最終更新日 2025-08-30

横手城の戦い(1600)

慶長五年、関ヶ原に連動し、小野寺義道は宿敵最上義光への復讐のため西軍に内通。東軍勝利で孤立し横手城を開城。小野寺氏は滅亡、最上氏が覇権確立。奥羽の勢力図が塗り替えられた。

慶長五年 奥羽の激震:横手城、落日の刻―ある戦国大名の終焉―

序章:慶長出羽合戦前夜―仙北の雄・小野寺氏と山形の驍将・最上氏、積年の確執

慶長5年(1600年)に勃発した「横手城の戦い」は、関ヶ原の戦いという天下分け目の大局に連動しつつも、その根底には出羽国(現在の秋田県・山形県)における地域的な力学と、二人の武将の間に横たわる長年の深い確執が存在した。この戦いは単発の軍事衝突ではなく、積年の怨恨が天下の動乱を機に噴出した、必然的な帰結であった。

仙北小野寺氏の出自と勢力圏

戦いの主役の一方である小野寺氏は、その出自を鎌倉時代にまで遡る名門である 1 。源頼朝による奥州合戦の功により出羽国雄勝郡の地頭職を得て以来、この地に根を張り、戦国時代には仙北三郡(平鹿・雄勝・仙北)を支配する有力な戦国大名として君臨していた 3 。その本拠地である横手城は、広大な横手盆地の中心に位置する朝倉山に築かれ、東に奥羽山脈を天然の要害とし、西を流れる横手川を外堀とする、攻守に優れた戦略的拠点であった 5 。鎌倉以来の名門としての自負と、この要害に守られた独立性は、小野寺氏の精神的支柱となっていた。

最上義光との宿怨の構造

しかし、16世紀後半、山形城を拠点に勢力を急拡大する最上義光の存在が、小野寺氏の安寧を脅かし始める。羽州探題としての権威回復を目指す義光は、その矛先を北に向け、小野寺領への侵攻を繰り返した 5 。天正年間(1573年-1592年)以降、両者の間では領地を巡る武力衝突が頻発し、小野寺氏は次第にその勢力圏を蚕食されていく 8

特に文禄4年(1595年)以降、最上軍の攻勢は激化する。最上方の将・楯岡満茂(たておかみつしげ)の活躍により、小野寺氏の重要拠点であった湯沢城や岩崎城が次々と攻略され、小野寺氏の領土は大きく削り取られた 9 。度重なる敗戦と領土の喪失は、横手城主・小野寺義道の中に、宿敵・最上義光に対する消し難い憎悪と屈辱感を植え付けた 8 。この個人的な「宿怨」こそが、慶長5年という決定的な局面において、義道の戦略的判断を合理性から遠ざけ、感情的な復讐へと駆り立てる最大の要因となるのである。この戦いの本質を理解するためには、領土紛争という側面だけでなく、名門大名のプライドを賭けた義道の個人的な感情の交錯を看過することはできない。

第一部:内憂外患―崩れゆく小野寺家の礎

慶長出羽合戦に至る直前、小野寺氏は最上氏からの軍事的圧力という「外患」だけでなく、深刻な「内憂」にも苛まれていた。その根源には、敵将・最上義光の巧みな謀略があった。物理的な戦闘が始まる以前に、情報戦の段階で小野寺氏の屋台骨は既に蝕まれていたのである。

最上義光の謀略:重臣・八柏道為の誅殺

最上義光にとって、小野寺氏攻略における最大の障害は、家中随一の知将と謳われた重臣・八柏道為(やがしわみちため)の存在であった 10 。義光は、武勇に優れるも知略に乏しいと評された小野寺義道の性格的弱点を見抜き、正面からの激突を避け、内部からの切り崩しを図った 11

義光は偽の書状を用いるなどして、「八柏道為が最上氏に内通している」という偽情報を流し、主君・義道の猜疑心を煽る謀略を仕掛けた 12 。この巧妙な罠に嵌った義道は、事実関係を冷静に精査することなく、自らの最も有能で忠実な家臣である道為を誅殺するという、致命的な過ちを犯してしまう。この悲劇は文禄3年(1594年)頃の出来事とされ、小野寺氏の運命を大きく暗転させる転換点となった。

家臣団の動揺と小野寺氏の凋落

組織の頭脳とも言うべき八柏道為の死は、小野寺家中に深刻な動揺と疑心暗鬼を蔓延させた。誰が味方で誰が敵か分からぬ状況は、家臣団の結束力を著しく低下させ、組織としての戦略立案能力を完全に麻痺させた 13 。この内部崩壊は、直後の軍事行動に即座に影響を及ぼす。道為誅殺後、最上軍が湯沢城に攻め寄せた際、義道は疑心暗鬼から援軍の派遣が遅れ、結果として湯沢城、岩崎城といった要衝を立て続けに失うことになった 13

