柳川城の戦い(1587)
天正十五年 柳川城無血開城の真相:九州平定戦における戦略的帰結の全貌
序章:天正十五年、筑後柳川―戦わずして開かれた城門
天正15年(1587年)、豊臣秀吉による九州平定の最終局面において、筑後国(現在の福岡県南部)の中核をなす柳川城は、大規模な攻城戦を経ることなく豊臣方へ明け渡された。これは一般に「柳川城の戦い」と称されるが、その実態は血で血を洗う攻防戦ではなく、九州全土を巻き込んだ巨大な軍事・政治的変動の末に訪れた、戦略的な資産の移譲であった 1 。本報告書は、この「戦なき戦い」の真相を、合戦前夜の九州情勢から豊臣軍の進撃、そして新城主の誕生に至るまで、リアルタイムの時系列に沿って徹底的に解明することを目的とする。
柳川城は、二方を海に、二方を掘割が縦横に巡る低湿地帯に築かれた、天然の要害であった 2 。城郭はさらに複数の掘割と土塁で幾重にも防御され、有事の際には上流の矢部川の堤防を切り崩して城周辺を水没させる仕組みさえあったと伝わる 5 。その堅牢さは『柳川三年、肥後三月、肥前筑前朝茶前』(柳川城を落とすには三年かかるが、他国の平定は朝飯前だ)という言葉が示す通り、九州屈指の難攻不落の城として知られていた 7 。この地理的、軍事的特性が、九州平定戦における柳川城の運命を決定づける上で、無視できない要因となったのである。
本報告では、まず九州の勢力図を塗り替えた二つの大会戦を起点に、島津氏による九州席巻の過程を概観する。次に、柳川城が背負う血塗られた記憶、すなわち前城主・蒲池氏の悲劇を掘り下げる。続いて、豊臣軍による圧倒的な九州侵攻の様相を時系列で再現し、その中で柳川城がいかにして無血開城へと至ったのかを分析する。最後に、戦後処理である「九州仕置」と、新たな城主として歴史の表舞台に躍り出た立花宗茂の誕生を描き、この一連の出来事が持つ歴史的意義を考察する。
人物名 |
所属・役職 |
本件における役割 |
立花 宗茂 |
大友氏家臣 → 豊臣氏直臣 |
九州平定戦で抜群の武功を挙げ、秀吉に激賞される。戦後、柳川13万石を与えられ初代藩主となる。 |
島津 義久 |
島津氏当主 |
九州のほぼ全土を統一するが、豊臣軍の前に敗北。降伏を決断し、柳川城を含む諸城の開城を命じる。 |
豊臣 秀吉 |
関白・太政大臣 |
天下統一事業の一環として九州平定を断行。戦後の「九州仕置」で新たな支配体制を構築する。 |
小早川 隆景 |
毛利氏重臣・豊臣氏大名 |
豊臣軍の主力部隊を率い、九州平定戦で活躍。戦後は筑前・筑後を与えられ、柳川城の接収にも関与した。 |
蒲池 鎮漣 |
筑後国柳川城主 |
龍造寺隆信に協力するが、後に島津氏と通じたため、隆信の謀略により殺害される。柳川城の悲劇の旧城主。 |
龍造寺 隆信 |
肥前国戦国大名 |
蒲池氏を滅ぼし柳川城を支配下に置くが、沖田畷の戦いで島津軍に敗れ戦死。九州三国鼎立の一角。 |
高橋 紹運 |
大友氏家臣 |
立花宗茂の実父。岩屋城にて島津の大軍を相手に玉砕し、豊臣軍の九州上陸までの時間を稼いだ忠臣。 |
大友 宗麟 |
豊後国戦国大名 |
島津氏に圧迫され、秀吉に救援を要請。九州平定のきっかけを作ったが、往時の勢力は失っていた。 |
第一章:合戦前夜―九州三国鼎立の崩壊と島津の席巻
天正15年(1587年)の柳川城開城は、その年に始まった突発的な出来事ではない。それは、約10年前に遡る九州の勢力図の激変、すなわち大友・龍造寺・島津の三大勢力が繰り広げた存亡を賭けた戦いの必然的な帰結であった。一つの勢力の崩壊が次の勢力の台頭を促し、そしてその台頭がまた新たな衝突を生むという、あたかもドミノ倒しのような連鎖反応の終着点が、九州平定と柳川城の運命だったのである。
