最終更新日 2025-09-04

有子山城の戦い(1579)

天正八年、羽柴秀長は但馬国を電撃的に平定。山名祐豊が籠る有子山城は孤立し、無血開城。名門山名氏の但馬における歴史は終焉を迎え、秀吉の中国攻めにおける重要な布石となった。

天正八年 但馬有子山城の戦い ―織田信長の天下統一事業における戦略的要衝の陥落―

序章:戦いの序曲

天正八年(1580年)五月、但馬国(現在の兵庫県北部)に聳える有子山城の落城は、一地方大名の滅亡という局地的な事象に留まらない。それは、織田信長の天下統一事業が最終段階へと移行し、西国の大勢力・毛利氏との全面対決が激化する中で、戦略的に極めて重要な意味を持つ出来事であった。本報告書は、この有子山城の戦いを、当時の地政学的状況、但馬国が置かれた特殊な立場、そして城主であった名門・山名氏の苦悩という複合的な視点から詳細に分析し、その歴史的意義を明らかにすることを目的とする。

天正年間後期の政治情勢:織田信長と毛利輝元の全面対決

天正年間後期、織田信長の勢力は畿内を完全に掌握し、その目は西日本の覇者・毛利輝元へと向けられていた。天正三年(1575年)、信長によって京を追われた室町幕府第15代将軍・足利義昭を毛利氏が庇護したことにより、両者の対立は決定的なものとなる 1 。信長にとって、中国地方の平定は天下統一事業を完遂するための最重要課題であり、毛利氏との衝突はもはや不可避であった 2

この壮大な戦略の一環として、天正五年(1577年)、信長は腹心の将・羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)を総大将とする中国方面軍を編成し、播磨国へと派遣する。これが、世に言う「中国攻め」の始まりである。当初、秀吉は播磨の諸将を次々と帰順させ、順調に勢力を拡大したが、天正六年(1578年)に東播磨の雄・別所長治、そして摂津の重鎮・荒木村重が相次いで毛利方に寝返ったことで、戦局は一時頓挫する 1 。秀吉はこれらの反乱勢力の鎮圧に長期間を費やすこととなり、毛利氏との本格的な対決は先送りされた。

この戦いが起こる天正八年(1580年)という年は、織田方にとって極めて重要な転換点であった。同年一月、二年以上に及んだ三木城の兵糧攻めが遂に終結し、別所長治は自刃、播磨は再平定される 5 。これにより、秀吉は背後の脅威から完全に解放された。後顧の憂いを断った秀吉が、次なる目標として毛利氏との前線である但馬・因幡へと視線を転じるのは、軍事戦略上、必然の流れであった。有子山城の戦いは、この織田軍の中国攻めが新たなフェーズへと移行する、まさにその号砲となる戦いであった。

緩衝地帯としての但馬国:二大勢力に挟まれた国人たちの苦悩

但馬国は、東の織田勢力と西の毛利勢力という、当時の日本を二分する巨大勢力のちょうど境界線上に位置していた 2 。この地政学的な条件が、但馬を戦略的な緩衝地帯へと変え、そこに生きる国人衆に過酷な運命を強いることとなる。

当時の但馬は、守護である山名氏の統制力が弱まり、垣屋(かきや)氏、太田垣(おおたがき)氏、八木(やぎ)氏、田結庄(たいのしょう)氏といった「山名四天王」と称される有力国人衆が各地に割拠する状態にあった 1 。彼らは、二大勢力の狭間で自らの家名を存続させるため、常に苦渋の選択を迫られていた。特に、日本海沿岸部を拠点とする垣屋氏は、海運を通じて毛利氏の領国と強い経済的な結びつきを持っており、但馬国内における親毛利派の筆頭格であった 1 。こうした国人衆の動向は、但馬全体の政治情勢を大きく左右し、守護である山名氏の意思決定にも強い影響を及ぼしていた 9

織田・毛利の対立が深まるにつれ、但馬国内も織田方と毛利方に分裂し、一族同士が争うなど深刻な対立構造が生まれていた 10 。この複雑な情勢こそが、第二次但馬征伐の背景を理解する上で不可欠な要素である。

