明応の政変の戦闘(1493)
明応の政変(1493年):戦闘詳報—戦国時代の幕を開けた軍事クーデターのリアルタイム分析
序章:戦国時代の扉を開いた一日
明応二年(1493年)に勃発した「明応の政変」は、単なる室町幕府における将軍の交代劇ではない。これは、守護大名という家臣が武力をもって将軍を廃立するという、日本の歴史上、前代未聞の事態であった 1 。この政変は、応仁・文明の乱(1467-1477年)によって始まった動乱の時代に一つの決定的な転換点をもたらし、下剋上が常態化する本格的な戦国時代の到来を告げる画期的な事件として、今日では評価されている 3 。
多くの歴史解説が、この事件を政治的クーデターとして概観するに留まる。しかし、その本質を理解するためには、京都における権力掌握の動きと、河内国(現在の大阪府東部)で繰り広げられた実際の戦闘とを、一つの連続した軍事行動として捉え直す必要がある。本報告書は、この「明応の政変」における一連の戦闘を、「リアルタイムな状態が時系列でわかる形」で再構築し、この歴史的転換点の軍事的ダイナミズムを徹底的に解明することを目的とする。
第一章:政変前夜―燻る火種と崩壊の序曲
第一節:応仁の乱の遺産と将軍権威の凋落
明応の政変の背景には、約11年間にわたって続いた応仁・文明の乱の深い爪痕が存在した。この大乱は京都を焦土に変え、室町幕府の権威を根底から揺るがした 1 。乱後、幕府は全国の守護大名を統制する力を失い、その命令は有名無実化していった。
この失墜した権威の回復に生涯を捧げたのが、9代将軍・足利義尚であった。義尚は幕府権力を再興すべく、公家や寺社の所領を侵犯する近江守護・六角高頼を討伐するため、自ら大軍を率いて近江へ親征した(長享・延徳の乱) 1 。しかし、高頼のゲリラ戦術に苦戦し、戦いは長期化。義尚は志半ばで、長享三年(1489年)に陣中で病没してしまう 1 。享年25歳であった。この義尚の早すぎる死は、将軍親政による権威回復の試みが如何に困難であるかを示すと同時に、新たな後継者問題を幕府に突きつけた。
第二節:将軍・足利義材の焦燥
義尚の死後、従兄弟にあたる足利義材(後の義稙)が10代将軍の座に就いた。義材の父・足利義視は、応仁の乱で西軍の盟主として擁立された人物であり、この出自が義材の政治的立場を終始不安定なものにした 9 。当初、義材は叔母にあたる日野富子の強力な後援を得て将軍に就任したものの、その政治基盤は極めて脆弱であった 1 。
さらに、義材と富子の関係は、義材の父・義視が富子と対立し、彼女が後継候補の一人であった清晃(後の義澄)のために用意した小川御所を破却した事件などをきっかけに、急速に悪化していった 9 。そして延徳三年(1491年)、義材にとって最大の政治的後見人であった父・義視が病死すると、彼は幕府内で完全に孤立する 3 。この政治的孤立と、失われた将軍権威への焦りが、義材を前将軍・義尚と同様、性急な軍事行動による権威確立へと駆り立てていくことになる。
第三節:管領・細川政元の野心と対立の構造
当時、管領として幕政に絶大な影響力を持っていたのが、細川京兆家当主の細川政元であった。政元の父・勝元は応仁の乱における東軍の総大将であり、政元自身も、西軍の盟主であった義視の子である義材が将軍となることに、当初から強い警戒心と反感を抱いていた 8 。この対立は、単なる個人的な感情の問題ではなく、応仁の乱の勝者(東軍)が、敗者(西軍)の血を引く将軍の台頭を構造的に許容できなかった、という世代を超えた政治的清算の側面を持っていた。
両者の不和は、義材が政元と対立関係にあった管領家の一つ、畠山政長を重用したことで決定的となった 10 。将軍が管領を飛び越え、特定の守護大名と結びつくことは、幕府の統治構造を根幹から揺るがす行為であり、政元にとって自らの権益を脅かす看過できない事態であった。政元は、政長の宿敵である畠山基家(後述)と連携を深めることで、義材と政長の排除を画策し始める 10 。
第四節:泥沼化する畠山氏の内訌
明応の政変の直接的な舞台となったのは、応仁の乱の一因ともなった畠山氏の数十年にわたる家督争いであった。畠山政長(尾州家)と畠山義就(総州家)の争いは、義就の死後もその子・基家(義豊とも)に引き継がれ、河内、紀伊、山城などを舞台に泥沼の抗争を続けていた 4 。
この内訌は、もはや一族内の争いに留まらなかった。将軍・足利義材が政長を支持し、管領・細川政元が基家を支援するという構図が生まれ、畠山氏の家督争いは、幕府の最高権力者たちの代理戦争の様相を呈していた 10 。義材にとって、政長に加担して基家を討伐することは、将軍の権威を示す絶好の機会であり、政元にとっては、政敵である義材と政長を一掃するための好機であった。河内国の戦雲は、京の政局と密接に連動し、政変への引き金を引くこととなる。
第二章:将軍親征―河内出兵と京の真空状態
第一節:将軍、動く(明応二年二月)