1. 耳川の敗戦と大友氏の斜陽 (天正6年/1578年)
かつて九州六ヶ国に覇を唱えた豊後の大友氏であったが、その栄光に翳りが見え始めたのは天正6年(1578年)のことである。キリシタン大名としても知られる当主・大友宗麟(義鎮)は、日向国(現在の宮崎県)への大規模な遠征軍を送る。しかし、高城川(耳川)を挟んで対峙した島津義久率いる島津軍の巧みな戦術の前に、大友軍は歴史的な大敗を喫した 9 。
この「耳川の戦い」における敗北は、単なる一合戦の勝敗に留まらなかった。田北鎮周をはじめとする多くの譜代の重臣を失った大友氏は、軍事的中核を喪失 12 。その権威の失墜は、これまで大友氏の支配下にあった筑後や肥後の国人衆の離反を招き、支配体制は根底から揺らぎ始めた 9 。九州の政治地図における「大友一強」時代は、この日を境に終焉を迎え、九州は新たな動乱の時代へと突入する。
2. 沖田畷に沈んだ「肥前の熊」龍造寺隆信 (天正12年/1584年)
大友氏の衰退という権力の空白を突いて、肥前国(現在の佐賀県・長崎県)で急速に勢力を拡大したのが、「肥前の熊」と畏怖された龍造寺隆信であった 10 。彼は筑後国へも積極的に進出し、一時は大友氏に代わる新たな覇者になるかと思われた。しかし、その野望は天正12年(1584年)、島原半島で突如として潰えることとなる。
肥前の有馬晴信を攻めた龍造寺軍は、有馬氏の救援要請に応じて出兵した島津家久率いる島津軍と沖田畷で激突 10 。兵力では圧倒的に優勢であった龍造寺軍であったが、湿地帯という地形を巧みに利用した島津軍の奇策の前に大軍は身動きを封じられ、混乱の中で総大将の龍造寺隆信自身が討ち死にするという衝撃的な結末を迎えた 10 。
当主の死は、龍造寺氏の勢力に致命的な打撃を与えた。嫡男・政家が後を継ぐも、もはや往時の勢いはなく、九州のパワーバランスは決定的に崩壊する 11 。大友氏に続き龍造寺氏という巨大な競合相手が自壊したことで、九州の覇権は、唯一強大な軍事力を保持する島津氏の手に転がり込むこととなった。「島津一強」時代の到来である 13 。
3. 島津の席巻、筑前・筑後を呑む (天正13年~14年)
沖田畷の勝利により後顧の憂いを断った島津氏は、九州統一の総仕上げとして、残る大友領への全面侵攻を開始する。天正14年(1586年)には、島津軍は筑前・筑後地方へ大軍を派遣 10 。龍造寺氏を事実上従属させ、筑後の国人衆も次々と島津の軍門に下った。
このとき、大友方として最後まで抵抗の意志を貫いたのが、筑前の二つの城であった。一つは、立花宗茂の実父・高橋紹運が守る岩屋城。もう一つは、その子・立花宗茂が籠る立花山城である 11 。島津軍はこれらの城に猛攻を加え、九州全土が島津の色に染まるのは時間の問題かと思われた 2 。この絶体絶命の状況こそが、豊臣秀吉という中央の巨大な権力を九州に呼び込む直接的な引き金となったのである。
第二章:血塗られた城の記憶―柳川城主・蒲池氏の悲劇
天正15年(1587年)に立花宗茂が新たな城主として入城する以前、柳川城は筑後の名族・蒲池氏の栄光と、その悲劇的な滅亡を記憶する場所であった。この6年前に起こった謀略と裏切りに満ちた事件は、柳川の地に深い傷跡を残した。後に豊臣秀吉という絶対的な権威によって行われた城主交代は、単なる軍事的な所有権の移転に留まらず、この「呪われた城」の血塗られた記憶を払拭し、新たな統治の「正統性」を確立するという、象徴的な意味合いを帯びることになる。
1. 筑後の名族・蒲池氏と難攻不落の柳川城
