最終更新日 2025-09-04

末森周辺支城戦(1580~89)

天正十二年、佐々成政は末森城を攻囲。城将奥村永福と妻安の奮戦、そして前田利家の決死の救援により城は守られた。この戦いは、利家の武名を高め、加賀百万石の礎を築く転換点となった。

天正北陸戦役詳報:末森周辺支城戦(1580-1589)に見る前田家興隆と佐々家没落の軌跡

序章:動乱の序曲 ― 本能寺後の北陸情勢

天正年間(1573-1592)の北陸、特に加賀・能登・越中の三国は、戦国時代の終焉を象徴する激しい動乱の渦中にあった。本報告書が主題とする「末森周辺支城戦」は、天正12年(1584年)に前田利家と佐々成政の間で繰り広げられた末森城の攻防戦を中核とする一連の軍事紛争である。しかし、この戦役を単なる両雄の私闘として捉えることは、その歴史的本質を見誤ることに繋がる。その根源は、天正8年(1580年)頃からの加賀一向一揆の最終的鎮圧に始まり、織田信長の死によって生じた権力の空白と、旧織田家臣団が直面した新たな秩序への適応という、より大きな構造的変化の中に求められる。本章では、この戦役がいかにして避けられない運命として設定されたかを、1580年からの北陸情勢の変遷を通じて解き明かす。

第一節:織田支配下の北陸 ― 「百姓の持ちたる国」の終焉

約一世紀にわたり、「百姓の持ちたる国」として一向宗門徒による自治が敷かれていた加賀国は、織田信長の天下統一事業における最後の抵抗勢力の一つであった。天正8年(1580年)、信長の命を受けた北陸方面軍総司令官・柴田勝家は、加賀一向一揆の拠点である金沢御堂を攻略し、その支配体制に終止符を打った 1

しかし、門徒たちの抵抗は白山麓の山内衆へと引き継がれ、鳥越城・二曲城を拠点としたゲリラ的な戦いが続いた 1 。この最終的な鎮圧を任されたのが、柴田勝家の与力であった佐久間盛政である。天正10年(1582年)3月、盛政は鳥越城を陥落させると、捕らえた三百余人を磔に処すという苛烈な手段で一揆を根絶やしにした 2 。この出来事は、加賀の地における宗教的自治の完全な終焉と、織田家の武力による新たな支配秩序の確立を象徴するものであった 5

同時期、能登国もまた大きな変動の最中にあった。天正5年(1577年)、越後の上杉謙信が能登に侵攻し、守護畠山氏の拠点であった七尾城、そして松波城を次々と陥落させた 6 。手取川の戦いで織田軍を撃破した謙信の威勢は北陸を席巻したが 9 、翌年の彼の急死により、能登は再び権力の空白地帯となる。この機を逃さず進駐したのが織田勢力であり、天正9年(1581年)、前田利家は信長から能登一国を与えられ、七尾城に入った 10 。これが、後の前田家による北陸支配の第一歩となる。

第二節:宿命のライバル ― 前田利家と佐々成政

前田利家と佐々成政。二人の関係は、単なる敵対者として語るにはあまりにも複雑な歴史を共有していた。彼らの出会いは、信長が家督を争った稲生の戦い(1556年)にまで遡る 11 。この戦いで共に武功を挙げた二人は、信長の親衛隊である母衣衆において、利家が「赤母衣衆」、成政が「黒母衣衆」の筆頭として、互いにその武勇を競い合う宿命のライバルとなった 12

信長の天下統一事業が北陸へ及ぶと、彼らは柴田勝家の与力として越前府中三人衆に任じられ、同僚として北陸平定戦に従事した 15 。三十年近くにわたり、同じ主君に仕え、死線を共にし、出世を競い合ったその関係は、愛憎半ばするものであったと想像に難くない 11

この長年の関係を決定的に引き裂いたのが、天正10年(1582年)6月の本能寺の変である。絶対的な権威であった信長の死は、織田家臣団を深刻なアイデンティティの危機に陥れた。すなわち、「誰に、あるいは何に忠義を尽くすか」という根源的な問いを突きつけたのである。信長の後継者を巡り、羽柴秀吉と柴田勝家が対立すると、勝家の与力であった利家と成政は共に勝家方に与した 11 。しかし、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いにおいて、二人の運命は決定的に分かたれる。成政は、対上杉の備えとして越中を動けず、叔父の佐々平左衛門率いる僅かな兵を援軍として送るに留まった 15 。一方、利家は旧友である秀吉と、上司である勝家との間で板挟みとなり、苦悩の末に戦線を離脱するという形で、事実上秀吉に与する道を選んだ 18 。この利家の決断は、織田家への忠義を重んじる成政の目には「裏切り」と映り、両者の間に修復不可能な亀裂を生じさせた。

