最終更新日 2025-09-03

春日山城下合戦(1578~79)

軍神上杉謙信の死後、越後で勃発した御館の乱。景勝が春日山城を掌握し、武田勝頼の介入を経て景虎を滅ぼす。この内乱は上杉家を疲弊させ、織田信長の天下統一を間接的に助ける結果となった。
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春日山城下合戦(御館の乱)全詳報:軍神亡き後の越後、血で血を洗う骨肉の相克

序章:龍の眠り、乱の胎動

戦国時代の越後国に君臨し、「軍神」とまで称揚された上杉謙信。その存在は、単なる一国の領主たるに留まらず、関東管領として関東の秩序に、そして織田信長や武田信玄といった天下の趨勢を左右する強豪としのぎを削る、日本の戦国史における一個の巨大な均衡点であった。しかし、その均衡はあまりにも突然、そして決定的に崩れ去る。本報告書は、謙信の死という権力の真空状態が引き起こした、上杉家の家督を巡る骨肉の争い「御館の乱」、その中核をなす「春日山城下合戦」の全貌を、時系列に沿って詳細に解明するものである。

天正六年三月、軍神の急逝

天正6年(1578年)3月9日、織田信長との決戦を目前に控え、次なる遠征の準備を進めていた上杉謙信は、本拠である春日山城内の厠にて突如として倒れた 1 。意識不明の状態が4日間続いた後、3月13日、ついに帰らぬ人となった。享年49 3 。その死因は、長く脳卒中(脳溢血)と推測されてきた 1 。しかし、後に上杉景勝が諸将に送った書状には「不慮の虫気(むしけ)」と記されており、これは重篤な腹痛を指す言葉であることから、急性膵炎や腹部大動脈瘤の破裂といった内臓疾患の可能性も近年の研究では指摘されている 4

死因の特定以上に重要なのは、謙信の死が極めて急であったため、後継者を公式に指名する時間的猶予が全くなかったという事実である 3 。生涯不犯を貫き、実子のいなかった謙信には二人の有力な養子がいたが、彼らのいずれを後継とするか、その遺志は明確にされぬまま、越後の龍は永い眠りについた。この権力の空白こそが、越後全土を巻き込む大騒乱、「御館の乱」の直接的な引き金となったのである 1

二人の養子:血統の景勝、寵愛の景虎

謙信亡き後の上杉家を継ぐべき候補者は、事実上、上杉景勝と上杉景虎の二人に絞られていた。両者の出自と立場は対照的であり、そのことが家臣団を二分する根源的な要因となった。

上杉景勝 は、謙信の実姉である仙桃院と、越後の有力国人である坂戸城主・長尾政景の間に生まれた次男であり、謙信にとっては血の繋がった甥にあたる 6 。父・政景の死後、謙信の養子となり、天正3年(1575年)には謙信から弾正少弼の官途を譲られ、「御中城様」という尊称で呼ばれるなど、上杉一門の筆頭格としての地位を確立していた 8 。その正統性は、何よりも謙信との血縁と、越後国内の有力氏族出身という「内部」の要因に根差していた。

一方の 上杉景虎 は、関東の覇者・相模北条氏康の七男(当時の当主・北条氏政の弟)として生まれた 6 。元々は、上杉家と北条家が結んだ越相同盟の証として越後に送られた人質であったが、謙信はこの若者を大いに気に入り、自身の初名である「景虎」の名を与え、さらに景勝の姉を娶らせるなど、破格の厚遇をもって遇した 9 。後年、越相同盟が破綻した後も、景虎は北条家に帰ることなく越後に留まり続けたことからも、謙信の寵愛の深さがうかがえる 6 。景虎の立場は、謙信からの個人的な寵愛と、関東の北条氏という強大な「外部」勢力との繋がりによって支えられていた。

謙信が二人のうち、どちらを真の後継者と考えていたのかは、今日においても明確な答えが出ていない 9 。一説には、越後国主を景勝に、関東管領職を景虎にそれぞれ継承させることで、権力を分割し、相互に補完させる体制を構想していたのではないかとも考えられている 9

