最終更新日 2025-08-30

横山城の戦い(1570)

元亀元年の激震:横山城の戦いと姉川合戦の時系列的再構築

序章: 破綻した義兄弟の盟約

元亀元年(1570年)に近江国で繰り広げられた「横山城の戦い」は、単なる一地方の城をめぐる攻防戦ではない。それは、天下布武を掲げる織田信長と、旧来の信義と新たな同盟の間で引き裂かれた北近江の雄・浅井長政との、避けられぬ宿命の激突であった。この戦役を理解するためには、そのわずか二ヶ月前に起きた、信長の生涯最大の危機とされる「金ヶ崎の退き口」まで遡る必要がある。

金ヶ崎の退き口:織田信長、生涯最大の危機

1570年4月、織田信長は、再三にわたる上洛命令を無視し続ける越前の朝倉義景を討伐するため、同盟者である徳川家康と共に3万の大軍を率いて越前国へと侵攻した 1 。破竹の勢いで朝倉方の城を次々と攻略し、金ヶ崎城(現在の福井県敦賀市)を陥落させた矢先、信長の耳に驚愕の報せが届く。義弟であり、妹のお市の方を嫁がせていた浅井長政が、織田軍に対して反旗を翻したというのである 1

この裏切りにより、織田・徳川連合軍は北の朝倉軍と、南から迫る浅井軍によって挟撃される絶体絶命の窮地に陥った 1 。信長は当初、この報を「虚説たるべき」として信じようとしなかったが、続々と届く知らせに事実と認めざるを得ず、即座に撤退を決断する 1 。この決死の撤退戦「金ヶ崎の退き口」において、木下秀吉(後の豊臣秀吉)や徳川家康らが殿(しんがり)という最も危険な役割を務め、織田軍本体を命からがら京へと逃した 3 。この敗走で織田軍は2000名以上もの死傷者を出すなど、甚大な被害を被った 7

浅井長政の苦悩:旧来の盟約(朝倉)と新興の盟約(織田)の狭間で

浅井長政の裏切りは、単なる気まぐれや野心によるものではなかった。浅井家は、祖父・亮政の代から長年にわたり、朝倉家と強固な同盟関係にあった 1 。一方で、南近江の宿敵・六角氏に対抗するため、新興勢力である織田信長と手を結び、政略結婚によって義兄弟の関係を築いていた 1 。この同盟締結の際、信長は長政に対し「朝倉への不戦」を誓約したと伝えられている 1

信長がこの誓いを一方的に破り、朝倉討伐の軍を起こしたことで、長政は究極の選択を迫られた。父・久政をはじめとする親朝倉派の重臣たちと、新時代の覇者である信長との間で、長政は苦悩の末に旧来の盟約を重んじる道を選んだのである 2 。信長の越前侵攻は、結果的に浅井家にとって、どちらの信義を選ぶかを試す「踏み絵」となった。

再起を図る信長:対浅井・朝倉戦線の幕開け

九死に一生を得て岐阜へ帰還した信長は、信頼していた義弟の裏切りに激怒した 5 。彼は直ちに軍を再編成し、浅井・朝倉への報復戦の準備に取り掛かる 9 。この戦いは、もはや個人的な恨みを晴らすための懲罰ではない。信長の天下布武の道を阻む、浅井・朝倉という強固な同盟勢力を根元から断ち切り、自らの権威を再確立するための、避けては通れない全面戦争の始まりであった 10 。金ヶ崎での手痛い敗走は、信長に力押しだけでは天下を掌握できないという教訓を与えた。これ以降の近江侵攻は、敵の戦略的拠点を一つずつ確実に奪い、支配領域を固めていく、より周到で冷徹な戦略へと昇華されていく。その最初の試金石こそ、横山城だったのである。

第一章: 北近江の戦略的要衝、横山城

信長が報復戦の最初の目標として、浅井氏の居城・小谷城への直接攻撃ではなく、その支城である横山城を選んだことには、明確な戦略的意図があった。横山城の地理的、構造的な価値を分析することで、信長の描いた戦いの全体像が浮かび上がってくる。

