木幡山城の戦い(1582)
「木幡山城の戦い」は誤称で、実際は天正十年「山崎の戦い」。本能寺の変後、秀吉が光秀を破り天下人への道を拓いた。光秀は小栗栖で最期を遂げ、この戦いが日本の歴史を大きく変えた。
天正十年、山城国南部の決戦:本能寺後の畿内再編と「山崎の戦い」の全貌
序章:歴史的文脈の整理 — 「木幡山城の戦い」という名称について
ご依頼いただいた天正10年(1582年)の「木幡山城の戦い」について、まず歴史的考証から始める必要があります。結論から申し上げると、 1582年の時点では木幡山(こはたやま)に城郭は存在しておらず、この名称の合戦は記録されておりません 。
木幡山に城が築かれるのは、それから十数年後のことです。豊臣秀吉が当初、指月(しげつ)の丘に築いた伏見城(指月城)が、文禄5年(1596年)の慶長伏見地震によって倒壊しました。その再建地として選ばれたのが、北東に位置する木幡山であり、ここに壮麗な伏見城(木幡山城)が築城されたのです 1 。この城で秀吉は最期の時を迎え、後に関ヶ原の戦いの前哨戦の舞台となるなど、歴史上重要な役割を果たしますが、それは1582年よりも後の時代の出来事です 3 。
しかしながら、ご依頼の「1582年」「本能寺後の畿内再編」「山城南部を確保」という三つのキーワードは、戦国時代の流れを決定づけた、極めて重要な一つの合戦を明確に指し示しています。それが、天正10年6月13日に行われた**「山崎の戦い(天王山の戦い)」**です 6 。この戦いは、本能寺の変で織田信長を討った明智光秀と、主君の仇討ちを掲げて中国地方から驚異的な速さで引き返してきた羽柴秀吉が、畿内の覇権を賭けて激突した決戦でした。その戦場はまさに山城国南部、現在の京都府乙訓郡大山崎町一帯です。
さらに注目すべきは、この山崎の戦いで敗走した明智光秀が最期を遂げた地が、現在の京都市伏見区小栗栖(おぐるす)であるという点です 8 。この小栗栖は、後に木幡山城が築かれる場所と地理的に非常に近い位置にあります。後世の人々が、この伏見という地域で起こった二つの大きな歴史的事件—光秀の死と秀吉の城—を記憶の中で結びつけ、結果として「木幡山城の戦い」という呼称が生まれた可能性が考えられます。これは、地域の象徴的なランドマーク(木幡山城)が、その周辺で起きた重要な歴史的事件(光秀の最期)の記憶を吸収し、再構築された結果と推察されます。
以上の分析に基づき、本報告書はご依頼の真意を汲み取り、1582年の畿内再編を決定づけた「山崎の戦い」、およびその後の「明智光秀追撃戦」を主題とし、合戦の状況がリアルタイムで理解できるよう、徹底的かつ時系列に沿って詳述いたします。
第一章:本能寺の変と畿内の激動 — 山崎への道(天正十年六月二日~十二日)
本能寺の変勃発と光秀の構想
天正10年6月2日早朝、京都本能寺に滞在していた織田信長は、家臣である明智光秀の謀反によってその生涯を閉じました。二条新御所にいた嫡男・信忠もまた、奮戦の末に自刃し、織田政権は突如としてその頂点を失います 10 。
この報は瞬く間に畿内を駆け巡り、激しい動揺を引き起こしました。光秀は変後、迅速に行動します。安土城を接収して織田家の財宝を掌握し、朝廷に働きかけて勅使を迎えるなど、新政権の正統性を確立しようと努めました 12 。さらに、山崎片家や斎藤利三を近江に派遣し、城主不在となっていた佐和山城や長浜城を速やかに占領させ、畿内およびその周辺地域の制圧を急ぎます 13 。
光秀の戦略は、織田家の有力宿老たちが遠方に釘付けになっている時間的猶予を最大限に活用することにありました。北陸方面軍を率いる柴田勝家は越中で上杉景勝と、中国方面軍を率いる羽柴秀吉は備中で毛利輝元と、それぞれ対峙しており、すぐには動けないと踏んでいたのです 12 。この間に畿内を完全に固め、他の勢力を個別に撃破する。それが光秀の描いた青写真でした。
羽柴秀吉の神速 — 「中国大返し」
しかし、光秀の構想は、備中高松城で水攻めの最中にあった羽柴秀吉の常識を超えた行動によって、根底から覆されます。
信長横死の報が秀吉の陣に届いたのは、6月3日夜から4日未明にかけてのことでした 7 。一説には、毛利方の使僧・安国寺恵瓊を通じて講和交渉を進める中で、秀吉側が先に情報を掴んだとも言われます。この絶体絶命の危機に際し、軍師・黒田官兵衛は秀吉に「御運が開けましたな。天下をお取りなされませ」と進言したと伝えられています。秀吉はこの千載一遇の好機を逃しませんでした。
