最終更新日 2025-09-02

朽木谷の戦い(1570)

元亀元年、織田信長は越前侵攻中、浅井長政の裏切りで金ヶ崎に孤立。絶体絶命の危機に陥るも、木下秀吉らの殿と朽木元綱の庇護を得て奇跡的に生還。この死線が信長の天下布武を加速させ、後の苛烈な報復へと繋がった。

元亀元年の死線:朽木谷をめぐる攻防と織田信長の危機脱出

序章:朽木谷の「戦い」– 問いの再定義

元亀元年(1570年)、近江国朽木谷。この地名を冠した「朽木谷の戦い」という名の合戦は、戦国時代の主要な戦闘史には見当たらない。しかし、この地が織田信長の天下布武の道程において、最も死に近い瞬間を刻んだ舞台であったことは紛れもない事実である。利用者様が探求する「朽木谷の戦い」とは、刀槍が交わされる物理的な戦闘を指すのではなく、信長の生涯における最大の危機「金ヶ崎の退き口」の最終局面において繰り広げられた、情報、交渉、そして決断が雌雄を決した「政治的・心理的な戦い」に他ならない。

本報告書は、単一の戦闘記録ではなく、元亀元年の越前侵攻開始から、浅井長政の劇的な離反、決死の撤退戦、そして朽木谷での九死に一生を得るまでの全貌を、時系列に沿って詳細に解き明かすものである。そこでは、信長という人物の strategic な思考と人間的な脆さ、彼を支え、あるいは裏切った武将たちの思惑、そして一地方領主の決断が歴史を大きく動かした力学を浮き彫りにする。朽木谷で繰り広げられたのは、血で血を洗う合戦以上に緊迫した、一瞬の判断が生死を分かつ極限状況下の攻防であった。この一連の出来事が、なぜ信長の天下統一事業における重大な転換点となり、関係者すべての運命を不可逆的に変えたのか。その真相に迫る。

第一章:盤上の駒、動く – 越前侵攻への道

元亀元年の春、信長が越前の大名・朝倉義景討伐へと踏み切った背景には、複雑に絡み合った政治的力学と人間関係が存在した。この軍事行動は、単なる領土拡大を目的としたものではなく、信長が構築しつつあった新たな天下の秩序に対する「旧守派」の挑戦者を排除するための、必然的な帰結であった。

信長の大義名分と浅井同盟の構造

永禄11年(1568年)、織田信長は足利義昭を奉じて上洛を果たし、室町幕府第15代将軍として擁立した 1 。これにより信長は、将軍の権威を自らの政治的・軍事的な行動を正当化する強力な後ろ盾とした。信長はこの将軍の名の下、諸大名に対して上洛と臣従を再三にわたり命令したが、越前の名門・朝倉義景はこれを頑なに無視し続けた 1 。この態度は、信長にとって義景を「幕府への反逆者」と断じ、公然と討伐するための絶好の口実を与えるものであった 1

この越前侵攻計画において、地理的に極めて重要な位置を占めていたのが、北近江を支配する浅井長政であった。信長は早くからその重要性に着目し、妹である絶世の美女・お市の方を長政に嫁がせることで、強固な同盟関係を築いていた 1 。この婚姻同盟は、信長の本拠地である岐阜から京への交通路の安全を確保する上で、不可欠な生命線であった 2

しかし、この一見盤石に見える同盟には、致命的な脆弱性が内包されていた。同盟締結の際、浅井氏の側から「朝倉への不戦の誓い」が条件として提示され、信長がこれを受け入れたとする説が有力である 1 。浅井氏と朝倉氏は、長政の父・浅井久政の代から数十年にわたり、深い同盟関係で結ばれた旧来の盟友であった 5 。それは単なる軍事同盟に留まらず、文化的、経済的にも強い絆で結ばれた、いわば運命共同体ともいえる関係だったのである。