第三節:加賀百万石の萌芽と越中の孤塁

賤ヶ岳の戦いの結果は、両者のその後の立場を明確に分けた。利家は戦功を認められ、秀吉から加賀の石川・河北二郡を加増されると、本拠を能登の小丸山城から加賀の金沢城(旧尾山御坊)へと移した 16 。これにより、能登一国と加賀二郡にまたがる広大な領地を支配する大大名となり、後の「加賀百万石」の直接的な基礎が築かれたのである 10

一方、佐々成政は柴田勝家の滅亡後、秀吉に降伏し、越中一国を安堵された 17 。しかし、彼の心には秀吉への根強い不信感が渦巻いていた。成政は、主家である織田家への忠義を絶対視する、ある意味で古風な武将であった 23 。彼の目には、信長亡き後の織田家をないがしろにし、天下人の座にのし上がっていく秀吉の姿は、許しがたい簒奪者と映ったのである 26

この両者の立場の違いは、単なる領土問題や個人的な確執を超えた、より根源的な価値観の対立であった。信長という絶対的な評価軸を失った世界で、成政は「旧主・織田家」という過去の秩序に忠実であろうとした。これは彼の律儀さの表れであると同時に、時代の変化を読み解けない硬直性でもあった。対照的に、利家は勝家への義理と秀吉との友情の間で揺れ動きながらも、最終的には「天下の趨勢」、すなわち秀吉という未来の秩序に適応する現実的な道を選んだ 19 。これは、家名を存続させるための苦渋の決断であった。したがって、後に末森城で繰り広げられる軍事衝突は、この「過去への忠義」を掲げる成政と、「未来への適応」を選んだ利家という、二つの異なる生存戦略の必然的な激突だったのである。


【表1:末森周辺支城戦 関連年表(1580-1589)】

年代 (西暦)

月日

出来事

関連人物

典拠

天正8年 (1580)

-

織田軍、加賀一向一揆の拠点・金沢御堂を攻略。

柴田勝家, 佐久間盛政

1

天正10年 (1582)

3月

鳥越城・二曲城が落城。加賀一向一揆が終焉。

佐久間盛政

2

6月

本能寺の変。織田信長、死去。

織田信長, 明智光秀

11

天正11年 (1583)

4月

賤ヶ岳の戦い。柴田勝家が敗死。

柴田勝家, 羽柴秀吉, 前田利家

16

4月以降

利家、加賀二郡を加増され金沢城主となる。

前田利家

16

天正12年 (1584)

3月

小牧・長久手の戦いが勃発。

羽柴秀吉, 徳川家康, 織田信雄

27

7月

佐々成政、徳川・織田方に呼応。

佐々成政

28

8月28日

朝日山城の戦い。

佐々成政, 村井長頼

29

9月6日

成政、1万5千の兵を率い富山城を出陣。

佐々成政

30

9月9日

成政軍、末森城を包囲。

佐々成政

29

9月10日

末森城攻防戦、本格化。

奥村永福

29

9月11日

利家、金沢城を出陣。夜間強行軍を開始。

前田利家

29

9月12日

未明、利家軍が佐々軍の背後を奇襲。成政、敗走。

前田利家, 佐々成政

29

9月12日

成政、撤退途中に鳥越城を占拠。

佐々成政

30

10月

利家、鳥越城を攻めるも奪還に失敗。

前田利家

30

11月

秀吉と信雄・家康が講和。

羽柴秀吉, 徳川家康

30

12月

成政、浜松の家康を訪ねるため「さらさら越え」を行う。

佐々成政

23

天正13年 (1585)

8月

「富山の役」。秀吉が10万の大軍で越中へ侵攻。

羽柴秀吉, 佐々成政

32

8月下旬

成政、降伏。越中を没収される。

佐々成政

23

天正15年 (1587)

-

成政、肥後国主となるも、国人一揆の責任を問われる。

佐々成政

34

天正16年 (1588)

5月14日

佐々成政、切腹。

佐々成政

15

天正17年 (1589)

