最終更新日 2025-09-05

敦賀城の戦い(1583)

天正十一年、秀吉と勝家の対立は賤ヶ岳の戦いへ。秀吉は長浜城を無血開城させ、美濃大返しで勝家を破り敦賀を制圧。北ノ庄城で勝家とお市の方は壮絶な最期を遂げ、秀吉の天下統一への道が確固たるものとなった。

天正十一年 敦賀・越前平定戦の真実:賤ヶ岳から北ノ庄へ、柴田勝家滅亡の軌跡

序章:清洲会議後の対立構造 ― 避けられぬ激突への道

天正10年(1582年)6月2日、本能寺にて織田信長が横死したことは、日本の歴史における一大転換点となりました。この事件は、信長が築き上げた強力な中央集権体制に巨大な権力の空白を生み出し、その遺産を誰が継承するのかという熾烈な後継者争いの幕開けを告げるものでした。この争いの中心に立ったのが、羽柴秀吉と柴田勝家の二人です。

織田信長亡き後の権力闘争:羽柴秀吉と柴田勝家の台頭

羽柴秀吉は、備中高松城で毛利氏と対陣中に主君の凶報に接しました。彼は驚異的な速度で毛利氏と和睦を結ぶと、すぐさま京へ軍を返し、山崎の戦いにおいて明智光秀を討ち果たします 1 。この「中国大返し」と呼ばれる電光石火の軍事行動は、秀吉に「信長の仇討ち」という絶大な政治的資本をもたらし、彼を後継者争いの最前線へと押し上げました 3

一方、柴田勝家は織田家筆頭家老であり、北陸方面軍の総司令官として越前国を拠点に強大な軍事力を保持していました 2 。信長からは「親父」とまで呼ばれたとされる勝家は、その実績と家中での序列から、自らが信長亡き後の織田家を主導すべきであると自負していました。しかし、本能寺の変当時は上杉氏と越中で対陣しており、地理的に遠く離れていたため、光秀討伐の功名争いに出遅れる形となったのです。

この二大巨頭が初めて公式の場でその主導権を争ったのが、同年6月27日に尾張国清洲城で開かれた、所謂「清洲会議」でした 3 。この会議は、信長の後継者と遺領の配分を決定するためのものであり、織田家の未来を左右する極めて重要な意味を持っていました。

清洲会議における遺領配分と深まる確執

清洲会議において、後継者問題は最初の火種となりました。勝家は信長の三男である織田信孝を後継に推しましたが、これに対し秀吉は、信長の嫡男・信忠の遺児である幼い三法師(後の織田秀信)を擁立しました 3 。これは、幼君を立てることで自らがその後見人となり、事実上の最高権力者になることを狙った秀吉の巧みな戦略でした。会議に参加した丹羽長秀や池田恒興が秀吉に同調した結果、後継者は三法師に決定し、勝家の目論見は打ち砕かれます 1

続く遺領配分においても、秀吉が主導権を握りました。秀吉自身は山城国、河内国、丹波国などを獲得し、その勢力を飛躍的に増大させます 3 。一方、勝家は本領である越前国を安堵された上に、秀吉がかつて本拠地としていた北近江の長浜城6万石を与えられました 5 。しかし、これは秀吉が織田家内での影響力を確固たるものにするための戦略的な譲歩であり、実質的に勝家は織田家臣団の序列において二番手に後退させられたのです 3

この会議の結果に強い不満を抱いた勝家は、秀吉への敵意を募らせていきました。彼は信長の妹であり、浅井長政の未亡人であったお市の方と結婚し、織田信孝や伊勢の滝川一益らと結託して反秀吉連合を形成します 3 。これに対し秀吉も、巧みな外交手腕で周辺の諸大名を次々と味方につけ、織田家は完全に二つの派閥に分裂し、両者の対立はもはや避けられない状況へと突き進んでいきました。この対立は単なる個人的な感情のもつれではなく、織田家の伝統的な序列を重んじる勝家の旧来的な価値観と、実力と時流を読んで柔軟に勢力を拡大する秀吉の新しい政治スタイルとの衝突でもありました。

勝家と養子・柴田勝豊の不和:北ノ庄体制の内的脆弱性

勝家が清洲会議で得た長浜城は、彼の養子であり甥でもあった柴田勝豊に与えられました 5 。しかし、この処遇が柴田家の内部に深刻な亀裂を生むことになります。一説には、勝家は本来、猛将として名高い佐久間盛政に長浜城を与えるつもりであったとされ、勝豊はこの人事に深い不満と疎外感を抱いたと言われています 8