信長の賭けと誤算

信長は、この「不戦の誓い」の存在を承知の上で、朝倉討伐を強行した。これは、彼ならではの合理主義に基づいた、意図的な賭けであった。信長は、義弟である長政との個人的な信頼関係、お市の方との良好な夫婦仲 2 、そして何よりも織田家の圧倒的な軍事力を背景に、長政が旧来の盟友よりも自らとの新たな同盟を優先するだろうという、ある種の希望的観測を抱いていた。血縁や婚姻という旧来の価値観を、実利と権力という新しい価値観が凌駕すると信じていたのである。

しかし、これは信長の生涯における重大な誤算であった。彼は、長政が背負う「浅井家当主」としての重責と、父・久政をはじめとする家中の反信長派重臣からの強烈な圧力を過小評価していた 3 。結果として、信長の越前侵攻は、浅井・朝倉の結束を再確認させ、のちに武田、三好、本願寺などを巻き込む広範な「信長包囲網」形成の直接的な引き金となったのである 3

対峙する朝倉義景

一方、信長の標的とされた朝倉義景は、決して無為無策なだけの凡将ではなかった。彼は越前一乗谷に京の都を模した壮麗な文化都市を築き上げ、多くの文化人を招いて繁栄を謳歌していた 7 。また、その外交網は畿内や東海地方に留まらず、遠く薩摩の島津氏や出羽の安東氏にまで及ぶ広範なものであった 7 。彼の度重なる上洛拒否は、単なる怠慢ではなく、足利一門としての名門意識と、信長という新興勢力への根深い警戒心の表れであった。天下を望む器ではなかったかもしれないが、自国の独立と伝統的権威を守るという強い意志を持った、一筋縄ではいかない大名だったのである 8

元亀元年の春、これらの駒はすべて盤上に揃い、信長の一手によって、予測不能な激動の渦へと巻き込まれていくことになる。


表1:主要登場人物とその立場(元亀元年四月時点)

人物名

立場/役職

この時点での目的/動機

織田信長

天下布武を推進する覇者

将軍権威を利用した天下統一事業の障害(朝倉氏)排除

徳川家康

信長の盟友、三河の領主

信長との同盟関係維持と、自勢力の安定化

浅井長政

北近江の領主、信長の義弟

旧盟主(朝倉)への義理と、新同盟者(織田)との関係維持という板挟み

朝倉義景

越前の名門守護大名

伝統的権威の維持と、信長の新秩序への反発

朽木元綱

近江国朽木谷の国人領主

自領の安泰と、室町幕府奉公衆としての立場に基づく政治的生き残り

松永久秀

畿内の梟雄、信長の配下

信長政権下での地位確保と、自らの影響力維持

足利義昭

室町幕府第15代将軍

信長の力を利用した将軍権威の回復と、幕府の再興


第二章:破竹の進軍、そして奈落の底へ – 浅井長政の離反(元亀元年四月二十日~二十八日)

信長の越前侵攻は、圧倒的な軍事力と周到な準備に裏打ちされ、当初は破竹の勢いで進んだ。しかし、その成功の頂点で、彼は予測し得なかった裏切りにより、一瞬にして奈落の底へと突き落されることになる。この章では、運命の数日間を時系列で追い、天国から地獄へと急転直下する戦況を克明に再現する。

電光石火の進撃

元亀元年四月二十日 、織田信長は徳川家康の援軍を含む総勢3万余の大軍を率い、京の都を出陣した 5 。軍勢は近江の坂本、和邇、田中城を経て、若狭街道を北上。この時点では浅井領を何ら問題なく通過しており、信長は義弟・長政の協力を微塵も疑っていなかったことがうかがえる 10

四月二十五日 、連合軍は越前国の入り口である敦賀に侵攻を開始。信長は自ら前線に出て敵情を視察し、敦賀湾を見下ろす要害・手筒山城への総攻撃を命じた 10

四月二十六日 、織田・徳川連合軍の猛攻の前に、堅城と思われた手筒山城はわずか一日で陥落 12 。この電撃的な勝利は、隣接する金ヶ崎城を守る朝倉軍の戦意を完全に打ち砕いた。城将・朝倉景恒は、もはや抵抗は無益と判断し、織田軍に降伏。金ヶ崎城は無血開城された 3 。これにより、信長は越前攻略の重要拠点である敦賀一帯を完全に掌握した。

