最終更新日 2025-09-01

明智城の戦い(1549)

弘治2年、斎藤義龍は父・道三を討ち、旧道三派の明智城を攻略。明智光安は奮戦の末討死し、光秀は城を脱出。後の本能寺の変へと繋がる流浪の旅が始まった。

明智城の戦いの真相 ― 弘治二年(1556年)の悲劇、その背景とリアルタイムな攻防の全貌

序章:1549年説の検証と、弘治二年(1556年)への視座

日本の戦国史において、数多の合戦が語り継がれているが、その中には年号や背景が誤って伝承されているものも少なくない。「明智城の戦い」もその一つであり、しばしば「1549年(天文18年)に斎藤道三が明智城を攻略した」という形で言及される。しかし、この説は当時の政治情勢と照らし合わせると、いくつかの重大な矛盾点を内包している。本報告書は、まずこの通説を検証し、史実としてより確度の高い弘治二年(1556年)の合戦へと視座を定めることから始める。

ユーザー提示情報の検討

天文18年(1549年)という時期、美濃国の国主であった斎藤道三は、長年にわたる宿敵、尾張国の織田信秀との熾烈な抗争の最中にあった。しかし、この年、道三は一つの大きな政治的決断を下す。娘の帰蝶(濃姫)を信秀の嫡男である織田信長に嫁がせることで、両家は和睦を成立させたのである。この政略結婚は、美濃にとって国外の最大の脅威であった織田家との関係を安定させ、国境の安全を確保するための極めて重要な一手であった。

この状況下で、道三が国内の有力な国人であり、かつ姻戚関係にもあった明智氏を攻撃することは、戦略的に見て不合理極まりない。明智氏は、美濃源氏・土岐氏の庶流という名門の家柄であり、道三は自らの権力基盤を固めるために明智氏との連携を重視していた。『美濃国諸旧記』によれば、道三は明智氏を「一方の楯ともなす」ほどに信頼していたとされ、この時期に両者が敵対したことを示す決定的な史料は見当たらない。したがって、1549年に道三が明智城を攻めたという説は、歴史的蓋然性が極めて低いと言わざるを得ない。

歴史的真相の提示 ― 弘治二年(1556年)

一方で、複数の史料、特に江戸時代初期に編纂された『美濃国諸旧記』や、それに基づく後世の記録は、明智城が落城した歴史的な日付を弘治二年(1556年)九月の出来事として明確に記している。そして、この戦いを主導したのは斎藤道三ではない。攻城軍を率いたのは、道三の実子でありながら父を討ち果たした斎藤義龍であった。

この事実は、合戦の構図を根本から覆す。1549年の道三による攻略であれば、それは「領土拡大のための征服戦」と位置づけられる。しかし、1556年の義龍による攻略は、同年四月に勃発した「長良川の戦い」で父・道三を討ち取った義龍が、旧道三派の残党を粛清する過程で引き起こした「内戦後の政敵排除を目的とした粛清戦」なのである。この視点の転換は、明智一族が単なる敗者ではなく、主家の内乱に巻き込まれ、旧主への忠義を貫いた結果として滅び去った悲劇の当事者であったことを浮き彫りにする。

本報告書の主題設定

以上の検証に基づき、本報告書は歴史的事件として確固たる証左を持つ、 弘治二年(1556年)九月 に発生した 斎藤義龍軍による明智城攻略戦 を主題として詳述する。この年号の訂正は、単なる誤りの指摘に留まらない。それは、合戦の首謀者、動機、そして明智光秀という一人の武将の運命を決定づけた歴史的文脈を、根本から捉え直すための不可欠な第一歩である。

第一部:対立の源流 ― 美濃国を揺るがす斎藤父子の確執

明智城の悲劇を理解するためには、その直接的な原因となった斎藤道三・義龍父子の骨肉の争いを深く掘り下げる必要がある。この対立は、単なる親子の不和ではなく、下剋上によって成り上がった父の権力基盤の脆弱さと、自らの正統性に苦悩する息子の野心が交錯した、戦国時代を象徴する事件であった。

