松任城の戦い(1577)
天正五年、上杉謙信は七尾城陥落後、松任城を戦略的に占拠。織田軍を欺き、手取川で奇襲を成功させた。松任城は謙信の生涯最後の勝利を導いた潜伏拠点となった。
「Perplexity」で合戦の概要や画像を参照
天正五年 松任城の戦い - 手取川合戦に至る戦略的転回点の詳細分析
序章:松任城の戦いをめぐる視座
天正5年(1577年)、加賀国で繰り広げられた「松任城の戦い」は、日本の戦国史においてしばしば「手取川の戦い」の前哨戦として簡潔に語られる。しかし、この出来事を単なる独立した城攻めとして捉えることは、その本質を見誤ることに繋がる。本報告書は、「松任城の戦い」が、上杉謙信の対織田信長戦略の頂点とも言うべき「手取川の戦い」を完勝に導いた、極めて重要な**「戦略的拠点確保」**の局面であったと再定義する。それは戦闘そのものよりも、情報戦、同盟戦略、そして電光石火の機動力が織りなす軍事作戦の妙技であった。
本稿の目的は、この一連の軍事行動を、情報の流れと時間軸に沿って精密に再構成し、その実態に迫ることにある。天正4年(1576年)の謙信による能登侵攻から、七尾城の攻防、そして松任城の確保を経て手取川の決戦に至るまでの過程を、リアルタイムの視点で追跡する。これにより、「松任城の戦い」が謙信の生涯最後の輝かしい勝利を演出した、決定的な布石であったことを明らかにする。
第一部:衝突への序曲 - 越後の龍、西へ
濃越同盟の破綻と反信長包囲網
かつて、越後の上杉謙信と尾張の織田信長は、甲斐の武田信玄という共通の脅威を前に、協力関係にあった 1 。この「濃越同盟」は、両者の戦略的利害が一致する限りにおいて有効であった。しかし、元亀4年(1573年)の信玄の死は、この均衡を大きく揺るがす転換点となる。最大の脅威が消滅し、天正3年(1575年)の長篠の戦いで武田勝頼を破った信長は、天下布武の旗印の下、その勢力を破竹の勢いで拡大し始めた 3 。特に、浅井・朝倉両氏を滅ぼした後の北陸方面への進出は、謙信の勢力圏との直接的な衝突を不可避のものとした 3 。
この情勢を動かしたもう一つの要因が、信長によって京を追われた室町幕府第15代将軍・足利義昭の存在である。備後の毛利輝元を頼った義昭は、信長打倒と幕府再興を諦めていなかった。彼は毛利氏を盟主とする新たな反信長包囲網の構築を画策し、その一環として「義」を重んじる謙信に協力の御内書を送ったのである 6 。秩序の回復を大義とする謙信にとって、将軍の要請は信長との同盟を破棄するに足る十分な名分となった 7 。
こうして謙信は、信長との対決を決意する。その戦略の第一歩として、彼は長年にわたり敵対してきた加賀・越中の一向一揆と和睦するという大胆な外交的転換を図った 5 。信長の北陸方面軍司令官・柴田勝家による苛烈な一向一揆弾圧は、彼らを謙信との共闘へと向かわせた 3 。この同盟により、謙信は西進するにあたって後背の憂いを取り除き、北陸における対織田戦線を統一することに成功したのである。
能登動乱と謙信の介入
謙信が次なる目標として見据えたのは、日本海に突き出す能登半島であった。当時の能登守護・畠山氏は、度重なる内紛の末に著しく弱体化していた。当主は幼年の畠山春王丸であり、実権は重臣たちが掌握していたが、その重臣団も一枚岩ではなかった 3 。
家中は、織田信長との連携を重視する筆頭家老・長続連(ちょう つぐつら)を中心とする親織田派と、これに反発する遊佐続光(ゆさ つぐみつ)、温井景隆(ぬくい かげたか)らを中心とする親上杉派に分裂し、一触即発の緊張状態にあった 3 。この内部対立は、外部勢力にとって絶好の介入の機会を提供した。
謙信は、かつて畠山氏から人質として越後に送られていた上条政繁(畠山義春)を新たな当主として擁立し、「能登の治安回復」を大義名分として軍事介入を開始する 8 。これは単なる領土的野心だけでなく、目前に迫る織田軍との決戦に備え、北陸道と日本海航路の要衝である能登を確保するという、極めて高度な戦略的判断に基づいていた。能登を織田方に押さえられたまま加賀へ進軍すれば、側面と海上からの脅威に常に晒されることになる。謙信にとって、能登の平定は対織田戦略の絶対条件であった。
難攻不落の要塞、七尾城(天正4年11月~天正5年9月)
天正4年(1576年)11月、謙信は2万と号する大軍を率いて能登へ侵攻し、畠山氏の本拠である七尾城を包囲した 3 。七尾城は、日本五大山城の一つに数えられる天然の要害であり、その広大な縄張りは謙信の本拠・春日山城にも匹敵すると言われた 8 。攻城の名手である謙信をもってしても、この難攻不落の要塞を力攻めで陥落させることは困難を極めた 3 。