名門・山名氏の落日:当主・山名祐豊の選択と限界

この戦いで滅亡の時を迎える但馬山名氏は、室町時代には全国66ヶ国のうち11ヶ国の守護を兼ね、「六分の一殿」と称されたほどの栄華を誇った名門であった 11 。しかし、応仁の乱以降、度重なる一族の内訌や、先述の山名四天王をはじめとする有力家臣の自立によってその権力は著しく衰退し、戦国時代には但馬一国すら完全に掌握できない状態に陥っていた 13

当主の山名祐豊(やまな すけとよ)は、この没落する名門の舵取りを担うこととなった悲劇的な人物である 1 。彼の苦悩に満ちたキャリアは、永禄十二年(1569年)の羽柴秀吉による第一次但馬侵攻で頂点に達する。この時、祐豊は本拠地であった此隅山城(このすみやまじょう)をわずか2週間ほどの電撃戦で攻略され、但馬を追放されて和泉国堺へと落ち延びた 1 。しかし、生野銀山などの鉱物資源に注目していた織田信長御用達の商人・今井宗久らの斡旋により、同年冬には奇跡的に但馬への帰国を許される 1

一度は織田方に屈した祐豊であったが、天正三年(1575年)、彼は大きな賭けに出る。甥の山名豊国や重臣らの勧めを受け、毛利氏と和睦・同盟(芸但同盟)を締結し、反織田の旗幟を鮮明にしたのである 1 。この決断の背景には、織田政権が祐豊を但馬国主として正式に認めず、その地位を脅かしたことへの不満や、但馬国内に根強く存在する親毛利派の国人衆からの圧力があった 1 。特に垣屋氏のような有力家臣団の意向は、もはや守護の権威だけでは抑えきれないほど強大になっていた。祐豊の毛利方への転身は、単なる裏切りというよりも、衰退した権力基盤しか持たない旧守護大名が、自立した国人衆の意向に引きずられる形で下さざるを得なかった、苦渋の選択であったと解釈できる。

祐豊はこの決断の後、本拠を従来の此隅山城から、より堅固な山城である有子山城へと移し、来るべき織田軍の再侵攻に備えた 1 。しかし、その備えも、播磨を完全に手中に収めた秀吉の大軍の前には、あまりにも無力であった。


【表1】第二次但馬征伐 主要関連人物一覧

所属勢力

氏名

役職・立場

本合戦における役割

織田軍

羽柴 秀吉

中国方面軍 総大将

第二次但馬征伐の最高指揮官。播磨平定後、但馬への侵攻を命令。

羽柴 秀長

秀吉の弟、現地司令官

但馬侵攻軍を直接率い、諸城を攻略。温和な人柄と実務能力で戦後統治も担う。

前野 長康

秀吉配下の武将

但馬平定後、有子山城の城代に任命される。

宮部 継潤

秀吉配下の武将

但馬平定後、豊岡城主となる。後の因幡・鳥取城攻めでも活躍。

山名・毛利連合

山名 祐豊

但馬守護、有子山城主

名門山名氏の当主。織田から毛利へ転じ、有子山城に籠城するも落城。城内で病没。

山名 堯熙(氏政)

祐豊の三男

有子山城落城の際、因幡国へ脱出し、山名氏の血脈を保つ。

太田垣 輝延

山名四天王、竹田城主

但馬南部の要衝・竹田城で抵抗するも、秀長軍との激戦の末に落城。

八木 豊信

山名四天王、八木城主

秀長軍の勢いを前に、大きな抵抗なく降伏。後に因幡攻めに動員される。

垣屋 豊続

山名四天王、但馬沿岸部の領主

但馬国人中の最強硬親毛利派。最後まで抵抗を続けるが、衆寡敵せず降伏。


第一部:第二次但馬征伐 ― 秀長の電撃戦

播磨を再平定した羽柴秀吉は、休む間もなく中国攻めの次なる一手として但馬平定に着手した。この作戦の実質的な指揮を託されたのは、弟の羽柴秀長であった。秀長の率いる軍勢は、天正八年四月、あたかも堰を切ったかのように但馬国へと雪崩れ込み、わずか一ヶ月余りでその大半を制圧する。有子山城が孤立無援の籠城戦を強いられるに至った背景には、この秀長による驚くべき速度の電撃戦が存在した。

