最終更新日 2025-08-30

来島城の戦い(1585)

天正十三年、秀吉の四国征伐で来島城は無血開城。来島通総の調略により、毛利軍は芸予水道の要衝を確保。周辺の怪島城を制圧し、伊予侵攻の橋頭堡を築いた。これは秀吉の巧みな戦略の勝利であった。

天正十三年、伊予の潮目―「来島城の戦い」の戦略的実像と芸予水道の支配

序論:天下統一の奔流、四国へ

天正13年(1585年)、羽柴秀吉による天下統一事業は、その最終段階へと向かう重要な局面を迎えていた。小牧・長久手の戦いを経て最大のライバルであった徳川家康と和睦し、東国への道筋をつけた秀吉にとって、次なる課題は西国、とりわけ四国の平定であった 1 。この時期、四国では長宗我部元親が、土佐一国から身を起こし、阿波、讃岐、そして伊予を次々と制圧し、天正13年春には伊予の名門・河野通直を降伏させ、四国統一という偉業をほぼ成し遂げていた 1 。しかし、その覇業が完成に近づいた瞬間こそ、秀吉という巨大な権力との衝突が不可避となった時でもあった。

羽柴秀吉の視点―なぜ四国平定は必要だったのか

秀吉にとって、長宗我部元親の存在は、自らが構築しようとする天下の秩序に対する明確な挑戦であった。小牧・長久手の戦いにおいて、元親は家康と結び、秀吉の背後を脅かす存在として紀州の雑賀衆などと連携しており、秀吉はその脅威を深く認識していた 1 。紀州征伐を完了させた秀吉が、その矛先を四国へ向けたのは、天下統一事業における必然的な戦略的帰結であった 2

当初、秀吉は交渉による解決を模索した。しかし、その条件は元親が近年武力で併合した「伊予・讃岐両国の返上」という、元親の覇業を根本から否定するものであった 1 。元親は多大な犠牲の上に築いた領土を易々と手放すことを拒絶し、「伊予一国の返上」を妥協案として提示するも、秀吉はこれを一蹴 3 。交渉は決裂した。この対立は、単なる領土の広さを巡る争いではない。それは、織田信長の後継者として天下の秩序を再編する権威を主張する秀吉と、自らの実力で四国という独立した勢力圏を築き上げた元親との、領土の正当性を誰が決定するのかという、戦国時代の根源的な権力思想の衝突であった。秀吉の要求は、彼の天下人としての権威への服従を求めるものであり、元親の抵抗は、その秩序への最後の挑戦だったのである。

三方面同時侵攻作戦の策定

交渉決裂を受け、秀吉は武力による四国平定を決断する。彼は弟の羽柴秀長を総大将、甥の羽柴秀次を副将に任じ、総勢10万を超える未曾有の大軍を編成した 1 。その作戦は、長宗我部軍の兵力を分散させ、同時に多方面から圧殺することを目的とした、壮大かつ緻密なものであった。具体的には、以下の三方面からの同時侵攻が計画された 1

  1. 阿波方面軍: 総大将・羽柴秀長、副将・羽柴秀次が率いる主力部隊。淡路島を経由して阿波に上陸し、長宗我部氏の本拠地を直接脅かす。
  2. 讃岐方面軍: 宇喜多秀家を主将とし、黒田孝高、蜂須賀正勝らが加わる部隊。備前・播磨から讃岐へ上陸し、東から圧力をかける。
  3. 伊予方面軍: 毛利輝元を名目上の総大将とし、実質的な指揮は知将・小早川隆景が執る部隊。安芸・備後から伊予へ上陸し、西の防衛線を突き崩す。

この三方面包囲網は、長宗我部元親の防衛構想を根底から覆すものであった。

四国の覇者・長宗我部元親の防衛戦略

秀吉の侵攻を予期していた元親は、四国の地政学的な中心地である阿波国西端の白地城に本陣を構え、全軍の指揮を執った 1 。彼は、秀吉軍の主力が淡路から阿波へ侵攻してくると予測し、木津城、岩倉城、一宮城といった阿波の主要な城郭に重臣を配置し、防衛線を重点的に固めていた 2 。しかし、秀吉が伊予にまで毛利の大軍を差し向けるという三方面からの同時侵攻は、元親の想定を上回る規模であり、彼の防衛計画は初動から綻びを見せることとなる 3 。この伊予方面軍の動向こそが、本稿で詳述する「来島城の戦い」の直接的な引き金となるのである。

