松前・上国の戦い(1560)
天文17年、蝦夷地で蠣崎季広の従兄弟・基広が謀反。季広は呪詛や暗殺未遂を経て、猛将・長門広益に基広を討たせ乱を鎮圧。これにより蠣崎氏は道南和人社会の覇権を確立し、松前藩の礎を築いた。
1560年「松前・上国の戦い」の深層:戦国期蝦夷地における蠣崎氏権力闘争の実像
序章:北の戦国―蝦夷地における蠣崎氏の黎明
本州において、織田信長が桶狭間で今川義元を討ち取り、天下統一への道を歩み始めた永禄3年(1560年) 1 。その同じ時代、北の辺境・蝦夷地(現在の北海道)でもまた、独自の「戦国」が繰り広げられていた。しかし、その様相は本州のそれとは大きく異なる。石高制に基づき、天下統一という一つの目標に向かって大名たちが鎬を削った本州とは違い、蝦夷地における闘争は、和人社会内部の主導権争い、宗主である津軽の安東氏からの自立、そして先住民アイヌとの関係性構築という、三つの複雑な課題を巡って展開された 3 。
15世紀、渡島半島南部には本州から渡来した和人たちが「道南十二館」と呼ばれる城館を築き、それぞれが小領主として割拠していた 7 。彼らはアイヌとの交易を経済基盤としながらも、しばしば対立と抗争を繰り返す不安定な状況にあった 9 。この混乱に終止符を打ち、和人社会の新たな盟主として頭角を現したのが蠣崎氏である。長禄元年(1457年)に発生したアイヌの一斉蜂起「コシャマインの戦い」において、客将であった武田信広が和人軍を率いてこれを鎮圧。その功績により上之国(かみのくに)の守護・蠣崎季繁(すえしげ)の家督を継承し、蠣崎氏の礎を築いた 11 。
しかし、その後の蠣崎氏の道のりは決して平坦ではなかった。彼らは依然として津軽の安東(安藤)氏の被官という立場にあり、独立した大名ではなかった 14 。また、アイヌとの関係も緊張をはらんだままであり、謀略と武力が交錯する日々が続いていた 16 。
本報告書は、ユーザー様よりご依頼のあった1560年の「松前・上国の戦い」について詳述するものである。しかしながら、史料を精査した結果、永禄3年(1560年)にその名の合戦があったという直接的な記録は確認されなかった。ただし、「松前」「上国」「館を巡る戦い」というキーワードは、この時期の道南における蠣崎氏の権力基盤を揺るがした、ある重大な内乱を指し示している。それは、ご指定の年代に極めて近い、天文17年(1548年)に発生した**「蠣崎基広の乱」**である。この事件こそが、蠣崎氏が道南の覇権を確立する上で避けては通れない、血塗られた分水嶺であった。
したがって、本報告書ではこの「蠣崎基広の乱」を中核的な主題として扱い、その背景、詳細な時系列、そして歴史的意義を徹底的に分析する。これにより、ユーザー様が本来意図されたであろう「戦国期における蠣崎氏の道南統一を巡る争い」の実像に迫ることを目的とする。
なお、本件に関する主要史料は、後に松前藩初代藩主となる蠣崎慶広が編纂させた『新羅之記録』である 18 。これは松前氏の正当性を強調する目的で書かれた史書であり、勝者の視点からのバイアスが存在する可能性は否定できない 20 。本報告書では、その記述を尊重しつつも、行間に潜む権力闘争の力学を読み解き、多角的な視点から歴史の真実に迫りたい。
第一章:権力闘争の序曲―蠣崎季広の家督相続と一族の相克
天文14年(1545年)、蠣崎氏4代当主・蠣崎義広が世を去った。家督は嫡男である季広(すえひろ)が継承し、ここに蠣崎氏5代当主が誕生する 15 。この継承は正統なものであったが、その水面下では、一族内の権力構造に静かな、しかし深刻な亀裂が生じつつあった。
反逆者・蠣崎基広の肖像
この内乱の首謀者と目される蠣崎基広(もとひろ)は、季広の従兄弟にあたる人物である 15 。彼は、先代当主・義広の弟である高広の子(あるいは養子)とされ、蠣崎氏の血を色濃く引く有力な一族であった 22 。基広は、蠣崎氏にとって極めて重要な拠点である上之国の勝山館(かつやまだて)を任されており、単なる家臣ではなく、本家と勢力を二分しかねないほどの地位を占めていた 22 。
基広は、父・高広の死後、その地盤を継承し、上之国の城番としてアイヌとの戦いにおいても武功を挙げていたとされる 22 。彼は自らの出自と実績に自負を持ち、本家を継いだ従兄弟の季広に対し、複雑な感情を抱いていたとしても不思議ではない。