勝家は、織田家筆頭家老として家中をまとめ上げるべき立場にありながら、最も身近な存在である養子の心情を汲み取ることができませんでした。この人間関係の管理能力の欠如は、「人たらし」と評された秀吉のそれとは対照的であり、柴田家の体制が内包する致命的な脆弱性でした 2 。秀吉がこの内部対立を見逃すはずがなく、やがてこの不和の種は、彼の巧みな調略によって発芽し、勝家滅亡の序曲を奏でることになるのです。賤ヶ岳の戦いは、戦場での激突であると同時に、その前哨戦として繰り広げられた情報戦・心理戦の結果でもありました。勝家の敗北の遠因は、清洲会議の政治的敗北と、彼自身の足元にあったこの人間関係の綻びに既に存在していたと言えるでしょう。

第一章:冬の計略 ― 長浜城、無血にて開城す

賤ヶ岳の戦いの火蓋が切られる約4ヶ月前、天正10年(1582年)の冬。羽柴秀吉は、柴田勝家との全面対決に先立ち、戦わずして勝敗の趨勢を大きく左右する、極めて重要な一手を打ちました。それは、環境要因と心理戦を巧みに組み合わせた、秀吉ならではの鮮やかな計略でした。

天正10年12月:雪に閉ざされた越前と秀吉の迅速な軍事行動

同年11月、柴田勝家は、自らの本拠地である越前が冬になると深い雪に閉ざされ、大規模な軍事行動が不可能になることを見越していました 3 。来るべき春の決戦まで時間を稼ぐため、勝家は前田利家、金森長近、不破光治を使者として秀吉のもとへ派遣し、見せかけの和睦交渉を申し入れます 3

しかし、秀吉はこの和睦が偽りであること、そして勝家側の時間稼ぎの意図を完全に見抜いていました。彼は和睦交渉に応じるふりをしながら、逆に利家らに対して調略を仕掛け、柴田陣営の結束を内側から切り崩そうと試みます 3 。そして、勝家の思惑とは裏腹に、秀吉は冬を障害ではなく、むしろ好機と捉えました。

清洲会議から半年が経過した12月2日、秀吉は勝家が北陸の豪雪によって完全に身動きが取れなくなった絶好のタイミングを捉え、突如として和睦を破棄 3 。電撃的に大軍を率いて京を発ち、勝家の勢力圏である北近江へと侵攻を開始したのです 3 。目標は、柴田方の南の拠点であり、かつては秀吉自身の居城でもあった長浜城でした。

大谷吉継による調略:勝豊の苦悩と決断

秀吉軍は、柴田勝豊が守る長浜城を完全に包囲しました 4 。しかし、秀吉の狙いは力攻めによる落城ではありませんでした。彼は、城の物理的な城壁ではなく、城主である勝豊の心の中にある壁を崩すことを選びます。この重要な任務を託されたのが、秀吉の側近であり、交渉事に長けた大谷吉継でした 7

吉継は、勝豊が養父である勝家に対して抱いている不満や疎外感を巧みに突き、心理的に揺さぶりをかけました 11 。勝豊にしてみれば、勝家陣営に留まっていても冷遇されるばかりで、未来は明るくない。それに対し、秀吉は降伏すれば厚遇を約束するというのです 9 。雪に閉ざされた越前からの援軍は絶望的であり、城は完全に孤立していました。

苦悩の末、勝豊は吉継の調略に応じることを決断します。天正10年12月9日、長浜城はほとんど抵抗することなく、無血で秀吉の手に渡りました 4 。秀吉は降伏した勝豊を約束通り厚遇し、来国俊の太刀や黄金300両を与えたとされています 5 。この一連の出来事は、秀吉が単なる武力だけでなく、情報戦と心理戦を駆使して敵を制圧する、新しい時代の戦争の在り方を示していました。

長浜城降伏がもたらした戦略的影響

長浜城の無血開城は、秀吉にとって計り知れない戦略的価値をもたらしました。まず、柴田方の南の拠点を、兵力を一切損なうことなく手中に収めたことで、来るべき決戦に向けた兵力を温存することができました。

