最終更新日 2025-09-04

横須賀城の戦い(1580)

天正八年、徳川家康は横須賀城を拠点に高天神城を攻囲。信長の命を受け、武田勝頼に味方を見殺しにさせる政治的罠を仕掛けた。翌年、高天神城は落城し、武田氏滅亡の引き金となった。

遠州灘の攻防:横須賀城の戦い(1580)と高天神城失陥の全貌

序章:遠江を巡る両雄の確執 ― 武田と徳川、雌雄を決する舞台

日本の戦国時代、数多の武将が天下統一の夢を抱き、各地で熾烈な争いを繰り広げた。その中でも、甲斐の武田氏と三河の徳川氏による遠江国(現在の静岡県西部)を巡る攻防は、戦国後期の勢力図を決定づける上で極めて重要な意味を持つ。本報告書で詳述する「横須賀城の戦い」は、この長きにわたる抗争の一局面に過ぎないが、その実態は、徳川家康が高天神城を巡る屈辱を晴らし、宿敵・武田勝頼を滅亡へと追い込むための、周到に計画された一大戦略の帰結点であった。

その発端は、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いに遡る。この戦いで今川義元が織田信長に討たれたことで、駿河・遠江・三河の三国に覇を唱えた今川氏の権勢は急速に衰退した 1 。この権力の空白地帯を好機と見た甲斐の武田信玄と、今川氏から独立を果たした三河の徳川家康は、永禄11年(1568年)、大井川を境として今川領を分割する密約を結び、東西から同時侵攻を開始した 3 。しかし、この協力関係は長続きしなかった。信玄が密約を反故にして遠江深くまで侵攻したことで両者の同盟は決裂し、遠江は武田と徳川がその存亡を賭けて激突する最前線へと変貌したのである 3

この遠江支配の鍵を握る戦略的要衝が、高天神城であった。遠江と駿河の国境に聳えるこの城は、天然の地形を巧みに利用した難攻不落の山城であり、「高天神城を制する者は遠江を制する」と謳われるほど、軍事上、極めて重要な拠点であった 6 。徳川氏にとっては遠江支配を盤石にするための楔であり、武田氏にとっては悲願である西上作戦の足掛かりとなる、まさに両者にとって一歩も譲れぬ天王山であった。

元亀3年(1572年)、武田信玄は大軍を率いて西上を開始し、三方ヶ原の戦いで徳川家康を完膚なきまでに打ち破った。家康は生涯最大の敗北を喫し、徳川氏は滅亡の淵に立たされたが、翌元亀4年(1573年)に信玄が病で急死したことにより、九死に一生を得る 6 。そして天正3年(1575年)、信玄の後を継いだ武田勝頼と、織田信長の支援を受けた徳川・織田連合軍が三河の長篠で激突する。この長篠の戦いで武田軍は壊滅的な大敗を喫し、両者の力関係は劇的に逆転した 6 。この勝利を契機に、家康は守勢から攻勢へと転じ、遠江における失地回復、すなわち武田の手に落ちた高天神城の奪還という壮大な作戦を開始するのである。

第一章:高天神城、武田の手に ― 徳川の屈辱と勝頼の名声(天正二年)

長篠の戦いで攻守が逆転する以前、徳川家康は高天神城を巡って生涯忘れ得ぬ屈辱を味わっていた。天正2年(1574年)に勃発した第一次高天神城の戦いは、後の家康の戦略に決定的な影響を与えることになる。

第一次高天神城の戦いと家康の苦境

父・信玄の西上作戦を継承した武田勝頼は、天正2年(1574年)、2万5千と号する大軍を動員し、遠江における徳川方の最重要拠点である高天神城に殺到した 1 。対する城方は、城主・小笠原氏助(軍記物では長忠とも記される)が率いるわずか1千の兵であった 1 。氏助は天険の要害を頼りに籠城し、主君である家康に急を告げた。