上ノ国 vs 松前―新旧拠点の対立
この対立の根源を理解するためには、蠣崎氏の権力基盤が置かれていた地理的・歴史的背景を考察する必要がある。
基広が拠点とした 上之国 は、蠣崎氏の始祖・武田信広がコシャマインの戦いの後に本拠とした地であり、勝山館は政治・軍事の中心であった 13 。天の川の河口に位置し、日本海交易の要衝でもあるこの地は、まさに蠣崎氏発祥の地ともいえる伝統的な権力基盤であった 26 。
一方、季広ら本家が拠点を置いていたのは 松前 の大館(おおだて)であった。3代当主・光広の代に上之国から松前へ拠点を移して以降、松前は蠣崎氏の新たな政治的中心地となっていた 11 。太平洋(津軽海峡)側に面した松前は、本州との交易においてより有利な立地であり、蠣崎氏の新たな発展を象徴する場所であった。
この「旧来の権力基盤・上ノ国」と「新しい権力中心・松前」という地理的な分離は、単なる拠点の違いに留まらなかった。伝統を背負い、自らを本流の後継者と見なす意識があったであろう上之国の基広と、松前を拠点に新たな支配体制を構築しようとする季広との間には、目に見えない路線対立が存在した。基広の不満は、個人的な嫉妬心のみならず、蠣崎氏が進むべき未来像を巡る、より根源的な対立に根差していた可能性が高い。天文17年(1548年)、この燻り続けていた火種は、ついに謀反という形で燃え上がることになる。
表1:主要登場人物相関図
人物名 |
よみ |
関係性・拠点 |
備考 |
蠣崎 義広 |
かきざき よしひろ |
蠣崎氏4代当主 |
季広の父。天文14年(1545年)没。 |
蠣崎 季広 |
かきざき すえひろ |
蠣崎氏5代当主 (本報告書の中心人物) |
義広の嫡男。拠点:松前・大館。 |
蠣崎 高広 |
かきざき たかひろ |
義広の弟 |
基広の父(または養父)。 |
蠣崎 基広 |
かきざき もとひろ |
謀反の首謀者 |
季広の従兄弟。拠点:上之国・勝山館。 |
長門 広益 |
ながと ひろます |
季広の家臣 |
蠣崎氏随一の猛将。基広討伐軍の大将。 |
南条 広継 |
なんじょう ひろつぐ |
季広の家臣 |
季広の長女を娶り、娘婿となる。 |
賢臓坊 |
けんぞうぼう |
法師 |
季広が帰依していた僧。基広に呪詛を依頼される。 |
第二章:松前・上国の戦い(蠣崎基広の乱)―合戦の時系列詳解
天文17年(1548年)に勃発したこの内乱は、本州で見られるような数千、数万の軍勢が野戦で激突する「合戦」とは様相を異にする。それは、水面下で進められた謀略が露見し、主君の命による「反逆者の誅殺」という形で決着がつけられた、限定的かつ決定的な武力行使であった。その経緯を時系列に沿って詳述する。
開戦前夜―呪詛と密計(天文17年以前)
家督を継いだ季広への不満を募らせていた基広は、すぐさま武力に訴えることを選ばなかった。彼の最初の手段は、より陰湿な「呪詛調伏」であった。『新羅之記録』によれば、基広は季広が深く帰依していた法師・賢臓坊(けんぞうぼう)に接近し、季広を呪い殺すよう依頼したとされる 22 。
賢臓坊は基広の依頼を受け入れ、数年間にわたって季広調伏の祈祷を続けたが、その願いが成就することはなかったという 28 。この記述には、季広が神仏に守護された正統な当主であることを強調する、後の編纂者の意図が色濃く反映されている。しかし、この事実は、基広の謀反計画が単なる一時の激情によるものではなく、数年がかりで周到に準備されていたことを示唆している。直接的な武力行使を躊躇し、まずは超自然的な力に頼ろうとした点に、一族内での公然たる対立を避けたいという思惑や、事を起こすための大義名分が整っていなかった状況がうかがえる。
発覚の瞬間―上ノ国訪問と暗殺未遂(天文17年3月)
数年にわたる呪詛が効果を現さないことに業を煮やしたのか、基広と賢臓坊は、より直接的な手段に訴える。天文17年(1548年)3月、当主である季広が上之国を訪れた際に、その機会は訪れた 22 。
季広が上之国に滞在中、賢臓坊が直接季広の暗殺を試みた。しかし、この試みは失敗に終わる 22 。暗殺の具体的な方法は伝わっていないが、この一件により、これまで水面下で進められていた基広の謀反計画は、白日の下に晒されることとなった。自らが帰依する法師に命を狙われた季広の衝撃と怒り、そして計画が露見した基広側の焦りは想像に難くない。ここに、両者の関係は修復不可能な段階へと突入した。
