曽根城の戦い(1567)
永禄十年、織田信長は美濃平定のため、曽根城主・稲葉一鉄ら西美濃三人衆を調略。彼らの内応により、難攻不落の稲葉山城は戦わずして孤立。信長はわずか半月で美濃を平定し、岐阜と改称。この戦略的勝利は、信長の天下布武の第一歩となり、日本の歴史を大きく動かした。
戦略的転回点としての曽根城:永禄十年、織田信長の美濃平定戦における調略と電撃戦の全貌
序章:永禄十年、美濃の転換点 —「曽根城の戦い」の歴史的再定義
永禄十年(1567年)、日本の歴史が大きく動いたこの年、美濃国(現在の岐阜県南部)において「曽根城の戦い」と呼ばれる事象が発生した。しかし、この呼称が一般的に想起させるような、城を巡る攻防や野戦といった直接的な戦闘行為の記録は、第一級の史料には見出されない。むしろ、この年の美濃で繰り広げられたのは、織田信長による長年の宿願であった美濃平定の最終章、「稲葉山城の戦い」であった 1 。
本報告書は、この歴史的文脈を深く掘り下げ、「曽根城の戦い」という言葉の真の意味を再定義することを目的とする。それは物理的な衝突ではなく、情報戦、心理戦、そして何よりも 調略 によって、難攻不落と謳われた稲葉山城攻略の帰趨を決した、極めて重要な戦略的転回点であった。この静かなる「戦い」の主役は、曽根城主・稲葉一鉄(良通)であり、彼が率いた安藤守就、氏家卜全からなる「西美濃三人衆」であった 4 。彼らが主君・斎藤龍興を見限り、織田信長に内応するという決断こそが、堅固な城壁を内側から崩壊させる決定打となったのである。
したがって、本報告では、曽根城を単なる「戦場」としてではなく、美濃攻略戦という巨大な将棋盤における「戦略的要衝」として捉え、その城主の決断がいかにして歴史の歯車を大きく動かしたのかを、合戦前夜の情勢から稲葉山城陥落後の影響まで、時系列に沿って徹底的に詳述する。
第一部:崩壊前夜 — 斎藤龍興政権の脆弱性
西美濃三人衆のような宿老たちが、三代にわたって仕えた主家を見限るという重大な決断に至った背景には、斎藤家の深刻な内部崩壊があった。織田信長の侵攻という外的要因と並行して、あるいはそれ以上に、斎藤龍興政権の構造的脆弱性が、その運命を決定づけていたのである。
斎藤家の内憂:受け継がれなかった「蝮」の器量
斎藤家の権力基盤は、その成り立ちからして、極めて属人的な要素に支えられていた。祖父・斎藤道三は「美濃の蝮」と恐れられ、一介の身から下剋上によって一国を掌握した稀代の梟雄であった 7 。彼は武力のみならず、楽市楽座の原型となる政策を導入するなど経済政策にも長け、強固な支配体制を築き上げた 10 。
その跡を継いだ父・斎藤義龍は、長良川の戦いで実父・道三を討つという悲劇的な経緯を辿りながらも、その武威と統率力によって家臣団を掌握した 7 。義龍の治世下では、織田信長の執拗な侵攻を幾度となく撃退し、美濃の独立を維持し続けた 3 。彼は、道三が築いた権力基盤を実力で維持し、発展させた器量の持ち主であった。
しかし、永禄4年(1561年)、義龍が35歳の若さで急逝すると、その子・龍興がわずか14歳で家督を相続する 3 。この若き当主は、祖父や父が持っていたカリスマ性や政治手腕を欠いていた。複数の史料が一致して伝えるところによれば、龍興は政務を顧みず、斎藤飛騨守に代表される側近たちを重用し、酒色に溺れる日々を送ったとされる 5 。その結果、道三・義龍の代から斎藤家を支えてきた西美濃三人衆のような宿老たちとの間に深刻な亀裂が生じ、彼らは国政の中枢から遠ざけられていった 4 。斎藤家という組織は、強力な指導者の存在を前提としていたが、龍興はその器ではなかった。この指導力の欠如が、内部からの崩壊を招く最大の要因となったのである。
信長の圧迫と美濃の疲弊