地理的優位性:小谷城の喉元に突きつけられた刃

横山城は、浅井氏の本拠地である小谷城から南西へ直線距離にしてわずか6kmから10kmほどの地点に位置していた 11 。両城の間には姉川が流れ、横山城はその南岸にそびえる。さらに重要なのは、美濃国の関ヶ原から小谷城の西側を抜けて越前に至る主要街道「北国脇往還」を眼下に見下ろす、交通と軍事の要衝であったことだ 14

この城を織田方が制圧することは、浅井氏にとって複数の致命的な意味を持った。第一に、小谷城への圧力を恒常的に加え続けるための、敵の前線基地が目と鼻の先に築かれることになる 12 。第二に、美濃からの補給路が安定し、織田軍の長期的な駐留が可能となる 6 。第三に、浅井領の南北が分断され、南近江の反織田勢力との連携が困難になる 16 。まさに、小谷城の喉元に突きつけられた刃であった。

臥竜山に広がる砦群:横山城の構造と防御機能

横山城は、単一の城郭ではなかった。南北に長く伸びる横山丘陵、別名「臥竜山」の尾根筋全体に築かれた、一種の広大な「要塞群」と捉えるべきである 14 。その構造は、最高地点(標高312m)に築かれた北城と、そこから南へ派生する尾根上に築かれた南城からなる「別城一郭」の形式を基本としていた 17

さらに、この丘陵には梶原砦、北平砦、坂南砦、総山砦といった複数の砦が連続して配置されていた。そして、丘陵の最北端、姉川に突き出すような位置には、後に信長が本陣を置くことになる龍ヶ鼻砦(標高180m)が存在した 17 。城内には、土塁、空堀、堀切、竪堀、虎口(城の出入り口)といった戦国期山城の典型的な防御遺構が巧みに配置されており、特に南城は発展的な防御機構を有していたことが確認されている 18 。この堅固な防御網は、容易な攻略を許さない構えを見せていた。

守将たちの横顔:三田村氏、野村氏、大野木氏の役割

この戦略的要衝は、永禄4年(1561年)に浅井長政によって本格的に改修され、当初は対六角氏、そして信長の上洛以降は対織田氏への備えとして機能していた 15 。元亀元年の戦い当時、この城は三田村国定、野村直隆、大野木秀俊といった浅井家の重臣たちによって守られていた 15 。彼らは、主君・長政からの救援を信じ、織田の大軍を前に籠城の覚悟を決めることになる。

信長が難攻不落と名高い小谷城への直接攻撃を避けたのは、無用な損害を嫌ったからに他ならない 27 。しかし彼の真の狙いは、単に攻略が容易な城を攻めるという消極的なものではなかった。横山城を攻めるという行動によって、必然的に引き起こされる事態、すなわち、重要な支城を見殺しにできない浅井軍を、堅固な小谷城から引きずり出すことにあった。織田・徳川連合軍がその真価を発揮できる平野部での決戦に持ち込むための、横山城は壮大な「戦略的な餌」だったのである 28

第二章: 包囲網の形成(1570年6月19日~27日)

金ヶ崎での屈辱から二ヶ月、信長は周到な準備を経て、雪辱戦の火蓋を切った。ここからの数日間は、両軍が来るべき決戦に向けて、目まぐるしく兵を動かした緊迫の期間であった。

6月19日:信長の近江再侵攻

信長は岐阜城を出立すると、その日のうちに美濃・近江国境の長比城に入った 29 。浅井方の国境防衛線であった刈安尾城と長比城は、織田軍の圧倒的な軍事力を前に抵抗することなく開城した 24 。信長の侵攻は、もはや誰にも止められない奔流となって北近江に流れ込んだ。