さらに重要なのは、これによって美濃国にいる織田信孝への圧力を直接かけられるようになったことです 6 。長浜城を拠点とした秀吉は、すぐさま美濃へ進軍し、信孝が籠る岐阜城を包囲。後ろ盾である勝家からの援軍を期待できない信孝は、なすすべもなく降伏し、12月20日、後継者の象徴である三法師を秀吉に引き渡しました 1

こうして、勝家が描いていた「信孝・一益との連携による秀吉包囲網」という戦略は、緒戦にして根底から覆されたのです。春の雪解けを待って決戦に臨もうとしていた勝家は、その前に自らの手足をもがれ、戦略的に極めて不利な状況に追い込まれました。冬の長浜城をめぐる攻防は、物理的な戦闘こそありませんでしたが、賤ヶ岳の戦いの勝敗を事実上決定づけた、静かなる前哨戦であったと言えるでしょう。

第二章:賤ヶ岳の激闘 ― 天下分け目の二日間

天正11年(1583年)春、長く厳しい冬が終わり、北陸の雪が解けると、羽柴秀吉と柴田勝家の対立はついに全面的な軍事衝突へと発展しました。近江国伊香郡、賤ヶ岳。この地が、織田信長亡き後の天下の覇権を決定づける、歴史的な決戦の舞台となります。

表1:賤ヶ岳の戦いにおける両軍の主要武将と兵力

勢力

羽柴軍

総兵力

約 50,000

総大将

羽柴秀吉

主要武将

羽柴秀長、羽柴秀次、丹羽長秀、高山右近、中川清秀、黒田孝高、蒲生氏郷、堀秀政 など

布陣

木之本(本陣)、田上山、賤ヶ岳砦、大岩山砦 など

勢力

柴田軍

総兵力

約 30,000

総大将

柴田勝家

主要武将

佐久間盛政、前田利家、金森長近、不破勝光、柴田勝政 など

布陣

玄蕃尾城(本陣)、柳ヶ瀬、行市山、茂山 など

天正11年3月~4月上旬:両軍の対峙と膠着

冬の間に長浜城と岐阜城を失い、戦略的に劣勢となった勝家でしたが、歴戦の猛将としての誇りが彼を突き動かしました。3月10日頃、勝家は3万と号する大軍を率いて本拠地・北ノ庄城を出陣 6 。近江へと南下し、北国街道を見下ろす要衝・玄蕃尾城に本陣を構えました 7 。これに対し、秀吉も大軍を率いて北上し、木之本に本陣を設置。両軍は余呉湖を挟んで対峙し、互いに砦を築いて防御を固め、戦線はしばらく膠着状態に陥りました 2

4月16日~20日:佐久間盛政の突出と秀吉の「美濃大返し」

この膠着状態を破る動きが、柴田側から起こります。4月16日、秀吉に降伏していた美濃の織田信孝が、伊勢の滝川一益と呼応して再び挙兵したのです 1 。秀吉は信孝の動きを封じるため、自ら主力を率いて賤ヶ岳の戦線を離れ、美濃の大垣城へと向かいました。

この秀吉本隊の不在こそ、勝家が待ち望んだ好機でした。勝家の配下で「鬼玄蕃」の異名を持つ猛将・佐久間盛政は、この機を逃さず秀吉方の砦を急襲する「中入り」作戦を進言。勝家はこれを許可し、盛政は精鋭部隊を率いて秀吉方の最前線である大岩山砦を攻撃しました。砦を守っていた中川清秀は奮戦するも討死し、岩崎山砦の高山右近も敗走。柴田軍は一時的に戦局を優位に進めました 2

しかし、この知らせは大垣の秀吉のもとへ直ちにもたらされました。報告を受けた秀吉の決断と行動は、常軌を逸したものでした。彼はすぐさま軍の反転を命じると、大垣から木之本までの約52キロの道のりを、わずか5時間という驚異的な速さで駆け抜けたのです 6 。この「美濃大返し」と呼ばれる歴史的な強行軍により、秀吉は4月20日の夜には賤ヶ岳の戦線に帰還。盛政の勝利は、一夜にして覆されることになります。

4月21日:前田利家の戦線離脱と柴田軍の総崩れ

秀吉の電撃的な帰還は、柴田軍に大きな衝撃と動揺を与えました。突出していた佐久間盛政隊は孤立の危機に瀕し、勝家からの再三の撤退命令を受け、ようやく退却を開始します 6 。秀吉はこの好機を逃さず、全軍に追撃を命令。福島正則や加藤清正ら、後に「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれる若武者たちが、この追撃戦で目覚ましい活躍を見せました 1

