最終更新日 2025-09-08

松田城の戦い(1590)

松田城の戦いは、1590年の小田原征伐において、豊臣軍の侵攻に対し大規模な戦闘は行われず、戦わずして開城したと推測される。松田一族は山中城で奮戦し、松田憲秀は内応を企てるなど、北条氏滅亡の悲劇を象徴する。

天正十八年、松田一族の攻防 ― 小田原征伐における「松田城の戦い」の真相

序章: 関東の覇者、落日の刻

天正十八年(1590年)、日本の歴史は大きな転換点を迎えようとしていました。四国、九州を平定し、天下統一事業の総仕上げに取り掛かっていた関白・豊臣秀吉。その最後の障壁として立ちはだかったのが、関東一円に覇を唱える後北条氏でした 1 。五代にわたり関東に独立王国を築き上げてきた後北条氏は、秀吉が再三にわたり要求した上洛、すなわち臣従の意を示すことを拒み続けます。この態度は、天下の秩序を再編しようとする秀吉にとって許容できるものではありませんでした。秀吉は、後北条氏を「帝都に対して奸謀を企つ」「勅命に逆ふ輩」と断じ、その討伐を天下に宣言します 2 。ここに、戦国時代最大規模の軍事行動、「小田原征伐」の幕が切って落とされたのです。

戦力分析:巨象と獅子

開戦にあたり、両軍の戦力差は歴然としていました。秀吉が動員した兵力は、全国の諸大名を糾合した21万から22万という、まさに空前絶後の大軍団でした 4 。対する後北条氏は、領国全土から成人男子を動員し、約5万6千の兵力をかき集めるのがやっとでした 4 。この4倍近い兵力差に加え、兵の質にも決定的な違いがありました。秀吉軍の主力は、織田信長の時代から推し進められてきた兵農分離により、戦闘を専門とする武士集団で構成されていました。一方、北条軍の多くは、農作業の合間に武器を取る農民兵であり、その練度や士気、戦闘の継続能力において、秀吉の率いるプロフェッショナルな軍団とは比較になりませんでした 4

項目

豊臣連合軍

後北条軍

総兵力

約21万~22万

約5万6千

主要指揮官

豊臣秀吉、豊臣秀次、徳川家康、前田利家、上杉景勝、織田信雄、毛利輝元、長宗我部元親、宇喜多秀家など

北条氏政、北条氏直、北条氏照、北条氏邦、北条氏規など

兵の構成

兵農分離された専業武士が主力

農民兵が主力

水軍戦力

九鬼嘉隆、加藤嘉明、脇坂安治など1,000隻を超える大船団

伊豆水軍など局地的な戦力に留まる

この圧倒的な戦力差を前に、後北条氏が野戦を選択することは、もはや自殺行為に等しいものでした。

小田原評定と松田憲秀の深層

開戦前夜、後北条氏の本拠地・小田原城では、連日軍議が開かれていました。後に「小田原評定」と揶揄されるこの会議では、戦略をめぐり意見が真っ二つに割れます。北条氏照・氏邦ら武断派は、箱根の険を利用して豊臣軍を各個撃破する積極的な迎撃策を主張しました 5 。これに対し、譜代筆頭家老であった松田憲秀は、徹底した籠城策を強力に推し進めます 5

松田憲秀は、初代・北条早雲の時代から仕える譜代の重臣であり、2,798貫という家中随一の知行を誇る実力者でした 7 。彼の発言は、評定の行方を左右するに十分な重みを持っていました。憲秀が籠城策を主張した背景には、いくつかの要因が考えられます。一つは、過去に上杉謙信や武田信玄といった強敵の猛攻を、小田原城に籠ることで退けた成功体験です。全長9kmにも及ぶ総構えで城下町全体を囲んだ小田原城は、難攻不落の要塞として絶対的な自信の対象でした 9

しかし、より深い次元で考えれば、憲秀は豊臣軍との圧倒的な戦力差を冷静に分析し、野戦での勝利は不可能と判断していた可能性があります。籠城によって戦を長期化させ、補給線が伸びきった大軍の疲弊を待つか、あるいは少しでも有利な条件での和議に持ち込むことこそが、北条家が生き残る唯一の道であると考えたのかもしれません 12 。この憲秀の「妙策」は、結果として評定の大勢を決め、後北条氏はその全ての主力を小田原城に集中させ、巨大な要塞に立てこもるという、壮大かつ悲劇的な籠城戦へと突き進んでいくことになったのです。この戦略的決断が、意図せずして関東各地に点在する支城群を孤立させ、豊臣軍による各個撃破を容易にするという、皮肉な結果を招くことになります。