6月21日~22日:小谷城下への示威行動

信長は軍を進め、浅井氏の居城・小谷城を間近に見下ろす虎御前山に布陣した 29 。そして柴田勝家、佐久間信盛、木下秀吉といった主力の武将たちに命じ、小谷城の城下町を広範囲にわたって焼き払わせた 29 。これは、浅井方に対する強烈な心理的圧力であると同時に、城から打って出てくることを誘う挑発でもあった。一通りの示威行動を終えると、信長は意図的に軍を後退させる 29 。この不可解な動きは、浅井方の警戒心を揺さぶり、判断を誤らせるための巧妙な罠であった可能性が高い。

6月24日:横山城包囲網の完成

信長は戦略目標を横山城へと転換し、その堅固な城を幾重にも取り囲む包囲網を完成させた 10 。信長自身は、横山砦群の北端に位置する龍ヶ鼻に本陣を設置した 10 。敵の防御施設の一部を逆用して自軍の本陣とする、信長ならではの大胆不敵な布陣であった。

6月24日~27日:両軍、決戦に向けて集結

この信長の動きに呼応するように、両軍の兵力が決戦の地へと集結し始める。

  • 織田・徳川方: 6月24日、徳川家康が約5,000の精鋭を率いて本拠地・岡崎を出陣 31 。昼夜を問わぬ強行軍の末、27日までに信長の本陣に合流し、同じく龍ヶ鼻に布陣した 29
  • 浅井・朝倉方: 横山城が包囲されたとの急報を受け、浅井長政は直ちに朝倉義景に援軍を要請した。朝倉方は当主・義景自身は出馬しなかったものの、一族の重鎮である朝倉景健を総大将とする8,000から10,000の軍勢を派遣した 29
  • 浅井長政率いる約5,000の兵と朝倉の援軍は合流し、小谷城の東方に位置する大依山に布陣した 29
  • そして6月27日、浅井・朝倉連合軍は決戦を覚悟し、大依山の陣を払って南下。決戦の地と定めた姉川の北岸へと全軍を前進させた 29

この数日間の動きは、戦いが始まる前に、すでに戦略レベルでの優劣が決していたことを示している。信長は一貫して主導権を握り、相手の行動を予測しながら、自らが望む戦場へと敵を誘い込んでいる。対する長政は、信長の行動に対応せざるを得ない受動的な立場に終始した。横山城を見殺しにできないという一点を突かれ、堅固な城を出て、野戦に応じざるを得ない状況へと追い込まれたのである 28

第三章: 姉川の血戦(1570年6月28日 未明~昼)

元亀元年6月28日、ついに両軍は姉川を挟んで雌雄を決する時を迎えた。この戦いは、後に「血川」「血原」といった地名が残るほどの、凄惨な激戦となった 10


【表1】姉川合戦における両軍の兵力比較表

軍団

総兵力(諸説あり)

主要構成と指揮官

織田・徳川連合軍

約 24,000 ~ 30,000

織田軍 (約19,000~24,000):織田信長、柴田勝家、木下秀吉、丹羽長秀、稲葉良通、氏家卜全、安藤守就、坂井政尚 など 徳川軍 (約5,000~6,000):徳川家康、酒井忠次、石川数正、本多忠勝、榊原康政 など

浅井・朝倉連合軍

約 13,000 ~ 18,000

浅井軍 (約5,000~8,000):浅井長政、磯野員昌、遠藤直経、赤尾清綱 など 朝倉軍 (約8,000~10,000):朝倉景健、真柄直隆(十郎左衛門)、真柄直澄 など

(出典: 27 に基づき作成)


午前4時頃~:両軍、姉川を挟んで対峙

夜明け前の薄闇の中、浅井・朝倉連合軍は姉川の北岸に、織田・徳川連合軍は南岸に陣を構えた 33 。布陣は、西側で徳川軍(約5,000)と朝倉軍(約8,000)が、東側で織田軍(約19,000)と浅井軍(約5,000)がそれぞれ対峙する形となった 33 。織田軍は、一部の兵力を背後の横山城包囲に残したまま決戦に臨んでおり、もし前線が崩れれば、包囲軍が背後から攻撃される危険性をはらんだ、極めて攻撃的な布陣であった 33