天正八年四月、侵攻開始:羽柴秀長軍の編成と進軍経路

天正八年四月、秀吉は本拠地である播磨・姫路城から、但馬・因幡方面への大々的な侵攻を開始した 8 。秀吉自身は総大将として姫路に残り、後方支援と全体の戦略指揮を担当、前線部隊の実質的な司令官として弟の羽柴秀長を送り込んだ 3

この人選は、秀吉の深謀遠慮を示すものであった。秀長は、派手な武功で知られる兄・秀吉の影に隠れがちであるが、その実、温和で人望が厚く、諸大名との折衝や領国経営に卓越した手腕を持つ、当代随一の名補佐役であった 18 。彼の冷静な判断力と着実な実行力は、数々の戦場で豊臣軍の勝利に貢献している 20 。秀吉が秀長を但馬侵攻の司令官に任命したのは、単なる武力による制圧だけでなく、但馬国人衆の切り崩しや懐柔といった調略をも視野に入れた、極めて合理的な判断であったと言える。

秀長率いる織田軍の進軍経路は、まず播磨から但馬への玄関口にあたる生野越え(現在の国道312号線、通称「銀の馬車道」ルート)であったと推定される。このルートは、但馬の経済の心臓部である生野銀山を直接脅かすものであり、続く岩洲城、竹田城への攻撃順序からも、最も蓋然性の高い進路と考えられる。

前哨戦の展開:但馬国人衆の瓦解

秀長軍の侵攻は、まさに破竹の勢いであった。但馬各地の城砦は、織田軍の圧倒的な物量と巧みな戦術の前に、次々と陥落、あるいは降伏していった。

岩洲城・竹田城の攻防(但馬南部の制圧)

秀長軍が最初に目標としたのは、織田・毛利双方にとって経済的に極めて重要な価値を持つ生野銀山とその周辺の防御拠点であった 22 。銀山を確保することは、自軍の軍資金を潤し、同時に敵の経済力を奪うという二重の戦略的意味を持っていた。秀長はまず銀山近郊の岩洲城を攻撃、これを陥落させると、すぐさま但馬南部の最重要拠点である竹田城へと軍を進めた 22

竹田城を守るのは、山名四天王の一角、太田垣輝延であった。標高353メートルの古城山山頂に築かれたこの城は、天然の要害であり、容易に攻め落とせる相手ではなかった 24 。『武功夜話』によれば、太田垣勢は高所の利を活かして岩石を投げ落とすなど激しく抵抗し、三日間にわたる激戦が繰り広げられたという 25 。しかし、秀長軍は鉄砲三百挺を揃えて猛攻を加え、遂に太田垣輝延を降伏させた 25 。この竹田城の陥落は、但馬の他の国人衆に織田軍の強大さを強烈に印象付け、彼らの戦意を大きく削ぐ効果をもたらした。

八木城の無血開城(但馬中部の帰順)

竹田城での激戦の報は、瞬く間に但馬中部へと伝わった。養父郡の要衝・八木城を守る山名四天王・八木豊信は、織田軍の勢いを前にして、無益な抵抗は不可能と判断した。史料には、八木豊信が秀長に降伏したと簡潔に記されており、大きな戦闘があった形跡は見られない 28

これは、竹田城の陥落という先行事例が、八木豊信に与えた心理的影響がいかに大きかったかを示している。抵抗すれば竹田城のように徹底的に攻め滅ぼされるが、早期に降伏すれば家名の存続は可能かもしれない。秀長の軍事行動と並行して進められたであろう降伏勧告や調略が、この無血開城に結びついた可能性は高い。この結果、秀長軍は兵力の損耗を最小限に抑えつつ、進軍速度を維持することに成功したのである。

垣屋氏の抵抗と鎮圧(但馬沿岸部の平定)

但馬国人衆の中で、最後まで織田への抵抗を続けたのが、最強硬の親毛利派であった垣屋豊続である 8 。日本海沿岸の気多郡、美含郡などを拠点とする垣屋氏は、毛利氏との経済的・軍事的な結びつきが最も強く、彼らにとって織田への降伏は許容しがたい選択であった。