斎藤家の内憂と呼応するように、隣国・尾張からの軍事的圧力は日増しに強まっていた。永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った織田信長は、東方の最大の脅威を取り除いた。さらに永禄5年(1562年)、三河の松平元康(後の徳川家康)と「清洲同盟」を締結したことで、後顧の憂いを断ち、全力を美濃攻略に傾ける戦略的環境を整えた 13 。
信長の美濃侵攻は、義龍の死のわずか2日後から開始されるなど、執拗かつ断続的に繰り返された 13 。永禄4年(1561年)の森部の戦いでは織田軍が勝利を収め、美濃国内に楔を打ち込むことに成功する 3 。しかし、斎藤方の抵抗も根強く、永禄6年(1563年)の新加納の戦いや、永禄9年(1566年)の河野島の戦いでは、木曽川の予期せぬ増水なども手伝い、信長は撤退を余儀なくされるなど、戦況は一進一退を繰り返した 24 。
この間、信長は戦略を着実に進めていた。永禄6年(1563年)には、本拠地を清洲城から、美濃国境に近い小牧山城へと移転 28 。これは美濃に対する軍事的圧力を恒常化させると同時に、攻略への断固たる意志を示すものであった。また、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が墨俣に一夜で城を築いたという有名な逸話(史実性には議論がある)が象徴するように、信長は美濃国内に橋頭堡を築くことを繰り返し試みた 2 。これらの絶え間ない軍事行動は、美濃の国人衆に多大な経済的負担と精神的疲弊をもたらし、斎藤龍興政権の求心力をさらに低下させていった。
結束の亀裂:竹中半兵衛の稲葉山城乗っ取り事件
斎藤政権の脆弱性を内外に決定的に露呈させたのが、永禄7年(1564年)2月に発生した、竹中重治(半兵衛)による稲葉山城乗っ取り事件である。龍興の寵臣・斎藤飛騨守の家臣から櫓の上から小便をかけられるという屈辱的な扱いを受けたことをきっかけに、半兵衛は舅である安藤守就(西美濃三人衆の一人)らと共謀し、わずか16名の手勢で難攻不落の稲葉山城を奇襲、占拠したのである 4 。
この前代未聞のクーデターに対し、当主である龍興はなすすべもなく、寝間着姿で城から逃亡するという醜態を晒した 17 。これにより、斎藤家当主としての権威は完全に地に堕ちた。半兵衛の目的は主家乗っ取りではなく、あくまで主君・龍興を諫めることにあったとされ、約半年後には城を龍興に返還し、自らは隠棲した 17 。この時、好機と見た信長が城の譲渡を申し入れたが、半兵衛は「主家の城を他国の人間に渡すのは本意ではない」としてこれを拒絶したという逸話も残っている 24 。
しかし、この事件が斎藤家臣団に与えた衝撃は計り知れなかった。当主の居城が、わずかな家臣によっていとも容易く乗っ取られたという事実は、斎藤家の統治能力の欠如と内部結束の崩壊を白日の下に晒した 5 。有力家臣たちは、もはや斎藤家に美濃を治める力はないと見切りをつけ始めた。西美濃三人衆の織田家への内応は、この事件によって蒔かれた不信の種が、信長の調略という水を得て発芽した結果であったと言えよう。
斎藤家の崩壊は、龍興個人の資質の問題に留まらず、構造的な問題であった。道三、義龍という二代の強力なリーダーシップによって辛うじて維持されていた美濃国人衆の連合体は、その求心力を失った時点で、必然的に瓦解の道を辿り始めたのである。西美濃三人衆の離反は、単なる裏切り行為ではなく、崩れゆく船から自らの家名を存続させるために脱出するという、戦国時代の生存論理に基づいた合理的な選択であった。
第二部:調略と決断 — 西美濃三人衆、信長に降る
斎藤家の内部崩壊という絶好の機会を、織田信長が見逃すはずはなかった。彼は武力による圧迫を続ける一方で、水面下で調略の手を伸ばし、美濃の切り崩しを画策する。その標的となったのが、国政の中枢から疎外され、龍興政権に強い不満を抱いていた西美濃三人衆であった。
