新庄城の戦い(1587)
天正十五年 北出羽再編戦役 ― 「新庄城の戦い」の歴史的実像と最上義光の北方戦略
序章:天正十五年、出羽の黎明 ― 「新庄城の戦い」の歴史的再定義
天正十五年(1587年)、出羽国において「新庄城の戦い」と称される特定の合戦を記した第一級の史料は、実のところ存在しない。この名称は、時代を遡る永正十七年(1520年)に越中国で勃発した長尾為景と神保慶宗の間の戦闘 1 、あるいは時代が下った慶応四年(1868年)の戊辰戦争における新庄藩の攻防戦 3 を指すのが通例である。しかし、この事実をもって天正十五年の出羽国が平穏であったと結論づけるのは早計に過ぎる。むしろこの年は、出羽の驍将・最上義光が、その後の北出羽の勢力図を根底から覆す、大規模かつ周到な軍事行動を開始した画期的な年であった。
本報告書は、特定の城を巡る攻防戦という狭義の視点から脱却し、天正十五年という時間軸の中で、後の新庄城が位置する最上郡一帯、ひいては北出羽全域で展開された一連の軍事・外交キャンペーンを「北出羽再編戦役」として再定義し、その全貌を時系列に沿って解明することを目的とする。これは、単一の戦闘記録を追うのではなく、「最上氏が北出羽を再編し、周辺国人を帰順させた」という、より大きな歴史的文脈を極めて高い解像度で再構築する試みである。
この戦役の主軸は、最上義光による庄内地方への侵攻であり、それに連動して仙北地方で引き起こされた小野寺氏、戸沢氏を巻き込む連鎖的な紛争である。そして、この一連の動乱の背後には、天下統一を目前にした豊臣秀吉の影が色濃く差していた。天正十五年、秀吉は九州を平定し 5 、その年の12月には関東・奥羽の諸大名に対して私戦を禁じる「惣無事令」を発令した 7 。この中央政権からの強大な圧力が、東北の諸大名に「これが自力による領土拡大の最後の好機である」という焦燥感を抱かせ、彼らを熾烈な「駆け込み」の領土紛争へと駆り立てたのである。
この歴史の転換点において、新庄城(当時は沼田城とも称された)は、決して華々しい戦いの舞台ではなかった。しかし、最上義光の北方戦略を兵站と情報、そして軍事プレゼンスの面から支える静かなる戦略拠点として、この戦役の成功に不可欠な役割を果たしていた。本報告書は、この新庄城の真の役割を浮き彫りにしつつ、天正十五年に北出羽で繰り広げられた知謀と武力の交錯を、リアルタイムで追体験できるよう詳述するものである。
第一章:嵐の前の静寂 ― 天正十五年に至るまでの北出羽情勢
天正十五年の戦役は、突発的に生じたものではない。それは、長年にわたり醸成されてきた北出羽の諸勢力間の緊張関係が、豊臣政権という外部からの圧力によって臨界点に達した結果であった。
最上義光の野望と戦略基盤
山形城主・最上義光は、肉親との骨肉の争いであった天正最上騒乱を克服し、村山・最上両郡の内陸部をほぼ手中に収めていた。彼の次なる目標は、日本海交易の利権を握る要衝・庄内地方と、豊かな穀倉地帯である仙北平野の掌握であった 8 。この壮大な北方戦略を実現するため、義光は最上郡の北端、仙北・庄内への結節点に位置する新庄城(沼田城)を極めて重視した。この城は、最上氏に臣従した日野将監定重が守っており、来るべき北方侵攻における兵站・出撃拠点として、その戦略的価値は計り知れないものであった 9 。
北の宿敵、小野寺義道
