最終更新日 2025-09-05

松倉城周辺戦(1582~85)

天正十年より三年、松倉城周辺にて北陸の覇権を巡る激戦が繰り広げられた。佐々成政、前田利家、上杉景勝が織田、上杉、豊臣の狭間で攻防し、最終的に豊臣秀吉による越中平定へと繋がった。

越中松倉城周辺戦(1582-1585)- 織田、上杉、そして豊臣の狭間で揺れた北陸の覇権 -

序章:天正10年、嵐の前の越中

天正年間、織田信長による天下布武の事業が最終段階を迎えつつあった頃、北陸道、とりわけ越中国(現在の富山県)は、日本史の転換点を象徴する激しい攻防の舞台となっていた。天正6年(1578年)の「軍神」上杉謙信の急死は、北陸の勢力均衡に巨大な真空を生み出した。その後継を巡る内乱「御館の乱」は上杉家の国力を著しく疲弊させ、この機を信長が見逃すはずはなかった 1

柴田勝家を総大将とする織田の北陸方面軍は、破竹の勢いで加賀、能登を席巻し、天正10年(1582年)の春には、上杉家が越中に保持する最後の牙城、魚津城・松倉城へとその矛先を向けていた 3 。この一連の戦いは、単なる領土紛争に留まらず、織田信長の死、それに続く織田家内部の権力闘争、そして豊臣秀吉による天下統一へと連なる、まさに歴史の分水嶺となるのであった。本報告書は、天正10年から13年(1582-1585)にかけて、松倉城周辺を核として繰り広げられた戦いの全貌を、主要人物たちの思惑と共に時系列で詳述するものである。

舞台:松倉城と魚津城の戦略的価値

この戦いの中心となった松倉城と魚津城は、越中東部において極めて重要な戦略的価値を有していた。松倉城は、標高430mの峻険な山上に築かれた越中三大山城の一つであり、その周囲には升方城や北山城などの支城群が配置され、「松倉城塁群」と呼ばれる広域防衛ネットワークの中核を成していた 5 。一方、魚津城は日本海に面した平城であり、越後と京を結ぶ北陸道と、角川河口の水運を押さえる陸海交通の要衝であった 3

この二つの城は相互に連携し、上杉氏にとっては越中支配を維持するための最前線基地であり、同時に織田氏にとっては、その先にある越後春日山城を攻略するための足掛かりとなる、まさに双方にとって一歩も譲れない生命線だったのである 6

主要人物の肖像

この歴史の転換点において、三人の武将がそれぞれの運命を賭けて対峙した。

  • 佐々成政: 織田信長の親衛隊たる「黒母衣衆」の筆頭を務め、その武勇と鉄砲隊の指揮能力で信長の厚い信頼を得た猛将 9 。戦場では迅速果敢だが、平時においては我の強さが目立ち、信長からもその点をたしなめられたという逸話が残る 11 。信長と織田家への忠義を絶対のものとする、一本気な性格の持ち主であった 12
  • 前田利家: 成政と同じく信長の「赤母衣衆」筆頭であり、「槍の又左」の異名を持つ勇将 13 。信長の小姓時代から仕えた古参であり、成政とは若き日からの盟友にして最大のライバルであった 15 。武勇に優れるだけでなく、時代の流れを読む鋭い政治感覚と柔軟性を兼ね備えていた 16
  • 上杉景勝: 叔父・謙信の死後、御館の乱を制して家督を継いだ若き当主 1 。しかし、織田軍の圧倒的な攻勢の前に劣勢を強いられ、領国の維持に苦心していた。寡黙で滅多に笑わず、その厳格さから家臣に恐れられたと伝わる 2

この三者の性格、立場、そして彼らの間に横たわる複雑な人間関係が、これからの4年間の越中の運命を大きく左右していくことになる。

表1:主要三武将 比較分析表

項目

佐々成政

前田利家

上杉景勝

通称・官位

内蔵助、陸奥守

又左衛門、筑前守

喜平次、弾正少弼

性格

忠義一徹、迅速果敢、我の強さ 11

槍働きで勇猛、時勢を読む柔軟性 13

寡黙、厳格、忍耐強い 1

信長との関係

黒母衣衆筆頭、厚い信頼 9

赤母衣衆筆頭、小姓時代からの近臣 14

敵対関係 3

当時の立場

織田家北陸方面軍の将(柴田勝家与力)

