横山城(近江)再包囲(1573)
天正元年、羽柴秀吉が守る横山城は浅井氏滅亡の要衝となる。信長は朝倉氏を滅ぼし、小谷城を攻め落とし、浅井氏は滅亡。秀吉は北近江を得て飛躍した。
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横山城の視点から紐解く天正元年の北近江最終決戦:小谷城落城に至る道
序章:天正元年の前夜 – 北近江、三年間の「動かぬ戦線」
天正元年(1573年)、近江国に存在した横山城が織田信長軍によって「再包囲」されたという記録は、厳密には史実と異なる。元亀元年(1570年)6月の姉川の合戦において、織田・徳川連合軍が浅井・朝倉連合軍に辛勝した後、信長は浅井長政の居城・小谷城の喉元に位置するこの横山城を攻略した 1 。そして、この戦略的要衝の城番として、当時まだ木下秀吉と名乗っていた後の羽柴秀吉を任命したのである 1 。
したがって、1573年における横山城の位置づけは、織田軍の攻撃対象ではなく、むしろ浅井氏を滅亡へと追い込むための最重要前線基地であった。本報告書は、ユーザーの提示された「横山城という視点」を基軸としつつ、歴史的文脈を正確に捉え、「城番・羽柴秀吉が守る横山城を戦略拠点として、織田信長が敢行した小谷城への最終攻略戦(1573年)」の全貌を、合戦中のリアルタイムな状況が把握できるよう時系列に沿って徹底的に解説するものである。
横山城の戦略的価値と羽柴秀吉の三年
信長が横山城を奪取した後、なぜ数多いる宿将の中から秀吉をこの最前線に配置したのか。その理由は、横山城が持つ比類なき戦略的価値にあった。小谷城から南へわずか6~7kmという至近距離に位置するこの城は、浅井軍の南下を物理的に阻止する楔であると同時に、小谷城へ絶えず軍事的・心理的圧力をかけ続けるための絶好の拠点であった 4 。
1570年から1573年に至るまでの約三年間、北近江では大規模な会戦こそ発生しなかったものの、決して平穏な日々が流れていたわけではない。それは、絶え間ない緊張を伴う「動かぬ戦線」における、熾烈な消耗戦の期間であった。城番となった秀吉は、横山城を拠点として、浅井方の諸将を切り崩すための調略活動を活発に行い 6 、一方で浅井長政による近隣の箕浦城攻めに対応して出兵するなど、攻防両面で精力的に活動した 5 。元亀3年(1572年)1月には、秀吉の不在を好機と見た浅井井寅・赤尾清冬らが横山城の城門まで攻め寄せる事態も発生したが、城兵はこれを撃退し、その堅牢さを見せつけている 5 。
この三年間は、単なる膠着状態ではなかった。秀吉による執拗な圧力は、小谷城の兵站線を徐々に疲弊させ、浅井家臣団の結束を内側から少しずつ蝕んでいった。1573年の浅井氏の急激な崩壊は、この長期にわたる消耗戦の末に引き起こされた、ある種の必然的な帰結だったのである。
第二の拠点・虎御前山城の築城
天正元年の最終攻勢を理解する上で、もう一つの重要な拠点の存在を無視することはできない。前年の元亀3年(1572年)8月、信長は横山城よりもさらに小谷城に肉薄した、まさに目と鼻の先(南へ約500m)に位置する虎御前山に新たな城砦を築かせ、自らの本陣とした 3 。
この虎御前山城の完成により、織田軍の対小谷城戦線は、より攻撃的な二段構えの態勢へと進化した。これにより、各拠点の機能分化が明確になったのである。すなわち、**横山城が「後方支援・兵站維持・調略活動の中心拠点」**としての役割を担い、**虎御前山城が「直接攻撃を指揮する最前線司令部」**として機能する。この緻密に計算された戦略的配置こそが、1573年の電光石火の作戦展開を可能にしたのである。
この横山城主としての三年間は、秀吉のキャリアにおいても決定的な意味を持った。一城の守将に留まらず、防衛、兵站管理、調略、そして限定的な攻勢作戦の指揮といった、方面軍司令官に求められるあらゆる任務を実践で学ぶ貴重な機会となった 5 。信長が彼をこの地に置いたのは、前線での攻撃と拠点防衛という困難な任務を両立できる武将として、その能力を高く評価していた証左に他ならない 5 。この地で得た経験と、北近江の地理・人脈に対する深い知見が、後の彼の飛躍の礎となったのである。
第一部:終焉の序曲 – 小谷城包囲網の完成(天正元年8月8日~8月26日)
三年間にわたる膠着状態は、天正元年8月8日、突如として終焉を迎える。この日からわずか三週間足らずの間に、戦局は雪崩を打って動き出し、浅井・朝倉両氏は滅亡の淵へと突き落とされていく。以下に、その詳細な経過を時系列で示す。
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日付(天正元年) |
主要な出来事 |
関連する城・砦 |
主要な武将(織田方・浅井/朝倉方) |
戦略的意義 |
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8月8日 |
浅井家重臣・阿閉貞征が、守備する山本山城ごと織田方へ寝返る。 |
山本山城 |
織田信長、阿閉貞征 |
小谷城の西側防御線が崩壊。信長、これを好機と捉え、3万の軍勢を率いて即時出陣を決定 10 。 |
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8月9日~10日 |
信長、虎御前山城に着陣。浅井氏の援軍要請に応じ、朝倉義景が2万の軍を率いて小谷城北方へ進出。 |
