最終更新日 2025-09-01

森部の戦い(1558)

永禄四年、斎藤義龍の急死に乗じ信長は美濃へ侵攻。雨中の森部で斎藤軍と激突し、兵力劣勢ながら地の利と情報戦で猛将を討ち大勝。信長の天下布武への第一歩となる。

森部の戦い(1561年)― 織田信長の天下布武、その知られざる序曲 ―

序章:天下布武への序曲

永禄三年(1560年)、桶狭間の戦いにおける今川義元討ち取りという奇跡的な勝利は、織田信長の名を天下に轟かせた。しかし、それは尾張一国という旧来の枠組みを打ち破るための、壮大な物語の序章に過ぎなかった。尾張統一を確固たるものとした信長の視線は、常に北、すなわち隣国・美濃に向けられていた。その肥沃な大地と戦略的な位置は、天下を目指す上で不可欠な版図であった。

本報告書は、一般に1558年の出来事として認識されることもある合戦が、信頼性の高い史料に基づけば**永禄四年(1561年)**に発生した「森部の戦い」であることをまず明確にする 1 。そして、この一戦が単なる国境紛争ではなく、信長の美濃攻略、ひいては後に掲げられる「天下布武」という壮大な構想の実現に向けた、戦略的に極めて重要な第一歩であったことを論証するものである。

この一見小規模な戦いには、信長の軍事思想、情報戦略、人事術、そして彼の力の源泉たる経済力のすべてが凝縮されている。本稿では、合戦の経過をあたかも戦場で観戦しているかのような時系列で克明に再現するとともに、その背後に存在する多層的な要因を深く掘り下げ、この戦いが持つ真の歴史的意義を解き明かしていく。

第一章:尾張と美濃、宿命の対峙

1.1 「蝮」と「虎」の時代

森部の戦いの根源を理解するためには、時計の針を織田信長と斎藤龍興の父祖の代まで巻き戻す必要がある。美濃では、一介の油売りから身を起こしたとされる斎藤道三が、謀略の限りを尽くして主家である土岐氏を追放し、国主の座を簒奪。「美濃の蝮」として恐れられていた 4 。一方、尾張では信長の父・織田信秀が「尾張の虎」と称され、分裂していた国内の諸勢力を次々と打ち破り、その勢力を拡大していた。

隣接する両国の実力者である道三と信秀は、互いに領土を狙い激しく衝突を繰り返した。しかし、両者はやがて和睦の道を選ぶ。その証として、道三の娘・帰蝶(濃姫)が信長に嫁ぐという政略結婚が成立した 6 。この婚姻同盟は、信長にとって将来、美濃への介入を可能にする「大義名分」という、極めて重要な政治的カードを手に入れたことを意味していた。

1.2 長良川の悲劇と断絶

平穏は長くは続かなかった。弘治二年(1556年)、道三とその嫡男・斎藤義龍との間で骨肉の争いが勃発し、長良川の戦いへと発展する 6 。義龍は、父・道三のあまりに非情で狡猾な手法に反発する美濃国人衆の支持を巧みに取りまとめ、一大勢力を形成していた 7 。兵力で圧倒的に劣る道三は奮戦するも、ついに討ち死にする。

この時、道三は「美濃国は婿の織田信長に譲る」という趣旨の遺言状を信長に送ったと伝えられている 6 。この遺言の真偽はともかく、信長にとって岳父を殺害した義龍は不倶戴天の敵となり、美濃を奪うことは道三の遺志を継ぐという正当な復讐戦へと昇華された。これにより、尾張と美濃の関係は修復不可能なまでに断絶し、両国間の緊張は一触即発の状態となった。

1.3 斎藤義龍の治世と織田への警戒

父を討ち、名実ともに美濃の国主となった義龍は、決して暗愚な武将ではなかった。彼は父とは対照的に、領国内の支配体制を安定させることに注力し、検地を行って貫高制を導入するなど、戦国大名として着実な領国経営の手腕を発揮していた 8

桶狭間の戦いで今川義元が敗死した後も、義龍は信長の脅威を強く警戒し、国境の防備を固めていた。信長もまた、尾張統一を優先しつつ、美濃への侵攻の機会を虎視眈眈と窺っていた。両国の国境線は、静かながらも極度の緊張に包まれていたのである 6

