最終更新日 2025-09-04

柏原城の戦い(1581)

天正九年、織田信長は伊賀惣国一揆最後の拠点柏原城を攻囲。伊賀衆は奮戦するも兵糧尽き、城主滝野吉政は降伏。中世以来の独立国家伊賀は滅亡し、信長の天下統一事業はまた一歩進んだ。

天正九年 伊賀終焉の刻 ―柏原城の戦い 詳細報告―

序章:怒れる天下人と独立の邦

天正九年(1581年)の柏原城の戦いは、単なる一城の攻防戦ではない。それは、織田信長の天下統一事業において、中央集権的支配を拒む「異質な存在」を排除するという、歴史の必然が生んだ衝突であった。この最終決戦に至る直接的な導火線は、その二年前に遡る。

第一次天正伊賀の乱の敗報と信長の激怒

天正七年(1579年)、伊勢国を治めていた織田信長の次男・織田信雄は、父に無断で伊賀国への侵攻を敢行した 1 。手柄を焦る信雄であったが、伊賀衆の巧みな山岳ゲリラ戦術の前に、約一万と号した軍勢は惨憺たる敗北を喫する 3 。当時、破竹の勢いで版図を拡大していた織田家にとって、伊賀という小国に喫したこの大敗は、その威信を著しく傷つけるものであった 1

報せを受けた信長は激怒した。その怒りは、信雄に対して「親子の縁を切る」とまで記した勘当状を送りつけるほど凄まじいものであったと伝わる 6 。これは単なる戦術的失敗への叱責ではない。織田家の統制を乱し、天下布武の障害となりかねない「家中の不始末」に対する、信長の強い危機感の表れであった。この信雄の敗戦は、信長に伊賀忍びに対する警戒心を抱かせ、後の徹底的な殲滅戦へと繋がっていく 6

「伊賀惣国一揆」の実態と、織田家にとっての脅威

当時の伊賀国は、特定の守護大名や戦国大名の恒常的な支配を受けず、地域の地侍(国人)たちが一族ごとに連合体を形成し、合議によって国を運営する「伊賀惣国一揆」と呼ばれる特異な自治共同体を形成していた 7 。彼らは侍であると同時に、土地に根差した領主であり、その生活圏と独立を守るために戦う武装集団であった。

この自治共同体は、強力な中央集権体制を目指す信長の「天下統一」事業とは、その理念において根本的に相容れない存在であった。地政学的にも織田家の心臓部に隣接しており、信長にとって伊賀は、支配の及ばぬ「独立国」として放置できない戦略的脅威だったのである。

第二次天正伊賀の乱、発動さる

信長は、長年にわたる石山本願寺との抗争が終結するのを待ち、天正九年、満を持して伊賀殲滅作戦を発動した 6 。この戦いは、信雄に汚名を返上させるという個人的な動機を与えつつも、その実態は織田家の総力を挙げた組織的殲滅戦であった。信長の支配体制に抵抗する勢力への見せしめという、極めて冷徹な政治的・軍事的意図が色濃く反映されていたのである 1 。柏原城の戦いは、信雄にとっては名誉回復の最終局面であり、信長にとっては反抗勢力を根絶やしにする天下統一事業の総仕上げの一つという、異なる二つの目的が交差する、伊賀国終焉の舞台であった。

第一章:鉄の包囲網 ―伊賀侵攻の刻―(天正九年九月上旬~)

天正九年九月、伊賀の独立を完全に粉砕せんとする織田の大軍が、国土を包囲し、その牙を剥いた。圧倒的な兵力差と周到な作戦計画の前に、伊賀衆はなすすべもなく追い詰められていく。

織田軍の編成と六つの侵攻経路

総大将には、雪辱を期す織田信雄が任じられた。しかし、その脇を固めるのは丹羽長秀、滝川一益、蒲生氏郷、筒井順慶といった織田軍団の錚々たる宿老・猛将たちであり、信長のこの戦いに対する本気度が窺える 3 。動員された兵力は諸説あるが、三万から六万という、伊賀の総人口に匹敵するほどの大軍であった 3

作戦の骨子は、伊賀を囲む六つの主要な峠口から、複数の軍団が一斉に侵攻するという、緻密な包囲殲滅作戦であった 11 。これは、伊賀衆の得意とするゲリラ戦を封じ込め、その逃げ道を完全に塞ぐことを意図したものであった。