蒲池氏は鎌倉時代以来、筑後国に根を張る由緒ある一族であり、戦国時代には筑後十五城の旗頭として柳川城を本拠とし、大きな勢力を誇っていた 15 。特に、蒲池鑑盛(宗雪)の代には、主家である少弐氏との争いに敗れて落ち延びてきた肥前の龍造寺家兼を保護するなど、「義心は鉄のごとし」と称えられるほどの器量と影響力を持っていた 15 。その子・鎮漣(しげなみ、鎮並とも)の時代には、蒲池氏は最盛期を迎え、柳川城は筑後における一大拠点として栄えていた 15 。
2. 龍造寺隆信の謀略―蒲池鎮漣、肥前に散る (天正9年/1581年)
かつて蒲池氏に恩を受けた龍造寺氏であったが、隆信の代になるとその関係は一変する。隆信は筑後侵攻にあたり、当初は蒲池鎮漣の協力を得ていた。隆信は娘の玉鶴姫を鎮漣に嫁がせるなど、両家は姻戚関係を結んでいた 16 。しかし、鎮漣が独立大名としての志向を強め、薩摩の島津氏と密かに連携を図るようになると、両者の間に亀裂が生じる 7 。
柳川の地が九州中央へ進出する上で不可欠と判断した隆信は、天正8年(1580年)、遂に2万の大軍を率いて柳川城を包囲した 16 。しかし、前述の通り柳川城は九州屈指の難攻不落の城であり、龍造寺軍は300日以上に及ぶ攻城戦でも城を落とすことができなかった 7 。攻めあぐねた隆信は、鎮漣の伯父でありながら龍造寺方に与していた田尻鑑種の仲介で、一旦は和睦を結ぶ 8 。
だが、隆信は鎮漣の排除を諦めていなかった。天正9年(1581年)5月、隆信は和睦を祝う猿楽の宴を催すとして鎮漣を肥前へ誘き出す 7 。鎮漣の妻・玉鶴姫は父の魂胆を見抜き、夫に決して誘いに乗らぬよう懇願したが、鎮漣はこれを受け入れ、肥前に赴いた 21 。そして、その道中、待ち伏せていた龍造寺の兵によって謀殺されたのである 16 。
隆信の非情な手は、柳川に残る蒲池一族にも向けられた。鎮漣殺害の尖兵となった田尻鑑種が柳川に兵を進め、城に残った蒲池氏の残党を掃討 8 。こうして、筑後の名族・蒲池氏は、恩義を仇で返した龍造寺隆信の謀略と、同族の裏切りによって滅亡の悲劇を迎えた 21 。この裏切りは、龍造寺四天王の一人である百武賢兼が「こたびの鎮漣ご成敗はお家を滅ぼすであろう」と涙したと伝えられるほど、当時の武士社会においても非道な行為と見なされていた 15 。
3. 島津の支配下に入った柳川城
蒲池氏滅亡後、柳川城には鍋島直茂ら龍造寺氏の重臣が城代として入った 8 。しかし、天正12年(1584年)の沖田畷の戦いで龍造寺隆信が戦死し、龍造寺氏が島津氏に従属すると、柳川城もまた島津氏の間接的な支配下に置かれることとなった。こうして柳川城は、豊臣秀吉による九州平定の時を迎えるのである。
第三章:豊臣の征旗、九州を覆う―九州平定戦のリアルタイム展開
島津氏による九州統一が目前に迫る中、中央の天下人・豊臣秀吉の介入は、九州の戦国時代の論理を根底から覆すものであった。それは、従来の局地的な勢力争いとは次元の異なる、圧倒的な「物量」と「速度」による戦争であった。堅固な山城も、歴戦の猛者も、この時代の津波の前にはなすすべもなかった。柳川城の運命もまた、この抗いがたい巨大な力の奔流の中で決定づけられていく。
1. 秀吉の介入と九州攻撃令 (天正13年~14年)
天正14年(1586年)4月、島津の猛攻により滅亡の危機に瀕した大友宗麟は、自ら大坂城に赴き、秀吉に謁見。臣従を誓うことと引き換えに、軍事的な救援を懇願した 10 。これに先立ち、秀吉は天正13年(1585年)10月に、九州の諸大名に対して停戦を命じる「惣無事令」を発していたが、島津義久はこれを事実上黙殺し、九州統一の戦いを続行していた 13 。
宗麟の訴えを受け、秀吉の決断は早かった。天正14年6月、島津氏を「逆徒」と断じ、全国の諸大名に対して九州征伐の動員令を発したのである 23 。これに応じ、毛利輝元、小早川隆景、吉川元春らが率いる毛利軍が先遣隊として九州に上陸し、豊前小倉城などを攻略。豊臣と島津の全面戦争の火蓋が切られた 23 。