直ちに毛利方との和睦交渉を妥結させます。信長の死を徹底的に秘匿したまま、備中・備後・美作の三国の割譲と、高松城主・清水宗治の切腹を条件に講和を成立させました 15 。6月4日、秀吉は宗治の壮絶な自刃を見届けると、翌5日から6日にかけて全軍の撤退を開始します 7 。
ここから、「中国大返し」として後世に語り継がれる驚異的な強行軍が始まりました。備中高松城から京の入り口である山崎までの約200kmの道のりを、2万を超える大軍が、折からの暴風雨の中、昼夜を問わず駆け抜けたのです 15 。兵糧や資金の事前準備、街道沿いの豪族への協力要請など、秀吉の周到な手配がこの神速の軍事行動を可能にしました。
決戦前夜の駆け引き
秀吉が畿内に迫っているという報は、6月10日頃には光秀の耳にも届いていました 15 。光秀の計算は大きく狂い始めます。彼は味方として期待していた勢力からの援軍を得られずにいました。特に、盟友と頼んでいた大和の筒井順慶は、光秀からの再三の出兵要請に対し、居城の郡山城で籠城の準備を進めるばかりで、旗幟を鮮明にしませんでした 17 。光秀自らが出向き、両軍の境界である洞ヶ峠で順慶を待ったものの、ついに順慶は現れなかったという逸話は、光秀の政治的孤立を象徴しています 17 。
光秀が「主君殺し」という拭い去れない汚名を背負っていたのに対し、秀吉は「主君の仇討ち」という、誰もが反論できない絶対的な大義名分を掲げていました。この差は、旧織田家臣団の動向に決定的な影響を与えます。秀吉が摂津国に到着すると、高槻城主・高山右近、茨木城主・中川清秀、そして織田信長譜代の重臣・池田恒興らが次々と秀吉軍に合流しました 19 。さらに6月13日には、大坂にいた信長の三男・織田信孝と宿老の丹羽長秀も軍勢を率いて合流し、秀吉軍の総兵力は約4万にまで膨れ上がります 19 。
この時点で、光秀軍の約1万6千に対し、秀吉軍は倍以上の兵力を擁することとなり、戦いの趨勢は戦闘開始前にして、すでに大きく秀吉側に傾いていたのです。
第二章:天正十年六月十三日、山崎 — 運命の一日
両軍の布陣と対峙(午後四時以前)
天正10年6月13日、降りしきる雨が戦場の視界を煙らせる中、両軍は京都の南西、摂津国と山城国の国境に位置する山崎の地で対峙しました。この地は、天王山と淀川(当時は巨大な巨椋池を含む湿地帯)に挟まれた狭隘な地形で、古来より交通の要衝でした 16 。
羽柴軍 は、その数的優位と地形を最大限に活かす布陣を敷きました。まず、この戦いの勝敗を左右する戦略的要衝である天王山に中川清秀の部隊を配置し、戦場全体を俯瞰できる高所を確保します 21 。山麓の西国街道沿いには黒田官兵衛、羽柴秀長らを配置。中央の街道筋には高山右近隊、そして淀川側の右翼には池田恒興・元助父子の精鋭部隊を展開させました。総大将である秀吉自身は、後方の宝積寺に本陣を構え、全軍を指揮下に置き、戦況の変化に即応できる態勢を整えました 15 。
対する 明智軍 は、兵力で劣るため、この隘路という地形を利した防御戦術を選択しました 15 。自然の堀ともいえる円明寺川(現在の小泉川)を防衛線とし、その後方に部隊を配置。中央には明智家の双璧とされた斎藤利三と、近江衆を率いる阿閉貞征。右翼(天王山側)には、旧幕臣で文武に優れた伊勢貞興、諏訪盛直、御牧景重ら。左翼(淀川側)には津田信春らを布陣させます。光秀の本陣は、後方の小高い丘である御坊塚(境野古墳群)に置かれました 13 。光秀の狙いは、縦長の陣形で攻め寄せるであろう秀吉軍の先鋒をこの防衛線で食い止め、各個に撃破することにありました。
【表1:山崎の戦いにおける両軍の布陣(推定)】 |
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軍 |
総兵力 |
本陣 |
部隊(翼) |
主要武将 |
配置場所 |
羽柴軍 |
約40,000 |
宝積寺 |
天王山隊 |
中川清秀、黒田官兵衛、羽柴秀長 |
天王山および山麓 |
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中央隊 |
高山右近 |
西国街道沿い |
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右翼隊 |
池田恒興、池田元助、加藤光泰 |
淀川沿い |
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後詰・本隊 |
羽柴秀吉、織田信孝、丹羽長秀 |
宝積寺後方 |
