最終更新日 2025-09-01

松井田城の戦い(1561)

永禄四年、上杉謙信撤退後の松井田城に武田信玄が侵攻。安中氏は一時撃退するも、翌年屈服。この戦いは西上野における武田氏の勢力拡大の契機となった。
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永禄四年、上野松井田城の攻防 ― 越後の龍と甲斐の虎の狭間で ―

序章:永禄四年の上州、動乱の序曲

永禄4年(1561年)は、日本の戦国時代、特に関東地方の歴史において、極めて重要な転換点として刻まれている。この年、越後の「龍」長尾景虎(後の上杉謙信)は、関東管領職の継承という大義を掲げ、10万余の大軍を率いて関東平野を席巻した。時を同じくして、甲斐の「虎」武田信玄は、信濃川中島において宿敵・景虎と史上最大の激戦を繰り広げた。この二つの巨大な軍事行動の狭間で、上野国西部に位置する一つの山城が、歴史の奔流に飲み込まれようとしていた。それが松井田城である。

一般に「松井田城の戦い」として知られるこの攻防は、「謙信の関東出兵に伴う攻囲戦」という簡潔な記述で語られることが多い。しかし、現存する史料を丹念に読み解くと、その実像はより複雑かつ深刻な様相を呈していたことが浮かび上がってくる。本報告書は、この通説に一石を投じ、永禄4年に関東の地で繰り広げられた権力闘争の力学を再検証するものである。特に、この戦いが上杉謙信によるものではなく、彼の関東からの撤退後に生じた権力の空白を突いた、 武田信玄による侵攻 であった可能性を、時系列に沿って徹底的に論証する。この一点を解明することこそ、当時の西上野における上杉、北条、武田という三大勢力の思惑と、その間で翻弄される在地国衆の宿命を理解する鍵となる。

本報告書では、まず第一部で、戦いの前提となる上杉謙信の大規模関東出兵の経緯とその結末を詳述する。続く第二部では、戦いの舞台となった松井田城の戦略的重要性、そして城主・安中氏が置かれた苦境を明らかにする。第三部では、本報告書の核心である、武田信玄による松井田城攻撃の全貌を、可能な限りリアルタイムな時系列で再構成する。そして第四部において、この一戦がその後の安中氏と西上野の勢力図に与えた決定的な影響を分析し、結論として、本合戦が持つ歴史的意義を総括する。

第一部:越後の龍、関東へ ― 上杉謙信の大規模出兵(永禄三年~四年)

第一節:大義名分と野心

永禄年間の関東は、相模の北条氏康が急速に勢力を拡大し、伝統的権威であった関東管領・山内上杉家を凌駕する状況にあった。天文21年(1552年)、氏康の圧迫を受けた関東管領・上杉憲政は、本拠地である上野国平井城を追われ、越後の長尾景虎を頼って亡命した 1 。景虎はこれを保護し、関東管領職の復権と旧領回復という「義」を掲げ、関東への本格的な軍事介入の機会を窺っていた 3

この行動は、単に困窮した主君を救うという美談に留まるものではない。景虎にとって、憲政の存在は関東諸将を糾合するための絶好の大義名分であった。北条氏の台頭に不満や危機感を抱く関東の国衆たちを、「管領様をお助けする」という旗印の下に結集させ、自らの影響力を関東一円に及ぼすまたとない好機だったのである。まさしく、景虎の行動原理を特徴づける「義」と「利」が不可分に結びついた戦略的決断であった。

第二節:破竹の進撃

永禄3年(1560年)8月、里見義堯からの救援要請を契機として、景虎は遂に8000余の越後勢を率いて三国峠を越えた 2 。上野国へ侵攻した景虎軍の勢いは凄まじく、北条方の沼田城、岩下城、厩橋城などを次々と攻略。特に厩橋城は関東経営の拠点として接収された 2

景虎のこの電撃的な進撃と、彼が掲げた「関東管領家再興」という大義名分は、関東の諸将に大きな衝撃を与えた。佐野昌綱をはじめとする北関東の国衆は、雪崩を打って景虎の傘下に馳せ参じ、連合軍は瞬く間に10万を超える大軍勢へと膨れ上がった 4 。この巨大な軍事力の奔流の中で、西上野の国衆・安中重繁もまた、北条方から離反し、景虎方に参陣するという重大な決断を下す 1 。これは、圧倒的な軍事力の前に恭順の意を示すことで自家の存続を図る、戦国国衆の典型的な生存戦略であった。しかし、この決断が、後に安中氏と松井田城を悲劇的な運命へと導く伏線となるのである。