第一章:芸予水道の地政学的重要性―村上海賊と制海権

秀吉の四国攻め、特に伊予方面作戦を理解する上で、その主たる舞台となった芸予水道の地政学的な特性を把握することは不可欠である。この海域は、単なる海路ではなく、それ自体が一個の戦略的要충であり、この地を支配する村上海賊の存在が、戦いの趨勢を左右する決定的な要因であった。

海の難所にして要衝―芸予諸島の地理

芸予諸島は、瀬戸内海の東西交通を物理的に分断するように島々が密集して連なる海域である 9 。この地理的特徴は、狭い海峡(瀬戸)を無数に形成し、そこに特異な自然現象をもたらす。大潮時には最大10ノット(時速約18km)にも達する、川の急流のごとき激しい潮流が発生するのである 11 。この複雑怪奇な潮流は、航行する船舶にとって最大の難所であり、古来より多くの船乗りを恐れさせてきた 12

しかし、この危険な海域こそが、村上海賊にとっては天然の要害であり、彼らの力の源泉であった。潮流は、巧みな操船技術を持たない外部の勢力にとっては侵入を阻む「動く城壁」として機能した。一方で、この海を知り尽くした村上海賊にとっては、敵を翻弄し、自軍を有利に導くための強力な武器となった。彼らの本拠地である海城の防御力は、石垣や堀といった物理的な設備以上に、この潮流という自然の要害に大きく依存していたのである。

「海の領主」村上水軍の実態

一般的に「海賊」というと、無差別に船を襲い略奪を行う無法者(パイレーツ)のイメージが強い。しかし、村上水軍の実態はそれとは大きく異なる。彼らは、芸予水道という地理的独占性を背景に、独自の秩序を形成した「海の領主」と呼ぶべき存在であった 11 。その活動は多岐にわたる。

  • 海の安全保障: 他の海賊衆や海の難所から交易船を警固し、安全な航行を保障した 11
  • 通行料の徴収: 支配海域を航行する船舶から、帆の大きさや数に応じて「帆別銭(ほべちせん)」と呼ばれる通行料を徴収した 12 。これは彼らの主要な収入源であった。
  • 水先案内: 複雑な潮流を熟知した彼らは、優れた水先案内人でもあった 14
  • 戦国大名の傭兵: 戦時には、その卓越した海上戦闘能力を商品として、毛利氏や大内氏といった陸の大名に傭兵として協力した 12

これらの活動を通じて、彼らは独自の経済基盤と軍事力を確立し、時の権力者さえも無視できない独立した勢力となった。ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが彼らを「日本最大の海賊」と評したのも、その強大な影響力を目の当たりにしたからに他ならない 11 。この村上水軍は、本州寄りの因島、中央の能島、そして四国寄りの来島を本拠とする三つの家(三島村上)に分かれており、それぞれが独立性を保ちつつ、時に連携し、時に敵対するという複雑な関係にあった 12

制海権の戦略的価値

以上の背景から、芸予水道の制海権を掌握することの戦略的価値は計り知れない。特に、中国地方から四国の伊予へ大規模な軍勢や兵糧を海上輸送する場合、この海域の安全確保は作戦の成否を決定づける絶対条件であった 18 。かつて毛利元就が、圧倒的に不利な兵力差を覆して陶晴賢を破った厳島の戦いにおいて、村上水軍を味方につけて海上を封鎖したことが勝利の最大の要因であったことは、戦国史における不変の教訓である 19 。秀吉と、その命を受けた知将・小早川隆景が、伊予侵攻に際して、まずこの芸予水道の完全な支配を企図したのは、当然の戦略的判断だったのである。

第二章:来島通総の決断―毛利・河野からの離反と秀吉への帰順

天正13年(1585年)の伊予侵攻作戦において、小早川隆景が直面した最大の課題は、芸予水道の制海権をいかにして確保するかであった。力攻めでは、潮流という天然の要害と村上水軍の抵抗により多大な損害と時間を要することが必至である。そこで秀吉と隆景が選択したのは、武力ではなく調略、すなわち村上水軍の内部を切り崩すことであった。その標的となったのが、三島村上の一角、来島村上氏の当主・来島通総であった。