2. 岩屋城の玉砕と立花宗茂の孤軍奮闘 (天正14年7月~8月)
豊臣軍の本格的な到着を前に、島津軍は最後の抵抗勢力である筑前の大友方を叩くべく、猛攻を仕掛けた。天正14年7月、島津軍は立花宗茂の実父・高橋紹運が守る岩屋城を数万の兵で包囲する。紹運はわずか700余りの兵でこれを迎え撃ち、半月にわたって徹底抗戦を繰り広げた 2 。この壮絶な籠城戦は、島津軍に多大な損害を与え、その進軍を遅滞させることに成功したが、衆寡敵せず、7月27日に城は陥落。紹運は城兵と共に玉砕した 2 。
父の犠牲によって稼いだ時間は、息子・宗茂にとって反撃の好機となった。島津軍が次に宗茂の籠る立花山城を包囲するも、紹運との戦いで疲弊した島津軍は攻めあぐねる 11 。その間に毛利の先遣隊が北九州に迫ると、島津軍は8月24日に立花山城の包囲を解き、撤退を開始した 23 。この機を宗茂は見逃さなかった。翌25日、彼は城から打って出て、撤退する島津軍を追撃。島津方が押さえとして兵を残していた高鳥居城を急襲し、これを奪還した 3 。さらにその勢いのまま、父が散った岩屋城と宝満城をも奪い返すという目覚ましい武功を挙げたのである 12 。この一連の働きは、後に秀吉の耳に達し、「その忠義、鎮西一。その剛勇、また鎮西一」「九州の逸物(一級品)」と激賞されることになる 14 。
3. 豊臣本隊、怒涛の進撃 (天正15年3月~4月上旬)
年が明けた天正15年(1587年)3月1日、秀吉は自ら20万とも27万ともいわれる空前の大軍を率いて大坂城を出陣した 23 。軍は二手に分かれ、弟の豊臣秀長が率いる部隊は豊後・日向方面から、秀吉自らが率いる本隊は豊前・筑前方面から九州を南下する、二正面作戦を展開した 1 。
豊臣軍の進撃速度と破壊力は、九州の諸大名の想像を絶するものであった。4月1日、秀吉軍の先鋒である蒲生氏郷と前田利長は、島津方の秋月氏が守る岩石城を攻撃。標高450メートルの堅固な山城であったが、豊臣軍は圧倒的な数の鉄砲を集中運用する戦術で、わずか1日にしてこれを陥落させた 1 。この衝撃的な敗北は、筑前の戦局を一変させる。従来の山城籠城戦の常識が通用しないことを悟った秋月種実は、4月4日に降伏。これを皮切りに、筑前の島津方勢力は雪崩を打って降伏していった 1 。
4. 決戦・根白坂と島津の敗北 (天正15年4月17日)
一方、日向方面を進撃していた秀長軍は、島津方の重要拠点である高城を包囲していた 1 。これに対し、島津義久、義弘、家久らは、本国から3万5千の兵を率いて救援に向かう 1 。4月17日、島津軍は秀長軍が築いた根白坂の砦に夜襲を敢行。しかし、豊臣方はこの動きを予測しており、周到に準備された鉄砲隊による迎撃の前に島津軍は大敗を喫した 1 。この「根白坂の戦い」での敗北は、島津氏の野戦における組織的抵抗能力を完全に打ち砕き、九州平定戦の雌雄を決する決定打となったのである 32 。
第四章:柳川城、無血にて開城す―天正十五年四月下旬の攻防
根白坂での決定的敗北と、秀吉本隊の薩摩本国への肉薄は、島津義久にこれ以上の抗戦が破滅を意味することを悟らせた。ここからの数日間、九州の戦局は戦闘ではなく、降伏交渉と命令伝達によって急速に収束へと向かう。柳川城の無血開城は、このトップダウンによる意思決定の過程で執行された一齣であった。それは島津軍の指揮系統が崩壊した結果ではなく、むしろ当主の命令が末端の城代に至るまで有効に機能していたことの証左であった。
年月日 (天正15年) |
出来事 |
関連地域 |
3月29日 |
豊臣秀吉軍、豊前小倉に到着。 |
豊前国 |
4月1日 |