第三節:小田原城包囲

永禄4年(1561年)3月、景虎率いる関越大連合軍は、北条氏の本拠地である相模国小田原城へと進軍し、城を包囲した 5 。10万余の軍勢が城を取り囲む光景は壮観であったが、北条氏康は動じなかった。彼は「籠城こそ最上の策」と定め、堅固な城郭と豊富な兵糧を背景に、徹底した防衛戦術を展開した。

一方、景虎率いる連合軍は、その巨大さゆえの脆弱性を露呈し始める。もともと独立性の高い国衆の寄せ集めであったため、指揮系統は必ずしも統一されておらず、長期戦となるにつれて兵糧の供給にも不安が生じた 2 。また、景虎が定めた軍中での序列に対する不満なども噴出し、連合軍の足並みは次第に乱れていった 2 。約1ヶ月に及んだ包囲戦も決定打を欠き、難攻不落の巨城を前に、景虎は攻略を断念せざるを得なくなった。この小田原城攻防の頓挫は、景虎の関東経営が決して盤石なものではないこと、そして彼が関東諸将を完全に掌握するには至っていないという限界を、初めて白日の下に晒す出来事であった。

第四節:撤退と置き土産

小田原城攻略を諦めた景虎は、軍を鎌倉へと転進させた。同年閏3月、鶴岡八幡宮の社前において、上杉憲政から上杉の家名と関東管領職を正式に譲り受け、名を「上杉政虎」と改めた 3 。これは、彼の関東介入における最大の成果であり、彼の権威を象徴する儀式であった。しかし、その権威とは裏腹に、連合軍の士気は低下の一途をたどり、これ以上の作戦継続は困難な状況にあった。

そして同年6月、政虎は関東の平定を道半ばにして、越後への帰国を決定する 2 。この撤退は、単なる一つの軍事作戦の終結を意味するものではなかった。それは、政虎に味方した関東の国衆、とりわけ北条・武田領と国境を接する西上野の安中氏らにとって、巨大な庇護者を失い、剥き出しの敵意の前に孤立無援で取り残されることを意味した。政虎が手にした「関東管領」という権威は、彼自身が越後にいる限り、現実的な軍事的保護には直結しなかったのである。政虎の帰国によって上野国西部に生じたこの「権力の空白」こそが、北条氏の同盟者である武田信玄にとって、自らの勢力圏を拡大し、「裏切り者」である安中氏を討つ絶好の機会をもたらすことになった。政虎の帰国は、結果として、松井田城への新たな脅威を呼び込む直接的な引き金となったのである。


表1:永禄三年~四年 関東・信濃主要関連年表

年月

出来事

関連勢力

典拠

永禄3年 (1560) 8月

長尾景虎、関東へ出兵。

上杉(長尾)

2

永禄3年 (1560) 9月

安中重繁、景虎に参陣。

安中、上杉

1

永禄4年 (1561) 3月

景虎、小田原城を包囲。

上杉、北条

5

永禄4年 (1561) 閏3月

景虎、関東管領職を継承し上杉政虎と名乗る。

上杉

7

永禄4年 (1561) 6月

政虎、越後へ帰国。

上杉

2

永禄4年 (1561) 9月

第四次川中島の戦い。

上杉、武田

8

永禄4年 (1561) 11月

武田軍、西上野へ侵攻。松井田城を攻撃。

武田、安中

1


第二部:西上野の要衝、松井田城

第一節:地理と構造

松井田城は、上野国と信濃国を結ぶ大動脈、碓氷峠の東麓に位置する天然の要害であった 10 。城の北側には古代からの官道である東山道が、南側には後に中山道として整備される街道が通り、東西交通を扼する極めて重要な戦略拠点であった 11 。さらに、碓氷川と九十九川という二つの河川に挟まれた尾根上に築かれており、その比高差は約130mにも及ぶ、典型的な山城である 10

この地理的条件により、松井田城は信濃方面からの侵攻に対する上野国最初の防衛拠点、いわば「碓氷峠の門番」としての役割を担っていた。甲斐・信濃を本拠とする武田信玄が西上野を制圧するためには、まずこの城を無力化することが絶対条件であった。

永禄4年当時の城の構造は、後の北条時代に大道寺政繁によって施された大改修以前のものであり、その中心は「安中郭」と呼ばれる曲輪群であったと推測される 12 。これは安中氏の時代に築かれた遺構とされ、自然の地形を巧みに利用した堀切や土塁によって防御が固められていたと考えられる。城の構造そのものが、大軍による力攻めを容易に許さない、籠城戦を前提とした堅固な防御思想を体現していたのである。