家康は、同盟者である織田信長に再三にわたり援軍を要請した。しかし、当時の信長は畿内や北陸の一向一揆、西国の毛利氏との戦いに忙殺されており、遠江に大軍を派遣する余力はなかった 9 。援軍のあてがなくなった家康は、単独で武田の大軍に挑むことはできず、高天神城を見捨てるという苦渋の決断を下さざるを得なかった。この援軍を送れなかったという事実は、徳川家に対する家臣や周辺国衆の信頼を著しく損なう結果を招いた 11

勝頼の寛大な処置と徳川の失墜

孤立無援となった高天神城であったが、勝頼は力攻めだけではなく、巧みな調略を用いた。城主・小笠原氏助に対し、「開城すれば、城兵の生命は一人残らず保証する」という破格の条件を提示したのである 7 。主君に見捨てられた城兵たちの動揺は激しく、氏助はこの降伏勧告を受け入れた。

注目すべきは、その後の勝頼の処置である。彼は約束通り、降伏した城兵たちの命を保証した上で、彼らの進路を各自の判断に委ねた。小笠原氏助と共に武田家への仕官を望む者は配下に加え、徳川家への帰還を希望する者はそのまま解放したのである 11 。この度量の広い措置は、勝頼が父・信玄に劣らぬ名将であるとの評価を天下に轟かせ、その名声は大きく高まった。

一方で、徳川氏が受けた打撃は計り知れない。忠誠を誓っていたはずの将兵に見捨てられ、かつて姉川の戦いで武功を挙げた「姉川七本槍」のうち6人までもが、この時に徳川家を見限り武田方に降ったと伝えられている 11 。家康にとって、城を失ったという軍事的な敗北以上に、家臣の信頼を失い、多くの有能な人材を敵に奪われたという政治的・心理的な敗北は、骨身に沁みるものであった。

この一連の出来事は、7年後の第二次高天神城の戦いにおいて、驚くべき形で反復されることになる。1574年に「援軍を送れず家臣を見捨てた」のは家康であり、「寛大な措置で名声を得た」のは勝頼であった。後に横須賀城を拠点として家康が展開する戦略は、この屈辱的な構図を完全に逆転させ、勝頼を全く同じ苦境に陥れるための、執念深く、そして長期的な復讐劇の序章であった。この時、降伏を潔しとせずに武田方に捕らえられ、城内の土牢に7年近くも幽閉された徳川家臣・大河内政局の存在は、家康と家臣団にとって、高天神城奪還が単なる軍事目標ではなく、徳川家の名誉を回復するための悲願であることを象徴していた 1

第二章:反撃の拠点、横須賀城の築城 ― 大須賀康高と「玉石積み」の要塞

第一次高天神城の戦いでの屈辱と、長篠の戦いでの勝利を経て、徳川家康は高天神城奪還に向けた具体的な行動を開始する。その戦略の中核をなしたのが、新たな前線基地「横須賀城」の築城であった。この城は、単なる攻撃拠点に留まらず、武田氏の生命線を断つための、極めて高度な戦略思想に基づいて設計されていた。

戦略拠点の選定と築城

高天神城は、信玄ですら一度は攻略を諦めたほどの堅城である 6 。力攻めによる短期攻略は多大な犠牲を伴う。家康は、長期的な包囲による兵糧攻めこそが、高天神城を陥落させる唯一の道であると判断した。そのためには、恒久的かつ補給の容易な前線基地が不可欠であった。

白羽の矢が立ったのは、高天神城から西へわずか10キロメートル、遠州灘に面した砂丘地帯であった 13 。天正6年(1578年)、家康は譜代の重臣であり、徳川二十将の一人にも数えられる猛将・大須賀康高にこの地への築城を命じた 14 。康高は「横須賀衆」と称される精鋭部隊を率いて、迅速に築城を進めると同時に、高天神城への軍事的圧力を開始した 17