午前6時頃:開戦

戦闘の火蓋は、徳川軍が一番手として朝倉軍に攻めかかったことで切られた 29 。これを合図に、東翼の織田軍と浅井軍も激突。川を渡り、あるいは川中で、両軍の兵士たちが入り乱れての白兵戦が始まった。川の水は瞬く間に血で赤く染まったと伝えられている 10

午前8時頃:織田軍本陣の危機

兵力では圧倒的に劣る浅井軍であったが、その士気は高く、凄まじい奮戦を見せた。特に、浅井家の猛将・磯野員昌が率いる部隊は、織田軍の陣立てを次々と突き破り、信長の本陣に肉薄するほどの勢いを示した。後世の軍記物では、この猛攻を「員昌の姉川十一段崩し」と呼び、織田軍十三段の備えのうち十一段までを崩したと記されている 29 。この浅井軍の猛攻により、織田軍は一時的に後退を余儀なくされ、信長自身も危機的状況に陥った 27 。浅井家臣・遠藤直経が、討ち取った織田方の武将の首を携えて味方のふりをし、信長の本陣に潜入してその首を狙ったという逸話は、この時の織田軍の混乱ぶりを象徴している(直経は竹中半兵衛の弟・重矩に見破られ討ち死にした) 39

午前10時頃:戦局の転換点

織田軍が崩壊の危機に瀕していた頃、西翼では全く異なる戦況が生まれつつあった。朝倉軍と対峙していた徳川家康は、自軍が押し込まれつつある中でも冷静に戦況を分析し、敵の陣形が前進によって間延びし、側面に大きな隙が生じていることを見抜いた 27

好機と見た家康は、すぐさま家臣の榊原康政に別動隊を率いさせ、姉川を大きく迂回して朝倉軍の側面を突くよう命じた 27 。この起死回生の一手は、後に「横槍を入れる」という言葉の語源になったとも言われる。康政隊の奇襲は完璧に成功した。全く予期していなかった側面からの攻撃に、朝倉軍の指揮系統は麻痺し、大混乱に陥って総崩れとなった 27

正午頃:浅井・朝倉連合軍の総崩れ

朝倉軍の敗走は、ドミノ倒しのように戦線全体に波及した。奮戦していた浅井軍は、突如として右翼(西側)ががら空きになるという最悪の事態に直面する。そこへ、体勢を立て直した織田軍と、朝倉軍を撃破して勢いに乗る徳川軍が殺到した 27 。数で劣る上に片翼を失った浅井軍は、もはや持ちこたえることができず、ついに敗走を開始した。信長は追撃の手を緩めず、小谷城の麓まで攻め上り、周辺の家々を焼き払った 29 。この戦いで、朝倉方の猛将で、五尺三寸(約175cm)の大太刀を振るったという真柄直隆・直澄兄弟をはじめ、両軍合わせて数千人もの将兵が命を落とした 29

この勝利は、織田・徳川同盟の軍事的な有効性を天下に証明した。信長の圧倒的な物量と、家康が率いる精強な三河武士団という、異なる強みを持つ両者の連携が、浅井・朝倉という旧来の強固な同盟を打ち破ったのである。家康にとってこの戦功は、織田政権内での自らの価値と発言力を不動のものとする、極めて重要な一戦となった 27

第四章: 要塞、沈黙す(1570年6月28日午後~29日)

姉川の河原で繰り広げられた決戦の結末は、後方で固唾をのんで戦況を見守っていた横山城の運命を、即座に決定づけた。

救援部隊壊滅の報:横山城内の絶望

横山城の城兵たちは、眼下の平野で味方である浅井・朝倉連合軍が総崩れとなり、敗走していく光景を目の当たりにしたはずである。主君・長政からの救援という唯一の希望が断たれた瞬間、城兵たちの士気は根底から打ち砕かれた。堅固な城壁も、兵士たちの心が折れてしまっては意味をなさない。もはや籠城を続ける戦略的な意味は完全に失われた。