第二節:城主・安中氏の系譜と苦悩

松井田城を本拠の一つとしていた安中氏は、上野国碓氷郡に根を張る在地国衆であった 1 。彼らの動向は、戦国時代の中小勢力が置かれた典型的な状況を映し出している。彼らは独立した大名ではなく、常に周辺の大勢力である山内上杉家、北条氏、そして武田氏の動向を注意深く窺い、自家の存続を賭けて所属を使い分けねばならなかった 1

永禄4年当時の当主、あるいは一族の最有力者であった安中重繁は、まさにその苦悩の渦中にいた。当初、重繁は関東での覇権を確立しつつあった北条氏康に従属していた 1 。しかし、永禄3年(1560年)に上杉謙信(長尾景虎)が圧倒的な軍事力で関東に侵攻すると、時勢を読み、上杉方へと転じる 1 。この決断の背景には、西上野の雄であり、「上州の黄斑」と謳われた箕輪城主・長野業正との強い連携関係があった 14 。重繁は業正と重縁関係を結び、共同で武田氏の侵攻に対抗する地域的な安全保障体制を築いていたのである 1

謙信への帰順は、長野氏との連携という現実的な選択と、関東管領という新たな庇護者への期待が結びついた、一見合理的な判断であった。だがそれは同時に、北条氏と、その同盟者である武田信玄の双方を敵に回すことを意味する、極めて危険な賭けでもあった。


表2:松井田城の戦い 主要関係者一覧

勢力

主要人物

役職・立場

備考

上杉方

上杉謙信(政虎)

関東管領・越後国主

永禄4年6月に越後へ帰国。

上杉憲政

前関東管領

謙信に関東管領職を譲渡。

武田方

武田信玄

甲斐・信濃国主

西上野への侵攻を指揮。

在地勢力(上杉方)

安中重繁

松井田・安中城主

松井田城の防衛を指揮。

長野業正

箕輪城主

西上野の国衆の盟主。安中氏と連携。

北条方

北条氏康

相模国主

武田氏と同盟関係(甲相駿三国同盟)。

北条氏政

北条家当主


第三部:甲斐の虎、動く ― 松井田城の戦い(永禄四年十一月)、時系列による再構成

前夜:第四次川中島の激闘(永禄4年9月)

上杉政虎が越後へ帰国してからわずか3ヶ月後の永禄4年9月、信濃国川中島の八幡原において、戦国史上に名高い死闘が繰り広げられた。第四次川中島の戦いである 8 。この戦いは、上杉軍と武田軍が正面から激突した唯一の大規模な野戦であり、双方が甚大な損害を被る総力戦となった。武田軍は、信玄の実弟である副将・武田信繁、軍師と名高い山本勘助、そして多くの譜代家臣を失い、信玄自身も手傷を負ったと伝えられる 3

この壮絶な戦いは、結果的に引き分けに近い形で終結したものの、武田信玄の戦略に大きな転換をもたらした可能性が高い。宿敵・上杉謙信との直接対決がいかに危険で、消耗の激しいものであるかを骨身に染みて痛感した信玄は、より現実的かつ効果的な次善の策を模索したはずである。その視線が向けられたのが、西上野であった。謙信本体との決戦を避けつつ、彼が関東に築いたばかりの橋頭堡を切り崩すこと。すなわち、主君が遠く越後にいて守りの手薄な、謙信に味方したばかりの国衆を叩くことこそ、低リスクで高い戦略的リターンが期待できる作戦であった。川中島での手痛い経験が、信玄に「西上野侵攻」という次なる一手を選択させたのである。

侵攻開始(永禄4年11月)

第四次川中島の戦いから2ヶ月後の永禄4年11月、武田信玄は満を持して西上野への侵攻を開始した 1 。その軍勢はまず甘楽郡を制圧し、続いて安中氏の領する碓氷郡へと矛先を向け、その最前線に位置する松井田城に迫った 1

秋も深まり、冬の到来が目前に迫る中での軍事行動である。兵站維持の観点からも、武田軍が短期決戦を志向していたことは想像に難くない。信濃から碓氷峠を越え、上野国へと雪崩れ込んでくる武田軍の赤備えの旗印。それを松井田城の物見櫓が初めて捉えた時の城内の緊張感は、いかばかりであっただろうか。城主・安中重繁にとって、恐れていた事態が遂に現実のものとなった瞬間であった。