この後継者問題の本質は、単なる個人の対立に留まらない。それは、上杉家が今後、越後の在地勢力を基盤とする独立勢力として存続する道を選ぶのか(景勝路線)、それとも関東の北条氏との広域連合を軸として生き残りを図るのか(景虎路線)という、国家の将来を左右する戦略的な路線対立であった。謙信の存在によってかろうじて保たれていた均衡は、彼の死によって崩壊し、両者の対立はもはや避けられないものとなっていたのである。

第一部:先手必勝、春日山城の掌握

謙信の死がもたらした混乱の中、いち早く行動を起こし、戦略的優位を確立したのは上杉景勝であった。彼の迅速かつ果断な初動は、その後の乱の帰趨を決定づける上で極めて重要な意味を持った。

景勝の電撃的行動:実城の占拠

謙信の葬儀が執り行われた天正6年(1578年)3月15日頃、景勝は動いた。「謙信公の遺言である」と称し、春日山城の中枢区画である本丸、すなわち「実城(みじょう)」を電撃的に占拠したのである 3 。この行動により、景勝は上杉家が蓄積してきた莫大な軍資金が納められた金蔵と、武具・兵糧が保管された兵器蔵を完全にその手に収めた 13

この初動は、軍事的に決定的な意味を持っていた。潤沢な資金は、兵の動員を容易にし、何よりも後の局面で武田勝頼を買収するための外交工作を可能にした 10 。また、兵器蔵の掌握は、対立する景虎方の武装を制限する効果をもたらした。景勝はこの時点で、後継者争いを物理的に制するための絶対的な基盤を固めたと言える。彼は3月24日には、自身が謙信の後継者であることを国内外に布告し、既成事実化を推し進めた 12

春日山城内での対立激化

景勝が実城を掌握した一方で、景虎は本丸に近い二の曲輪や三の丸に居住していた 12 。景勝方は、占拠した本丸から眼下に見下ろす景虎の屋敷に向けて、威嚇のために鉄砲や矢を撃ちかけるという直接的な軍事行動に出た 3

この攻防の背景には、春日山城そのものの構造が深く関わっている。春日山城は、山頂に本丸を置き、そこから延びる尾根上に各曲輪が配置される典型的な連郭式の山城である 16 。最高所に位置する本丸を抑えた景勝は、城内の他の全ての区画に対して、高所から一方的に攻撃できるという絶対的な地理的優位を確保した。景虎は防戦一方にならざるを得ず、城内での立場は急速に悪化していった。この物理的・構造的優位こそが、景虎を城外への脱出へと追い込む直接的な圧力となったのである。景勝の勝利は、彼の政治的決断力と、春日山城の構造に対する深い理解が組み合わさった結果であった。

【表1:上杉景勝・景虎 両陣営の主要支持武将一覧】

謙信の死後、上杉家臣団は深刻な分裂に見舞われた。その内実は、単なる派閥争いではなく、一族や兄弟までもが敵味方に分かれる、まさに血で血を洗う内乱であった 17 。以下に、両陣営に与した主要な武将をまとめる。

区分

上杉景勝方

上杉景虎方

一門衆

上条政繁、山浦国清、山本寺孝長

上杉憲政(前関東管領)、上杉景信、山本寺定長

譜代重臣

斎藤朝信、直江信綱、安田顕元、吉江信景

北条高広、本庄秀綱、神余親綱、柿崎晴家(暗殺)

国人衆(揚北衆含む)

本庄繁長、新発田重家、竹俣慶綱、樋口兼続(直江兼続)

堀江宗親、桃井義孝、北条景広

この支持基盤の分布を分析すると、景勝方には直江氏や斎藤氏といった謙信の側近や、景勝の出身母体である上田長尾家と関係の深い勢力が結集していることがわかる 12 。一方、景虎方には前関東管領の上杉憲政や、景勝の上田長尾家と対立関係にあった古志長尾家、そして実家である北条氏との連携を重視する国境地帯の武将らが名を連ねていた 10 。この対立構造は、越後国内の地政学的な力学を色濃く反映したものであった。