第一章:美濃の蝮、斎藤道三の権力基盤

斎藤道三、あるいは斎藤利政は、一代で一介の油商人から身を起こし、美濃一国をその手に収めた下剋上の体現者であった。彼はまず、美濃守護・土岐氏の家臣である長井氏に仕え、その才覚を発揮して頭角を現す。その後、主家である土岐氏内部の家督争いに巧みに介入し、土岐頼芸を支援することで自らの勢力を拡大。最終的には頼芸をも追放し、天文11年(1542年)頃には事実上の美濃国主となった。

しかし、簒奪によって得た権力は常に不安定である。道三は、美濃国内の国人衆を完全に掌握するために、謀略だけでなく婚姻政策も積極的に用いた。その最も重要な対象の一つが、美濃源氏・土岐氏の庶流であり、東美濃に勢力を持つ名門・明智氏であった。道三は、明智光継の娘であり、後の明智光秀の叔母にあたる小見の方を正室として迎えたとされる。この婚姻により、明智氏は斎藤家の外戚となり、道三政権下で重きをなす存在となった。道三にとって明智氏は、自らの出自の低さを補い、伝統的権威と結びつくための重要なパートナーだったのである。

第二章:亀裂の深化 ― 道三と義龍、断絶への道

道三の権力が頂点に達した頃、その足元では深刻な亀裂が生じ始めていた。長男・義龍との確執である。この対立の根源には、義龍の出生にまつわる根深い疑惑があった。

義龍の出自を巡る風説

義龍の母・深芳野は、もともと道三が追放した旧主・土岐頼芸の愛妾であったと伝えられている。道三が深芳野を下げ渡された後に義龍が生まれたため、その出生時期から「義龍の実父は土岐頼芸ではないか」という噂が絶えなかった。この説は後世の創作である可能性も指摘されているが、道三が義龍を疎んじ、愛情を注がなかったとされる逸話の根拠となっており、父子の不和を象徴する物語として広く流布している。義龍自身が、道三への対抗上、土岐氏の血を引く者として自らの支配の正統性を主張するために、この風説を逆用した可能性も考えられる。

家督継承後の確執

天文23年(1554年)、道三は家督を義龍に譲り、鷺山城へ隠居する。しかし、これは形式的なものであり、道三は依然として実権を握り続けた。そればかりか、道三は公然と義龍を「耄者(おいぼれ)」と蔑み、正室・小見の方との間に生まれた次男の孫四郎や三男の喜平次を溺愛したという。自らの地位が脅かされ、廃嫡されるかもしれないという危機感は、義龍を凶行へと駆り立てた。

弘治元年(1555年)の凶行

弘治元年11月、義龍はついに実力行使に出る。叔父(一説には庶兄)とされる重臣・長井道利らと共謀し、病と偽って弟の孫四郎と喜平次を稲葉山城の自邸に呼び寄せた。そして、油断した二人を腹心の日根野弘就に斬殺させたのである。これは、父・道三に対する明確な宣戦布告であった。報せを受けた道三は驚愕し、急ぎ手勢を集めて稲葉山城を脱出、北方の山中にある大桑城へと退避した。父子の対立は、もはや美濃国全体を巻き込む内戦へと発展することが避けられない状況となった。

第三章:長良川の激突 ― 道三の最期

弘治2年(1556年)4月20日、美濃国の覇権を賭け、父子の軍勢は長良川を挟んで対峙した。道三は鶴山に陣を敷き、その兵力は約2,700名。対する義龍は稲葉山城から出陣し、その兵力は17,500名と、圧倒的な優位を誇っていた。

兵力で著しく劣る道三であったが、その戦巧者ぶりは健在であった。合戦の序盤、道三は巧みな指揮で義龍軍の先鋒・竹腰道鎮の部隊を撃破し、道鎮を討ち取るという戦果を挙げる。しかし、6倍以上もの兵力差は、戦術で覆せる限界を超えていた。義龍本隊が長良川を渡り、総攻撃を開始すると、道三軍は次第に追い詰められていく。

