最終更新日 2025-09-03

松任城再戦(1577)

天正五年、上杉謙信は七尾城陥落後、松任城を戦略的に占拠。織田軍を欺き、手取川で奇襲を成功させた。松任城は謙信の生涯最後の勝利を導いた潜伏拠点となった。
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松任城再戦と手取川の戦い ― 天正五年、北陸に揺らめく両雄の雌雄

第一章:序章 ― 天正五年、北陸の風雲

天正五年(1577年)、日本の歴史が大きく動いたこの年、北陸加賀国は、天下統一を目前にする織田信長と、越後の龍と謳われた上杉謙信という、戦国二大巨頭がその覇権を賭して激突する運命の舞台となった。「松任城再戦」とは、この壮大な戦役、すなわち「手取川の戦い」の中核をなす一局面であり、その全貌を理解するためには、まず当時の日本を覆っていた緊迫した政治・軍事状況から紐解かねばならない。

1-1. 織田信長の天下布武と北陸方面への伸長

天正元年(1573年)、織田信長は越前の朝倉義景、近江の浅井長政という長年の宿敵を相次いで滅ぼし、畿内における支配的地位を確立した 1 。これにより「天下布武」のスローガンは現実味を帯び、その圧倒的な軍事力は、怒涛の如く各方面へと向けられることとなる。

北陸方面もその例外ではなかった。朝倉氏旧領の越前国を平定した信長は、方面軍団構想の一環として、筆頭家老である柴田勝家を司令官に任命し、北ノ庄城(現在の福井市)に配置した 3 。これは、羽柴秀吉の中国方面軍、明智光秀の畿内・丹波方面軍、滝川一益の関東方面軍と並ぶ、織田家の戦略の柱であった 5 。勝家に与えられた当面の戦略目標は明確であった。それは、長年にわたり「百姓の持ちたる国」として独立を保ち、織田家と敵対を続けてきた加賀一向一揆を完全に鎮圧し、加賀国を織田家の版図に組み込むことであった 3 。天正四年(1576年)には、勝家による加賀への侵攻が開始され、北陸の地は織田家の軍事圧力に晒されることとなる。

1-2. 「信長包囲網」の再燃と、将軍足利義昭の策動

信長の勢力拡大は、既存の権威や秩序を脅かすものであり、各地に根強い抵抗を生んでいた。中でも、信長によって京を追放された室町幕府第十五代将軍・足利義昭の存在は、反信長勢力にとって精神的支柱となっていた。義昭は備後国(現在の広島県東部)の毛利輝元のもとに身を寄せながら、執拗に反信長勢力の結集を画策し続けていたのである 8

この義昭の呼びかけに呼応する形で、中国地方の雄・毛利氏、大坂を拠点に信長と十年戦争を繰り広げる石山本願寺、そして越後の上杉謙信が連携する動きが水面下で進んでいた。ここに、かつて信長を窮地に陥れた「信長包囲網」が、新たな顔ぶれをもって再燃の兆しを見せていたのである 9

1-3. 越後の龍、上杉謙信の戦略的転換 ― 対織田への決意

かつて上杉謙信と織田信長は、共通の敵である甲斐の武田信玄に対抗するため、友好関係にあった 10 。しかし、武田信玄の死と、信長の急速な勢力拡大、とりわけ北陸方面へのあからさまな伸長は、両者の関係を決定的に冷却させた。

この状況下で、将軍義昭からの「信長を討ち、幕府を再興せよ」との要請は、謙信の心を動かすに十分なものであった。関東管領職を継承し、室町幕府の旧来の秩序を重んじる謙信にとって、信長の行動は天下の秩序を乱す「無法」と映った。彼は「秩序回復」という大義名分を掲げ、信長との全面対決を決意する 8 。この戦略的転換こそが、手取川の戦いへと至る全ての序曲であった。謙信の行動原理は、単なる領土的野心に留まらず、失われゆく旧秩序の守護者としての強い自負に根差していた。この「大義」は、彼の軍事行動に正当性を与え、反信長勢力を糾合する上で強力な磁力として作用したのである。