仙北(現在の秋田県南部)に広大な所領を有し、横手城に本拠を置く小野寺義道は、最上氏にとって長年の宿敵であった 11 。両者の対立が頂点に達したのが、戦役の前年、天正十四年(1586年)5月に勃発した「有屋峠の戦い」である。勢力回復を図る義道が最上領へ侵攻し、義光がこれを国境の有屋峠で迎撃したこの戦いは、小野寺方の猛将・八柏大和守道為の奮戦により最上軍が苦戦を強いられ、決着がつかぬまま痛み分けに終わった 13 。この戦いは、天正十五年における両者の抜き差しならない緊張関係を決定づける直接的な前史となった。
庄内の支配者、武藤(大宝寺)義興と上杉の影
一方、庄内地方を支配していたのは、尾浦城主・武藤(大宝寺)義興であった。単独では最上氏の圧力に対抗し得ない義興は、越後の上杉景勝との連携を強化するという生存戦略を選択した 15 。その証として、上杉家の重臣・本庄繁長の次男・義勝を養子に迎え入れており、庄内は事実上、上杉氏の影響下に置かれていた。この「上杉・武藤同盟」は、日本海への出口を求める最上義光にとって、打破すべき最大の障壁であった。
角館の「鬼九郎」、戸沢盛安の台頭
仙北の一角、角館城を拠点とする戸沢盛安は、この時期、最も勢いに乗る若き武将であった。「鬼九郎」の異名で恐れられ、安東氏や小野寺氏といった周辺勢力としのぎを削り、急速にその勢力を拡大していた 16 。彼の存在は、北出羽の勢力均衡を常に揺るがす予測不能な攪乱要因であり、最上・小野寺両氏の戦略にも無視できない影響を与えていた。彼の野心と武勇は、大名同士の争いの隙を突き、自家の利益を最大化する好機を常に窺っていたのである。
これらの勢力は、互いに牽制し合い、一触即発の均衡を保っていた。最上氏の庄内侵攻という一手は、この繊細なバランスを崩壊させ、小野寺氏の兵力に一時的な空洞を生じさせる。そして、その隙を戸沢氏が見逃さなかったことで、戦火はドミノ倒しのように北出羽全域へと拡大していくことになる。天正十五年の戦役は、これら諸勢力の思惑が複雑に絡み合った、必然の帰結であった。
表1:天正十五年前後 北出羽主要人物一覧
氏名 |
読み |
居城 |
役職・立場 |
天正15年時点の動向 |
最上 義光 |
もがみ よしあき |
山形城 |
出羽国の大名 |
庄内侵攻を計画・実行 |
小野寺 義道 |
おのでら よしみち |
横手城 |
仙北地方の大名 |
最上氏と敵対、戸沢氏の侵攻を受ける |
武藤 義興 |
むとう よしおき |
尾浦城 |
庄内地方の大名 |
最上軍に攻められ滅亡 |
戸沢 盛安 |
とざわ もりやす |
角館城 |
仙北地方の国人領主 |
小野寺領へ侵攻(阿気野の戦い) |
伊達 政宗 |
だて まさむね |
米沢城 |
奥州の大名 |
最上氏の動向を警戒 |
本庄 繁長 |
ほんじょう しげなが |
- |
上杉景勝の家臣 |
庄内奪還を画策 |
鮭延 秀綱 |
さけのべ ひでつな |
鮭延城 |
最上氏家臣(元小野寺氏) |
対小野寺戦線の最前線を担う |
日野 将監 |
ひの しょうげん |
新庄城(沼田城) |
最上氏家臣 |
新庄城を守備、北方戦略の拠点 |
東禅寺 義長 |
とうぜんじ よしなが |
東禅寺城 |
武藤氏家臣 |
最上氏に内応 |
第二章:戦いの序曲 ― 最上義光による庄内侵攻の謀略と準備
最上義光の戦略の本質は、単なる軍事力の行使にあるのではない。彼は戦端が開かれる以前に、謀略と外交を駆使して勝利の条件を整えることに長けた、当代屈指の謀将であった。天正十五年の庄内侵攻は、その手腕が遺憾なく発揮された作戦であった。
水面下の調略 ― 東禅寺義長の寝返り