虎御前山城、小谷城 |
信長、浅井長政、朝倉義景 |
織田軍、小谷城を完全包囲。信長は即座に部隊を派遣し、朝倉軍と小谷城の連絡路を遮断 10 。 |
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8月12日 |
朝倉軍の拠点・大嶽砦の守将・浅見氏が寝返り。信長自ら攻め上がり、大嶽砦は一日で陥落。 |
大嶽砦 |
信長、浅見氏 |
朝倉軍の前線拠点が壊滅。朝倉方の戦意が大きく低下 11 。 |
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8月13日 |
織田軍の猛攻により、丁野山城、中島城などの支城が次々と陥落。同日夜、朝倉義景が越前への総退却を命令。 |
丁野山城、中島城 |
信長、義景 |
朝倉軍の組織的抵抗が終焉。小谷城は完全に孤立無援となる 11 。 |
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8月14日~20日 |
信長、退却する朝倉軍を自ら追撃。刀根坂の戦いで朝倉軍を壊滅させる。17日、一乗谷城を焼き払い、20日、義景自刃。 |
一乗谷城 |
信長、義景、朝倉景鏡 |
名門・朝倉氏が滅亡。小谷城を救う勢力は完全に消滅 10 。 |
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8月26日 |
信長、越前の戦後処理を終え虎御前山城に帰還。全軍に対し、小谷城への総攻撃を命令。 |
虎御前山城 |
信長 |
浅井氏滅亡に向けた最終段階へ移行 10 。 |
この一連の戦況推移は、織田信長の戦術の真骨頂を鮮やかに示している。すなわち、「一点突破からの全面展開」である。信長は、阿閉貞征の寝返りという「一点」の綻びを千載一遇の好機と捉え、電光石火の進軍を開始した。彼の主目標は当初から小谷城そのものではなく、まずその生命線である朝倉の援軍であった。
信長は圧倒的な機動力をもって、小谷城と朝倉軍との連携を物理的に断ち切り、さらに調略を用いて朝倉軍の拠点・大嶽砦を内部から崩壊させた。これにより、朝倉軍は有効な抵抗を行う前に戦略的に敗北を喫していた。そして、退却という最も無防備な状態になった敵軍を、信長は自ら先頭に立って追撃し、徹底的に殲滅した。敵の援軍を完全に排除し、主目標を丸裸にした後、満を持して総攻撃を命じる。この圧倒的な作戦遂行速度と冷徹なまでの決断力が、敵に対応の暇を与えず、わずか三週間弱での二大名家滅亡という驚異的な結果を生み出したのである。
第二部:浅井氏の滅亡 – 小谷城、最後の五日間(天正元年8月27日~9月1日)
天正元年8月26日、信長による総攻撃命令が下され、完全に孤立した小谷城の運命は風前の灯火となった。この最後の攻防において、雌雄を決する重要な役割を果たしたのが、他ならぬ羽柴秀吉であった。
8月27日夜:京極丸の攻防
総攻撃の先鋒という最も名誉ある役目を命じられたのは、この北近江の地を知り尽くした羽柴秀吉であった 11 。秀吉は手勢3,000を率いると、闇夜に乗じて城の防御が手薄と見ていた清水谷のルートから密かに城内へと侵入した。彼の目標は、浅井長政の父・久政が籠る「小丸」と、長政自身が指揮を執る「本丸」とを繋ぐ、城の中枢神経とも言うべき重要区画「京極丸」であった 10 。
秀吉軍の奇襲は完璧に成功した。不意を突かれた京極丸の守備隊約600はたちまち混乱に陥り、激戦の末に秀吉軍がこれを占拠した 10 。この一撃は、小谷城の防御機能を完全に麻痺させる決定的なものであった。父子の連絡と連携は完全に断ち切られ、籠城軍は分断された状態で各個撃破されるのを待つのみとなったのである。
この作戦の成功は、単なる秀吉の武運の強さや兵の勇猛さだけによるものではない。それは、横山城主として過ごした三年間で培われた、小谷城の構造と地理に対する深い知識があったからこそ可能となった、緻密な計算に基づく奇襲であった。どのルートが夜襲に適した間道で、どの区画を制圧すれば城全体の機能を停止させられるか。三年間の絶え間ない観察と情報収集によって蓄積された知見が、この一夜の戦功に結実したのである。
8月28日~9月1日:浅井家の最期
京極丸を確保した秀吉は、返す刀で久政が籠る小丸へと攻撃を開始した。完全に孤立し、援軍の望みも絶たれた久政は、もはやこれまでと覚悟を決め、8月28日(一説には29日)、自刃して果てた 10 。
信長自身も京極丸まで進出し、秀吉に本丸への総攻撃を命じた 11 。本丸に残された長政と約500の兵は、絶望的な状況の中で数日間にわたり最後の抵抗を試みた。しかし、長政にとってそれ以上に重要な使命が残されていた。彼はこの籠城戦の合間を縫って、嫡男・万福丸を密かに城外へ脱出させ、正室である信長の妹・お市の方と三人の娘(後の茶々、初、江)の身柄を織田陣営へ引き渡すための交渉を行った 10 。
家族の安全を確保するという最後の役目を果たした長政は、9月1日、静かに覚悟を決めた。彼は本丸の大広間を退去すると、重臣・赤尾清綱の屋敷に入り、弟の浅井政元ら一族郎党と共に自刃した 10 。享年29。ここに、北近江に三代にわたって覇を唱えた戦国大名・浅井氏は、その歴史に幕を下ろしたのである。
終章:戦後の北近江と横山城の運命
苛烈な戦後処理と秀吉への大抜擢