【表1】第二次天正伊賀の乱 織田軍侵攻部隊一覧

侵攻路(口)

担当主要武将

兵力(『伊乱記』による推定)

伊勢地口

織田信雄、津田信澄、滝川雄利

10,000

柘植口

丹羽長秀、滝川一益

12,000

玉滝口

蒲生氏郷、脇坂安治

7,000

笠間口

筒井順慶、筒井定次

3,700

初瀬口

浅野長政

2,300(多羅尾口と合わせて)

多羅尾口

堀秀政、多羅尾弘光

2,300(初瀬口と合わせて)

侵攻開始日については史料によって記述が異なる。『信長公記』や『多聞院日記』といった信頼性の高い一次史料に近い記録では「九月三日」に攻撃が開始されたとある 6 。一方で、後世に成立した軍記物である『伊乱記』は「九月二十七日」としている 11 。この日付の矛盾は、おそらく「九月三日」が各部隊が国境に進駐し、小規模な掃討作戦を開始した「軍事行動開始日」を指し、「九月二十七日」は包囲網が完成し、主要拠点への本格的な総攻撃が始まった日を劇的に描いたものと解釈できる。記録者の視点の違いが、一つの軍事作戦に異なる日付を与える典型例と言えよう。

各地で上がる狼煙 ―比自山城の攻防と伊賀衆の潰走

鉄の包囲網は、伊賀の国土を容赦なく蹂躙した。織田軍は進路上にある寺社仏閣や城砦を次々と焼き払い、抵抗する者は女子供に至るまでことごとく殺害したと伝わる 7 。伊賀全土が焦土と化すのに、二週間とかからなかった 5

伊賀北部の要衝・比自山城では、百田藤兵衛らを中心に約3,500人が立てこもり、激しい抵抗を見せた 7 。しかし、蒲生氏郷らの猛攻の前に持ちこたえることはできず、ついに伊賀衆は夜陰に紛れて城を脱出する 8 。彼らが目指したのは、伊賀国南西の隅に位置する最後の拠点、柏原城であった 7

しかし、この戦力を温存し再結集を図るための「戦略的撤退」は、織田軍の執拗な追撃によって阻まれた。特に大和方面から進軍していた筒井順慶の部隊は、脱出者たちを「草の根わけても探し出し一人残らず斬れ」と厳命し、徹底的に追討したとされる 14 。このため、多くの者が傷つき、あるいは討たれ、無事に柏原城にたどり着けた者は少なかった 14 。比自山城からの撤退の失敗は、柏原城に籠城した兵力が本来想定されていたよりも消耗し、士気も低下した状態で最終決戦を迎えざるを得ないという、致命的な結果をもたらしたのである。

第二章:籠城 ―柏原城、最後の抵抗―(天正九年九月中旬~)

伊賀衆の最後の希望を背負い、敗残兵や女子供が集結した柏原城。絶望的な状況下で、彼らは故郷と一族の誇りをかけて、最後の抵抗を試みた。

城の守り:柏原城の構造と防衛体制

柏原城は、永禄年間(1558年~1570年)に滝野貞清によって築かれた城で、宇陀川の支流である滝川の東岸、丘陵の先端部に位置していた 15 。大規模な土塁と深い空堀によって守りを固めた堅城であり、天然の地形を巧みに利用した要害であった 17 。本丸は一辺約25メートルの方形をなし、その周囲は二重の土塁と空堀で囲まれ、籠城に不可欠な深い井戸も備えられていた 18 。力攻めが極めて困難な構造は、伊賀衆にとって最後の砦としてふさわしいものであった。

城の将兵:滝野吉政、百地丹波ら伊賀地侍の覚悟

城主は、滝野貞清の跡を継いだ滝野十郎吉政 15 。そして、伊賀流忍術の祖とも、伝説の忍者・百地三太夫のモデルとも言われる伊賀上忍の一人、百地丹波もこの城に駆けつけ、抵抗の中心人物となった 20

城に籠もったのは、各地での戦いに敗れ、あるいは戦わずして逃れてきた伊賀の地侍たちであった。その数、士分438人、雑兵1,200余人、総勢1,600余人 7 。さらに、彼らの妻子を含む多数の非戦闘員も城内におり、その総数は数千人に及んだと推察される。彼らの多くは、もはや生きて城を出ることはない、と討ち死にを覚悟していた 7