-

前田家、加賀・能登・越中にまたがる支配体制を固める。

前田利家

10


第一章:衝突への道 ― 小牧・長久手の戦いと加越国境の緊張(1584年前半)

中央政局の動乱は、しばしば地方の軍事バランスを崩壊させ、局地的な紛争を誘発する。天正12年(1584年)の北陸情勢は、その典型であった。小牧・長久手の戦いという全国規模の大戦が、いかにして前田利家と佐々成政という二人の旧友を、末森城という一点で激突させたのか。本章では、その過程を分析し、末森城が持つ地政学的な価値と、それゆえに両陣営にとって係争の的とならざるを得なかった必然性を明らかにする。

第一節:代理戦争の勃発

天正12年(1584年)3月、織田信長の次男・信雄と徳川家康が連合し、天下人の道を歩む羽柴秀吉に反旗を翻した。世に言う「小牧・長久手の戦い」の勃発である 27 。この戦いは、尾張・美濃を主戦場としながらも、その影響は全国に波及し、各地の親秀吉派・反秀吉派の武将を巻き込む代理戦争の様相を呈した 35

越中の佐々成政も、この巨大な政治的磁場から逃れることはできなかった。当初、成政は秀吉からの出陣要請に応じ、叔父の佐々平左衛門を小牧の秀吉軍に派遣していた 28 。しかし、同年7月、秀吉軍が苦戦しているとの情報が北陸にもたらされると、成政は突如として態度を豹変させ、信雄・家康方に与することを決断する 28 。これは、秀吉を東西から挟撃しようとする家康の広域戦略に呼応したものであり、北陸が小牧・長久手の戦いの「第二戦線」と化した瞬間であった。

この成政の決断は、単なる軍事行動に留まらない、高度な政治的計算に基づいていた。遠方の同盟者である成政にとって、家康・信雄連合における自らの存在価値を示すには、具体的な軍事的成果が不可欠であった。そして、その格好の標的が、秀吉陣営の北陸における最重要人物、前田利家だったのである。利家に打撃を与えることは、秀吉本体への間接的な攻撃となり、自らの政治的地位を飛躍的に向上させる絶好の機会であった。

第二節:戦場の地政学 ― なぜ末森城だったのか

成政が主目標として選定した末森城は、加賀・能登・越中の三国が接する国境地帯に位置する、極めて重要な戦略拠点であった 30 。この城の地理的特性が、両者の激突を不可避なものとした。

第一に、前田利家の領国統治上の弱点を突く位置にあったことである。当時、利家の領地は能登一国と加賀二郡にまたがっており、その形状は南北に細長く、脆弱であった 21 。末森城は、この加賀と能登を結ぶ結節点、いわば領国の「喉元」に位置していた 26 。成政の戦略目標は、この末森城を奪取することで前田領を南北に分断し、兵力と物資の往来を遮断することにあった 21 。これが成功すれば、利家の軍事力は半減し、本拠地である金沢城は北からの脅威に直接晒されることになる。これは、極めて合理的かつ効果的な軍事目標であった。

第二に、利家自身がこの城の重要性を深く認識していたことである。彼は、この要衝の守りとして、父・利春の代から前田家に仕える譜代の重臣であり、村井長頼と並び称される最も信頼の厚い武将、奥村永福を城主として配置していた 12 。永福は、かつて信長の命により利家が前田家の家督を継いだ際、兄・利久への忠義から荒子城の明け渡しを拒んだほどの硬骨漢であり、その忠誠心と防衛能力は利家が誰よりも認めるところであった 12

成政の末森城攻撃は、単に城を一つ落とすという戦術的行動ではない。それは、前田領の分断という戦略目標を達成し、「秀吉方の北陸における重要拠点を陥落させた」という大きな政治的戦果を挙げるための、彼のキャリアを賭けた大勝負だったのである。

第三節:前哨戦 ― 朝日山城の攻防(天正12年8月)

末森城への本格的な侵攻に先立ち、両軍は加越国境に点在する城砦群で激しい神経戦を繰り広げた。利家は、成政が家康方に与したとの報を受けるや、ただちに国境の防備を固める。特に、越中からの侵攻路にあたる朝日山城には、重臣・村井長頼を配置し、来るべき攻撃に備えさせた 30