第二部:春日山城下における攻防の時系列詳解

春日山城を掌握した景勝と、城下にある御館に拠点を移した景虎との対立は、越後全土を巻き込む本格的な戦闘へと発展していく。ここでは、ユーザーの要求である「合戦中のリアルタイムな状態」を再現すべく、具体的な日付と共に戦闘と外交の推移を詳述する。

【表2:御館の乱 主要年表】

本章の詳細な解説に先立ち、謙信の死から乱の終結までの主要な出来事を時系列で整理する。

年月日(天正)

主要な出来事

6年3月13日

上杉謙信、春日山城にて急死。

6年3月14日

景虎派の柿崎晴家が暗殺される(諸説あり)。

6年3月15日頃

景勝、春日山城本丸(実城)を占拠。

6年5月5日

城下の大場にて両軍が初の武力衝突。景勝方が勝利。

6年5月13日

景虎、春日山城を脱出し、上杉憲政の居館「御館」に籠城。

6年5月17日

景虎方、約6,000の兵で春日山城を攻撃するも撃退される。

6年6月上旬

景勝、武田勝頼と黄金・領土割譲を条件に同盟交渉を開始。

6年6月下旬

武田勝頼、2万の大軍を率いて信越国境に進駐。両者の和睦を調停。

6年8月20日

一時的な和睦が成立するも、すぐに破綻。

6年10月頃

景勝方が交通の要所を制圧。御館の兵糧が窮乏し始める。

6年冬

豪雪により北条軍の援軍が三国峠を越えられず、景虎は孤立。

7年2月1日

景勝、御館への総攻撃を命令。景虎方の北条景広が討死。

7年2月2日

景勝軍の攻撃により御館が炎上。

7年2月中旬

和平交渉に向かった上杉憲政と景虎の嫡男・道満丸が殺害される。

7年3月17日

景虎、燃え盛る御館を脱出。

7年3月24日

景虎、逃亡先の鮫ヶ尾城にて城主・堀江宗親の裏切りに遭い、自刃。

第一局面:対峙と前哨戦(天正六年三月~五月)

謙信の死の直後から、水面下では既に緊張が高まっていた。天正6年(1578年)3月14日には、景虎派の重鎮と目されていた柿崎晴家が景勝方によって暗殺されたという説もあり、これが事実であれば、謙信の死の翌日から既に武力抗争の火蓋は切られていたことになる 4

両陣営による公然たる最初の武力衝突は、 5月5日 、春日山城下の 大場 で発生した 4 。この戦いで景勝方は、腰長尾家の当主・上杉景信を討ち取るなど戦果を挙げ、初期の軍事的優位を確保した 13

城内での劣勢を挽回できないと判断した景虎は、 5月13日 の夜、妻子と前関東管領・上杉憲政を伴い、春日山城を脱出。憲政の居館であった**「御館」**に立て籠もった 12 。御館は二重の堀と土塁で囲まれた堅固な平城形式の館であり 13 、これにより戦いの構図は「春日山城(景勝)対 御館(景虎)」として明確化された。

御館に入った景虎のもとには、 5月16日 、鮫ヶ尾城将・堀江宗親や信濃飯山城将・桃井義孝らが馳せ参じ、その軍勢は一気に強化された 19 。勢いを得た景虎方は、

5月17日 22日 の二度にわたり、約6,000の兵力で春日山城へ総攻撃を仕掛けた 4 。城下に火を放つなど激しく攻め立てたが、地の利を得る景勝方はこれをことごとく撃退した 9 。春日山城下での攻防は、一進一退の様相を呈し始めた。

第二局面:外部勢力の介入と外交戦(天正六年六月~九月)

戦局が膠着する中、両陣営は外部勢力の支援を求めて熾烈な外交戦を繰り広げる。特に、甲斐の武田勝頼の動向が、乱の行方を大きく左右することになる。

当初、戦況は景虎方に有利に傾きつつあった。景虎は実家である北条氏に援軍を要請し、当主・北条氏政はこれに応じ、同盟者である武田勝頼にも景虎支援を働きかけた 9 。さらに、北条氏と同盟関係にあった蘆名氏や伊達氏も景虎支援を表明し、越後へ侵攻を開始した 13 。これにより景勝は、北条・武田という二大勢力に南と東から挟撃されるという、絶体絶命の危機に陥った 17

