や補給船による散発的な活動が限界であったと推測される。
この絶望的な戦力差を視覚的に示すため、両軍の陣容を以下にまとめる。
勢力 |
役職 |
主要武将 |
推定兵力 |
織田軍 |
総大将(北陸方面軍) |
柴田勝家 |
約40,000 |
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方面軍与力 |
佐々成政、前田利家、佐久間盛政 |
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上杉軍 |
魚津城籠城衆 |
中条景泰、山本寺孝長、吉江景資ら13将 |
約3,800 |
|
後詰(援軍) |
上杉景勝、直江兼続 |
約5,000 |
この表が示す通り、魚津城の籠城戦は、開戦前から勝敗がほぼ決しているかのような状況であった。上杉方の将兵が託した最後の望みは、主君・景勝による奇跡的な救援だけであった。
第四部: 合戦のリアルタイム再現 ― 魚津城攻防と放生津湾の動静
天正10年春から初夏にかけての越中沿岸の攻防は、陸上、海上、そして中央政局という三つの舞台で、それぞれが密接に絡み合いながら進行した。その複雑な状況を正確に把握するため、まず全体の時系列を以下の表に整理する。この表は、後に続く詳細な記述を読み解く上での道標となるであろう。
日付(天正10年) |
陸上の出来事(魚津城周辺) |
海上の動き(放生津湾周辺・推定) |
関連地域の出来事 |
3月11日 |
(背景)武田氏滅亡。織田軍、魚津城包囲を開始 1 。直後、富山城が上杉方に奪われ、織田軍は一時転進 1 。 |
織田水軍(または徴用船団)による放生津湾の初期封鎖開始。上杉方の海上連絡路を警戒。 |
甲州征伐完了。 |
4月4日 |
織田軍、富山城を奪還し、魚津城への本格的な総攻撃を再開。堀際まで迫り、日夜鉄砲を撃ちかける 6 。 |
海上封鎖を本格化。魚津城への補給・増援ルートを完全に遮断する態勢を構築。 |
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4月23日 |
籠城衆、「魚津在城衆十二名連署書状」を執筆。救援を請い、玉砕を覚悟する 6 。 |
上杉方の小舟による連絡の試みと、織田方の迎撃・拿捕が繰り返される。 |
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5月6日 |
織田軍の猛攻により、魚津城二の丸が陥落 10 。 |
封鎖網はさらに厳重となり、湾内の制海権は完全に織田方のものとなる。 |
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5月15日 |
上杉景勝、援軍5,000を率いて魚津城東方の天神山城に着陣 6 。籠城衆の士気が高まる。 |
景勝の陸路からの接近に対し、海上からの牽制や偵察活動が活発化。 |
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5月26日 |
景勝、信濃・上野方面の織田軍の脅威と、新発田重家の反乱により、本国防衛のため苦渋の撤退を決断 1 。 |
景勝撤退の情報が、海上ルートも使って織田軍に伝達される。上杉方の最後の希望が絶たれる。 |
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6月1日 |
織田軍の不良大砲の修理が完了 1 。 |
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6月2日 |
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京都・本能寺にて、明智光秀が謀反。織田信長自刃。 7 |
6月3日 |
魚津城、最後の抵抗も及ばず落城。中条景泰ら籠城将13名全員が自刃 1 。 |
海上封鎖作戦、魚津城陥落により目的を達成。 |
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6月4日以降 |
信長死去の報が北陸の織田軍に到達 11 。織田軍は混乱し、撤退を開始。上杉軍が魚津城を奪還 10 。 |
織田方の海上封鎖は瓦解。富山湾の制海権は一時的に上杉方に戻る。 |
秀吉、中国大返しを開始。 |
三月~四月: 攻防の激化と海上封鎖の完成
天正10年3月、武田氏を滅ぼした織田軍の精鋭は、その勢いを駆って越中へと雪崩れ込んだ。柴田勝家率いる4万の大軍は、上杉方の最後の拠点である魚津城を包囲する 1 。しかし、その直後、上杉方のゲリラ戦術により背後の富山城が一時的に奪われるという事態が発生し、織田軍は魚津城の包囲を解き、富山城の奪還へと転進せざるを得なかった 1 。