【表2】柏原城籠城戦 主要人物一覧

立場

主要人物名

役職・役割

関連情報

籠城側

滝野十郎吉政

柏原城主

降伏の際に嫡男・亀の助を人質に出す決断を下す 20

籠城側

百地丹波

伊賀上忍

弓矢の名手として奮戦。ゲリラ戦を指揮した可能性 20

攻撃側

織田信雄

総大将

第一次の雪辱を期す。兵糧攻めに戦術を転換 7

攻撃側

丹羽長秀

寄手の大将

緒戦の強襲を指揮するも、伊賀衆の抵抗に遭い撤退 20

攻撃側

筒井順慶

遊軍・包囲部隊

柏原城に対する陣城を築き、圧力をかける 23

仲介者

大倉五郎次

猿楽太夫

奈良より来訪し、降伏を勧告。和議を仲介 13

緒戦:丹羽長秀軍を退けた伊賀衆の奮戦

包囲を完了した織田軍は、まず力攻めを試みた。丹羽長秀を大将とする先陣が城に殺到したが、城兵の抵抗は凄まじかった 18 。城主・滝野吉政や百地丹波、近地、中野といった名のある者たちが放つ矢は、寄せ手の兵を次々と射倒した 20 。堅牢な城の守りと、死に物狂いの城兵の前に、織田軍は多くの死傷者を出し、この最初の総攻撃は失敗に終わった 18

この緒戦の勝利は、伊賀衆の士気を大いに高めた。しかし、それは彼らにとっての「最後の栄光」であり、同時に「破滅への序曲」でもあった。この手痛い損害により、織田信雄は力攻めの非効率さを悟り、より確実で、より残酷な戦術へと転換することを決意するのである 18

闇夜の攻防:忍びによる夜襲と織田本陣への揺ぶり

力攻めが頓挫した後も、伊賀衆の抵抗は続いた。籠城衆の中には忍術を心得た者が数十名おり、彼らはその特殊技能を駆使して織田軍を撹乱した 20 。夜の闇に紛れて城から忍び出ては、包囲する諸将の陣営に夜討ちを仕掛け、篝火を消し、陣屋を焼き払うなどのゲリラ戦を展開した 20

これらの夜襲が数万の大軍に与える物理的な損害は限定的であっただろう。しかし、その真の目的は、織田軍の兵士たちに「いつ、どこから襲われるか分からない」という絶え間ない恐怖と緊張を植え付け、その士気を削ぐことにあった。これは、圧倒的劣勢にある側が、敵の心理的脆弱性を突く非対称戦の典型であり、彼らが単なる地侍ではなく、特殊な戦闘技術を持つ集団であったことの証左であった。また、周辺の山々に一斉に松明を掲げて敵を驚かせ、その隙に信雄の本陣を急襲するという大胆な作戦も計画されるなど、最後まで抵抗の意志は衰えなかった 14

第三章:静かなる攻防 ―兵糧攻めの実態―(天正九年九月下旬~十月)

緒戦の激しい戦闘の後、戦いの様相は一変した。鬨の声と斬り結ぶ刃の音は止み、代わって戦場を支配したのは、静かで、しかし確実に城兵の命を蝕んでいく残酷な消耗戦であった。

織田信雄の戦術転換 ―力攻めから兵糧攻めへ

緒戦の失敗と柏原城の堅固さを目の当たりにした織田信雄は、無用な損害を出す力攻めを完全に放棄し、城の補給路を断って内部から枯渇させる「兵糧攻め」へと戦術を切り替えた 7 。これは第一次伊賀の乱での失敗から学んだ、冷静かつ合理的な判断であった。織田軍は城を幾重にも包囲し、蟻一匹這い出る隙間もないほどの厳重な封鎖線を敷いた。

この兵糧攻めは、織田信長が確立した「近代的な」戦争遂行能力の証明でもあった。数万の軍勢を長期間にわたって一つの場所に留め、その兵站を維持する能力は、当時の戦国大名の中でも傑出していた。伊賀衆が持つ個人的な武勇やゲリラ戦術といった「旧来の」戦い方では、もはや織田という巨大な軍事・経済システムには対抗できないという、時代の転換点を象徴する光景であった。