この窮地を打開するため、景勝は起死回生の一手を打つ。敵であるはずの武田勝頼に対し、破格の条件で同盟を打診したのである 8 。その条件は、①黄金の進上、②上杉領であった東上野と北信濃の割譲、③勝頼の妹・菊姫と景勝の婚姻、というものであった 9

北条氏との同盟関係にあったにもかかわらず、勝頼はこの景勝の提案を受け入れた。天正6年6月、勝頼は2万ともいわれる大軍を率いて信越国境まで進軍すると、景虎支援を期待していた北条方の意表を突き、景勝・景虎両者の和睦を調停するという形で介入した 17 。8月20日には一時的な和睦が成立するが、両者の憎悪は深く、この和平はすぐに破綻した 9

勝頼のこの選択は、単なる目先の利益に目が眩んだ裏切り行為と見なされがちであるが、その背景には深刻な戦略的判断があった。もし景虎が勝利すれば、上杉家は事実上北条家の影響下に置かれ、武田家は西の織田・徳川、東の北条・上杉という強大な連合勢力に完全に包囲されることになる 9 。これは勝頼にとって最悪のシナリオであった。景勝を支援し、内乱を長引かせることで上杉家を疲弊させ、最終的に越後における武田家の影響力を最大化することこそが、彼の真の狙いであった可能性が高い 18

しかし、この外交的選択は、武田家にとって致命的な結果を招く。勝頼の裏切りに激怒した北条氏政は、長年の甲相同盟を破棄し、武田家の宿敵であった徳川家康と手を結んだ 4 。これにより、武田家は東からの安全保障を失い、後の織田・徳川・北条による三方からの侵攻(甲州征伐)を招く包囲網が完成した。御館の乱への介入は、結果的に武田家滅亡の直接的な引き金となったのである。この一点において、春日山城下での合戦は、戦国時代後期の勢力図を塗り替える極めて重要な転換点であったと言える。

第三局面:冬の到来と消耗戦(天正六年十月~天正七年一月)

武田軍が撤退し、一時的な和睦が破綻すると、戦いは再び消耗戦の様相を呈した。この局面で戦局を有利に進めたのは景勝方であった。景勝軍は、猿毛城、旗持城、直峰城といった、御館と外部を結ぶ交通の要所にあった景虎方の城砦を次々と攻略 13 。これにより、御館への兵糧や兵員の補給路は、ことごとく遮断された 19

そして、景虎にとって最大の誤算が訪れる。越後の厳しい冬の到来である。降り積もる豪雪は、景虎が最後の頼みとしていた北条軍の進軍を完全に阻んだ 9 。三国峠は雪によって閉ざされ、関東からの援軍は越後に入ることができなくなった 13

外部からの支援が完全に途絶えた御館では、兵糧の窮乏が深刻化し、兵の士気は日に日に低下していった 4 。景虎方は、春日山城の麓にありながら、完全に孤立無援の状態に陥ったのである。

第四局面:最終決戦と御館炎上(天正七年二月~三月)

天正7年(1579年)に入り、景勝は雪解けを待たずに乱を終結させるべく、最後の決断を下す。 2月1日 、景勝は配下諸将に対し、御館への総攻撃を命令した 4 。この日の激しい戦闘で、景虎方の勇将として知られた北条景広(きたじょうかげひろ)が府中八幡宮付近で討ち死にするなど、戦況は一気に景勝方へ傾いた 19

2月2日 、景勝軍は御館の外構えを突破し、府内の町中に次々と放火した 13 。景虎が籠る御館は、瞬く間に劫火に包まれた 19 。この絶望的な状況の中、前関東管領・上杉憲政が、景虎の嫡男である道満丸を伴い、景勝との和睦交渉のため陣を出た。しかし、その道中において、彼らは景勝方の兵によって無残にも殺害されてしまう 3

和睦という最後の望みも絶たれ、燃え盛る御館での抗戦はもはや不可能と判断した景虎は、 3月17日 、妻子と共に御館を脱出。実家である小田原の北条家を頼り、再起を図るべく落ち延びていった 9