蒲生氏郷ら、岩石城を1日で攻略。 |
筑前国 |
4月4日 |
秋月種実、古処山城を開城し降伏。 |
筑前国 |
4月6日 |
豊臣秀長軍、日向高城を包囲。 |
日向国 |
4月17日 |
根白坂の戦い。 島津軍が大敗。 |
日向国 |
4月19日 |
秀吉本隊、肥後八代に到達。 |
肥後国 |
4月21日 |
島津義久、人質を出し秀長と和睦交渉を開始。 |
日向国 |
4月下旬 |
義久の命令により、 柳川城を含む筑後国の島津方諸城が戦わずして開城。 |
筑後国 |
4月28日 |
平佐城にて島津方の最後の抵抗。義久の休戦命令により開城。 |
薩摩国 |
5月3日 |
秀吉軍、薩摩川内(泰平寺)に本陣を置く。 |
薩摩国 |
5月8日 |
島津義久、剃髪して秀吉に正式降伏。 |
薩摩国 |
1. 島津義久の決断―全面降伏への道 (4月19日~21日)
天正15年4月19日、秀吉率いる本隊は肥後八代にまで進軍しており、薩摩の喉元に刃を突きつける形勢となっていた 1 。時を同じくして、日向方面での根白坂における惨敗の報が義久の元にもたらされる。野戦での主力部隊が壊滅し、本国も風前の灯火となった状況下で、義久はこれ以上の組織的抵抗は不可能と判断。4月21日、彼は人質を豊臣秀長の陣に送り、和睦交渉を開始した 1 。九州統一を目前としながら、島津の夢が潰えた瞬間であった。
2. 筑後諸城への撤退・開城命令
島津義久による和睦の決断は、直ちに九州各地に展開する島津方の部隊に通達された。特に、豊臣軍の進路上に位置し、抵抗すれば無用な犠牲を生むだけであった筑後国の諸城に対しては、速やかに城を明け渡し、薩摩へ撤退するよう厳命が下されたと推察される。この命令系統の中に、柳川城も含まれていた。もはや個々の城で戦術的な勝利を収めても、戦略的な敗北は覆せない。組織全体の存続を最優先する当主としての、合理的かつ苦渋の決断であった。
3. 柳川城代の選択と豊臣軍への引き渡し (4月下旬)
当時、柳川城を守っていた島津方の城代(その具体的な人名は史料で特定されていない)は、当主・義久からの開城命令を受領した。城将として武人の意地もあったであろうが、島津家の強力な統制下において、当主の命令は絶対であった。抵抗することは、島津家そのものへの反逆を意味する。
同時期、小早川隆景らが率いる豊臣軍の部隊が筑後地方に進駐し、柳川城へと迫っていた。しかし、両軍が城を挟んで対峙し、矢文を交わし、攻城兵器が唸りを上げるといった光景は展開されなかった。島津方の城代は、豊臣方の軍使と交渉の席に着き、城の引き渡しに関する手続きを進めた。こうして、九州屈指の堅城と謳われた柳川城は、一度も戦火を交えることなく、無血で開城されたのである 1 。他の多くの筑後諸城も同様に、戦わずして豊臣の支配下へと入っていった 23 。島津方の最後の抵抗は、薩摩本国の平佐城で見られたが、これも義久からの休戦命令が届くと降伏に至っている 1 。柳川城の静かなる開城は、九州の戦国時代が、武力ではなく、より大きな権力構造の命令によって終焉を迎えつつあることを象徴する出来事であった。
第五章:九州仕置と「西国無双」の誕生
島津氏の降伏により、九州全土は豊臣秀吉の支配下に組み込まれた。秀吉は武力による平定に留まらず、「九州仕置」と呼ばれる大規模な領土再編を断行し、旧来の勢力図を完全に白紙に戻した。この新秩序の構築過程において、一人の若き武将がその目覚ましい武功を認められ、歴史の表舞台へと躍り出ることになる。立花宗茂の抜擢と柳川城への入封は、単なる論功行賞を超え、秀吉の徹底した実力主義と旧秩序の破壊という統治思想を鮮やかに体現するものであった。
1. 筑前箱崎における国分―秀吉による新秩序の構築 (6月7日~)