第二章:発端 ― 能登畠山氏の落日と七尾城攻防

謙信が対信長戦略の第一歩として選んだ地、それが能登国であった。ここに拠点を置く名門・能登畠山氏の内部崩壊は、越後の龍を北陸へと誘う格好の口実となった。

2-1. 名門畠山氏の内紛と弱体化

能登守護として栄華を誇った畠山氏であったが、戦国の世の常として、その権威は次第に失墜していた。「畠山七人衆」と称される重臣たちが実権を掌握し、当主は名ばかりの傀儡と化していたのである 12 。天正四年(1576年)には当主・畠山義慶が急死(一説には暗殺)、幼い畠山春王丸が家督を継いだことで、家中の権力闘争は抜き差しならない段階に達していた 10

家中は大きく二派に分裂する。上杉家との連携を模索する遊佐続光らと、織田信長との誼を通じて勢力維持を図り、実権を握る長続連(ちょう つぐつら)・綱連(つなつら)父子である 12 。この深刻な内紛が、外部勢力である上杉謙信の介入を招き入れることになる。

2-2. 難攻不落の七尾城を巡る攻防(第一次・第二次)

天正四年、謙信は能登への侵攻を開始した。その主目標は、畠山氏の本拠であり、北陸屈指の堅城として知られる七尾城であった。天然の要害に築かれたこの城は、「天宮」とも称されるほどの規模を誇り、攻城の名手である謙信をもってしても、その攻略は困難を極めた 3

戦況は膠着し、謙信は能登で越年を余儀なくされる 12 。翌天正五年三月、関東の北条氏政が越後に侵攻するとの報を受け、謙信が一時兵を引くと、その隙を突いて長綱連らが反撃に転じる一幕もあった。しかし、同年閏七月、謙信が再び能登へ大軍を率いて現れると、城兵はなすすべもなく、再び七尾城での籠城を強いられることとなった 12

2-3. 長期籠城戦の実態と、織田信長への救援要請

一年近くにも及ぶ長期の籠城戦は、城内の状況を悲惨なものに変えていた。兵糧は枯渇し、糞尿の処理も追いつかず衛生環境は劣悪を極め、城内には疫病が蔓延した 3 。この疫病はついに幼き当主・畠山春王丸の命さえも奪うに至った 3

もはや落城は時間の問題であった。絶望的な状況の中、長続連は最後の望みを織田信長に託す。三男の長連龍(ちょう つらたつ)を密かに城から脱出させ、安土城の信長のもとへ救援を求める使者として派遣したのである 3 。能登が上杉の手に落ちることは、信長の北陸戦略にとって致命的であった。要請は即座に快諾され、織田家は総力を挙げた救援軍の派遣を決定する。

第三章:両雄、動く ― 織田軍の派遣と上杉軍の南下

長連龍の到着は、信長と謙信の直接対決の引き金を引いた。両雄は、北陸の覇権を賭けて、それぞれが持ちうる最大級の戦力を投入する。

3-1. 織田家の総力を挙げた北陸派遣軍の編成

天正五年八月八日、信長は北陸方面軍司令官・柴田勝家を総大将とする大軍の派遣を命令した 3 。その陣容は、織田軍団の精鋭をほとんど網羅する、まさにオールスターと呼ぶにふさわしいものであった。

総大将の柴田勝家以下、羽柴秀吉、丹羽長秀、滝川一益、前田利家、佐々成政、稲葉一鉄といった、いずれも一軍を率いるに足る織田家の重臣たちが名を連ねた 15 。その総兵力は4万から5万と推定され、これは当時の織田家が動員しうる最大級の野戦軍であった。この壮大な陣容は、信長がこの戦いを単なる七尾城の救援に留まらず、北陸における上杉勢力との決戦と位置づけていたことの証左に他ならない。


【表1】織田・上杉両軍の推定兵力と主要指揮官一覧

総大将

主要武将

推定兵力

備考

上杉軍

上杉謙信

斎藤朝信、鰺坂長実、上条政繁、吉江景資など 18

約20,000 18

能登平定直後で士気旺盛。加賀一向一揆と連携。

織田軍

柴田勝家

羽柴秀吉、丹羽長秀、滝川一益、前田利家、佐々成政、稲葉一鉄など 16

約40,000~50,000 3

七尾城救援を目的とする遠征軍。


3-2. 七尾城の陥落 ― 謀略の成就(天正五年九月十五日)

