最終更新日 2025-08-30

月山富田城の戦い(第一次・1542~43)

天文年間、大内義隆は月山富田城を攻めるも、難攻不落の城と国人衆の離反で大敗。この戦いは大内氏衰退、尼子氏絶頂期、そして毛利元就の台頭を促す歴史的転換点となった。
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第一次月山富田城の戦い(1542-43)-西国覇権の転換点-

序章:大内・尼子、雌雄を決する刻

天文年間、中国地方の勢力図は、周防を本拠とする大内氏と、出雲に君臨する尼子氏という二大勢力によって、長らく均衡が保たれてきた。しかし、天文10年(1541年)を境に、この均衡は急速に崩れ始める。西国史上最大級の軍事遠征となる第一次月山富田城の戦いは、単なる領土紛争ではなく、中国地方の新たな覇者を決定づけるための、時代の必然ともいえる決戦であった。

吉田郡山城の戦いの残響:尼子氏の威信失墜と大内氏の好機

全ての序曲は、天文9年(1540年)から翌年にかけて繰り広げられた「吉田郡山城の戦い」に始まる。尼子氏当主・尼子晴久(当時は詮久)は、3万ともいわれる大軍を率いて安芸国人・毛利元就の居城、吉田郡山城を包囲した 1 。しかし、毛利氏の粘り強い籠城と、大内義隆が派遣した陶隆房(後の晴賢)率いる援軍の前に、尼子軍はまさかの大敗を喫する 2

この敗北は、単に一戦の勝敗を決しただけではなかった。それは、山陰山陽に覇を唱えてきた尼子氏の軍事的神話が崩壊した瞬間を意味した 3 。これまで尼子氏の強大な武威に従属していた安芸、備後、石見の国人領主たちは、この結果を目の当たりにし、自らの生き残りをかけて新たな庇護者を求め始める。雪崩を打つように彼らは尼子氏を見限り、勝者である大内氏へと鞍替えしていったのである 1

「雲州の狼」尼子経久の死:巨大勢力の内に潜む動揺

尼子氏の威信失墜に追い打ちをかけたのが、天文10年(1541年)11月、尼子氏の礎を一代で築き上げた稀代の謀将、「雲州の狼」こと尼子経久の死であった 4 。享年84。経久の死は、若き当主・晴久の求心力がいまだ祖父に及ばないことを露呈させ、尼子氏に従う国人衆の動揺を頂点に達させた。

この報は大内義隆にとって、まさに「二度とない好機」と映った 6 。長年の宿敵であった尼子家が、指導者の死と先の敗戦によって内外から揺さぶられている今こそ、その本拠地である出雲を衝き、中国地方の完全なる覇権を確立する絶好の機会であった。

大内家中の対立:陶隆房ら武断派の強硬論と文治派の慎重論

しかし、この好機を前にして、大内家中は一枚岩ではなかった。吉田郡山城の救援で功のあった陶隆房を筆頭とする武断派は、この機を逃さず一気に出雲へ侵攻すべしと強硬に主張した 2 。対して、相良武任らに代表される文治派は、敵地深くへの遠征の危険性を説き、まずは周辺国人の調略を着実に進めるべきだとする慎重論を唱えた 8

義隆は当初、慎重論にも耳を傾けたが、最終的には武断派の意見を容れる。その背景には、吉田郡山城での勝利の勢いを殺ぐべきではないという陶隆房の強い進言に加え、大内方へ転属してきた国人衆からの「尼子討伐」を求める連署状という、外部からの強い圧力があった 1

この遠征の決断は、単なる対尼子戦略に留まらない、より深い意味合いを帯びていた。それは、吉田郡山城の戦い後に生まれた中国地方の「力の真空」を、大内氏が盟主として埋めるという覇権確立行為であった。国人衆の離反は遠征の原因であると同時に、義隆に「盟主としての責任」を負わせ、彼を戦へと駆り立てる結果となったのである。さらに、この決断は義隆政権内部における権力闘争の代理戦争でもあった。武断派にとって、この遠征の成功は自らの政治的発言力を決定づけるための絶好の機会であった。義隆が彼らの意見を採用したことは、大内家の運命を武断派の手に委ねる最初の段階であり、この遠征の失敗が後の大寧寺の変、すなわち大内氏の滅亡へと繋がる宿命的な伏線となるのである 8