対岸の陣城:筒井順慶の圧迫と包囲網の完成

この静かなる戦いにおいて、重要な役割を果たしたのが、大和方面から侵攻した筒井順慶であった。順慶は、柏原城を監視し、圧力をかけるため、城から約140m離れた対岸の丘陵に専用の陣城を築いた 23

この陣城は、単なる野営地ではなかった。横堀、食い違い虎口、土塁などを備えた、要塞とも呼べる堅固なものであったと記録されている 24 。これは、織田軍の長期戦への覚悟と、伊賀衆に一切の逃亡や補給を許さないという強い意志の表れであった。籠城する伊賀衆から見れば、自分たちの城と見紛うほどの堅固な砦が目の前に築かれ、そこから絶え間なく監視されている状況は、計り知れない心理的圧迫となったであろう。この陣城は、柏原城がもはや砦ではなく、脱出不可能な「牢獄」であることを日々実感させる、強力な心理的兵器として機能したのである。

城内の疲弊:尽きゆく兵糧と士気の減衰

完全な包囲下に置かれた城内では、時間は敵であった。日に日に兵糧は尽き、人々の体力と気力は失われていった 20 。1,600人以上の兵士に加え、多数の女子供を抱える城内では食料の消耗は激しく、籠城が長期化するにつれて、飢えと絶望が支配し始めた。

緒戦の勝利で高まった士気も、静かなる飢餓の前には無力であった。闇夜を駆けた忍びの技も、尽きゆく兵糧を補充することはできない。物理的な限界が近づくにつれ、城内では玉砕を覚悟する声が日増しに強くなっていった 7

第四章:終焉の刻 ―降伏への道程―(天正九年十月下旬)

約一ヶ月に及んだ籠城戦は、ついにその終幕を迎えようとしていた。武士の名誉である玉砕か、あるいは屈辱の降伏か。その狭間で揺れる伊賀衆の前に、一人の意外な人物が現れる。

調停者、現る:猿楽太夫・大倉五郎次の役割

城内の兵糧が底を突き、城兵が討ち死にを覚悟するほどの窮地に陥ったその時、一人の使者が織田方の陣から現れた。その人物は武将ではなく、奈良の猿楽太夫・大倉五郎次であった 13

彼がどのような経緯で、誰の意を受けて仲介に入ったのか、史料は多くを語らない。しかし、殲滅寸前の敵に対し、織田方がわざわざ猿楽太夫という文化人を通じて和議の道を開いたという事実は、注目に値する。これは、単なる殲滅(破壊)から、伊賀の統治(支配)へと局面を移行させるための、高度な政治的判断があったことを示唆している。皆殺しにするだけでは、その後の統治に深い禍根を残す。城兵の命を助けるという「温情」を示すことで、伊賀の民衆に対して織田の支配が単なる暴力だけではないことをアピールする狙いがあったのかもしれない。

苦渋の決断:城兵の命と引き換えの和議

大倉五郎次は、城兵の命の保証を条件に開城するよう、籠城する土豪たちに勧告した 18 。飢えと疲労の極みにあった彼らにとって、それは悪魔の囁きであると同時に、一条の光でもあった。徹底抗戦を叫ぶ声もあったであろうが、女子供を含む数千の命を前に、ついに伊賀衆は降伏という苦渋の決断を下す 10

開城:滝野亀の助の人質提出と伊賀の終焉

軍記物『伊乱記』によれば、天正九年十月二十八日、城主・滝野吉政は和議の証として、嫡男の亀の助(当時十三歳)を人質として織田信雄の陣に差し出した 20 。そして、固く閉ざされていた柏原城の城門が、ついに開かれた。この瞬間をもって、伊賀衆の組織的な抵抗は完全に終結し、中世以来続いてきた独立の邦・伊賀の歴史は、事実上その幕を閉じたのである 6

滝野吉政のこの決断は、単なる降伏ではなかった。戦国時代において、人質は敵方との関係を繋ぎ、将来の家名存続の可能性を残すための重要な手段であった。玉砕して一族全員が滅びる道を選ばず、幼い息子の未来に一族の存続を託したのである。これは、武士としての名誉よりも、家の存続という現実的な利益を優先した、極めて冷静な経営者としての判断であったと評価できる。

史料比較:終戦日はいつだったのか?