松前の決断―討伐軍の編成
暗殺の危機を脱した季広は、急ぎ本拠地である松前へと帰還した。従兄弟による謀反という、蠣崎氏の根幹を揺るがす一大事に対し、直ちに評定が開かれたと推測される。議論の末、季広は基広の誅殺という断固たる決断を下す。
この討伐軍の大将として白羽の矢が立ったのが、家中随一の猛将として知られた長門広益(ながと ひろます)であった 15 。広益はその武勇で知られ、この困難な任務を遂行するに足る人物と見なされた 30 。この人選は、内乱を長期化させることなく、迅速かつ確実に反乱の芽を摘み取るという季広の強い意志の表れであった。
上ノ国の攻防―広益の進軍と基広の最期
季広の命を受けた長門広益は、精鋭を率いて松前を出立し、反乱の拠点である上之国へと進軍した。動員された兵力に関する具体的な記録はないが、当時の蝦夷地における武力紛争の規模を鑑みれば、数百名程度であったと推測される 31 。
討伐軍は上之国に到着し、基広の軍勢と対峙した。戦闘の場所が勝山館であったか、あるいはその周辺地域であったかは定かではない。また、その戦闘経過も詳細には伝わっていない。しかし、『新羅之記録』をはじめとする諸史料は、この戦いが長門広益の圧倒的な武勇によって、討伐軍の勝利に終わったことを一致して伝えている 24 。激しい戦闘の末、首謀者である蠣崎基広は討ち死にし、反乱軍は瓦解した。
戦後処理―首級の検分
乱を鎮圧した長門広益は、その証として基広の首級を松前の季広のもとへ持ち帰った 29 。主君の前で行われた首実検により、謀反の完全なる終結が確認された。この冷徹な戦後処理は、季広に刃向かう者は一族であろうと容赦しないという姿勢を家中に知らしめ、彼の当主としての絶対的な権威を確立する上で決定的な意味を持った。こうして、蠣崎氏の未来を左右した骨肉の争いは、季広の完全勝利という形で幕を閉じたのである。
第三章:戦後の道南―権力基盤の確立と新たなる火種
天文17年(1548年)の「蠣崎基広の乱」鎮圧は、蠣崎氏の歴史における大きな転換点となった。この事件を通じて、5代当主・季広は対抗勢力を一掃し、道南和人社会における絶対的な支配者としての地位を固めた。しかし、力によって得られた権力は、新たなる悲劇の連鎖を生み出すことになる。
季広による権力集中と上ノ国の再編
最大の対抗者であった従兄弟の基広を排除したことで、季広の権力基盤は盤石なものとなった。これまで蠣崎氏の権力は松前と上之国に二分される構造的な脆弱性を抱えていたが、この内乱を経て、権力は松前の季広へと一元化された。これにより、家臣団に対する統制は飛躍的に強化され、後のアイヌとの和睦交渉など、統一された意思決定に基づく強力な政策推進が可能となった。
反乱の拠点となった上之国には、新たな城代として南条広継(なんじょう ひろつぐ)が送り込まれた 22 。広継は季広の長女を妻に迎えた娘婿であり、一族の中でも特に信頼の厚い人物であった 33 。蠣崎氏発祥の地であり、日本海交易の要衝でもある最重要拠点に、自らの娘婿を配置するという人事は、一族による支配体制を再強化し、二度と反乱の芽を生まないようにするという季広の強い意志の表れであった 34 。
悲劇への序章―永禄5年(1562年)の粛清事件
一見、安定を取り戻したかのように見えた蠣崎氏であったが、1548年の内乱で生じた血の怨念は、水面下で燻り続けていた。そして乱から14年後の永禄5年(1562年)、それは最も悲劇的な形で再び噴出する。
この年、上之国を任されていた南条広継の妻、すなわち季広の長女が、実の弟である蠣崎舜広(季広の嫡男)と明石元広(次男)を毒殺したという嫌疑がかけられた 33 。『新羅之記録』などによれば、彼女は女性であったために家督を継げなかったことを恨み、自らの子を後継者に据えるためにこの凶行に及んだとされる 34 。この陰謀が露見したことで、季広は実の娘とその夫である広継に対し、自害を命じるという非情な決断を下した。