来島村上氏の複雑な立場

三島村上の中でも、来島村上氏は最も四国側に位置し、伊予の守護大名である河野氏と深い関係にあった。代々、河野氏の家臣としてその水軍の中核を担い、形式上はその配下という立場にあった 16 。しかし、その実態は単なる従属者ではなかった。彼らは独立した海上勢力としての矜持を持ち、時には主家である河野氏の意向を超えて、独自の判断で行動した。その代表例が、毛利元就と陶晴賢が雌雄を決した厳島の戦いである。この時、来島村上氏は河野氏の同盟者である大内・陶方ではなく、毛利元就に味方し、その勝利に大きく貢献している 19 。この功績により、彼らは毛利氏からも一目置かれる存在となり、河野、毛利という二大勢力の間で巧みに立ち回り、その勢力を維持していた。

秀吉の調略と村上水軍の分裂

本能寺の変以降、織田信長の後継者として急速に台頭した羽柴秀吉は、中国地方で対峙していた毛利氏との和睦後、その矛先を四国へと向けた。秀吉は、毛利水軍の強大さ、その中核をなす村上水軍の力を熟知しており、正面からの衝突を避けるべく、その内部崩壊を狙った調略を開始する 11

この調略に、来島通総は応じた。天正10年(1582年)、通総は天下の趨勢が秀吉にあると判断し、長年の主筋であった河野氏、そして同族であり同盟者でもあった毛利氏と能島村上氏を裏切り、織田(羽柴)方へ寝返るという重大な決断を下したのである 19 。この決断の背景には、独立領主としての地位を確立したいという通総自身の野心と、旧来の枠組みに縛られない秀吉の先進性への期待があったと推測される。

しかし、この離反は大きな代償を伴った。裏切りに激怒した毛利・河野、そして能島村上氏の連合軍は、直ちに来島村上氏の討伐に乗り出した。猛攻撃を受けた通総は、本拠地である来島城を守り切れず、城を捨てて備中国にいた秀吉のもとへ逃走を余儀なくされた 17 。その後、秀吉と毛利氏との間で和睦が成立したことにより、通総は天正12年(1584年)に来島への復帰を果たすが 26 、この一連の出来事を通じて、彼は完全に秀吉配下の武将としての道を歩むこととなった。

四国攻めにおける来島通総の役割

そして天正13年、秀吉による四国攻めが開始されると、来島通総は極めて重要な役割を担うことになった。彼は、小早川隆景が率いる伊予方面軍の「先鋒」に任じられたのである 18 。これは、伊予の地理と海路を熟知した彼が、大軍を安全に上陸させるための水先案内人として、また、伊予国内の旧知の勢力への調略役として、不可欠な存在であったことを示している。

この事実こそが、「来島城の戦い」の実像を理解する上で最も重要な点である。一般的に想起されるような、敵の城を攻め落とす「攻城戦」としての「来島城の戦い」は、この時点では存在しない。天正13年6月、小早川軍が伊予に渡った時、来島城は攻撃すべき「敵の拠点」ではなく、味方である来島通総が迎え入れる「友軍の前線基地」であった。したがって、この戦いの本質は、村上水軍の拠点を武力で制圧することではなく、「村上水軍の一部を味方に引き入れ、その拠点を侵攻の足掛かり(橋頭堡)として利用する」という、より高度な戦略だったのである。

第三章:天正十三年、夏の伊予灘―「来島城の戦い」時系列詳解

利用者からの「合戦中のリアルタイムな状態が時系列でわかる形」という要望に応えるべく、本章では、天正13年(1585年)6月下旬から7月初旬にかけての伊予沿岸部における軍事行動を、具体的な日付と共に詳細に再現する。これは、単一の攻城戦ではなく、橋頭堡の確保と周辺掃討を目的とした、連続的な軍事作戦であった。

【表1】四国攻め(伊予方面)における両軍の兵力比較

作戦の展開を理解する前提として、両軍の戦力差を明確に示しておく。その圧倒的な非対称性が、作戦の様相を決定づけている。

勢力

総大将/指揮官

兵力(推定)