分類 |
氏名 |
居城 |
役職・関係性 |
織田方 |
織田 信長 |
小牧山城 |
尾張国主。美濃攻略を推進。 |
|
木下 藤吉郎 |
- |
信長家臣。美濃の調略を担当したとされる。 |
|
柴田 勝家 |
- |
織田家宿老。 |
斎藤方 |
斎藤 龍興 |
稲葉山城 |
美濃国主。斎藤家三代目当主。 |
|
斎藤 飛騨守 |
- |
龍興の側近。西美濃三人衆ら宿老と対立。 |
|
日根野 弘就 |
- |
斎藤家家臣。龍興と共に最後まで抵抗。 |
西美濃三人衆 |
稲葉 良通(一鉄) |
曽根城 |
三人衆の中心人物。春日局の祖父。 |
|
安藤 守就 |
北方城 |
竹中半兵衛の舅。稲葉一鉄とは縁戚関係。 |
|
氏家 直元(卜全) |
大垣城 |
三人衆の一人。 |
水面下の交渉:信長の調略網
信長の調略は、周到かつ組織的に行われた。『太閤記』などの後世の軍記物では、木下藤吉郎(秀吉)がその中心的な役割を担ったと描かれている 22 。これらの記述には脚色が含まれる可能性が高いものの 37 、信長が家臣を用いて三人衆との接触を図っていたことは確かであろう。
三人衆が信長の誘いに応じた直接的な動機は、龍興への諫言が聞き入れられず、逆に国政から遠ざけられたことへの不満と、斎藤家の将来に対する絶望感であった 4 。彼らは、もはや龍興の下では自らの家と領地を守り通すことは不可能と判断し、尾張で急速に勢力を拡大する織田信長という新たな覇者に、その未来を賭ける決断を下したのである。
交渉は密かに進められ、やがて三人衆は信長への内応を約束する。その忠誠の証として、彼らはそれぞれ一族の者を人質として信長に差し出すことを申し出た 5 。信長はこの申し出を快諾し、家臣である村井貞勝と島田秀順を人質受け取りの使者として、西美濃へ派遣することを決定した 5 。ここに、美濃の運命を決定づける密約が成立したのである。
曽根城主・稲葉一鉄の決断
この歴史的な決断において、中心的な役割を果たしたのが曽根城主・稲葉一鉄であった。後世、「頑固一徹」という言葉の語源になったとも言われる彼は、筋を通す気骨ある武将として知られていた 38 。若い頃に父と5人の兄全員を牧田の戦いで一度に失い、仏門から還俗して11歳で家督を継いだという壮絶な経験を持つ彼は、斎藤家三代にわたって仕えた宿老中の宿老であった 40 。
彼が居城とした曽根城は、稲葉山城の西方に位置し、大垣城(氏家卜全)、北方城(安藤守就)と共に、西美濃の防衛線を形成する戦略的要衝であった 4 。一徹の決断は、単に一個人が寝返る以上の、計り知れない重みを持っていた。それは、西美濃の国人衆を束ねる重鎮の離反であり、美濃の防衛体制が戦闘を交えることなく内部から崩壊することを意味していた。彼が信長への内応を決意したことで、安藤守就、氏家卜全もそれに追随し、三人衆としての共同歩調が確固たるものとなったのである。
内応の密約と美濃防衛網の崩壊
人質の提出という具体的な行動は、三人衆にとって後戻りのできない一線を超えることを意味した 5 。この密約の成立により、美濃の軍事バランスは決定的に織田方へ傾いた。
この水面下での動きは、龍興政権の中枢には正確に伝わっていなかった可能性が高い。情報網が麻痺し、誰が敵で誰が味方か判然としない状況は、斎藤方の組織的な抵抗を不可能にした。
そして何よりも、西美濃三人衆の内応は、稲葉山城を地理的にも戦略的にも完全に孤立させた。東美濃はすでに信長の勢力圏にあり 30 、西からの支援ルートが完全に遮断されたことで、稲葉山城は四面楚歌の状態に陥ったのである 6 。