横須賀城の構造と戦略的価値

横須賀城は、その立地と構造において、高天神城攻略という明確な目的のために最適化されていた。

  • 陸路と海路を支配する兵站拠点: 横須賀城の最大の価値は、その堅牢さ以上に、陸海両方の補給路を支配する「兵站戦略の要」であった点にある。築城当時、城の麓まで遠州灘から深い入江が入り込んでおり、「横須賀湊」と呼ばれる天然の良港を有していた 15 。これにより、徳川方は海上輸送によって兵糧や弾薬を安全かつ大量に運び込むことが可能であった。さらに、この入江は掛川城の外堀である逆川の河口と繋がっており、掛川城との間で船による直接の連絡・輸送が可能であったと推測されている 15 。一方で、城は高天神城へ至る主要街道の一つである「浜筋道(浜道)」を完全に押さえる位置にあり、武田方が海側から高天神城へ補給を行う陸路を物理的に遮断した 18 。自軍の兵站は確保し、敵の兵站は断つ。横須賀城は、この兵法の基本を極めて高いレベルで実現するための戦略拠点だったのである。長篠の戦い以降、国力が疲弊していた武田氏に対し、家康が短期決戦ではなく、兵站を断つことによる長期消耗戦を選択したことは明らかであり、横須賀城はその戦略を具現化するための最重要インフラであった。
  • 平山城としての機能性: 横須賀城は、丘陵の先端部に築かれた山城部分(本丸・松尾山)と、その麓に拡張された平城部分(二の丸・三の丸)から構成される「平山城」であった 15 。これは山城の防御性と平城の居住性・拡張性を兼ね備えた、中世から近世へと移行する過渡期の城郭様式を示している。
  • 独自の城郭構造: 横須賀城には、他の城には見られないいくつかの特徴があった。通常、城の正面玄関である大手門は一つであるが、横須賀城は東西二箇所に大手門を持つ「両頭の城」であった 15 。これにより、戦況に応じて柔軟な部隊展開が可能であったと考えられる。また、石垣には大井川の河原から採集された丸い自然石を用いた「玉石積み」という独特の工法が採用されている 15 。これは、現地の資材を有効活用した実用的な工法であると同時に、横須賀城の景観を特徴づける要素となっている。

このように、横須賀城は単なる「高天神城を攻めるための砦」という一次的な理解を遥かに超え、兵站、交通、防御の各要素が緻密に計算された、徳川家康の対武田戦略の結晶とも言うべき城だったのである。

第三章:天正八年、遠州灘の攻防 ― 「横須賀城の戦い」のリアルタイム詳解

一般に「横須賀城の戦い」と呼ばれる事象は、天正8年(1580年)に特定の日に発生した単一の攻城戦を指すものではない。むしろ、横須賀城の完成から高天神城の落城に至るまでの数年間にわたり、同城を拠点として展開された徳川方の一連の軍事作戦と、それに対する武田方の抵抗の総体を指すものと理解するのが適切である。特に天正8年は、徳川方の包囲網が完成し、高天神城が完全に孤立、両軍の軍事的緊張が最高潮に達した年であった。

ユーザーの「リアルタイムな状態がわかる形」という要望に応えるため、ここではまず、横須賀城築城から高天神城落城までの主要な出来事を時系列で整理し、その後、各時期の具体的な攻防について詳述する。

表1:高天神城・横須賀城を巡る攻防年表(1578年~1581年)

年月

徳川方の動向

武田方の動向

外交・その他情勢

天正6年 (1578)

3月

越後にて上杉謙信が急死。「御館の乱」が勃発 18

7月

家康、横須賀城の普請を開始。15日に完成 18

勝頼、御館の乱に介入するため越後へ出兵 18

8月

大須賀康高率いる横須賀衆、高天神城下へ出撃し放火 17

城兵が出撃し交戦するも、徳川方が勝利 17

10月

家康、横須賀城に入り、武田軍の来襲に備える 18

勝頼、越後から遠江へ転進。小山城等を経由し浜道を進軍 18

11月

2-3日、横須賀城付近で武田軍と対峙 18

2日、横須賀城に接近するも攻撃はせず、高天神城へ補給を実施 18

12月

25日、勝頼は甲斐へ帰国 18

天正7年 (1579)