織田家北陸方面軍の将(柴田勝家与力)

上杉家当主、越後の戦国大名

本拠地

越中・富山城 19

能登・七尾城 13

越後・春日山城 17

第一部:激動の天正10年(1582年) - 天下動乱の序曲

第一章:魚津城の悲劇

天正10年3月、武田氏を滅亡させた織田信長は、その矛先を完全に北陸の上杉景勝に向けた。柴田勝家を総大将とし、佐々成政、前田利家らを加えた4万とも称される大軍が、上杉方の越中最後の拠点である魚津城に殺到した 20 。対する上杉方の籠城兵は、中条景泰をはじめとする歴戦の勇将たちに率いられていたものの、その数わずか3,800余。戦いの趨勢は、開戦前から明らかであった 3

織田軍は城を幾重にも包囲し、鉄砲のみならず、一次資料で確認できる北陸最古の使用例とされる大砲まで投入して猛攻を加えた 20 。もっとも、この大砲は不良品であり、前田利家が兄に修理を依頼している間に戦局は進行し、実戦ではほとんど役に立たなかったようである 20

城内から景勝の側近・直江兼続らに送られた書状には、「ほりきわ(堀際)までとりつめ、にちや(日夜)てつはう(鉄砲)はなし申候」(堀のすぐそばまで敵が迫り、昼夜を問わず鉄砲を撃ち込まれている)と、その凄惨な状況が生々しく記されている 3 。景勝自身も救援の意は強く持っていたが、背後を脅かす問題が彼の出陣を阻んだ。信濃方面には武田旧領を制圧した森長可、上野方面には滝川一益の軍勢が越後侵攻の機会を窺い、さらに国内では新発田重家が反旗を翻すなど、まさに四面楚歌の状態にあったのである 3 。一城を救うために本国を危険に晒すことはできず、景勝は苦悩の末、援軍派遣を断念せざるを得なかった。

5月6日には二の丸が陥落し、9日には弾薬も尽きたと伝えられる 3 。万事休すかと思われた5月15日、信長が安土へ帰還したとの報に接した景勝は、最後の望みを託して5,000の兵を率い、魚津城を見下ろす天神山城に布陣した。眼前に翻る主君の旗は、絶望の淵にあった籠城兵の士気を一時的に奮い立たせたことであろう 3 。しかし、織田軍の厳重な包囲網を前に、景勝は手出しができない。そうこうするうちに、森長可らが本格的に越後へ侵攻するとの凶報が届き、景勝は断腸の思いで全軍を撤退させる。5月26日、天神山から主君の軍勢が消え、魚津城は完全に孤立した 3

救援の望みが絶たれ、兵糧も尽きた城内で、将兵たちは死を覚悟した。そして、運命の日が訪れる。

天正10年6月2日、京都・本能寺にて織田信長、明智光秀の謀反により自刃 3

しかし、この天下を揺るがす一報が越中の戦場に届く術はない。翌6月3日、織田軍の総攻撃が開始される。もはやこれまでと悟った中条景泰ら13人の守将たちは、敵方に首を検分される際の手間を省くため、自らの名を書いた木札を耳に通し、全員が壮絶な自刃を遂げて果てた。約80日間に及んだ魚津城の戦いは、籠城側の全滅という悲劇的な結末をもって幕を閉じた 3 。もし、本能寺の変の報があと一日早く届いていれば、彼らの命は救われたであろう。この事実は、情報伝達の速度が人の生死を分けた、戦国という時代の非情さを何よりも雄弁に物語っている。

第二章:権力の空白

魚津城を陥落させた織田軍の勝利の歓声は、長くは続かなかった。6月4日以降、主君信長の横死という衝撃的な知らせが陣中に届くと、軍の統制は一気に崩壊した 6 。柴田勝家、前田利家、そして佐々成政ら諸将は、来るべき政局の混乱に備え、また自領の安泰を確保するため、我先にと軍を引き、それぞれの本拠地へと帰還していった 3

こうして越中東部は、突如として権力の空白地帯と化した。この好機を上杉方が見逃すはずはなかった。景勝は須田満親らを派遣し、主を失った魚津城と松倉城を速やかに奪還。本能寺の変を契機として、一時的に越中東部における失地を回復することに成功したのである 6