この織田軍の驚異的な進軍速度は、結果的に二つの側面をもたらした。一つは、朝倉氏の滅亡が目前に迫っているという事実を、同盟者である浅井氏に痛感させたことである。もし織田軍の進撃が遅滞していれば、浅井家内部での議論や朝倉氏との連携にもう少し時間をかけられたかもしれない。しかし、信長の圧倒的な速攻は、長政に「今、動かなければ朝倉は滅び、次は我が身だ」という即時の決断を強いることになった。

もう一つは、信長軍が深く敵地に入り込み、補給線が伸びきったタイミングで、離反の報を受けるという最悪の事態を招いたことである。進軍の成功そのものが、自らの首を絞める罠となったのである。

凶報、そして絶望的状況

四月二十八日(推定) 、手筒山・金ヶ崎を落とした信長は、意気揚々と朝倉氏の本拠・一乗谷を目指し、木ノ芽峠へと軍を進めていた 3 。まさにその時、信長の陣中に激震が走る。妹・お市の方が両端を固く縛った小豆の袋を陣中見舞いとして送り届け、それが袋の鼠(挟み撃ち)の危機を知らせる暗号であったという有名な逸話が残るが、いずれの経路にせよ、浅井長政離反という、信じがたい凶報がもたらされたのである 5

この一報により、戦況は一変した。織田軍は、前方には木ノ芽峠で防備を固める朝倉軍本隊、そして背後には退路を遮断すべく南下してくる浅井軍という、完全な挟み撃ちの態勢に陥った 5 。琵琶湖と山地に挟まれた狭い回廊地帯で、退路も兵糧の補給路も完全に断たれた。それは、戦国史上でも類を見ない、絶体絶命の窮地であった。

しかし、ここで一つの謎が残る。離反を決意した浅井軍は、なぜ直ちに織田軍の背後を猛追しなかったのか。記録によれば、浅井軍の初動は決して迅速なものではなかった 17 。この遅滞の理由として、浅井家内部が一枚岩ではなかった可能性が指摘されている。長政自身、信長やお市の方への情から離反に葛藤があったのかもしれない。あるいは、父・久政ら反信長派が主導したクーデターに近い離反であり、長政が全軍を完全に掌握しきれていなかった可能性も考えられる。この浅井軍の初動の遅れが、結果的に信長や殿部隊が撤退態勢を整えるための、千金にも値するわずかな時間を与えたのである。


表2:金ヶ崎の退き口 詳細年表(元亀元年四月二十日~五月九日)

日付

織田信長の動向

殿部隊(秀吉・光秀ら)の動向

浅井・朝倉軍の動向

朽木元綱の動向

4月20日

京都を出陣、近江・坂本へ

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4月21日

近江・和邇、田中城へ進軍

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4月22-24日

若狭・熊川、佐柿へ進軍

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4月25日

越前・敦賀へ侵攻、手筒山城攻撃開始

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4月26日

手筒山城を攻略、金ヶ崎城が開城

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4月27-28日

浅井長政の離反を覚知、撤退を決断

殿(しんがり)を拝命、金ヶ崎城に籠城

浅井長政、離反を決意し出陣

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4月28日夜

僅かな供回りと共に朽木谷へ向け撤退開始

朝倉軍の追撃に備える

朝倉義景、追撃軍(大将:朝倉景鏡)を派遣

信長接近の報を受ける

4月29日

朽木谷を通過中、朽木元綱と接触

金ヶ崎城で朝倉軍と交戦、撤退戦を開始

追撃を開始、殿部隊と交戦

松永久秀と接触

4月30日

朽木元綱の庇護下、京都へ帰還

追撃を振り切りつつ撤退を継続

殿部隊を追撃

信長の通過を許可し饗応、警護

5月1日

京都にて平然と御所の視察を行う

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5月6日

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激しい戦闘の末、京都へ生還

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5月9日

本拠地・岐阜城へ向け京都を出立

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第三章:決死の撤退戦 – 金ヶ崎の退き口

絶望的な状況下で、信長は即座に決断を下した。全軍の玉砕という最悪の事態を避けるため、自らは選りすぐりの僅かな供回りのみで本隊を離れ、敵中を突破して京へ帰還する。そして、本隊が無事に撤退する時間を稼ぐため、最も危険な殿(しんがり)を信頼する部将に託すという、非情かつ合理的な作戦であった。この決断が、のちの歴史を大きく左右することになる。