義光は、武力侵攻に先立ち、敵の内部から切り崩すべく水面下で動いた。標的は、武藤氏の重臣でありながら、主君・義興との間に確執を抱えていた東禅寺城主・東禅寺義長(前森蔵人)であった 15 。義長は武藤家中で台頭する新興勢力であり、旧来の家臣団との軋轢があったとされる。義光はこの内部対立を見逃さず、巧みに接触し、内応の密約を取り付けた。この調略の成功は、庄内侵攻の帰趨を決定づける最も重要な布石であった。敵の有力武将を味方に引き入れることで、義光は武藤軍の戦力を削ぐと同時に、庄内への進軍路と足掛かりを確保したのである 8 。
多方面への牽制 ― 伊達政宗の封じ込め
庄内へ主力を投入するにあたり、義光が最も警戒したのは、背後に控える宿敵・伊達政宗の動向であった。侵攻中に米沢から側面を突かれれば、作戦は頓挫し、最上領そのものが危機に瀕する。このリスクを排除するため、義光は二重三重の策を講じた。
まず、政宗に対しては、武藤氏との和議を斡旋するような素振りを見せ、庄内への軍事介入の意図がないかのように装い、その警戒心を麻痺させた 8 。政宗はこの偽りの和平交渉を信じ、庄内の紛争は沈静化するものと見誤った。
さらに義光は、伊達領との国境に近い長井郡の国人・鮎貝宗信に謀反を唆し、伊達領内に混乱を引き起こした 8 。これにより、政宗は領内の抑えに兵力を割かざるを得なくなり、最上領へ即座に軍事介入することが物理的に困難な状況に陥った。このようにして、義光は外交的な欺瞞と内部攪乱工作を組み合わせ、最大の脅威であった伊達政宗の動きを完璧に封じ込めたのである。
軍勢の集結と進路
周辺勢力の無力化と内部からの協力者確保という下準備を終えた義光は、満を持して山形城で軍勢を整えた。そして、出羽山地を越えて庄内に至る六十里越街道を進軍路とし、侵攻を開始した 8 。軍記物語によれば、その兵力は数千に及んだとされ、内応を約束した東禅寺義長の軍勢と合流することで、武藤氏の兵力を圧倒する態勢を整えていた。戦いは、始まる前にその大勢がすでに決していたのである。
第三章:実録・天正十五年 庄内侵攻 ― 刻一刻と動く戦況
周到な準備を終えた最上義光の軍勢が、ついに庄内の地を踏んだ。それは、鎌倉時代以来この地を治めてきた名門・武藤氏の落日を告げる進軍であった。
天正15年10月、侵攻開始と緒戦
天正十五年(1587年)10月、最上義光率いる本隊は六十里越を越え、庄内平野へと進出した。ここで、かねてより内応を約していた東禅寺義長(この頃、東禅寺筑前守と改名)が自軍を率いて合流する 18 。敵の重臣が味方についたという報は、武藤方の将兵に計り知れない衝撃と動揺を与えた。
最上・東禅寺連合軍の進撃は迅速であった。内部に協力者を得ているため、地理にも敵の配置にも明るい。武藤方に属していた諸城は、圧倒的な兵力差と、味方であったはずの東禅寺軍が敵に回ったことによる士気の崩壊により、戦わずして降伏するか、わずかな抵抗の後に次々と陥落していった。抵抗を試みた勢力も、ことごとく打ち破られ、武藤義興の居城である尾浦城へと追い詰められていった。
尾浦城包囲戦
庄内平野の要衝に築かれた尾浦城は、武藤氏最後の拠点となった。城主・武藤義興は、残存兵力を結集して籠城し、最後の抵抗を試みる。連合軍は直ちに尾浦城を幾重にも包囲し、兵糧道を断った 18 。
軍記物語である『奥羽永慶軍記』などは、この攻城戦の様子を克明に描いている。最上軍は鉄砲を多用し、城兵を絶え間なく攻撃したとされる。一方、城内では、東禅寺氏の内応によって疑心暗鬼が広がり、兵の士気は著しく低下していた。外部からの援軍は絶望的であり、兵力、士気、兵站の全てにおいて、武藤方は絶望的な状況に置かれていた。
落城と武藤氏の滅亡