表1:両軍の編成比較表

項目

大内軍(攻城側)

尼子軍(籠城側)

総大将

大内義隆

尼子晴久

後継者

大内晴持

(該当者なし)

主要武将

陶隆房、杉重矩、内藤興盛、冷泉隆豊、弘中隆兼、毛利元就、毛利隆元、小早川正平、吉川興経、益田藤兼 など

尼子国久(新宮党)、牛尾幸清、河副久盛 など

推定総兵力

約40,000~45,000 2

約15,000 2

兵力構成

周防・長門の直轄軍に加え、安芸・石見・備後などの国人領主からなる連合軍

出雲・伯耆・隠岐などを中心とする尼子氏譜代・被官で構成された比較的均質な軍


第一章:大内軍、出雲へ発向(天文11年/1542年)

西国史上最大級とも称される遠征軍の編成と進軍は、当初、輝かしい勝利への凱旋行進のように見えた。しかし、その壮大な規模のうちに、後の破綻を予兆させる構造的な欠陥と、指導者たちの驕りが潜んでいた。

1月:周防山口からの出陣

天文11年(1542年)1月11日、大内義隆は自ら総大将となり、1万5千の直属軍を率いて本拠地・周防山口を発向した 1 。この軍勢には、義隆が寵愛する養嗣子・大内晴持が初陣として従っていた 2 。晴持は土佐一条氏の出身で、公家の血を引く優雅な貴公子であり、文武に秀でた義隆の後継者として大きな期待をかけられていた 7 。彼の従軍は、この遠征が単なる軍事行動ではなく、大内家の次代への権威継承を内外に示すための、華々しい儀式の側面をも帯びていたことを物語っている。

一行は1月19日、安芸国厳島神社に渡り、盛大な戦勝祈願を行った 1 。その道中、安芸・石見の国人領主たちが続々と合流する。毛利元就・隆元親子、宍戸隆家、吉川興経、小早川正平、益田藤兼といった面々である 2 。彼らの軍勢が加わることで、最終的な兵力は4万から4万5千という、当時としては未曾有の大軍へと膨れ上がった 2 。圧倒的な兵力差を前に、大内陣営の誰もが勝利を疑わなかったであろう。

4月~7月:出雲の門、赤穴城の攻防

4月、大内軍は石見路を経て、ついに出雲国へと侵入した。彼らが最初の攻略目標としたのは、出雲・備後・石見の三国国境に位置する尼子方の要衝・赤穴城(瀬戸山城)であった 1 。城主・赤穴光清は、尼子家からの援軍を合わせてもわずか4千ほどの兵力でこの大軍を迎え撃つ 11

大内軍は安芸国人・熊谷直続を先鋒として攻撃を開始するが、赤穴城の堅固な守りと赤穴勢の頑強な抵抗に遭い、直続はあえなく討死するという波乱の幕開けとなった 8 。力攻めに切り替えた大内軍は、陶隆房、平賀隆宗、吉川興経らを投入して総攻撃をかける。激戦の末、7月27日、城主・赤穴光清が討ち取られ、赤穴城はようやく陥落した 8 。しかし、この国境の一城を落とすために、実に2ヶ月もの時間を費やしたことは、大内軍にとって最初の、そして重大な計算違いであった 2

8月~12月:緩慢な進軍と越年

赤穴城攻略後も、大内軍の進軍速度は遅々として上がらなかった。10月になってようやく三刀屋峰に本陣を構えたものの 2 、その後、年を越すまで大規模な軍事行動を起こすことなく、戦線は膠着状態に陥った 1

