最終更新日 2025-09-03

木曽川口の戦い(1574)

天正二年、織田信長は長島一向一揆に対し、九鬼嘉隆率いる水軍と陸軍による水陸共同殲滅作戦を展開。安宅船の大鉄砲で城砦を砲撃し、兵糧攻めと火攻めで一揆を壊滅させた。信長の革新性と非情さを示す戦いである。
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天正二年・木曽川口の戦い:織田信長による水陸共同殲滅作戦の全貌

序章:木曽川口の戦い - 名称の解明と歴史的意義

天正2年(1574年)、日本の戦国史において特筆すべき、そして同時に凄惨を極めた戦役が終結した。一般に「第三次長島攻め」として知られるこの軍事行動の中で、織田信長は過去の失敗を乗り越えるべく、革新的な戦術を導入した。本報告書で「木曽川口の戦い」と題する一連の戦闘は、この第三次長島攻めという大戦略の中核をなす、水軍を用いた軍事作戦の総称である。これは特定の日に発生した単一の海戦を指す固有名詞ではなく、同年7月から9月にかけて、木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)の広大な河口デルタ地帯で、九鬼嘉隆らが率いる織田水軍によって展開された海上封鎖、拠点攻撃、そして殲滅支援という一連の軍事行動の総体を指すものである 1

この戦いを論じるにあたり、まず明確に区別すべきは、大坂の石山合戦において毛利水軍と織田水軍が激突した「木津川口の戦い」(天正4年および6年)である 3 。両者は場所、時期、交戦相手が全く異なり、歴史的文脈も異なる。本報告書の主題である木曽川口での戦いは、対一向一揆という共通の敵を持ちながらも、その戦術的目標と様相において独自の位置を占めている。

その歴史的意義は、単に長島一向一揆を壊滅させたという戦果に留まらない。これは、織田信長の対一向一揆戦略における決定的な転換点であり、陸軍と水軍が緊密に連携した大規模な陸海共同作戦の、日本史上における初期の完成形であった。信長は、過去二度の敗北の教訓から、地形の不利を克服するための新たな解を水軍力に見出したのである。本合戦は、信長の軍事的合理性と革新性、そして目的のためには手段を選ばない非情さを同時に体現しており、日本の合戦形態の進化を象徴する重要な事例として再評価されるべきである。

第一章:信仰の要塞 - 長島輪中の地政学と抵抗の根源

地形分析:難攻不落の天然要害

織田信長を二度までも退けた長島一向一揆の強さの根源は、その信仰心もさることながら、彼らが拠点とした土地の特異な地理的条件にあった。長島は、美濃国から流れる木曽川、長良川、揖斐川の三つの大河が伊勢湾に注ぐ河口部に形成された、広大な輪中地帯(デルタ地帯)である 1 。無数の中州が複雑に入り組み、その間を大小の河川が網の目のように流れるこの地域は、『信長公記』が「四方の難所」と記す通り、まさに天然の要害であった 2

陸路からの進軍は極めて困難を極める。道は狭く、湿地帯が広がり、大軍の展開は不可能に近い。ひとたび軍を進めれば、一揆勢は土地勘を最大限に活かし、小舟で水路を自在に移動しながら、織田軍の側面や後方を突くゲリラ戦を展開した 1 。さらに、彼らは水運を利用して拠点間の連絡や兵糧・武器の補給を容易に行うことができた 7 。この地形こそが、一揆勢にとって最大の防御壁となっていたのである 8

この地理的特性は、戦争の様相を根本的に規定した。当時、鉄砲と長槍を組み合わせた集団戦法で陸上において最強を誇った織田軍も、この水郷地帯ではその主戦力を十分に発揮できなかった。第一次・第二次の長島攻めにおける信長の敗因は、兵力や士気の問題以上に、この地政学的特性を軽視し、自軍の得意とする戦闘様式を強引に適用しようとした戦略的誤認にあった。いわば、「陸の巨人」である織田軍が、「水の民」である一揆勢の土俵で力相撲を挑んだ結果の必然的な失敗であった。この手痛い教訓が、第三次攻勢における水軍の全面投入という戦略的大転換の直接的な引き金となったのである。

勢力分析:願証寺と門徒衆

長島における抵抗の中核を担ったのは、浄土真宗本願寺派の寺院「願証寺」であった 1 。文亀元年(1501年)に創建されたこの寺は、やがて本願寺門徒の精神的・軍事的拠点となり、周辺地域から信徒が集結、最盛期には10万とも称される巨大な武装勢力を形成するに至った 1 。「一揆」という言葉から連想されるような、単なる農民の蜂起とは全く様相が異なる。彼らは強固な信仰で結ばれ、高度に組織化されており、さらには「北勢四十八家」と呼ばれる伊勢北部の在地小豪族とも連携し、侮りがたい軍事力を有する複合的な抵抗勢力であった 1