しかし、これは嵐の前の静けさに過ぎなかった。中央では、羽柴秀吉が「中国大返し」からの山崎の戦いで明智光秀を討ち、続く清洲会議で織田家中の主導権を掌握しつつあった。この会議において、越中は佐々成政の所領として正式に安堵される 24 。これにより、成政には越中全土から上杉勢力を駆逐し、一国を完全に平定するという新たな使命が課せられた。越中の支配権を巡る争いは、新たな局面へと移行することになる。

第二部:友から敵へ 天正11年~12年(1583-1584年) - 北陸の代理戦争

第一章:賤ヶ岳の亀裂

本能寺の変後の織田家は、筆頭家老・柴田勝家と、信長の仇を討ち実権を掌握した羽柴秀吉との二大派閥に分裂した。この対立は、天正11年(1583年)4月、近江国賤ヶ岳での直接対決へと発展する。この戦いは、遠く離れた北陸の二人の武将、佐々成政と前田利家の運命をも決定づけた。

成政は柴田勝家の与力であり、当然ながら勝家方に与した。しかし、彼の越中は依然として上杉景勝と国境を接しており、その脅威から兵を動かすことができず、叔父の佐々平左衛門が率いる僅か600の兵を援軍として送るのが精一杯であった 10 。一方、前田利家は勝家軍の主力として布陣していたが、戦況が秀吉有利に傾くと、突如として戦線を離脱。この行動が引き金となり柴田軍は総崩れとなり、勝家は居城・北ノ庄城で自害に追い込まれた 16

利家のこの決断は、時代の流れを見据えた政治的なものだったが、織田家への忠義を重んじる成政にとっては、主君を見捨てた裏切り行為に他ならなかった。かつて信長の側近として共に武功を競った盟友は、この日を境に、不倶戴天の敵となったのである 25

賤ヶ岳の戦いの後、成政は秀吉に一旦は恭順の意を示し、越中一国の支配を正式に認められた 26 。力を蓄えた成政は、直ちに越中平定作戦に着手する。本能寺の変後に上杉方が占拠していた魚津城、そして松倉城に猛攻を加え、これを奪還。上杉方の勢力を越中から完全に駆逐し、名実ともに越中一国の支配者となった 6 。これにより、成政の富山城は、秀吉方の前田利家、そして依然として脅威である上杉景勝と直接対峙する、反秀吉勢力の最前線へと変貌した。

第二章:末森城の攻防

天正12年(1584年)、秀吉と、信長の次男・信雄を担ぐ徳川家康との間で「小牧・長久手の戦い」が勃発すると、成政は待っていたかのように家康方に呼応し、秀吉に対して公然と反旗を翻した 12 。そしてその最初の標的となったのが、隣国を治める宿敵・前田利家であった。

同年9月9日、成政は利家の領国である加賀と能登を分断するという戦略目標のもと、15,000の大軍を率いて能登の要衝・末森城を急襲した 16 。末森城を守るのは、利家の重臣・奥村永福が率いるわずか500名足らずの兵。圧倒的な兵力差を利した佐々軍の猛攻の前に、城はたちまち落城寸前に追い込まれた 30

金沢城でこの急報に接した利家は、秀吉からの待機命令を無視し、即座に出陣を決意する。この時、妻のまつが金銀の袋を投げ出し、「これで兵を雇いなされ」と夫を叱咤激励したという逸話は有名である 31 。利家は手勢2,500を率い、金沢から末森城までの約30kmの道のりを急行した 16 。土地勘のある農民を道案内に立て、佐々軍が警戒するであろう街道を避け、手薄な海岸沿いの道なき道を選んで夜通し進軍した 30

9月11日の夜明け、まさに城が落ちようかというその時、利家軍は末森城を包囲する佐々軍の背後に突如として出現した。完全に意表を突かれた佐々軍は大混乱に陥り、城内から打って出た奥村永福の部隊と挟撃される形となって総崩れとなり、多数の死者を出して越中へと敗走した 16 。この戦いは、利家の迅速な決断と大胆な奇襲戦術、そして寡兵で持ちこたえた籠城側の奮戦がもたらした、劇的な勝利であった。