天正15年5月8日、島津義久は剃髪して龍伯と号し、川内の泰平寺にて秀吉に謁見、正式に降伏した 1 。九州平定を成し遂げた秀吉は、6月7日に筑前箱崎(現在の福岡市東区)に本陣を移し、戦後処理、すなわち「九州国分(仕置)」を開始した 1 。
その内容は、九州の旧来の支配構造を根底から覆すものであった。毛利氏の重臣・小早川隆景には筑前・筑後・肥前の一部からなる約37万石 24 、軍師として活躍した黒田孝高(官兵衛)には豊前国のうち6郡約12万5千石が与えられた 35 。一方で、降伏した島津氏は薩摩・大隅・日向の一部に所領を削減され 32 、肥後国には佐々成政が新たに入封するなど 1 、九州の諸大名は豊臣政権のヒエラルキーの中に再配置されることとなった。
2. 立花宗茂、独立大名へ―その武功と秀吉の評価
この大規模な領土再編の中で、最も破格の待遇を受けたのが立花宗茂であった。秀吉は、島津軍の猛攻を前に父・高橋紹運が玉砕する中で立花山城を死守し、豊臣軍の到来を待って反撃に転じ、次々と失地を回復した宗茂の忠義と武勇を、「その忠義、鎮西一。その剛勇、また鎮西一」と最大級の賛辞で称えた 3 。
戦国時代の常識では、家臣への恩賞は主君を通じて与えられるのが通例である。しかし秀吉は、宗茂の主家である大友氏を飛び越し、宗茂を直接自身の配下、すなわち独立した豊臣大名として取り立てるという異例の抜擢を行った 1 。これは、功績のあった家臣を主君よりも高く評価するという、秀吉の徹底した実力主義の現れであった。同時に、大友氏のような旧来の権威を相対化し、九州の武将たちに「真に仕えるべきは豊臣秀吉である」という強烈なメッセージを発信する、高度な政治的パフォーマンスでもあった。
3. 天正15年6月:立花宗茂、柳川城へ入城
天正15年6月25日付の朱印状で、秀吉は立花宗茂に対し、筑後国の山門、三潴、下妻、三池の四郡、太閤検地後の石高にして13万2千石を与えることを正式に決定した 28 。そして、その新たな本拠地として指定されたのが、かつて宗茂の養父・立花道雪ですら攻めあぐねた難攻不落の城、柳川城であった 2 。
同年6月、宗茂は妻・誾千代を伴い、長年本拠地としてきた立花山城を離れ、柳川城へと入城した 27 。蒲池氏の悲劇から6年、城は新たな主を迎えた。大友氏の一家臣に過ぎなかった若き武将が、天下人の知遇を得て一躍13万石の大名となり、筑後国の中心に居を構える。ここに、後に関ヶ原の敗戦を経て奇跡の復活を遂げる「西国無双」の将、柳川藩主立花家の輝かしい歴史が幕を開けたのである 37 。
終章:新たな時代の幕開けと次なる戦乱の胎動
天正15年(1587年)の柳川城主交代は、火花散る戦闘こそ伴わなかったものの、九州の戦国時代に事実上の終止符を打ち、豊臣政権という中央集権体制の下で新たな秩序が構築される時代の転換点を象徴する、極めて重要な歴史的事件であった。島津氏による九州統一の夢は潰え、代わって天下人の威光を背負った立花宗茂という新たな星が筑後の地に誕生したのである。
この一連の出来事は、柳川城が単なる軍事拠点ではなく、政治的なメッセージを発信する舞台装置として機能したことを示している。龍造寺隆信の謀略によって血塗られた城の記憶は、秀吉の絶対的な権威による裁定と、九州平定の英雄である宗茂の入城によって浄化され、新たな統治の正統性が確立された。宗茂の抜擢は、旧来の主従関係よりも個人の実力と秀吉への忠誠を重んじるという、豊臣政権の統治理念を九州全土に示す象徴的な人事であった。
しかし、九州の平定は、必ずしも恒久的な平和の到来を意味するものではなかった。柳川城主となった宗茂が、領国経営に腰を据える間もなく、新たな戦乱の火種が隣国で燻り始めていた。秀吉によって肥後一国を与えられた佐々成政が、性急な検地を強行したことで国人衆の激しい反発を招き、大規模な「肥後国人一揆」が勃発したのである 23 。