しかし、織田の豪華絢爛たる救援軍が到着するよりも早く、戦局は動いた。謙信が城内に仕掛けていた調略が、ついに実を結んだのである。

長期の籠城戦に疲弊し、長一族の独裁に不満を募らせていた親上杉派の重臣・遊佐続光らが城内で蜂起。長続連・綱連父子をはじめとする長一族はことごとく殺害された 3 。これにより、天正五年九月十五日、難攻不落を誇った七尾城は、外部からの攻撃ではなく、内部からの崩壊によってあっけなく陥落した 3

3-3. 勝利後の戦略展開 ― 上杉謙信、松任城への入城

七尾城を完全に掌握した謙信は、鰺坂長実らを城代として配置し、能登国の戦後統治体制を迅速に固めた 18 。しかし、彼は勝利に安住しなかった。織田の大軍が加賀国へ侵入し、北上中であるとの報を受けると、これを迎撃すべく、ただちに主力軍を率いて南下を開始する。そして、加賀平野のほぼ中央に位置する交通の要衝、松任城(現在の石川県白山市)に入った 3

この一手は、謙信の卓越した戦略眼を示すものであった。松任城は北国街道を押さえる戦略的要地であり、ここに布陣することは、単に織田軍を待ち受けるという受動的な意味合いに留まらない 21 。それは、長年上杉家と連携してきた加賀一向一揆との合流を容易にし 23 、さらには織田軍を撃破した暁には、一気に南下して織田領である越前へ侵攻することまでを視野に入れた、極めて攻撃的な布陣であった。この時点で、戦いの主導権は完全に謙信の手に握られていたと言えよう。

第四章:手取川前夜 ― 情報戦と軍議の交錯

運命の九月二十三日が近づくにつれ、両軍の状況は対照的な様相を呈し始める。上杉軍が情報と地の利を完全に掌握する一方、織田軍は致命的な情報の欠如と内部対立という二重の苦悩を抱えていた。

4-1. 七尾城陥落を知らずに進軍する織田軍

織田軍にとって最大の悲劇は、彼らが救うべき目標である七尾城が、既に出発から一ヶ月以上が経過した九月十五日に陥落していたという事実を、全く知らずに進軍を続けていたことであった 3 。謙信の情報統制は見事であり、織田軍は目的を失ったまま、敵の掌中で踊らされることとなる。この情報戦における完全な敗北が、後の手取川での壊滅的な被害の直接的な原因となった。

4-2. 羽柴秀吉の戦線離脱 ― その背景と影響に関する諸説の検討

この苦しい進軍の最中、織田軍の結束を揺るがす重大な事件が発生する。軍団の有力武将である羽柴秀吉が、突如として戦線を離脱したのである。

古くからの通説によれば、これは作戦方針を巡る総大将・柴田勝家との対立が原因とされる 3 。元来、織田家中の古参筆頭である勝家と、新興勢力の代表格である秀吉は反りが合わず、この遠征でその対立が爆発。秀吉は勝家の指揮に従うことを潔しとせず、無断で軍を率いて帰還の途についてしまったという。この身勝手な行動は信長の逆鱗に触れ、太田牛一が記した『信長公記』にも「迷惑だった」と記されている 18

しかし近年、この通説に一石を投じる研究が現れている。歴史家の乃至政彦氏らは、『信長公記』の記述は別の解釈が可能であり、他の史料においては、秀吉は無断で撤退したのではなく、むしろ敗走する織田軍の殿(しんがり)を務め、上杉軍の追撃を食い止めるために奮戦したと記されていることを指摘している 26

この二つの相反する説は、単なる事実関係の謎に留まらない。通説が正しいとすれば、それは信長が築き上げた実力主義の軍団が、一方で深刻な内部対立という構造的欠陥を抱えていたことの証左となる。一方、新説が示唆するのは、手取川の戦いという織田家にとって不名誉な大敗の記録が、後の賤ヶ岳の戦いで頂点に達する勝家と秀吉の権力闘争の文脈の中で、政治的に解釈され、歪曲されてきた可能性である。敗戦の責任を特定の個人(秀吉)に押し付けることで、軍全体の失態や指揮系統の混乱を糊塗しようとした意図があったのかもしれない。いずれにせよ、この一件は、手取川の戦いの実像がいかに複雑であるかを物語っている。

4-3. 織田軍、手取川を渡河 ― 敵主力との遭遇

秀吉の離脱(その理由はともかく)により兵力を減らし、士気にも影響が出たであろう織田軍は、それでもなお進軍を続けた。加賀国内の梯川(かけはしがわ)、そして手取川を渡り、周辺の小松村、本折村、阿多賀などを焼き払いながら、七尾城を目指した 18