第二章:龍、墜つ ― 好機到来

2.1 永禄四年五月十一日、稲葉山城の激震

永禄四年(1561年)五月十一日、美濃国主・斎藤義龍が居城の稲葉山城で急死した。享年三十五、病死であったとされている 1 。その死はあまりに突然であり、斎藤家中に計り知れない衝撃を与えた。

最大の問題は、後継者である斎藤龍興がわずか14歳という若さであったことだ 1 。父・義龍が巧みな政治力でまとめ上げてきた美濃の国人衆は、一癖も二癖もある者たちばかりであり、若年の当主が彼らを完全に統率することは極めて困難であった。指導者の突然の死と幼い後継者の登場は、国家の危機に直結する。斎藤家は、その権力基盤が最も脆弱になる政治的空白の瞬間を迎えたのである 11

2.2 信長の神速 ― 情報が戦争を決する

この千載一遇の好機を、織田信長が見逃すはずはなかった。義龍の死からわずか二日後の五月十三日、信長は早くも軍勢を動かし、木曽川の渡河を開始している 1 。この驚異的な反応速度は、単なる幸運や勘によるものではない。それは、信長が構築した高度な情報戦略の賜物であった。

戦国時代の情報伝達は、主に早馬や飛脚に頼っており、隣国の国主の死という最高機密が二日で伝わり、即座に出兵準備を整えて国境を越えるというのは、通常では考えられないほどの速さである 14 。これを可能にしたのは、信長が美濃国内に張り巡らせていた常時機能する諜報網の存在をおいて他にない。その情報網の担い手こそ、彼の経済的基盤であった津島・熱田の商人たちであった可能性が極めて高い 16 。彼らは商業活動を隠れ蓑に国境を自由に行き来し、美濃国内の情勢をリアルタイムで収集、信長に直接報告するルートを確立していたと考えられる。

森部の戦いの発端は、軍事行動である以前に、情報戦における信長の完全勝利であった。敵国の指導者の死という最高の「インテリジェンス」を即座に入手し、敵が態勢を立て直す前の、最も脆弱な瞬間を正確に突くという、極めて合理的かつ冷徹な判断を下したのである。

2.3 侵攻ルートの選択

五月十三日、信長は木曽川・飛騨川の三つの渡しを舟で越え、西美濃へと侵攻した。その日のうちに、現在の岐阜県海津市に位置する勝賀村に陣を敷いた 13 。この侵攻ルートは、斎藤氏の本拠地である稲葉山城の南西に位置し、美濃の防衛の要である墨俣を直接脅かす、戦略的に極めて重要な進路であった。信長の狙いは明確だった。美濃の中心部へ至るための橋頭堡を、電撃的に確保することにあった。

第三章:森部の地理と戦場の様相

3.1 濃尾平野という「舞台装置」

合戦の勝敗は、兵の数や将の勇猛さだけで決まるものではない。戦場の地形、すなわち「舞台装置」がいかに機能するかが、しばしば決定的な要因となる。森部の戦いの舞台となった濃尾平野は、木曽川、長良川、揖斐川という木曽三川の長年にわたる堆積作用によって形成された、広大で肥沃な沖積平野である 20

特に、主戦場となった現在の岐阜県安八町森部周辺は、長良川の氾濫原に位置しており、無数の小さな河川や沼地が点在する、典型的な低湿地帯であった 23 。この一帯は、水はけが悪く、一度雨が降ればたちまち泥濘と化す。この地理的特徴こそが、森部の戦いの様相を決定づけることになる。

3.2 雨、そして泥濘の戦場

当代随一の記録である『信長公記』は、合戦当日の永禄四年五月十四日が「雨降り候」であったと明確に記している 13 。兵力において1対4という圧倒的な劣勢にありながら、信長がなぜ籠城ではなく野戦を選択したのか。その答えは、この「雨」と「湿地」という二つの要素の組み合わせにある。

