最終更新日 2025-09-10

杭瀬川の戦い(1600)

杭瀬川の戦い(慶長五年九月十四日)― 関ヶ原前夜、島左近の神算 ―

序章:天下分け目の前哨

慶長5年(1600年)9月14日、美濃国。天下分け目の決戦を翌日に控え、この地には日本全土から集結した二つの大軍が、息を殺して対峙していた。西軍の主力が籠る大垣城と、東軍の先鋒部隊が集結する美濃赤坂。両陣営を隔てる距離はわずか一里(約4km)に過ぎず、いつ火蓋が切られてもおかしくない、張り詰めた空気が垂れ込めていた 1

この日、戦局を決定的に動かす出来事が起こる。東軍総大将、徳川家康が江戸を発して以来、進軍を続けていた本隊を率い、ついに美濃赤坂の岡山(現在の安楽寺境内、通称「勝山」)に着陣したのである 3 。家康の到着は、単なる兵力の増強に留まらなかった。西軍の斥候がもたらした報告によれば、東軍の陣営ではそれまでとは比較にならぬほど夥しい数の幟旗が翻り、にわかに活気を呈したという 1 。それは、これまで書状や伝聞でしか感じられなかった「家康」という存在が、圧倒的な物量と威光を伴う物理的な脅威として、大垣城の眼前にその姿を現した瞬間であった。

この事実は、西軍の将兵に深刻な衝撃と動揺をもたらした。天下人としての家康の威光、そして目前に迫る東軍の大軍勢を現実に突きつけられた兵士たちの士気は著しく低下し、陣中からは脱走者が続出する有様であった 1 。このままでは、決戦の火蓋が切られる前に、西軍は内部から瓦解しかねない危機的状況に陥っていた。

家康の赤坂着陣は、単なる軍事行動ではなく、高度に計算された心理戦の一環であったと分析できる。決戦を目前にして、あえて敵の目と鼻の先に本陣を構え、自らの存在を誇示すること。それは、西軍内部の結束を揺さぶり、戦わずして敵の戦意を削ぐことを意図した、無言の圧力であった。岡山から大垣城が見渡せるという地理的条件は、この心理的圧迫をさらに増幅させた 2 。家康が放ったこの最後にして最大の心理攻撃は、西軍の動揺という形で、早くもその効果を現し始めていたのである。

第一章:動揺と献策 ― 大垣城の攻防

自軍の兵が闇に紛れて逃亡していく様を目の当たりにし、大垣城にあって西軍を実質的に率いる石田三成は、深刻な焦燥に駆られていた。このまま士気の低下を座視すれば、全軍の崩壊は時間の問題であった。そのとき、三成の前に進み出た一人の武将がいた。石田三成が破格の待遇で召し抱え、「三成に過ぎたるもの」とまで謳われた腹心、島左近清興その人である 6

事態を憂慮した左近は、この危機的状況を打開するための献策を行う。彼は、兵士たちの動揺が家康の威光という抽象的な情報によって引き起こされたものである以上、それを覆すには、小規模であっても「味方の勝利」という具体的かつ目に見える事実こそが最良の薬であると看破していた 3 。そして、家康が着陣した直後で東軍の陣容が整わず、油断が生じているであろう今こそが好機と捉え、局地的な奇襲攻撃を敢行し、意図的に勝利を創出することを三成に進言したのである 3

この献策は、単なる精神論や蛮勇に基づくものではなかった。左近の狙いは、東軍に致命的な打撃を与えることではなく、あくまで味方の士気を鼓舞することに絞られていた。そのため、全面衝突という高いリスクを避け、限定的な兵力を用いて確実に戦果を挙げ、速やかに撤収するという、極めて合理的かつ明確な作戦目標が立てられていた。三成はこの献策を即座に受諾し、作戦の実行を左近に一任した 5

