本佐倉城の戦い(1590)
本佐倉城の戦いは、1590年の小田原征伐において、豊臣軍の侵攻に対し無血開城した。城主不在で主力兵が小田原に籠城していたため抵抗できず、名門千葉氏は滅亡。戦国末期の戦略的判断の重要性を示す。
天正十八年、房総の落日―本佐倉城無血開城の時系列分析
序章:天下統一の最終局面―小田原征伐の勃発
天正18年(1590年)、日本の歴史は大きな転換点を迎えた。天下統一事業の最終段階として、豊臣秀吉が関東の雄、後北条氏の討伐に乗り出したのである。この「小田原征伐」は、単なる一地方の制圧戦ではなく、戦国乱世の終焉を告げる画期的な出来事であった。本稿で詳述する「本佐倉城の戦い」は、この巨大な軍事行動の一環として、房総半島で繰り広げられた一幕である。それは、戦闘の火花を散らすことなく、時代の巨大なうねりの前に一つの名門が消え去った、静かなる終焉の物語であった。
豊臣政権と後北条氏の対立の先鋭化
豊臣秀吉は、四国、九州を平定し、その権威を全国に及ぼす中で、大名間の私闘を禁じる「惣無事令」を発令した 1 。これは、豊臣政権を頂点とする新たな秩序の構築を目指すものであり、これに従うことは秀吉への臣従を意味した。しかし、五代にわたり関東に覇を唱えてきた後北条氏は、この命令に対して曖昧な態度をとり続けた 1 。当主・北条氏直と、隠居後も実権を握る父・氏政は、上洛の要求を再三にわたり先延ばしにする。
この膠着状態を打破する事件が、天正17年(1589年)に発生する。後北条氏の家臣である猪俣邦憲が、秀吉の裁定によって真田氏の所領とされていた上野国の名胡桃城を奪取したのである 2 。この「名胡桃城事件」は、秀吉の権威、すなわち「惣無事令」への明確な挑戦と受け取られ、秀吉に関東出兵の絶好の大義名分を与えた。
開戦が不可避となる中、後北条氏の本拠地・小田原城では、来るべき決戦への方針を巡って議論が紛糾した。徹底抗戦を主張する氏政・氏照らと、秀吉との和睦を模索する北条氏規らの意見はまとまらず、いたずらに時間を浪費した。これが後世に「小田原評定」として知られる、結論の出ない会議の代名詞となる 3 。最終的に、かつて上杉謙信や武田信玄の猛攻を凌いだ経験から、小田原城への籠城策が採られることとなった 4 。
空前の大軍、関東へ:秀吉の戦略構想
天正18年3月1日、秀吉は京の聚楽第を出陣した 6 。彼が動員した軍勢は、まさに空前絶後の規模であった。徳川家康3万、織田信雄1万7千、羽柴秀次1万9千5百といった豊臣恩顧の大名を中核とする本隊に加え、北陸からは前田利家・上杉景勝らの北方隊3万5千、海上からは長宗我部元親・九鬼嘉隆らの水軍1万が小田原を目指した 7 。さらに、秀吉に恭順した常陸の佐竹氏、安房の里見氏といった関東の諸大名1万8千もこれに加わり、総兵力は21万から22万に達した 5 。
秀吉の戦略は、単なる物量による圧殺に留まらない、極めて高度なものであった。その要諦は、圧倒的な兵力で本城である小田原城を完全に包囲し、兵站を断つと同時に、精鋭からなる別動隊を関東各地に点在する後北条氏の支城網へ一斉に派遣し、同時並行で攻略することにあった 8 。これにより、各支城は相互に連携することができず、個別に撃破される。結果として、小田原城は広大な関東平野に浮かぶ孤島と化すのである。
この戦いは、旧来の戦国大名の戦略思想と、天下人の近世的な国家総力戦思想との衝突であった。後北条氏は、小田原城という「点」の堅固さと、各支城を結ぶ「線」の防衛網に依存していた。対して秀吉は、兵站、情報、外交を駆使し、関東全域という「面」を同時に制圧する戦略を展開した。本佐倉城の運命もまた、この秀吉の「面」の戦略の前に、後北条氏の「点と線」の戦略が破綻した結果として、必然的に決定づけられることになる。
第一章:後北条氏の支配と千葉氏の苦境
小田原征伐の嵐が関東に吹き荒れる直前、下総国の名門・千葉氏は、その存亡に関わる深刻な苦境に立たされていた。かつては関東八平氏の一角として威勢を誇ったものの、戦国後期の度重なる内紛と、安房里見氏との熾烈な抗争の中で次第に衰退。生き残りをかけて小田原の後北条氏との関係を深めたが、それは結果として自らの首を絞めることになった 10 。
