最終更新日 2025-08-30

春日山城攻防(1578~79)

謙信没後、上杉家は景勝と景虎の御館の乱で二分。景勝が春日山城を制し、武田勝頼の介入を得て優位に立つ。雪中の攻防の末、御館は炎上し景虎は自刃。景勝は家督を継ぐも、上杉家は国力を消耗し、衰退の道を辿る。

『御館の乱』の真相 ― 春日山城をめぐる権力闘争の時系列的全貌(天正六年から七年)

序章:越後の龍、天に昇る ― 権力の空白と二人の後継者

天正六年(1578年)、戦国最強と謳われた「越後の龍」上杉謙信は、織田信長討伐のための大規模な関東出兵を目前に控えていた 1 。しかし、その出陣予定日のわずか六日前、三月九日に謙信は本拠地である春日山城の厠で突如倒れる 1 。そして、意識が戻ることのないまま、三月十三日に四十九年の生涯を閉じた 1 。生涯不犯を貫き、実子を持たなかった軍神のあまりに突然の死は 5 、強大な権威によって辛うじて保たれていた上杉家の結束に、致命的な亀裂を生じさせる権力の空白をもたらした。

この巨大な空白を埋めるべき後継者候補は二人いた。一人は、上杉景勝。謙信の実姉である仙桃院を母に持ち、坂戸城主・長尾政景の子として生まれた、血縁上最も謙信に近い甥であった 7 。父の死後、叔父である謙信の養子となり、「御中城様」という尊称で呼ばれる一門衆筆頭の地位にあった 10 。その人物像は、生涯で一度しか笑わなかったと伝えられるほど寡黙で剛直であり、彼の周囲には常に張り詰めた空気があったという 9 。この景勝を支持したのは、彼の出身基盤である魚沼郡の上田長尾氏(上田衆)や、直江信綱をはじめとする謙信子飼いの譜代家臣団であった 15

もう一人の候補者は、上杉景虎。相模の雄、北条氏康の七男として生まれ、元は北条三郎氏秀と名乗っていた 7 。越相同盟の証として人質として越後へ送られたが、その眉目秀麗な容姿と才気を謙信に深く寵愛された 9 。謙信は彼に、自らの初名である「景虎」を名乗らせるという破格の待遇を与え、さらに景勝の姉(または妹)を娶らせ、嫡男・道満丸も生まれていた 20 。彼の背後には、関東に覇を唱える実家・北条氏という強大な存在が控えていた 19

問題の核心は、謙信がどちらを正式な後継者とするか、明確な遺言を残さなかったことにあった 14 。景虎に自身の名を譲ったことや、天正三年の軍役帳に彼の名が記載されていないこと(徴兵される側ではなく、する側の立場を示唆する)を根拠に景虎を後継者とする説がある 24 。一方で、一門筆頭の立場にあった景勝こそが正統であるとする説も根強く、この曖昧さが家臣団を二分し、血で血を洗う内乱へと発展する最大の要因となったのである。

しかし、この「後継者指名の不在」は、単なる謙信の失念や油断ではなかった可能性が高い。むしろ、謙信が構想していた壮大な国家戦略が、彼の死によって根底から崩壊した結果と見るべきであろう。謙信は、血縁者である景勝に越後・越中・能登といった本国を統治させ、一方で北条家との強力なパイプを持つ景虎に関東管領職を継がせて関東方面を任せるという、一種の分担統治体制を思い描いていたのではないか 25 。これは、謙信が生涯を通じて苦慮してきた「越後国内の国人衆の統制」と「関東出兵時の後顧の憂い」という二大課題を同時に解決しうる、極めて合理的な構想であった。だが、この繊細な権力均衡は、謙信という絶対的な権威者の存在があって初めて機能する。彼の急逝により、「分担」されるはずだった権力は、一つの玉座を奪い合う「闘争」の対象へと変質した。こうして始まる「御館の乱」は、単なる跡目争いではなく、一人の天才が描いた国家構想が頓挫したことから始まった、必然の悲劇だったのである。

第一章:先手必勝 ― 景勝、春日山城を掌握す(天正六年三月~四月)

謙信の死という激震が越後を揺るがす中、沈黙を破り、先手を打ったのは上杉景勝であった。彼の行動は電光石火の如く、その後の戦いの趨勢を決定づける上で極めて重要な意味を持った。

