最終更新日 2025-09-08

横手・増田口の戦い(1590)

横手・増田口の戦いは、1590年の仙北一揆を上杉景勝が鎮圧した戦い。小野寺義道が不在中に発生し、その責任を問われ領地を没収され、宿敵最上義光に与えられた。奥羽仕置による中央集権化と地域対立の激化を象徴する。

天正十八年 横手・増田口の戦い:仙北一揆と奥羽仕置がもたらした出羽の地殻変動

序章:天正後期の出羽国―二強の確執と天下の奔流

天正年間後期、出羽国は大きな転換点を迎えようとしていた。中央では豊臣秀吉による天下統一事業が最終段階に入り、その巨大な政治的・軍事的圧力は、遠く奥羽の地にも及び始めていた。この激動の時代にあって、出羽国の中央部、仙北三郡(雄勝・平鹿・仙北)に広大な勢力圏を築いていた名門・小野寺氏と、山形を拠点に破竹の勢いで版図を拡大していた驍将・最上義光との対立は、地域の勢力図を決定づける焦眉の急となっていた。1590年(天正18年)に発生した「横手・増田口の戦い」は、この両者の長年にわたる確執と、豊臣政権による「奥羽仕置」という二つの巨大な潮流が交錯した地点で発生した、単なる一合戦に留まらない、地域の運命を左右する重大事件であった。

仙北の雄・小野寺氏の系譜と勢力圏

仙北小野寺氏は、その祖を藤原秀郷流山内首藤氏に持つ名門であり、鎌倉時代に源頼朝の奥州合戦における功により、下野国から出羽国雄勝郡の地頭職を得て入部したことに始まる 1 。室町時代には、将軍家に直属する京都御扶持衆としての地位を確立し、鎌倉府の支配に抗する独立した権威を保ち続けた 2 。この中央政権との直接的な結びつきは、周辺の国人領主に対する小野寺氏の優位性を担保する力の源泉であった。

戦国時代に入ると、雄勝・平鹿・仙北の三郡にまたがる広大な領域を支配下に置き、当主・小野寺義道の父である輝道(景道)の代にはその勢力が頂点に達した 4 。居城を稲庭城から沼館城、そして最終的には横手盆地の中心である横手城へと移転させ、領国支配体制を盤石なものとしていた 1 。しかし、義道が家督を継いだ頃には、その栄華にかげりが見え始めていた。

山形の驍将・最上義光の台頭と拡大戦略

一方、最上義光が山形城主として家督を継いだ当初、その支配は最上郡一郡にさえ及ばない不安定なものであった 6 。しかし、家督相続を巡る内紛(天正最上の乱)を乗り越えて家中を掌握すると、義光はその非凡な才覚を発揮し始める。天童頼貞を盟主とする国人領主連合「最上八楯」に対しては、正面からの武力衝突だけでなく、婚姻政策や巧みな調略を駆使して内側から切り崩し、その支配下に組み込んでいった 6

義光の戦略の真骨頂は、得意の謀略による敵勢力の内部攪乱にあった 8 。小野寺氏の支配下にあった鮭延城主・鮭延秀綱を調略によって寝返らせ 7 、上山城主・上山満兼に対しては重臣の里見民部を内応させて城を奪取するなど 6 、その手法は冷徹かつ効果的であった。また、妹・義姫が伊達輝宗に嫁ぎ、伊達政宗の叔父という立場にありながらも、時には政宗と激しく対立し、時には連携するなど、権謀術数を尽くして自らの勢力圏を拡大していった 7

有屋峠の戦い(1586年)に見る両者の根深い対立構造

天正14年(1586年)、両者の対立が決定的となる「有屋峠の戦い」が勃発する。これは、最上氏に寝返った鮭延氏の旧領・真室川を奪還すべく、小野寺義道が最上領へ侵攻したことによって引き起こされた 5

この戦いにおいて、小野寺軍は当初、家中随一の知将と謳われた八柏道為の巧みな用兵によって最上軍を一時後退させるなど善戦した 13 。しかし、体勢を立て直した最上軍の反撃に遭い、最終的には五百余名の死者を出す大敗を喫し、総退却を余儀なくされた 13 。この戦いは、単なる領土紛争に終わらなかった。小野寺氏にとって、かつての被官である鮭延氏の離反は自らの権威を揺るがす重大事であり、威信をかけて臨んだ戦いであった。その敗北は、小野寺氏の軍事的な衰えと、最上氏の優位が明らかになったことを意味していた。最上義光にとって、鮭延氏の受け入れは小野寺氏を挑発し、その力を削ぐための計算された戦略であり、この戦いの結果は、1590年に訪れるさらなる動乱の重要な伏線となったのである。