4月に入り、富山城を再奪取した織田軍は、満を持して魚津城への総攻撃を再開する。その攻撃は凄まじく、4月4日付で城内から送られた書状には「ほりきわ(堀際)までとりつめ、にちや(日夜)てつはう(鉄砲)はなし申候」と記されており、城の堀際まで肉薄され、昼夜を問わず鉄砲の猛射に晒されている様が窺える 6 。
この陸上での猛攻と並行して、海では「放生津湾口海戦」と称されるべき海上封鎖作戦が着々と進行していた。織田方の水軍、あるいは現地で徴用された船団が放生津湊を拠点とし、富山湾を完全に封鎖。魚津城への兵糧・弾薬の補給路を断ち、外部との連絡を遮断した。魚津城は陸と海から完全に孤立させられたのである。
この絶望的な状況の中、4月23日、城将の中条景泰らは連名で「魚津在城衆十二名連署書状」を執筆する。これは主君・景勝の側近である直江兼続に宛てたもので、救援を懇願すると同時に、「この上は、全員滅亡と覚悟を決めました」と、玉砕を覚悟した悲壮な決意が記されていた 6 。
五月: 一縷の望みと絶望
孤立無援の籠城戦が続く中、5月15日、魚津城の将兵に一縷の望みがもたらされる。主君・上杉景勝が、ついに5,000の兵を率いて魚津城の東方、天神山城に着陣したのである 6 。天神山は魚津城から目視できる距離にあり、山頂に翻る上杉軍の旗は、地獄の底にいた籠城衆の士気を大いに高ぶらせたことであろう。
しかし、景勝の立場は極めて苦しいものであった。魚津城は織田の大軍によって幾重にも包囲されており、寡兵の景勝軍がこれを突破して救援することは不可能に近い。さらに、信濃の森長可、上野の滝川一益といった織田軍が越後本国への侵攻を窺っており、下手に動けば本拠地・春日山城が危機に陥る可能性があった 1 。景勝は、眼前に苦しむ家臣たちを見ながらも、動くに動けないという苦渋の選択を迫られていた。
そして5月26日、運命の日が訪れる。信濃・上野方面からの脅威が現実のものとなり、景勝は本国防衛のため、断腸の思いで天神山城からの撤退を決断する 1 。魚津城から見えていた味方の軍勢が、静かにその姿を消していく。それは、籠城将たちにとって、最後の希望が絶たれた瞬間であった。
六月: 悲劇の落城と歴史の激動
援軍の望みは完全に絶たれ、5月9日には弾薬も尽きていた 10 。それでも魚津城の将兵は、最後の最後まで抵抗を続けた。しかし、圧倒的な物量差の前には、その抵抗も長くは続かなかった。
天正10年6月3日。開戦から80日余り、魚津城はついに落城の時を迎える。これ以上の抵抗は無意味と悟った中条景泰ら13人の城将は、敵の手による辱めを潔しとせず、全員が自刃を選んだ。その最期は壮絶であったと伝えられる。彼らは、落城後の首実検で誰の首か分からなくなることを避けるため、自らの姓名を記した木札を用意し、耳に穴を開けて鉄線で結わえ付けた上で、潔く腹を切ったという 6 。
しかし、歴史の皮肉とはこのことであった。この悲劇が起きるわずか一日前、天正10年6月2日の早朝、遠く離れた京の都・本能寺において、明智光秀が謀反を起こし、主君・織田信長が自刃するという、天下を揺るがす大事件が発生していたのである 7 。
信長横死の報が、北陸の織田軍にもたらされたのは、魚津城落城の翌日以降であった 11 。主君を失った織田軍は統制を失い、柴田勝家らはそれぞれの領国へと慌ただしく撤退を開始した。その結果、上杉軍は誰一人いない無人の魚津城を、労せずして奪還することになった 10 。あと一日、いや半日でも持ちこたえていれば、13将をはじめとする多くの命は救われたかもしれなかった。魚津城の悲劇は、戦国時代の無常さを象徴する出来事として、今に語り継がれている。
第五部: 「放生津湾口海戦」の戦術的考察
第一章: 織田軍の海上封鎖作戦
魚津城攻防戦における織田軍の海上作戦は、戦国時代末期の総力戦における水軍の役割を理解する上で、極めて示唆に富む事例である。この作戦の主目的は、上杉水軍との艦隊決戦によって敵の戦闘力を削ぐことではなかった。その狙いは、より戦略的かつ兵站的なものであり、以下の三点に集約される。
- 補給の遮断: 魚津城への兵糧、弾薬、兵員といったあらゆる物資の補給を、海上から完全に遮断すること。
- 連絡の妨害: 籠城する魚津城と、後詰の上杉景勝本隊との間の情報伝達を妨害し、両者の連携を不可能にすること。
- 脱出・救援の阻止: 海上からの城兵の脱出、あるいは外部からの救援部隊の上陸を阻止すること。
この目的を達成するため、織田軍は歴史ある港湾都市・放生津を制圧し、ここを海上封鎖の拠点として活用したと推測される。放生津城や湊の施設は、封鎖に従事する船団の停泊地や物資の集積所として機能し、作戦の効率性を大いに高めたであろう 23 。動員された船団は、九鬼水軍のような専門的な戦闘集団だけでなく、若狭や加賀、能登といった支配地域の沿岸で徴用された在地船団も含まれていた可能性が高い。彼らは湾口部や魚津城沖に哨戒線を張り、昼夜を問わず監視を続けることで、魚津城を一個の巨大な牢獄へと変えていったのである。
第二章: 上杉軍の海上での抵抗