明智軍 |
約16,000 |
御坊塚 |
右翼隊 |
伊勢貞興、諏訪盛直、御牧景重 |
円明寺川右岸(天王山側) |
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中央隊 |
斎藤利三、阿閉貞征 |
円明寺川右岸(中央) |
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左翼隊 |
津田信春、並河易家 |
円明寺川右岸(淀川側) |
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本隊 |
明智光秀 |
御坊塚 |
午後四時頃:戦端、開かる — 伊勢貞興隊、中川清秀隊に突撃
午後4時頃、膠着状態は突如として破られます。羽柴軍の天王山隊に属する中川清秀隊が、高山右近隊の左翼に移動し、陣形を整えようと動いた瞬間でした。この動きを、対峙する明智軍右翼の将・伊勢貞興は見逃しませんでした 17 。
伊勢貞興は、室町幕府の政所執事を世襲した名門・伊勢氏の出身であり、武家の故実に通じた教養人であると同時に、斎藤利三と並び称されるほどの戦巧者でした 26 。彼は敵の陣形が整う前のわずかな隙を、千載一遇の好機と判断します。貞興は麾下の精鋭を率いて円明寺川を渡り、中川隊に猛然と襲いかかりました。これに呼応して、中央の斎藤利三隊も高山右近隊に攻撃を開始。ここに、天下の趨勢を決する戦いの火蓋が切られたのです 15 。
中央での激戦と天王山を巡る攻防
伊勢・斎藤両隊の猛攻は凄まじく、不意を突かれた羽柴軍の中川・高山隊は一時混乱し、後退を余儀なくされるほどの苦戦に陥りました 15 。しかし、秀吉はすぐさま後詰として堀秀政の部隊を投入。この援軍の到着により、中川・高山隊はかろうじて戦線を維持し、持ちこたえることに成功します 15 。
時を同じくして、天王山の支配を巡る攻防も激化していました。明智軍の松田政近、並河易家の部隊が天王山を奪取すべく山を駆け上がりますが、これを予期していた黒田官兵衛・羽柴秀長の部隊がこれを迎撃。山麓では両軍が入り乱れ、一進一退の激しい白兵戦が繰り広げられました 11 。
午後五時頃:池田隊の奇襲と戦局の転換
中央での戦闘が膠着する中、戦局を大きく動かしたのは、秀吉が最も信頼を寄せる部隊の一つ、池田恒興・元助父子が率いる右翼隊でした。彼らは、敵の注意が中央と天王山に集中している隙に、淀川沿いの葦の生い茂る湿地帯を密かに迂回し、円明寺川を渡ります。そして、手薄となっていた明智軍左翼の津田信春隊の側面に、全く予期せぬ方向から奇襲をかけたのです 11 。
この奇襲は完璧に成功しました。津田隊は在地領主たちの寄せ集めで構成されており、もともと士気や結束力に欠けていました 11 。三方から攻め立てられた津田隊はなすすべもなく混乱し、瞬く間に総崩れとなって敗走を始めます。
午後六時頃:明智軍の総崩れと伊勢貞興の討死
左翼の一角が崩れた影響は、ドミノ倒しのように明智軍全体へと波及しました。池田隊の突破口から、丹羽長秀・織田信孝の軍勢が雪崩を打って攻め込み、明智軍本隊の側面を直接脅かします 17 。
この動きに呼応し、これまで苦戦していた中央の中川・高山隊も勢いを盛り返し、猛然と反撃に転じました。斎藤・伊勢隊は、正面と側面からの挟撃を受ける形となり、ついに押し返され始めます 17 。
光秀の描いた防衛線は、秀吉の立体的かつ柔軟な戦術の前に完全に破綻しました。天王山という「高さ」を抑えられ、湿地帯の迂回という「意表」を突かれたことで、光秀の二次元的な防衛構想は無力化したのです。全戦線で劣勢となった明智軍は、もはや統制を失い、全面的な総崩れとなりました。この大混乱の乱戦の中、開戦の口火を切った勇将・伊勢貞興も、衆寡敵せず、奮戦の末に討死を遂げました 17 。また、御牧兼顕らは光秀を逃がすための殿(しんがり)となって羽柴軍の追撃を食い止め、壮絶な最期を遂げました 17 。
第三章:敗走と追撃 — 光秀、最後の刻(六月十三日夜)
勝龍寺城への退却と籠城の断念
戦線が崩壊し、自軍の敗北を悟った明智光秀は、ごく僅かな側近と共に戦場を離脱し、後方に控えていた勝龍寺城へと退却します 17 。しかし、一度崩れた軍の立て直しは不可能でした。兵士たちの士気は地に落ち、敗走の過程でその多くが逃亡し、光秀に従う者は激減していました 11 。