そして、この激戦の最中に、戦いの帰趨を決定づける出来事が起こります。柴田軍の右翼、茂山に布陣していた前田利家の部隊が、突如として戦闘を放棄し、戦線を離脱したのです 1 。これは単なる恐怖による敗走ではありませんでした。利家は、上司である勝家への義理と、旧友である秀吉との友情との間で板挟みとなり、苦悩していました 2 。さらに、秀吉は冬の和睦交渉の時点から利家への調略を仕掛けており、その働きかけがこの土壇場で実を結んだのです 3 。利家は、柴田家に見切りをつけ、自らの家と未来を守るために、秀吉側につくという政治的決断を下したと解釈できます。

利家の離脱は、ドミノ倒しのように柴田軍全体に波及しました。側面からの防御が完全に崩壊し、兵士たちの士気は一気に低下。利家と連携していた不破勝光、金森長近の部隊もこれに続いて退却を始めます 1 。これにより佐久間盛政隊は完全に崩壊し、秀吉軍の全戦力が勝家の本隊へと殺到しました。この時、勝家の手元に残された兵力はわずか3,000ほどであり、もはや多勢に無勢の状況を支えきることは不可能でした 3

敗走:勝家、北ノ庄を目指す決死の撤退行

柴田軍は総崩れとなり、勝家は敗北を悟りました。彼は残ったわずかな兵と共に、本拠地である越前・北ノ庄城を目指して決死の敗走を開始します 1 。この撤退戦において、勝家の家臣であった毛受家照(めんじゅいえてる)とその弟は、主君の馬印を預かり、自らが勝家の身代わりとなって敵軍に突撃し、壮絶な討死を遂げました 4 。彼らの命を賭した奮戦によって、勝家はかろうじて追撃を振り切り、越前へと逃げ延びることができたのです。しかし、それは栄光に満ちた猛将の、あまりにも悲しい最後の戦いでした。

第三章:追撃、そして府中城の開城 ― 敦賀への道

賤ヶ岳での勝利は、羽柴秀吉にとって最終的な目標ではありませんでした。それは、柴田勝家という「主たる強敵」を完全に滅ぼすための序章に過ぎません。秀吉は勝利の余勢を駆って追撃の手を緩めず、勝家の本拠地である越前へと雪崩れ込みます。この追撃戦の過程で、戦略的要衝である敦賀地域が制圧され、勝家の命運は事実上、この段階で尽きることになります。

敗走する勝家、府中城の前田利家を訪う

賤ヶ岳の戦場から辛くも離脱した柴田勝家は、4月22日、北ノ庄城への帰路にある越前府中城(現在の福井県越前市)に立ち寄りました 15 。この城には、戦場から離脱し、謹慎していた前田利家がいました 2 。自軍の敗北を決定づけた張本人との対面は、いかばかりであったか想像に難くありません。しかし、伝承によれば、勝家は利家を一切詰問することなく、これまでの労をねぎらい、湯漬けを所望したといいます。そして、城を去る際に、利家に対して「秀吉側につくように」と言い残したとされています 2 。これが事実であれば、それは全てを悟った老将が、かつて目をかけた部下の未来を案じて見せた、最後の温情だったのかもしれません。

秀吉軍の越前侵攻と敦賀地域の制圧

勝家が府中城を去った頃、秀吉の本隊は既に越前への進撃を開始していました 6 。その進軍ルートは、近江から越前への玄関口である北国街道、すなわち敦賀を経由するものでした 16

ここで、「敦賀城の戦い(1583)」という呼称について明確にする必要があります。天正11年当時、後に大谷吉継らが整備する平城としての敦賀城はまだ存在していませんでした 12 。この地域には、南北朝時代から戦略拠点とされてきた金ヶ崎城などの山城群が存在しましたが 16 、秀吉の進軍において、特定の城をめぐる大規模な攻防戦が繰り広げられたという記録は確認できません。