信長は、前年の桶狭間の戦いにおいて、豪雨が敵大軍の視界と士気を奪い、奇襲を成功させる上でいかに有効であるかを身をもって体験していた 27 。雨天での戦闘は、いくつかの戦術的利点を織田軍にもたらした。第一に、当時普及しつつあった火縄銃は雨に濡れると火薬が湿気て使用不能になるため、戦闘は必然的に槍や刀による白兵戦が中心となる。第二に、雨と霧は視界を悪化させ、大軍が組織的な連携を保つことを困難にする。そして最も重要な第三の点として、雨は低湿地帯をさらに深刻な泥濘に変え、人馬の動きを著しく阻害する。特に、斎藤軍の兵力が「6,000騎」と記されることもあるように 29 、騎馬戦力を一定数含んでいたとすれば、その機動力は泥濘によって完全に無力化される 31

信長は、敵が進軍中であるとの報告を受け、この雨天と湿地という条件こそが、自軍の数的劣勢を覆す「天の与ふる所」、すなわち天与の好機であると瞬時に判断したのである 13 。彼は斎藤軍を意図的にこの泥濘の戦場に引きずり込み、その最大の武器である兵力と機動力を削ぎ落とす戦術を選択した。それは、自然環境という不確定要素すらも計算に入れ、能動的に武器として利用する、信長の合理主義的軍事思想の真骨頂であった。

3.3 戦略拠点「墨俣」

墨俣は、尾張と美濃を結ぶ交通の要衝であり、長良川西岸における斎藤方の最前線防衛拠点であった。斎藤家はこの地に砦を築き、尾張に対する備えとしていた 1 。信長の今回の侵攻における直接的な戦術目標は、まずこの墨俣の防衛線を突破し、美濃攻略の永続的な橋頭堡を確保することにあった。

第四章:両軍の陣容と将帥たち

4.1 織田軍 ― 少数精鋭と経済力

  • 総大将:織田信長
    桶狭間の勝利を経て、その名声とカリスマ性は頂点に達していた。家臣団からの信頼も厚く、その指揮には一片の迷いもない。
  • 兵力:約1,500
    尾張統一戦争を戦い抜いた、少数ながらも練度の高い精鋭部隊であった 3。
  • 主要武将:
    柴田勝家や森可成といった、後の織田家を支える宿老たちもこの戦いに参陣していたとされる 33。そして、この軍勢の中には、信長の勘気を被り、公式には出仕を許されていない「浪人」の身でありながら、再起をかけて戦場に臨む一人の若武者がいた。後の加賀百万石の祖、前田利家である。
  • 津島衆という経済的尖兵:
    この戦いで特筆すべきは、『信長公記』が敵将を討ち取った武将として名を挙げる服部平左衛門、恒河久蔵、河村久五郎らが、いずれも「津島」の者と記されている点である 13。これは単なる出身地の記述に留まらない。津島は信長の祖父・信定の代から織田弾正忠家が掌握する経済的本拠地であり、「信長の台所」と称されるほどの財源であった 16。津島の有力商人たちは、経済的な支援を行うだけでなく、自ら武装し、信長の軍事行動に積極的に参加する私兵集団としての側面も持っていた。森部の戦いは、旧来の封建的な武士団同士の衝突という側面だけでなく、商業都市の経済力と軍事力を背景に持つ信長が、その新しい時代の力を誇示した戦いでもあった。

4.2 斎藤軍 ― 大軍と指導者の不在

  • 総大将:斎藤龍興(14歳)
    実戦経験に乏しく、この戦いにおいては名目上の総大将であった 6。実際の指揮は、現場の宿将たちに委ねられていた。
  • 現場指揮官:長井甲斐守衛安、日比野下野守清実
    両名ともに父・義龍の時代からの重臣であり、斎藤家の屋台骨を支える歴戦の将であった 10。彼らの双肩に、若き主君の初陣と国家の命運がかかっていた。
  • 兵力:約6,000
    兵員の数においては織田軍を4倍も上回り、圧倒的な優位に立っていた 3。
  • 注目武将:足立六兵衛
    美濃国で「首取り足立」と恐れられた、斎藤軍随一の猛将。その怪力と武勇は敵味方に広く知れ渡っており、斎藤軍の士気を高める象徴的な存在であった 6。