島左近のこの提案は、現代の軍事理論における「心理作戦」の原型とも言うべき、高度な戦術思想に基づいていた。彼は、戦争を単なる兵力や物資の衝突としてではなく、「情報」と「心理」が織りなす闘争として捉えていたのである。家康の着陣という「情報」によって低下した士気を、自らが作り出す「勝利」という新たな「情報」によって上書きし、兵士たちの心理状態を回復させる。これから杭瀬川で繰り広げられる戦いは、左近のこの先進的な戦争観が遺憾なく発揮される舞台となるのであった。

第二章:戦場の配置 ― 杭瀬川を挟んで

島左近の作戦計画は、周到な準備のもとに実行に移された。その布陣は、敵の行動を予測し、それに対する複数の対抗策を時間差で発動させる、多層的な罠として構築されていた。戦場として選ばれたのは、大垣城と赤坂の中間を流れる杭瀬川。この川という地形そのものが、左近の戦術において重要な役割を果たすことになる。

西軍の作戦部隊

西軍は、役割の異なる三つの部隊で構成されていた。

  • 主力・誘引部隊: 作戦の立案者である島左近自らが約500の兵を率い、これに蒲生郷舎が同道した 4 。彼らの任務は、杭瀬川を渡って敵陣に接近し、挑発行為によって東軍の先鋒部隊を戦場に引きずり出す「囮」の役割を担うことであった。
  • 伏兵部隊: 左近は、別動隊を杭瀬川の西岸、笠木村(現在の大垣市笠木町周辺)付近の草むらに潜ませていた 4 。この伏兵こそ、敵を殲滅するための罠の核心であり、作戦の成否を分ける重要な駒であった。
  • 後詰・遊撃部隊: 西軍の副将・宇喜多秀家の重臣である明石全登(掃部)が、約800の兵を率いて後方に待機していた 4 。彼の部隊は、戦況に応じて投入される強力な予備兵力であり、敵の増援部隊を叩き、戦局を決定づける遊撃部隊としての役割を期待されていた。

東軍の前線部隊

一方、杭瀬川の東岸に布陣し、西軍の動向を警戒していたのは、東軍の先鋒部隊であった。

  • 中村一栄隊: 駿河府中城主・中村一氏が病没したため、その弟である中村一栄が代理で部隊を率いていた 8 。関ヶ原の本戦における総兵力は4,350と記録されており、この前哨戦にはその一部が参加していたと考えられる 10
  • 有馬豊氏隊: 中村隊の南側には、有馬豊氏の部隊が布陣していた 8 。本戦での総兵力は900であり、同様に一部の兵力が最前線の警戒任務にあたっていた 10

以下の表は、この戦闘に関わった主要な部隊をまとめたものである。

表1:杭瀬川の戦いにおける両軍の主要部隊

指揮官

部隊/役割

推定兵力

備考

西軍

島 左近 清興

主力・誘引部隊

約500

石田三成家老。作戦の立案・実行者 4

西軍

蒲生 郷舎

主力(島隊に同道)

不明

5

西軍

明石 全登

後詰・側面攻撃部隊

約800

宇喜多秀家家老。作戦の成否を握る遊撃部隊 4

東軍

中村 一栄

前線部隊

(総兵力4,350)

徳川家康配下。この戦闘には一部が参加 10

東軍

野一色 頼母

中村隊先鋒

不明

中村一栄家老。猛将として知られる 4

東軍

有馬 豊氏

援護部隊

(総兵力900)

徳川家康配下。この戦闘には一部が参加 10

西軍の布陣は、単なる部隊配置ではなく、①誘引(島左近)、②拘束(伏兵)、③殲滅(明石全登)という三段構えの計画であった。特に、杭瀬川を戦場に選んだ点に左近の戦術家としての慧眼が光る。敵に川を渡らせることで、追撃をより確実なものにし、かつ退路を断ちやすくする。偽りの敗走が、渡河という行為によって一層真実味を帯び、敵は「対岸まで追い詰めれば勝利」と誤認しやすくなる。左近は、敵の功を焦る心理と、川という地形的障害を巧みに組み合わせ、自軍に圧倒的有利な戦場を創り出したのである。