傀儡化された名門:北条氏政の子・千葉直重の入嗣
千葉氏と後北条氏の関係は、婚姻を通じて強化されたが、それは対等な同盟ではなく、徐々に従属の色合いを濃くしていくものであった。その従属関係が決定的なものとなったのが、天正13年(1585年)に起こった千葉氏当主・千葉邦胤の暗殺事件である。家臣によって当主が殺害されるという未曾有の混乱に乗じ、後北条氏は千葉氏の家督相続に露骨に介入した。
後北条氏当主・北条氏政は、自らの七男である直重を、亡き邦胤の養子として千葉氏に送り込み、家督を継承させたのである 11 。これにより、鎌倉時代以来の名門千葉氏は、その血統による支配を事実上断たれ、後北条氏の傀儡政権と化した 13 。氏政は自ら佐倉に赴き、千葉家中の反北条派を粛清、領国を直接支配下に置いた。本佐倉城には北条氏の軍勢が駐留し、千葉氏は後北条氏の関東支配体制の一翼を担う、一地方軍団へと完全に組み込まれていった 10 。
人質・千葉重胤と小田原籠城:房総主力の不在
邦胤には、千鶴丸(後の千葉重胤)という実子がいたが、父の死当時はまだ幼かったため、家督を継ぐことはできなかった 14 。彼は千葉氏の正統な嫡流でありながら、後北条氏に対する忠誠の証として、人質として小田原へ送られる運命にあった 16 。天正18年(1590年)の小田原征伐開戦時、重胤は母である岩松氏とともに、敵軍に包囲される小田原城の中にいたのである 15 。
後北条氏の戦略は、小田原城を中心とした徹底籠城策であった。このため、天正17年末から18年初頭にかけて、支配下の国衆に対して極めて厳格な動員令が発せられた 18 。千葉氏も例外ではなく、名目上の当主・千葉直重はもちろんのこと、筆頭家老で臼井城主の原胤義、土気城主の酒井康治、東金城主の酒井政辰といった、房総の主だった武将たちは、その手勢を率いて小田原城に参陣し、籠城の任に就いた 18 。
豊臣方が事前に諜報した資料によれば、千葉氏が動員可能な兵力は、当主の軍勢3,000騎、臼井の原氏の軍勢2,500騎など、総計で7,000騎近くに達したと見積もられている 10 。これは後北条氏が動員した総兵力3万4千余の約2割を占める、極めて有力な戦力であった 18 。しかし、この主力のすべてが本拠地を離れ、遠く相模国の小田原城に集結したという事実は、裏を返せば、彼らの本拠地である下総・房総の諸城が、防衛を担うべき主力部隊を完全に欠いた「空き家」同然の状態に置かれたことを意味していた。
表1:小田原征伐における本佐倉城関連勢力図(天正18年春)
勢力 |
主要人物 |
役職・立場 |
天正18年春の所在地 |
備考 |
後北条氏(支配者) |
北条氏政 |
大御所 |
小田原城 |
千葉直重の実父。千葉領を実質的に支配。 |
|
北条氏直 |
当主 |
小田原城 |
|
千葉氏(名目上) |
千葉直重 |
当主 |
小田原城 |
氏政の子。後北条氏からの養子。 |
|
千葉重胤 |
嫡流 |
小田原城 |
邦胤の実子。人質として在城。 |
千葉氏家臣団 |
原胤義(臼井衆) |
筆頭家老 |
小田原城 |
臼井城主。主力と共に籠城。 |
|
酒井康治(土気衆) |
家臣 |
小田原城 |
土気城主。主力と共に籠城。 |
|
酒井政辰(東金衆) |
家臣 |
小田原城 |
東金城主。主力と共に籠城。 |
本佐倉城(留守居) |
(城代・不明) |
留守居役 |
本佐倉城 |
ごく僅かな兵力のみが残留。 |
この勢力配置は、本佐倉城の運命を決定づけた構造的な脆弱性を明確に示している。すなわち、城の運命を左右する権力の中枢(千葉直重、北条氏政)と、城を防衛する戦力の中枢(原氏、酒井氏ら)が、物理的に城から完全に引き剥がされていたのである。豊臣軍が侵攻してくる以前から、本佐倉城は戦略的に「詰み」の状態に置かれていたと言っても過言ではない。
第二章:房総の要衝・本佐倉城
天正18年、静かにその終焉を迎えた本佐倉城は、決して脆弱な城ではなかった。むしろ、それは戦国末期の築城技術の粋を集め、房総半島北部の支配拠点として君臨した巨大な要塞であった。その構造と地政学的な価値を理解することは、なぜこの城が戦わずして降伏したのか、その歴史的意味を深く考察する上で不可欠である。