そして、ついに手取川を渡り終えたその時、彼らの耳に驚愕の報せが届く。七尾城は既に落ち、上杉謙信自らが率いる主力部隊が、目と鼻の先にある松任城に布陣しているというのである。

第五章:合戦詳報 ― 松任城再戦、そして手取川の激突(天正五年九月二十三日)

天正五年九月二十三日。この日、織田軍は創設以来、最大級の惨敗を喫することになる。あたかもリアルタイムでその情景を追うかのように、当日の出来事を時系列で詳述する。

【午後】 覚知と動揺

手取川の北岸に渡り終えた織田軍首脳部に、二つの絶望的な情報が同時にもたらされた。「救援目標である七尾城は、一週間以上も前に陥落している」「上杉謙信率いる主力軍が、わずか10キロメートル先の松任城に布陣している」 3

作戦目標は消滅し、逆に敵主力の目前に全軍を危険に晒すという、戦略的に最悪の状況に陥ったことを悟った織田軍の陣営には、激しい動揺が走った。遥々越前から長駆してきた遠征軍の士気は、一瞬にして地に落ちたであろう。

【夕刻】 苦渋の決断 ― 撤退開始

この状況下で、上杉軍との決戦を選択することは、無謀以外の何物でもない。総大将・柴田勝家は、即座に全軍の撤退を命令した 3 。しかし、この決断はあまりにも遅きに失していた。

折からの長雨により、今しがた渡ってきたばかりの手取川は、濁流渦巻く「暴れ川」と化していた 3 。渡河自体が極めて困難であり、敵を背後にしながらの大規模な撤退行動は、計り知れない危険を伴うものであった。それは、文字通り「背水の陣」ならぬ「背水の退却」であった。

【夜半】 軍神、動く ― 闇と豪雨をついての追撃

織田軍の混乱と撤退の動きは、松任城の謙信が即座に察知するところとなった。彼はこの千載一遇の好機を逃さなかった。常人ならば躊躇するであろう夜陰と豪雨を、むしろ自軍の奇襲を隠す絶好の覆いと捉え、全軍に追撃を命じたのである 29

その用兵は、かつて第四次川中島の戦いで、濃霧に乗じて武田信玄の本陣を強襲した際を彷彿とさせる神速のものであった 24 。越後の精兵は、闇と雨を突き、混乱のうちに撤退を開始した織田軍の背後に音もなく忍び寄り、牙を剥いた。

【深夜】 濁流の悲劇 ― 渡河中の織田軍、壊滅

織田軍が混乱の極みの中で、増水した手取川の渡河を開始した、まさにその瞬間であった。上杉軍の主力部隊が、怒涛の如く襲いかかった 3

背後からは上杉軍の猛烈な追撃、前方には荒れ狂う濁流。完全に逃げ場を失った織田の兵たちは、大混乱に陥った。闇と豪雨で視界はほとんど利かず、頼みの綱である鉄砲や火薬は濡れてしまい、全く使い物にならなかった 3 。もはや組織的な抵抗は不可能であり、戦場は一方的な殺戮と、濁流に呑まれる兵たちの悲鳴に支配された。

上杉軍の刃に倒れる者、そしてそれ以上に、急流に押し流され溺死する者が続出した。この一夜にして、織田軍は1,000人以上が討ち取られ、さらに数千人にのぼるとも言われる溺死者を出すという壊滅的な損害を被った 8 。柴田勝家ら将官たちは命からがら戦場を離脱したが、その敗北は疑いようのないものであった。

第六章:戦後 ― 勝者の戦略と、その終焉

手取川の一戦は、上杉謙信の軍事的名声を頂点にまで高めた。しかし、その輝きは、彼の生涯における最後の閃光でもあった。

6-1. 手取川の勝利と謙信の評価

圧勝を収めた謙信は、七尾城に凱旋した。この戦いの後、彼は家臣に対し、「織田勢は存外弱い。この分であれば、天下の事(将軍義昭の上洛)も容易であろう」と語ったと伝えられている 8 。この言葉は、当代最強と謳われた織田軍団を打ち破った、絶対的な自信の表れであった。