明応二年(1493年)二月十五日、将軍・足利義材は、ついに親征を決断する。畠山政長の要請に応える形で、宿敵・畠山基家を討伐すべく、諸大名を率いて京都を発ち、河内国へと出陣した 14 。この軍事行動は、単に畠山政長という一個人を助けるためのものではなかった。それは、将軍直属の軍事力である奉公衆の権益を守り、将軍自らが軍を率いて幕府に反抗する勢力を討伐するという、前将軍・義尚が目指した将軍親政による権威回復路線の継承であった 16 。
第二節:高屋城包囲戦の推移
義材と政長が率いる将軍方は、畠山基家が籠城する河内国の拠点・高屋城(現在の大阪府羽曳野市)を包囲した。戦いは当初、将軍方の優勢に進んだ。周辺の支城を次々と陥落させ、高屋城を孤立させることに成功する 3 。この時点において、河内の陣中にいる将兵の誰もが、将軍の勝利は時間の問題であると信じて疑わなかったであろう。しかし、この軍事的な成功が、皮肉にも彼らの政治的生命線を断ち切る結果を招くことになる。
第三節:水面下の策謀―京都の共謀者たち
将軍・足利義材と、彼を支持する有力大名たちが京都を離れ、遠く河内国に長期滞在している—この状況は、管領・細川政元にとって、まさに千載一遇の好機であった。政元は、将軍不在によって生じた「権力の真空」を突き、クーデター計画を水面下で着々と進めていた 1 。
政元の計画は周到であった。彼は、将軍家の家長的存在として依然として影響力を持っていた日野富子、そして幕府の財政と実務を掌握する政所執事・伊勢貞宗を味方に引き入れることに成功する 9 。当時の記録である『大乗院寺社雑事記』には、政元がクーデター決行前に「伊勢貞宗以下、大名らとはすでに話がついている」と豪語していたことが記されており、彼の計画が広範な支持を得た上でのものであったことを示している 9 。義材の親征という権威回復の試みは、結果として政敵に京都を無防備に明け渡し、自らを葬り去るための時間と空間を与えるという、致命的な矛盾を孕んでいたのである。
第三章:合戦詳報―明応二年、運命の春
政変は、「京都での政治的クーデター」と「河内での軍事的掃討」という二つの舞台で、ほぼ同時に、そして緊密に連携しながら進行した。その詳細を時系列で追う。
日付 (明応二年) |
京都での出来事(細川政元方) |
河内・堺での出来事(足利義材・畠山政長方) |
四月二十二日 (夜) |
細川政元、挙兵。足利義澄(清晃)の身柄を確保。 |
将軍・義材と畠山政長、高屋城包囲を継続中。 |
四月二十三日 |
義材派の邸宅・寺院を襲撃・制圧。朝廷に義材廃立を報告。 |
依然として京都の異変を察知せず。 |
四月二十六日・二十七日 |
伊勢貞宗の「謀書」が河内陣中に到着。 |
諸将が次々と義材を見捨て京都へ帰還。将軍方は瓦解。 |
四月二十八日 |
足利義遐(義澄)を新将軍として擁立。 |
義材と政長、完全に孤立。正覚寺への籠城を決意。 |
閏四月七日 |
上原元秀らを将軍方討伐軍として河内へ派遣。 |
正覚寺を要塞化し、紀伊からの援軍を待つ。 |
閏四月二十一日 |
赤松政則軍が堺浦で紀伊からの援軍を迎撃。 |
紀伊援軍、数時間の激戦の末に壊滅。最後の希望が絶たれる。 |
閏四月二十四日 |
細川方の討伐軍が正覚寺城への総攻撃を開始。 |
兵糧が尽き、絶望的な防衛戦を強いられる。 |
閏四月二十五日 (朝) |
正覚寺城、陥落。 |
畠山政長、自刃。足利義材、投降し捕縛される。 |
第一節:京都の掌握(四月二十二日~二十八日)
四月二十二日夜 、ついに細川政元は行動を開始した。彼の軍勢は静かに動き出し、まず天龍寺香厳院にいた将軍候補・清晃(後の足利義澄)の身柄を確保し、遊初軒にて保護下に置いた 9 。これは、クーデターを正当化するための「新たな君主」を確保するという、最も重要な第一段階であった。
明けて 四月二十三日 、政元軍は京都市中を完全に制圧する。義材派の有力者の邸宅や、義材の弟妹が入っていた三宝院などが次々と襲撃、破壊された 9 。この首都制圧は、日野富子が直接指揮を執ったとも記録されており、彼女が単なる同調者ではなく、クーデターの主要な実行者の一人であったことを物語っている 9 。同日、政元は朝廷に対し、義材の河内出兵を諌めたが聞き入れられなかったことを理由に、彼を廃し清晃を新将軍に擁立する旨を正式に報告した 9 。
クーデターの成否を決定づけたのは、 四月二十六日から二十七日 にかけての動きであった。政所執事・伊勢貞宗の名前で、河内の陣中にいる諸大名や奉公衆に対し、新将軍(義澄)への忠誠を促す書状、いわゆる「謀書」が送られた 9 。京都が完全に政元に掌握されたという事実を突きつけられた諸将は、先の見えない戦いよりも、新たな権力者への恭順を選んだ。義材の軍勢は内部から崩壊し、将兵のほとんどが彼を見捨てて京都へと帰還してしまった 9 。
そして 四月二十八日 、政元は清晃を還俗させて「義遐(よしとお)」と名乗らせ、第十一代将軍として正式に擁立した 9 。京都におけるクーデターは、一滴の血も流すことなく、わずか一週間足らずで完璧に成し遂げられたのである。