戦況は膠着状態に陥る。謙信は七尾城を孤立させるべく、周辺の支城を次々と攻略するも、城内の長続連らは織田の援軍を頼りに徹底抗戦を続けた。天正5年(1577年)3月、関東の北条氏政の動きに対応するため謙信は一旦越後へ帰国するが、閏7月には再び能登へ出兵し、包囲を再開した 8 。
この約1年に及ぶ長期の籠城戦は、七尾城内に深刻な事態をもたらしていた。兵糧の欠乏に加え、城内に強制的に籠められた多数の領民の間で疫病が蔓延し、城兵の士気は著しく低下 8 。そして、幼き当主・畠山春王丸もまた、この疫病の前に命を落としたのである 3 。難攻不落を誇った七尾城は、外部からの攻撃ではなく、内部から崩壊の危機に瀕していた。
第二部:二つの軍勢、加賀へ - 時間との競争
天正5年の夏から秋にかけて、北陸の情勢は刻一刻と変化した。上杉軍と織田軍は、七尾城をめぐり、時間との競争を繰り広げることになる。以下の時系列表は、両軍の行動と、その背景にある情報格差を浮き彫りにするものである。
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日付(天正5年) |
上杉軍の動向 |
織田軍の動向 |
主要な出来事・情報 |
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8月8日 |
七尾城包囲を継続。織田軍出陣の報に、攻略を急ぐ。 |
柴田勝家を総大将とする約4万の救援軍が北陸へ出陣。 |
七尾城の長連龍が織田信長に援軍を要請。 |
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8月中旬 |
加賀一向一揆に織田軍の進軍妨害を要請。 |
越前を進軍。しかし、柴田勝家と羽柴秀吉が作戦を巡り対立。 |
畿内で松永久秀が謀反。信長本隊の出陣が不可能となる。 |
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9月初旬 |
七尾城内の親上杉派(遊佐続光ら)との内応工作を進める。 |
進軍が遅滞。羽柴秀吉が独断で戦線を離脱し帰国。 |
織田軍の兵力は約3万に減少。指揮系統に混乱が生じる。 |
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9月15日 |
遊佐続光の内応により、七尾城が陥落。長続連ら長一族は滅亡。 |
加賀国南部に到達。依然として七尾城は籠城中と誤認。 |
謙信、有名な漢詩「十三夜の詩」を詠む。 |
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9月17日 |
七尾城から電光石火で南下。末森城を攻略。 |
梯川・手取川方面へ進軍を継続。 |
上杉軍、能登・加賀の戦略的要衝を次々と確保。 |
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9月18日頃 |
手取川南岸の 松任城 に入り、織田軍を待ち受ける。 |
手取川渡河を開始。 |
織田軍、敵が目前に迫っていることを知らず、最も無防備な作戦行動をとる。 |
織田救援軍、北上す(天正5年8月8日~)
七尾城からの使者・長連龍の必死の訴えに応じ、織田信長は天正5年8月8日、大軍の派遣を決定した。総大将には北陸方面軍司令官の柴田勝家が任じられ、羽柴秀吉、滝川一益、丹羽長秀といった織田軍団の主力を構成する方面軍司令官たちがその指揮下に集結した。その兵力は4万(一説に5万)とも言われ、七尾城を解放し、上杉軍を撃退するには十分な規模であった 3 。
しかし、この大軍団の進軍は当初から多くの困難に直面した。第一に、指揮官間の深刻な内部対立である。総大将の柴田勝家と、急速に台頭していた羽柴秀吉は以前から不仲であり、作戦方針を巡って激しく対立した 3 。結果として、秀吉は加賀国に入った段階で、信長の許可なく無断で軍を率いて戦線を離脱するという前代未聞の行動に出る 3 。この行動は単なる個人的な感情のもつれに起因するものではない。秀吉は信長の厳格さを熟知しており、無断撤退が死罪に値する重罪であることも理解していたはずである 3 。それでもなお撤退したのは、勝算の低い戦いで自軍を消耗するリスク、ライバルである勝家の指揮下で手柄を立てられないこと、そして敗戦の責任を共に負わされることを天秤にかけ、撤退こそが最善の策であると判断した高度な政治的計算があった可能性が高い。結果的に、彼は敗戦の責任をすべて勝家に押し付けることに成功したのである。