広継は、自らの潔白を強く訴えた。彼は死に臨み、「私が死んだ後、棺の上に水松(みずまつ、イチイの木のこと)を逆さに植えよ。もしこの木が根付けば、それは我が身に悪心なき証である」と言い遺し、命を絶ったという 33 。そして、その言葉通り、逆さに植えられた水松は見事に根付き、青々と茂ったと伝えられている。これが今日、上ノ国町の愛宕神社に残る「逆さ水松」の伝説である。
この一連の事件は、単なる後継者争いに留まらない、より深い意味を持っている。1548年の内乱を力でねじ伏せた季広の統治スタイルは、一族内の潜在的な不満や対立を根絶するものではなく、むしろ恐怖によって封じ込めるものであった。その結果、権力への渇望はより歪んだ形で現出し、嫡男・次男の殺害(とされる事件)と、それに続く実の娘夫婦の粛清という、血で血を洗う悲劇へと繋がった。権力を維持するためには、たとえ骨肉の情であっても断ち切るという季広の冷徹な決断は、1548年の成功体験によって強化されたものであった可能性が高い。こうして、蠣崎氏の権力闘争は、一つの内乱の終結では終わらず、十数年にわたる非情な連鎖を生み出していったのである。
結論:辺境の覇者への道程
「松前・上国の戦い」として記憶される天文17年(1548年)の「蠣崎基広の乱」は、単なる一族の内紛に留まらず、蠣崎氏が辺境の一豪族から蝦夷地全域に影響を及ぼす支配者へと飛躍する上で、決定的な意義を持つ出来事であった。
第一に、この内乱の鎮圧によって、蠣崎氏は初めて道南和人社会における 内部統一を達成した 。基広という最大の対抗勢力を武力で排除したことにより、季広のリーダーシップは絶対的なものとなり、蠣崎氏は群雄割拠の状態から脱し、単一の強力な政治権力として確立された。
第二に、この強固な内部基盤の確立は、 対外政策への布石 として機能した。内部の憂いを断ち切った季広は、長年の懸案であったアイヌとの関係改善に乗り出すことができた。内乱終結のわずか2年後、天文19年(1550年)頃、季広は時の宗主であった安東舜季の仲介のもと、道南東部の首長チコモタインと西部の首長ハシタインとの間に歴史的な和睦を成立させる 36 。これにより、アイヌとの交易権を独占し、安定した経済基盤を築くことに成功した。もし蠣崎氏が内部分裂したままであれば、統一した交渉窓口を持つことはできず、このような大規模な和睦は成し得なかったであろう。
ここに、蠣崎季広という武将の統治スタイルの本質が見て取れる。それは、「内部に対する徹底した武断主義」と「外部(アイヌ)に対する巧みな融和政策」という、一見矛盾した二つの政策の組み合わせであった。しかし、この二つは表裏一体の関係にあった。内なる敵を容赦なく粛清することで初めて、外なる隣人と安定した関係を築くための強力な交渉主体となり得たのである。この冷徹なリアリズムこそが、戦国の世を生き抜いた季広の真骨頂であり、蠣崎氏を飛躍させた原動力であった。
そして第三に、この内乱を経て季広が築き上げた権力基盤と交易体制は、次代への確かな遺産となった。その子・慶広(後の松前慶広)は、父が築いた安定を背景に、中央の豊臣秀吉、徳川家康との交渉を有利に進め、ついに安東氏からの独立を勝ち取り、蝦夷地における交易独占権の公認を得る 15 。ここに、米の取れない「無石高」ながらも大名として認められた、日本史上類を見ない松前藩が誕生する。
その意味において、「松前・上国の戦い」は、後の松前藩、ひいては近世北海道史の礎を築いた、血塗られた、しかし不可欠な分水嶺であったと結論付けることができる。
表2:「蠣崎基広の乱」関連年表
西暦 |
和暦 |
出来事 |
1545年 |
天文14年 |
蠣崎義広(4代)死去。嫡男・季広(5代)が家督を相続する。 |
時期不詳 |
天文14年~17年 |
蠣崎基広、法師・賢臓坊に季広の呪詛を依頼。 |
1548年 |
天文17年3月 |
季広が上之国を訪問した際、賢臓坊による暗殺未遂事件が発生。基広の謀反が発覚する。 |
1548年 |
天文17年 |
季広、家臣の長門広益に基広討伐を命令。広益は上之国へ進軍し、基広を討ち取り乱を鎮圧する。 |
1548年以降 |
天文17年以降 |
季広、上之国の城代に娘婿の南条広継を任命する。 |
1550年頃 |
天文19年頃 |
季広、東西のアイヌ首長と和睦を成立させ、交易の独占権を確立する。 |
1562年 |
永禄5年 |