第二節:河内・正覚寺城の攻防(閏四月)
京都での政変が進行する中、河内の足利義材と畠山政長は、味方の大量離反によって完全な孤立状態に陥っていた。彼らはもはや高屋城の包囲を続ける術もなく、平野の正覚寺(現在の大阪市平野区)に退き、そこを最後の拠点として籠城を決意した 3 。
陣営 |
総大将 |
主要武将 |
推定兵力 |
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包囲軍(細川方) |
上原元秀、安富元家 |
畠山基家、赤松政則 |
約40,000 |
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籠城軍(将軍方) |
足利義材、畠山政長 |
遊佐長直 |
約8,000 |
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(出典: 9 ) |
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正覚寺は急遽、城塞として改築された。100を超える櫓が建てられ、最も高い櫓には将軍・義材の御座所が設けられるなど、徹底抗戦の構えが示された 9 。しかし、その兵力差は絶望的であった。彼らに残された唯一の希望は、政長の領国である紀伊から送られてくるはずの援軍だけであった。
運命を決したのは、 閏四月二十一日 に堺浦で繰り広げられた戦いであった。政長の期待通り、根来衆などを主力とする数千から一万ともいわれる紀伊の援軍が、堺の港を目指して海路を進んできた 9 。しかし、細川政元はこの動きを完全に読んでいた。彼は事前に赤松政則に命じ、堺でこの援軍を迎え撃つ態勢を整えさせていたのである 3 。海上の軍船と陸上の赤松軍が激突し、数時間にわたる激戦が繰り広げられたが、結果は紀伊援軍の壊滅的な敗北に終わった 9 。
この知らせは、正覚寺に籠城する将兵に追い打ちをかけた。最後の希望が絶たれ、兵糧も尽き果てた 閏四月二十四日 、細川方の四万の軍勢による総攻撃が開始された 9 。翌
二十五日の朝 、ついに正覚寺は陥落する。畠山政長は、嫡子である尚順を城から脱出させた後、腹心らと共に自刃して果てた 3 。将軍・足利義材は、足利家に伝わる鎧兜「御小袖」と宝剣「御剣」を携えて投降。その身柄は捕縛され、京都の龍安寺へと送られ、幽閉されることとなった 3 。
この一連の戦闘は、単なる武力の衝突ではなかった。政元方は、紀伊援軍の動きを事前に察知し、最適の地点で迎撃するという情報戦に勝利した。そして、その援軍を叩き潰すことで、正覚寺の兵站を完全に断ち、戦略的に勝利を確定させた。京都での政治工作が河内での軍事的孤立を生み、その軍事的勝利が新たな政治体制を盤石にするという、政治と軍事の完璧な連携が、このクーデターを成功に導いたのである。
第四章:政変の帰結―二人の将軍と戦国乱世の本格化
第一節:新体制の確立と細川京兆家の専制
明応の政変により、足利義澄が第十一代将軍に就任したが、幕府の実権は彼を擁立した細川政元が完全に掌握した。これにより、「京兆専制」と呼ばれる、細川京兆家が幕政を主導する時代が到来する 16 。政元の権勢は絶大で、後世「半将軍」とまで称されるほどであった 11 。ただし、彼の権力も絶対的なものではなく、幕府の官僚機構を掌握する政所執事の伊勢氏との間では、常に政治的な駆け引きが続けられていたことも近年の研究で指摘されている 9 。
第二節:「越中公方」の誕生と将軍権力の分裂
政変は、これで終わりではなかった。明応二年六月、京都で幽閉されていた前将軍・足利義材が、側近の手引きで脱出に成功する 25 。彼は、自刃した畠山政長の旧領国である越中へと落ち延び、その家臣であった守護代・神保長誠に迎え入れられた 26 。
義材は越中の放生津(現在の富山県射水市)を拠点に、亡命政権を樹立した。彼は自らを正統な将軍であると主張し、御内書を発給するなど、将軍としての権威を行使し続けた 9 。この「越中公方」の誕生により、京都の義澄政権と越中の義材政権という、二つの幕府が同時に並立するという、日本の歴史上、前代未聞の事態が出現したのである 3 。
第三節:全国への波及
将軍家の分裂は、畿内だけの問題に留まらなかった。それは、全国の守護大名間の抗争に、新たな正当化の論理と介入の口実を与えた。各地の大名は、自らの勢力拡大や敵対勢力との戦いにおいて、京都の将軍(義澄)か、あるいは越中の将軍(義材)のいずれかを奉じることで、自らの軍事行動を「公戦」として正当化するようになったのである 3 。