天正12年8月28日、佐々成政は前田方の朝日山城を急襲した 28 。これが、両軍による最初の組織的な戦闘となる。村井長頼はこれをよく防ぎ、撃退に成功するが、成政の真の狙いは別にあった可能性が高い。この朝日山城への攻撃は、前田軍の注意を国境地帯へと引きつけ、兵力を分散させるための陽動作戦であったと考えられる。成政の視線は、すでにその先にある末森城へと注がれていたのである。この前哨戦は、これから始まる大攻勢の序曲に過ぎなかった。


第二章:末森城の死闘 ― リアルタイム戦況報告(天正12年9月6日~12日)

本章では、末森城を巡る攻防の様相を、時間経過に沿って詳細に再現する。これは、利用者からの「リアルタイムな状態が時系列でわかる形」での解説という要望に応えるものであり、情報が錯綜し、一刻一刻状況が変化する戦場の実態に迫る試みである。軍記物『末森記』などの記述を基に、両軍の動き、情報伝達の遅延、そして指揮官たちの心理状態を克明に描写する 30

【表2:末森城の戦い 両軍戦力比較】

項目

佐々軍(攻城側)

前田軍(籠城・救援側)

総大将

佐々成政

前田利家

城将

-

奥村永福, 千秋範昌

総兵力

約15,000名 21

籠城兵:約300~500名 12

救援軍:約2,500名 21

主要武将

神保氏張 29

村井長頼, 前田利長, 前田慶次 46

戦略目標

末森城の奪取による前田領の分断

末森城の死守と領国の防衛

兵站

富山城からの長距離遠征

金沢城からの短期決戦

第一節:【9月6日~9日】電撃的侵攻と包囲網の完成

9月6日: 佐々成政は、かねてからの計画に基づき、1万5千と号する大軍を率いて本拠地・富山城を出陣した 30 。その進軍は、前田方の領民である田畑兵衛によって意図的に険しい道へ案内されるといった妨害を受けたものの、成政の周到な準備の前では大きな遅滞とはならなかった 30

9月9日: 成政軍の主力は、加越国境の宝達山を越え、末森城を南から見下ろす戦略的要地・坪井山に本陣を敷いた 29 。これにより、城の主要な防衛線を無力化し、攻城戦を有利に進める態勢を整えた。同時に、成政は金沢からの前田利家の救援軍を強く警戒しており、その進軍経路と目される北川尻に、有力な配下である神保氏張率いる別動隊を配置した 29 。この巧みな布陣により、末森城は完全に包囲され、外部との連絡を絶たれた孤島と化した。成政の奇襲作戦は、完璧な形で緒戦の段階を完了した。

第二節:【9月10日】攻城戦開始 ― 絶望的な抵抗

早朝: 坪井山に陣取る佐々軍本隊から、総攻撃の狼煙が上がる。城将・奥村永福と副将・千秋範昌が率いる籠城兵は、諸説あるもののおよそ300から500名に過ぎなかった 12 。対する攻城軍は1万5千。その兵力差は実に30倍以上であり、開戦当初から勝敗の帰趨は誰の目にも明らかに見えた。

午前: 佐々軍は、破城槌を用いて城門に猛攻を加え、同時に多数の鉄砲隊による射撃で城壁上の兵士を掃討する、戦国時代後期の典型的な攻城戦術を展開した 39 。城下の防衛線を守るため、城代の土肥次茂(土肥伊予とも)が打って出るも、衆寡敵せず討死 29 。これにより、城方は完全に防戦一方となり、各所で防衛線が破られ始めた。

午後: 攻城戦の巧者である成政は、城兵の士気を削ぐため、城の生命線である水の手を断つという兵糧攻めの戦術も併用した 12 。渇きと疲労、そして圧倒的な敵の圧力により、城兵の抵抗力は急速に失われていく。夕刻までには、外郭である三の丸が完全に占領され、佐々軍の猛攻は城の中核である二の丸にまで及んだ 12 。本丸陥落は、もはや時間の問題と見られた。

この絶望的な状況下で、城内の士気は極度に低下し、城主・奥村永福自身も、もはやこれまでと自害を覚悟したと伝えられる 12 。しかし、この崩壊寸前の城を繋ぎとめたのは、永福の妻・安(つね)であった。病床にあったとされる彼女は、開戦と同時に薙刀を手に取り、自ら城内を巡回して兵士たちを叱咤激励した。さらには、負傷者の手当てをし、泥水を濾して粥を炊き出し、飢えと渇きに苦しむ兵士たちに振る舞ったという 12 。この一人の女性の気丈な振る舞いが、諦めかけていた兵士たちの心に最後の闘志を灯し、落城を寸でのところで食い止めたのである。