天正六年三月十三日に謙信が世を去ると、その報が城内に広まるや否や、景勝は即座に行動を開始した。彼は「謙信公の御遺言である」と称し、春日山城の心臓部である「実城(本丸)」を占拠したのである 2 。これと同時に、城内の金蔵と兵器庫を完全に掌握下に置いた 16 。これは単に軍事行動の主導権を握っただけでなく、上杉家の財政と軍備という物理的な力を独占し、景虎派の経済力と軍事力を削ぐという、決定的な一手であった。

景勝の行動は、単なる軍事的な制圧に留まらなかった。それは、「正統性」を内外に宣言するための、高度に計算された政治的パフォーマンスであった。戦国時代において、主君の居城の中枢と財産を抑えることは、家督継承の最も強力な既成事実を作り出す行為に他ならない。景勝が掲げた「謙信の遺言」という大義名分が、実際に存在したかどうかは定かではない。しかし、その真偽よりも「最初に宣言し、行動で示した」という事実こそが重要であった。これにより、景勝は自らを「春日山城に拠る正規の後継者」、そして城の中枢から締め出された景虎を「それに異を唱える者」という構図を、日和見を決め込んでいた多くの国人衆や周辺大名に強烈に印象付けることに成功したのである。

四月に入ると、景勝派は景虎派と目されていた重臣・柿崎晴家を暗殺したとも伝わるが、この件については諸説あり、確たる証拠はない 15 。いずれにせよ、この時点で春日山城内は景勝派が完全に掌握し、景虎は物理的にも精神的にも追い詰められていった。そして五月三日、景勝は家臣の飯田長家らに命じ、接収した金蔵にある黄金の数量を検分させた 2 。その額は二万七千両(現代の価値にして十数億円)ともいわれ、この謙信が遺した莫大な軍資金が、後に景勝が外交戦略を駆使し、武田勝頼という強大な敵を味方に引き入れる際の強力な切り札となるのである 25 。戦いは物理的な衝突が本格化する以前に、情報戦と政治戦において、景勝が大きく優位に立った瞬間であった。

第二章:府中の対峙 ― 御館と春日山城(天正六年五月)

春日山城の中枢を景勝に押さえられた上杉景虎は、新たな拠点を定め、反撃の体制を整えることを余儀なくされた。これにより、越後府中(現在の新潟県上越市)を挟んで両者が対峙する、内乱の基本的な構図が完成した。

天正六年五月五日、両者の軍勢は府中近郊の大場において、初めての本格的な武力衝突に至った 2 。これを機に、もはや後戻りのできない全面的な内乱の火蓋が切られた。春日山城内での立場を失った景虎は、五月十三日、城を脱出し、新たな本拠地として「御館(おたて)」に入った 2

御館とは、かつて北条氏康に上野国を追われ、越後に亡命してきた関東管領・上杉憲政のために、謙信が春日山城下に造営した館であった 27 。周囲に堀と土塁を巡らせた方形の居館であり、謙信も後には政庁として使用した場所である 27 。景虎がこの地を選んだのは、上杉本家の正統性の象徴である前関東管領・上杉憲政を擁することで、自らの立場を正当化しようという政治的な狙いがあった。

五月十六日には、鮫ヶ尾城主・堀江宗親や信濃飯山城主・桃井義孝らが軍勢を率いて御館に入り、景虎方の戦力が結集し始めた 2 。さらに、景虎の実家である北条氏との関係から、上野国の国人衆の多くも景虎支持を表明し、その勢力は決して景勝方に劣るものではなかった 24 。こうして、難攻不落の山城・春日山城に立てこもる景勝と、政治的象徴である御館に拠る景虎という対立軸が明確になり、越後の国人領主たちは、否応なくどちらの陣営に与するかという究極の選択を迫られることになったのである 15

御館の乱 初期勢力図(天正六年五月時点)

陣営

上杉景勝方

中心人物

上杉景勝

本拠地

春日山城

主な支持勢力

譜代家臣団: 直江信綱、斎藤朝信、河田長親

上田衆: 景勝の出身基盤である魚沼郡の国人衆

その他: 山岸秀能(黒滝城)、上野九郎衛尉(猿毛城)など 17

外部支援勢力

武田勝頼(後に同盟)

陣営

上杉景虎方

中心人物

上杉景虎

本拠地

御館

主な支持勢力

上杉一門: 上杉憲政(前関東管領)

有力国人衆: 本庄秀綱、神余親綱、北条高広・景広親子

その他: 堀江宗親(鮫ヶ尾城)、桃井義孝(飯山城)など 2

外部支援勢力

北条氏政・氏邦(実家)、武田勝頼(当初)