対立の激化:信長の弟・信興の死

信長と本願寺勢力との対立は、信長が上洛後に石山本願寺へ矢銭(軍資金)を要求したことに端を発する 11 。この緊張関係は全国に波及し、元亀元年(1570年)9月、本願寺法主・顕如の檄文に応じ、長島の門徒衆も一斉に蜂起した 1 。彼らはまず長島城を奪取して拠点化。これに対し、信長は備えとして尾張南部の小木江城に弟の織田信興を配置していたが、同年11月、信長が近江で浅井・朝倉連合軍と対峙している隙を突かれ、一揆勢は小木江城を猛攻。信興は奮戦の末、自害に追い込まれた 1

肉親、それも実の弟を無残な形で失ったこの事件は、信長の長島に対する憎悪を決定的なものにした。これ以降、信長の長島攻略は、単なる領土拡大や敵対勢力の鎮圧という政治的・軍事的目標を超え、徹底的な殲滅を目的とする、個人的な報復戦としての性格を色濃く帯びることになる。

第二章:殲滅作戦の始動 - 第三次長島攻めの全体構想

戦略的背景:信長包囲網の崩壊

天正元年(1573年)は、信長にとって飛躍の年であった。4月には最大の脅威であった武田信玄が病没し、8月には長年の宿敵であった越前の朝倉義景と北近江の浅井長政を立て続けに滅ぼした 2 。これにより、信長を東西から締め付けていた「信長包囲網」は事実上崩壊。東と北の脅威から一時的に解放された信長は、ついに本拠地である尾張・美濃の喉元に突き刺さった棘、長島一向一揆の根絶に全力を傾注できる戦略的環境を手に入れたのである 13

「根切り」戦略の策定

過去二度の失敗は、信長に長島の攻略がいかに困難であるかを骨身に染みて教えた。生半可な攻撃では、水郷の要害に籠る門徒衆を屈服させることはできない。そこで信長が最終的に選択したのが、陸海から完全に包囲して兵糧の補給を断ち、抵抗する者すべてを抹殺する「根切り(皆殺し)」という殲滅戦略であった 8 。これは、単に一揆勢の軍事力を無力化するだけでなく、その共同体、信仰、そして存在そのものを物理的・精神的に根絶やしにすることを目的とした、戦国時代においても極めて苛烈な作戦であった。

空前の大動員

この殲滅作戦を完遂するため、信長はかつてない規模の軍事力を動員した。天正2年(1574年)6月下旬、信長は美濃から尾張の津島に本陣を移し、織田家支配下の全域に対して大動員令を発した 7 。畿内の政務を担う明智光秀や、旧朝倉領の越前の抑えに残された羽柴秀吉など、戦略上動かせない一部の将を除き、織田軍のほぼ全ての主力がこの作戦に投入された 1 。その総兵力は8万、一説には12万ともいわれる、織田家の戦史上でも破格の規模であった 1

作戦計画は緻密であった。陸上部隊を複数の方面から同時に進撃させて長島輪中を幾重にも包囲すると同時に、新たに編成された大水軍が木曽三川の河口域を完全に封鎖する 7 。これにより、一揆勢を陸からも海からも逃げ場のない袋の鼠とし、兵糧攻めによって餓死させるか、あるいは抵抗を諦めさせて殲滅するという、二段構えの作戦であった。


表1:第三次長島攻めにおける織田軍主要編成

方面・侵攻路

主要指揮官

隷下主要武将

役割

早尾口(北)

織田信長

丹羽長秀、羽柴秀長、佐々成政、前田利家、河尻秀隆

本隊・総指揮

市江口(北東)

織田信忠

織田信包、池田恒興、森長可、斎藤利治

嫡男軍団・主攻の一翼

賀鳥口(北西)

柴田勝家、佐久間信盛

稲葉一鉄、稲葉貞通、蜂屋頼隆

宿老軍団・主攻の一翼

水軍(海上)

九鬼嘉隆、滝川一益

織田信雄、佐治信方、伊勢・尾張水軍衆

海上封鎖・艦砲射撃

出典:

7

第三章:鉄の包囲網 - 九鬼嘉隆と織田水軍の展開

海賊大名の台頭:九鬼嘉隆の参陣

この陸海共同作戦の成否の鍵を握っていたのが、新たに編成された織田水軍であり、その中核を担ったのが志摩の「海賊大名」九鬼嘉隆であった。もともと志摩の在地領主であった嘉隆は、内紛の末に領地を追われたが、織田家家臣・滝川一益の仲介を得て信長に仕え、その水軍力を見込まれて急速に台頭した人物である 17

過去二度の長島攻めでは、河川での戦闘に大型の軍船は不向きと判断されたためか、九鬼水軍は本格的に投入されていなかった 17 。しかし、陸路からの攻撃の限界を痛感していた信長に対し、嘉隆は滝川一益を通じて水軍の戦略的重要性を強く進言し、全船団を率いての参陣を直訴したと伝えられる 17 。これは、長島の地形を克服するためには制海権(この場合は制水権)の確保が不可欠であると見抜いた嘉隆の優れた戦術眼と、旧来の発想に囚われず、その革新的な提案を受け入れた信長の柔軟性を示す重要な逸話である。

織田水軍の編成と装備

信長の承認を得て、九鬼嘉隆を総大将とする織田水軍が編成された。その構成は、嘉隆率いる志摩の九鬼水軍を中核とし、同じく水軍の指揮に長けた滝川一益の部隊、信長の次男で伊勢を領する織田信雄(北畠具豊)が動員した伊勢の水軍衆、そして知多半島を拠点とする佐治氏など、尾張・伊勢沿岸の国人衆からなる数百艘規模の大船団であった 7

この船団の主力となったのが、「安宅船(あたけぶね)」と呼ばれる大型の軍船である 22 。安宅船は、船体の上部に「総矢倉」と呼ばれる箱型の構造物を持ち、その周囲を分厚い楯板で覆うことで、矢や鉄砲の攻撃を防ぐ高い防御力を誇った 23 。推進力は数十から百を超える「櫓(ろ)」であり、戦闘時には帆を倒し、多数の漕ぎ手によって航行した 25 。まさに「海に浮かぶ城」ともいうべき威容を誇る、当時の日本の最高級軍船であった。

そして、この安宅船を単なる兵員輸送船や白兵戦のプラットフォーム以上の存在たらしめたのが、搭載された強力な火器、すなわち「大鉄砲(大筒)」であった 18 。これは通常の火縄銃とは比較にならない大口径の火器であり、数十匁から百匁を超える鉛の弾丸を発射し、城砦の櫓や土塀といった建造物をも破壊する絶大な威力を有していた 28

この安宅船と大鉄砲の組み合わせが、長島攻めにおいて画期的な新戦術を生み出すことになる。従来の日本の海戦は、敵船に乗り移っての白兵戦が主体であった。しかし、今回の水軍の主たる任務は、一揆勢の小舟を掃討すること以上に、陸上の「城砦」を直接攻撃することにあった。九鬼嘉隆は、安宅船を「海に浮かぶ移動式の砲台」として運用する戦術を考案した。これは、現代の軍事用語でいうところの「艦砲射撃」の概念を、戦国時代の日本で実践した、極めて先進的な試みであった。

この戦術の導入により、織田軍の攻撃は、陸上からの一方向的なものから、陸と海からの多角的・立体的なものへと劇的に進化した。一揆勢は、前面に迫る陸上部隊だけでなく、自らの側面や背後の河川からも常に大鉄砲による砲撃の脅威に晒されることになった。これにより、彼らは防御を一点に集中することができなくなり、織田軍は圧倒的優位に立つことができたのである。この前例のない戦術を承認し、大規模に実行させた信長の決断は、彼の軍事的才能と、新しい技術を積極的に取り入れる合理主義を明確に示している。

第四章:地獄の九十日 - 合戦のリアルタイム時系列詳解

【7月13日~15日】包囲網の完成

  • 天正2年7月13日: 織田信長・信忠父子率いる本隊が、作戦の拠点となる尾張津島に着陣。これを合図に、柴田勝家、佐久間信盛、織田信忠らが率いる陸上部隊が、それぞれ指定された侵攻路(賀鳥口、市江口、早尾口)へと展開を開始した 2 。長島輪中に対する巨大な包囲網の構築が始まった瞬間である。
  • 7月14日: 陸上部隊は行動を開始。早尾口の信長本隊は小木江村を、賀鳥口の柴田・佐久間隊は松之木の対岸を固めていた一揆勢の抵抗をたやすく粉砕。丹羽長秀らは前ヶ須、海老江島といった外縁部の拠点を次々と焼き払い、包囲の輪を確実に狭めていった 7 。一揆勢は長島中枢の城砦群へと後退を余儀なくされる。
  • 7月15日: 作戦の第二段階が開始される。九鬼嘉隆率いる安宅船を先頭とした大船団が、伊勢湾から木曽三川の河口域へと進入。蟹江、熱田、桑名、阿濃津など、尾張・伊勢の諸港から集められた数百艘の軍船が、次々と長島周辺の河川を埋め尽くしていった 7 。川面は織田軍の旗指物で覆われ、一揆勢の補給路と脱出路は水上から完全に遮断された。ここに、陸と海からの鉄の包囲網が完成した。