奮戦の末、道三は長井道利の子・道勝や小牧源太らによって討ち取られた。享年63。舅である道三を救援すべく尾張から出陣していた織田信長も、道三討死の報に接し、撤退を余儀なくされた。

この「長良川の戦い」の勝利により、斎藤義龍は父殺しという汚名を背負いながらも、美濃国主としての地位を実力で確立した。そして、彼の次なる目標は、国内に存在する旧道三派勢力の一掃であった。その最大の標的こそ、道三の外戚として重きをなし、東美濃に強固な地盤を持つ明智一族だったのである。義龍にとって、明智城の攻略は、単なる領土の併合ではなく、自らが築く新体制の礎を固めるための、避けては通れない政治的粛清であった。

第二部:籠城 ― 桔梗一揆、最後の抵抗

長良川で父を討ち、美濃の新たな支配者となった斎藤義龍の刃は、間髪を入れず旧道三派に向けられた。その最大の標的となったのが、東美濃の名族・明智氏である。弘治二年九月、桔梗の家紋を掲げる明智一族は、圧倒的な兵力差という絶望的な状況下で、一族の誇りと存亡を賭けた最後の籠城戦に臨むこととなる。

第一章:戦場となる城 ― 明智城の構造と防御能力

この決戦の舞台となった明智城は、現在の岐阜県可児市瀬田に位置する。明智庄の平野部を見下ろす標高約175メートルの丘陵に築かれた、典型的な中世の山城である。長山城とも呼ばれ、康永元年(1342年)に土岐氏の一族である土岐頼兼が築城して明智氏を名乗って以来、約200年にわたって明智氏代々の居城として機能してきた。

その縄張り(城の設計)は、自然の地形を最大限に活用した巧みなものであった。山の主峰に本丸を置き、そこから伸びる複数の尾根や谷筋に沿って、二の丸や出丸といった曲輪(くるわ)が階段状に配置されていた。これらの曲輪は、それぞれが独立した防御拠点として機能し、城全体で多層的な防御網を形成していた。

特筆すべきは、土造りの城郭ならではの防御施設である。

  • 堀切(ほりきり): 尾根伝いに侵攻してくる敵を阻止するため、尾根をV字型に断ち切るように掘られた空堀。これにより、敵兵は一度堀底に下りてから再び斜面を登ることを強いられ、進軍速度を大幅に削がれる。
  • 竪堀(たてぼり): 城の斜面を登ってくる敵兵の横移動を妨げるため、等高線に対して直角に掘られた堀。特に、これを複数並べて畑の畝のようにした**畝状竪堀群(うねじょうたてぼりぐん)**は、敵兵を特定のルートに誘導し、城内からの迎撃を容易にする効果があった。
  • 切岸(きりぎし): 曲輪の斜面を人工的に削り落として造られた急峻な崖。これは天然の城壁として機能し、敵兵の侵入を物理的に困難にした。

これらの防御施設は、石垣を用いる近世城郭とは異なり、土木工事によって地形そのものを要塞へと変貌させる技術の結晶である。大軍による力攻めに対して、少数の兵力で効率的に抵抗するために最適化された構造であり、明智光安率いる籠城軍が最後まで抵抗を続けることができた要因の一つであった。

第二章:攻防のリアルタイム再現 ― 弘治二年九月十九日~二十一日

【開戦前夜:九月十九日】

長良川の戦勝から約五ヶ月、義龍は美濃国内の道三派勢力の掃討を着々と進めていた。そして九月、ついに東美濃における道三派の最大拠点、明智城の完全攻略を決意する。義龍は腹心である長井道利らを将とし、約3,700の軍勢を稲葉山城から明智庄へと進発させた。