しかし、景虎が拠点として選んだ御館には、軍事的に致命的な弱点が存在した。春日山城が長年にわたる改修の末に完成した、天然の地形を巧みに利用した巨大な山城要塞であるのに対し 3 、御館はあくまで平野部に築かれた政庁としての性格が強い居館であった 25 。防御施設として堀や土塁は備えていたものの、本格的な攻城戦を長期間耐え抜くようには設計されていない。景虎は、上杉憲政を擁するという政治的権威を優先するあまり、軍事的な防御力を犠牲にするという選択をしたのである。この決断は、実家である北条氏からの援軍が迅速に到着することを前提とした、極めて危険性の高い賭けであった。そして、この軍事的な脆弱性は、後に彼の運命を決定づけるアキレス腱となる。

第三章:外部勢力の影 ― 武田と北条の介入(天正六年六月~十月)

越後国内で始まった内乱は、やがて隣国の大大名を巻き込み、東国全体の政治・軍事バランスを揺るがす大きなうねりへと発展していく。特に、甲斐の武田勝頼の動向は、戦局の天秤を大きく左右する決定的な要因となった。

開戦当初、戦局は景虎方に有利に進んでいた 8 。その最大の理由は、実家である北条氏からの強力な支援が期待できたからである。景虎の兄・北条氏政は、同盟関係にあった武田勝頼にも弟への支援を要請した(甲相同盟)。これにより、上野国境からは北条軍が、信濃国境からは武田軍が越後に進攻するという、景勝にとってはまさに四面楚歌の状況が生まれつつあった 8

この絶体絶命の窮地に立たされた景勝が起死回生の一手として打ったのが、外交による敵の切り崩しであった。彼は、春日山城の金蔵に眠る莫大な黄金を元手に、最大の脅威であった武田勝頼との秘密交渉を開始した 25 。景勝は、上野国の割譲と、一説には二万両ともいわれる黄金の譲渡という破格の条件を提示し、敵であった勝頼を味方に引き入れるという大胆な策に出たのである 8

勝頼はこの申し出を受け入れ、北条氏との同盟を事実上反故にし、景勝支持へと舵を切る。彼の変心の裏には、冷徹な戦略的計算があった。第一に、当時武田領の駿河・遠江方面では徳川家康の攻勢が激化しており、これ以上北条との共同戦線に兵力を割く余裕がなかったこと 15 。第二に、もし景虎が勝利すれば、上杉と北条という二大勢力が一体化し、武田領が三日月状に包囲されるという戦略的悪夢を何としても避けたかったことである 15

この勝頼の介入は、単なる「寝返り」ではなかった。それは、上杉家の内乱という好機を利用し、自国の利益を最大化しようとする、冷徹な現実政治(リアルポリティクス)の現れであった。景虎を勝たせれば北条に恩を売れるが、将来的に強大な脅威が生まれる。一方、景勝を勝たせれば、莫大な黄金と領土が手に入り、内乱で弱体化した上杉家を武田の影響下に置くことができる。勝頼は後者を選んだのである。

天正六年六月下旬、勝頼は二万ともいわれる大軍を率いて信越国境を越え、越後へ進軍した 2 。しかし、彼は景虎方を直接攻撃するのではなく、両者の和睦を調停するという形で介入した 2 。これは、両者を争わせて共に疲弊させ、その上で景勝に恩を売りつつ、北条の介入を牽制するという、武田にとって最も利益の大きい状況を作り出すための巧みな外交戦略であった。この介入の結果、八月二十日には一時的な和睦が成立するが、双方の不信感は根強く、すぐに破綻した 2

和睦が決裂すると、北条氏政・氏邦兄弟は満を持して景虎救援のために大軍を動かし、上野から越後国境へと迫った 2 。しかし、彼らの前には武田軍が立ち塞がり、さらに折悪しく冬が到来し、越後特有の豪雪が彼らの進軍を完全に阻んだ 2 。十月、北条軍は越後入りを断念し、撤退を余儀なくされる。最大の頼みであった実家の援軍が、少なくとも雪解けの春まで来ないことが確定し、御館に籠る景虎は、敵地の真っただ中で完全に孤立無援の状態に陥ったのである。

第四章:雪中の攻防 ― 御館包囲網の完成(天正六年十一月~天正七年一月)

越後に長く厳しい冬が到来すると、戦いの様相は一変した。特に、世界有数の豪雪地帯であるこの地域において、「雪」は単なる気象現象ではなく、戦局を左右する極めて重要な戦略的要素として機能した。