殿に命を懸けた者たち

総大将が真っ先に戦線を離脱するという異例の行動は、それだけ状況が切迫していたことを物語っている 11 。全滅の危険性が極めて高い殿軍の指揮官として、信長が白羽の矢を立てたのは、木下秀吉(後の豊臣秀吉)、明智光秀、そして池田勝正といった面々であった 3 。彼らの多くは織田家譜代の重臣ではなかったが、信長はその能力を高く評価していた。この人選は、彼らへの深い信頼の証であると同時に、その器量を試す絶好の機会でもあった。

命令を受けた秀吉、光秀らは、ただちに金ヶ崎城に立てこもり、追撃してくる朝倉軍を迎え撃つ態勢を整えた 5 。朝倉義景自身はすぐに出陣せず、追撃軍の大将には一門の朝倉景鏡を任せたが、その軍勢は数で殿部隊を圧倒していた 3

秀吉らは、鉄砲隊を効果的に配置して追撃軍の勢いを削ぎ、足軽隊が槍で時間を稼ぐ間に、また少しずつ後退するという、極めて高度な統率力が求められる遅滞戦術を展開した 13 。それは、一瞬の判断ミスが部隊の全滅に繋がる、綱渡りのような指揮であった。朝倉軍は殿部隊の予想以上に統率の取れた抵抗に遭い、深追いを躊躇した節がある 13 。この朝倉軍の「詰め」の甘さが、秀吉らに撤退の余地を与え、結果的に織田軍の中核戦力を温存させることに繋がった。

織田家中の権力構造を変えた戦い

この決死の任務を成功させたことで、木下秀吉と明智光秀の評価は織田家中で飛躍的に高まった。信長の命を救った最大の功労者として、他の重臣たちとは一線を画す特別な存在となったのである 12 。信長は論功行賞において、特に秀吉の功績を称え、黄金数十枚を与えたと記録されている 11 。この成功体験が、彼らが後に城持ち大名へと出世する道を開いた。金ヶ崎は、秀吉と光秀という二つの巨星が、その輝きを確かなものにした、運命の舞台であった。

しかし、撤退は無傷では終わらなかった。『多聞院日記』には、この撤退戦で織田軍の損害は「人数二千余も損歟ノ由」という伝聞が記されており、相当数の兵士が討死したか、あるいは恐怖から脱走したことが示唆される 11 。それでも、信長をはじめとする主要な武将たちはほぼ無事に生還し、軍の再建が可能な範囲で被害を食い止めたことは、殿部隊の奮戦の賜物であった 11 。彼らは信長が京に帰還してから数日遅れ、満身創痍となりながらも無事に生還を果たした 5

第四章:運命の岐路、朽木谷 – 信長の賭けと元綱の決断(元亀元年四月二十八日~三十日)

本隊の運命を殿部隊に託した信長は、自らの生死を賭けた逃避行を開始した。浅井領である琵琶湖東岸は通れず、西岸ルートも敵の伏兵が潜む危険地帯であった。この八方塞がりの状況で、信長が選んだのは、若狭から山中を抜けて京へ至る間道、朽木街道(通称:鯖街道)を突破するという、一か八かの賭けであった 19 。この選択が、本報告書の核心である朽木谷での「戦い」の幕開けとなる。