第三節:【9月11日】金沢の決断と決死の救援行

午後2時頃: 末森城からの急使が、約30km離れた金沢城に到着した 11 。攻城戦が始まってから丸一日以上が経過しており、この情報伝達の遅れが、末森城を極限状況に追い込んだ一因であった。

金沢城の軍議: 急報を受けた前田利家は、即刻救援に向かうことを決意する。しかし、この決断は家臣団の強い反対に遭った。第一に、金沢城の守備兵力も手薄であり、主力が不在となれば金沢自身が危険に晒されること。第二に、主君である羽柴秀吉から「金沢城の守りを固めよ」との指示を受けていたことである 21 。家臣たちの多くが、末森城を見捨て、秀吉本隊の援軍を待つべきだと主張した。

妻・まつの叱咤: 軍議が紛糾し、利家が決断をためらう中、その背中を押したのが妻のまつ(芳春院)であったと伝えられる。彼女は金銀の詰まった袋を利家の前に投げ出し、「日頃、金銀で兵を養うと申されながら、蓄えることばかり。それならば、この金銀に槍を持たせて戦わせてはいかがですか」と厳しく叱咤したという 21 。この辛辣な言葉が利家の迷いを断ち切らせた。彼は「人は一代、名は末代」と述べ、家名の存続よりも武士としての名誉を重んじる覚悟を固め、自ら2,500の兵を率いて出陣した 30

午後8時頃: 金沢を出立した利家軍は、津幡城に到着し、待機していた嫡男・利長の軍勢と合流した 30 。ここで利家は、地域の地理に精通した高松村の農民・桜井三郎左衛門を呼び寄せ、敵の布陣について詳細な情報を収集した 51 。この時、三郎左衛門からもたらされた情報が、戦いの趨勢を決定づけることになる。それは、佐々方の神保氏張が北川尻で待ち伏せしているという情報と、その警戒網を密かに迂回できる海岸線の存在であった 11

深夜: 利家は、この貴重な情報に基づき、大胆な作戦行動を開始する。三郎左衛門を道案内に立て、雨が降りしきる闇夜に紛れて津幡城を出立。神保勢が固める街道を避け、敵の警戒が手薄な海岸線の砂浜(現在の「千里浜なぎさドライブウェイ」の原型)を疾駆した 30 。これは、敵の完全な意表を突く、極めてリスクの高い夜間強行軍であった。

第四節:【9月12日】払暁の逆転劇 ― 「後巻」の成功

早朝: 夜通しの強行軍の末、利家軍は今浜(現在の宝達志水町)に到達し、末森城を攻撃中の佐々軍本隊の背後に回り込むことに成功した 30 。佐々成政は、利家の救援軍は必ず街道を進軍し、神保隊と衝突すると確信していた。そのため、背後からの攻撃は全くの想定外であった。

夜明け: 利家軍は、夜明けの薄明かりの中、かがり火を焚いて自軍の存在を誇示し、一斉に鬨の声を上げて佐々軍の背後から襲いかかった 11 。救援軍の到来などあり得ないと考えていた佐々軍の兵士たちは、この予期せぬ奇襲に完全に動揺した。

城内との呼応: 一方、落城寸前の本丸でこの光景を目にした奥村永福以下の籠城兵は、味方の援軍到来を知り、士気を爆発させた。「大納言様(利家)の御救援ぞ」と叫び、最後の力を振り絞って城門を開き、佐々軍に打って出た 26

佐々軍の崩壊: 前後から挟撃される形となり、完全に指揮系統が麻痺した佐々軍は、なすすべもなく混乱に陥り、総崩れとなった 11

午前中: 佐々成政は、敗北を悟り、全軍に撤退を命令 30 。その退却ぶりは整然としており、利家をして「敵将ながら見事」と感嘆させたと伝えられるが、その損害は甚大であった 26 。この戦いで佐々軍は、主だった武将12名、死者750名以上(一説には2千余名)を失った 29 。一方、前田方も同程度の約750名の死者を出し、籠城兵と救援軍を合わせた兵力の三分の一近くを失うという、まさに紙一重の勝利であったことが窺える 29