豊続は、気多郡の水生山城(みずうやまじょう)などに籠城し、織田軍を迎え撃った 10 。しかし、但馬の大部分がすでに織田の軍門に降った状況では、もはや衆寡敵せず、奮戦も空しく、ほどなくして降伏を余儀なくされた 8 。垣屋氏の鎮圧は、但馬平定の総仕上げであった。これにより、毛利氏が日本海側から舟を使って但馬へ援軍や兵糧を送り込む可能性は完全に断たれ、但馬の盟主・山名祐豊が籠る有子山城は、戦略的に完全な孤立状態に陥ったのである。

秀長の但馬平定は、単なる軍事作戦に留まらなかった。まず経済的要衝(生野銀山)を確保し、次に戦略的拠点(竹田城)を武力で制圧して見せしめとし、その心理的効果を利用して周辺勢力(八木氏)を無血で帰順させ、最後に残った抵抗勢力(垣屋氏)を掃討する。この一連の流れは、武力、経済、そして心理を巧みに組み合わせた、極めて合理的かつ効率的な軍事キャンペーンであった。


【表2】第二次但馬征伐 タイムライン(天正8年4月~5月)

時期(推定)

場所(城名など)

出来事

関連人物

天正8年(1580年)4月上旬

播磨国 姫路城

羽柴秀吉、但馬・因幡方面への侵攻を命令。羽柴秀長が軍を率いて出陣。

羽柴秀吉、羽柴秀長

4月中旬

但馬国 朝来郡

秀長軍、生野越えで但馬入り。生野銀山を制圧。

羽柴秀長

岩洲城を攻撃、陥落させる。

羽柴秀長

4月下旬

但馬国 朝来郡 竹田城

秀長軍、竹田城を包囲。3日間の激戦の末、城主・太田垣輝延が降伏。

羽柴秀長、太田垣輝延

5月上旬

但馬国 養父郡 八木城

竹田城落城の報を受け、城主・八木豊信が秀長に降伏。

羽柴秀長、八木豊信

5月上旬~中旬

但馬国 気多郡・美含郡

垣屋豊続が水生山城などで抵抗するも、秀長軍に鎮圧され降伏。

羽柴秀長、垣屋豊続

5月中旬

但馬国 出石郡 有子山城

但馬国内の抵抗勢力はすべて平定され、秀長軍が出石に集結。有子山城を完全に包囲。

羽柴秀長、山名祐豊

5月16日

但馬国 出石郡 有子山城

有子山城、落城(開城)。

羽柴秀長、山名祐豊


第二部:有子山城の攻防 ― 名門の終焉

但馬国内の抵抗勢力が一掃され、有子山城は風前の灯火となった。周囲を秀長の大軍に埋め尽くされ、外部からの救援も絶望的な状況下で、老将・山名祐豊と城兵たちはいかにして最後の時を迎えたのか。史料に乏しいこの籠城戦の実態は、城の堅固な構造分析と、断片的な記録、そして当時の軍事的合理性から再構築することで、その輪郭が浮かび上がってくる。それは、壮絶な白兵戦というよりも、戦略的に追い詰められた末の、静かなる終焉であった。

要害・有子山城の構造分析

山名祐豊が最後の拠点として選んだ有子山城は、標高321メートルの峻険な山頂に築かれた、当代最新鋭の防御思想を体現した山城であった 32 。永禄十二年(1569年)に比較的容易に落とされた旧来の本拠・此隅山城の教訓から、天正二年(1574年)頃に築城が開始されたこの城は、明確に対・織田軍を想定した堅固な要塞であったと考えられる 1

その最大の特徴は、麓の居館(平時の政務・生活空間。後の出石城の中核)と、山頂の詰城(有事の際の最終防御拠点)が一体となった二元構造にある 33 。この構造により、平時と有事の機能を分離しつつ、段階的な防御を可能にしていた。