主な構成・特徴

羽柴(豊臣)・毛利連合軍

毛利輝元/小早川隆景

30,000~40,000名 1

中国8ヶ国の軍勢。小早川水軍、来島水軍が中核。大型軍船の安宅船 31 や機動力に優れた小早船 32 を多数動員。

長宗我部・伊予国人衆連合軍

長宗我部元親/金子元宅、神野左馬允など

伊予東部で数千名規模 34

来島城周辺の支城に分散配置。怪島城は侍5騎、足軽20人という寡兵であった 37

この表が示す通り、小早川軍は長宗我部方の伊予勢力に対して10倍以上の兵力を有しており、戦いの帰趨は開戦前からほぼ決していたと言える。問題は、いかに損害を少なく、迅速に伊予を平定するかという点にあった。

六月下旬 進発―瀬戸内を埋め尽くす大船団

天正13年6月下旬、毛利輝元が備後三原に本陣を構える中、作戦の実質的な総指揮官である小早川隆景は、第一軍を率いて安芸国忠海と備後国三原の港から伊予へ向けて出航した 1 。その船団は、瀬戸内海を埋め尽くすほどの規模であったと伝えられる。大筒などの重火器を搭載可能な大型の安宅船 31 が中核をなし、その周囲を機動力に優れた無数の小早船 32 が固める編成であったと推測される。知将として名高い隆景は、かつて厳島の戦いで水軍の重要性を骨身に染みて理解しており 20 、この渡海作戦にも万全の準備を整えて臨んだ。

六月二十七日 上陸―橋頭堡の確保

来島通総の巧みな水先案内によって、3万を超える小早川軍の先発隊は、芸予水道の激しい潮流をものともせず、伊予国の要衝・今治浦への上陸に成功した 1 。この上陸は、長宗我部方の抵抗を受けることなく、極めてスムーズに行われた。そして、海峡の入り口に浮かぶ来島城は、戦闘を経ることなく、友軍の拠点として接収された。これにより、小早川軍は伊予侵攻作戦における安全かつ確固たる橋頭堡を確保したのである。これは、数年越しの調略によって来島通総を味方に引き入れていたことがもたらした、最大の戦略的成果であった。

六月二十八日~七月初旬 周辺制圧―来島城の支城・怪島城攻防

上陸の翌日、隆景は早速軍令を発し、軍勢による無法な行いを禁じるなど、占領地の統制を徹底した 18 。彼の慎重な性格は、まず上陸拠点たる今治周辺の完全な安全を確保することを優先させた。その過程で、長宗我部方に与し、小早川軍の背後を脅かす可能性のある最後の海上拠点、

怪島城 (けしまじょう)の掃討が開始された 41

この城を守っていたのは、神野左馬允(じんのさまのじょう)という武将であった 44 。彼は本来、来島村上氏の家臣であったが、主君・通総の離反に従わず、旧主である河野氏への忠義を貫き、長宗我部方として抵抗の道を選んだ人物と伝えられる 37 。彼が守る怪島城は、侍5騎、足軽20人という、大軍を前にしてはあまりにも寡兵であった 37

この怪島城攻防戦こそが、「来島城の戦い」という呼称が指し示す、具体的な戦闘の実態である。その様相は、以下のように推測される。

  1. 海上封鎖: まず、小早川水軍の多数の小早船が怪島を完全に包囲し、補給路と退路を遮断した 48 。島全体が城塞化された海城 39 に対しては、兵糧攻めと孤立化が最も有効な戦術である。
  2. 強襲と抵抗: 続いて、小早船が島の岩礁に次々と接舷し、兵士たちが上陸を試みた。神野左馬允のわずかな兵は、島の急峻な崖や曲輪といった天然の地形 28 を最大限に活用し、必死の抵抗を見せたと考えられる。
  3. 火器による制圧: 抵抗が続くと、小早川軍は安宅船に搭載した大筒 31 による砲撃や、村上水軍が得意とした焙烙火矢(ほうろくひや) 53 を用いて、島内の木造建築物や防御施設を焼き払い、守備兵の戦意を削ぐ戦術をとった可能性が高い。

圧倒的な兵力と物量の差の前に、神野左馬允の奮戦も空しく、怪島城は数日のうちに落城した 41 。神野左馬允は降伏し、その命は助けられたと伝えられる 37 。この怪島城の制圧により、来島海峡の西側出口は完全に小早川軍の支配下に入り、海上における後顧の憂いは一掃された。