この戦いの勝敗を分けた要因は、兵力や個々の武勇ではなく、情報であった。成政は奇襲によって末森城を孤立させ、情報を遮断することで優位に立とうとした。しかし、利家は桜井三郎左衛門という現地の情報源を得たことで、敵の配置という決定的に重要な情報を入手し、成政が構築した情報的優位を覆した。利家の夜間行軍は、成政にとって完全に「想定外」の行動であり、この「情報の非対称性」が、30倍以上の兵力差を覆す奇跡的な逆転劇を生み出したのである。


第三章:終わらざる戦い ― 末森城後の加越紛争(1584年後半~1585年)

末森城での劇的な勝利は、前田利家の武名を高め、後の加賀百万石の礎を築く上で決定的な転換点となった。しかし、この一戦で加越国境の紛争が終結したわけではなかった。敗れた佐々成政は、その卓越した戦術眼と不屈の闘志で抵抗を続け、戦いはむしろ泥沼化の様相を呈していく。本章では、末森城の戦い以降も続いた両者の熾烈な攻防と、成政が打った最後の賭けを追う。

第一節:ただでは転ばぬ猛将 ― 鳥越城の奪取

末森城からの撤退を余儀なくされた佐々成政であったが、彼は単なる敗残の将ではなかった。撤退の途上、彼は冷静に情報収集を行い、前田方の鳥越城(津幡町)が事実上無人となっているとの情報を掴んだ 30

鳥越城の城将であった目賀田又右衛門と丹羽源十郎は、「末森城落城」という誤報(一説には成政が意図的に流した偽情報)を鵜呑みにし、戦わずして城を放棄し逃亡していたのである 30 。この機を逃さず、成政は軍勢を転進させ、無血で鳥越城を占拠した。そして、配下の久世但馬を城将として配置し、守りを固めた上で、悠々と本拠地・富山城へと帰還した 26 。これは、大敗を喫した直後にもかかわらず、冷静に戦果を挙げるという、成政の指揮官としての非凡な能力を示す逸話である。彼は戦術家として、敗北を次の戦いの起点へと転化させる術を心得ていた。

第二節:泥沼化する国境紛争

自領内の重要拠点である鳥越城を、戦わずして失ったことを知った前田利家は激怒した。同年10月、利家は自ら兵を率いて鳥越城の奪還を試みるが、城将・久世但馬の率いる佐々方の激しい抵抗に遭い、攻略に失敗する 30

この後、戦線は加越国境地帯全体へと拡大した。倶利伽羅城や松根城といった国境の山城群が、両軍の草刈り場となり、翌天正13年(1585年)にかけて、一進一退の攻防が繰り広げられた 30 。末森城の戦いは、局地的な決戦ではなく、長期にわたる消耗戦の始まりに過ぎなかったのである。

第三節:成政、最後の賭け ― 決死の「さらさら越え」

天正12年11月、中央政局は大きく動いた。羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄との間で和睦が成立し、小牧・長久手の戦いは終結したのである 30 。これにより、家康・信雄連合の一員として戦っていた佐々成政は、大義名分を失い、政治的に完全に孤立した 47

しかし、成政はこの和睦に納得せず、家康に再挙を促すため、常人には考えも及ばない行動に出る。同年冬、厳寒の北アルプス・立山連峰を踏破し、浜松の家康のもとへ直接談判に向かうという、前代未聞の「さらさら越え」を敢行したのである 23

この行軍は想像を絶する困難を極めた。多くの家臣が雪崩や凍傷で命を落とす中、成政は不屈の精神力で踏破を成し遂げた。しかし、彼のこの超人的な努力も報われることはなかった。既に秀吉との和睦を決断していた家康を説得することはできず、成政は失意のうちに越中へ帰還した 57

この一連の行動は、佐々成政という武将の特質を浮き彫りにしている。彼は、局地的な作戦を遂行する戦術家としては類稀なる能力を持っていた。敗走中に敵城を奪取し、厳冬のアルプスを越えるその実行力は驚嘆に値する。しかし、彼は大局を見通す戦略家ではなかった。小牧・長久手の戦いという「全体の戦局」が終結したにもかかわらず、北陸という「局地戦」に固執し続けた。戦略的に全く意味をなさなくなった家康との連携を求め、無謀な雪山越えを行ったことは、その象徴である。彼の行動は、戦術的には賞賛されるべき点が多くとも、戦略的には自己の破滅を早める結果しかもたらさなかった。