第一章:奥羽仕置―中央の波、北国を呑む

天正18年(1590年)は、日本の歴史が大きく動いた年であった。豊臣秀吉による小田原北条氏の滅亡は、戦国乱世の終焉を事実上決定づけ、その権力は日本全土に及ぶこととなった。秀吉が次に見据えたのは、これまで中央の支配が完全には及んでいなかった最後の辺境、奥羽地方の平定であった。

豊臣秀吉の小田原征伐と「惣無事令」

秀吉は天正15年(1587年)、九州平定後に「惣無事令」を発布し、関東・奥羽の諸大名に対し、私的な領土紛争を禁じた 14 。これは、大名間の争いの裁定権を豊臣政権に一元化し、天下の秩序を確立しようとする画期的な政策であった。この命令に違反したことが、小田原北条氏討伐の直接的な名分となった 15 。天正18年、20万を超える大軍が小田原城を包囲し、天下の趨勢は完全に定まった。この「小田原征伐」こそが、奥羽地方の旧来の勢力図を根底から覆す「奥羽仕置」の序曲だったのである。

小野寺義道の小田原参陣と不在の領国

奥羽の諸大名もまた、秀吉への服属か、滅亡かの選択を迫られた。仙北の小野寺義道は、時勢を読み、秀吉の命令に応じて小田原へ参陣した 17 。この恭順の意を示したことにより、義道は父祖伝来の所領を安堵され、豊臣政権下の大名として存続することを許された。

しかし、この選択は皮肉な結果をもたらす。義道は小田原での戦後処理の後、そのまま上洛しており、天正18年の夏から秋にかけて、本拠地である仙北地方は長期間にわたり当主不在という、極めて脆弱な状態に置かれることになった 18 。豊臣大名として生き残るための唯一の道であったはずの参陣が、結果的に自らの領国の危機を招き寄せることになったのである。中央政権の支配がまだ完全に浸透していない奥羽の地において、領主の不在は権力の空白を生み、急進的な改革が強行された時、その不満の受け皿を失わせる致命的な要因となった。

太閤検地の開始:上杉景勝と大谷吉継の出羽入り

小田原征伐を終えた秀吉は、間髪入れずに奥羽地方の支配体制を再編する「奥羽仕置」に着手した 15 。その政策の根幹をなしたのが、全国統一の基準で石高を算出し、新たな支配秩序を構築するための「太閤検地」であった。

天正18年7月、秀吉は越後の大名・上杉景勝に対し、腹心の大谷吉継を軍監として付け、出羽国の庄内、最上、由利、そして小野寺領である仙北の検地を厳命した 18 。さらに8月10日、会津黒川城(後の会津若松城)に入った秀吉は、検地に対するいかなる抵抗も許さず、反抗する者は苛烈に処分することを認める朱印状を発給した 20 。これは、太閤検地が単なる土地調査ではなく、地域の伝統的な支配構造を根本から覆し、豊臣政権の絶対的な支配を確立するための政治的行為であることを、奥羽の諸勢力に明確に突きつけるものであった。小野寺義道不在の仙北地方に、中央から派遣された検地役人と大軍が足を踏み入れた時、動乱の幕は静かに上がった。

第二章:仙北動乱―横手・増田口の烽火(ほうか)

小野寺義道不在の領国に強行された太閤検地は、在地武士や農民の間に蓄積されていた不安と不満を一気に爆発させた。これが世に言う「仙北一揆」であり、その鎮圧戦、特に増田城をめぐる攻防こそが「横手・増田口の戦い」の実態であった。


【表1】横手・増田口の戦い(仙北一揆)関連年表(1590年)