第三章:戦況詳述 ― 杭瀬川、血戦の刻

9月14日の午後、島左近の計画は寸分の狂いもなく実行に移された。その戦闘経過は、左近が敵将の性格や行動パターンまでをも読み切っていたことを如実に物語っている。

午後:挑発の刈田

島左近と蒲生郷舎が率いる約500の兵が、静かに大垣城を出陣し、杭瀬川を渡った。東軍の中村一栄隊の陣前に進み出ると、彼らは武器を置く代わりに鎌を手にし、悠然と田の稲を刈り始めた 4 。敵の眼前で狼藉を働くこの行為は、武士の面目を著しく傷つける、最大級の挑発であった。

交戦開始:野一色隊の突出

この侮辱的な行為に、中村隊の将兵は激昂した。柵の中から一人の兵が飛び出して左近方の兵三人を討ち取ると、報復に左近方もこの兵を射殺。これを引き金として、かねてより猛将として知られた中村家の家老・野一色頼母助義が、血気にはやり、部隊を率いて打って出た 4 。左近は、野一色頼母が功名心に厚い武将であることを見抜き、このような挑発を行えば必ずや突出してくると読んでいたのである。野一色隊の攻撃は凄まじく、左近隊は応戦しつつも、計画通り徐々に後退を始めた。

偽装退却:計算された敗走

左近はしばらくの間、激しく応戦して見せた後、あたかも野一色隊の猛攻に耐えきれないかのように、全部隊に退却を命令した。兵たちは算を乱したように見せかけながら、再び杭瀬川を渡り、西岸へと敗走を開始する 4 。目前の勝利を確信した野一色隊は、勢いに乗り、何の疑いもなく川を渡って追撃に移った。敵を完全に自らの術中に引き込んだ瞬間であった。

罠の発動:伏兵による挟撃

野一色隊が杭瀬川を渡りきり、追撃態勢に入った、まさにその時であった。左近の合図と共に、笠木村の草むらに潜んでいた伏兵が一斉に鬨の声を上げて姿を現し、野一色隊の背後を襲って退路を完全に遮断した 4 。同時に、敗走していたはずの左近隊が突如として反転し、猛然と反撃に転じた。前後から挟み撃ちにされた野一色隊は、不意を突かれて大混乱に陥り、たちまち乱戦となった。この乱戦の最中、奮戦していた野一色頼母も明石隊の浅香左馬助(浅賀三左衛門)によって討ち取られてしまう 4

増援と第二の罠:明石全登の側面射撃

対岸の東軍陣地から野一色隊の苦戦を目の当たりにした有馬豊氏が、義侠心から救援部隊を率いて出撃した 4 。これもまた、左近の計算の内であった。有馬隊は左近隊と激戦を繰り広げ、一時は優勢に立つ場面もあったが、彼らが左近隊との戦闘に全神経を集中している隙を、左近は見逃さなかった。戦場の側面を大きく迂回し、密かに接近していた明石全登率いる約800の宇喜多勢が、有馬隊の無防備な側面に向け、猛烈な一斉射撃を浴びせかけたのである 4 。この予期せぬ側面からの銃撃が決定打となり、有馬隊は崩壊。東軍の戦線は完全に瓦解した。

終結:家康の叱責と西軍の凱旋

赤坂の岡山本陣からこの一部始終を望見していた徳川家康は、当初、自軍が西軍を追い散らす様子に上機嫌であったと伝えられる。しかし、それが巧妙に仕組まれた罠であると悟るや否や、その表情は一転して怒りに染まった。「大事の前に、かかる小戦をなし、兵を損じるとは何事ぞ」と激しく叱咤し、すぐさま井伊直政と本多忠勝に命じて、全軍に撤退を厳命した 4 。目的を達した西軍は深追いをせず、島隊の林半助と明石隊の稲葉助之允が見事な殿(しんがり)を務め上げ、悠々と大垣城へと凱旋した 4 。この戦いは、敵将の心理と行動パターンを読み切り、戦場の盤面を自在に操った島左近の、まさに「心理的チェス」とも言うべき圧巻の勝利であった。