ここで、再び史料の日付の問題が浮上する。『多聞院日記』には「(九月)十七日、教浄先陳ヨリ帰、伊賀一円落着」と記されており、伊賀全土が九月十七日には平定されたと読める 6 。これは『伊乱記』が記す十月二十八日の開城とは、一ヶ月以上の隔たりがある 20

この矛盾は、おそらく「伊賀国全体の制圧完了(一円落着)」という大局的な戦況報告と、「最後の拠点である柏原城の開城」という個別具体的な事象の報告の時期の差を反映していると考えられる。すなわち、九月十七日の時点では、伊賀の主要部はすでに織田軍の支配下に入り、大勢は決したという情報が奈良の多聞院にまで伝わっていた。しかし、最後の抵抗拠点である柏原城では、その後も一ヶ月以上にわたる壮絶な籠城戦が続いていた、と解釈するのが最も合理的であろう。

終章:乱の後に

柏原城の開城は、伊賀という国、そしてそこに生きた人々の運命を大きく変えた。故郷を失い、共同体を破壊された彼らは、新たな生きる道を模索することになる。

伊賀衆のその後 ―離散、帰農、そして新たな主君へ

乱の後、平定された伊賀国は織田信雄と信長の弟・信包によって分割統治されることとなった 25 。生き残った伊賀衆の多くは、故郷を捨てて他国へと落ち延びていった 5

抵抗の中心人物であった百地丹波のその後については諸説ある。紀州へ逃れたとも 3 、後に密かに帰郷して名を新左衛門と改め、寛永十七年(1640年)に八十五歳で天寿を全うしたとも伝えられている 22 。その足取りは謎に包まれ、伝説の一部となっている 4 。一方、降伏を決断した城主・滝野吉政は、乱後に織田信雄に取り立てられ、平楽寺を与えられたとされる 25 。これは和議の内容がある程度遵守されたことを示唆している。

この戦いを経て、伊賀忍者の自律性は失われた。一部は農民に戻り、また一部は、その類稀なる戦闘技術や諜報能力を買われ、徳川家康や前田利家といった各地の有力大名に仕官した 26 。彼らは「伊賀者」というブランドを背負い、歴史の裏舞台で活躍を続けることになる。

柏原城の戦いが残したもの ―戦国史における意義の再評価

天正伊賀の乱、そしてその最終局面である柏原城の戦いは、中世的な地域共同体(惣国一揆)が、織田信長に代表される強大な中央集権的権力によって解体されていく、戦国時代末期の大きな歴史的潮流を象徴する出来事であった。

また、この戦いは「忍者」という存在を神話から解き放ち、歴史的な存在へと再定義する契機となった。彼らは無敵の超人ではなく、土地に根差し、家族を守るために戦い、そして圧倒的な力の前に敗北する「生身の人間」であった。故郷とアイデンティティであった「伊賀」という共同体を失った結果、彼らは個々の技能者として、プロフェッショナルな傭兵や情報工作員として生きる道を模索せざるを得なくなった。柏原城の戦いは、その悲劇的な転換点として、戦国史に深く刻まれているのである。

現代に息づく古城 ―柏原城跡の現状と歴史的価値

伊賀終焉の舞台となった柏原城は、現在もその姿を丘陵の上にとどめている。城跡には、往時の激戦を偲ばせる壮大な土塁や空堀、石組みの井戸といった遺構が良好な状態で残されている 17

近年では、地元の有志や「あかめ里山保全会」の手によって、竹林の伐採や下草刈りなどの整備が進められており、歴史的遺産として大切に保存・活用されている 17 。また、麓の勝手神社には「天正伊賀乱決戦之地柏原城」と刻まれた石碑が建てられ、この地が伊賀の歴史にとっていかに重要な場所であったかを、静かに今に伝えている 21

巻末付録

【表3】柏原城の戦い 主要日程表

年月日(天正九年)

出来事

典拠史料

9月3日

織田軍、伊賀への攻撃を開始

『信長公記』、『多聞院日記』

9月中旬(推定)

比自山城が陥落、伊賀衆が柏原城へ撤退

関連諸記録

9月中旬~下旬(推定)