3月

御館の乱の結果、上杉景勝との同盟を優先し、北条氏との甲相同盟が破綻 18

4月

馬伏塚城を拠点に武田軍を撃退(本多忠勝、榊原康政ら) 21

勝頼、再び駿河へ出陣。25日、高天神城に布陣 21

通年

小笠山砦など「高天神六砦」の築城を進め、包囲網を強化 17

天正8年 (1580)

7月

家康、3千の兵を率いて横須賀城に本陣を移す 17

秋頃

高天神城の籠城衆から、兵糧欠乏を訴える嘆願書が勝頼に届く 18

12月

21日、織田信長の使者が横須賀城の家康を慰労。城方からの降伏勧告を拒否するよう信長から指示を受ける 12

天正9年 (1581)

1月

降伏を申し出る城方を、信長の意向に従い拒絶 22

城将・岡部元信が使者を送り、勝頼に最後の援軍を要請 18

勝頼、織田信長との和睦交渉(甲江和与)を進めており、身動きが取れず 9

3月

22日夜、城から討って出た武田軍を横須賀衆らが迎撃し、殲滅。高天神城は落城 11

22日夜、岡部元信以下、城兵が最後の突撃を敢行し玉砕 11

第一節:前哨戦 ― 包囲網の構築(天正六年~七年 / 1578-1579)

横須賀城が完成した天正6年(1578年)から、徳川方による高天神城への圧力は即座に開始された。同年8月、城主・大須賀康高が率いる横須賀衆は高天神城下に進出し、城方の兵糧を断つ目的で周辺の田畑に火を放った。これに対し城兵も打って出て、横須賀城を拠点とする徳川勢にとって最初の本格的な戦闘が発生した。この戦いでは、横須賀衆の久世三四郎が一番槍、渥美源五郎が二番槍、坂部三十郎が一番首を挙げるなど目覚ましい働きを見せ、石川康道らの援軍も加わった徳川方の大勝に終わった 17

この動きに対し、武田勝頼も座視していたわけではない。当時、勝頼は越後で勃発した上杉家の家督争い「御館の乱」に介入していたが、天正6年10月には遠江へ軍を転進させる。その目的は、孤立しつつある高天神城への兵糧・人員の補給であった。勝頼は遠江の小山城、相良城を経由して浜道を進軍し、徳川方の補給路封鎖網の拠点である横須賀城へと迫った 18

11月2日から3日にかけて、武田軍は横須賀城に接近し、急報を受けた家康もただちに横須賀城に入城、両軍は至近距離で対峙した 18 。一触即発の状況であったが、勝頼の主目的はあくまで高天神城への補給であり、完成したばかりで防御も固い横須賀城への強攻は得策ではないと判断した。結果、大規模な合戦には至らず、勝頼は高天神城への補給を成功させると、12月には甲斐へと兵を引いた 18 。徳川方にとっては、横須賀城の防衛に成功し、武田の主力を相手に浜道の封鎖線を維持できたことの意義は大きかった。

翌天正7年(1579年)に入ると、武田氏を取り巻く戦略環境はさらに悪化する。御館の乱で上杉景勝を支援した結果、景勝の対立候補であった北条氏政の弟・上杉景虎が自刃に追い込まれ、武田氏と北条氏の甲相同盟は完全に破綻した 9 。これにより武田氏は、東の北条、西の織田・徳川という二大勢力に挟撃される苦しい立場に陥った。このような状況下でも勝頼は4月に再び駿河へ出陣し高天神城に布陣するが、馬伏塚城を拠点とした本多忠勝、榊原康政、井伊直政ら徳川の精鋭部隊に迎撃され、後退を余儀なくされている 21 。この間、徳川方は着々と高天神城の周囲に小笠山砦、火ヶ峰砦など「高天神六砦」と呼ばれる複数の砦を築き、人や物資の往来を完全に遮断する包囲網を狭めていった 17