一方、この厳重な海上封鎖に対し、上杉軍が取り得た対抗策は極めて限定的であった。御館の乱以降の国力の疲弊、そして主力の多くが陸戦に釘付けにされている状況下で、組織的な艦隊を編成して織田方の封鎖網に正面から挑むことは、もはや不可能であった。
しかし、上杉方が完全に無抵抗であったとは考えにくい。おそらく、夜陰に乗じた小舟による連絡員の潜入や、ごく少量の物資の運び込みといった、ゲリラ的な活動が幾度となく試みられたであろう。また、織田方の哨戒船に対する散発的な妨害活動なども行われたかもしれない。だが、これらの試みは、織田方の圧倒的な物量と厳重な警戒網の前に、そのほとんどが徒労に終わり、魚津城の孤立を深める結果にしかならなかったと考えられる。
この戦いにおいて、大規模な海戦が発生しなかったという事実そのものが、極めて重要な戦略的意味を持っている。それは、御館の乱以降の上杉家の国力低下と、織田信長が展開した多方面同時侵攻作戦の成功を、何よりも雄弁に物語っている。
もし、これが謙信の時代であれば、状況は大きく異なっていたかもしれない。謙信は強力な水軍を動員し、海上から織田軍の背後を突く、あるいは補給路を脅かすといった積極的な作戦を展開できた可能性がある 9 。しかし、景勝にはもはやその力は残されていなかった。陸からの救援もままならず、海からの支援も絶望的であった。つまり、「海戦が起きなかった」という事実は、単に戦闘がなかったことを示すのではなく、その段階に至る以前に、上杉方がすでに戦略的に敗北していたことを象徴しているのである。織田軍の海上封鎖の成功は、両者の国力と戦略の差がもたらした、必然的な帰結であった。
終章: 歴史の転換点 ― 魚津・放生津の戦いが残したもの
天正10年の越中沿岸における攻防、すなわち魚津城の戦いと、それに付随した「放生津湾口海戦」は、単なる一地方の城を巡る攻防戦にとどまらず、戦国時代の歴史を大きく転換させる幾つもの要因を内包していた。
第一に、この戦いは上杉家の存続に決定的な影響を与えた。もし本能寺の変が起きなければ、魚津城を陥落させた織田軍は、雪解けを待って越後へ総攻撃を仕掛け、四面楚歌の状態にあった上杉家は滅亡の淵に立たされていた可能性が極めて高い 12 。魚津城の将兵たちが、絶望的な状況下で80日間にもわたって持ちこたえたことは、結果的に歴史の歯車が大きく動くための貴重な時間稼ぎとなった。彼らの犠牲は、皮肉にも上杉家の命脈を未来へと繋ぐ礎となったのである。
第二に、この戦いは柴田勝家の運命を暗転させる一因となった。魚津城での勝利は、本来であれば彼の輝かしい武功となるはずであった。しかし、信長横死の報を受け、越中から軍を撤収させるのに手間取ったことで、中国地方から驚異的な速度で帰還した羽柴秀吉に、信長の仇討ちという政治的功績で決定的な後れを取ってしまった 11 。この遅れが、清洲会議での主導権争いに影響し、翌年の賤ヶ岳の戦いでの敗北、そして越前北ノ庄城での悲壮な自刃へと繋がっていくのである 10 。
第三に、この戦いは北陸地方の勢力図を再編する契機となった。織田軍の撤退によって生じた越中の権力の空白は、佐々成政の台頭を促し、彼が越中一国を平定する基盤を築いた 10 。これは、後の豊臣秀吉との対立、すなわち「富山の役」へと繋がる新たな対立の火種を生んだ。また、信長の死によって生じた信濃・上野の混乱は、上杉、徳川、北条らが激しく争う「天正壬午の乱」を引き起こす遠因ともなった 8 。
最後に、「放生津湾口海戦」の歴史的再評価が挙げられる。本報告書で論じてきたように、この「海戦」は、戦国時代末期の総力戦における陸海連動の重要性を示す好例である。華々しい艦隊決戦のみが海戦ではない。地道で組織的な海上封鎖が、いかに敵の兵站を断ち、城を孤立させ、将兵の士気を打ち砕くか。その戦術的有効性を、この戦いは明確に示している。魚津城の悲劇は、陸上での奮戦だけでは覆すことのできない、海上での完全な敗北と表裏一体であった。この事実を理解することなくして、天正10年の越中攻防の真実を語ることはできないであろう。
引用文献
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- 柴田勝家は何をした人?「秀吉の台頭に反対して最後まで信長のために戦い抜いた」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/katsuie-shibata
- 柴田勝家の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7470/
- #182『信長公記』を読むその26 巻13 中編 :天正八(1580)年 中編 | えびけんの積読・乱読、できれば精読 & ウイスキー https://ameblo.jp/ebikenbooks/entry-12793218190.html
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