4.3 戦闘序列比較表

項目

織田軍

斎藤軍

総大将

織田信長

斎藤龍興(名目上)

現場指揮官

織田信長

長井甲斐守衛安、日比野下野守清実

兵力(推定)

約1,500

約6,000

主要武将

前田利家、柴田勝家、森可成、河村久五郎、服部平左衛門

足立六兵衛、神戸将監

士気・状況

桶狭間の勝利で士気は高い。敵将の急死という好機を捉え、攻勢にある。

国主の急死と若年の後継者により、指揮系統に不安を抱える。防衛戦。

第五章:永禄四年五月十四日、雨中の激突 ― 合戦のリアルタイム詳解

午前:斎藤軍、出陣

永禄四年五月十四日、未明からの雨が濃尾平野を濡らす中、斎藤軍は動いた。織田軍侵攻の報を受け、防衛拠点である墨俣から、長井甲斐守と日比野下野守を大将とする6,000の軍勢が森部口へと向けて出陣した 1 。彼らの目的は、国境を越えてきた不遜な織田軍を早期に撃退し、亡き義龍の跡を継いだ若き主君・龍興の権威を内外に示すことにあった。降りしきる雨は、彼らの進軍を困難にしたが、敵もまた同じ条件である。数の上で圧倒する斎藤軍に、油断と慢心があったことは想像に難くない。

信長の決断:「天の与ふる所」

一方、勝賀村に布陣する信長のもとに、雨中を斎藤軍が進軍中との急報がもたらされる。家臣の中には、悪天候と兵力差を考慮し、迎撃に慎重な意見もあったかもしれない。しかし、信長は即座に決断を下す。彼はこの状況を「天が与えてくれた好機」と断じ、全軍に即時迎撃を命じた 13 。この言葉には、前述の通り、雨と湿地が敵の機動力を奪い、自軍の劣勢を覆す絶好の機会であるという、戦場の物理的条件を読み切った上での冷徹な計算と確信が込められていた。

渡河と布陣:泥濘への誘い

信長は1,500の兵を率いると、自ら先頭に立って楡俣川を渡り、敵が進軍してくる森部口へと急行した 13 。安八町の現地の伝承によれば、信長は巧みな戦術を展開したとされる。彼は軍勢を三手に分け、沼地や林といった地形を利用して両翼に伏兵を配置し、中央の部隊が斎藤軍主力を引きつける間に、これを挟撃する態勢を整えたという 29 。これは、大軍を狭隘な泥濘地に誘い込み、その動きを封じた上で分断し、各個撃破を狙うという、寡兵が大軍を破るための定石であった。

正午頃:激戦の火蓋

森部の湿地帯で、両軍の先鋒が遂に激突した。『信長公記』は、その戦闘の激しさを「鑓を打合はせ、数刻相戦ひ」と簡潔ながらも生々しく記している 13 。数時間にわたり、泥飛沫と鬨の声、そして金属がぶつかり合う音の中で、激しい槍の応酬が続いた。

斎藤軍は数の力で織田軍を押し込もうとするが、ぬかるむ足元に馬も兵も足を取られ、思うように前進できない。密集した隊列はかえって動きを阻害し、大軍の利点を全く活かせずにいた。対照的に、少数で身軽な織田軍は、地の利を最大限に活かし、巧みに距離を取りながら斎藤軍の消耗を誘った。

戦局の転換点:猛将・足立六兵衛の死

膠着した戦況の中、一人の武将の武勇が際立っていた。斎藤軍の猛将・足立六兵衛である。彼はその怪力を頼りに織田軍の陣中に深く切り込み、奮戦を続けていた。この猛将を止めなければ、戦況は好転しない。その時、六兵衛の前に一人の武者が立ちはだかった。勘気の身でありながら、この一戦に己の全てを賭けていた前田利家であった。

壮絶な一騎打ちが始まった。伝承によれば、六兵衛が振り下ろした大太刀が利家の兜を強打するも、驚くべきことに刀身の方が真っ二つに折れたという 6 。絶体絶命の窮地を脱した利家は、信長から拝領した名刀を抜き、他の武将の助けも得ながら、ついに六兵衛を討ち取るという大金星を挙げた 6