この一連の出来事こそが、「曽根城の戦い」の真相である。それは、血を流す戦闘ではなく、調略によって城の戦略的価値を無力化し、敵の拠点を味方の拠点へと変貌させた「見えざる戦い」であった。もし稲葉一鉄が曽根城に籠城し、徹底抗戦の構えを見せていたならば、信長はまず西美濃の城砦群を一つずつ攻略する必要に迫られ、多大な時間と兵力を消耗したであろう。しかし、一鉄の決断は、信長にそのプロセスを完全に省略させ、全戦力を稲葉山城攻略という一点に集中させることを可能にした。曽根城の「無血開城」こそが、稲葉山城の運命を事実上決定づけた、壮大な攻略戦の静かなる序曲だったのである。
第三部:稲葉山城陥落 — 美濃平定戦の時系列詳解
西美濃三人衆の内応という最大の戦略的アドバンテージを得た織田信長は、機を逃さず行動を開始する。ここからの展開は、彼の真骨頂ともいえる、情報操作と電撃戦が融合したものであった。永禄10年(1567年)8月、美濃の運命を決した約半月間の出来事を、時系列に沿って再現する。
永禄10年(1567年)8月1日
- 尾張・小牧山城: 信長のもとに、西美濃三人衆からの内応の確約と、人質提出の準備が整ったとの報が届く 5 。
- 出陣命令と偽装工作: 信長は即座に全軍に出陣を命令。しかし、その目的は「三河方面への出兵」であると布告する 3 。これは、美濃国内に張り巡らされた斎藤方の間諜を欺き、龍興に防戦の準備をさせないための巧妙な情報操作であった。斎藤方は、織田軍の主力が東へ向かうと誤信し、完全に油断していた。
- 進路変更: 小牧山城を出立した織田軍は、しばらく東へ進むと見せかけた後、突如として進路を北へ転じ、美濃国境へと殺到した。
8月上旬(日付の特定は困難)
- 電撃的侵攻: 織田軍は、斎藤方が全く予期していなかったタイミングとルートで美濃国内へ深く侵攻する。国境の防備は手薄であり、織田軍はほとんど抵抗を受けることなく稲葉山城へと迫った 3 。
- 瑞龍寺山への布陣: 信長は、稲葉山城の南西に位置し、尾根伝いに城を攻撃できる絶好の戦略拠点である瑞龍寺山に本陣を構えた 4 。これにより、稲葉山城を眼下に見下ろす圧倒的に有利な態勢を整える。
- 稲葉山城の混乱: 瑞龍寺山に、一夜にして織田信長の大軍が出現したという報は、稲葉山城内に激震を走らせた。『信長公記』によれば、城内は「あれは敵か、味方か」と大混乱に陥ったという 4 。西美濃三人衆の裏切りが現実のものとして突きつけられ、城兵の士気は一気に崩壊した。
8月13日頃(『信長公記』の記述に基づく)
- 城下への放火: 信長は、この日、特に風が強かったことに着目し、稲葉山城の城下町である井ノ口に一斉に火を放つよう命じた 4 。
- 「裸城」化戦略: 強風に煽られた炎は瞬く間に城下町を焼き尽くした。これは、籠城における兵站線であり、外部の防御施設でもある城下町を破壊し、稲葉山城を文字通り孤立無援の「裸城」にするための冷徹な作戦であった。同時に、燃え盛る城下を眼前にした籠城兵たちの戦意を削ぐ、強力な心理的効果も狙っていた。
8月14日
- 包囲網の完成: 信長は、焼き払われた城の周囲に、鹿垣(しかがき)と呼ばれる移動式の木製バリケードを二重、三重に巡らせ、完全な包囲網を構築した 4 。これにより、城からの脱出も、外部からの救援も物理的に不可能となった。
- 三人衆の驚愕: この電光石火の作戦展開を、信長への挨拶のために陣を訪れた西美濃三人衆が目の当たりにし、その手際の良さと徹底ぶりに驚愕したと『信長公記』は記している 24 。彼らは、自らが与した新しい主君の恐るべき実力を再認識した瞬間であった。
8月15日
- 総崩れと開城: 援軍の望みも食料も尽き、完全に包囲された稲葉山城の将兵たちは、もはや抵抗する気力を失い、ついに降伏。城は開城された 23 。
- 斎藤龍興の脱出: 大将である斎藤龍興は、日根野弘就ら少数の側近と共に、城から密かに脱出する。彼らは舟を使い、長良川を川下へと逃れ、当時、反信長勢力の一大拠点であった伊勢長島の一向一揆衆を頼って落ち延びていった 5 。