詰城の防御施設は、鉄砲戦が主流となった戦国末期の城郭の特徴を色濃く反映している。

  • 壮大な石垣 : 城の中枢部である本丸や主要な曲輪は、自然石を巧みに組み上げた「野面積み」の石垣で固められていた 36 。特に、石垣の隅角部を鈍角に仕上げる「シノギ積み」という技法が用いられており、これは中世から近世へと移行する過渡期の城郭に見られる特徴である 37
  • 連郭式の縄張り : 本丸を中心に、西の尾根には第二から第六までの曲輪が階段状に連なり、東南には「千畳敷」と呼ばれる広大な曲輪が配置されていた 34 。この連郭式の縄張りは、敵が一段を突破しても、次々と現れる曲輪で迎撃できる多重防御システムを形成していた。
  • 堀切と竪堀 : 敵の進軍経路となる尾根筋は、巨大な「大堀切」によって寸断されていた 34 。これは山城で最大級とも言われる規模を誇り、敵兵の突撃を物理的に阻止する。さらに、山の斜面には無数の「竪堀」が掘られ、敵兵が斜面を横移動することを困難にし、攻撃経路を限定する役割を果たした 37
  • 急峻な登城路 : 城へと至る道は極めて険しく、現代の整備された登山道ですら踏破には相当の体力を要する 32 。当時の大手道はさらに厳重な防御が施されていたと考えられ、城の堅固さは、こうした自然地形の巧みな利用によって一層高められていた。

このように、有子山城は個々の防御力だけを見れば、まさに難攻不落の要害であった。しかし、いかに堅固な城であっても、戦略的に孤立してしまえば、その価値は半減してしまう。

包囲網の完成(天正八年五月上旬~中旬):城の孤立と城内の絶望

五月中旬、但馬全域を平定した羽柴秀長軍は、出石盆地へと集結し、有子山城を幾重にも取り囲んだ。城内から見下ろす麓には、一万とも言われる織田軍の旗指物が埋め尽くし、夜には無数の篝火が煌々と燃え盛っていたであろう。

この時点で、城内の兵士たちの士気は著しく低下していたと推察される。頼みとしていた但馬国人衆は、ことごとく降伏または討伐され、毛利からの援軍(後詰)が来る望みは完全に絶たれていた 42 。城主の山名祐豊は70歳の老齢であり、度重なる敗戦と心労は、その気力と体力を蝕んでいたに違いない 1 。兵糧の備蓄は一定期間あったかもしれないが、希望のない籠城は、兵士たちの心を内側から崩壊させていく。有子山城は、物理的な攻撃を受ける前に、すでに心理的に追い詰められていたのである。

落城へのカウントダウン(推定される戦闘経過)

有子山城の具体的な戦闘経過を記した一次史料は乏しい。しかし、羽柴兄弟の戦術的特徴と、山名氏の系図に残されたわずかな記述を手がかりに、落城に至るまでの数日間を再構成することは可能である。

  • 【開戦~5月15日頃】 心理戦と限定的攻撃
    秀吉・秀長兄弟は、三木城や後の鳥取城で見せたように、味方の損害を最小限に抑える兵糧攻めや包囲戦を得意とした 43。難攻不落の有子山城に対し、多大な犠牲を払って力攻めを敢行するメリットは皆無である。したがって、秀長は本格的な総攻撃を避け、心理的圧力によって城方を屈服させる戦術を採ったと考えられる。

    包囲軍は、城の周囲に付城(包囲用の砦)を築き、昼夜を問わず鬨の声を上げ、鉄砲を撃ちかけるなどして城兵を疲弊させたであろう。時折、麓の曲輪へ威力偵察を仕掛け、城方の防衛体制を探ったかもしれない。これに対し、城方は高所から投石や弓矢で応戦し、必死の抵抗を試みたと思われる 25。しかし、それは終わりなき消耗戦の序章に過ぎなかった。
  • 【5月15日夜~16日未明】 最後の交渉と血脈の維持
    落城がもはや時間の問題となったこの段階で、城方から織田方の陣へ、降伏交渉の使者が送られた可能性が極めて高い。その交渉の存在を強く示唆するのが、山名氏の系図に残る「五月十六日、氏政(堯熙)因州へ出奔」という記録である 1。