この一報は、戦場全体に瞬く間に伝播した。「首取り足立」として無敵を誇った猛将の死は、斎藤軍の兵士たちに計り知れない衝撃を与え、その士気を根底から打ち砕いた。逆に、織田軍の士気は天を衝くほどに高まった。

午後:斎藤軍の崩壊

足立六兵衛の死を契機に、戦いの流れは完全に織田軍へと傾いた。信長は好機を逃さず、伏兵を含めた全軍に総攻撃を命令する。混乱に陥った斎藤軍の指揮系統は、致命的な一撃を受けることになった。津島衆の服部平左衛門が総大将の一人・長井甲斐守を、同じく津島衆の恒河久蔵がもう一人の総大将・日比野下野守を、そして河村久五郎が有力武将の神戸将監をそれぞれ討ち取ったのである 13

二人の総大将を同時に失った斎藤軍は、指揮系統を完全に喪失し、統制の取れた軍隊から単なる烏合の衆へと成り果てた。兵士たちは我先にと墨俣方面へ敗走を始め、戦いは織田軍の一方的な勝利に終わった。織田軍の死傷者はごくわずかであったのに対し、斎藤軍は将兵170名以上、一説には320名もの兵が討ち死にするという、壊滅的な大敗を喫した 3

第六章:戦後処理と人間模様

6.1 薬師堂の首実検

戦いが終わると、信長は森部にある薬師堂(現在の森部川古戦場薬師堂)の前で、討ち取った敵将の首を検める「首実検」を執り行った 29 。これは、戦功を評価し、論功行賞を定めるための重要な儀式であった。

この時、信長が自身の鎧を傍らの松の木に掛けたとされる「鎧掛けの松」の伝承が生まれた 29 。激しい戦いを終えた将が、束の間、武具を解いて安堵する姿を象徴するこの逸話は、勝利の威厳と人間的な側面を後世に伝えている。戦没者はこの薬師堂に手厚く葬られたとされ、この地は今なお古戦場の記憶をとどめている。

6.2 前田利家の帰参 ― 人事管理術の妙

首実検の場に、前田利家が進み出た。彼が差し出したのは、かの猛将・足立六兵衛を含む二つの首であった。信長は、利家の同輩であった拾阿弥を斬殺した罪により、彼を長く遠ざけていた。前年の桶狭間の戦いでも、利家は無断で参戦し首級を挙げていたが、それでも帰参は許されなかった 13

しかし、今回の功績は次元が違った。信長は足立六兵衛の首を検めると、「この猛将を討ち取るは、城一つを攻め落としたに等しい価値がある」と最大級の賛辞を送り、ついに利家の帰参を正式に許可したのである 3 。さらに、300貫(水田約60町歩に相当)という破格の加増も行われた 29

この一連の処置は、信長の巧みな人事管理術を如実に示している。桶狭間の功績は集団での奇襲成功であり、個人の武功として際立たせるには不十分であった。しかし、森部における「敵軍最強の猛将を討ち取る」という功績は、誰の目にも明らかな、象徴的かつ比類なき大手柄であった。信長は、規律違反(無断出陣)という「罪」を、それを補って余りある圧倒的な「功」によってのみ償わせるという、徹底した実力主義・成果主義の原則を家臣団に示した。

厳罰をもって規律を維持する一方で、卓越した功績には破格の恩賞で応える。この厳格な「信賞必罰」の徹底こそが、家臣たちの間に熾烈な競争心と信長個人への忠誠心を植え付け、織田軍団の比類なき強さの源泉となった。森部の戦いは、利家個人の「出世の門出」であると同時に 29 、信長流組織論が実践された象徴的な場でもあったのだ。

6.3 敗者の悲哀

一方で、『信長公記』は敗者の悲哀に満ちた逸話も書き留めている。この戦いで討死した総大将の長井甲斐守と日比野下野守は、それぞれ近江猿楽の一座にいた美しい若衆(男色の相手であったとされる)を寵愛していた。そしてこの戦において、二人の若衆は主君と運命を共にし、主従枕を並べて討死したという 13 。これは、戦国の世の無常と、勇猛な武士たちの知られざる人間的な側面を伝える、哀切なエピソードである。