浅井氏滅亡後、信長が下した処置は苛烈を極めた。元亀元年の金ヶ崎における裏切りを、彼は決して許してはいなかった。浅井久政・長政父子の首は京の獄門に晒された後、薄濃(はくだみ)と呼ばれる漆と金箔を施す加工をされ、諸将に披露されたと伝えられている 9 。また、一度は城外へ逃がされた嫡男・万福丸も捕らえられ、関ヶ原で磔に処された 10 。この徹底した処置は、信長に弓引く者への見せしめという、明確な政治的意図に基づいていた。
一方で、この小谷城攻めにおける最大の功労者である羽柴秀吉は、信長から浅井氏の旧領であった北近江三郡(浅井郡、坂田郡、伊香郡)を与えられた 12 。これは、彼が信長家臣団の一武将から、一国の支配を任される方面軍司令官、すなわち大名へと飛躍する決定的な瞬間であった。
横山城の終焉と時代の転換
北近江の新たな領主となった秀吉は、山城である小谷城や横山城を本拠とすることを選ばなかった。彼は、統治と経済の将来を見据え、琵琶湖の湖上交通の要衝である今浜の地に、新たに長浜城の築城を開始する 10 。そして、城下町の整備に着手し、商工業の振興を図った。この決断は、城郭の役割が、純粋な軍事拠点から、領国経営を支える政治・経済の中心地へと移行しつつあった時代の大きな変化を象徴している。
対浅井氏という戦略目標が消滅し、北近江の新たな中心が長浜に移ったことで、横山城はその歴史的役割を完全に終えた。姉川の合戦から三年余り、織田軍の最前線基地として、そして羽柴秀吉という天下人を飛躍させる揺りかごとして重要な役割を果たしたこの城は、小谷城と共に廃城となり、静かに歴史の舞台から姿を消したのである 13 。
横山城の盛衰は、戦国時代における城郭の役割の変遷そのものを体現している。浅井氏の防衛拠点として生まれ、織田氏の攻略拠点としてその存在価値を最大化し、そして地域の平定と共に新たな経済拠点(長浜城)にその役目を譲って放棄される。この一連のライフサイクルは、戦乱の時代が終わりを告げ、新たな統治の時代へと移行していく日本の大きな歴史の転換点を、一つの城の運命を通して雄弁に物語っている。
引用文献
- 姉川の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%89%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 横山城跡 - 長浜・米原・奥びわ湖を楽しむ観光情報サイト https://kitabiwako.jp/spot/spot_2455
- 第33回 虎御前山城・横山城 - 近江の城めぐり - 出張!お城EXPO in 滋賀・びわ湖 https://shiroexpo-shiga.jp/2020/column/no33.html
- 横山城の見所と写真・300人城主の評価(滋賀県長浜市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/192/
- 【滋賀県】横山城の歴史 浅井氏攻略への王手!秀吉も城番を務めた ... https://sengoku-his.com/955
- BTG『大陸西遊記』~日本 滋賀県 長浜市 ②~ https://www.iobtg.com/J.Nagahama2.htm
- 浅井長政を追って横山城から姉川古戦場へ https://yamasan-aruku.com/aruku-183/
- 横山城の歴史 - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/192/memo/4305.html
- 小谷城の戦い古戦場:滋賀県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/odanijo/
- 小谷城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%B0%B7%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- お城へいざ参ろう! 幸せな記憶と共に消えた悲しみの城 小谷城④ ... https://bmwchofu-blog.tomeiyokohama-bmw.co.jp/12992/
- 其の六・小谷城攻略と浅井氏の滅亡 - 国内旅行のビーウェーブ https://bewave.jp/history/nobunaga/hs000106.html
- 横山城 (近江国) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E5%9F%8E_(%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%9B%BD)
- 小谷城跡をめぐる城々 - 滋賀県 https://www.pref.shiga.lg.jp/file/attachment/2042772.pdf
- 小谷城の歴史 - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/71/memo/4236.html
- 北近江一円を眺望 - 横山城跡 - 米原市 https://www.city.maibara.lg.jp/material/files/group/47/site38.pdf