月日

場所

出来事の概要

主要な関連人物・勢力

8月中旬

仙北地方

太閤検地着手。城破却令(35か城)、武具狩りを強行。

大谷吉継、上杉景勝

9月下旬

仙北・由利地方

検地に反対する第一次一揆蜂起。増田・山田・川連城に籠城。

仙北の国人・農民

10月初旬

六郷

大谷吉継配下と農民が衝突。検地役人50-60名が殺害され、一揆が再燃。

大谷勢、仙北の農民

10月14日

増田城

上杉景勝、1万2千の兵を率いて増田城へ総攻撃を開始。

上杉景勝、鍋倉四郎

10月中旬

浅舞・柳田

上杉軍、増田城の周辺拠点を次々と攻略し、増田城を孤立させる。

上杉景勝

10月下旬

増田城

激戦の末、増田城陥落。一揆勢の首1,580が討ち取られ、鎮圧完了。

上杉景勝、藤田信吉

10月20日

三崎山

帰路の上杉景勝軍が庄内一揆勢の要撃を受ける。

上杉景勝、庄内一揆勢


【前哨】1590年8月~9月下旬:検地と抵抗の萌芽

検地奉行として仙北に入った豊臣方の軍勢は、大谷吉継が横手城に、上杉景勝が西の大森城にそれぞれ本陣を置いた 20 。彼らは検地の実施と並行して、在地勢力の軍事力を骨抜きにするため、領内の城35か所の破却と、農民や地侍が所有する武器を没収する「武具狩り」を強行した 20

これは、土地の支配権という経済的基盤だけでなく、武士としての地位や誇り、そして地域社会の自治そのものを根底から覆すものであった。先祖代々受け継いできた所領を竿と縄で測られ、石高という新たな基準で価値を定められることへの抵抗感は、国人や地侍、そして農民の間に急速に広がっていった 15

9月下旬、検地が一通り終了し、上杉景勝が越後へ帰国の途につこうとした矢先、ついに最初の火の手が上がる。増田、山田、川連といった地域の古城に、検地に反対する者たちが数千人(一説には2万4千人)規模で立てこもり、第一次蜂起が発生した 20 。景勝はこの蜂起を一旦は鎮圧したものの、それは嵐の前の静けさに過ぎなかった。根本的な不満の火種は、より大きな炎となって燃え上がる機会を待っていた。

【戦闘序列】参戦勢力の分析

この動乱における各勢力の構成は、戦いの様相を理解する上で極めて重要である。


【表2】主要参戦勢力の兵力比較

勢力

総大将/指導者

主要武将

推定兵力

兵力の性質・特徴

一揆勢

鍋倉四郎 ほか

(在地領主の連合)

約2,000 - 24,000

国人、地侍、農民からなる混成軍。郷土防衛の士気は高いが、統制と装備に劣る。

豊臣方鎮圧軍

上杉景勝、大谷吉継

色部長真、藤田信吉

約12,000以上

豊臣政権の正規軍。鉄砲など最新装備と高度な戦術能力を持つ、当時最強クラスの軍団。

周辺勢力(最上氏)

最上義光

楯岡満茂、鮭延秀綱

(直接介入せず)

小野寺氏の弱体化を狙い、事態を静観。漁夫の利を狙う戦略的位置にあった。


一揆勢は、小野寺氏の一門である鍋倉四郎らに率いられていたものの、その実態は地域の存亡をかけて立ち上がった国人、地侍、農民の連合体であった 5 。彼らは土地に根差したゲリラ的な戦術には長けていたが、組織的な統制や兵站、そして何よりも鉄砲などの最新兵器の質と量において、鎮圧軍に大きく劣っていた。

対する豊臣方鎮圧軍は、当代随一の実力者である上杉景勝が率いる精鋭部隊であった。彼らは数々の戦歴を誇る歴戦の兵であり、組織的な運用能力と圧倒的な火力を有していた。この両者の間には、埋めがたい質の差が存在した。そして、この戦いの「見えざるプレイヤー」が最上義光であった。彼は直接軍事介入こそしなかったものの、隣国で起きたこの大混乱を、宿敵・小野寺氏を弱体化させる絶好の機会と捉え、固唾を飲んで事態の推移を見守っていたのである。

【本戦】1590年10月:増田城攻防戦

10月に入り、事態は急展開を迎える。横手盆地中部の六郷において、検地の縄入れを巡って大谷吉継の配下と農民が衝突。大谷勢が威嚇のために農民数名を斬殺したところ、これに激昂した人々が蜂起し、逆に大谷の家臣50名から60名を殺害するという事件が発生した 20