さらに、討死した日比野清実の妻・おつやの方は、信長の叔母にあたる女性であった。彼女はこの後、織田家に戻されるも、信長の政略の駒として幾度も再婚を強いられ、最終的には武田方に降った岩村城の女城主として、信長によって逆さ磔という壮絶な最期を遂げるという、数奇で過酷な運命をたどることになる 42

第七章:歴史的意義 ― 美濃攻略の第一歩

7.1 戦略的成果:西美濃への楔

森部の戦いにおける勝利は、織田信長に計り知れない戦略的利益をもたらした。第一に、美濃への侵攻の足掛かりとなる最前線、墨俣の地を確保したことである。信長は斎藤方が放棄したこの地の砦をただちに改修し、自軍の拠点とした 3 。この墨俣の橋頭堡は、後の本格的な美濃攻略作戦において、兵站と進出の拠点として極めて重要な役割を果たすことになる。

7.2 斎藤家への打撃と内部分裂の助長

第二に、発足したばかりの斎藤龍興政権に、回復困難なほどの打撃を与えたことである。若き当主・龍興は、初陣ともいえるこの戦いで、国を支えるべき二人の宿将を同時に失うという手痛い敗北を喫した。これにより、彼の求心力は大きく低下し、家臣団の間に動揺と新当主への不信感が広がった 11

この敗戦は、斎藤家の内部崩壊の序曲であった。信長はこの後、軍事侵攻と並行して、美濃国人衆への調略を活発化させる。森部の敗戦で露呈した斎藤家の脆弱性は、後に西美濃三人衆(稲葉一鉄、安藤守就、氏家卜全)らが信長に内応する大きな遠因となった。斎藤家の屋台骨は、この一戦から静かに、しかし確実に蝕まれ始めたのである 11

7.3 長き戦いの序章

しかし、森部の勝利が即、美濃平定に繋がったわけでは決してない。美濃国人衆の抵抗は根強く、信長が稲葉山城を陥落させ、美濃一国を完全に掌握するまでには、この後さらに6年の歳月を要することになる(永禄十年、1567年説が有力) 6

信長はこの後、十四条・軽海の戦いや、木曽川の増水に阻まれた河野島の戦いでの手痛い敗北など、一進一退の攻防を経験する 9 。森部の戦いは、この長く困難な美濃攻略戦役全体の、輝かしい幕開けを告げる戦いであったと位置づけるのが最も適切であろう。

結論:森部の戦いが織田信長に与えたもの

森部の戦いは、桶狭間や長篠の戦いといった著名な合戦の影に隠れ、その歴史的重要性が見過ごされがちである。しかし、本報告書で詳述した通り、この一戦は織田信長のその後の飛躍を理解する上で不可欠な、極めて重要な意味を持つ戦いであった。

第一に、この戦いは桶狭間の勝利が単なる幸運ではなかったことを証明した。それは、 (1)情報戦を制して機先を制し、(2)天候や地形といった自然条件を戦術に組み込み、(3)兵力の絶対的劣勢を戦術と兵の質で覆し、(4)商業勢力という新たな力を軍事力に転換し、(5)功罪を明確にする信賞必罰によって家臣を最大限に活用する 、という信長の合理的かつ革新的な戦争術の縮図であった。

第二に、この戦いは信長の野望を具体的な行動へと結実させた記念碑的な一歩であった。美濃平定は、信長が「天下布武」の印を使い始め、天下統一事業を公に宣言する直接の契機となる 48 。美濃という肥沃な穀倉地帯と、京へ至る戦略的要衝を手に入れることは、上洛し、天下に号令するための絶対条件であった。森部の勝利は、その壮大な構想を実現するための、最初の、そして最も重要な扉を開いたのである。

結論として、森部の戦いは、信長の天下布武への野望が、尾張一国という枠を越えて現実の行動として結実した、まさにその序曲であった。この一見小規模な国境の戦いを深く理解することなくして、その後の織田信長の破竹の進撃と、彼が創り上げようとした新しい時代の本質を真に理解することはできないであろう。