一方、明智城では、この攻撃を予期していた城主代行の明智光安が籠城の準備を固めていた。光安は、父・明智光継の三男であり、若くして父を亡くした嫡流の甥・光秀の後見人として明智家を率いていた人物である。彼は弟の明智光久をはじめ、一族郎党、そして妻木氏など与力の諸将を城内に集結させた。籠城側の兵力については諸説あるが、『美濃国諸旧記』などによれば870余名、他の記録では380名程 とされ、いずれにせよ攻城軍に対して兵力で4倍以上の差をつけられた、絶望的な状況であった。この時、後に歴史を大きく動かすことになる若き明智光秀(当時29歳前後)も、叔父たちと共に城内にいたと伝えられている。


表1:明智城の戦いにおける両軍の兵力と主要人物

勢力

攻城軍(斎藤義龍方)

籠城軍(明智方)

総大将

斎藤義龍(名目上)

明智光安(兵庫頭、宗寂)

現場指揮官

長井道利、日根野弘就

明智光久、明智光秀、明智秀満

総兵力

約3,700名

約380~870名


【攻防第一日:九月二十日】

早朝~午前: 義龍軍の先鋒が明智庄に到着。城を取り囲むように布陣を完了し、城への主要な進入路である大手口と搦手口に部隊を配置する。やがて、山々に鬨の声がこだまし、法螺貝の音が鳴り響く。明智城攻防戦の火蓋が切って落とされた。

午前~午後: 義龍軍は、圧倒的な兵力差を頼みに力攻めを開始する。鉄砲隊が援護射撃を行う中、足軽たちが竹を束ねた移動式の盾「竹束」などを前面に押し立て、城の急峻な斜面や切岸に取り付こうと試みる。しかし、明智方の城兵は高所からの地の利を最大限に活かし、弓矢や投石、さらには大木を転がし落とすなどしてこれを迎撃する。特に、城の各所に設けられた堀切や畝状竪堀群が攻め手の行く手を阻み、密集して進軍することができない敵兵は、城内からの格好の的となった。攻め手は斜面を登るにつれて勢いを失い、多大な損害を出して後退を余儀なくされる。

午後~日没: 初日の総攻撃を凌ぎ切ったものの、明智方に安堵はなかった。城兵の士気は高いが、矢や兵糧は刻一刻と消費されていく。何よりも、外部からの援軍が来る望みは皆無であった。主君と頼むべき斎藤道三は既にこの世になく、その道三を支援した織田信長も、美濃国内の争いに介入する大義名分を失っていた。光安は城内の守りを固めさせ、夜間の奇襲に備えつつも、この籠城戦が勝利ではなく、いかにして一族の名誉を守り、潔く最期を遂げるかの戦いであることを覚悟していた。

【攻防第二日:九月二十一日】

夜明け: 義龍軍は前日の力攻めの失敗を踏まえ、戦術を変更した。城の一箇所に兵力を集中させるのではなく、城の複数箇所に対して同時に波状攻撃を仕掛けることで、守備側の兵力を分散させ、防御網の一角を突破することを狙ったのである。

午前: 攻撃は前日にも増して激しさを増した。城の四方から絶え間なく攻め手が押し寄せ、明智方の城兵は休む間もなく防戦に追われる。奮戦も虚しく、兵力の差は徐々に戦況に現れ始めた。守備が手薄になった箇所からついに義龍軍の兵士が曲輪内への侵入に成功。これを皮切りに、城の各所で壮絶な白兵戦が展開される。明智方の兵は一人また一人と討ち取られ、防衛線は急速に崩壊していった。

正午頃:落城: 攻め手の兵は雪崩を打って本丸へと殺到した。もはやこれまでと覚悟を決めた総大将・明智光安は、最後まで共に戦った弟の光久と差し違えるようにして自刃。『美濃国諸旧記』によれば、城に残っていた妻妾たちも、敵兵の手に落ちて辱めを受けることを潔しとせず、落城前に自ら命を絶ったと記録されている。

この壮絶な抵抗は、軍事的な勝利を目指すものではなかった。援軍の望みが絶たれた中で二日間にわたり戦い抜いたのは、旧主君・道三への忠義を貫き、土岐氏以来の名門としての明智家の名誉を守るためであった。そして、その壮絶な犠牲にはもう一つの重要な目的があった。それは、明智家の嫡流であり、未来を託すべき若き麒麟児を、死地から脱出させるための時間を稼ぐことであった。