この「六郷事件」が引き金となり、一揆の炎は仙北全域に一気に燃え広がった。小野寺一門の鍋倉四郎を指導者として、2千余の一揆勢が地域の要衝である増田城に籠城 5 。彼らは周辺から集結する一揆勢と連携し、鎮圧軍を包囲殲滅しようという気概さえ見せた。

事態の深刻さを悟った上杉景勝は、もはや座視できないと判断。10月14日、大谷吉継の軍勢を後詰めとして大森城に残し、自ら1万2千の主力軍を率いて増田城への総攻撃を開始した 20

上杉軍の戦術は的確であった。まず、一揆勢の連携を分断するため、増田城の周辺拠点である浅舞、柳田、川連、山田などを次々と攻略し、増田城を完全に孤立させた 20 。孤立無援となった増田城では、鍋倉四郎以下の籠城兵が必死の抵抗を見せた。その戦いは熾烈を極め、鎮圧軍である上杉方にも死者200余、負傷者500余という決して少なくない損害が出た 20

しかし、兵力、装備、戦術、兵站の全てにおいて勝る正規軍の前に、一揆勢の抵抗も限界があった。最終的に上杉軍は城を攻略、一揆勢の首は1,580を数えたと記録されている 20 。鎮圧後、増田城は上杉家臣の藤田信吉が接収し、一揆勢から押収された大量の武器は、豊臣政権の権威の象徴として大森城に集められた 20 。この鎮圧戦には、地域の他の領主である本堂氏や由利衆も鎮圧軍側として参加しており、彼らにとっては豊臣政権への忠誠を示すための「踏み絵」としての意味合いも持っていたのである 20

第三章:裁定―勝者と敗者の岐路

仙北地方を揺るがした大一揆は、上杉景勝の圧倒的な軍事力の前に鎮圧された。しかし、戦いの終わりは、新たな政治的駆け引きの始まりを意味していた。豊臣政権による戦後処理、すなわち「裁定」は、出羽国の勢力図を決定的に塗り替え、勝者と敗者の運命を大きく分かつことになった。

仙北一揆の責任:小野寺義道への咎め

豊臣政権にとって、一揆の発生そのものが、その土地を治める領主の統治能力の欠如を示すものであった。小田原参陣と上洛のため領国を不在にしていた小野寺義道は、この「仙北一揆」を防げなかった責任を厳しく問われることになった 5 。義道の嫡男であった光道が、この一揆の混乱の最中に自害したという伝承も残っており 5 、この事件が小野寺家にもたらした衝撃の大きさを物語っている。義道が豊臣大名として生き残るために果たした忠勤が、結果として自らの領国統治の失敗と見なされるという、極めて皮肉な状況に追い込まれたのである。

所領三分の一の没収と最上義光への割譲

裁定の結果は、小野寺氏にとって過酷なものであった。小野寺氏が安堵されていた所領(上浦郡)のうち、3分の1が没収されるという厳しい処分が下された 4

そして、その没収された領地、すなわち一揆の中心地であった雄勝郡(湯沢・増田周辺)が、あろうことか長年の宿敵である最上義光に与えられることが決定した 4 。これは、奥羽仕置に際して秀吉への恭順な態度を貫き、自領を安定させていた義光の功績に対する恩賞という側面があった。

しかし、この裁定の背後には、豊臣秀吉の巧みな統治戦略が隠されていた。奥羽の有力大名である小野寺、最上、伊達といった勢力を互いに牽制させ、その力を削ぐことで中央の支配を盤石にする「分断統治」政策である。小野寺氏から取り上げた土地を、最大のライバルである最上氏に与えることで、両者の対立はもはや解消不可能な、永続的なものとなる。これにより、両者は互いへの警戒と紛争に力を注がざるを得なくなり、豊臣政権に反旗を翻す余力を失う。秀吉は、自ら直接手を下すことなく、在地勢力間の対立構造を巧みに利用し、増幅させることで、奥羽全体の支配を安定させようとしたのである。この意味において、1590年の戦いの真の勝者は、戦場に姿を見せることすらなかった最上義光と、さらにその盤面を支配していた豊臣秀吉であったと言える。