むしろ、ここで起きたのは、賤ヶ岳での大敗によって指揮系統が崩壊した柴田方の残存勢力が、秀吉の大軍の前に戦意を喪失し、敦賀一帯の諸拠点や城砦が抵抗する術もなく次々と制圧・無力化されていく過程でした。つまり、1583年の「敦賀の戦い」とは、特定の城の攻防戦ではなく、秀吉軍による**「敦賀戦略回廊の迅速な制圧作戦」**と理解するのが最も正確です。この地域の無血に近い制圧があったからこそ、秀吉軍は一切の遅滞なく、勝家の心臓部である北ノ庄へと進撃することが可能になったのです。この迅速な追撃こそが、勝家に再起の機会を全く与えませんでした。

利家の降伏と秀吉軍への編入:越前平定の加速

勝家と別れた後、前田利家は府中城に迫る秀吉軍に対し、城を開いて正式に降伏しました 6 。秀吉は、戦場で敵前逃亡した利家を罰するどころか、その降伏を受け入れ、旧交を温めました。

さらに秀吉は、常人には思いもよらない一手を打ちます。降伏したばかりの利家を、あろうことか柴田勝家が籠る北ノ庄城攻めの先鋒部隊に加えたのです 3 。これは、利家が完全に秀吉に忠誠を誓ったことを内外に示すための、いわば「踏み絵」でした。同時に、越前の他の国人衆に対して、「柴田譜代の重臣である前田利家ですら、もはや秀吉に味方した」という強烈な心理的圧力をかける効果がありました。この秀吉ならではの巧みな用兵術により、越前の平定は一気に加速。柴田勝家は、かつての部下に攻められるという、極めて過酷な状況に追い込まれていったのです。

第四章:北ノ庄、炎上 ― 猛将・柴田勝家の最期

賤ヶ岳での敗北からわずか二日。羽柴秀吉の追撃軍は、柴田勝家の最後の砦である越前・北ノ庄城へと到達しました。ここに、織田家筆頭家老として信長に仕え、「瓶割り柴田」の勇名を轟かせた猛将の、壮絶な最期の舞台が整えられました。

4月23日:秀吉軍による北ノ庄城の完全包囲

天正11年4月23日、前田利家を先鋒とする秀吉軍は、北ノ庄城(現在の福井市)に到着し、城を幾重にも完全に包囲しました 3 。勝家が築いた北ノ庄城は、当時の宣教師ルイス・フロイスがその壮大さと壮麗さを称賛したほどの、九層の天守を持つ壮大な名城でした 20 。しかし、その堅牢な城も、守るべき兵を失っては意味をなしません。賤ヶ岳の決戦で主力を失った勝家の手元には、もはや籠城戦を戦い抜くだけの兵力は残されておらず、城内にいた兵はわずか200余りだったとも伝えられています 3

最後の抵抗と城内での悲劇

秀吉軍は到着と同時に、城への一斉攻撃を開始しました。勝家は残されたわずかな兵を鼓舞し、最後の抵抗を試みますが、圧倒的な兵力差の前にはなすすべもありませんでした。衆寡敵せず、勝家と家臣たちは次々と討ち取られ、ついに天守へと追い詰められていきます 3

もはやこれまでと死を覚悟した勝家は、妻であるお市の方に対し、城から脱出して生き延びるよう勧めました。しかし、お市の方はこれを毅然として拒絶し、夫と運命を共にすることを選びます。戦国の世の無常を体現するかのような彼女の生涯は、ここで幕を閉じることになったのです。ただし、お市の方が前夫・浅井長政との間にもうけた三人の娘、茶々、初、江は、勝家の計らいによって城から無事に脱出させられ、攻め手である秀吉に引き渡されました 3 。この三姉妹が、後に日本の歴史に大きな影響を与える存在となるのは、また別の物語です。

4月24日:勝家とお市の方の自害、柴田家の滅亡

天正11年4月24日、追い詰められた勝家は、天守にて一族や最後まで付き従った家臣たちと最後の宴を開きました。そして、自らの生涯を締めくくるべく、天守に火を放つよう命じます。燃え盛る炎の中、勝家はまず妻・お市の方を自らの手で介錯し、その後、一族の者たちと共に、武士の作法に則って割腹し、その壮絶な生涯を閉じました 4 。『柴田勝家公始末記』によれば、時に勝家62歳、お市の方37歳であったとされています 4

勝家の自害は、単なる敗北者の死ではありませんでした。それは、旧来の武士としての価値観と誇りを最後まで貫き通した、一つの儀式であり、政治的な意思表示でもありました。新興勢力である秀吉に生け捕りにされるという最大の屈辱を避け、自らの手で壮麗な城と共に燃え尽きることで、その名を後世に英雄譚として刻みつけようとしたのです。