第二に、後方の動揺である。織田軍が出陣した直後、畿内において重臣の松永久秀が突如として謀反を起こした 3 。これにより、信長自身が本隊を率いて北陸へ出陣する計画は中止せざるを得なくなり、救援軍は後詰のない状態で進軍することになった。
第三に、謙信と和睦した加賀一向一揆による執拗な妨害活動である。彼らは織田軍の進路上でゲリラ的な抵抗を続け、大軍の進軍を著しく遅滞させた 3 。これらの複合的な要因により、織田の救援軍は、七尾城が陥落するその日まで、決戦の地にたどり着くことができなかった。
七尾城、遂に陥落(天正5年9月15日)
織田の援軍が遅々として進まない中、七尾城内はもはや限界に達していた。親上杉派の重臣・遊佐続光は、このまま長続連と共に徹底抗戦を続けても、援軍の到着前に城が落ち、玉砕する未来しか見出せなかった。彼は生き残るため、そして能登における自らの権益を確保するため、かねてより誘いのあった謙信との内応を決意する 8 。
運命の日は、天正5年9月15日の夜であった。この日は十五夜、中秋の名月であった。遊佐はかねてより通じていた温井景隆らと共に城内で反乱を起こし、城門を開け放って上杉軍を城内に引き入れた。不意を突かれた親織田派はなすすべもなく、徹底抗戦を主張していた長続連・綱連父子をはじめとする長一族100余名はこのクーデターによって殺害された 8 。信長に援軍を求めに走った長連龍のみが、この悲劇から生き残った。
この時、七尾城を見下ろす本陣で月見の宴を催していた謙信は、勝利を確信し、有名な漢詩「十三夜の詩」(実際には十五夜の出来事とされるが、後世の伝承として広まる)を詠んだと伝わる。「霜は軍営に満ちて秋気清し」。この詩は、彼の軍事的勝利と風雅を愛する心情が一体となった、謙信という人物を象徴する逸話として今日に語り継がれている 8 。
電光石火の南進 - 謙信、松任城に入る
七尾城を陥落させた謙信の行動は、驚くほど迅速であった。彼は城の残敵掃討や戦後処理に時間を費やすことなく、主力を率いて直ちに南下を開始した。これは、遅れてやってくる織田軍本隊を、彼らが戦況の変化に気づく前に迎撃するという明確な意図に基づいていた。
9月17日、謙信は加賀と能登の結節点に位置する末森城を攻略し、城代として山浦国清と斎藤朝信を配置した 14 。そして、さらに軍を進め、手取川の南岸、織田軍の進路上に位置する要衝・
松任城 へと到達した 4 。
ここで言う「松任城の戦い」の実態は、通説で語られるような激しい攻城戦ではなかった可能性が極めて高い。諸史料には「謙信が攻略して落城した」 21 、「和議となった」 24 など、異なる記述が見られる。この謎を解く鍵は、当時の松任城主・鏑木氏の立場にある。鏑木氏は、加賀一向一揆の中でも有力な「松任組」を率いる旗本であった 25 。そして、その加賀一向一揆は、既述の通り謙信と対織田の同盟関係にあった 5 。
これらの状況証拠から導き出される最も蓋然性の高いシナリオは、鏑木氏が同盟者である謙信の軍を、大規模な戦闘を経ることなく、無血あるいは最小限の抵抗で城内に迎え入れたというものである。つまり、「松任城の戦い」の本質は「戦闘」ではなく、同盟関係に基づく**「戦略的占拠」**であった。これにより謙信は、一兵も損なうことなく、織田軍を迎え撃つための完璧な前線基地と、敵の意表を突くための潜伏拠点を手に入れたのである。これは謙信の情報戦の勝利と、地域勢力との巧みな連携が結実した象徴的な出来事であった。
第三部:手取川の激突 - 松任城からの出撃
松任城を確保した謙信は、天下分け目の一戦に向けて最後の駒を配置した。一方、織田軍は致命的な情報不足のまま、自ら破滅の淵へと歩を進めていた。
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項目 |
上杉軍 |
織田軍 |
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総大将 |
上杉謙信 |
柴田勝家 |
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主要武将 |
斎藤朝信、柿崎景家、鰺坂長実、上条政繁、遊佐続光など |
滝川一益、丹羽長秀、佐久間盛政、前田利家、長連龍など |
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兵力(推定) |
約20,000 |
約40,000 → 約30,000(羽柴秀吉軍の離脱後) |
情報戦の明暗