数日間にわたる攻防の末、ついに尾浦城は陥落した。武藤義興の末路については諸説ある。一つは、捕縛されて山形城、あるいは谷地城に送られ、幽閉の末に数年後死去したという説 18 。もう一つは、落城の際に城中で自害、あるいは戦闘中に討ち死にしたという説である 18 。いずれにせよ、この尾浦城の陥落をもって、庄内における武藤(大宝寺)氏の支配は終焉を迎えた。鎌倉時代から約400年にわたりこの地を治めた名門は、最上義光の謀略と武力の前に、歴史の舞台から姿を消したのである。
第四章:連鎖する戦火 ― 仙北・最上郡における同時多発的紛争
最上義光の庄内侵攻は、単に庄内一地方の勢力図を塗り替えただけではなかった。それは、北出羽全体のパワーバランスに歪みを生じさせ、新たな戦火を誘発する引き金となった。特に、最上氏と宿敵・小野寺氏が互いに睨み合う国境地帯では、この歪みが顕著に現れた。
好機を突く ― 戸沢盛安の「阿気野の戦い」
前年の「有屋峠の戦い」以来、小野寺義道は主力を最上氏との国境地帯に貼り付け、警戒を続けていた。この状況下で最上軍の主力が庄内へ転進したことは、小野寺氏にとって直接的な脅威の一時的な後退を意味したが、同時に新たな脅威を呼び込むことになった。
この千載一遇の好機を見逃さなかったのが、「鬼九郎」の異名を持つ角館城主・戸沢盛安であった。小野寺氏の主力が最上氏に釘付けにされ、領内が手薄になっていると判断した盛安は、迅速に軍を動かし、小野寺領の深部へと侵攻を開始した 20 。
天正十五年、盛安率いる戸沢軍は、阿気野(現在の秋田県大仙市付近)において、小野寺一門である沼館城主・沼館秀道らの軍勢と激突した。これが「阿気野の戦い」である 11 。この戦いで盛安は自ら陣頭に立って奮戦し、小野寺軍を打ち破ったと伝えられる 20 。この勝利は、盛安の武名を一層高めるとともに、最上氏との対立で疲弊していた小野寺氏の衰退をさらに加速させる決定的な一撃となった 17 。
国境地帯の戦略拠点 ― 新庄城と鮭延城の役割
この一連の広域紛争において、最上郡北部に位置する二つの城は、戦闘の舞台としてではなく、最上氏の戦略を支える上で極めて重要な役割を果たした。
新庄城:静かなる兵站基地
最上氏の家臣・日野将監が守る新庄城(沼田城)は、この戦役において、後方支援と戦略的圧力を担う一大拠点として機能した。庄内へ向かう部隊の集結地、仙北へ睨みを利かせる部隊の駐留地として、兵糧や武具が集積された 9 。大規模な戦闘こそ記録されていないが、その存在自体が、小野寺氏にとっては背後を脅かす無言の圧力となり、国境から兵力を動かすことを躊躇させる効果を持っていた。新庄城は、最上義光の北方戦略を盤石にするための、静かなる要石だったのである 21 。
鮭延城:最前線の情報・調略拠点
新庄城のさらに北、小野寺領との最前線に位置する鮭延城の役割は、より動的かつ決定的なものであった。城主・鮭延秀綱の存在が、この戦役における最上氏の優位性を際立たせた。秀綱は、元々は小野寺氏の一族であり、小野寺義道とは従兄弟の関係にあった 22 。しかし、天正十三年(1585年)の最上氏による鮭延城攻めの末に降伏し、以後は義光に忠誠を誓っていた 11 。
元小野寺家臣である秀綱は、敵の内部事情、地理、そして将の性格に至るまで知り尽くしていた。義光は、この秀綱を対小野寺戦線の鍵と位置づけ、情報収集や調略活動の拠点として鮭延城を活用した 13 。秀綱は、最上軍が仙北へ侵攻する際の案内役を務め、また小野寺方の国人衆への切り崩し工作を担うなど、八面六臂の活躍を見せた。彼の寝返りは、小野寺氏にとって単に一つの城と将を失った以上の、戦略的・心理的な大打撃であった。鮭延秀綱の事例は、戦国後期の東北において、大名間の勝敗が、国境地帯に割拠する在地領主(国人)の動向一つで大きく左右されたことを如実に物語っている。