    これは、山名祐豊が降伏の条件として、せめて嫡流の血筋だけは絶やさぬよう、三男・堯熙(ぎょうき、別名:氏政)の城外への脱出を願い出て、秀長がこれを認めた結果と解釈するのが最も合理的である。名門山名氏の嫡流を助命することは、秀長にとっても、今後の但馬統治や他の国人衆への懐柔策において、無用の反感を買わないための政治的配慮となり得た。5月15日の夜、堯熙は少数の供回りと共に、夜陰に紛れて包囲網の一角を突破し、毛利方の勢力が残る隣国・因幡へと決死の脱出を図ったのであろう。
  • 【5月16日】 有子山城、開城
    堯熙の脱出を見届けた後、有子山城は織田軍に明け渡された。城兵の助命などを条件に、城門は静かに開かれた。「落城」という言葉が喚起する壮絶な玉砕や炎上といったイメージとは異なり、有子山城の最期は、交渉による無血開城であった可能性が高い。軍事力だけでなく、政治力、経済力、情報戦の全てを含む総力戦において、有子山城は物理的に破壊される前に、すでに戦略的に敗北していたのである。
  • 【5月21日】 老将・山名祐豊の最期
    開城からわずか5日後の5月21日、山名祐豊は城内で静かに息を引き取った 1。死因は病死と伝えられている。長年の心労、敗戦の屈辱、そして自らの代で数百年続いた但馬山名氏の支配を終わらせてしまったという失意が、老将の生命力を尽きさせたのであろう。名門・山名氏の但馬における歴史は、当主の静かな死によって、その幕を閉じた。

【表3】有子山城の主要な防御施設

施設の名称

構造的特徴

防御上の役割

本丸・階段状曲輪群

標高321mの山頂に本丸を置き、西の尾根筋に第二~第六曲輪を階段状に配置。主要部は野面積みの石垣で固められている。

敵は下から上へと、複数の防御区画を連続して攻略する必要がある。各曲輪から連携して迎撃が可能であり、多重防御を形成する。

千畳敷

本丸の東南に位置する広大な平坦地。周囲は土塁や石垣で囲まれていたと推定される。

大規模な兵力を駐屯させる兵站・防衛拠点。本丸とは独立した防御区画として機能し、城の防御に奥行きを与える。

大堀切

本丸と千畳敷の間の尾根を完全に断ち切る、巨大なV字型の空堀。

尾根伝いに進軍してくる敵の突撃を物理的に阻止し、進路を限定する。山城における最大級の防御施設の一つ。

シノギ積みの石垣

石垣の隅角部を刃物のように鋭角ではなく、鈍角に仕上げる技法。

隅角部の強度を高め、敵兵が取り付きにくくする効果がある。織豊期の城郭に見られる先進的な石垣技術。

竪堀・横堀

城の斜面に縦横に掘られた空堀。

竪堀は斜面を登る敵の横移動を妨げ、兵力を分断する。横堀は斜面を登る敵の足場を奪い、上からの攻撃を容易にする。


第三部:戦後の新秩序と歴史的意義

有子山城の陥落は、単に一つの城が落ちたという以上の意味を持っていた。それは、但馬国における中世以来の支配体制の終焉と、織田・豊臣政権による中央集権的な新秩序の始まりを告げる画期的な出来事であった。この戦いは、但馬国の運命を変え、関係者たちのその後の人生を大きく左右し、そして秀吉の中国攻め全体の戦略にも決定的な影響を与えたのである。

但馬国の平定と戦後統治

有子山城の開城をもって、但馬国は完全に織田方の支配下に入った。秀吉は、この新たな領国の統治体制を迅速に構築した。

  • 羽柴秀長による統治体制の構築:
    但馬国の統治責任者には、征伐を成功させた弟の羽柴秀長が任命された。秀長は播磨守護も兼任し、姫路城を拠点としながら広域の采配を振るった 3。これは、播磨と但馬を一体の戦略地域として捉え、来るべき因幡・伯耆侵攻の拠点とするための布石であった。

    但馬国内の主要な城には、秀吉子飼いの信頼できる家臣が城代として配置された。陥落した有子山城には前野長康が、豊岡城には宮部継潤が入るなど、旧来の国人領主を排除し、豊臣政権による直接支配体制が確立された 6。秀長は、後に大和国で示すように、検地の実施や商工業の保護といった先進的な領国経営を行い、地域の安定化に努めたと考えられる 19。
  • 降伏した国人衆の処遇:
    秀長に降伏した太田垣氏、八木氏、垣屋氏といった但馬国人衆は、命こそ助けられたものの、先祖伝来の所領はすべて没収された 8。そして彼らは、休む間もなく次の攻略目標である因幡攻めの先鋒部隊として動員された 50。