第三章:さらさら越え - 孤高の執念

末森城での敗北は、成政にとって大きな痛手であった。さらに追い打ちをかけるように、頼みの綱であった小牧・長久手の戦いが、秀吉と信雄・家康との和睦という形で終結してしまう 12 。これにより、成政は完全に孤立無援となった。

進退窮まった成政が取った行動は、常人の想像を絶するものであった。天正12年の冬、徳川家康に秀吉打倒の再挙を直訴するため、厳冬期の北アルプスを越えて浜松城へ向かうという、前代未聞の強行軍を決行したのである 11 。この壮挙は、雪でザラザラと音を立てて崩れる「ザラ峠」を越えたことから、後に「さらさら越え」として語り継がれることになる 35

標高2,500m級の峰々が連なる立山連峰は、冬には数十メートルの雪に覆われ、雪崩が頻発する死の世界である 37 。成政一行は、凍死や滑落で多くの犠牲者を出しながらも、約1ヶ月をかけてこの難行を成し遂げた。しかし、命懸けで辿り着いた浜松城で、家康から得られた返事は、秀吉との和睦を覆すことはできないという非情なものであった 11

この「さらさら越え」は、成政の不屈の精神と織田家への忠誠心を示す逸話として知られるが、その本質は、軍事的に敗北が確定した状況を覆すための、最後の外交的賭けであった。この賭けに敗れたことで、成政は武力のみならず政治的にも完全に孤立し、秀吉による越中征伐はもはや避けられない運命となった。

第三部:終焉の天正13年(1585年) - 巨星、富山に墜つ

第一章:富山の役

「さらさら越え」の壮挙も虚しく、孤立を深めてもなお秀吉への抵抗の意思を崩さない佐々成政に対し、ついに豊臣秀吉は自ら動いた。天正13年(1585年)8月、関白に就任したばかりの秀吉は、その権威を天下に示すべく、10万ともいわれる大軍を率いて越中征伐(富山の役)を開始した 33

この征伐軍には、織田信雄、丹羽長重といった旧織田家臣団に加え、成政の宿敵である前田利家、さらにはこれまで敵対してきた上杉景勝までもが動員された 39 。かつての敵も味方も、全てが秀吉の威光の下に集結し、成政の富山城へと進軍した。これは、もはや一地方大名の討伐という規模を超えた、新時代の到来を告げる一大デモンストレーションであった。

秀吉軍は加賀国津幡から越中に入ると、各地の城砦を焼き払いながら富山城へと迫った 39 。前田軍は呉羽丘陵の白鳥城に本陣を構え、富山城を見下ろす形で圧力をかけた 12 。対する成政は、越中各地に分散させていた兵力を富山城に集中させ、籠城の構えを見せたが、その兵力は2万に満たず、勝敗は火を見るより明らかであった 39

秀吉は、神通川の水を城内に引き込み水攻めにすることも計画したと伝わるが 39 、実際には大規模な戦闘はほとんど行われなかった。圧倒的な軍勢で城を包囲し、その威容を見せつけるだけで、成政の戦意を完全に打ち砕いたのである。

勝ち目がないことを悟った成政は、8月26日、旧主である織田信雄を仲介役として、秀吉に降伏を申し入れた 39 。成政は自ら髪を剃り、僧衣をまとって秀吉の本陣に出頭し、恭順の意を示したという 12 。秀吉は「成政を降参させるのに太刀も刀もいらなかった」と豪語したと伝えられている 19

第二章:戦後の北陸

秀吉は成政の降伏を受け入れ、その命は助けた。しかし、その処分は厳しいものであった。領国越中のうち、婦負・射水・砺波の三郡は没収され、前田利家の嫡男・利長に与えられた 19 。成政には僅かに新川郡のみが残されたが、事実上の改易であり、妻子と共に大坂へ移住させられ、秀吉の御伽衆(話し相手)という屈辱的な役目を与えられた 38

これにより、前田家は加賀・能登・越中の大半を領する北陸随一の大大名へと躍進し、後の「加賀百万石」の礎を築くことになる。一方、佐々成政の運命は暗転する。天正15年(1587年)、九州平定における戦功で肥後一国を与えられ、奇跡的な大名復帰を果たす。しかし、彼の強引で一本気な性格は、複雑な利害が絡み合う肥後の国人衆の統治には向いていなかった。性急な検地が大規模な一揆を招き、その失政の責任を問われる形で、翌天正16年(1588年)、秀吉から切腹を命じられた 11 。その最期は、自らの臓腑を掴み出し、秀吉のいる大坂の方角へ投げつけたと伝わるほど、壮絶なものであったという 10