七月五日以降 陸戦への移行

海上での安全が確保された7月5日、吉川元長が率いる第二軍が今治に上陸し、毛利軍の兵力は最大規模に達した 1 。これにより、小早川隆景は作戦の主目標である伊予東部の陸上制圧へと移行する。世に言う「

天正の陣 」の始まりである 1

この一連の流れは、知将・小早川隆景の周到な作戦計画を如実に示している。彼は決して性急な力攻めを行わず、①無血での拠点確保(来島城)、②周辺の敵対勢力の掃討(怪島城)、③大規模陸戦への兵站線確保、という三段階のプロセスを着実に実行した。来島城周辺での一連の戦闘は、この大規模な陸戦を開始するための、不可欠な地ならしだったのである。

第四章:戦後の伊予と芸予水道―新たな秩序の形成

来島城を橋頭堡とし、怪島城を制圧して芸予水道の安全を確保した小早川隆景は、満を持して伊予内陸部への侵攻を開始した。この「天正の陣」と呼ばれる一連の陸戦と、その後の四国全体の平定、そして戦後処理は、伊予国と瀬戸内海の勢力図を根底から塗り替えるものであった。

「天正の陣」の帰趨と長宗我部元親の降伏

陸上に展開した小早川軍の最初の目標は、長宗我部方として東伊予を実質的に支配していた金子元宅であった 1 。金子元宅は、毛利氏とも旧交があったが、長宗我部氏との同盟を重んじ、徹底抗戦の道を選ぶ 34 。彼は、本拠地の金子城を弟に任せ、自身は高尾城に籠って毛利の大軍を迎え撃った 35

7月14日に丸山城が攻略されると、毛利軍は高尾城に殺到した 1 。金子元宅は、長宗我部からの援軍200を含むわずか800余の兵で、1万5千を超える毛利軍を相手に5日間にわたり壮絶な防戦を繰り広げた 34 。しかし衆寡敵せず、7月17日、元宅は自ら城に火を放ち、野々市原で最後の突撃を敢行し、壮絶な最期を遂げた 1 。その義に厚い戦いぶりは、敵将である小早川隆景をも感嘆させ、戦後、その亡骸は手厚く葬られたという 55

伊予における最大の抵抗拠点が壊滅したのと時を同じくして、阿波では羽柴秀長軍が、讃岐では宇喜多秀家軍が、それぞれ長宗我部方の城を次々と攻略していた 1 。三方からの圧倒的な圧力の前に万策尽きた長宗我部元親は、重臣・谷忠澄の必死の説得を受け入れ、天正13年7月25日、ついに降伏を決意した 1

芸予水道の完全掌握がもたらした戦略的優位

この四国平定、とりわけ伊予方面作戦の成功により、秀吉は瀬戸内海の心臓部ともいえる芸予水道を完全にその支配下に置いた。これは、単に一地方を平定したという以上の、極めて大きな戦略的意味を持っていた。翌年から本格化する九州征伐において、秀吉は中国地方から莫大な兵員と兵糧を九州へ海上輸送する必要があった。芸予水道の安全が確保されたことで、この大規模な兵站活動が滞りなく行えるようになり、九州の強大な大名・島津氏との戦いを有利に進めることが可能となったのである 19 。来島城周辺での一連の作戦は、秀吉の天下統一事業全体の兵站線を確保するという、大局的な目的を達成するための重要な布石であった。

戦後処理―伊予国の再編

戦後、秀吉は四国の国分(領土配分)を断行した。長宗我部元親は土佐一国のみを安堵され、伊予、讃岐、阿波は没収された。そして、伊予国は、その平定に最大の功績を挙げた小早川隆景に三十五万石の領地として与えられた 56 。隆景は湯築城に入り、新たな領主として伊予の統治を開始した。

一方で、この戦いで先鋒として決定的な役割を果たした来島通総も、その功績を高く評価された。彼は伊予国風早郡に1万4千石を与えられ、長年の悲願であった独立した大名としての地位を確立したのである 29 。これは、単に戦功に対する恩賞というだけではない。秀吉による、天下に対する強力な政治的メッセージであった。旧主を裏切り、いち早く自分に味方した者には、これほど手厚い処遇が待っているという「実例」を、通総の出世を通じて示したのである 59 。この巧みなアメとムチの使い分けは、今後対峙することになる九州の島津氏や関東の北条氏といった強大な敵対勢力の家臣団に対し、内部からの切り崩しを誘うための高度な心理戦術であった。通総の栄達は、秀吉の深謀遠慮と、新たな時代における武将の生き方を象徴する出来事であった。