柴田勝家率いる織田軍は、依然として七尾城が持ちこたえていると固く信じていた。彼らの作戦は、七尾城を包囲する上杉軍の背後を突き、籠城軍と呼応してこれを挟撃するというものであった 3 。この誤認に基づき、彼らは敵の主力が遥か北方の七尾に釘付けになっていると考え、警戒を緩めて手取川の渡河を開始した。
一方、松任城に潜む謙信は、織田軍の動向を手に取るように把握していた。彼は、敵が致命的な誤解に基づき、軍事行動において最も危険とされる渡河作戦を、しかも夜間に実行しようとしていることを知っていた 4 。謙信は静かに、敵が自ら仕掛けた罠にかかるのを待っていたのである。
決戦前夜(天正5年9月23日)
手取川を渡り終えた織田軍の前衛部隊は、現在の白山市水島町あたりに布陣した 28 。まさにその時、彼らのもとに「七尾城、9月15日に落城」「上杉軍本隊、松任城にあり」という、作戦の前提を根底から覆す二つの衝撃的な情報がもたらされた 3 。
織田軍の陣営は、瞬時にして大混乱に陥った。敵は背後ではなく、眼前にいる。しかも、今しがた渡ってきた手取川を背にしたこの陣形は、退路を断たれた「背水の陣」そのものであり、戦術的に最悪の状況であった 4 。狼狽した勝家は、全軍の即時撤退を命令した 3 。しかし、折からの長雨で手取川は激流と化しており、約3万の大軍が闇夜の中、秩序を保ってこの暴れ川を再び渡りきるのは、不可能に近い難事であった。
奔流の夜襲 - 合戦のリアルタイム再現
織田軍の混乱と撤退開始の動きを、松任城から監視していた謙信がこの千載一遇の好機を逃すはずはなかった。天正5年9月23日深夜、謙信は松任城から全軍に出撃を命じ、手取川を渡ろうと混乱する織田軍の背後に、猛然と襲いかかった 14 。
戦いは、もはや合戦と呼べるものではなかった。それは一方的な蹂躙であった。上杉軍は、完全に背を向けて逃げ惑う敵に対し、容赦のない攻撃を加える。組織的な抵抗を全く行えない織田軍の兵士たちは、パニック状態に陥り、ある者は上杉軍の刃に倒れ、ある者は我先にと増水した川に飛び込み、激流に呑まれていった 3 。
この夜襲により、織田軍は重臣の鯰江貞利をはじめとする将兵1,000人以上が討ち取られ、さらに川での溺死者は数知れず、壊滅的な大敗を喫した 14 。謙信の戦術は完璧に成功し、手取川の戦いは上杉軍の圧勝に終わった。
この勝利の鍵は、間違いなく松任城にあった。松任城は、単なる待機場所ではなかった。それは、敵を欺き油断させるための**「潜伏拠点」 であり、必殺の奇襲を放つための 「射出座席」**であった。謙信が手取川間近の松任城に「潜んで」いたからこそ、織田軍は「敵はまだ遠い」と誤認し、無謀な渡河作戦という致命的な過ちを犯した。したがって、松任城の戦略的確保こそが、手取川の勝利を決定づけたのである。
第四部:戦後の潮流と歴史的意義
勝利の代償と「軍神」の最期
手取川で織田軍を粉砕した謙信は、戦後、「織田の軍勢は存外弱い。この分であれば天下の事も思うがままであろう」と述べ、天下統一への自信を深めたと伝えられている 6 。この勝利により、彼は越中、能登、加賀の北陸三国を完全に勢力下に収め、上洛への道筋を確かなものにしたかに見えた。
しかし、歴史の歯車は予期せぬ方向へと回転する。手取川の勝利からわずか半年後の天正6年(1578年)3月13日、謙信は次なる関東への大遠征の準備中に、本拠である春日山城で急死した。享年49であった 3 。
「軍神」と謳われた傑出した指導者の突然の死は、上杉家に巨大な権力の空白を生んだ。彼の死後、二人の養子、上杉景勝と上杉景虎(北条氏康の子)との間で、壮絶な家督争い「御館の乱」が勃発する 5 。この一年以上に及ぶ内乱は、上杉家の国力を大きく消耗させ、手取川の勝利で得た北陸における影響力と戦略的優位性を急速に失わせていった。
松任城のその後
上杉家の内乱という好機を、織田信長が見逃すはずはなかった。柴田勝家率いる北陸方面軍は反攻を再開し、上杉方が撤退した後の加賀を再び席巻する。謙信が手取川勝利の拠点とした松任城も、天正8年(1580年)、織田方の手に落ち、柴田家の家臣である徳山則秀が入城した 21 。
その後、松任城は歴史の変転の中で城主を変えていく。賤ヶ岳の戦いの後には前田利長が、次いで丹羽長重が入城したが、江戸時代に入り元和元年(1615年)に発布された一国一城令によって廃城となった 21 。かつて戦国の雄が戦略の拠点とした城は、その役目を終え、現在は公園として静かにその歴史を伝えている 21 。
結論:戦略拠点としての松任城