第四章:戦いの残響

杭瀬川での局地戦は、小規模な衝突であったにもかかわらず、両軍に計り知れない影響を及ぼした。特に、西軍にとっては、決戦を前にしてその運命を左右するほどの大きな意味を持つ勝利となった。

西軍の士気高揚と首実検

大垣城に凱旋した島左近と明石全登の部隊は、味方の将兵から熱狂的な歓迎を受けた。家康着陣以来、沈みきっていた城内の空気は一変し、勝利の歓喜に包まれた。石田三成は、牛屋村の遮那院門前にて、討ち取った敵兵の首を検分する「首実検」を執り行った 1 。古記録によれば、この戦いで西軍が挙げた首級は、名の有る武将のものが32、雑兵の首は石田隊が84、宇喜多隊が64にのぼったとされる 1 。この具体的かつ輝かしい戦果は、「我々は東軍に勝てる」という確かな自信を将兵に与え、崩壊寸前であった西軍の士気を劇的に回復させたのである 3

東軍の損失と教訓

一方、東軍はこの敗戦によって、中村隊の家老・野一色頼母をはじめとする40名ほどの将兵を失った 3 。特に、勇猛果敢に戦いながらも討死した野一色頼母の死は、東軍に衝撃を与えた。彼の遺体は家臣によって密かに戦場から運び出され、鎧兜と共に埋葬されたと伝えられている。その場所が、現在も美濃赤坂に「兜塚」として残り、当時の激戦を今に伝えている 13 。この手痛い敗北は、徳川家康に西軍、とりわけ島左近という将の戦術能力の高さを改めて認識させ、決戦を前に油断を強く戒める教訓となった。

関ヶ原への転進

杭瀬川の戦いがもたらした最も重大な結果は、西軍の戦略方針そのものを転換させた点にある。この勝利によって士気が最高潮に達した西軍首脳部は、大垣城に籠城して東軍を迎え撃つという消極策を放棄し、関ヶ原の地で野戦による決戦を挑むという、より積極的な戦略を選択するに至った。この勝利がなければ、士気の低いまま籠城し、やがては内部分裂を起こして自壊していた可能性も否定できない。勝利の興奮冷めやらぬその夜、西軍の主力部隊は、石田、島津、小西、宇喜多の順で密かに出陣し、南宮山の南麓を迂回して関ヶ原へと向かった 5 。この動きを察知した東軍もまた、中山道を通って関ヶ原へと全軍を進め、ここに天下分け目の決戦の舞台が整うことになったのである。

杭瀬川の戦いは、単に西軍の士気を回復させただけでなく、彼らの戦略的選択肢を能動的に変化させた、決定的な転換点であった。この小規模な戦術的勝利が、結果として「関ヶ原での決戦」という、より大きな戦略的行動を誘発したのである。この戦いがなければ、我々が知る「関ヶ原の戦い」は、全く異なる場所で、異なる形で展開していたかもしれない。その意味で、この前哨戦は、歴史の巨大な歯車を動かした、極めて重要な触媒であったと言えるだろう。

終章:歴史的意義と異説の検討

杭瀬川の戦いは、関ヶ原の戦いという巨大な歴史事象の単なる序章としてではなく、その後の展開に直接的な影響を与えた、極めて重要な戦術的・心理的転換点として評価される。とりわけ、この戦いで示された島左近の卓越した戦術眼と指揮能力は、彼の武将としての評価を不動のものとし、その存在が西軍にとっていかに大きなものであったかを後世に強く印象付けた。

「創作説」への言及と考察

しかしながら、専門的な歴史研究の観点からは、この戦いについて慎重な検討が求められる。近年の研究において、杭瀬川の戦いの詳細な経過を記した記述が、信頼性の高い一次史料(合戦と同時代に書かれた書状や日記など)には見当たらず、主に江戸時代以降に成立した軍記物語の中で描かれているという指摘がなされている 15 。この「創作説」は、杭瀬川の戦いの史実性を考察する上で避けては通れない重要な論点である。