朽木元綱の決断

朽木谷は、安曇川の上流域に広がる山間の谷で、古くから若狭と京都を結ぶ交通の要衝であった 22 。この地を支配する国人領主・朽木元綱の協力なくして、信長の京都帰還は絶対に不可能であった。問題は、その元綱が当時、浅井氏に従属する立場にあったと見なされていたことである 19 。事実、『朝倉記』などの後世の記録によれば、元綱は当初、落ち延びてくる信長を討ち取り、首を浅井長政への手柄にしようと考えていたとさえ伝えられている 1

信長一行が朽木谷に差し掛かった時、甲冑をまとった元綱の軍勢が出迎えた。武装したその姿に、信長一行は絶望的な緊張に包まれた 20 。万事休すかと思われたその時、信長に同行していた一人の武将が前に進み出た。畿内の情勢に精通した梟雄、松永久秀である 3

久秀は、元綱との交渉役を買って出た。この土壇場で、譜代の重臣ではなく、かつては敵であり、信長に仕えて日も浅い久秀の知見と交渉能力に賭けた信長の判断は、彼の卓越した人物眼を証明している。久秀は元綱に対し、単なる脅しや懐柔ではなく、元綱のアイデンティティそのものに訴えかける、巧みな論理を展開したと考えられる。

「将軍家への忠誠」という大義名分

朽木氏は、単なる山間の地方豪族ではなかった。彼らは鎌倉時代以来この地を治め、室町時代を通じて将軍に直属する軍事官僚「奉公衆」としての地位を代々務めてきた名門中の名門であった 25 。将軍家が政争に敗れて京を追われた際には、自領である朽木谷にかくまうなど、将軍家への深い忠誠の歴史を誇っていた 26

松永久秀が元綱に突きつけた論理の核心は、ここにあった。「信長公は、現将軍・足利義昭公を奉じ、その名代として朝倉を討伐している。これは幕府の公戦である。ここで信長公を討つことは、将軍家への反逆を意味する。地域的な新興勢力である浅井への義理と、貴殿の一族の存在意義そのものである将軍家への忠義、どちらを取るのか」 19

この説得は、元綱の心を大きく揺さぶった。彼は浅井を「裏切る」のではなく、より高次の忠誠義務、すなわち幕府奉公衆としての務めを「果たす」という、名誉ある選択肢を選んだのである。決断した元綱は、平服に着替え、信長一行を自らの居城に招き入れた。『信長公記』には、この時の様子を「朽木信濃守(元綱)馳走を申し」と簡潔に記しているが、これは元綱が信長を手厚く饗応し、忠誠を誓ったことを意味する 21

元綱は、信長を朽木城で一泊させると、翌日には京都までの道を自ら警護して送り届けた 20 。こうして

元亀元年四月三十日 、信長はわずか10人程度の供回りと共に、奇跡的に京の都へ生還を果たしたのである 11 。朽木谷で繰り広げられたのは、一人の国人領主の決断が天下の趨勢を決した、静かなる、しかし決定的な「戦い」であった。

第五章:死線を越えて – 報復、そして新たなる戦局へ

九死に一生を得て京都に生還した信長の行動は、迅速かつ剛胆であった。彼はこの絶体絶命の危機を乗り越えたことで、より冷徹で抜け目のない戦略家へと変貌を遂げていく。金ヶ崎での屈辱は、彼の心に消えることのない炎を灯し、裏切り者への苛烈な報復戦へと繋がっていった。

驚異的な回復力と報復の序曲

京都に到着した翌日の 五月一日 、信長は疲労や動揺の素振りを一切見せず、改修中の御所を視察するなど、平然と公務をこなして見せた 11 。これは、自らの健在と権威の失墜がないことを内外に誇示するための、高度な政治的パフォーマンスであった。

五月九日 、信長は本拠地である岐阜城へ向けて京都を出立 11 。しかし、その道中の千草越えで、六角義賢の残党に雇われた狙撃の名手・杉谷善住坊による鉄砲狙撃を受けるという、二度目の暗殺の危機に遭遇する。弾丸は信長の小袖を貫通したものの、幸運にも命拾いした 3