    この処遇は、秀吉の巧みな支配術を如実に示している。まず、国人衆をその土地から切り離すことで、在地領主としての権力基盤を完全に破壊する。次に、彼らを豊臣軍の一部隊として組み込み、新たな主君(秀吉)への忠誠を強制する。そして、最も危険な最前線に投入することで、彼らの軍事力を消耗させつつ、反乱の芽を未然に摘み取る。このプロセスを通じて、かつて但馬に割拠した独立領主たちは、豊臣政権という巨大な軍事・政治機構を構成する「部品」へと転換させられていった。これは、戦国時代の終焉と近世大名制への移行を象徴する動きであった。

関係者たちのその後

有子山城の戦いは、関わった人々の運命を大きく分けた。

  • 滅亡した但馬山名氏:
    城内で病死した山名祐豊と共に、但馬守護としての山名氏の歴史は幕を閉じた。因幡へ脱出した三男・堯熙(氏政)は、後に秀吉に仕えることを許されたものの、かつての栄光を取り戻すことはなかった 51。その子・堯政は豊臣秀頼に仕え、大坂夏の陣で豊臣家に殉じている 46。大名としての但馬山名氏は、ここに完全に滅亡した。
  • 生き残った因幡山名氏:
    対照的に、祐豊の甥にあたる因幡の山名豊国は、巧みな処世術で家名を存続させることに成功した。彼は但馬の祐豊とは一線を画し、家臣の反対を押し切って単身で秀吉に降伏 52。一時的に所領を失うも、その後の時流を巧みに読み、関ヶ原の戦いでは東軍(徳川家康方)に味方した 52。これにより、但馬国内に新たな所領を与えられ、江戸時代を通じて交代寄合という高い格式の旗本として家名を後世に伝えた 51。但馬山名氏の滅亡と因幡山名氏の存続という対照的な結末は、戦国乱世を生き抜くために必要なものが、もはや伝統や家格といった旧来の価値観ではなく、時流を見極める政治的判断力と柔軟性へと変化したことを明確に示している。
  • 天下取りの道を歩む羽柴兄弟:
    但馬平定という功績は、秀吉の天下取りの道における重要な一里塚となった。そして、この作戦を成功させた弟・秀長の名声もまた、大いに高まった。秀長はその後も四国征伐などで総大将を務めて功を挙げ、最終的には大和・和泉・紀伊にまたがる百万石の大大名となり、「大和大納言」と称されるに至る 19。彼の存在は、秀吉の独断専行を諫めることができる数少ない重石として、豊臣政権の安定に不可欠な役割を果たした 19。

結論:有子山城陥落が意味するもの

有子山城の戦いは、日本の歴史の大きな転換点において、いくつかの重要な戦略的意義を持っていた。

第一に、 織田氏による山陰道確保の決定打 となった点である。これより先、丹波は明智光秀、丹後は細川藤孝によって平定されていた 4 。今回の但馬平定により、山陰道における反織田勢力は一掃され、毛利氏が山陰側から畿内へ東進するルートは完全に遮断された。これにより、秀吉は背後(北側)の安全を確保し、山陽道方面での毛利主力軍との対決に全戦力を集中させることが可能となった。

第二に、 秀吉の中国攻めにおける兵站線と後方基地の確立 である。但馬は、次なる主戦場となる因幡・伯耆への最も重要な前線基地となった 54 。実際に、この翌年の天正九年(1581年)に行われる、戦国史上最も悲惨な籠城戦として知られる「鳥取城の渇え殺し」は、但馬を兵站拠点として利用できたからこそ可能となった作戦であった。有子山城の陥落なくして、鳥取城の攻略はあり得なかったと言っても過言ではない。

そして最後に、この戦いは 中世的権威の終焉を象徴する出来事 であった。南北朝時代から約200年間にわたり但馬国に君臨してきた名門守護・山名氏の支配は、ここに完全に終焉を迎えた 15 。それに代わって、織田・豊臣政権による中央集権的な支配体制が確立された。有子山城の戦いは、中世という時代が終わり、近世という新たな時代が始まる、その大きな歴史のうねりの中で起きた、画期的な戦いであったと結論付けられる。

引用文献

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