光秀の脱出

『明智軍記』や『美濃国諸旧記』などの後世の記録によれば、落城の寸前、燃え盛る本丸の一室で、光安は甥の光秀を呼び寄せたとされる。そして、「落ちて存命なし、明智の家名を立てられ候へ(生き延びて、明智の家名を再興せよ)」という最後の言葉と共に、一族の未来を託した。光秀は、光安の子である明智秀満(左馬助)ら、ごく少数の供と共に、敵兵の手薄な裏手から城を脱出した。彼が振り返った時、故郷の城は黒煙と炎に包まれ、二百年続いた名門・明智氏の歴史は、ここに一旦の終焉を迎えたのであった。

第三部:落日の後 ― 離散と再起への道

明智城の落城は、美濃国における明智氏の組織的な終焉を意味した。しかし、それは同時に、一族の再興という重責を背負った一人の若者、明智光秀の苦難に満ちた流浪の旅の始まりでもあった。故郷を追われたこの経験は、彼の人間性を深く形作り、後の歴史を動かす大きな原動力となっていく。

第一章:明智一族のその後

明智城を武力で制圧した斎藤義龍は、戦後処理を迅速に進めた。彼は明智氏の本拠地であった明智庄を没収し、この攻略戦で功のあった腹心・長井道利を代官として統治させた。これにより、鎌倉時代以来、土岐氏の庶流としてこの地に根を張ってきた明智氏は、その所領を完全に喪失した。城を脱出した光秀と秀満らを除き、籠城した一族郎党の多くはこの戦いで命を落とすか、あるいは四散し、美濃における明智家の勢力は完全に消滅したのである。

義龍は、父殺しという大罪を犯した自らの権力基盤を固めるため、旧道三派の徹底的な粛清を断行した。明智氏の滅亡は、その象徴的な出来事であり、美濃国内に「新たな支配者は義龍である」という事実を内外に強く知らしめる結果となった。

第二章:麒麟児、流浪の始まり

叔父・光安から一族再興の遺命を受けた光秀の逃避行は、困難を極めた。

脱出と潜伏

燃え盛る明智城を脱出した光秀は、まず追手の目を逃れるため、縁者を頼って潜伏した。『美濃国諸旧記』によれば、母方の実家であった西美濃の山岸氏のもとに身を寄せ、そこに妻の煕子(ひろこ)らを預けて、自らは再起の機会をうかがったとされる。この苦難の時期、光秀と煕子の絆の深さを示す逸話が伝えられている。生活に困窮する光秀が連歌会を開くための費用を捻出できずにいると、煕子は自慢の美しい黒髪を切り、それを売って金策したという。この「内助の功」は、光秀が逆境の中で心を折ることなく、前を向き続ける大きな支えとなった。

越前への道

しかし、斎藤義龍の支配が確立された美濃国内に、道三派であった光秀の安住の地はなかった。彼は再起の地を求め、隣国である越前を目指すことを決意する。越前の守護大名・朝倉氏は、かつて美濃の主であった土岐氏と姻戚関係にあり、土岐氏の庶流である光秀にとって、亡命を受け入れてもらえる可能性のある数少ない選択肢の一つであった。油坂峠などを越えれば美濃と越前は直接繋がっており、地理的にも現実的な亡命ルートであった。

雌伏の十年

越前に入った光秀であったが、すぐに朝倉義景に仕官が叶ったわけではなかった。近年の研究で注目されている史料によれば、彼はまず時宗の称念寺(現在の福井県坂井市)の門前に居を構え、寺子屋の師匠のようなことをしながら約10年間の雌伏の時を過ごしたとされる。