織田軍による最後の攻勢と降伏勧告

姉川で圧勝を収めた信長は、追撃を終えるとすぐさま軍を反転させ、横山城下へと後退した 29 。そして、休む間もなく城への総攻撃の態勢を整える。羽柴秀吉、丹羽長秀、柴田勝家、池田恒興といった織田軍の主力が城を再び厳重に包囲し、攻撃を開始した 24 。おそらく、この最後の攻勢と並行して、木下秀吉らが降伏勧告の使者を送り、城兵に無益な抵抗をやめるよう説得したものと考えられる 13

城将たちの決断:開城と脱出

これ以上の抵抗は、いたずらに兵の命を失うだけである。そう判断した城将の三田村国定、野村直隆、大野木秀俊らは、ついに降伏を決断し、城を開け渡した 15 。彼らはその後、本城である小谷城へと逃れ、天正元年(1573年)に浅井氏が滅亡するその時まで、信長への抵抗を続けることになる 25

横山城の落城は、戦国時代の攻城戦の本質を浮き彫りにしている。城の物理的な防御力は、それを支える戦略的状況、すなわち「救援が期待できるか否か」という一点に大きく依存する。姉川での敗戦によってその前提が崩壊した瞬間、堅固な要塞は、もはや戦略的価値を失った「孤立した丘」と化した。信長は、横山城を力でねじ伏せたのではない。「落城せざるを得ない状況」を巧みに作り出すことで、最小限の損害でこの戦略的要衝を手に入れたのである。

第五章: 新たな城主の誕生と戦線の安定

横山城の落城は、単なる一城の攻略に留まらず、その後の北近江における戦局を大きく左右する転換点となった。そして、この城の新たな主となった人物こそ、後の天下人・豊臣秀吉であった。

木下秀吉の城番就任:対浅井戦線の最前線司令官として

横山城を無血開城させた信長は、その城番(城代)として木下秀吉を任命した 11 。これは、金ヶ崎の退き口において、命がけで殿を務め上げた秀吉の功績を高く評価した結果であった 6 。秀吉にとって、敵の本拠地・小谷城と目と鼻の先にあるこの城を任されることは、対浅井・朝倉戦線の最前線司令官に抜擢されたことを意味し、その後の彼の運命を大きく左右する重責であった 42

横山城の拠点化:3年間にわたる小谷城攻略の礎

秀吉が守る横山城は、これより天正元年(1573年)に浅井氏が滅亡するまでの3年間、対浅井戦略の最重要拠点として機能し続けることになる 11 。信長自身も、その後幾度となく小谷城攻めや畿内平定に向かう際に、この城を前線基地として利用した 24

秀吉はこの横山城を拠点として、軍事行動のみならず、巧みな調略を駆使して浅井氏の切り崩しを図った。浅井方の有力武将であった佐和山城主・磯野員昌を離反させるなど、敵の内部を巧みに揺さぶり、浅井氏を着実に弱体化させていったのである 6 。横山城は、小谷城を物理的・心理的に追い詰めるための、まさしく楔(くさび)となった。

戦いの歴史的意義:信長包囲網の一角を崩した一手

姉川の戦いでの勝利と、それに続く横山城の奪取は、浅井・朝倉両氏に回復困難な打撃を与え、その滅亡への道を決定づけた 9 。これにより信長は、北近江に確固たる足場を築き、背後の脅威を大きく軽減させることに成功した。この戦線の安定は、信長が比叡山延暦寺、石山本願寺、そして武田信玄といった他の反信長勢力、いわゆる「信長包囲網」との戦いに、より多くの兵力と資源を投入することを可能にした。