立て続けに死線を越えた信長は、岐阜に帰還するや否や、すぐさま軍の再編成に着手した。そして、金ヶ崎からわずか1ヶ月余り後の 六月 、徳川家康の軍勢と共に再び近江へ出陣。その矛先は、裏切り者・浅井長政に向けられた 3

信長は、浅井氏の重要な支城である小谷城南方の横山城を包囲した 2 。これは、横山城を攻めることで浅井・朝倉連合軍本隊をおびき出し、野戦に引きずり込んで決戦を挑むという、「囲点打援」と呼ばれる巧妙な戦術であった 3 。金ヶ崎での手痛い失敗が、彼を単なる力押しではない、より計算された戦略家へと成長させたことを示している。

姉川の戦いへ

信長の狙い通り、横山城の危機を救うため、浅井長政と、彼を支援する朝倉景健率いる連合軍が出陣。そして 元亀元年六月二十八日 、両軍は姉川を挟んで対峙し、戦国史に名高い「姉川の戦い」の火蓋が切られた 2

この戦いで織田・徳川連合軍は激戦の末に勝利を収め、浅井・朝倉方に甚大な被害を与えた。金ヶ崎の撤退戦が、姉川の戦いの直接的な前哨戦であったことは明らかであり 28 、信長にとって姉川での勝利は、金ヶ崎の屈辱を晴らすための、執念の報復であった。

最も信頼していた義弟・長政からの裏切りは、信長の心に深い人間不信を植え付けたと考えられる。この事件以降、信長は縁故や情よりも、絶対的な力と、時には恐怖による支配を志向する傾向を強めていく。後の比叡山焼き討ち(1571年)や、浅井・朝倉滅亡時(1573年)に見せたと言われる苛烈な処置は、この金ヶ崎で受けた裏切りに対する、根深い復讐心と無縁ではないだろう。金ヶ崎の死線は、信長の精神構造にも、不可逆的な変化をもたらしたのである。

終章:歴史の転換点としての金ヶ崎・朽木越え

元亀元年の「金ヶ崎の退き口」と、そのクライマックスである「朽木越え」は、単なる一つの撤退戦に留まらず、戦国時代の歴史の流れを決定づけた巨大な分岐点であった。もし、信長がこの地で命を落としていたならば、その後の日本の歴史は全く異なる様相を呈していたであろう。

信長の生還は、彼が進めていた天下統一事業の継続を意味した。彼の死後、その事業は豊臣秀吉、徳川家康へと引き継がれ、最終的には江戸幕府による260年余りの長期安定政権へと繋がっていく。もし信長が金ヶ崎で討たれていれば、織田家は後継者争いで分裂・弱体化し、日本は再び群雄割拠の時代に逆戻りした可能性が高い 5 。日本の統一は、数十年、あるいはそれ以上遅れていたかもしれない。

この事件はまた、関わった武将たちの運命をも大きく変えた。

  • 木下秀吉と明智光秀 は、決死の殿を見事に務め上げたことで、織田家臣団の筆頭へと駆け上がった 12 。彼らのその後の目覚ましい活躍と、本能寺で交錯する悲劇的な運命は、この金ヶ崎から始まったと言っても過言ではない。
  • 浅井長政と朝倉義景 は、信長を取り逃がすという最大の好機を逸したことで、滅亡への道を突き進むことになった 2 。この一度の失敗の代償は、一族の滅亡という、あまりにも大きなものであった。
  • そして、 朽木元綱 。彼は信長を助けたにもかかわらず、後に織田政権下で厚遇されたとは言い難い。しかし、彼の「将軍家への忠誠」という大義名分に基づいた決断は、戦国の乱世を生き抜く国人領主の巧みな処世術の極致であった。結果として朽木家は、その後の権力者の変転を乗り越え、江戸時代を通じて家名を存続させることに成功した 25 。一族の存続という観点から見れば、彼の選択は紛れもない「正解」だったのである。