この遅滞は、大内軍が抱える構造的欠陥を露呈していた。圧倒的な兵力は、同時に最大の弱点でもあった。様々な国人衆の寄せ集めであるため指揮系統は複雑で統一性に欠け、意思決定は遅滞した 13 。何よりも、4万を超える大軍を養うための兵站線(ロジスティクス)は極端に長く伸び、脆弱であった。赤穴城での予期せぬ長期戦は、この兵站上の問題を最初に表面化させたのである。緒戦から越年に至るまでの緩慢な進軍は、大内義隆および首脳部に、この大遠征を完遂するための明確で統一された戦略思想が欠如していたことを示唆している。彼らは「大軍で押せば尼子は自ずと屈する」という楽観論に支配され、敵地の地理的特性、兵站維持の現実的な困難さ、そして何よりも尼子方の徹底抗戦の意志を、著しく軽視していた。この驕りが、翌年に待ち受ける悲劇の温床となっていく。

第二章:月山富田城の攻防(天文12年/1543年)

一年以上に及ぶ進軍の末、大内軍はついに尼子氏の本拠地・月山富田城を眼前に捉えた。しかし、彼らを待ち受けていたのは、難攻不落の巨大要塞と、籠城戦に徹する尼子軍の周到な戦略であった。ここから、合戦の様相は一変する。

1月~2月:京羅木山への本陣移動

年が明けた天文12年(1543年)、大内軍は本陣を宍道の畦地山から、月山富田城を眼下に見下ろすことができる京羅木山へと進めた 1 。この最終拠点への移動を前に、大内首脳部の間で再び軍議が開かれる。ここで毛利元就は、月山富田城が力攻めで容易に落ちる城ではないことを見抜き、周辺の支城を一つずつ落とし、調略を用いて尼子氏を孤立させる持久戦こそが上策であると強く主張した 8 。しかし、陶隆房配下の重臣・田子兵庫助らは、圧倒的な兵力を背景に京羅木山から一気に攻め落とすべきだと強攻策を譲らなかった 8

結局、大内家譜代の重臣である陶隆房らの意見が通り、外様の一国人に過ぎない元就の現実的な献策は退けられた 8 。この戦略決定の誤りが、大内軍の運命を決定づけることになる。

難攻不落の要塞・月山富田城

尼子晴久が籠城を決断した背景には、月山富田城の比類なき防御力への絶対的な信頼があった。標高約190mの月山全体を城塞化したこの城は、日本史上屈指の堅城として知られる 15 。城の麓を流れる飯梨川が天然の外堀となり、複雑な地形の尾根上には多数の曲輪が連郭式に配されている 16

敵が攻撃可能な登城口は、菅谷口、御子守口、塩谷口の三方に限定され、いずれも狭隘で堅固な防御陣地が築かれていた 17 。仮に麓の郭が破られても、城兵は山頂部へと後退して抵抗を続けることができる。そして、本丸へと至る最後の道は「七曲り」と呼ばれる急峻な隘路であり、大軍による攻撃を物理的に不可能にしていた 16 。尼子晴久は、この鉄壁の要塞を盾に、大軍の鋭鋒が鈍るのを待つ持久戦に勝機を見出していたのである 10

3月:総攻撃の開始と尼子軍の迎撃

3月、京羅木山に布陣した大内軍による総攻撃の火蓋が切られた。数に任せた猛攻は当初、大内方を有利に見せたが、月山富田城の堅い守りを前にたちまち攻めあぐね、戦線は膠着する 2

3月14日、菅谷口の蓮池畷で内藤興盛・毛利元就らの部隊が尼子方の牛尾幸清・河副久盛らの部隊に撃退される 1 。下旬には、金屋の洞光寺を攻めた平賀隆宗・益田藤兼らの軍勢が、尼子氏最強の精鋭部隊と謳われた「新宮党」(当主・尼子国久が率いる一族)の猛反撃に遭い、手痛い敗北を喫した 1 。尼子方はただ城に籠るだけでなく、機を見ては城外へ打って出て、大内軍の補給路を執拗に脅かすゲリラ戦を展開した。これにより、大内軍は兵糧や物資の補給に深刻な支障をきたし始めた 2

4月:揺らぐ忠誠、崩壊する包囲網

4月12日、今度は塩谷口から攻撃を試みた毛利元就・隆元父子の部隊もまた、尼子軍の前に敗退する 1 。度重なる攻撃の失敗と、一向に進展しない戦況は、大内軍全体の士気を著しく低下させた。