信長が秀吉を横山城の城番に任じたのは、単なる功績への報酬ではなかった。この最も困難で、かつ重要な前線において、粘り強く、そして創意工夫に富んだ戦いができる指揮官を、信長は必要としていた。金ヶ崎でその非凡な能力を証明した秀吉は、この役に最適任であった。横山城は、秀吉が自らの軍略の才を存分に発揮し、主君・信長の信頼をさらに勝ち取るための絶好の「舞台」となったのである。ここでの成功が、浅井氏滅亡後に北近江三郡を与えられ、長浜に新たな城を築いて国持大名へと飛躍する直接の足がかりとなった 43 。横山城は、まさしく天下人・豊臣秀吉のキャリアにおける「原点」とも言うべき城なのである。

終章: 横山城が映し出す天下布武の道程

元亀元年の横山城をめぐる一連の攻防は、戦国時代の転換期を象徴する出来事であった。この戦いは、織田信長、浅井長政、徳川家康、そして木下秀吉という、時代の主役たちの運命を大きく左右し、その後の歴史の流れを決定づけた。

  • 織田信長 にとっては、金ヶ崎での屈辱を晴らし、天下布武の道程における大きな障害であった浅井・朝倉同盟に楔を打ち込む、決定的な勝利であった。彼はこの戦いを通じて、力押しだけでなく、敵を戦略的に追い込む戦術の有効性を証明し、覇者としての地位をより強固なものにした。
  • 浅井長政 にとっては、旧来の信義を貫いた末に、滅亡への坂道を転がり落ちるきっかけとなった悲劇的な敗北であった。姉川での敗戦と横山城の喪失は、彼の勢力基盤を大きく揺るがし、信長包囲網の一翼を担いながらも、徐々に追い詰められていく苦難の始まりを意味した。
  • 徳川家康 にとっては、織田・徳川同盟における自らの軍事的価値を不動のものとした、重要な一戦であった。榊原康政の側面攻撃に象徴される三河武士団の精強さは、信長に強烈な印象を与え、家康を単なる従属大名ではなく、天下布武に不可欠な戦略的パートナーとして認識させるに至った。
  • 木下秀吉 にとっては、一介の部将から方面軍司令官、そして天下人へと続く栄光のキャリアの、まさに第一歩を記した場所であった。横山城主として最前線を預かった経験は、彼の軍事的・政治的能力を飛躍的に向上させ、後の大飛躍への確かな布石となった。

このように、姉川の南岸にそびえる一つの山城をめぐる戦いは、単なる局地戦ではなく、戦国乱世の複雑な人間関係と高度な戦略思想が凝縮された、歴史の縮図であった。横山城の攻防は、天下統一へと向かう織田信長の揺るぎない意志と、それに抗い、あるいは協力することで自らの道を切り拓こうとした武将たちの、鮮烈な生き様を今に伝えている。