勝龍寺城にたどり着いたものの、4万という羽柴軍の大軍に包囲されては、籠城しても数日と持ちこたえられないことは明らかでした。光秀は籠城を断念し、その日の夜半、最後の望みをかけて城を脱出します。目指すは、自らの本拠地である近江・坂本城。そこで態勢を立て直し、再起を図るという、もはや絶望的ともいえる決断でした 11 。
ほんの数時間前まで天下人として君臨していた人物が、一戦に敗れただけで、誰からも見捨てられる「落ち武者」へと転落する。戦国時代の権力がいかに実力に裏打ちされた脆いものであったかを、光秀の敗走は物語っています。彼の権力基盤は、信長打倒という衝撃の上に成り立った一時的なものであり、秀吉というより強大な実力者の登場によって、砂上の楼閣の如く崩れ去ったのです。
第四章:小栗栖の悲劇 — 落ち武者狩りと光秀の最期(六月十三日深夜)
最後の逃避行ルート
勝龍寺城を脱出した光秀一行は、闇に紛れて東へと向かいました。その正確なルートには諸説ありますが、淀から鳥羽街道を経て、山科を抜け近江へ至る近道であった「明智越え」と呼ばれる間道(現在の伏見区深草大亀谷から小栗栖へ抜ける道)に入ったと推測されています 29 。京の市街地を避け、追手の目をくらますための必死の逃避行でした 31 。
「明智藪」での最期
しかし、運命は光秀に味方しませんでした。一行が現在の京都市伏見区小栗栖の竹藪に差し掛かった時、闇の中から現れた者たちの襲撃を受けます 7 。この場所は、後に「明智藪」として知られることになります 9 。
襲撃者の正体については、二つの説が伝わっています。一つは、戦乱の際に敗残兵を襲って武具や金品を奪う、当時しばしば見られた武装した農民による「落ち武者狩り」であったとする説 8 。もう一つは、この地を拠点としていた在地武士団の飯田一党が、信長の近臣であったことから、主君の仇である光秀を討つべく待ち伏せていたという伝承です 31 。
いずれにせよ、この襲撃で光秀は竹槍によって脇腹を深く貫かれるという致命傷を負いました。もはやこれまでと自らの死を悟った光秀は、側近であった溝尾庄兵衛に介錯を命じ、自刃して果てたと伝えられています 36 。享年55(諸説あり)。本能寺の変から、わずか11日後の出来事でした。
光秀の最期は、戦国時代の秩序と混沌の二面性を象徴しています。彼は天下統一という新たな「秩序」の構築を目指しましたが、その野望は、名もなき農民や在地武士といった、戦乱が生み出した「混沌」の力によって打ち砕かれました。これは、大名たちが繰り広げるマクロな歴史の裏で、民衆レベルのミクロな生存闘争が常に存在していたことを示しています。
首と胴の行方
光秀の首は、敵に渡ることを防ぐため、溝尾庄兵衛によって持ち去られました。しかし、追手に阻まれ、知恩院近くの地に埋められたとされます。後に秀吉軍によって発見され、京都の本能寺跡や粟田口で晒し首にされました 28 。一方、胴体はその場に埋められ、後に光秀を哀れんだ地元の人々によって塚が築かれたと伝えられています。現在も、小栗栖には「明智光秀胴塚」が、東山区の白川沿いには「明智光秀首塚」とされるものが、ひっそりと残されています 34 。
第五章:戦後の畿内 — 羽柴秀吉による再編と新秩序の胎動
残党勢力の掃討と平定事業
山崎での軍事的勝利を収めた秀吉の行動は、迅速かつ徹底的でした。彼は、勝利を政治的権威へと転換させるための戦後処理に間髪入れずに着手します。
光秀の死の報を受けると、すぐさま中川清秀・高山右近らに命じ、光秀の居城であった丹波亀山城を攻撃させました。城を守っていた光秀の息子・明智光慶は、抵抗を諦め自刃します 17 。一方、安土城から坂本城へ退いていた明智秀満は、羽柴軍に城を包囲されます。秀満は、光秀が集めた天下の名物・財宝が戦火で失われることを惜しみ、目録を添えて城を包囲する堀秀政に引き渡した後、光秀の妻子を介錯し、一族と共に自害して果てました 17 。
これに加え、近江にいた明智方の諸将も次々と降伏。秀吉は、山崎の戦いからわずか数日のうちに、畿内から明智勢力を完全に一掃し、その支配体制を盤石なものとしました 17 。
覇権確立への道 — 清洲会議へ
「主君信長の仇を討った最大の功労者」という、他の誰にも揺るがすことのできない大義名分と実績を手にした秀吉は、織田家の後継者と遺領の再配分を決定する「清洲会議」において、圧倒的に有利な立場を確保します 24 。筆頭宿老であった柴田勝家ら他の重臣たちを巧みに抑え込み、信長の嫡孫・三法師(後の織田秀信)を後継者に立てることで、事実上の後見人として織田家の実権を掌握する道筋をつけたのです 38 。
「山城南部の確保」が持つ戦略的意味