地形を活かした巨大城郭:構造と防御思想
本佐倉城は、現在の千葉県佐倉市と酒々井町にまたがる、印旛沼を望む北総台地の先端に位置する。この地域特有の、谷津(やつ)と呼ばれる谷が深く入り組んだ複雑な地形を巧みに利用して築かれた、石垣を持たない大規模な「土の城」であった 21 。
城の構造は、連郭式平山城に分類される 24 。城域は大きく内郭群と外郭群に分かれていた。内郭群は、城主の館や政庁があったと考えられる「城山(じょうやま)」、千葉氏が篤く信仰した妙見社が祀られた「奥ノ山」、そして「倉跡」「セッテイ山」といった主要な郭(くるわ)で構成されていた 24 。これらの郭は、深さ数メートルにも及ぶ巨大な空堀と、高くそびえる土塁によって厳重に区画され、敵の侵入を阻むための工夫が随所に凝らされていた 26 。特に、城の出入り口である虎口(こぐち)は、敵兵が直線的に突入できないよう、道を何度も折り曲げる「桝形(ますがた)」や、側面から攻撃を加えるための「横矢掛かり(よこやがかり)」といった構造を持ち、高度な防御思想が見て取れる 26 。
一方、外郭群は「荒上(あらがみ)」、「向根古屋(むかいねごや)」、「根古屋」といった広大な区画からなり、家臣団の屋敷地や兵の駐屯地として整備されていたと考えられる 21 。城の最終形態では、これらの内郭・外郭に加え、城下の宿場町までをも含んだ、南北約2km、東西約1kmにも及ぶ「惣構(そうがまえ)」を形成していたとされ、城郭都市としての機能も有していた 21 。近年の発掘調査では、城山から当主が政務や接客を行った主殿跡や、茶会が催されたであろう会所、そして庭園の跡も確認されており、本佐倉城が単なる軍事拠点ではなく、房総における政治・文化の中心地であったことを物語っている 21 。
香取の海と街道が交わる地:地政学的価値の考察
本佐倉城が房総支配の拠点たり得たのは、その堅固な構造だけが理由ではない。その立地がもたらす地政学的な優位性が極めて大きかった。城の北側には、当時は広大な内海であった「香取の海」(現在の印旛沼、手賀沼、霞ヶ浦一帯)が広がり、利根川水系を通じて下野国の古河や、さらにその先の地域と結ばれる水運の大動脈となっていた 21 。
一方で、城の南側には、銚子、東金、千葉、そして武蔵国方面へと、東西南北に伸びる主要な街道が交差する交通の結節点でもあった 21 。このように、水陸両面の交通網を扼する(やくする)地点に位置していたことで、本佐倉城は房総半島北部における人、物資、情報が集散する一大拠点として機能していたのである。この地を抑えることは、下総一円の支配を確立する上で決定的な意味を持っていた 29 。
しかし、この城が秘めていた潜在的な防御能力と、現実の運命との間には、大きな乖離が存在した。本佐倉城は、その構造上、数千の兵が立て籠もれば、豊臣の大軍を相手にしても相当期間の防戦が可能であったと推察される。だが、皮肉にもその城を守るべき兵士たちは、城主の戦略的判断、すなわち後北条氏の「中央集権的籠城策」によって、一人残らず小田原へと送られていた。
この事実は、戦国末期の戦争の様相が大きく変化していたことを示唆している。もはや、個々の城の物理的な強度や局地的な戦術だけで、大局が決する時代ではなかった。大名家の存亡は、より広域的な視野に立った戦略的判断に懸かっていたのである。堅固な城郭構造も、それを活かす戦略と兵力がなければ意味をなさない。本佐倉城の悲劇は、「城の物理的強度」よりも「大名の戦略的判断」が城の運命を決定づけるという、時代の転換を象徴する事例であった。
第三章:房総侵攻―本佐倉城、落城の刻(とき)
天正18年(1590年)5月、小田原城を包囲する豊臣軍の圧倒的な威勢は、房総半島にも暗い影を落とし始めていた。主力部隊を遠く小田原に派遣し、もぬけの殻同然となった下総の諸城は、刻一刻と迫る豊臣別動隊の前に、風前の灯火であった。本佐倉城の終焉は、激しい攻防戦ではなく、戦略的な状況によって運命づけられた、静かなる降伏の過程をたどることになる。
第一節:豊臣別動隊、下総へ