この政変が全国に与えた影響の象徴的な例が、伊豆国で起こった伊勢宗瑞(後の北条早雲)による堀越公方・足利茶々丸の討伐である。この事件は、新将軍・義澄の母を殺害した茶々丸を、義澄の意向を受けた宗瑞が討ったものであり、明応の政変と完全に連動した動きであったとする見方が有力となっている 9 。政変は、畿内のみならず、関東の政治情勢をも大きく動かす引き金となったのである。
結論:明応の政変が持つ歴史的意義
明応の政変は、家臣である管領が武力を用いて主君である将軍を追放するという、まさに「下剋上」という言葉を体現した事件であった 1 。このクーデターの成功により、室町幕府はもはや全国を統治する中央政権としての実体を完全に喪失し、その権威は名目だけのものへと転落した 5 。
歴史の大きな流れの中で、応仁・文明の乱が約一世紀にわたる戦国時代の「序章」であったとすれば、将軍権力の分裂という、もはや修復不可能な事態を生み出した明応の政変こそが、その「本編」の幕を開けた決定的な転換点であったと言える。この日を境に、日本は力のみが支配する、真の群雄割拠の時代へと本格的に突入していくのである 3 。
引用文献
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- 中学受験・社会 戦国時代の始まりはいつ? https://chugaku-juken.com/social-history-sengoku-period/
- 2. 応仁・文明の乱と京都の遺跡 https://www.kyoto-arc.or.jp/news/s-kouza/kouza251.pdf
- 明応の政変(1/2)戦国時代の幕開けとなったクーデター - 日本の旅侍 https://www.tabi-samurai-japan.com/story/event/643/
- 「下剋上」「戦国時代」もここから始まった!?乱世の発端になった「明応の政変」とは何か【前編】 https://mag.japaaan.com/archives/191923
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- 「明応の政変(1493年)」細川政元が将軍・足利義稙を廃して義澄を擁立。戦国時代の始まり? https://sengoku-his.com/30
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- 畠山氏の内紛と山本氏 - 上富田町文化財教室シリーズ http://www.town.kamitonda.lg.jp/section/kami50y/kami50y14004.html
- 明応の政変~クーデター勃発で将軍家が分裂! - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/9899/
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- 足利氏 http://www.lit.kobe-u.ac.jp/~area-c/tomatu/asikaga.html
- 明応の政変(2/2)戦国時代の幕開けとなったクーデター - 日本の旅侍 https://www.tabi-samurai-japan.com/story/event/643/2/
- 戦国の幕開け!「正覚寺合戦」の地をめぐる大阪市平野区の旅 | ORICON NEWS https://www.oricon.co.jp/article/2397555/
- 足利義材と畠山政長を幕府から追放するクーデター(明応の政変)を決行した。このため - 上富田町文化財教室シリーズ http://www.town.kamitonda.lg.jp/section/kami50y/kami50y14005.html
- 【歴代征夷大将軍総覧】室町幕府11代・足利義澄――管領の傀儡将軍は京を追われ…… 1479年~1511年 - 攻城団ブログ https://kojodan.jp/blog/entry/2021/05/29/100000
- 19 越中に幕府誕生か・放生津城|sugaT - note https://note.com/sugat/n/n1328f6daab03
- 足利将軍がやってきた(3) | コラム - 射水市新湊博物館 https://shinminato-museum.jp/docs/column/14498/
- 室町幕府10代将軍/足利義材|ホームメイト - 名古屋刀剣ワールド https://www.meihaku.jp/muromachi-shogun-15th/shogun-ashikagayoshiki/
- 越中公方 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%B9
- 【中世62】明応の政変 ここからが戦国時代!【日本史受験】 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=ynoKKOR3VBk