そして4月末、戦局を決定づける事態が発生する。攻城戦の長期化と大内軍の脆弱さを目の当たりにした国人衆の忠誠が、ついに限界に達したのである。かつて尼子氏を裏切って大内方についていた出雲・石見の有力国人領主、三刀屋久扶、三沢為清、本城常光、そして毛利元就が取り持った吉川興経らが、一斉に大内軍を離反し、再び尼子方へと寝返ったのだ 1 。『陰徳太平記』によれば、彼らは城を攻めるふりをして、堂々と城門を通り抜け、尼子軍に合流したと伝えられる 2 。これにより、月山富田城を幾重にも取り巻いていたはずの包囲網は、内側から完全に崩壊した。

この一連の敗北は、単一の大きな失敗によるものではなく、負の連鎖によって引き起こされた。まず、強攻策の採用という「戦略の失敗」が、攻城戦の長期化という「戦術の行き詰まり」を生んだ。それが、尼子方のゲリラ戦による補給路寸断という「兵站の危機」を深刻化させ、最終的に国人衆の離反という「政略の破綻」を招いたのである。

国人衆の寝返りは、単なる不忠や裏切り行為として片付けられるべきではない。彼らにとって、それは自らの所領と一族の存続を賭けた、極めて合理的な政治判断であった。当初、彼らはより強大な大内氏に与することで戦後の恩賞という利益を得ようとした。しかし、大内軍が月山富田城を落とせず、逆に尼子軍の反撃に自領が晒される危険が高まると、大内方でいることのリスクがリターンを上回った。彼らの離反は、大内義隆がもはや「頼るに足る盟主ではない」と見限られたことを意味しており、戦国時代の権力構造の流動性を象徴する出来事であった。

第三章:壊走 -悪夢の撤退路-

戦場において、敗北そのものよりも、いかに敗れるかが組織の命運を分ける。国人衆の離反によって戦線維持が不可能となった大内軍の撤退戦は、統制を失った大軍がいかに悲惨な末路をたどるかを示す、歴史的な教訓となった。

5月:総退撃の決断

味方であるはずの国人衆に背後から脅かされ、兵站も完全に断たれた大内軍は、敵地の奥深くで孤立し、殲滅される危機に瀕した 8 。天文12年(1543年)5月7日、大内義隆はついに全軍撤退という、屈辱以外の何物でもない決断を下す 2 。尼子軍による追撃の的を絞らせないため、各部隊は複数の経路に分かれて、我先に出雲からの脱出を開始した。

悲劇の揖屋浦:大内晴持の最期

この混乱の撤退行の中で、最大の悲劇が起こる。海路での脱出を図った大内晴持の部隊が、出雲国意宇郡の揖屋浦にたどり着いた時であった 2 。沖に待つ本船に移ろうと、将兵が小舟に殺到。定員をはるかに超えた兵士が乗り込んだため、晴持が乗る小舟はバランスを崩して転覆した 8

重い甲冑を身に着けていた晴持は、なすすべもなく水中に没し、溺死した 22 。享年20歳(一説に19歳) 23 。義隆が心血を注いで育て、大内家の未来を託したはずの後継者の、あまりにも呆気なく、そして惨めな最期であった。この報は、すでに打ちひしがれていた義隆の心を完全に折り、彼のその後の人生を決定づけることになる 2 。この混乱の中、連合軍に加わっていた安芸の有力国人、沼田小早川氏当主の小早川正平も尼子軍の伏兵に掛かって討死するなど、大内軍の損害は指導者層にまで及んだ 8

石見大江坂七曲の死闘:毛利元就、九死に一生

一方、陸路で撤退する部隊の中で、最も危険な殿(しんがり)の任を命じられたのが毛利元就の部隊であった 8 。尼子軍の追撃は熾烈を極め、元就・隆元親子の部隊は、出雲と石見の国境に位置する険しい峠道、大江坂七曲(降露坂)でついに追撃軍に捕捉された 8