山崎の地は、京、大坂、そして西国へと通じる街道が交差する、まさに畿内の喉元ともいえる交通・軍事の要衝です 16 。この決戦に勝利した秀吉は、この地の重要性を深く認識し、戦後すぐに天王山一帯に山崎城を築城しました 24 。
この山崎城は、後に大坂城が完成するまでの数年間、秀吉の政治と軍事の拠点として機能しました。ご依頼のキーワードであった「山城南部の確保」とは、単なる一地域の支配に留まらず、畿内全体の物流と軍事の結節点を完全に掌握し、天下統一事業を推進するための最重要拠点を手に入れたことを意味します。秀吉の天下取りは、この山崎の地から本格的に始まったのです。
結論:山崎の戦いが戦国史に与えた影響
天正10年6月13日の山崎の戦いは、その後の日本の歴史の方向性を決定づけた、文字通りの「天下分け目の戦い」でした 24 。この戦いは、わずか半日ほどの戦闘でしたが、その影響は計り知れません。
第一に、織田信長亡き後の後継者争いに事実上の決着をつけ、羽柴秀吉が天下人への道を歩む第一歩となりました。もしこの戦いで光秀が勝利していれば、あるいは戦いが長期化していれば、柴田勝家や徳川家康といった他の有力大名が介入し、日本は再び長期の内乱状態に陥っていた可能性も否定できません。
第二に、この戦いは時代の転換点を象徴するものでした。明智光秀は、伊勢氏のような旧室町幕府の価値観を受け継ぐ幕臣たちを多く抱えていました。彼の敗北は、旧来の権威や秩序が完全に過去のものとなり、秀吉に代表されるような、出自を問わない実力本位の新しい時代が本格的に到来したことを天下に示しました。
「木幡山城の戦い」という名称の探求から始まった本報告は、結果として、その背景にある「山崎の戦い」という歴史の巨大な転換点へとたどり着きました。この山崎での一日がなければ、豊臣政権は存在せず、その後の日本の歴史は全く異なる様相を呈していたでしょう。山崎の戦いは、日本の歴史が大きく舵を切った、まさにその瞬間を捉えた出来事として、後世に記憶されるべき重要な一戦であると結論付けられます。
引用文献
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- 新発見!伏見城城下町「正宗」の武家屋敷 - 公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所 https://www.kyoto-arc.or.jp/news/s-kouza/kouza248.pdf
- 資料 1 発見!伏見城の石垣 JR 桃山駅前の調査から - 公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所 https://www.kyoto-arc.or.jp/News/s-kouza/kouza328.pdf
- 理文先生のお城がっこう 歴史編 第61回 秀吉の城13(指月伏見城) https://shirobito.jp/article/1805
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- 木幡山伏見城跡 | 場所と地図 - 歴史のあと https://rekishidou.com/fushimijo-2/
- 山崎の合戦(山崎の戦い) | 山崎城のガイド - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/252/memo/974.html
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- 第1章 明智光秀 謎に包まれた戦国武将の生涯 - 福知山市 https://www.city.fukuchiyama.lg.jp/site/mitsuhidemuseum/18089.html
- 歴史の目的をめぐって 伊勢貞興 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-02-ise-sadaoki.html
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- 秀吉よりも柴田勝家対策を優先――。本能寺の変、明智光秀最大の誤算【麒麟がくる 解読リポート】 https://serai.jp/hobby/1013718
- 1582年(後半) 西国 中国大返しと山崎の戦い | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1582-3/