第二節:膠着と消耗 ― 包囲網の完成(天正八年 / 1580年)

天正8年(1580年)は、横須賀城を中心とする徳川方の戦略が最終段階に入った年である。この年には、前年までのような大規模な軍事衝突は記録されていない。それは、戦いが新たな段階、すなわち武力衝突を主としない「消耗戦」「経済戦」へと移行したことを意味する。家康は、長篠以降の武田氏との国力差を冷静に分析し、武田方が最も不得手とする長期の消耗戦に引きずり込むことで、軍事的な損害を最小限に抑えつつ、戦略目標を達成しようとしたのである。

その決意を示すように、同年7月、家康は3千の兵を率いて浜松城から横須賀城に本陣を移した 17 。これは、高天神城攻略が最終段階に入ったことを内外に示す、明確な示威行動であった。横須賀城と高天神六砦による厳重な包囲網は完全に機能し、高天神城は外部との連絡を完全に絶たれた陸の孤島と化した。

この効果は絶大であった。同年秋頃には、高天神城に籠城する将兵たちから、兵糧が尽きかけている窮状を訴え、兵員の交代を求める連判状が勝頼のもとへ送られている 18 。城内の士気が著しく低下し、状況が極度に悪化していることが窺える。

この年の暮れ、戦局を決定づける極めて重要な出来事が起こる。12月21日、織田信長の使者が横須賀城の家康本陣を訪れ、長期間にわたる包囲の労をねぎらった 12 。この時、すでに高天神城側からは降伏の申し出が徳川方に届いていた。しかし、信長は家康に対し、その降伏を決して許してはならないと厳命したのである 12

この信長の命令は、この戦いの本質を単なる城の奪い合いから、より高次の政治的・心理的なものへと昇華させた。信長の狙いは、軍事的な勝利に留まらなかった。それは、武田勝頼に「味方を見殺しにさせる」という状況を意図的に作り出すことで、武田家の威信を内外に失墜させ、家臣団の忠誠心を根底から揺るがすことにあった 12 。7年前に家康が味わった屈辱を、今度は勝頼に味わわせる。横須賀城を拠点とした鉄壁の包囲網は、この冷徹な政治的罠を仕掛けるための、物理的な舞台装置として完璧に機能したのである。

第四章:落日の高天神城 ― 横須賀城が果たした役割(天正九年)

天正9年(1581年)を迎えると、高天神城の運命はもはや風前の灯火となっていた。徳川方の包囲網は微塵も揺るがず、城内は地獄の様相を呈していた。

援軍なき絶望と勝頼の焦燥

年が明けても、甲斐からの援軍は一向に現れなかった。城内の兵糧は完全に底をつき、餓死者が続出。将兵は草木や牛馬の皮まで食らい、極限の飢餓状態に追い込まれていた 11 。城将・岡部元信は最後の望みを託し、使者を勝頼のもとへ送って救援を懇願したが、その願いが叶うことはなかった 18

この時、武田勝頼は絶望的なジレンマに陥っていた。東では、同盟が破綻した北条氏政が駿河・伊豆国境に圧力をかけ、西では織田・徳川軍が遠江から信濃を窺っている。このような状況で遠江に大軍を派遣すれば、手薄になった本国を衝かれる危険性が極めて高かった。さらに、勝頼は水面下で織田信長との和睦交渉(甲江和与)を進めており、大規模な軍事行動を起こしにくい状況にもあった 9 。援軍を送れば武田家そのものが崩壊しかねず、かといって見捨てれば家臣からの信頼を完全に失う。勝頼は、かつて家康が陥ったのと全く同じ、進退窮まった苦境に立たされていたのである。