ではなぜ、一次史料に乏しいにもかかわらず、これほど詳細で劇的な物語が生まれ、語り継がれてきたのか。その背景には、関ヶ原の敗者である石田三成や島左近といった西軍の将たちに対する、後世の人々の判官贔屓があった可能性が考えられる。彼らの悲劇的な最期をより際立たせ、その無念を晴らすための物語的要請が、このような英雄譚を生み出したのかもしれない。

史実と物語の狭間で

もっとも、一次史料に記述がないという一点をもって、この日に小規模な戦闘が一切なかったと断定することもまた早計であろう。戦闘の具体的な経過や規模は軍記物語による脚色を多く含むとしても、何らかの軍事衝突があった可能性は否定できない。現に、この戦いで討死したとされる野一色頼母の墓「兜塚」が、伝承として現地に今なお残されていることは、その傍証となりうる 13

総括

結論として、杭瀬川の戦いは、その詳細な経過が後世の創作を多分に含んでいたとしても、関ヶ原決戦直前の西軍の心理状態を劇的に好転させ、彼らが決戦へと踏み出す精神的支柱となった象徴的な出来事として、大きな歴史的意義を持つ。

この戦いの真の価値は、それが史実か創作かという二元論の中にあるのではなく、この「物語」が後世の歴史観に与えた影響そのものにあるのかもしれない。「もし島左近が生きていれば」「もし西軍の士気が保たれていれば」という、歴史のifを語る上で、この戦いの物語は欠かせない装置として機能してきた。それは、関ヶ原の敗者たちの名誉を回復し、彼らを単なる敗者ではなく、運命に翻弄された悲劇の英雄として記憶するための、文化的メカニズムであったとも言える。したがって、我々は杭瀬川の戦いを、純粋な軍事史的イベントとしてだけでなく、日本の歴史叙述と記憶の形成過程を映し出す「歴史文化的現象」として捉えることで、より深く、そして豊かに歴史を理解することができるのである。

引用文献

  1. 杭瀬川の戦い ~島左近の関ヶ原~ http://www.m-network.com/sengoku/sekigahara/kuisegawa.html
  2. <天下分け目の関ヶ原1>合戦前日、家康赤坂着陣と西軍大垣城 - 歴史ぶらり1人旅 https://rekikakkun.hatenablog.com/entry/2023/04/22/081859
  3. 杭瀬川の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%AD%E7%80%AC%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  4. 杭瀬川の戦い~嶋左近の采配ズバリ! 西軍が関ヶ原前哨戦を制す - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4331
  5. 大垣から赤坂へ、杭瀬川と歴史を辿る歩き旅|かぼちゃかべ - note https://note.com/chakabe_okb/n/n1e754b9a07d8
  6. 島左近(しま さこん/島清興) 拙者の履歴書 Vol.25 ~主なき世に貫く武の道 - note https://note.com/digitaljokers/n/ncc761e5f1b2d
  7. 杭瀬川古戦場跡|大垣城(岐阜県大垣市)の周辺スポット - ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/castles/4606/pins/20736
  8. 杭瀬川の戦い - M-NETWORK http://www.m-network.com/sengoku/sakon/sakon0301d.html
  9. 杭瀬川古戦場|観光スポット|岐阜県観光公式サイト 「岐阜の旅ガイド」 https://www.kankou-gifu.jp/spot/detail_6980.html
  10. 関ヶ原の戦い兵力比較 - ビジュアルシンキング https://visualthinking.jp/project/infographic/battle-of-sekigahara
  11. 1600年 関ヶ原の戦い | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1600-3/
  12. 関ヶ原の戦い|日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=804
  13. 【岐阜関ケ原古戦場記念館】古戦場史跡紹介29 杭瀬川の戦い古戦場跡・兜塚 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=ArDgg-2huz0
  14. 岡山本陣 https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/zenkoku/shiseki/chubu/okayama.sj/okayama.sj.html
  15. 関ヶ原の戦いについての高橋陽介氏の新説を検証する - 別府大学 http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php?file_id=8221