引用文献

  1. 森部の戦い - Wikiwand https://www.wikiwand.com/ja/articles/%E6%A3%AE%E9%83%A8%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  2. 織田信長の合戦年表 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/84754/
  3. 森部の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E9%83%A8%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  4. 斎藤道三は何をした人?「油売りから出世した美濃のマムシが下克上で国を盗んだ」ハナシ https://busho.fun/person/dosan-saito
  5. 斎藤道三の武将年表/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/62978/
  6. 森部の戦い/古戦場|ホームメイト https://www.touken-collection-kuwana.jp/mie-gifu-kosenjo/miribe-kosenjo/
  7. 後継者の資質を見抜けなかった斎藤道三の悲劇|Biz Clip(ビズクリップ) https://business.ntt-west.co.jp/bizclip/articles/bcl00007-063.html
  8. 斎藤義龍 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E7%BE%A9%E9%BE%8D
  9. 品野城・河野島・明知城…織田軍はこんなにも敗北を喫していた | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/8241
  10. 斎藤家 武将名鑑 https://kamurai.itspy.com/nobunaga/saitouSS/index.htm
  11. 歴史の渦に消えた若き龍、斎藤龍興の悲運と執念 - 戦国 BANASHI https://sengokubanashi.net/person/saitoutatsuoki/
  12. 斎藤龍興(さいとう たつおき) 拙者の履歴書 Vol.24〜若くして国を失いし主 - note https://note.com/digitaljokers/n/n2491f0bebbc9
  13. 『信長公記』「首巻」を読む 第41話「森辺合戦の事」|【note版 ... https://note.com/senmi/n/n058671a7614c
  14. 命を懸けた伝達!?戦国時代に使われていた4つの伝達方法 - チャンバラ合戦 https://tyanbara.org/sengoku-history/2017101625025/
  15. 大昔の通信手段・飛脚は速かったの? 東京から大阪まで飛脚になって手紙を届ける - KDDI トビラ https://time-space.kddi.com/kddi-now/tsushin-chikara/20170710/2034.html
  16. tatujin.jimdofree.com https://tatujin.jimdofree.com/%E6%B4%A5%E5%B3%B6%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%A9%E3%82%93%E3%81%AA%E8%A1%97/#:~:text=%E4%BF%A1%E9%95%B7%E3%81%AB%E3%81%A8%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%82%82%E3%80%81%E5%95%86%E6%A5%AD%E9%83%BD%E5%B8%82,%E6%B4%A5%E5%B3%B6%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%81%84%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%82%8B%E6%89%80%E4%BB%A5%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82
  17. 10分で読める歴史と観光の繋がり 戦国乱世の礎となった英雄・三好長慶、今川義元、斉藤道三、織田信秀/ゆかりの世界遺産石見銀山と鉄砲伝来、霊山富士登山、尾張津島天王祭 他 | いろいろオモシロク https://www.chubu-kanko.jp/ck.blog/2022/04/01/10%E5%88%86%E3%81%A7%E8%AA%AD%E3%82%81%E3%82%8B%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%A8%E8%A6%B3%E5%85%89%E3%81%AE%E7%B9%8B%E3%81%8C%E3%82%8A%E3%80%80%E4%B9%B1%E4%B8%96%E3%81%AE%E5%A7%8B%E3%81%BE%E3%82%8A%E7%AC%AC/
  18. なぜ信長は強かったのか http://www.kyoto-be.ne.jp/rakuhoku-hs/mt/education/pdf/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2%E3%81%AE%E6%9C%AC15%EF%BC%88%E7%AC%AC30%E5%9B%9E%EF%BC%89%E3%80%8E%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7%E3%81%AE%E3%83%9E%E3%83%8D%E3%83%BC%E9%9D%A9%E5%91%BD%EF%BC%91%E3%80%8F.pdf
  19. 3-14 森部・十四条合戦 - 美濃攻め開始 | nobunagamaps.com https://nobunagamaps.com/540moribe.html
  20. 自 然 が 創 り 、 人 が 造 っ た な ご や - 名古屋市 https://www.city.nagoya.jp/kankyo/cmsfiles/contents/0000076/76847/2_2syou.pdf