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- 中国大返し - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%A4%A7%E8%BF%94%E3%81%97
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- 劇中ではスルーされてしまった天下分け目の“天王山” 光秀が秀吉に敗れた山崎の戦いをめぐる諸説を検証【麒麟がくる 満喫リポート】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1017497
- 【フロイス1582年度日本年報追信】山崎の戦い | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/historical-material/documents12/
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- 天王山の戦い(山崎の戦い) その3 合戦 - 山崎観光案内所 https://oyamazaki.info/archives/1509
- 山崎の戦い古戦場:京都府/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/yamazaki/
- 【京都古戦場】天下分け目の「山崎の戦い」明智光秀の本陣跡を探訪 - キョウトピ https://kyotopi.jp/articles/gu6RD
- 伊勢貞興 - 信長の野望新生 戦記 https://shinsei.eich516.com/?p=1910
- 明智光秀に尽くした名門・伊勢氏の御曹司!若き勇将・伊勢貞興 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=Vi7mk1SRIIs
- 【ゆっくり解説】山崎の戦いに関する一考察 天王山篇 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=4eTbD95rfH8
- (2)勝竜寺から八科峠へ http://shigeru.kommy.com/20husimiburaburaaketigoe.html
- History2 歴史上最大の下克上「本能寺の変」とは - 亀岡市公式ホームページ https://www.city.kameoka.kyoto.jp/site/kirin/1267.html
- 明智薮のある旧小栗栖街道を歩く・六地蔵から勧修寺へ - のら印BLOG https://norajirushi.hatenablog.com/entry/2025/04/26/092200
- WA-6・明智光秀の最後を辿る - Alley Guide https://www.alley-guide.com/2021/10/31/w-6rokujizou/
- 明智光秀のゆかりの地を巡る - Kyoto Love. Kyoto 伝えたい京都 https://kyotolove.kyoto/I0000137/
- ブログ – 明智光秀の終焉の地。京都市伏見区小栗栖 | 東洋精器工業株式会社 https://www.toyoseikico.co.jp/blog/4340/
- 小栗栖城(京都府京都市) | 滋賀県の城 https://masakishibata.wordpress.com/2017/03/19/fumishi-ogurisu/
- 小栗栖で明智光秀の首を取ったのは誰か? - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4819
- 京都の路地にひっそり佇む明智光秀の塚――2つの怨霊を封じ込めた首塚の「謎」 - note https://note.com/honno_hitotoki/n/n8a9651647b5a
- (わかりやすい)本能寺の変 後編 https://kamurai.itspy.com/nobunaga/honnouji3.htm
- 歴史が決した「山崎の戦い」! 見所がギュッと詰まった京都府大山崎町【現在はどうなっているの?】 https://shingakunet.com/journal/column/20160718170000/