柏原城攻防戦開始。緒戦で織田軍を撃退

『伊乱記』

9月17日

「伊賀一円落着」の報が奈良に伝わる

『多聞院日記』

9月下旬~10月下旬

織田軍、兵糧攻めに戦術転換。籠城戦が続く

『伊乱記』

10月28日

大倉五郎次の仲介により、滝野吉政が降伏・開城

『伊乱記』

10月28日以降

伊賀国平定完了。織田信雄・信包による統治開始

諸記録

引用文献

  1. 天正伊賀の乱/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/52412/
  2. 天正伊賀乱(信長の伊賀攻め)について | 帰って来た甲賀者の棲み家 https://returntokoka.com/2024/09/12/%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E4%BC%8A%E8%B3%80%E4%B9%B1%E4%BF%A1%E9%95%B7%E3%81%AE%E4%BC%8A%E8%B3%80%E6%94%BB%E3%82%81%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/
  3. 伊賀惣国一揆と天正伊賀の乱 - M-NETWORK http://www.m-network.com/sengoku/ninja/ninja03.html
  4. 伊賀 百地丹波城 謎多き伊賀の上忍 - 久太郎の戦国城めぐり http://kyubay46.blog.fc2.com/blog-entry-117.html
  5. 天正伊賀の乱/古戦場|ホームメイト https://www.touken-collection-kuwana.jp/mie-gifu-kosenjo/tensyoiganoran-kosenjo/
  6. 天正伊賀の乱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E4%BC%8A%E8%B3%80%E3%81%AE%E4%B9%B1
  7. 35. 天正伊賀の乱 - 名張市 https://www.city.nabari.lg.jp/s059/030/060/030/020/239004900-nabarigaku035.pdf
  8. 天正伊賀の乱古戦場:三重県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/tenshoiga/
  9. 【合戦解説】天正伊賀の乱 織田信長・信雄VS伊賀忍者 人口の3分の1が命を落とした激戦 https://www.youtube.com/watch?v=R8jXRAHnHeE
  10. 第47回 天正伊賀の乱 https://www.igaportal.co.jp/ninja/21951
  11. ja.wikipedia.org https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E4%BC%8A%E8%B3%80%E3%81%AE%E4%B9%B1#:~:text=%E3%80%8E%E4%BF%A1%E9%95%B7%E5%85%AC%E8%A8%98%E3%80%8F%E3%80%8E%E5%A4%9A%E8%81%9E%E9%99%A2,%E7%99%BE%E3%81%8C%E6%94%BB%E6%92%83%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%A8
  12. 第二次天正伊賀の乱 https://www.ninja-museum.com/tensyoiganoran/tensyoiga02.html
  13. 天正伊賀の乱 - 忍者オフィシャルサイト https://www.ninja-museum.com/?page_id=627
  14. 天正伊賀ノ乱/血戦編 http://green.plwk.jp/tsutsui/tsutsui2/chap1/02-02tensho.html
  15. NHK『ブラタモリ』で紹介されました!「柏原城址」へのアクセス案内 – なばり四季のブログ https://www.kankou-nabari.jp/diary/?p=1393
  16. 柏原城(三重県名張市)の詳細情報・口コミ | ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/castles/4916
  17. 伊賀勢最後の砦 柏原城(瀧野城) - 名張市公式note https://nabari-city.note.jp/n/n5c68ea2ed49f
  18. 柏原城跡 | 忍者オフィシャルサイト https://www.ninja-museum.com/?p=434
  19. 柏原城 (伊賀国) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%8F%E5%8E%9F%E5%9F%8E_(%E4%BC%8A%E8%B3%80%E5%9B%BD)
  20. 【天正伊賀の乱】伊賀忍者の棟梁?織田信長に徹底抗戦した百地丹波の武勇伝【どうする家康】 | 歴史・文化 - Japaaan - ページ 2 https://mag.japaaan.com/archives/203478/2
  21. 柏原城の見所と写真・100人城主の評価(三重県名張市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/1890/
  22. 百地丹波 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E5%9C%B0%E4%B8%B9%E6%B3%A2
  23. 短野城 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.mijikano.htm
  24. 筒井氏城|梵天彪雅 - note https://note.com/notoriouskiso/n/n9454a18b58b9
  25. 戦国!室町時代・国巡り(11)伊賀編|影咲シオリ - note https://note.com/shiwori_game/n/n61b4b7403d4a
  26. 百地丹波が辿った生涯|伊賀流忍術を生み出した伝説の忍者【日本史人物伝】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1141118
  27. 伊賀忍者回廊第十七番勝手神社 https://www.igaueno.net/ninjaroad/?p=82