  21. II.伊勢・三河湾流域における土地の履歴 1.古代 https://chubu.env.go.jp/to_2010/data/0518b_4.pdf
  22. ミナトガタリ 第10弾なごや古道・街角案内人 第2章 どうやって大地が形成されたのか(港区) - 名古屋市 https://www.city.nagoya.jp/minato/page/0000083442.html
  23. 美濃森部城 http://www.oshiro-tabi-nikki.com/moribe.htm
  24. 森部城の見所と写真・100人城主の評価(岐阜県安八町) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/2504/
  25. 濃尾平野の地質構造、河川の状況と平安・鎌倉街道 - 更級日記紀行 https://sarasina.jp/products/detail/96
  26. 信長公記(36)森部合戦|だい - note https://note.com/daaai_2023/n/n4d6702a31ab2
  27. 桶狭間で豪雨が降らなければ… - ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/yorons/148
  28. 桶狭間の戦い - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7145/
  29. 森部薬師堂・出世の松(森部合戦の古戦場) - 安八町 https://www.town.anpachi.lg.jp/0000000392.html
  30. 犬千代史跡(森部古戦場) http://arakotakabata.news.coocan.jp/inutiyo_yukari/moribe_inutiyo.htm
  31. 騎馬隊と流鏑馬/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/40364/
  32. 騎馬武者とは/ホームメイト - 名古屋刀剣博物館 https://www.meihaku.jp/kibamusya/about-kibamusya/
  33. 森部川古戦場薬師堂|観光スポット|岐阜県観光公式サイト 「岐阜の旅ガイド」 https://www.kankou-gifu.jp/spot/detail_7961.html
  34. 織田家臣団 - 未来へのアクション - 日立ソリューションズ https://future.hitachi-solutions.co.jp/series/fea_sengoku/02/
  35. 経済拠点を重視した織田3代の立地戦略|Biz Clip(ビズクリップ) - NTT西日本法人サイト https://business.ntt-west.co.jp/bizclip/articles/bcl00007-065.html
  36. 破章 なぜ信長が歴史に現れたのか? - 経済重視政策は親譲り - 郷土の三英傑に学ぶ https://jp.fujitsu.com/family/sibu/toukai/sanei/sanei-13.html
  37. 長井衛安(ナガイモリヤス) - 戦国のすべて https://sgns.jp/addon/dictionary.php?action_detail=view&type=1&dictionary_no=1905&bflag=1
  38. 日比野清実 - Wikiwand https://www.wikiwand.com/ja/articles/%E6%97%A5%E6%AF%94%E9%87%8E%E6%B8%85%E5%AE%9F
  39. 前田利家は何をした人?「信長の親衛隊長・槍の又左が秀吉の時代に家康を抑えた」ハナシ https://busho.fun/person/toshiie-maeda
  40. 風流 利家とまつ「頚取足立六兵衛討取場」 - 新庄まつり https://shinjo-matsuri.jp/db/2002_01
  41. 大失態を乗り越えて信長の信頼を回復した前田利家|Biz Clip(ビズクリップ) https://business.ntt-west.co.jp/bizclip/articles/bcl00007-029.html
  42. 日比野清実 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%AF%94%E9%87%8E%E6%B8%85%E5%AE%9F
  43. 信長は本当に叔母・おつやの方を逆さ磔にしたのか? - 歴史人 https://www.rekishijin.com/26772
  44. おつやの方 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%81%A4%E3%82%84%E3%81%AE%E6%96%B9
  45. 「斎藤龍興」若くして家督を継承するも美濃を追われた悲運の将 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/277
  46. 美濃斎藤家滅亡・序章 - 織田信長と戦国武将 - FC2 http://1kyuugoukaku.blog.fc2.com/blog-entry-178.html
  47. 意外と負けていた…織田信長の「敗北3パターン」 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/7980
  48. テーマ解説 - 古文書を読む―織田信長朱印状― - ひょうご歴史ステーション https://www.hyogo-c.ed.jp/~rekihaku-bo/historystation/rekihaku-meet/seminar/komonjo/theme.html
  49. chapter_2_s.pdf - 岐阜市 https://www.city.gifu.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/005/148/chapter_2_s.pdf
  50. 稲葉山城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E8%91%89%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84