この勝利は、謙信の「軍神」としての評価を不動のものとした。当時の人々がこの戦いの衝撃をどのように受け止めたかは、後に詠まれた有名な落首が雄弁に物語っている。

「上杉に 逢うては織田も 手取川 はねる謙信 逃ぐるとぶ長」 3

「跳ねる」ように勢いのある謙信と、「飛ぶ」ように逃げ帰った信長(実際には信長本人は出陣していないが、織田軍の総称として)を対比したこの歌は、勝敗の様相を見事に捉えている。

6-2. 能登・加賀の戦後統治と、次なる上洛計画

手取川の勝利により、謙信は能登・加賀の両国を完全に勢力下に収め、長年の懸案であった上洛への道を確保した 8 。越中の平定、能登の制圧、そして加賀における織田軍の撃破。彼の西進作戦は、完璧な形で成功を収めたかに見えた。

その年の冬、春日山城に帰還した謙信は、次なる大規模な遠征の準備に着手する。それは関東を平定し、その兵力をも加えて大軍で上洛を果たすという、壮大な計画であった 8 。手取川の勝利は、彼の天下取り計画を大きく前進させる、決定的な一歩となるはずであった。

6-3. 巨星墜つ ― 上杉謙信の急死とその影響

しかし、歴史の歯車は無情であった。手取川の戦いからわずか半年後の天正六年(1578年)三月、謙信は次なる出陣を目前にして、春日山城内で倒れ、急死する 3 。享年49。死因は脳溢血であったと伝えられている。

この突然の死は、戦国の勢力図を一変させた。手取川の勝利がもたらした上杉家の戦略的優位は、謙信という一個人の圧倒的な軍事的才能とカリスマに依存するものであった。彼の死後、上杉家は養子である景勝と景虎の間で家督を巡る凄惨な内乱「御館の乱」に突入し、その国力を大きく消耗させてしまう。これにより、織田家にとって北陸方面における最大の脅威は自壊し、息を吹き返した柴田勝家は再び北陸への侵攻を開始する。手取川の勝利によって得た領土は、その後数年のうちに次々と織田方に奪い返されていくのである。手取川の戦いは、謙信個人の武威がいかに絶大であったかを示すと同時に、その死と共に全ての戦略的価値が失われたという点で、個人の力量に依存する組織の脆弱性をも示す、歴史的な教訓となった。

第七章:歴史的意義と論点 ― 『信長公記』の沈黙と手取川合戦の再評価

手取川の戦いは、その劇的な結末にもかかわらず、多くの謎に包まれている。特に、織田側の史料における記述の乏しさは、後世の研究者たちを長らく悩ませてきた。

7-1. 織田側の史料における記述の少なさとその理由

信長の第一級の伝記史料である太田牛一の『信長公記』において、この手取川での大敗に関する記述は、羽柴秀吉の離脱に触れるのみで、合戦の詳細については極めて簡素である 3 。これは、信長の天下人としての権威を著しく損なう不名誉な敗戦であったため、編者によって意図的に詳細な記述が避けられた可能性が極めて高い。織田家にとって、この戦いは記録から抹消したい過去であったのかもしれない。

7-2. 「幻の合戦」説から近年の研究動向まで

こうした史料の乏しさから、一時はその実在さえも疑われ、「幻の合戦」と称されたことさえあった 26 。しかし、上杉家側に残された書状など、関連史料の丹念な再検討により、合戦の存在自体は今日では確実視されている 11 。近年では、その実像をより詳細に解明しようとする研究が進んでおり、単なる上杉軍の一方的な勝利という側面だけでなく、そこに至るまでの情報戦や織田軍内部の動向など、多角的な分析が試みられている。

7-3. 羽柴秀吉の離脱に関する再検討 ― 乃至政彦氏らの新説を中心に

近年の研究動向の中でも特に注目されるのが、第四章でも触れた羽柴秀吉の行動に関する再評価である。乃至政彦氏らが提唱する「秀吉奮戦説」は、単に秀吉個人の評価を見直すに留まらない 27 。この説は、手取川の戦いの通説的イメージ、すなわち「勝家と秀吉の不和による自滅」という単純な構図を覆し、敗戦の責任の所在や、織田軍団の指揮系統の実態について、より複雑な解釈の可能性を提示するものである。それは、歴史記述そのものが、後の勝者の視点によっていかに構築されていくかという、史学の根源的な問いをも我々に投げかけている。

7-4. 結論 ― 上杉・織田、両雄唯一の直接対決が戦国史に与えたインパクトの総括

松任城再戦を中核とする手取川の戦いは、上杉謙信の戦術家としての才覚が最高潮に達した、彼の生涯における頂点を示す戦いであった。同時に、それは彼の生涯最後の戦いともなった。