つまり、横手城の戦いは、物理的な包囲が始まる数年前に、八柏道為が義道自身の刀によって葬られた時点で、その敗北が実質的に決定づけられていたと言える。情報戦における完敗が、軍事的な敗北を不可避なものとしたのである。

第二部:決断の刻―小野寺義道、西軍に与す

天下の趨勢が徳川家康率いる東軍と石田三成を中心とする西軍に分かれつつあった慶長5年、小野寺義道は、その後の運命を決定づける重大な岐路に立たされた。彼の決断は、天下国家を論じる大局的な視点からではなく、あくまで宿敵・最上氏への復讐という、極めて地域的かつ個人的な動機によって下された。

東軍参加という建前と西軍への内通

当初、義道は他の多くの奥羽諸将と同様、徳川家康による会津の上杉景勝征伐に参加する東軍の一員とみなされていた 8 。しかし、慶長5年7月、家康が石田三成の挙兵に応じて軍を西へ反転させると、奥羽の情勢は一変する。上杉氏の圧力を正面から受けることになった最上義光は、突如として孤立無援の窮地に陥った 15

この状況を、義道は長年の宿怨を晴らす千載一遇の好機と捉えた。彼は、表向きは東軍に属しながら、水面下で西軍の総帥格である上杉景勝と密約を交わし、最上領を背後から突くことで失地回復を図るという、危険な賭けに出ることを決断した 11

軍事行動の開始:最上領・湯沢城への侵攻

慶長5年9月8日、直江兼続率いる上杉軍本隊が最上領への侵攻を開始すると、それに呼応する形で小野寺義道も軍を発した 15 。その目標は、かつて最上氏に奪われた旧領の玄関口、湯沢城であった。義道は湯沢城を包囲し、攻撃を開始する 15

しかし、この初動は義道の思惑通りには進まなかった。湯沢城を守る最上方の猛将・楯岡満茂は、小野寺軍の攻撃を巧みに防ぎ、その侵攻を遅滞させたのである 9 。この足止めは、結果的に最上軍が防衛体制を整えるための貴重な時間を与えることになった。義道の行動は、あくまで「対最上」という局地的な復讐戦であったが、その成否は遠く美濃国で繰り広げられる「関ヶ原」という、彼自身が全く関与できない全国規模の政変の結果に完全に依存していた。この戦略的視野の狭さが、彼の悲劇を決定的なものとする。

【表1】慶長出羽合戦における主要勢力相関図

勢力

主要武将

所属

兵力(推定)

対立/協力関係

典拠

上杉氏

上杉景勝, 直江兼続

西軍

25,000

最上・伊達と敵対。小野寺を懐柔。

15

最上氏

最上義光

東軍

7,000

上杉と敵対。小野寺と長年の宿敵。

15

伊達氏

伊達政宗

東軍

3,000(援軍)

東軍として最上を支援するも、静観する側面も。

11

小野寺氏

小野寺義道

当初東軍→西軍へ寝返り

3,000-4,000

最上と敵対。上杉に呼応。

8

秋田氏

秋田実季

東軍

不明

東軍として家康の指示を受けるが、最上とは確執。

15

第三部:合戦詳報:横手城の戦い―包囲から開城に至る時系列の再構築

小野寺義道の運命を賭した軍事行動は、関ヶ原における西軍の電撃的な敗北によって、その前提を根底から覆される。ここから横手城の落城まで、戦況はリアルタイムで劇的に変化していく。それは、もはや合戦というよりも、周到に準備された「掃討戦」の様相を呈していた。

【表2】横手城の戦い 詳細年表

年月日(慶長5年)

主要な出来事

関連勢力

根拠

9月8日

直江兼続、最上領へ侵攻開始(慶長出羽合戦 勃発)

上杉、最上

15

9月15日

関ヶ原の戦い、東軍勝利

徳川、石田

15

9月中旬

小野寺義道、上杉に呼応し最上領・湯沢城を攻撃

小野寺、最上

15

9月29日

直江兼続、関ヶ原の敗報を知る

上杉

15

10月1日

上杉軍、最上領から撤退開始。最上軍が追撃

上杉、最上

15

10月下旬

最上軍、小野寺領へ反攻開始。支城の攻略を進める

最上、小野寺

10

11月

秋田実季らも小野寺領へ侵攻。横手城、完全に孤立

秋田、小野寺

15

11月下旬

小野寺義道、降伏。横手城を開城

小野寺、最上

21

第一節:攻守逆転―関ヶ原の報と最上軍の反攻(慶長5年9月29日~10月下旬)