城の包囲と攻防

松井田城下に到達した武田軍は、速やかに城を包囲し、攻撃を開始した 1 。籠城したのは、安中重繁を中心とする安中一族と配下の兵たちであった。その兵力は正確には不明だが、後の永禄9年(1566年)に武田軍と戦った際の兵力が600から700人程度であったとの記録から推測すると 17 、この時も同程度の寡兵であった可能性が高い。

武田軍はまず、城下の町であった高梨子 17 などを焼き払い、城への兵糧や水の供給路を断つことを試みたであろう。これに対し、安中勢は山城という地の利を最大限に活用して抵抗した。城に備えられた竪堀や堀切、馬出といった防御施設は、大軍の侵攻を阻む上で有効に機能したはずである 12 。城兵たちは、急峻な斜面を登ってくる武田兵に対し、高所から弓矢を射かけ、鉄砲を放ち、投石で応戦した。特に、安中氏の時代からの中心郭であった「安中郭」 12 は、この防衛戦において最前線となり、激しい攻防が繰り広げられたと推測される。

結末:撃退と撤退

数日にわたる攻防の末、安中重繁らはこの武田軍の猛攻を凌ぎきり、遂にこれを「撃退した」と記録されている 1 。小勢力である安中氏が、なぜ当時最強と謳われた武田軍を退けることができたのか。その要因は複合的に考えられる。

第一に、松井田城が天然の要害であり、その防御施設が効果的に機能したこと。第二に、背後に西上野の盟主・長野業正が控えていたことである 14 。直接的な援軍の記録はないものの、箕輪城の長野勢が動く可能性は、武田軍にとって大きな脅威であり、長期の包囲戦を躊躇させる心理的圧力として働いた可能性がある。第三に、この侵攻の目的が、城の完全攻略よりも、謙信方についたことへの懲罰的な示威行動であった可能性も否定できない。一定の損害を与え、武田の力を誇示した時点で、深追いせずに軍を引いたとも考えられる。そして最後に、11月という冬を目前にした時期が、武田軍の早期撤退を促した可能性も指摘できる。いずれにせよ、安中氏が武田軍を撃退したという事実は、彼らの武勇と松井田城の堅固さを示すものであった。

第四部:一戦の波紋 ― その後の松井田城と安中氏

第一節:束の間の勝利

永禄4年11月の防衛成功は、安中氏にとって疑いなく輝かしい戦果であった。小国の国衆が、戦国最強と恐れられた武田軍を退けたという事実は、彼らの武名を大いに高めたに違いない。しかし、この勝利はあくまで戦術的な成功に過ぎなかった。戦略的な視点で見れば、むしろ安中氏の立場はより一層危険なものとなった。この一戦により、安中氏と松井田城は、武田信玄にとって「次に必ず屈服させるべき標的」として、その戦略地図上に明確に刻み込まれることになったのである。この勝利は、破滅への序曲に過ぎなかった。

第二節:屈服への道

安中氏の束の間の勝利は、長くは続かなかった。翌永禄5年(1562年)、武田信玄は西上野への攻勢を再開する。同年2月と5月、松井田城は再び武田軍の攻撃に晒された 1 。度重なる侵攻は、安中氏の兵力と兵糧を着実に削ぎ、城兵の士気を蝕んでいった。遠い越後の上杉謙信からの援軍は期待できず、盟主である長野業正も自領の防衛で手一杯であった。

そして同年9月、度重なる攻撃の前に抗戦の限界を悟った安中重繁は、ついに武田氏に降伏した 1 。この屈服の代償は大きかった。重繁は武田氏への忠誠の証として、戦略的要衝である松井田城を没収され、隠居・出家に追い込まれた。この結末は、武田方の軍記『甲陽軍鑑』において、重繁が「成敗」されたと記されるほどの厳しいものであった 1 。松井田城は武田氏の直轄となり、小宮山丹後守などの城代が置かれ、西上野支配の拠点として組み込まれていった 1

1561年の見事な防衛成功と、そのわずか1年後の完全な屈服。この一連の出来事は、戦国時代の国衆が置かれた厳しい現実を象徴している。彼らは、一度の戦いで大軍を退ける戦術的勝利を収めることができたとしても、大名が持つ継続的かつ圧倒的な物量と軍事力の前には、いずれ屈服せざるを得なかった。この攻防は、個々の戦闘の勝敗以上に、長期的な戦略と国力の差が最終的な帰趨を決するという、戦国時代の冷厳な法則を我々に突きつけるのである。