この流浪の10年間は、光秀にとって単なる雌伏の期間ではなかった。彼はこの間に、当代最新の兵器であった鉄砲の技術を習得し、医学や和歌などの教養を深め、後の人生に大きな影響を与える人物たちとの人脈を築いた。明智城の落城は、彼から「土岐氏一門・明智氏」という血筋と家柄に裏打ちされた特権的な地位を奪い去った。もはや彼は、ただの「明智十兵衛」という一個の浪人に過ぎなかった。この経験は、家柄や血筋といった旧来の価値観がいかに脆いものであるかを彼に痛感させたであろう。生き延び、そして叔父の遺命を果たすためには、自らの才覚、すなわち武術、教養、謀略といった「個人の能力」を磨き上げ、それを正当に評価してくれる新たな主君を見つける以外に道はなかった。

歴史の表舞台へ

そして永禄9年(1566年)頃、光秀の運命は大きく動き出す。兄である13代将軍・足利義輝を三好三人衆に殺害され、幕府再興を目指して諸国を流浪していた足利義昭が、朝倉義景を頼って越前にやってきたのである。光秀は、義昭の側近であった細川藤孝を通じて義昭に仕える機会を得る。そして、朝倉義景に見切りをつけた義昭を、尾張・美濃を平定し飛ぶ鳥を落とす勢いであった織田信長に引き合わせるという大役を果たした。この時、信長の正室・濃姫が光秀の従妹であったという縁戚関係が、両者の仲介に有利に働いた可能性も指摘されている。

この出会いこそが、明智光秀を歴史の表舞台へと押し上げる決定的な瞬間であった。明智城落城という悲劇によって全てを失った彼は、10年の歳月を経て、自らの実力一つで新たな道を切り拓いたのである。この経験によって培われた徹底した実力主義の価値観は、奇しくも家柄よりも能力を重視する織田信長のそれと合致していた。光秀が信長に重用され、異例の速さで出世を遂げた背景には、この共通の価値観があったことは想像に難くない。そして皮肉なことに、その実力主義の果てに、彼は自らの実力で主君を討つという、戦国最大のミステリー「本能寺の変」を引き起こすことになるのである。

結論:明智城の戦いが歴史に刻んだもの

本報告書で詳述した「明智城の戦い」は、通説で語られる1549年の出来事ではなく、日本の戦国史における重要な転換点の一つである弘治二年(1556年)に発生した、斎藤義龍による旧勢力の粛清戦であった。この合戦が歴史に与えた影響は、単なる一城の攻防に留まらない、多岐にわたる重要な意義を持っている。

第一に、この戦いは美濃国における権力構造の完全な刷新を意味した。斎藤道三が一代で築き上げた下剋上の時代は、その実子・義龍による父殺しという形で幕を閉じた。明智城の攻略は、その内乱の総仕上げであり、道三と結びつきの強かった旧来の名門勢力が排除され、義龍を中心とする新たな支配体制が確立されたことを象徴する出来事であった。

第二に、この戦いは明智光秀という人物の人生における最大の転換点となった。彼はこの一戦で、生まれ持った家柄、所領、そして一族という、武士としてのアイデンティティを構成する全てのものを失った。しかし、この喪失こそが、彼を旧来の価値観から解き放ち、自らの才覚と能力のみを頼りに生き抜く、冷徹で現実的な戦国武将へと変貌させる決定的な契機となった。明智城の灰燼の中から、後の織田信長の重臣、そして天下を揺るがす謀反人となる「麒麟児」が解き放たれたのである。10年に及ぶ流浪生活は、彼に深い教養と幅広い技能、そして何よりも逆境を乗り越える強靭な精神力を与えた。

最後に、歴史的意義として、この戦いは戦国時代を象徴する「下剋上」の非情な連鎖と、それが一個人の運命にいかに劇的な影響を与えるかを示す好例である。一見すれば、美濃という一国で起きた地方の小規模な籠城戦に過ぎないかもしれない。しかし、それは斎藤氏の物語における一つの終着点であると同時に、明智光秀の物語の真の始まりを告げる号砲であった。この戦いがなければ、光秀が信長と出会うことも、後の本能寺の変も起こり得なかったかもしれない。その意味において、明智城の落城は、日本の歴史の流れを大きく変える遠因となった、極めて重要な事件であったと結論付けられる。