小田原征伐 主要時系列表

本報告書で詳述する戦いの流れを俯瞰するため、主要な出来事を時系列で以下に示します。

年月日(天正18年)

豊臣軍の動向

北条方支城の戦況

小田原城内の動向・主要人物の動き

2月1日

豊臣軍先鋒が出陣 3

北条氏直、領国に参陣命令を発令 3

2月25日

徳川家康、織田信雄が沼津城に着陣 14

3月1日

豊臣秀吉が京・聚楽第より出陣 14

3月27日

秀吉が沼津城に到着、全軍の指揮を執る 3

3月29日

豊臣秀次・徳川家康軍(約7万)が山中城を攻撃

山中城、わずか半日で落城。城主・松田康長討死 3

籠城策を決定

3月30日

井伊直政軍が足柄城へ進軍 14

足柄城、城主が撤退し事実上開城 14

山中城落城の報に衝撃が走る

4月1日

水軍が伊豆・下田城を包囲 14

4月4日

豊臣秀次・徳川家康軍が小田原に到着、包囲を開始 14

小田原城の完全包囲が完成

4月下旬

北国勢(前田・上杉軍)が上野国の諸城を次々攻略 14

松井田城、箕輪城、館林城などが落城・開城

5月~6月

秀吉、小田原城を見下ろす石垣山に城を築城(石垣山一夜城)

鉢形城、八王子城などが次々と落城

長期籠城により士気が低下

6月16日

松田憲秀、豊臣方への内応が発覚し捕縛される 14

6月24日

韮山城が開城 14

7月5日

北条氏直、降伏し小田原城を開城 4

7月11日

北条氏政・氏照、大道寺政繁、 松田憲秀が切腹 4

第一部: 怒濤の進撃 ― 豊臣軍、箱根へ

三方からの侵攻作戦

秀吉が立案した小田原征伐の作戦は、後北条氏が誇る広大な関東平野を、その利点ごと無力化する壮大なものでした。作戦の骨子は、陸路と海路から同時に侵攻し、北条領を完全に包囲下に置くというものです 16

  1. 東海道軍: 徳川家康を総大将とする主力が、東海道を進み、箱根の防衛線を突破して小田原城に迫る。
  2. 北国・東山道軍: 前田利家、上杉景勝らを主力とする軍勢が、上野国(現在の群馬県)から関東平野に侵入し、北条氏の北方の支城を制圧しながら南下する。
  3. 水軍: 九鬼嘉隆、長宗我部元親、加藤嘉明らが率いる1,000隻を超える大船団が、伊豆半島沿岸を制圧し、小田原の海上を封鎖する 14

この三方面からの同時侵攻は、北条方が戦力を一点に集中して迎撃することを不可能にし、各個撃破を狙う豊臣方の戦略を完璧に具現化するものでした。

天正18年2月1日、豊臣軍の先鋒が出陣を開始すると 3 、計画は驚くべき速度と精度で実行されていきます。2月25日には、先鋒の徳川家康・織田信雄軍が、北条方の最前線である山中城からわずか10kmの距離にある沼津城(三枚橋城)に着陣 3 。軍事的な圧力が一気に高まります。3月1日には秀吉自身が京の聚楽第を出陣し 14 、3月27日には沼津の最前線に到着 3 。天下人自らが指揮を執ることで、全軍の士気は最高潮に達しました。この進軍は単なる軍事行動ではなく、圧倒的な物量と組織力を見せつける一大デモンストレーションであり、戦闘開始前から北条方の戦意を削ぐための高度な心理戦でもあったのです。

徳川家康の役割と布陣

この作戦において、最も重要な役割を担ったのが、先鋒軍を率いる徳川家康でした。3万の精鋭を率いた家康は、箱根越えの主攻路を切り開く任務を負っていました 3 。家康軍には、「徳川四天王」と謳われた井伊直政、本多忠勝といった猛将たちが名を連ねており、彼らがこの後の支城攻略戦で先鋒として目覚ましい働きを見せることになります。

小田原城の包囲が始まると、家康は城の東方に位置する今井(現在の小田原市寿町)に本陣を構えました 17 。この場所は、小田原城を東から圧迫する上で絶好の位置にあり、家康はここを拠点として、北条氏が降伏するまでの約110日間にわたり、包囲網の中核を担い続けました 18