一方、織田信長にとっては、方面軍団システムの脆弱性と情報管理の重要性を露呈させ、その天下統一事業における数少ない、そして最大級の敗北として記憶される戦いである。

もし謙信がこの後も数年、あるいは十数年生きていたならば、日本の歴史は大きくその様相を変えていたであろう。手取川の戦いは、そのような「歴史のif」を想起させるに十分なインパクトを持っていた。結果として、この一戦は謙信の最後の輝きとなり、彼の死によって織田家の脅威は去った。しかし、戦国最強と謳われた二人の英雄が、その生涯でただ一度だけ、主力軍同士で激突したこの戦いは、両雄の運命、そして北陸の情勢を決定づけた、戦国史における極めて重要な一戦として、今後も語り継がれていくに違いない。

引用文献

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  2. 織田信長の家臣団/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/91113/
  3. 手取川の戦い古戦場:石川県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/tedorigawa/
  4. 織田信長 家臣団相関図 - 戦国未満 https://sengokumiman.com/odanobunagakashindan.html
  5. 織田方面軍団、最も活躍したのは? - ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/yorons/91
  6. 織田家臣団 - 未来へのアクション - 日立ソリューションズ https://future.hitachi-solutions.co.jp/series/fea_sengoku/02/
  7. 加賀一向一揆 /ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/kagaikkoikki/
  8. 上杉謙信はまさに戦国最強だった! 「毘沙門天の化身」が駆けた数々の戦場とは【武将ミステリー】 | 和樂web 美の国ニッポンをもっと知る! https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/13940/6/
  9. file-5 上杉謙信と戦国越後 - 新潟文化物語 https://n-story.jp/topic/05/
  10. 北陸を制し勢いに乗る上杉謙信、逃げる織田軍は川に飛び込み溺死…謙信最強伝説を生んだ「手取川の戦い」 上杉謙信が天下の堅城「七尾城」を落としたのは死の前年だった - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/83195?page=1
  11. 【戦国時代】手取川の戦い~能登と加賀を駆け抜ける信長の奇襲に敗れた柴田勝家 (2ページ目) https://articles.mapple.net/bk/1223/?pg=2
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  15. 品野城・河野島・明知城…織田軍はこんなにも敗北を喫していた | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/8241?p=1
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  17. 【今日は何の日?】9月23日 手取川の戦いで上杉謙信軍が織田軍を撃破 - いいじ金沢 https://iijikanazawa.com/news/contributiondetail.php?cid=9530
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  20. 上杉 vs 織田 “手取川の戦い”があった場所 | GOOD LUCK TOYAMA|月刊グッドラックとやま https://goodlucktoyama.com/article/201610-tedorigawa-no-tatakai
  21. (前説) 戦国時代、わたしたちの祖先が活躍した松任城を知っていますか。 加賀の国の人々は https://www.city.hakusan.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/002/820/talk1.pdf
  22. 松任城跡(松任城址公園):北陸エリア - おでかけガイド https://guide.jr-odekake.net/spot/14695
  23. 信長を苦しめた地・石川県白山市、徹底抗戦した一向宗門徒たち | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12803
  24. 手取川の戦いとは?わかりやすく、簡単に解説! https://kiboriguma.hatenadiary.jp/entry/tedorigawa
  25. 【これを読めばだいたい分かる】柴田勝家の歴史 - note https://note.com/sengoku_irotuya/n/n743c907ca0cf
  26. 444年経た今、上杉謙信と織田信長の「手取川合戦」を再検証 | SYNCHRONOUS シンクロナス https://www.synchronous.jp/articles/-/185
  27. 謙信×信長: 手取川合戦の真実 - 乃至政彦 - Google Books https://books.google.com/books/about/%E8%AC%99%E4%BF%A1_%E4%BF%A1%E9%95%B7.html?id=Y-rWzwEACAAJ
  28. PHP新書 謙信×信長―手取川合戦の真実 - 紀伊國屋書店 https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784569854717
  29. 手取川の戦い~はねる謙信、逃げる信長 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4360
  30. 【書評】乃至政彦「謙信×信長 手取川合戦の真実」(PHP新書)|三城俊一/歴史ライター - note https://note.com/toubunren/n/n026acb86a982