第四章:最終局面 ― 秀吉の越中征伐と戦役の終結(1585年~1589年)

末森城を巡る一連の紛争は、佐々成政の執拗な抵抗により長期化したが、その終焉は突如として、そして圧倒的な形で訪れた。中央の天下人となった羽柴秀吉が、この北陸の局地戦を、自らの天下統一事業の一環として収束させるべく動き出したのである。本章では、前田利家の勝利と佐々成政の敗北が、豊臣政権下における両者の地位をいかにして決定づけたかを明らかにする。

第一節:「富山の役」― 圧倒的物量の投入

天正13年(1585年)8月、孤立無援となりながらも秀吉への抵抗を続ける佐々成政に対し、同年7月に関白に就任した羽柴秀吉は、自ら10万(諸説あり)ともいわれる大軍を率いて越中へ侵攻した 23 。世に言う「富山の役」、あるいは「佐々攻め」である。

この大動員は、単に成政一人を討伐するためだけのものではなかった。秀吉は、かつて主筋として仰いだ織田信雄を名目上の総大将に据えることで、自らとの新たな上下関係を内外に示し、また越後の上杉景勝と会見して連携を強化するなど、巧みな政治的演出を施した 59 。これは、抵抗する者を容赦なく屈服させるという、秀吉の天下統一事業における重要なデモンストレーションであった。

この征伐軍において、前田利家は先鋒として1万の兵を率いるという重要な役割を担った 32 。彼は秀吉本隊が到着するのに先んじて越中へ進攻し、国境地帯の佐々方の城砦を次々と攻略した 46 。かつて苦戦を強いられた相手に対し、今や天下人の大軍の先鋒として攻め入る利家の姿は、この一年間での両者の立場の劇的な変化を物語っていた。

第二節:成政の降伏と前田家の躍進

秀吉の大軍来襲に対し、成政は越中の諸城から兵力を引き揚げ、本拠・富山城に集中させて籠城の構えを見せた 32 。しかし、城を包囲する10万の軍勢を前に、もはや抵抗は無意味であった。成政は、大きな合戦に至る前に降伏を決意。呉羽山の安養坊で剃髪して秀吉に恭順の意を示した 15

この出来事は、戦国時代の価値観の転換を象徴するものであった。佐々成政という一個人の武勇や意地は、関白という「公的な権威」と、それを裏付ける「圧倒的な物量」の前に、完全に無力化された。秀吉が展開した「富山の役」は、もはや合戦ではなく、抵抗そのものを無意味化させるための巨大な政治的・軍事的装置だったのである。

戦後、成政は越中一国を没収され(新川郡のみ安堵されたとの説もある 33 )、その政治生命を事実上絶たれた。一方で、この戦役で功を挙げた前田利家の嫡男・利長は、秀吉から越中の射水・砺波・婦負の三郡を与えられた 61 。これにより、前田家は能登・加賀・越中にまたがる広大な領国を支配下に収め、江戸時代を通じて続く「加賀百万石」の版図をほぼ完成させたのである 10

第三節:二人の終焉 ― 明暗分かれたその後

その後の二人の人生は、末森での勝敗が決定づけた道をそのまま歩むことになった。

佐々成政は、天正15年(1587年)、秀吉の九州平定後に肥後国主に転封された。しかし、彼の性急な検地政策は現地の国人衆の激しい反発を招き、大規模な一揆(肥後国人一揆)を引き起こしてしまう。秀吉は、この失態の責任を問い、天正16年(1588年)5月、成政に切腹を命じた 15 。享年53。波乱に満ちた猛将の生涯は、非業の死によって幕を閉じた。

一方、前田利家は、秀吉政権下でその地位を不動のものとし、五大老の一人にまで上り詰めた。その権勢は、徳川家康に次ぐものであり、豊臣政権の重鎮として重きをなした 11 。彼が生涯にわたり最大の武功として誇ったのが、末森城の救援戦、「末森の後巻き」であった 12 。この戦いの勝利が、彼の、そして前田家のその後の栄光の道を切り開いたことを、利家自身が誰よりも深く認識していたからに他ならない。


結論:末森の戦いが歴史に刻んだもの

天正8年(1580年)の加賀一向一揆の終焉から、天正17年(1589年)の前田家の北陸支配体制確立に至る約10年間の「末森周辺支城戦」は、単なる一地方の領土紛争に留まらない、日本の歴史、特に北陸地方のその後に決定的な影響を与えた。本章では、この一連の戦役が歴史に刻んだものを総括する。