結論として、「朽木谷の戦い」とは、織田信長が自らの戦略的誤算と慢心によって招いた最大の危機に直面し、家臣の忠誠と卓越した能力に救われ、そして一地方領主の政治的決断によって生かされた、極めて人間的なドラマであった。それは、戦国という時代の非情さと、その中で繰り広げられる人々の葛藤、決断、そして運命の交錯を凝縮して象徴する、日本史における不朽の一場面なのである。

引用文献

  1. 金ヶ崎の戦い/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7305/
  2. 姉川の戦い古戦場:滋賀県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/anegawa/
  3. 1570 姉川之戰: WTFM 風林火山教科文組織 https://wtfm.exblog.jp/15555941/
  4. 【その時どうした家康?】まさかの裏切りで九死に一生!信長唯一の撤退戦「金ヶ崎の退き口」 https://gentosha-go.com/articles/-/49951
  5. 織田信長、まさかの裏切りで九死に一生!戦国の撤退戦「金ヶ崎の戦い」 - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/135767/
  6. 姉川の戦|国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=2375
  7. 朝倉義景 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%80%89%E7%BE%A9%E6%99%AF
  8. 評価が180度変わった? 福井で見えた、隠れた名将「朝倉義景」の手腕 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/10844
  9. 朝倉義景(あさくら よしかげ) 拙者の履歴書 Vol.12〜名門の誇りと滅亡 - note https://note.com/digitaljokers/n/ned476d40504d
  10. 金ヶ崎の退き口 (前編:手筒山攻撃~浅井長政の離反) - 歴旅.こむ http://shmz1975.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/post-d8e5.html
  11. 金ヶ崎の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E3%83%B6%E5%B4%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  12. 織田信長最大のピンチ! 金ヶ崎の退き口ってどんな戦いだったの?ー超入門!お城セミナー【歴史】 https://shirobito.jp/article/847
  13. 金ヶ崎の退き口~朝倉義景の猛攻で信長は「生涯最大のピンチ」に | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/8143?p=1
  14. 金ヶ崎の退き口 - 敦賀市 http://historia.justhpbs.jp/nokiguti.html
  15. 織田信長、危機一髪"信長の朽木越え" | びわ湖高島観光ガイド https://takashima-kanko.jp/course/2019/10/post_1.html
  16. 浅井長政の裏切り察知は必然だった?:「金ヶ崎の退き口」を地形・地質的観点で見るpart6【合戦場の地形&地質vol.3-6】|ゆるく楽しむ - note https://note.com/yurukutanosimu/n/nf447b38fab49
  17. 虎御前山争奪戦 - 下天夢紀 http://tenkafubu.fc2web.com/azaiasakura/htm/toragoze.htm
  18. 朽木元綱 信長最大のピンチを救った男 戦国をしたたかに生き抜いた処世術とは? - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=dp330BCqqlc
  19. 朽木に信長遁走の跡を訪ねる - きままな旅人 https://blog.eotona.com/visit-the-site-of-nobunagas-escape-in-kutsuki/
  20. 金ヶ崎の退き口 (後編:撤退開始~朽木越え) - 歴旅.こむ http://shmz1975.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/post-86f1.html
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  24. 織田信長 まさかの危機一髪!!《金ヶ崎の退き口》|まさざね君 - note https://note.com/kingcobra46/n/n6077881758cb
  25. 朽木氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%BD%E6%9C%A8%E6%B0%8F
  26. 歴史人物語り#75 室町幕府将軍が京を追われた時に頼りにしたの ... https://tsukumogatari.hatenablog.com/entry/2019/10/21/200000
  27. 姉川古戦場 - 浅井・湖北・高月 - フォートラベル https://4travel.jp/dm_shisetsu/10007943
  28. 徳川家康はどんなリーダーだったのか>信長と家臣とのやりとりから見える英傑の一面とは https://wedge.ismedia.jp/articles/-/34515?page=2
  29. 「姉川」が決戦地となった理由とは?:「姉川の戦い」を地形・地質的観点で見るpart2【合戦場の地形&地質vol.4-2】|ゆるく楽しむ - note https://note.com/yurukutanosimu/n/n1c086e9754ae
  30. 近江 朽木陣屋-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/oumi/kutsuki-jinya/