南条広継の妻(季広の長女)が、弟の舜広・元広(季広の嫡男・次男)を毒殺した嫌疑で、夫婦ともに自害させられる。 |
1583年 |
天正11年 |
季広、三男・慶広に家督を譲り隠居。 |
1599年 |
慶長4年 |
慶広、徳川家康の許しを得て姓を「松前」に改める。 |
1604年 |
慶長9年 |
徳川家康より黒印状が発給され、松前藩が正式に成立する。 |
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引用文献
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- 桶狭間の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%B6%E7%8B%AD%E9%96%93%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 松前藩(まつまえはん)[北海道] /ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/edo-domain100/matsumae/
- 藩政の歴史 - 北海道教育旅行 http://hokkaido-syuryo.com/study_item/%E8%97%A9%E6%94%BF%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2/
- 戦国時代勢力図 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/85272/
- 戦国争乱と東海の大名 - 株式会社 吉川弘文館 歴史学を中心とする、人文図書の出版 https://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b10086457.html
- 南十二館① - 北海道の歴史 http://hokkaido-history.jp/info/info-135/
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- 蝦夷の時代9 和人地についてアイヌとの争い - note https://note.com/hokkaido_view/n/n8c5d1113cabe
- 蝦夷地における和人とアイヌの攻防! - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/2252/
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- 上ノ国 かみのくに - 戦国日本の津々浦々 ライト版 https://kuregure.hatenablog.com/entry/2021/08/25/190241
- 北海道一周の旅 上ノ国から松前藩屋敷へ - 日本の旅 http://sakuramaya.fc2web.com/tetudou/kamikuni.html
- 泊館と蠣崎氏 - 江差町郷土資料館友の会 ブログ https://emtomo.exblog.jp/10947983/
- 長門広益 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E9%96%80%E5%BA%83%E7%9B%8A
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- 19 世紀初頭の日本の軍事力 - 防衛研究所 https://www.nids.mod.go.jp/publication/senshi/pdf/200603/12.pdf
- 日本の軍事史 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E5%8F%B2
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- 蠣崎慶広とは? わかりやすく解説 - Weblio国語辞典 https://www.weblio.jp/content/%E8%A0%A3%E5%B4%8E%E6%85%B6%E5%BA%83