敵に幾重にも包囲され、元就自身も自害を覚悟するほどの絶体絶命の窮地に陥る 2 。その時、毛利家臣・渡辺通が元就の甲冑を身にまとい、「我こそは毛利元就なり」と大音声に名乗りを上げて敵軍の真っ只中へ突撃した。通は元就の影武者となって敵兵を引きつけ、奮戦の末に壮絶な討死を遂げたのである 2 。渡辺通をはじめとする多くの家臣たちの自己犠牲によって、元就親子は辛うじてこの死地を脱し、命からがら居城・吉田郡山城へと帰り着くことができた。

この撤退戦における大内軍の損害は、単なる兵士の数以上に、質的なダメージが壊滅的であった。次代を担うべき養嗣子・晴持の死は、大内家の未来そのものを奪ったに等しい。毛利元就にとって、この敗走は死の淵を覗く恐怖体験であると同時に、最高の戦術教育の場となった。彼は、①寄せ集めの大軍の構造的脆さ、②兵站線の決定的な重要性、③そして何よりも、大内氏という巨大な権威がもはや頼るに値しないことを、その身をもって学んだ。この九死に一生の経験こそが、後の厳島の戦いにおける奇襲作戦や、第二次月山富田城の戦いにおける徹底した兵糧攻めなど、彼の慎重かつ合理的な戦略思想の根幹を形成していくことになるのである。

終章:戦いがもたらしたもの

一年四ヶ月に及んだ大内義隆の出雲遠征は、大内軍の惨めな敗走という形で幕を閉じた。この戦いの結果は、中国地方の勢力図を不可逆的に塗り替え、勝者、敗者、そして生き残った者たちの運命を大きく左右する、歴史の転換点となった。

大内氏の衰亡へ

この戦いが大内氏に与えた最大の打撃は、領土や兵士の損失以上に、当主・大内義隆の心の崩壊であった。寵愛する後継者・晴持をあまりにも無残な形で失った義隆は、政治と軍事に対する情熱を完全に喪失してしまう 2

失意の義隆は、遠征を強行した陶隆房ら武断派を国政の中枢から遠ざけ、かつて遠征に慎重論を唱えた相良武任ら文治派を重用するようになった 8 。これにより、かねてから存在した家中の対立は修復不可能なレベルにまで激化する。政治を顧みず、京から招いた公家たちと和歌や茶会に耽る義隆の姿は、武功によって立身してきた家臣団の失望を招き、文化活動に費やされる莫大な出費は領国の財政を圧迫した 9

この権威の失墜と内部対立の激化が、天文20年(1551年)、陶隆房の謀反による「大寧寺の変」へと直結する。義隆は自害に追い込まれ、西国随一の名門と謳われた戦国大名大内氏は、事実上滅亡の道をたどることになる 9

尼子氏の絶頂期へ

一方、勝者となった尼子氏は、その威光を最大限に高めた。西国最強とされた大内義隆自らが率いる大軍を撃退したことで、当主・尼子晴久の名声は天下に轟いた 2 。一度は大内氏に靡いた国人衆も、再び尼子氏の傘下へと戻り、尼子氏は失地を回復するどころか、以前にも増してその勢力を拡大させる。天文21年(1552年)には、晴久が幕府から山陰山陽八カ国の守護に任じられ、尼子氏はその歴史上、最大の版図を現出させるに至った 2 。この戦いは、尼子氏にとって最後の、そして最も輝かしい栄光の時代をもたらしたのである。

毛利氏の台頭と未来への布石

そして、この戦いにおける真の勝者は、生き残った者、毛利元就であったのかもしれない。彼は、絶体絶命の危機を乗り越える中で、大内氏という巨大な組織の限界と脆弱性を誰よりも深く見抜いた。もはや大内氏が頼るに足る盟主ではないことを悟った元就は、安芸の一国人という立場からの自立を静かに模索し始める。大寧寺の変で大内氏が自壊すると、その混乱に乗じて旧大内領を巧みに切り取り、やがては絶頂期を迎えた尼子氏とも中国地方の覇権を賭けて直接対決していくことになる。