慶長5年9月29日、最上領の長谷堂城を包囲していた上杉軍総大将・直江兼続のもとに、9月15日の関ヶ原本戦における西軍壊滅という衝撃的な報せが届く 15 。この一報は、慶長出羽合戦の全ての前提を覆した。上杉軍の後ろ盾を失った小野寺義道の立場は、最上氏への攻撃者から、一転して東軍への裏切り者へと変わった。

10月1日、上杉軍が米沢への困難な撤退を開始すると、これまで防戦一方であった最上軍は猛然と追撃に転じた 15 。最大の脅威であった上杉軍が去ったことで、最上義光は全軍の矛先を、積年の宿敵であり、この窮地に裏切りを敢行した小野寺義道への報復に向けることが可能となったのである。

第二節:孤立無援―横手城包囲網の形成(10月下旬~11月上旬)

攻守は完全に入れ替わった。最上軍は上杉軍を領内から駆逐すると、間髪入れずに小野寺領へと逆侵攻を開始した。その動きは迅速かつ組織的であった。まず、義道の弟・康道が守る大森城をはじめ、横手城を取り巻く支城群に次々と攻撃を仕掛け、小野寺氏の防衛網を外側から systematic に解体していった 10

さらに、徳川家康の指示を受けた東軍方の秋田実季や由利衆も、小野寺領への攻撃を開始する 15 。これにより、小野寺義道は北と南から敵の挟撃を受ける形となり、完全に孤立無援の状態に陥った。かつて小野寺方に属していた国人たちも、西軍敗北の報を受けて次々と最上氏に寝返り、あるいは降伏し、仙北の雄であった小野寺氏は、本拠地・横手城を残すのみの裸城同然の姿に追い込まれていった 10

第三節:籠城の日々―城内の抵抗と絶望(11月中旬~下旬)

11月に入ると、最上軍はついに小野寺氏の本拠地・横手城を完全に包囲した 21 。しかし、この籠城戦は、もはや組織的な抵抗とは呼べないものであった。城内の兵士たちの士気は、西軍敗北、援軍の途絶、そして周辺支城が次々と陥落していくという絶望的な報せによって、完全に打ち砕かれていたと推察される。

かつて家中を支えた知将・八柏道為は、義道自身の手によってこの世にいない。この絶望的な状況を打開する奇策を献じる者は、城内には誰一人として存在しなかった。籠城は、ただ滅亡の時を待つだけの、静かな絶望に包まれていた。最上義光にとってこの戦いは、単なる軍事行動以上に、戦後の徳川体制下における自らの地位を磐石にするための「功績作り」という、極めて政治的な意味合いを帯びていた。家康に背いた裏切り者を自らの手で討伐するという実績は、恩賞交渉において絶大な効果を発揮するからである。横手城の包囲は、新たな時代の秩序を構築するための、一つの儀式であった。

第四節:落日の決断―義道の降伏と横手城開城(11月下旬)

これ以上の抵抗が将兵の命を無為に失わせるだけであると悟った小野寺義道は、ついに決断を下す。慶長5年11月下旬、義道は最上軍からの降伏勧告を受け入れ、横手城の城門を開いた 21 。身柄は最上氏に預けられ、ここに鎌倉時代から約400年にわたり仙北の地を治めた戦国大名・小野寺氏の歴史は、事実上の終焉を迎えた。

第四部:戦後処理と仙北小野寺氏の終焉

横手城の開城は、一つの戦いの終わりであると同時に、新たな時代の始まりを告げるものであった。戦後の処理において、勝者と敗者の運命は、あまりにも対照的な形で示されることとなる。

小野寺義道の配流と一族のその後

慶長6年(1601年)、徳川家康の裁定により、小野寺義道は改易、全領地没収の上、石見国津和野(現在の島根県)への配流を命じられた 8 。これにより、戦国大名としての仙北小野寺氏は完全に滅亡した。義道は配流先で正保2年(1645年)に80歳の生涯を閉じたと伝わる 11

しかし、小野寺一族の血脈が完全に途絶えたわけではない。義道の子孫の一部は、配流先の津和野藩主亀井氏や、かつての家臣筋であった新庄藩主戸沢氏に仕官するなどして、武士としての家名を後世に伝えている 4

横手城の新たな主

一方、勝者となった最上義光は、この戦いにおける功績を家康から高く評価された。上杉領であった庄内地方の領有を認められたことに加え、小野寺氏の旧領も与えられ、その石高は一挙に57万石に達した 15 。横手城も一時的に最上氏の支城となった 25