第五章:戦後の計と新たな火種 ― 天正十五年の終焉と次なる動乱への序章
天正十五年の戦役は、最上義光の圧倒的な勝利に終わった。しかし、その勝利は永続的な平和をもたらすものではなく、むしろ北出羽の情勢をさらに流動化させ、次なる大規模な動乱への序章となった。
庄内の戦後処理
庄内三郡を一時的に制圧した義光は、その統治を固めるため、腹心である中山玄蕃を尾浦城に配置し、庄内諸将に対する目付役とした 8 。これにより、最上氏は長年の悲願であった日本海への出口を確保し、交易による経済的利益と、領国のさらなる発展への道筋を手に入れた。
各勢力の損益計算
この年の動乱は、各勢力に明確な明暗をもたらした。
- 最上氏 : 庄内を併合し、出羽における最大版図の形成へ大きく前進した。しかし、その謀略を多用した強引な手法は、周辺勢力との間に深刻な亀裂を生み、新たな敵意を呼び起こす結果となった。
- 小野寺氏 : 最上氏との直接戦闘による領土喪失は限定的であったものの、対最上戦略の重要な同盟者であった武藤氏を失い、さらに戸沢氏の侵攻によって領内を蹂躙されたことで、戦略的に完全に孤立し、追い詰められた 12 。
- 戸沢氏 : 最上氏と小野寺氏の争いに巧みに乗じ、いわば漁夫の利を得る形で仙北における影響力を拡大した。その武名は出羽一円に轟き、小勢力ながら侮れない存在であることを改めて示した 17 。
- 伊達政宗 : 最上義光の偽りの和平交渉に欺かれ、面目を完全に潰された。この背信行為に政宗は激怒し、最上氏への不信感と敵意を決定的なものとした 8 。この対立の激化が、翌天正十六年(1588年)正月、最上氏の姻戚である大崎氏を巡る「大崎合戦」へと発展し、最上・伊達両家は全面戦争へと突入していく 8 。
勝利の代償 ― 本庄繁長の逆襲へ
天正十五年の義光の勝利は、盤石なものではなかった。滅ぼされた武藤義興の養子・義勝の実父であり、上杉景勝配下の猛将である本庄繁長は、この事態を座視するはずがなかった。彼は武藤氏の仇を討ち、庄内を上杉氏の手に取り戻すべく、反撃の機会を虎視眈々と窺っていた。
そして翌天正十六年八月、繁長は雪辱戦を開始する。これが世に言う「十五里ヶ原の戦い」である。この戦いで最上軍は本庄軍に大敗を喫し、義光はわずか一年足らずで手に入れたばかりの庄内地方を全て失うことになった 19 。天正十五年の輝かしい勝利は、結果として、より強大な上杉氏という敵を直接呼び込むことになり、北出羽の戦乱はさらに激しさを増していくのである。
結論:北出羽再編の里程標 ― 天正十五年が戦国史に刻んだ意味
天正十五年(1587年)に北出羽で繰り広げられた一連の動乱は、「新庄城の戦い」という単一の合戦としてではなく、最上義光の卓越した謀略と果断な軍事行動によって引き起こされた、地域の勢力図を根底から塗り替える「北出羽再編戦役」と捉えるのがその歴史的実像である。
この戦役は、豊臣秀吉による天下統一事業という中央からの強大な外部圧力が、東北地方の政治力学に直接作用した結果、加速されたものであった。「惣無事令」の発令を目前にし、自力での領土拡大が不可能になるという焦りが、諸大名を最後の熾烈な生存競争へと駆り立てたのである。