結論:「来島城の戦い」が持つ戦略的意義

天正13年(1585年)夏に伊予の芸予水道で繰り広げられた一連の軍事行動、通称「来島城の戦い」は、戦国時代の終焉と天下統一の時代の到来を象徴する、極めて戦略的な意味を持つ合戦であった。本報告書を通じて明らかになったその本質は、以下の三点に集約される。

第一に、 この戦いは伝統的な「攻城戦」ではなく、周到に計画された「拠点確保作戦」であった という点である。利用者が当初認識していた「村上水軍の拠点を抑える」という単純な構図ではなく、事前に調略で味方に引き入れた来島通総の来島城を、戦闘を経ることなく安全な橋頭堡として確保し、そこを足掛かりに周辺の小規模な敵対勢力(怪島城など)を掃討し、大規模な陸上作戦(天正の陣)への兵站線を確立するという、連続的かつ多段階の作戦であった。この認識の転換こそが、本件を正しく理解するための鍵である。

第二に、 この作戦は、力による圧殺だけでなく、調略と水軍の機動力を巧みに組み合わせた羽柴秀吉の先進的な戦術思想を体現している 点である。敵の内部を切り崩して戦わずして拠点を手に入れ、潮流という自然の障害を水軍の活用によって克服し、圧倒的な兵力を最も効率的に投入する。この手法は、旧来の戦国大名が繰り広げた局地的な領土紛争とは次元の異なる、天下統一を見据えた大局的な戦略眼に基づいていた。

そして第三に、 この作戦の成功が、瀬戸内海の軍事バランスを決定的に変え、秀吉の天下統一事業を大きく加速させた という点である。芸予水道の制海権掌握は、後の九州征伐における兵站の安全を保障し、西国平定の盤石な基礎を築いた。来島城周辺で起きた一見小規模な戦闘と、それに先立つ一人の武将の決断が、日本の歴史における大きな潮目を変える一因となったのである。それは、中世以来、瀬戸内海に独自の秩序を築いてきた村上海賊という「海の戦国大名」が、秀吉という新たな天下人の秩序の中に組み込まれていく、時代の転換点を示す象徴的な出来事であった。

【表2】伊予侵攻における主要な時系列(天正十三年六月~八月)

本報告書の締め括りとして、伊予侵攻作戦全体の流れを時系列で整理する。

年月日(旧暦)

主な出来事

関連資料

6月下旬

小早川隆景率いる第一軍が安芸・備後を出航。

1

6月27日

隆景軍、来島通総の先導で今治浦に上陸。来島城を拠点化。

1

6月28日~7月初旬

小早川軍、怪島城など来島城周辺の長宗我部方拠点を攻撃・制圧。

37

7月5日

吉川元長率いる第二軍が今治に上陸・合流。

1

7月14日

毛利軍、丸山城を攻略(「天正の陣」開始)。

1

7月17日

高尾城が落城。金子元宅が討死。

1

7月25日

長宗我部元親、羽柴秀長に降伏。

7

8月6日

秀吉と元親の間で講和が成立。

1

8月下旬

小早川軍、河野通直の湯築城を開城させ、伊予全域を平定。

1

引用文献

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  2. 秀吉出馬・四国征伐 - 長宗我部盛親陣中記 - FC2 http://terutika2.web.fc2.com/tyousokabe/tyousokabetoha5.htm
  3. 【長宗我部元親・後編】天下人の下で戦う元親に起こった悲劇とは?ー逸話とゆかりの城で知る!戦国武将 第15回 - 城びと https://shirobito.jp/article/1577
  4. 四国を統一した武将、長宗我部元親が辿った生涯|秀吉の四国攻めで臣下に降った土佐の戦国大名【日本史人物伝】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1144083
  5. 長宗我部の儚い夢~長宗我部三代記 – Guidoor Media https://www.guidoor.jp/media/dream-of-chosokabe/
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  7. 四国平定/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/11099/
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  60. 長宗我部元親が辿った生涯|秀吉の四国攻めで臣下に降った土佐の戦国大名【日本史人物伝】 https://serai.jp/hobby/1144083/2