成政の死をもって、越中を舞台とした一連の戦乱は完全に終結した。反秀吉勢力の巨頭が北陸から一掃され、この地は完全に豊臣政権の支配体制下に組み込まれた。前田家が北陸の覇者としての地位を確立し、上杉家もまた、秀吉への臣従を明確にすることで、その存続を図っていくのである。

終章:松倉城周辺戦が残したもの

天正10年の魚津城の戦いに始まり、同13年の富山の役に至る4年間の「松倉城周辺戦」は、越中という一地方の覇権争いに留まらず、戦国時代の終焉と豊臣政権による天下統一という、日本史の大きなうねりを象徴する出来事であった。

この戦いを通じて、三人の主要人物はそれぞれ異なる道を歩んだ。

  • 佐々成政: 織田信長への旧恩と忠義に殉じ、時代の変化に抗い続けた末に滅び去った。彼の生き様は、良くも悪くも旧時代の武士が持つ矜持と、新しい時代の潮流に適応できなかった者の悲劇を物語っている。
  • 前田利家: 時代の流れを冷静に見極め、武力と政治力を巧みに使い分けることで、秀吉政権下でその地位を盤石なものとした。彼は戦国の世を生き抜き、近世大名として「加賀百万石」の繁栄の礎を築くことに成功した。
  • 上杉景勝: 織田、豊臣という二つの巨大勢力の狭間で、幾度となく存亡の危機に瀕しながらも、耐え忍ぶことで家名を保った。最終的には豊臣政権下で五大老の一角を占め、関ヶ原の戦いを経て減封はされるものの、米沢藩主として上杉家を明治維新まで存続させた。

結局のところ、この越中での一連の戦いは、本能寺の変後の混乱期において、中央の政局がいかに地方の軍事バランスと密接に連動していたかを示す「代理戦争」であった。佐々成政という存在は、秀吉にとって天下統一を完成させるための最後の大きな障害の一つであり、「富山の役」は、その障害を圧倒的な武力で排除し、天下に新たな秩序を宣言するための儀式であったと言えよう。松倉城周辺の山野に響いた鬨の声は、一つの時代が終わり、新たな時代が始まることを告げる鐘の音だったのである。

表2:松倉城周辺戦 主要年表(1582-1585)

年月日

佐々成政の動向

前田利家の動向

上杉景勝の動向

中央・その他の動向

典拠

天正10年(1582) 3月

魚津城攻撃に参加

魚津城攻撃に参加

魚津城に籠城軍を配置

織田軍、武田氏を滅ぼす

20

天正10年(1582) 5月26日

魚津城包囲を継続

魚津城包囲を継続

救援を断念し越後へ撤退

森長可らが越後侵攻の構え

3

天正10年(1582) 6月2日

(越中にて)

(越中にて)

(越後にて)

本能寺の変

22

天正10年(1582) 6月3日

魚津城を落城させる

魚津城を落城させる

(魚津城守将自刃)

-

3

天正10年(1582) 6月4日以降

変報を受け撤退

変報を受け撤退

須田満親らが魚津城を奪還

清洲会議

6

天正11年(1583) 4月

賤ヶ岳の戦いに参陣できず

賤ヶ岳で秀吉方に寝返る

(越中への圧力を維持)

賤ヶ岳の戦い

10

天正11年(1583)

魚津・松倉城を再攻略、越中平定

(秀吉方として勢力拡大)

越中東部から撤退

-

6

天正12年(1584) 9月

末森城を攻撃するも敗退

救援に駆けつけ勝利

(静観)

小牧・長久手の戦い

30

天正12年(1584) 冬

さらさら越え で家康に面会

(領国経営)

(静観)