第二部: 西方の門、半日にて堕つ ― 山中城の攻防

山中城の戦略的重要性

箱根の西麓、東海道を見下ろす要衝に築かれた山中城は、小田原城の西の玄関口を守る、後北条氏にとって最も重要な防衛拠点でした 1 。この城の守備を任されたのは、松田一族の宿将・松田康長。さらに玉縄城主・北条氏勝が増援として入城し、約4,000の兵が守りを固めていました 12 。山中城は、堀の中に畝状の土塁を残すことで敵兵の移動を妨げる「障子堀」や、複雑に配置された曲輪群など、北条流築城術の粋を集めた「土の城」の傑作とされ、北条方はその防御力に絶対の自信を持っていました 1 。この城を落とさない限り、豊臣軍の主力が小田原へ進むことはできません。まさに、小田原征伐の緒戦における天王山でした。

リアルタイム描写(3月29日)

  • 未明~早朝: 運命の3月29日。豊臣秀次を総大将とし、徳川家康も加わった約7万の大軍が、夜陰に乗じて山中城に殺到しました 14 。4,000の守備兵に対し、実に17倍以上の兵力です。
  • 午前: 夜が明けると同時に、豊臣軍は鬨の声を上げ、城の四方から一斉に攻撃を開始します。特に城の正面である大手口では、凄まじい激戦が繰り広げられました。豊臣軍の先鋒部隊を率いた一柳直末は、果敢に突撃を試みるも、城方から放たれた銃弾に倒れ、戦死します 14 。北条方は、関東ローム層の滑りやすい土質を利用した急峻な城壁と、雨のように降り注ぐ矢玉で奮戦し、豊臣軍に多数の死傷者を出させました 1
  • 昼頃: しかし、兵力の差はあまりにも圧倒的でした。豊臣軍は、次から次へと兵を投入する波状攻撃を仕掛けます。兵たちは、累々と横たわる味方の屍を乗り越え、矢玉をかいくぐりながら、名物の障子堀に殺到。泥に足を取られながらも堀を乗り越え、城内へと突入していきました 1
  • 午後: 城内に敵兵の侵入を許すと、衆寡敵せず、防衛線は急速に崩壊します。城主・松田康長は最後まで奮戦したものの、乱戦の中で討死を遂げました 12 。秀吉が後に「昼頃、山中城に攻めかかり、たちまち攻め崩した」と書き送っているように、鉄壁を誇った山中城は、わずか半日で陥落したのです 3

山中城のあまりにも早い落城は、単なる一城の陥落以上の意味を持ちました。それは、後北条氏が絶対の自信を持っていた伝統的な防衛戦略が、豊臣秀吉の動員する圧倒的な物量と人海戦術の前には全く通用しないという、時代の変化を突きつける象徴的な出来事でした。この報は小田原城に絶望的な衝撃を与え、籠城策の前提であった「時間稼ぎ」は、緒戦にして完全に破綻したのです。松田康長の奮戦は一族の名誉を守るものでしたが、その死は、後北条氏の滅亡を決定づける戦いの始まりを告げるものでもありました。

第三部: 崩れゆく防衛線 ― 酒匂川流域の支城群

山中城陥落の連鎖反応

山中城の陥落は、ドミノの最初の牌が倒れたかのように、後北条氏の支城ネットワークの総崩れを引き起こしました。西方の門が破られたことで、豊臣軍は関東平野への進撃路を確保し、各地の支城は孤立無援の状況に陥ったのです。

  • 足柄城(3月30日~4月1日): 山中城と並ぶ箱根の要衝、足柄城には、徳川四天王の一人、「井伊の赤鬼」と恐れられた井伊直政の部隊が進軍しました 14 。城将であった北条氏忠(氏光とも)は、山中城がわずか半日で陥落したという報に衝撃を受け、戦わずして城を放棄。小田原城へと撤退しました。これにより、井伊直政は一人の犠牲者を出すことなく、戦略上の重要拠点を占領することに成功しました 14
  • 韮山城(3月29日~6月24日): 伊豆の付け根に位置する韮山城では、北条氏政の弟・氏規が3,600の兵と共に籠城していました。織田信雄を総大将とする4万以上の大軍に包囲されながらも、氏規は巧みな指揮で3ヶ月にわたり頑強に抵抗を続けました 14 。しかし、周辺の支城が全て陥落し、小田原城からの援軍も絶望的となると、ついに開城を決断します 14 。氏規の奮戦は、小田原征伐における北条方の数少ない意地を示す戦いとなりました。
  • その他の支城: 酒匂川流域やその周辺に点在していた他の支城も、次々と豊臣方の手に落ちていきました。津久井城は徳川軍の本多忠勝らによって攻略され 14 、河村城も徳川配下の部隊による攻撃を受け落城したと記録されています 25