この北ノ庄城の炎上をもって、織田家筆頭家老・柴田勝家は滅亡しました。信長亡き後の織田家を二分した最大の政敵を葬り去った秀吉は、名実共に対抗する者のいなくなった織田家中の随一の実力者となり、天下統一への道を確固たるものとしたのです 3

終章:戦後の敦賀と新たな支配体制

柴田勝家の滅亡により、賤ヶ岳の戦いは完全に終結しました。羽柴秀吉は、織田信長の後継者としての地位を不動のものとし、天下人への道を大きく前進させます。戦後、秀吉は速やかに戦後処理と新たな支配体制の構築に着手し、その中で戦略的要衝である敦賀もまた、新たな時代を迎えることになりました。

蜂屋頼隆への敦賀下賜と敦賀城の築城開始

戦後、秀吉は論功行賞を行いました。柴田氏の旧領であった越前の大部分は、長年の盟友であり、戦いでも功績のあった丹羽長秀に与えられました 15 。一方で、近江と越前を結び、日本海交通の拠点でもある戦略的に極めて重要な敦賀の地は、秀吉の直臣である蜂屋頼隆に与えられました 18

敦賀の領主となった頼隆は、これまでの戦乱の時代に拠点とされてきた金ヶ崎城などの山城を廃し、町中を流れる笙ノ川の西岸に、新しい時代の拠点となる平城の築城を開始します 17 。これが、近世における「敦賀城」の始まりであり、敦賀の町が軍事拠点から政治・経済の中心地へと変貌していく第一歩となりました 12

大谷吉継の入城と近世敦賀の基礎

天正17年(1589年)、蜂屋頼隆が嗣子なく病没すると、敦賀城主として新たに入封したのが大谷吉継でした 12 。吉継は、賤ヶ岳の戦いの前哨戦において、柴田勝豊が守る長浜城を調略によって無血開城させた功労者です。秀吉は、その功績と内政手腕を高く評価し、この要衝を彼に託したのです。

城主となった吉継は、頼隆が始めた敦賀城の普請を引き継ぎ、城を拡張整備すると共に、城下町の整備や敦賀港の振興に尽力しました 18 。彼は、秀吉が推進する全国的な経済政策を敦賀で実行する役割を担い、東北地方からの物資を敦賀港経由で京・大坂へ輸送する流通ルートを確立するなど、近世における敦賀の繁栄の基礎を築きました 19

本報告における「敦賀城の戦い」の総括

以上の経緯を総合的に分析すると、天正11年(1583年)に起こったとされる「敦賀城の戦い」の実像が明らかになります。それは、特定の城をめぐる独立した攻防戦ではなく、賤ヶ岳の戦いにおける決定的勝利に乗じた羽柴秀吉軍が、柴田勝家の本拠地である越前へ侵攻する過程で、その戦略的な入り口である敦賀地域を迅速に制圧した一連の軍事行動、すなわち**「敦賀・越前平定戦」**と呼ぶべき一連のキャンペーンであったと結論付けられます。

この追撃戦は、賤ヶ岳で敗れた柴田方の敗残兵を掃討し、前田利家をはじめとする越前の国人衆を次々と降伏させ、最終的に北ノ庄城を完全に孤立無援の状態に陥れる上で決定的な役割を果たしました。柴田勝家の滅亡は、賤ヶ岳での戦術的敗北と、それに続くこの relentless な追撃戦によって確定づけられたのです。そして、この戦いの後に築かれた新しい敦賀城は、戦乱の時代の終わりと、秀吉による新たな支配体制の始まりを象徴する存在となりました。


【表2:柴田勝家滅亡に至る詳細年表(天正10年12月~天正11年4月)】

年月日(西暦)

出来事

出典

天正10年 (1582年)

12月2日

羽柴秀吉、和睦を破棄し、柴田勝家領の北近江へ出兵。

3

12月9日

秀吉軍、長浜城を包囲。城主・柴田勝豊は大谷吉継の調略に応じ、降伏。

4

12月20日

秀吉軍、美濃へ進軍し織田信孝が籠る岐阜城を包囲。信孝は降伏し、三法師を秀吉に引き渡す。

1

天正11年 (1583年)