小田原城の包囲が本格化した4月下旬、秀吉は計画通り、別動隊に関東各地の支城攻略を命じた 7 。下総・房総方面の攻略を担当したのは、豊臣子飼いの将である浅野長政、木村重茲(史料によっては高重)と、関東の地理に明るい徳川家康の家臣団、すなわち本多忠勝、鳥居元忠、平岩親吉らで編成された連合軍であった 30 。
彼らは4月22日に徳川家康の説得によって江戸城を無血開城させると、そこを拠点として5月初頭、本格的な下総侵攻を開始した。その進軍ルートは、江戸川を渡り、野田、松戸といった要地を押さえながら、千葉氏の領国中枢へと真っ直ぐに向かうものであった 30 。
【天正18年5月5日】
連合軍の最初の標的となったのは、千葉氏の有力な一族である高城氏が守る小金城(現在の千葉県松戸市)であった。城主・高城胤則もまた、主力と共に小田原に籠城しており、留守の城に抵抗する力はなかった。浅野隊の前に、小金城はあっけなく占領された 6。
【天正18年5月10日】
小金城を抜いた連合軍は、さらに東進を続ける。次に彼らの前に立ちはだかったのは、本佐倉城の最も重要な支城であり、千葉氏筆頭家老・原氏の本拠地である臼井城(現在の千葉県佐倉市)であった。城主・原胤義も小田原にあり、城を守るのは名代の原邦房らであったが、豊臣の大軍を前にしてはなすすべもなかった 7。臼井城は占領、あるいは降伏勧告に応じて開城した 6。この臼井城の陥落は、本佐倉城にとって致命的な一撃であった。最後の防衛ラインが突破され、本拠地は完全に孤立無援の状態に陥ったのである。
第二節:主力不在の城
【天正18年5月10日~17日】
臼井城陥落の報は、数日のうちに本佐倉城にもたらされたであろう。城内に残された、城代をはじめとするごくわずかな留守居の兵たちにとって、それは絶望的な知らせであった。西からは豊臣の大軍が迫り、頼みの綱である小田原の主力は、秀吉の本隊によって完全に包囲されている。関東各地の支城が次々と陥落していくという情報も、断続的に伝わってきていたはずである。
城主も、歴戦の家臣団も、そして兵卒の主力も不在。この状況で抵抗することは、無意味な死を招くだけでなく、城下の民を戦火に巻き込む愚行に他ならない。城内の士気は完全に打ち砕かれ、降伏以外の選択肢は事実上存在しなかった 6 。この8日間は、戦闘準備ではなく、降伏の意思を固めるための、重苦しい時間であったと推察される。
第三節:天正18年5月18日―降伏の刻
【天正18年5月18日】
浅野長政、木村重茲らの連合軍が本佐倉城下に到達、あるいはすでに包囲下に置いていた状況で、城は正式に降伏し、無血にて開城した 6。具体的な降伏交渉の過程を記した詳細な史料は乏しいが、戦闘行為が行われなかったことは複数の記録から確認できる 32。
この「本佐倉城の戦い」とは、物理的な兵力の衝突を伴う合戦ではなかった。それは、圧倒的な軍事力と、絶望的な戦略的状況が生み出した、政治的な服従の儀式であった。房総の要衝は、一矢も報いることなく、その門を静かに開いた。それは、一個の城の陥落であると同時に、千葉氏という名門が、そして後北条氏が築いた関東の秩序が、音もなく崩れ去った瞬間でもあった。
表2:小田原征伐と下総方面作戦の時系列対照表(天正18年3月~5月)
日付 |
小田原方面の動向 |
下総・房総方面の動向 |
関連性と影響 |
3月29日 |
豊臣軍、箱根の要衝・山中城をわずか半日で攻略。 |
- |
後北条氏の防衛網に深刻な衝撃。小田原籠城組の動揺が始まる。 |
4月3日 |
秀吉本隊による小田原城の本格包囲が開始される。 |
- |
千葉・原氏の主力部隊、完全に小田原城に釘付けとなる。 |
4月22日 |
徳川家康の説得により、江戸城が無血開城。 |
豊臣別動隊、房総侵攻のための前線拠点を確保。 |
下総への進軍路が開かれ、千葉領が直接の脅威に晒される。 |
5月5日 |
秀吉、小田原城を見下ろす石垣山城の築城を開始。 |
浅野隊、下総・小金城を占領。 |
千葉領への侵攻が本格化。本佐倉城への圧力が強まる。 |
5月10日 |
小田原城の包囲網がさらに狭まり、城内の士気が低下。 |
浅野隊、臼井城を占領。 |
本佐倉城の最終防衛ラインが突破され、戦略的に完全に孤立する。 |
5月18日 |