外部からの援軍を唯一の頼みとしていた景虎方にとって、交通を遮断する雪は絶望の象徴であった。関東からの北条軍の進路は、景勝が築いたどんな砦よりも強固な、越えられない物理的な壁によって閉ざされたのである 2 。一方、雪解け前の短期決戦を目指す景勝方にとって、この状況はまたとない好機であった。地の利を知る景勝軍は、雪の中でも限定的ながら軍事行動を継続し、孤立した景虎方を着実に追い詰めていった。

景勝は冬の間も攻勢を緩めなかった。彼は御館の周辺に点在する景虎方の支城、すなわち交通の要所であった猿毛城(柿崎区)、旗持城(柏崎市)、そして関東への連絡路を扼する直峰城(安塚区)などを次々と攻略していった 2 。これらの支城の陥落は、御館への兵糧や物資の輸送路を完全に遮断することを意味し、籠城する景虎方を兵糧攻めの状態に追い込んだ。

年が明けて天正七年(1579年)一月、景勝は春の雪解けと共に北条の援軍が再び現れる前に決着をつけるべく、諸将に檄を飛ばし、御館への総攻撃の準備を本格化させた。この動きに呼応し、これまで日和見の態度を取っていた越中松倉城主・河田長親も景勝方への参陣を正式に表明 2 。これにより、御館を包囲する景勝方の態勢は万全のものとなった。

一月二十日、景勝軍は御館の東に位置する高津を攻略し、関川の東岸一帯を完全に平定した 2 。これにより、御館は周囲の支城をすべて失い、平野の真ん中に孤立する裸城同然の状態となった。景虎は、越後の「国衆」だけでなく、越後の「自然」そのものとも戦わなければならない状況に追い込まれていた。景勝にとって、冬の雪は最も強力な「同盟軍」として機能したのである。

第五章:御館炎上 ― 決戦の二日間(天正七年二月~三月十七日)

天正七年二月、雪に閉ざされた越後府中で、一年近くに及んだ内乱の雌雄を決する総攻撃の火蓋が切られた。

二月一日、景勝軍は奇襲をもって総攻撃を開始した。最初の標的となったのは、景虎方の勇将として知られた北条景広(きたじょうたかひろの子)が陣を構えていた府中八幡宮付近であった。この攻撃で景広は討ち死にし、景虎方は有力な武将を失うという大きな痛手を被った 2

翌二月二日、景勝軍本隊は御館そのものへの総攻撃を開始した。景勝の出身基盤である上田衆の兵らが猛然と攻めかかり、御館の外構えに次々と火を放った。炎は瞬く間に府内の町全体に燃え広がり、天を焦がした 2 。後年、御館跡の発掘調査では、この時の戦闘の激しさを物語るかのように、大量の鉄砲玉や炭化した木材が発見されている 27

この時の景虎方の絶望的な状況は、二月五日付で彼が家臣の河田吉久に宛てた書状から痛いほど伝わってくる。そこには、「一昨日、昨日の両日、景勝勢が不意に押し寄せ府内を焼き払った。まことに悔しい限りである」という悲痛な思いと共に、栃尾の本庄氏や三条城の神余親綱らに対し、一刻も早い救援を懇願する必死の叫びが記されていた 2

しかし、救援は来なかった。二月下旬には、北条からの援軍が拠点としていた最後の砦、樺沢城も景勝方によって奪還され、景虎方の希望は完全に断ち切られた 2

そして運命の三月十七日。もはや落城が時間の問題となった御館から、一つの悲劇が生まれた。前関東管領の上杉憲政が、景虎の嫡男・道満丸を伴い、両者の和睦を仲介すべく景勝の陣へ向かったのである 2 。しかし、この最後の望みも無残に打ち砕かれる。和睦交渉は決裂し、景勝方の兵によって、憲政と幼い道満丸は春日山城へ向かう道中で惨殺されてしまった 2

同日、景勝軍による最後の総攻撃が行われた。抵抗する術を失った御館はついに陥落。景虎の妻(景勝の姉または妹)は、燃え盛る館の中で自害したと伝えられている 2

第六章:鮫ヶ尾城の悲劇 ― 景虎、自刃(天正七年三月十八日~二十四日)

三月十七日の夜、燃え盛る御館から、上杉景虎はわずかな手勢を率いて辛くも脱出した。彼の目指す先は、実家である北条氏が治める関東。再起を期しての、決死の逃避行であった 2

その道中、景虎一行は鮫ヶ尾城(現在の妙高市)に立ち寄った。城主の堀江宗親は、開戦当初から景虎を支持し、御館に馳せ参じた味方の一人である。傷ついた心身を休め、今後の策を練るための、束の間の安息の地となるはずであった 7