第三節:歴史的意義

永禄4年の「松井田城の戦い」は、単なる一地方の籠城戦に留まらない、重要な歴史的意義を持っている。それは、上杉謙信の第一次関東出兵が、結果として彼に味方した西上野の国衆を窮地に追い込み、武田信玄の勢力拡大を誘発したという、極めて皮肉な結果を象徴する戦いであった。この戦いを契機として、武田氏は西上野への確固たる足がかりを築き、永禄9年(1566年)の箕輪城陥落へと繋がる、上野国支配を決定づける重要な一歩を記したのである。

この戦いは、上杉謙信が掲げた「義」の理想と、関東の複雑な地政学的現実との間に横たわる深い溝を浮き彫りにした。謙信の威光は、彼が関東にいる間は絶大であったが、ひとたび越後に戻れば、その影響力は大きく減退し、残された味方は敵の報復に晒されるという構造的な問題を露呈させた。松井田城の攻防は、まさしくその象徴的な事例として、戦国史にその名を留めている。

結論:松井田城の戦いが語るもの

本報告書で検証してきた通り、永禄4年(1561年)に上野国で発生した「松井田城の戦い」は、通説で語られるような上杉謙信による攻囲戦ではなく、彼の関東からの撤退後に生じた権力の空白を、宿敵・武田信玄が巧みに突いた侵攻作戦であった。この戦いは、謙信の関東出兵、第四次川中島の戦いという二大事件と密接に連動した、当時の勢力力学を映し出す重要な一局面であった。

この戦いは、安中氏という一国衆の視点から、大国の思惑に翻弄される地方勢力の過酷な運命を克明に描き出している。彼らが下した決断、見せた抵抗、そして迎えた最終的な屈服は、戦国という時代の非情さと、その中で必死に生き抜こうとした人々の姿を我々にリアルに伝えている。

最終的に、松井田城を巡る一連の攻防は、関東の覇権を巡る上杉、武田、北条の三つ巴の争いの縮図であったと言える。そしてそれは、永禄年間を通じて関東の勢力図が大きく塗り替えられていく、その激動の時代の序章を告げる、極めて象徴的な一戦であったと結論づけることができる。

引用文献

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  2. 小田原城の戦い (1560年) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%94%B0%E5%8E%9F%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84_(1560%E5%B9%B4)
  3. 知略に富み、義を重んじた戦国武将・上杉謙信公 kensinyukarinochijoetsu - 上越観光Navi https://joetsukankonavi.jp/kensinyukarinochijoetsu/
  4. 上杉謙信が10年かけても落とせなかった城、唐沢山城ー超入門! お城セミナー第59回【武将】 https://shirobito.jp/article/730
  5. 上杉謙信は何をした人?「最強・無敗の毘沙門天の化身は正義のためにのみ戦った」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/kenshin-uesugi
  6. 「小田原城の戦い(1561年)」軍神・謙信が攻略できなかった天下の堅城!上杉・関東連合vs後北条の戦い | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/132
  7. 上杉謙信の武将年表/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/62221/
  8. 川中島の戦い/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7085/
  9. 【武田信玄と上杉謙信の関係】第一次~第五次合戦まで「川中島の戦い」を徹底解説 - 歴史プラス https://rekishiplus.com/?mode=f6
  10. 松井田城 - - お城散歩 - FC2 https://kahoo0516.blog.fc2.com/blog-entry-732.html
  11. 松井田城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%BA%95%E7%94%B0%E5%9F%8E
  12. 戦国時代のタイムカプセル 幻の城「松井田城」を探る【ぐんま観光県民ライター(ぐん記者)】 https://gunma-kanko.jp/features/113
  13. 安中氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E4%B8%AD%E6%B0%8F
  14. 甲斐の虎・武田信玄を6度も退けたもう1人の虎!「上州の黄斑」と呼ばれた武将・長野業正の勇姿を紹介 | - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/227589
  15. 宇佐美駿河守定行 - 長野市「信州・風林火山」特設サイト 川中島の戦い[戦いを知る] https://www.nagano-cvb.or.jp/furinkazan/tatakai/jinbutsu6.php.html
  16. 忍野八海1 富士五湖、自然と文化・歴史短訪 青山貞一・池田こみち http://eri.co.jp/independent/fujigoko-aoike0127.htm
  17. 松井田城の歴史 https://matsuidajyou.sakura.ne.jp/rekishi.html
  18. 武家家伝_安中氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/an_naka.html