包囲下の膠着状態が続く。降伏勧告が始まる。 |
本佐倉城、無血開城。 |
臼井城陥落から8日後。抵抗の無意味さが確定し、降伏に至る。 |
この対照表は、本佐倉城の開城が孤立した出来事ではなく、小田原における本戦の絶望的な状況と、下総における豊臣軍の計画的かつ迅速な進軍という、二つの要因が連動した必然的な結果であったことを示している。特に、臼井城の陥落から本佐倉城の開城までの8日間は、留守居の者たちにとって、戦略的孤立という冷厳な現実を突きつけられ、降伏を決断する以外に道がなくなった期間であった。
第四章:戦後の関東再編と千葉氏の終焉
本佐倉城の無血開城は、房総における戦いの終わりであると同時に、新たな時代の始まりを告げるものであった。小田原城の開城と後北条氏の滅亡を経て、関東の政治地図は劇的に塗り替えられていく。その過程で、名門千葉氏の命運は尽き、本佐倉城もまた、歴史の舞台から静かに姿を消すことになった。
後北条氏の滅亡と千葉氏の改易
本佐倉城が開城してから約1ヶ月半後の7月5日、3ヶ月にわたる籠城の末、ついに小田原城は開城し、当主・北条氏直は秀吉に降伏した 5 。秀吉による戦後処理は苛烈を極め、7月11日、最後まで主戦論を唱えた北条氏政・氏照兄弟は切腹を命じられ、ここに戦国大名後北条氏は滅亡した 6 。
後北条氏と運命を共にした千葉氏もまた、その存続を許されなかった。後北条氏に与したことを理由に、その所領はすべて没収され、改易処分となった 10 。これにより、鎌倉時代から約470年の長きにわたり、下総国を中心に房総に君臨してきた名門千葉氏は、大名としての歴史に完全に終止符を打ったのである 11 。人質となっていた嫡流の千葉重胤は、後に徳川幕府から小領を与えられることもあったが、大名としての家名を再興することは叶わず、江戸でその生涯を終えたと伝えられている 15 。
徳川家康の関東入府と新たな支配体制
小田原城で行われた論功行賞において、最大の功労者であった徳川家康に対し、秀吉は三河をはじめとする東海5カ国から、後北条氏の旧領である関東6カ国への移封(国替え)を命じた 4 。これは、家康の勢力を畿内から引き離すという秀吉の深謀遠慮があったとされるが、結果として家康に関東という広大で豊かな地盤を与えることになった。
天正18年8月1日、家康は江戸城に入り、関東の新たな支配者として、旧北条・千葉領の再編に直ちに着手した 4 。その一環として、旧千葉氏領の中枢であった下総国佐倉周辺には、徳川四天王筆頭・酒井忠次の嫡男である酒井家次が、3万石(一説には3万7千石)で封じられた 34 。家次は、本佐倉城ではなく、その支城であった臼井城に入り、この地を治めることになった 36 。これは、旧勢力の中心地を避けつつ、戦略的に重要な拠点を徳川譜代の重臣で固めることで、新体制を盤石にするという家康の周到な計算があったと考えられる。
本佐倉城の廃城と、その後の歴史
大名千葉氏の滅亡に伴い、その本拠地であった本佐倉城は、歴史的役割を終え、廃城となった 11 。新たな支配者となった徳川氏は、中世的な構造を持つこの城を再利用することなく、佐倉支配の拠点を一時的に大堀陣屋などに移した 11 。そして江戸時代に入り、慶長15年(1610年)以降、徳川政権の重鎮である土井利勝によって、近世的な縄張りを持つ新たな「佐倉城」が築城されると、政治・軍事の中心は完全にそちらへ移転した 29 。かつて房総に覇を唱えた千葉氏の栄華を象徴した本佐倉城は、再び歴史の表舞台に立つことなく、田畑と森の中に静かに埋もれていったのである。
この一連の戦後処理は、単なる領地の再分配に留まらない。それは、旧支配者である千葉氏と後北条氏の痕跡を意図的に消去し、徳川による新たな支配体制を、物理的にも象徴的にも関東の地に「上書き」していくプロセスであった。中世以来の権威の象徴であった本佐倉城を廃し、その近傍に譜代の重臣を配置し、最終的には新たな近世城郭を築くという流れは、旧時代の秩序を過去のものとし、徳川による近世的な支配体制をこの地に根付かせるための、極めて効果的な政治的パフォーマンスであったと評価できる。
結論:本佐倉城の戦いが残した歴史的意義