しかし、彼を待ち受けていたのは、戦国乱世の非情さを凝縮したような裏切りであった。城主の堀江宗親は、景虎方の敗色が濃厚となるや、密かに景勝方に寝返っていたのである。景勝が三月十九日付の書状の中で「鮫ヶ尾城将・堀江氏に対して様々な謀略を巡らせている」と記していることから 2 、この裏切りが景勝方の周到な調略によるものであったことがうかがえる。味方と信じて入った城は、一夜にして死の罠と化した。景虎は城内で包囲され、完全に行き場を失った 8

全ての望みを絶たれた景虎は、観念した。天正七年三月二十四日の昼過ぎ、景勝軍の総攻撃の中、妻子と共に自刃して果てた 2 。享年二十六。北条家に生まれ、越後の龍の養子となり、その名跡を継ぐことを夢見た若武者の生涯は、味方の裏切りという最も惨めな形で幕を閉じた。

景虎の死をもって、約一年にわたり越後を二分した「御館の乱」は、上杉景勝の完全勝利で終結した。景勝は名実ともに謙信の後継者としての地位を確立し、上杉家の新たな当主となったのである 3

終章:勝者の代償 ― 上杉家が失ったもの

上杉景勝は、御館の乱に勝利し、上杉家の家督をその手に収めた。しかし、この勝利は決して輝かしいものではなく、その代償はあまりにも大きなものであった。この内乱は、戦国最強と謳われた上杉軍団の栄光の時代の終わりと、その後の長い苦難の時代の始まりを告げる、決定的な分水嶺となったのである。

第一に、国力の著しい低下は免れなかった。越後の国人衆を二分した激しい内乱は、謙信子飼いの勇将を含む多くの有能な人材と兵士の命を奪い、上杉家の軍事力を根底から疲弊させた 15 。謙信時代に築き上げられた強大な軍事力と、それに基づく周辺諸国への威信は大きく後退した。

第二に、乱の終結は新たな内紛の火種を生んだ。戦後の論功行賞において、景勝は自らの権力基盤である上田衆を厚遇した 15 。一方で、乱の勝利に多大な貢献をしながらも、十分な恩賞を与えられなかった勢力の不満が鬱積した。その筆頭が、揚北衆の雄・新発田重家であった 25 。この処遇への不満が、後に織田信長と結び、七年もの長きにわたって景勝を苦しめる「新発田重家の乱」へと発展するのである 15

第三に、国内の混乱は外部勢力の侵攻を招いた。上杉家が内乱で疲弊している隙を突き、織田信長の重臣・柴田勝家が加賀・能登・越中へと破竹の勢いで侵攻し、謙信が築いた北陸の版図は次々と失われていった 15 。東からは会津の蘆名盛隆も領土を蚕食し、上杉家は防戦一方の苦しい立場に追い込まれた。

最後に、この乱は越後のみならず、東国全体の勢力図にも影響を及ぼした。景勝を支援した武田勝頼は、この一件で同盟国であった北条氏との関係を決定的に悪化させた 15 。これにより背後の安全を失ったことは、後の織田・徳川連合軍による甲州征伐において北条からの支援を得られず、武田家が滅亡する遠因の一つとなった。

結論として、「御館の乱」は、上杉景勝が家督を相続するという個人的な目的においては勝利であった。しかし、上杉家という組織にとっては、謙信という傑出した指導者と、国内の結束、そして比類なき軍事力という、最も重要な資産のすべてを同時に失った、まさしく「勝者のいない戦い」であったと言えるだろう。景勝が手にした越後は、かつての栄光の影が薄れた、傷だらけの国だったのである。

引用文献

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  2. 御館の乱年表 - 城址巡り - ドーン太とおでかけLOG - FC2 https://orion121sophia115.blog.fc2.com/blog-entry-4812.html
  3. 【新潟県】春日山城の歴史 大きく発展を遂げた上杉謙信の牙城 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/2341
  4. 上杉謙信の居城 春日山城(新潟県上越市) | GOOD LUCK TOYAMA|月刊グッドラックとやま https://goodlucktoyama.com/article/zatsugaku/201310-kasugayama-jyo
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  7. 【日本100名城・春日山城(新潟県上越市)】山まるごと城にしちゃった!上杉謙信の巨大すぎる居城 https://shirobito.jp/article/962
  8. 戦国ドロドロバトル! 兄弟同士で戦にまで発展した後継争い‼ 名将・上杉謙信の跡をめぐる【御館の乱】 上杉景勝vs上杉景虎 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/44055
  9. 一生に1度しか笑わなかった、関ヶ原合戦のきっかけをつくった男【上杉景勝】 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/40093
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