豊臣大名としての初陣として、宗茂はこの一揆の鎮圧戦に直ちに出陣を命じられる 27 。柳川城への入城は、彼の輝かしいキャリアの輝かしい幕開けであると同時に、文禄・慶長の役、そして関ヶ原の戦いへと続く、豊臣政権下での新たな戦乱の時代の序章でもあった。戦わずして開かれた柳川城の城門は、一つの時代の終わりと、次なる激動の時代の始まりを静かに告げていたのである。
引用文献
- 1587年 – 89年 九州征伐 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1587/
- 【城下町ヒストリー・柳川編】「西国無双」立花宗茂のターニングポイントとなった6つの城 https://shirobito.jp/article/510
- (立花宗茂と城一覧) - /ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/10495_castle/busyo/61/
- 柳川城本丸跡 https://www.city.yanagawa.fukuoka.jp/rekishibunka/bunkazai/yanagawabunkazai/yanagawabunkazai_yanagawajyo.html
- 柳川城 - - お城散歩 - FC2 https://kahoo0516.blog.fc2.com/blog-entry-763.html
- 柳川城>の”城門”を巡るー堀の水の取水口と万一の時に閉めて周囲を水没させる役目の”水門” https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12914195904.html
- 蒲池鎮漣 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%B2%E6%B1%A0%E9%8E%AE%E6%BC%A3
- 01福岡の城-14柳川城 http://shironoki.com/100fukuoka-no-shiro/114yanagawa/yanagawa0.htm
- 歴史のまち久留米 - ストーリーシート 1 戦国時代 https://www.city.kurume.fukuoka.jp/1080kankou/2015bunkazai/3050kurumeshishi/files/sengoku2.pdf
- 島津義弘の戦歴(2) 大友・龍造寺と激突、そして天下人と対決 - ムカシノコト https://rekishikomugae.net/entry/2023/01/09/001111
- 薩摩島津氏-九州三国史- - harimaya.com http://www2.harimaya.com/simazu/html/sm_3gok.html
- 立花宗茂の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/32514/
- 豊薩合戦、そして豊臣軍襲来/戦国時代の九州戦線、島津四兄弟の進撃(7) https://rekishikomugae.net/entry/2024/01/23/203258
- 立花宗茂・誾千代 ―戦乱の世に生まれたヒーロー&ヒロイン― | 旅の特集 - クロスロードふくおか https://www.crossroadfukuoka.jp/feature/tachibanake
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