天正18年(1590年)5月18日の本佐倉城無血開城は、戦国時代の数多の合戦史の中で、その名が大きく語られることは少ない。しかし、この「戦われなかった戦い」は、戦国乱世の終焉と新たな時代の到来を象徴する、極めて重要な歴史的意義を内包している。
第一に、 戦わずして滅んだ名門の悲劇 を物語っている点である。千葉氏は、自らの意思決定能力を失い、強大な上位権力である後北条氏に完全に組み込まれていた。その結果、後北条氏の「小田原籠城」という戦略的判断の誤りによって、自らの本拠地を守る戦力を根こそぎ奪われ、抵抗する術を持たないまま滅亡へと追いやられた。これは、戦国後期における従属大名の脆弱性と、巨大な権力構造に翻弄される地方勢力の末路を如実に示す悲劇の典型例である。
第二に、 関東の戦国時代の終焉を象徴する出来事 であった点である。房総の要衝であり、堅固な構造を誇った本佐倉城が、一戦も交えることなく降伏したという事実は、もはや個々の武将の武勇や、一つの城の堅牢さでは時代の大きな流れに抗うことができない、新たな時代の到来を関東の武士たちに痛感させた。それは、関東地方における群雄割拠の時代の終わりと、豊臣政権、そしてそれに続く徳川幕府という、統一的かつ中央集権的な権力構造への不可逆的な移行を明確に示す、象徴的な出来事であった。
本佐倉城の静かな終焉は、一つの時代の終わりを告げる鐘の音であった。その後の関東再編と徳川家康の入府は、この地が日本の新たな政治の中心地、すなわち江戸時代へと繋がっていく序章となる。したがって、本佐倉城の無血開城は、単なる一城の降伏ではなく、日本の歴史が中世から近世へと大きく舵を切る、その転換点に位置づけられるべき重要な一幕として、深く記憶されなければならない。
引用文献
- 秀吉の小田原攻めで布陣した家康陣地跡 - 武将愛 https://busho-heart.jp/archives/8495
- 小田原の役古戦場:神奈川県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/odawara/
- 「小田原征伐(1590年)」天下統一への総仕上げ!難攻不落の小田原城、大攻囲戦の顛末 https://sengoku-his.com/999
- 徳川家康の「小田原合戦」|家康が関東転封になった秀吉の北条征伐【日本史事件録】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1131745/2
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- 本佐倉城跡とは | 酒々井町ホームページ https://www.town.shisui.chiba.jp/docs/2017121800028/
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- 佐倉市の歴史ブログ - 佐倉市歴史探訪『歴史噺』シリーズの公式サイトです。 https://sakura-rekishi.jimdofree.com/%E4%BD%90%E5%80%89%E5%B8%82%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%83%96%E3%83%AD%E3%82%B0/
- 千葉氏の歴史 https://www.city.chiba.jp/chiba-shi/about/rekishi.html
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- 臼井城の歴史 - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/466/memo/1310.html
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- 戦国時代末期の城郭からみた権力構造 - 千葉県教育振興財団 https://www.echiba.org/wp-content/uploads/2022/12/kiyo_010_17.pdf