- 美濃平定の完了: 信長が小牧山城を出陣してから、わずか半月足らず。父・信秀の代から約20年にわたる悲願であった美濃平定は、ここに達成されたのである 24 。
日付(永禄10年) |
織田軍の行動 |
斎藤軍の状況・反応 |
特記事項 |
8月1日 |
小牧山城を出陣。三河方面への出兵と偽装し、美濃へ急進。 |
織田軍の主力が東へ向かうと誤信し、油断。初動が遅れる。 |
信長の情報操作が功を奏す。 |
8月上旬 |
稲葉山城に隣接する瑞龍寺山に本陣を設置。 |
突如出現した大軍に城内は「敵か味方か」と大混乱。士気が崩壊。 |
西美濃三人衆の離反が決定的に。 |
8月13日頃 |
強風を利用し、城下町・井ノ口に放火。 |
城は防御機能を失い「裸城」となる。籠城兵の戦意が喪失。 |
心理戦と物理的破壊を兼ねた作戦。 |
8月14日 |
城の周囲に鹿垣を巡らせ、完全包囲を完成。 |
外部との連絡・補給が完全に遮断され、絶望的な状況に陥る。 |
西美濃三人衆が信長の作戦に驚愕。 |
8月15日 |
稲葉山城、無血開城。美濃平定を完了。 |
斎藤龍興は舟で長良川を下り、伊勢長島へ脱出。 |
挙兵からわずか半月での電撃的勝利。 |
第四部:曽根城の戦略的価値と戦後の美濃
稲葉山城の陥落は、単なる一地方の領有権の移動に留まらなかった。それは、織田信長の天下統一事業の本格的な始動を告げる号砲であり、日本の歴史における大きな画期であった。この新たな時代の幕開けにおいて、曽根城が果たした「戦わずして勝つ」という役割は、改めて高く評価されるべきである。
無血の要衝:曽根城の役割再評価
稲葉山城攻略戦において、曽根城は一度も戦火に晒されることはなかった。しかし、その戦略的価値は計り知れない。稲葉一鉄が信長に降った瞬間、曽根城は斎藤方の西の防衛拠点から、織田方の美濃攻略における最前線基地へとその役割を180度転換させた。これにより、信長は西美濃に兵力を割くことなく、後顧の憂いなく全軍を稲葉山城に集中させることができた。
さらに、曽根城を含む西美濃三人衆の領地は、織田軍にとって安全な兵站線となり、美濃国内の地理や情勢を把握するための貴重な情報源ともなった。まさに孫子の兵法にある「戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり」を体現したのが、この曽根城を巡る調略戦であった。物理的な戦闘はなかったが、その政治的・戦略的な勝利こそが、稲葉山城の早期陥落を導いた最大の要因であった。
新時代の幕あけ:「岐阜」の誕生と天下布武
美濃を手中に収めた信長は、すぐさま新たな時代を築くための布石を打った。
第一に、地名の改称である。彼は、斎藤氏の居城であった稲葉山城を「岐阜城」と、城下町の井ノ口を「岐阜」と改めた 1 。これは、古代中国において周の文王が「岐山」の麓から起こり、天下を平定したという故事に倣ったものであった。この命名には、自らを文王になぞらえ、この地から天下統一を開始するという信長の壮大な決意が込められていた。
第二に、政治理念の表明である。永禄10年11月から、信長は「天下布武」という四文字を刻んだ朱印を使用し始める 1 。「武をもって天下に号令する」というこのスローガンは、彼の政治目標を内外に明確に宣言するものであり、美濃平定がその記念すべき第一歩であったことを示している。
第三に、革新的な都市政策の導入である。信長は、戦乱で荒廃していた岐阜の城下町に「楽市楽座」の制札を掲げ、座(同業者組合)の特権を廃止し、税を免除することで、誰もが自由に商売できる環境を整えた 1 。これにより岐阜の町は急速に活気を取り戻し、その賑わいは後に訪れたイエズス会宣教師ルイス・フロイスをして「バビロンの混雑」とまで言わしめた 1 。この先進的な経済政策は、岐阜を軍事拠点としてだけでなく、経済・文化の中心地としても発展させ、後の安土城下町建設のモデルケースとなった。