【7月下旬~8月】外郭砦の消耗戦

包囲網の完成後、織田軍は長島本体を守る外郭の城砦群(大鳥居城、篠橋城など)に対する本格的な攻撃を開始した。ここから、織田軍の陸海共同作戦がその真価を発揮する。

まず、河川に展開した九鬼嘉隆の水軍が、安宅船から城砦に向けて大鉄砲による猛烈な砲撃を加える。轟音とともに放たれる巨大な鉛弾は、一揆勢が築いた櫓や土塀を容赦なく破壊し、城内に混乱と恐怖をもたらした 7

そして、水軍の砲撃によって防御機能が低下し、城兵が混乱したタイミングを見計らって、織田信雄・信孝らが率いる陸上部隊が総攻撃を仕掛ける。この陸海からの波状攻撃は昼夜を分かたず繰り返され、外郭の城砦は徐々に消耗していった。

  • 8月2日: 絶え間ない攻撃と兵糧の欠乏に耐えかねた大鳥居城の門徒衆が、夜陰に乗じて城からの脱出を試みた。しかし、これは織田軍の想定内であった。待ち構えていた部隊に捕捉され、男女1,000人余りが情け容赦なく斬り捨てられた。これにより大鳥居城は陥落する 7
  • 8月12日: 同様に追い詰められた篠橋城も、ついに降伏を申し出た。この時、信長は非情な策略を巡らせる。降伏を受け入れると見せかけ、城兵を意図的に長島城本体へと追い込んだのである 7 。これは、長島城内の人口を過密にさせ、食糧の消費を人為的に加速させるための冷徹な計算に基づいていた。兵糧攻めの効果は、この時点で決定的となりつつあった。

【9月29日】審判の日 - 降伏と裏切り、そして大虐殺

篠橋城からの避難民が合流した長島城内は、やがて飢餓地獄と化した。食料は完全に尽き、餓死者が続出する。そして運命の9月29日、ついに長島城から降伏の使者が訪れ、城からの退去を願い出た。

しかし、信長の目的は降伏ではなく殲滅であった。彼はこの申し出を黙殺し、城から船で退去しようとする非戦闘員を含む門徒衆に対し、鉄砲による無差別射撃を命じた 7 。願証寺の指導者であった顕忍(佐尭)も、この一方的な虐殺の中で命を落としたとされる 12

この裏切りにも等しい行為は、追い詰められた門徒衆の最後の闘志に火をつけた。どうせ殺されるならば一矢報いんと、800人余りの門徒が裸で刀を抜き、手薄になっていた織田一門衆の陣へ死に物狂いの突撃を敢行した 14 。この捨て身の猛攻は凄まじく、信長の庶兄である織田信広、弟の織田秀成、従兄弟の織田信成といった信長自身の血族を含む多くの将兵が討ち死にするという、織田軍にとって手痛い損害をもたらした 7

当初の作戦は、兵糧攻めを主軸とする、非情ではあるが合理的な軍事行動であった。しかし、この最終局面で、作戦はその性格を大きく変質させる。弟・信興の死に始まったこの戦いは、最終盤において再び信長の個人的な領域を侵犯した。肉親を殺されたという事実は、信長の冷徹な合理性を激情で凌駕した。彼の行動原理は、この瞬間、「天下統一のための戦略」から「一族を殺されたことへの個人的な報復」へと完全にシフトしたのである。

一族を殺された信長の怒りは頂点に達した。彼は、まだ抵抗を続けていた屋長島と中江の二つの砦を、幾重にも連なる巨大な柵で完全に封鎖。そして、四方から一斉に火を放つよう命じた。逃げ場を失った砦の中では、老若男女を問わず、およそ2万人が阿鼻叫喚の中で焼き殺されたと『信長公記』は伝えている 7 。この日本史上類を見ない大虐殺は、単なる殲滅作戦の帰結ではなかった。それは、信長の「魔王」としての側面が最も純粋な形で現出した瞬間であり、敵対する者には一切の慈悲を与えないという彼の姿勢を天下に知らしめる、強烈な政治的メッセージでもあった。