その後、元和8年(1622年)に最上氏が改易されると、横手城を含むこの地は、常陸国から転封された佐竹義宣の久保田藩領となる。横手城は久保田藩の南部における最重要拠点と位置づけられ、一国一城令の例外として存続を許され、明治維新に至るまでその役割を果たし続けた 3

総括:横手城の戦いが奥羽の勢力図に与えた影響

慶長5年の横手城の戦いは、単に一つの大名家が滅亡したというだけの出来事ではない。それは、関ヶ原の戦いがもたらした徳川の新しい政治秩序が、遠く離れた奥羽の地にまで徹底され、この地域の勢力図を根本的に塗り替えたことを象徴する画期的な事件であった。

この一連の戦いの結果、最上義光は生涯最大の57万石の大大名へと飛躍を遂げ、出羽における覇権を確立した 15 。一方で、上杉景勝は120万石から米沢30万石へと大幅に減封され、小野寺義道は改易、そして最上氏を支援した伊達政宗でさえ、戦後の論功行賞では期待したほどの加増を得られなかった。

奥羽の諸大名の運命は、彼らの軍事行動そのものよりも、最終的に徳川家康の意向によって決定づけられた。その意味で、横手城の戦いは、戦国乱世の論理が終焉を迎え、徳川幕府による新たな支配体制が確立していく過程を、奥羽という舞台において鮮やかに映し出したのである。小野寺義道の悲劇は、中央の情勢を見誤り、個人的な宿怨に固執した地方大名が、時代の大きなうねりの中で淘汰されていく姿を、後世に伝えている。

引用文献

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  2. 新・小野寺盛衰記 小野寺氏概説 http://www.kit.hi-ho.ne.jp/m210/sinonoderaseisuiki/onoderashi_gaisetsu.htm
  3. 出羽國 横手城 (秋田県横手市 - FC2 http://oshiromeguri.web.fc2.com/dewa-kuni/yokote/yokote.html
  4. 仙北小野寺氏について https://senboku-onodera.sakura.ne.jp/profile1.html
  5. 横手城(日本の城 東北地方)/ホームメイト https://www.homemate-research-castle.com/useful/10495_castle/list/tohoku/yokote/
  6. 横手城 - 秋田の魅力発信サイト あきじん https://akijin.jp/culture-history/1115/
  7. 1550頃 小野寺氏が現在地に朝倉城 (横手城)を築き本拠と - する https://www.city.yokote.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/004/531/000126427.pdf
  8. 小野寺義道 - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/jin/OnoderaYoshimichi.html
  9. 最上家の武将たち:戦国観光やまがた情報局|山形おきたま観光協議会 https://sengoku.oki-tama.jp/?p=log&l=149233
  10. 武家家伝_小野寺氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/onotera.html
  11. 裏切りの果てに…「関ヶ原の戦い」で寝返った戦国武将たちのその後【東軍編】 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/227749
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  13. 横手城 よこてじょう - 奥羽古城散策 http://www.ne.jp/asahi/saso/sai/castle/akita/yokotejo/yokotejo.html
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  16. 横手市 横手城の歴史と史跡をご紹介! - KABUOのぶらり旅日記 https://www.yamagatakabuo.online/entry/2023/04/20/%E6%A8%AA%E6%89%8B%E5%B8%82_%E6%A8%AA%E6%89%8B%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%A8%E5%8F%B2%E8%B7%A1%E3%82%92%E3%81%94%E7%B4%B9%E4%BB%8B%EF%BC%81%F0%9F%8F%AF
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  19. 上杉家と最上家、そして伊達家の慶長出羽合戦について語ろうぞ - さんたつ by 散歩の達人 https://san-tatsu.jp/articles/344710/
  20. 北の関ヶ原、長谷堂合戦 家康に天下を取らせた戦い | My favorite things about Yamagata https://my-favorite-things-about-yamagata.com/togo/%E5%8C%97%E3%81%AE%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%80%80%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%A0%82%E5%90%88%E6%88%A6/
  21. 身柄を預けられた。十二月十七日、義光は志村光安に https://www.kinokuniya.co.jp/banner/9784490109214_contents.pdf
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  23. 出羽 横手城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/dewa/yokote-jyo/
  24. 1600 慶長出羽合戦: WTFM 風林火山教科文組織 https://wtfm.exblog.jp/14825145/
  25. 横手城(秋田県横手市)の詳細情報・口コミ | ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/castles/750
  26. 横手城の見所と写真・400人城主の評価(秋田県横手市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/151/