このように、秀吉の戦略通り、小田原城は周囲の触手を全て断ち切られ、裸の城となっていったのです。

「松田城」の状況とクエリへの回答

さて、本報告書の主題である「松田城の戦い」について、その真相に迫ります。松田城は、現在の神奈川県足柄上郡松田町に位置し、後北条氏の筆頭家老・松田氏がその名の通り本拠とした城でした 26 。平安時代末期に築城されたとされ、足柄平野や相模湾を一望できる、まさしく要害の地にありました 28

小田原征伐の当時、この松田城の城主は、小田原城にいた当主・松田憲秀の弟、松田新次郎康隆であったとされています 29 。しかし、この松田城をめぐる大規模な戦闘の記録は、史料上確認することができません。その理由は、当時の戦況を分析することで明らかになります。

豊臣軍の主攻路は、あくまでも東海道の主要ルートである箱根路(山中城ルート)と足柄路(足柄城ルート)でした。松田城はこれらの主要街道からやや内陸に位置しており、小田原城を包囲するという最終目標を達成する上で、戦略的な優先順位が低かったと考えられます。また、北条方の主力は小田原城に集中しており、松田一族の主だった武将も、当主の憲秀は小田原城、宿将の康長は最前線の山中城に配置されていました。松田城に残された守備兵力は、ごく僅かであったと推測されます。

以上のことから、松田城は豊臣軍の主目標となることなく、周辺の支城が次々と陥落していく中で、戦わずして放棄されたか、あるいは小規模な部隊によって抵抗を受けることなく接収された可能性が極めて高いと結論付けられます。したがって、「松田城の戦い」という名の独立した合戦は存在せず、ご依頼者がご存知であった「酒匂川流域の支城を制圧」という一連の軍事行動の中で、松田城もまた歴史の奔流に飲み込まれていった、というのが歴史的な実像です。

第四部: 絶望の籠城 ― 小田原、そして宿老の苦悶

小田原城の完全包囲

天正18年4月4日、箱根の防衛線を突破した豊臣秀次、徳川家康らの軍勢が小田原城下に到着し、巨大な包囲網がその姿を現し始めました 14 。北からは前田・上杉軍が迫り、海からは豊臣水軍が湾を埋め尽くし、難攻不落を誇った小田原城は、陸と海から完全に孤立したのです 1

秀吉は、単に兵糧攻めを行うだけではありませんでした。彼は小田原城を眼下に見下ろす笠懸山に、新たな城の築城を命じます。これが、後に「石垣山一夜城」として知られることになる本陣です 4 。秀吉は、山中の木々を伐採せずに、その内側で城の骨組みを完成させ、完成と同時に周囲の木々を一斉に切り倒すことで、あたかも一夜にして巨大な石垣の城が出現したかのように演出しました。この光景を目の当たりにした小田原城の将兵たちは、秀吉の圧倒的な財力と動員力、そして底知れぬ才覚に戦意を喪失したと言われています。秀吉はさらに、京から茶々(淀殿)ら妻女や千利休を呼び寄せ、連日茶会を開くなど、長期戦を全く意に介さない余裕を見せつけ、北条方の心理を徹底的に揺さぶりました 3

松田憲秀、内応の発覚(6月16日)

包囲から2ヶ月以上が経過し、城内には絶望的な空気が漂い始めていました。関東各地の支城が次々と陥落したという報が届き、勝利の望みは完全に断たれていました 32 。この絶望的な状況下で、後北条氏の屋台骨を揺るがす大事件が発生します。

6月16日、籠城策を主導した筆頭家老・松田憲秀が、長男の笠原政晴と共に豊臣方への内応を画策していることが発覚したのです 12 。勝ち目のない戦でこれ以上無駄な血を流すことを避け、主家である北条氏の家名を何とか存続させようと、豊臣方の堀秀政らと水面下で交渉を進めていたとされます 9 。しかし、この計画は、憲秀の次男である松田直秀が「父と兄に謀反の疑いあり」と主君・北条氏直に密告したことで露見しました 12 。父子の情よりも主君への忠義を選んだ直秀の行動は、松田一族の悲劇を象徴しています。内応が発覚した憲秀と政晴は直ちに捕らえられ、城内の一室に監禁されました 15