第五章:焦土の行方 - 戦後処理と歴史的遺産

論功行賞と新体制の構築

天正2年9月29日、長島輪中に燃え盛る炎とともに、元亀元年から4年間にわたり織田家を苦しめ続けた長島一向一揆は、門徒衆の文字通りの全滅という形で完全に終結した 10

戦後、信長は速やかに論功行賞を行った。この戦役で水陸両面にわたり多大な功績を挙げた宿老・滝川一益には、旧一揆勢の本拠地であった長島城と、北伊勢の広大な領地が与えられた 7 。これにより、伊勢湾岸地域における織田家の支配体制は盤石のものとなった。

そして、この戦役の真の立役者ともいえる九鬼嘉隆は、その絶大な功績を信長から最大限に評価された。嘉隆は本領である志摩一国を安堵され、小さいながらも国持ち大名としての地位を認められたのである 17 。これは、単なる恩賞に留まらず、嘉隆が名実ともに織田家水軍の総帥としての地位を確立したことを意味した。海賊衆の頭目に過ぎなかった男が、信長の革新的な戦略思想と共鳴することで、歴史の表舞台へと躍り出た瞬間であった。

信長の天下統一事業への影響

長島一向一揆の根絶は、信長の天下統一事業全体にとって極めて大きな戦略的価値を持った。本拠地である尾張・美濃の背後、伊勢湾に面したこの地域は、経済的にも軍事的にも重要であったが、同時に常に反乱の火種を抱える不安定要素でもあった。この最大の脅威が完全に除去されたことで、信長は後顧の憂いなく、西の石山本願寺・毛利氏、そして東に勢力を回復しつつあった武田氏との全面対決に、全戦力を集中させることが可能になった。この勝利は、信長の支配基盤を固め、天下統一への道を大きく前進させる決定的な一歩となったのである。

歴史的遺産

かつて激しい戦闘と悲劇の舞台となった長島の地には、今もその歴史を伝える痕跡が残されている。現在の桑名市長島町の願証寺境内には、昭和49年(1974年)に建立された「長島一向一揆殉教之碑」が静かに佇み、この戦いで命を落とした数万の人々の魂を弔っている 11 。一揆の中核であった本来の願証寺の故地は、明治時代の木曽三川分流工事によって長良川の川底に沈み、その姿を見ることはできない 8 。しかし、この地で繰り広げられた信仰と権力の壮絶な闘争の記憶は、水面の下に、そして人々の語り伝えの中に、今なお生き続けている。

結論:戦国合戦史における「木曽川口の戦い」の再評価

本報告書で詳述した天正2年の「木曽川口の戦い」は、単独の海戦ではなく、織田信長の戦略思想の成熟を示す、画期的な陸海共同殲滅作戦であったと結論付けられる。それは、過去の失敗から学び、長島輪中という極めて困難な地形的制約を、「艦砲射撃」という新たな戦術によって克服した、信長の軍事的革新性の証左に他ならない。

九鬼嘉隆率いる水軍は、単に敵の補給路を断つという消極的な役割に留まらず、大鉄砲を駆使して陸上の城砦を直接攻撃する「動く砲台」として機能した。これにより、織田軍は戦争を二次元から三次元へと引き上げ、一揆勢を陸海双方から圧殺することに成功したのである。

同時に、その凄惨な結末は、信長の冷徹な合理性と、肉親を奪われたことによる激情が極限の形で表出したものであった。2万人の大虐殺は、戦国時代の戦争の残酷さを象徴する出来事として、後世に記憶されるべきである。

この戦いで得られた水軍の組織的運用の知見と、九鬼嘉隆という得難い将帥の存在は、2年後の第一次木津川口の戦いでの敗北を経て、さらに革新的な兵器である「鉄甲船」の開発へと繋がっていく。その意味で、木曽川口での勝利と経験は、織田信長が日本の制海権を掌握していく上で、極めて重要な布石であったと言えるだろう。

引用文献

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  2. 1573年 – 74年 信玄没、信長は窮地を脱出 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1573/
  3. 木津川口の戦いについて書かれた本はないか。 - レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?page=ref_view&id=1000297248
  4. 第二次木津川口の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E6%9C%A8%E6%B4%A5%E5%B7%9D%E5%8F%A3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
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  9. 571.歴史を訪ねる(21):長島一向一揆(2)「願証寺」 | 壽福寺だより http://jufukuji2.blog.fc2.com/blog-entry-585.html
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  13. 長島一向一揆/古戦場|ホームメイト https://www.touken-collection-kuwana.jp/mie-gifu-kosenjo/nagashimaikkoikki-kosenjo/
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