総括:第一次月山富田城の戦いの歴史的意義

第一次月山富田城の戦いは、応仁の乱以来、約70年間にわたって続いてきた西国における「大内・尼子」という二大勢力による安定、あるいは膠着した時代を終わらせる号砲であった。この戦いを境に、大内氏は緩やかな自壊の道を歩み始め、尼子氏は最後の輝きを放った後に衰退へと向かう。そして、両者の狭間で辛酸をなめ、最も多くの戦略的教訓を学んだ毛利氏が、新たな時代の主役として台頭する。大内氏の自壊、尼子氏の落日、そして毛利氏の覚醒。この三者の運命が交錯し、決定的に分かたれたのが、この月山富田城の麓だったのである。


表2:第一次月山富田城の戦い 主要経過年表

年月日(旧暦)

主な出来事

天文11年(1542年)

1月11日

大内義隆、1万5千の兵を率いて周防山口を出陣 1

1月19日

大内軍、安芸厳島神社で戦勝祈願 2

4月

大内軍、出雲へ侵攻。赤穴城の攻撃を開始 2

6月7日~7月27日

約2ヶ月に及ぶ攻防の末、赤穴城が陥落 2

10月

大内軍、三刀屋峰に本陣を設置 2

天文12年(1543年)

2月

大内軍、月山富田城を望む京羅木山に本陣を移動 1

3月

月山富田城への総攻撃を開始。攻防戦が激化 2

4月末

三刀屋久扶、吉川興経ら国人衆が大内軍を裏切り、尼子方へ寝返る 1

5月7日

大内義隆、全軍に総退却を命令 2

5月(撤退中)

揖屋浦にて大内晴持が溺死。小早川正平も戦死 2

5月(撤退中)

石見大江坂七曲にて毛利元就が追撃を受け、渡辺通が身代わりとなり討死 2

引用文献

  1. 月山富田城の戦い - BIGLOBE http://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/ka/GassantodaJou.html
  2. 月山富田城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E5%B1%B1%E5%AF%8C%E7%94%B0%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  3. 籠城戦で敵を撃退した戦いを検証する|小和田哲男 第2回 第1次月山富田城の戦い https://shirobito.jp/article/1316
  4. 毛利元就(八) 出雲侵攻~第一次月山富田城合戦 - 日本の歴史 解説音声つき https://history.kaisetsuvoice.com/Sengoku_Mouri08.html
  5. 尼子経久は何をした人?「牢人に落ちぶれるも下克上で国を奪って謀聖と呼ばれた」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/tsunehisa-amago
  6. 毛利元就でも大内義隆でもない…難攻不落の城で5万もの大軍を撃退し8カ国を支配した西国最強の武将の名前 | PRESIDENT WOMAN Online(プレジデント ウーマン オンライン) | “女性リーダーをつくる” https://president.jp/articles/-/93732
  7. 毛利元就でも大内義隆でもない…難攻不落の城で5万もの大軍を撃退し8カ国を支配した西国最強の武将の名前 大内義隆の19歳の養子は撤退戦のパニックで無惨に溺死 - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/93530?page=1
  8. 「第一次月山富田城の戦い(1542-43年)」大内の敗北で、元就は命からがら逃げのびる https://sengoku-his.com/156
  9. 大寧寺の変 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AF%A7%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%89
  10. 月山富田城の戦い古戦場:島根県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/gassantodajo/
  11. 大内氏(山口)を迎えて 赤穴城の戦い http://www.iinan-net.jp/~karasuda117/komento/271008-akanasiro.htm
  12. 第7話 第一次月山富田城の戦い - 歴史冒険記~毛利史回顧録~(金森 怜香) - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/16816927860954817179/episodes/16816927861135753499
  13. 月山富田城の戦い、大内軍敗北の最大の要因は? | ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/yorons/242
  14. 【毛利元就解説】第十五話・月山富田城の戦い後編【豪族達と往く毛利元就の軌跡】 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=FKziOKH37X4
  15. 月山富田城跡(戦国の覇者・尼子盛衰記をめぐる) - 山陰観光 http://furusato.sanin.jp/p/area/yasugi/14/
  16. 月山富田城跡 - 概要|検索詳細|地域観光資源の多言語解説文データベース https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/R2-01643.html
  17. 月山富田城/特選 日本の城100選(全国の100名城)|ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/famous-castles100/shimane/gassantoda-jo/
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