【巻末資料】横山城の戦い・姉川合戦 主要時系列表

日付・時刻

織田・徳川軍の動向

浅井・朝倉軍の動向

場所・戦況

1570年6月19日

織田信長、岐阜を出陣。長比城に入る。

-

美濃・近江国境の刈安尾城・長比城が開城。

6月21日

小谷城を見下ろす虎御前山に布陣。城下町を焼き払う。

小谷城に籠城。

織田軍による示威行動。

6月22日

意図的に軍を後退させる。

-

浅井軍を城から誘い出すための陽動か。

6月24日

横山城を包囲。信長は龍ヶ鼻に本陣を設置。

横山城、籠城を開始。浅井長政は朝倉氏に援軍を要請。

横山城攻防戦が開始される。

6月26日~27日

徳川家康率いる援軍5,000が龍ヶ鼻の本陣に合流。

朝倉景健率いる援軍8,000が到着。浅井軍と合流し、大依山に布陣。その後、姉川北岸へ前進。

両軍、姉川を挟んで決戦の態勢を整える。

6月28日 午前4時頃

姉川南岸に布陣完了(東:織田軍、西:徳川軍)。

姉川北岸に布陣完了(東:浅井軍、西:朝倉軍)。

両軍、姉川を挟んで対峙。

6月28日 午前6時頃

徳川軍が朝倉軍に、織田軍が浅井軍に攻撃を開始。

両軍、これに応戦。

姉川の戦い、開戦。

6月28日 午前8時頃

浅井軍(特に磯野員昌隊)の猛攻を受け、本陣に迫られる危機的状況に陥る。

浅井軍が優勢に戦いを進める。

織田軍、苦戦。

6月28日 午前10時頃

徳川家康の命により、榊原康政隊が朝倉軍の側面を迂回攻撃。

側面を突かれた朝倉軍が大混乱に陥り、敗走を開始。

戦局の転換点。徳川軍が戦況を覆す。

6月28日 正午頃

朝倉軍を撃破した徳川軍と合流し、浅井軍を挟撃。小谷城麓まで追撃。

朝倉軍の敗走により戦線が崩壊。浅井軍も敗走。

浅井・朝倉連合軍の総崩れ。織田・徳川連合軍の勝利が確定。

6月28日 午後

姉川から横山城下へ後退し、再び城を包囲。総攻撃を開始。

救援の望みを絶たれ、城内の士気が低下。

横山城、完全に孤立。

6月29日

降伏勧告を行う。

城将(三田村・野村・大野木氏)が降伏を決断。

横山城、開城。

6月29日以降

木下秀吉を横山城の城番に任命。対浅井戦線の拠点とする。

開城した城将らは小谷城へ退去。

横山城の戦い、終結。

引用文献

  1. 金ヶ崎の戦い/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7305/
  2. 【合戦解説】金ヶ崎の戦い 浅井長政は何故裏切った? 解説 織田信長 大ピンチ 殿には、秀吉、明智光秀、徳川家康!? - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=kAHTyjmIgMw
  3. 「行き」の行軍ルートを考察:「金ヶ崎の退き口」を地形・地質的観点で見るpart1【合戦場の地形&地質vol.3-1】|ゆるく楽しむ - note https://note.com/yurukutanosimu/n/n3d92a3baac22
  4. 三英傑+明智光秀が一堂に会した「金ヶ崎の退き口」の背景・結果を解説|信長に置いて行かれた家康は絶体絶命の危機に…【日本史事件録】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1121787
  5. 徳川家康の「姉川の戦い」の背景・結果を解説|家康の機転で形勢逆転した戦い【日本史事件録】 https://serai.jp/hobby/1123503
  6. 豊臣秀吉は何をした人?「猿と呼ばれた小者が農民から関白になって天下統一した」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/hideyoshi-toyotomi
  7. 家康が一番隊を志願した「姉川の戦い」 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/27316
  8. 「姉川の戦い」はなぜ起こった? 合戦の経緯と主要人物をチェックしよう【親子で歴史を学ぶ】 https://hugkum.sho.jp/448951
  9. 「姉川の戦い」と「賤ヶ岳の戦い」戦国の二大合戦は滋賀県が主戦場! (2ページ目) - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/22545/?pg=2
  10. 姉川の戦い古戦場:滋賀県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/anegawa/
  11. (浅井長政と城一覧) - /ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/10495_castle/busyo/19/
  12. 横山城の歴史 - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/192/memo/4305.html
  13. 横山城の見所と写真・300人城主の評価(滋賀県長浜市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/192/
  14. 横山城跡 | 滋賀県観光情報[公式観光サイト]滋賀・びわ湖のすべて ... https://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/894/
  15. 横山城(滋賀県長浜市)の詳細情報・口コミ | ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/castles/6179
  16. 「姉川」が決戦地となった理由とは?:「姉川の戦い」を地形・地質的観点で見るpart2【合戦場の地形&地質vol.4-2】|ゆるく楽しむ - note https://note.com/yurukutanosimu/n/n1c086e9754ae
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  18. 【滋賀県】横山城の歴史 浅井氏攻略への王手!秀吉も城番を務めた城 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/955
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