3月10日頃

雪解けを待ち、柴田勝家が約3万の兵を率いて北ノ庄城を出陣。近江・柳ヶ瀬に着陣。

6

4月16日

織田信孝が伊勢の滝川一益と呼応し、岐阜で再挙兵。秀吉は主力を率いて美濃・大垣へ向かう。

1

4月19日

秀吉不在を好機と見た佐久間盛政が、大岩山砦を急襲。守将・中川清秀が討死。

2

4月20日夜

秀吉、美濃大返しを敢行。約52kmの距離を5時間で踏破し、賤ヶ岳の戦線に帰還。

6

4月21日

賤ヶ岳の決戦。秀吉軍の追撃の中、前田利家隊が戦線を離脱。これを機に柴田軍は総崩れとなり、勝家は北ノ庄へ敗走を開始。

1

4月22日

秀吉軍、追撃を開始し越前へ侵攻。前田利家は府中城を開城し、秀吉に降伏。北ノ庄城攻めの先鋒に加えられる。

5

4月23日

秀吉軍、勝家の本拠地である北ノ庄城に到着し、城を完全に包囲。

3

4月24日

勝家、最後の抵抗も及ばず天守に追い詰められる。天守に火を放ち、妻・お市の方と共に自害。北ノ庄城は落城し、柴田氏は滅亡。

4

引用文献

  1. 賤ヶ岳の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%A4%E3%83%B6%E5%B2%B3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  2. 賤ケ岳の戦いで板挟みになった前田利家! 究極の選択の結果は? - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/89985/
  3. 賤ヶ岳の戦い - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7258/
  4. 柴田勝家 - 福井市立郷土歴史博物館 https://www.history.museum.city.fukui.fukui.jp/tenji/kaisetsusheets/18.pdf
  5. 最古の建築様式を有 古風ながらも野面積みの石垣の上に建つその天守閣は https://kojodan.com/pdf/6.pdf
  6. 1583年 賤ヶ岳の戦い | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1583/
  7. 玄蕃尾城(福井県敦賀市刀根) - 西国の山城 http://saigokunoyamajiro.blogspot.com/2018/01/blog-post.html
  8. 秀吉の「天下分け目の戦い」はここだった…「賤ヶ岳の戦い」で柴田勝家を討った秀吉が大興奮したワケ 織田家を二分することで、自らが「天下人」になった - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/72213?page=1
  9. 柴田勝家はなぜ、賤ヶ岳で敗れたのか~秀吉の謀略と利家の裏切り - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/5303
  10. BLOG スタッフブログ - ブログ | 休暇村越前三国【公式】 https://www.qkamura.or.jp/echizen/blog/detail/?id=75548
  11. 大谷吉継 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E5%90%89%E7%B6%99
  12. (大谷吉継と城一覧) - /ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/10495_castle/busyo/48/
  13. 秀吉vs柴田勝家「賤ヶ岳の戦い」の勝敗を決めた、前田利家“突如離反”の理由 https://diamond.jp/articles/-/316137
  14. 賤ヶ岳の戦い - 敦賀市 http://historia.justhpbs.jp/toring.html
  15. 府中城 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.echizenhuchu.htm
  16. 南北朝争乱 - 敦賀の歴史 http://historia.justhpbs.jp/hokuriku.html
  17. 敦賀城(福井県敦賀市結城町) - 西国の山城 http://saigokunoyamajiro.blogspot.com/2018/01/blog-post_11.html
  18. 朝倉氏の一乗谷の山城を廃しいっきょに平城を築いた。北庄城とその城下町は - 『福井県史』通史編3 近世一 https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T3/T3-5-01-05-01-01.htm
  19. その - 敦賀観光協会 https://tsuruga-kanko.jp/wordpress/wp-content/uploads/2023/03/%E6%95%A6%E8%B3%80%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E6%B5%AA%E6%BC%AB%E3%83%8F_%E3%83%B3%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%88.pdf
  20. 福井に残る織田信長ネタ特集!! 福井人にもあまり知られていないとっておきをお教えします。|福旅blog - 福井市観光公式サイト【福いろ】 https://fuku-iro.jp/blog/detail_119.html
  21. 柴田勝家 | 歴史の王国ブログ https://lordkingdom.net/tag/%E6%9F%B4%E7%94%B0%E5%8B%9D%E5%AE%B6/
  22. 府中城の歴史 - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/1178/memo/4314.html
  23. 敦賀城 - 城郭図鑑 http://jyokakuzukan.la.coocan.jp/020fukui/001tsuruga/tsuruga.html