これら一連の政策は、信長が単なる一地方の戦国大名から、天下の統治を見据える「天下人」へと意識を飛躍させたことを物語っている。美濃平定は、領土拡大以上の、信長のキャリアにおける精神的・物理的な出発点となったのである。
論功行賞とそれぞれのその後
美濃平定後、その功労者たちの運命は大きく分かれた。
稲葉一鉄、安藤守就、氏家卜全の西美濃三人衆は、最大の功労者として信長から高く評価され、本領を安堵された上で織田家臣団に組み込まれた 39 。彼らは「美濃衆」として、その後の姉川の戦いや長島一向一揆との戦いなど、信長の主要な合戦において重要な役割を果たしていくこととなる 51 。
一方、美濃を追われた斎藤龍興の後半生は、流転と抵抗の連続であった。伊勢長島に逃れた後、彼は畿内に赴き、三好三人衆や越前の朝倉義景といった反信長勢力と結託し、美濃奪還の機会を窺い続けた 15 。しかし、その夢が叶うことはなかった。天正元年(1573年)8月、朝倉義景に従って織田軍と戦った刀根坂の戦いにおいて、ついに討ち死にした 15 。享年26。一説によれば、彼を討ち取ったのは、かつての重臣・氏家卜全の子である氏家直昌であったと伝えられており、歴史の皮肉を感じさせる最期であった 15 。
結論:戦略的調略の勝利
永禄十年(1567年)の美濃平定戦、その中で「曽根城の戦い」と称されるべき事象は、剣や鉄砲が火を噴く華々しい合戦ではなかった。それは、情報と心理を巧みに操り、敵の内部崩壊を誘発させた、織田信長の 戦略的調略の完全なる勝利 であった。
信長は、斎藤龍興政権が抱える構造的脆弱性、すなわち若き当主の器量不足と宿老たちの不満を的確に見抜いていた。そして、長年にわたる軍事的圧力を通じて美濃国全体を疲弊させると同時に、水面下で西美濃三人衆との交渉を進め、彼らの内応を取り付けることに成功した。
この調略のクライマックスが、曽根城主・稲葉一鉄の決断であった。彼の寝返りは、美濃の西の防衛線を戦闘なしに無力化し、難攻不落の稲葉山城を孤立させるという決定的な効果をもたらした。これにより信長は、戦力を一点に集中させた電撃的な包囲作戦を展開し、わずか半月で美濃全土をその手中に収めることができたのである。
この美濃平定は、信長に「岐阜」という新たな活動拠点と、「天下布武」という壮大な政治理念を与え、彼の天下統一事業を本格的に始動させる歴史的な転換点となった。故に、「曽根城の戦い」の真相は、戦国乱世において、単なる武力だけでなく、敵の弱点を突く知略と、人心を掌握する政治力こそが最終的な勝利の鍵であったことを示す、極めて象徴的な事例として記憶されるべきである。
引用文献
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- 稲葉山城の戦い - 世界の歴史まっぷ https://sekainorekisi.com/glossary/%E7%A8%B2%E8%91%89%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84/
- 信長いよいよ稲葉山城攻めへ - よしもと新聞舗:岐阜県瑞穂市情報お届けサイト https://www.yoshimoto-shinbun.com/history/%E4%BF%A1%E9%95%B7%E3%81%84%E3%82%88%E3%81%84%E3%82%88%E7%A8%B2%E8%91%89%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E6%94%BB%E3%82%81%E3%81%B8/
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