秀吉と家康が和睦

11

天正13年(1585) 8月

富山城に籠城、降伏

秀吉軍の先鋒として越中へ

秀吉に呼応し出兵

富山の役

39

引用文献

  1. 上杉景勝は何をした人?「家康を倒す絶好の機会だったのに痛恨の判断ミスをした」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/kagekatsu-uesugi
  2. 上杉景勝 - 川中島の戦い・主要人物 https://kawanakajima.nagano.jp/character/uesugi-kagekatsu/
  3. 弾薬も城兵も尽きた絶望の80日間。魚津城12将がみせた最期のパフォーマンス - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/85451/
  4. 魚津城の戦い https://www.city.uozu.toyama.jp/attach/EDIT/003/003170.pdf
  5. 越中 松倉城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/ecchu/matsukura-jyo/
  6. 魚津城と松倉城 https://www.city.uozu.toyama.jp/guide/svGuideDtl.aspx?servno=25191
  7. 上杉景勝と直江兼続は蜃気楼を見たか - 魚津市 https://www.city.uozu.toyama.jp/nekkolnd/news/umoregi-pdf/031.pdf
  8. 松倉城跡 | スポット・体験 | 【公式】富山県の観光/旅行サイト「とやま観光ナビ」 https://www.info-toyama.com/attractions/51079
  9. serai.jp https://serai.jp/hobby/1143832#:~:text=%E4%BD%90%E3%80%85%E6%88%90%E6%94%BF%EF%BC%88%E3%81%95%E3%81%A3%E3%81%95%E3%83%BB%E3%81%AA%E3%82%8A,%E3%82%92%E6%94%AF%E3%81%88%E7%B6%9A%E3%81%91%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82
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  11. 負けず嫌いが身を滅ぼした豪傑型武将【佐々成政】とは⁉ | 歴史人 https://www.rekishijin.com/41108
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  13. 前田利家は何をした人?「信長の親衛隊長・槍の又左が秀吉の時代に家康を抑えた」ハナシ https://busho.fun/person/toshiie-maeda
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  15. 佐々 http://v-rise.world.coocan.jp/rekisan/htdocs/infoseek090519/hokuriku/tateyama/sasamasanaga.htm
  16. 前田利家の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/38366/
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  18. 前田利家 愛知の武将/ホームメイト https://www.touken-collection-nagoya.jp/historian-aichi/aichi-maeda/
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  22. 魚津城 天地人にも登場する悲劇の戦国時代 - Found Japan ... https://foundjapan.jp/1911-uozu_castle/
  23. 越中 魚津城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/ecchu/uozu-jyo/
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  33. 富山城の歴史 - 松川遊覧船 https://matsukawa-cruise.jp/reading/history-of-toyama-castle/
  34. 佐々成政の「ザラザラ越え」考 米原 宜 はじめに 1 . 記録類について - 立山博物館 https://tatehaku.jp/wp-content/themes/tatehaku/common/images/pdf/bulletin/2007/14_2007_03.pdf
  35. 壮挙と悲哀の「さらさら越え」 - さらしなそば https://www.sarashinado.com/2018/08/25/sarasaragoe/
  36. www.sarashinado.com https://www.sarashinado.com/2018/08/25/sarasaragoe/#:~:text=%E3%81%9D%E3%82%8C%E3%81%8C%E3%81%AA%E3%81%9C%E3%80%8C%E3%81%95%E3%82%89%E3%81%95%E3%82%89%E8%B6%8A%E3%81%88,%E3%81%8B%E3%82%89%E5%B3%A0%E3%81%AE%E5%90%8D%E5%89%8D%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E3%80%82
  37. 民衆を愛した佐々成政~真実だった、厳冬の北アルプス"さらさら越え" https://www.ccis-toyama.or.jp/toyama/magazine/narimasa/sasa0204.html
  38. 秀吉と争い続け、信長への忠誠心を失わなかった男|三英傑に仕え「全国転勤」した武将とゆかりの城【佐々成政編】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト - Part 2 https://serai.jp/hobby/1025938/2
  39. 富山の役 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%B1%B1%E3%81%AE%E5%BD%B9
  40. 白鳥城跡 しらとりじょうあと - 富山市 https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/maibun/center/topics/siratori/siratori.htm
  41. 佐々成政の居城「富山城」の歴史と巨石「鏡石」 https://sengoku-story.com/2019/05/22/sengoku-trip-etsuhi0002/
  42. 佐々成政の辞世 戦国百人一首89|明石 白(歴史ライター) - note https://note.com/akashihaku/n/n1bcac5f7046d
  43. 佐々成政~信長の黒母衣衆筆頭、悲劇の最期 | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/5118