この年、最上義光は調略によって敵の内部を切り崩し、外交によって周辺の脅威を無力化するという、戦国武将としての総合力の高さを見せつけ、念願の庄内地方を一時的に掌握した。これにより、彼は北出羽の覇権争いにおいて大きく前進した。しかし、その勝利はあまりにも多くの遺恨を残した。伊達政宗との対立を決定的なものとし、そして最終的には上杉景勝という、より強大な敵の本格的な介入を招くことになった。天正十五年の勝利は、永続的な平和をもたらすものではなく、むしろ翌年以降のさらなる激しい戦乱への導火線となったのである。
そして、この歴史の大きな転換点において、新庄城(沼田城)は、戦火にまみれることなく、最上義光の野望を支える静かなる戦略拠点として、その極めて重要な役割を果たした。それは、兵站を支え、敵に睨みを利かせ、情報を集積する、北方戦略の心臓部であった。天正十五年の戦役は、最上義光という武将の光と影、そして戦国末期の東北地方が内包していた複雑さとダイナミズムを、鮮やかに映し出している。
表2:天正十四年~十六年 北出羽主要動乱 年表
年月 |
地域 |
合戦・出来事 |
主要関連勢力 |
結果・影響 |
天正14年(1586) 5月 |
最上・仙北国境 |
有屋峠の戦い |
最上 vs 小野寺 |
痛み分け。両者の対立が継続。 |
天正15年(1587) |
仙北 |
阿気野の戦い |
戸沢 vs 小野寺 |
戸沢氏が勝利。小野寺氏の弱体化。 |
天正15年(1587) 10月 |
庄内 |
最上氏の庄内侵攻 |
最上 vs 武藤 |
最上氏が勝利。武藤氏滅亡。 |
天正15年(1587) 12月 |
全国 |
豊臣秀吉、惣無事令を発令 |
豊臣政権 |
諸大名の私戦を禁止。奥州仕置への布石。 |
天正16年(1588) 正月 |
大崎 |
大崎合戦 |
伊達 vs 大崎(最上援軍) |
伊達軍が敗北。最上・伊達の対立激化。 |
天正16年(1588) 8月 |
庄内 |
十五里ヶ原の戦い |
上杉(本庄) vs 最上 |
上杉軍が勝利。最上氏は庄内を失う。 |
引用文献
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- 新庄城 (越中国) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%BA%84%E5%9F%8E_(%E8%B6%8A%E4%B8%AD%E5%9B%BD)
- 庄内藩戊辰戦争 新庄の戦い http://www.jmcy.co.jp/goto/photo2019/191111_SINJO/DUMY0004.htm
- 新庄城|日本全国の城をめぐる - つちやうみまる http://yamauchi-man.com/kyujunana-shinjyoujou.html
- 九州の役、豊臣秀吉に降伏 - 尚古集成館 https://www.shuseikan.jp/timeline/kyushu-no-eki/
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- 鮭延秀綱 - 仙北小野寺氏の城館 https://senboku-onodera.sakura.ne.jp/photo4003253.html
- 鮭延氏 (佐々木氏) 略歴 - 文明8年(1476) 佐々木綱村、近江国より下り仙北小野寺氏の関口の番城を預かる - 真室川町 https://www.town.mamurogawa.yamagata.jp/material/files/group/6/300dpi.pdf
- 最上家臣余録 【鮭延秀綱 (3)】: - samidare http://samidare.jp/yoshiaki/lavo?p=log&lid=175023