「松任城の戦い」は、その名の響きとは裏腹に、大規模な戦闘ではなく、謙信生涯最後の輝かしい勝利である手取川の戦いを演出した、決定的な戦略的布石であった。それは、敵の情報を正確に把握し、味方となる地域勢力と巧みに連携し、そして電光石火の機動力で敵の虚を突くという、謙信の軍事的才能の集大成とも言える局面であった。
しかし、この完璧な勝利は、歴史の皮肉な結末を迎える。戦術的には上杉謙信の圧勝であった手取川の戦いは、大局的な戦略の観点から見れば、織田信長にとって「幸運な敗北」であったと言えるかもしれない。織田軍は手痛い敗北を喫したものの、失ったのは方面軍の一部であり、信長本体や織田家の中核は無傷であった 17 。一方で、この勝利の立役者である謙信が急死したことで、上杉家は内乱によって自壊し、信長にとって最大の脅威の一つが消滅した。もし謙信がこの戦いの後も存命であれば、信長はその後も長期間にわたり、強力な上杉家と対峙し続けなければならなかったであろう。
結果として、手取川の敗北は、織田家にとってより大きな脅威、すなわち「上杉謙信の存在」そのものを歴史の舞台から退場させる遠因となった。松任城をめぐる一連の攻防は、戦国時代における情報と戦略の重要性、そして、一人の傑出した英雄の存在が持つ輝きと、その死がもたらす歴史の非情なまでの儚さの両方を、我々に強く示しているのである。
引用文献
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- 北陸を制し勢いに乗る上杉謙信、逃げる織田軍は川に飛び込み溺死…謙信最強伝説を生んだ「手取川の戦い」 上杉謙信が天下の堅城「七尾城」を落としたのは死の前年だった (2ページ目) - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/83195?page=2
- 手取川の戦いとは?わかりやすく、簡単に解説! - 元予備校講師の ... https://kiboriguma.hatenadiary.jp/entry/tedorigawa
- 手取川の戦い古戦場:石川県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/tedorigawa/
- 応仁の乱を契機とした加賀一向一揆の台頭 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/22937/3
- 上杉謙信はまさに戦国最強だった! 「毘沙門天の化身」が駆けた数々の戦場とは【武将ミステリー】 | 和樂web 美の国ニッポンをもっと知る! https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/13940/6/
- 【合戦解説】手取川の戦い 織田 vs 上杉 〜上杉謙信から攻められた能登畠山氏の援軍要請に応え、柴田勝家を総大将とする織田北陸軍が救援に向かうが…〜 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=9_MZxTf29Zk
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- 能登・七尾城 ~"軍神"上杉謙信をうならせた難攻不落の堅城 | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/8240
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- 加賀冨樫家人物総覧(あ行~た行) https://nanao.sakura.ne.jp/kaga/t-souran/t-souran1.html
- 鏑木氏(かぶらぎうじ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E9%8F%91%E6%9C%A8%E6%B0%8F-1292082
- (前説) 戦国時代、わたしたちの祖先が活躍した松任城を知っていますか。 加賀の国の人々は https://www.city.hakusan.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/002/820/talk1.pdf
- 古戦場、城跡...織田信長を苦しめた地・石川県白山市をめぐる | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12804
- “無敵の上杉謙信が、天下を獲れなかった理由”歴史に学ぶ「勝つための戦略」 https://diamond.jp/articles/-/86015