奥羽仕置の完了と新たな領土紛争の火種

一揆鎮圧後も、上杉家臣の色部長真が大森城にしばらく駐留し、仙北地方の統制を続けた 20 。これは、もはや出羽国が在地領主の自由裁量で治められる土地ではなく、中央政権の厳格な監視下にあることを示す象徴的な措置であった。

小野寺義道にとって、父祖伝来の地であり、一族の勢力の根幹であった雄勝郡を最上氏に奪われたことは、到底承服できるものではなかった。彼は裁定を不服とし、雄勝郡に対する実効支配を続けようと試みた 4 。これにより、これまで地域的な紛争であった小野寺・最上の対立は、豊臣政権の公的な裁定という新たな次元に引き上げられ、より根深く、解決困難な紛争の火種として、この地に遺されることになったのである。

終章:遺された確執―関ヶ原への序曲

天正18年(1590年)の「横手・増田口の戦い」、すなわち仙北一揆とその後の裁定は、出羽国における小野寺氏と最上氏の力関係を決定的に変えた。それは単発の事件ではなく、仙北の名門・小野寺氏が没落へと向かう長い道のりの、まさに序曲であった。

湯沢城をめぐる新たな攻防(1595年~)

豊臣政権から雄勝郡を与えられた最上義光は、その支配を現実のものとするため、文禄4年(1595年)、重臣の楯岡満茂を大将とする軍勢を派遣した。目標は、小野寺方が依然として保持していた雄勝郡の中心拠点・湯沢城であった。最上軍はこれを攻略し、楯岡満茂を城主として配置した 11 。これを皮切りに、岩崎合戦(文禄4年)や大島原の合戦(慶長2年)など、失地回復を目指す小野寺氏と、支配を固めようとする最上氏との間で、血で血を洗う激しい戦闘が繰り返されることになった 17

知将・八柏道為の暗殺と小野寺氏の弱体化

攻防が続く中、最上義光は武力だけでは小野寺氏を屈服させることは難しいと判断し、得意の謀略に訴えた。義光は、小野寺氏攻略の最大の障壁が、家中随一の知謀の将と恐れられた八柏道為であると見抜いていた 23

文禄4年(1595年)、義光は「八柏道為が最上家に内通している」という内容の偽の書状を巧みに作成し、小野寺義道の元へ届くように仕向けた 5 。度重なる敗戦と領土の喪失で疑心暗鬼に陥っていた義道は、この謀略に完全にはまってしまう。そして、自らの最も信頼すべき柱石であったはずの道為を横手城に呼び出し、大手門前の橋の上で配下に命じて誅殺するという、取り返しのつかない過ちを犯した 5 。知将・道為を失った小野寺氏は、組織的な抵抗力を著しく低下させ、その衰退は誰の目にも明らかなものとなった 13

1590年の戦いが決定づけた小野寺氏の没落と最上氏の飛躍

仙北一揆とその後の領土裁定は、小野寺氏の弱体化と最上氏の優位を決定づけた。この一連の出来事がなければ、義道が猜疑心から道為を殺害するという悲劇も、その後の最上氏による一方的な領土侵食もなかったかもしれない。1590年の事件は、両者の間にあった対立の質を、回復不可能な憎悪へと変質させたのである。

この根深い確執は、天下分け目の戦いである慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」へと直結する。小野寺義道は、東軍に与した最上義光を討ち、旧領を奪還するという積年の悲願を果たすため、西軍の石田三成や上杉景勝と結んだ 4 。しかし、関ヶ原での西軍本隊の敗北により、その望みは断たれる。戦後、義道は西軍に与したことを咎められ、全所領を没収されて改易。一族は石見国津和野へ流罪となり、ここに戦国大名としての小野寺氏は滅亡した 2

結論として、「横手・増田口の戦い」とは、豊臣政権による中央集権化の波が、出羽国の地域的な対立構造と結びついて発生した大規模な動乱であった。この戦いとその裁定を通じて、最上義光は勢力を飛躍させ、後の57万石の大大名への道を切り開いた。一方で、名門・小野寺氏は領土と人材を失い、回復不可能な衰退の道を歩み始めた。それは、戦国乱世の終焉期において、時代の変化に適応した者と、それに乗り遅れた者の運命を象徴する、分水嶺となる事件であったと言えるだろう。

引用文献

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  4. 小野寺義道 - 仙北小野寺氏の城館 https://senboku-onodera.sakura.ne.jp/photo4003.html
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