譜代筆頭家老の内応という事実は、城内の結束を決定的に崩壊させました。これは単なる一個人の裏切りではなく、五代続いた名門・後北条氏という組織が、その末期において内部から崩れ始めていたことの何よりの証左でした。外部からの圧倒的な軍事的圧力が、いかに強固な組織をも内側から蝕んでいくかを示す、悲劇的な結末への序曲でした。

終章: 北条氏の滅亡と松田一族の行方

無血開城と戦後処理

松田憲秀の内応事件が最後の引き金となり、小田原城内の抗戦意欲は完全に尽きました。7月5日、当主・北条氏直はついに降伏を決断し、難攻不落を誇った巨城は、血を流すことなくその門を開きました 4 。約100日間に及んだ籠城戦の終幕であり、戦国大名・後北条氏が事実上滅亡した瞬間でした 10

秀吉による戦後処理は、厳格を極めました。7月11日、最後まで抵抗を主張した前当主・北条氏政とその弟・氏照、そして老臣の大道寺政繁と、内応を企てた松田憲秀に切腹が命じられました 4 。憲秀は、北条家を救うための行動が、結果として自らの命と家の名誉を失うという、最も皮肉な最期を迎えたのです。一方、当主であった氏直は、徳川家康の娘婿であったことなどが考慮され、一命を助けられ高野山へ追放となりました 4

松田一族のその後

戦国の世の非情さは、松田一族のその後の運命にも色濃く反映されています。

  • 父と兄の裏切りを密告した次男・ 松田直秀 は、主君・氏直の高野山行きに付き従い、最後まで忠義を貫きました。氏直がその翌年に病死すると、加賀の前田家に仕官し、家名を保っています 7
  • 山中城で壮絶な討死を遂げた 松田康長 の子・直長は、後に徳川家康に召し出され、その忠節を賞されて400石余の旗本として取り立てられました。この家系は江戸時代を通じて徳川幕臣として存続しました 34
  • 一族の中には、その武勇を買われて家康の次男・結城秀康に仕えた者もおり 12 、松田氏は離散しながらも、それぞれの形で新たな時代を生き抜いていきました。

総括: 「松田城の戦い」が示すもの

本報告書を通じて明らかになったように、「松田城の戦い」という単一の大規模な戦闘は、歴史上確認できません。しかし、この問いは、小田原征伐という日本の歴史における巨大な転換点において、後北条氏の命運を一身に背負った**「松田一族の戦い」**という、より深く、そして人間的なドラマを浮き彫りにします。

それは、西の防衛線・山中城において、圧倒的な敵を前に一歩も引かず、壮絶な討死を遂げた 松田康長の「武」の戦い でした。そして同時に、本拠地・小田原城において、絶望的な状況下で主家の存続を模索し、結果として裏切り者の汚名を着て非業の最期を遂げた筆頭家老・ 松田憲秀の「政」の戦い でもありました。

ご依頼者が当初お持ちだった「酒匂川流域の支城を制圧」という情報は、まさにこの歴史の真実の一端を捉えています。松田城を含め、酒匂川流域に点在した後北条氏の支城群は、豊臣秀吉の周到な戦略と圧倒的な物量の前に、次々と無力化されていきました。この局地的な戦闘や無血開城の連鎖こそが、関東に君臨した巨大な戦国大名の屋台骨を、いかにして崩壊させていったかを示す動かぬ証拠です。この一連の攻防の全体像こそが、ご依頼のあった「松田城の戦い(1590)」の真相であると結論付けます。

引用文献

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  30. 松田城 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.matsuda.htm
  31. 相模松田 小田原城籠城推進者ながら秀吉調略に乗り開城後不忠を咎められ北条氏政兄弟と共に切腹に処された北条氏筆頭家老松田氏の『松田城』訪問 - フォートラベル https://4travel.jp/travelogue/11087987
  32. 経験がものを言う|福田清張 - note https://note.com/rich_tapir4504/n/n47cca6a8b6f6
  33. 松田憲秀(まつだのりひで)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%9D%BE%E7%94%B0%E6%86%B2%E7%A7%80-1111008
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