第一節:加賀百万石の礎

末森城での劇的な勝利、そしてそれに続く富山の役での戦功は、前田家の運命を決定づけた 13 。これにより、前田家は加賀・能登・越中の大半を領する、徳川家に次ぐ全国第二位の石高を誇る大大名へと飛躍する基盤を確立した 62 。この戦役における勝利なくして、江戸時代を通じて絢爛たる文化を花開かせた「加賀百万石」の繁栄はあり得なかったであろう 65 。末森城の戦いは、文字通り、前田家の未来を切り開いた一戦であった。

第二節:指揮官たちの評価

この戦役は、対照的な二人の指揮官の資質と運命を浮き彫りにした。

前田利家 は、必ずしも戦術の天才ではなかった。しかし、彼はいくつかの極めて重要な資質を備えていた。第一に、国家の存亡を賭けた重要な局面で、大きなリスクを冒すことのできる決断力。第二に、奥村永福のような譜代の家臣や、桜井三郎左衛門のような一領民との間にさえ、強固な信頼関係を構築する人間的魅力。そして何よりも、織田信長亡き後の天下の趨勢を見極め、自らの立ち位置を的確に判断する、優れた政治的嗅覚である。彼がこの戦いを「末森の後巻き」として生涯の誇りとしたのは 12 、それが自らのキャリアの最大の転換点であったことを、深く自覚していたからに他ならない。

対する 佐々成政 は、織田家への忠義に殉じた、戦術能力に長けた稀代の猛将であった 33 。その軍事指揮能力や不屈の精神力は、同時代の武将の中でも際立っていた。しかし、その一本気で我の強い性格が、政治的な柔軟性を欠き、時代の大きな変化に対応することを妨げた 24 。彼の悲劇的な最期は、戦国乱世の終焉期において、旧来の価値観に固執した武将が辿る典型的な末路を示している。

第三節:歴史的教訓 ― 「人は一代、名は末代」

「人は一代、名は末代なれば、末の世にまで聞ゆる様に殿(利家)の御武功を残させ給へ」

この言葉は、利家が末森城への救援出陣を決意した際に述べたと、『末森記』に記されている 30。この戦役を通じて、主君の危機に命を懸けて城を守り抜いた奥村永福と妻・安、危険を顧みず道案内を買って出た農民・桜井三郎左衛門、そして家臣の忠義に応えるべく決断を下した主君・前田利家。彼らの姿は、後の加賀藩において、武士が目指すべき理想の主従関係、そして人間関係の鑑として永く語り継がれた 36。末森周辺支城戦は、単なる軍事紛争の記録としてではなく、加賀藩の精神的支柱を形成した「物語」として、後世に大きな影響を与え続けたのである。


【表3:主要登場人物とその役割】

人物名

ふりがな

本戦役における役割・評価

典拠

前田利家

まえだ としいえ

羽柴秀吉方に属し、末森城の救援を成功させる。後の加賀藩祖。政治的判断力に長けた現実主義者。

11

佐々成政

さっさ なりまさ

織田信雄・徳川家康方に属し、末森城を攻撃。旧主家への忠義を重んじる一本気な猛将だが、時流を読み誤った。

12

奥村永福

おくむら ながとみ

前田家重臣。末森城主として、圧倒的兵力差の中、籠城戦を戦い抜いた名将。

40

安(つね)

あん(つね)

奥村永福の妻。落城寸前の城内で兵士を鼓舞し、士気を支えた烈女。

12

まつ(芳春院)

まつ(ほうしゅんいん)

前田利家の妻。救援出陣をためらう利家を叱咤し、決断を促したとされる。

21

村井長頼

むらい ながより

前田家重臣。朝日山城で佐々軍の最初の攻撃を撃退。利家の両輪と称された。

41

桜井三郎左衛門

さくらい さぶろうざえもん

高松村の農民。利家の救援軍を安全な海岸ルートへ案内し、奇襲成功の立役者となった。

29

羽柴秀吉

はしば ひでよし

天下人。利家の後援者であり、最終的に「富山の役」で成政を屈服させた。

11

徳川家康

とくがわ いえやす

秀吉の対抗勢力。成政が与したが、最終的に秀吉と和睦し、成政は孤立した。

13

引用文献

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