第三部:終焉、そして残されたもの

御館の炎上は、春日山城下における大規模な戦闘の終わりを意味したが、乱そのものの終結ではなかった。景虎の悲劇的な最期と、この内乱が上杉家、ひいては周辺勢力に与えた長期的な影響を考察する。

景虎の逃避行と鮫ヶ尾城での最期

燃え盛る御館を脱出した景虎一行が向かった先は、味方であるはずの鮫ヶ尾城であった。しかし、城主の堀江宗親は、景勝方からの寝返り工作に既に応じていた 6 。宗親は、何も知らずに助けを求めてきた景虎を城内に招き入れた後、突如として反旗を翻し、景虎に刃を向けたのである 28

最後の頼みの綱であった味方からの裏切りにより、景虎は完全に行き場を失った。天正7年(1579年) 3月24日 、進退窮まった景虎は、鮫ヶ尾城内にて妻子と共に自刃して果てた 6 。享年26 9 。その悲劇的な最期をもって、約1年間にわたって越後を二分した御館の乱は、事実上の終結を迎えた。鮫ヶ尾城跡の発掘調査では、この時の戦闘で焼けたとみられる炭化した米や武具が多数出土しており、最後の戦闘の激しさと、内乱の過酷さを現代に伝えている 31

乱の終結と戦後処理

景虎の死後も、三条城の神余親綱など、一部の景虎方勢力は景勝への抵抗を続けていたが、やがて鎮圧され、越後は景勝の下で再統一された 13 。しかし、乱の終結は新たな火種を生むことになる。戦後の恩賞の配分を巡って、景勝方として共に戦ったはずの揚北衆の重鎮・新発田重家との間に対立が生じ、新たな内乱(新発田重家の乱)が勃発したのである 4 。御館の乱の勝利は、上杉家に安寧をもたらすものではなかった。

結論:勝利の代償

上杉景勝は、熾烈な内乱を制し、上杉家の家督を継承することに成功した。しかし、その勝利は、古代ギリシャの故事に由来する「ピュロスの勝利(Pyrrhic victory)」、すなわち、あまりにも大きな犠牲を払ったために、敗北に等しい結果しかもたらさなかった勝利であったと言える。

約2年間にわたる内乱は、越後国を焦土と化し、上杉家臣団から多くの有能な武将を失わせた 4 。謙信時代には「戦国最強」と謳われた上杉軍団の軍事力は、この内乱によって著しく衰退したのである 16

この上杉家の国力低下は、当時、北陸方面から急速に勢力を拡大していた織田信長にとって、またとない好機となった。御館の乱で上杉家が内紛に明け暮れている隙に、織田軍の北陸方面軍司令官・柴田勝家は、能登・加賀を完全に平定し、越中への侵攻を本格化させた 4 。景勝は越後の再統一に手一杯で、この織田軍の侵攻に有効な手を打つことができなかった。

結論として、上杉景勝は「越後」という国内の家督争いには勝利したが、その代償として、「天下」を巡るより大きな戦略的競争において、織田信長に対して決定的な後れを取ることになった。彼の勝利は、強大であった上杉家の、長い衰退の時代の始まりを告げるものであった。

さらに、この乱は周辺勢力にも大きな影響を及ぼした。前述の通り、武田勝頼の介入は甲相同盟の崩壊を招き、武田家の滅亡を早める遠因となった 4 。北条家は、一族である景虎を見殺しにした形となり、越後への影響力を完全に失った。

皮肉なことに、春日山城下で繰り広げられたこの血で血を洗う内乱は、結果として上杉・武田という二つの強大な戦国大名を弱体化させ、織田信長による天下統一事業を間接的に助けるという結末をもたらした。御館の乱は、単なる一地方大名のお家騒動ではなく、戦国時代の終焉を加速させた、極めて重要な歴史的事件として位置づけられるべきである。

引用文献

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  6. 戦国ドロドロバトル! 兄弟同士で戦にまで発展した後継争い‼ 名将・上杉謙信の跡をめぐる【御館の乱】 上杉景勝vs上杉景虎 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/44055
  7. 軍神「上杉謙信」の後継を巡って争った2人の養子「景勝」と「景虎」の雌雄【前編】 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/125550
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