最後の突撃と玉砕

万策尽きた高天神城の将兵は、もはや生きて城を出ることを諦めた。天正9年3月22日の夜、城将・岡部元信に率いられた残存兵約900名は、武士としての最後の誇りを胸に、城門を開け放ち、徳川軍の包囲網に対して決死の突撃を敢行した 11

しかし、その突撃は徳川方の想定の範囲内であった。横須賀城を拠点に、大須賀康高をはじめとする徳川軍は、この時を予期して万全の迎撃態勢を敷いていた。闇夜の中、両軍は激しく衝突し、刀と槍が交錯する際に飛び散る火花で、かろうじて敵味方を判別するほどの凄まじい白兵戦が繰り広げられたと伝わる 17 。しかし、飢えと疲労で衰弱した籠城兵が、十分に補給され待ち構えていた徳川の大軍の敵ではなかった。

壮絶な死闘の末、岡部元信をはじめとする城兵のほとんどが討ち取られ、玉砕した。その数は730名余にのぼり、彼らの遺体は城の堀を埋め尽くしたという 11 。この地獄絵図の中から、武田方の軍監・横田甚五郎尹松のみが、「犬戻り猿戻り」と呼ばれる険路を伝って辛うじて脱出し、主君・勝頼のもとへ高天神城落城の悲報を届けた 10

この高天神城の陥落は、横須賀城を築城し、数年間にわたって緻密な兵糧攻めを続けた徳川方の完全なる戦略的勝利であった。武力による強攻ではなく、兵站と包囲網によって難攻不落の城を内部から枯渇させるという、家康の忍耐強い戦略が見事に結実した瞬間であった。

終章:戦後の横須賀城と武田氏の滅亡

第二次高天神城の戦いの終結は、単に一つの城が徳川の手に戻ったという以上の、戦国史の大きな転換点を画する出来事であった。横須賀城を拠点としたこの一連の作戦は、名門・武田家の崩壊を決定づけ、徳川家康の覇道を大きく前進させた。

勝頼の威信失墜と武田家の崩壊

高天神城の将兵を見殺しにしたという事実は、武田勝頼の求心力に対して致命的な打撃を与えた 9 。武田家は、主君と家臣の強固な信頼関係によって支えられてきた組織であった。その主君が、苦境にある家臣を見捨てたという事実は、多くの家臣たちの心に勝頼への不信と絶望を植え付けた。武田家の重臣であった高坂昌信が、高天神城落城の報を聞き、「これは主家滅亡の盃である」と嘆いたという逸話は、この事件が武田家中に与えた衝撃の大きさを象徴している 6

この影響は即座に現れた。駿河・遠江方面の軍政責任者であった重臣・穴山信君(梅雪)をはじめ、多くの有力な国衆や将兵が勝頼を見限り、徳川・織田方への内通を開始したのである 1 。一度崩れ始めた忠誠心のダムは、もはや誰にも止めることはできなかった。

高天神城の失陥からわずか1年後の天正10年(1582年)3月、織田信長は満を持して武田領への総攻撃「甲州征伐」を開始する。織田・徳川・北条の連合軍に対し、勝頼はもはや有効な抵抗を組織することができなかった。家臣に次々と離反され、逃亡兵が相次ぐ中、勝頼は天目山へと追い詰められ、妻子と共に自刃。ここに、信玄の代に天下に威名を轟かせた名門・甲斐武田氏は、あっけなく滅亡した 9 。高天神城を見捨てたことが、この急速な崩壊の直接的な引き金となったことは、論を俟たない。

遠州支配の拠点としての横須賀城

武田氏の脅威が去った後、焦土と化した高天神城は廃城とされた。そして、それに代わって遠州南部の新たな支配拠点となったのが、他ならぬ横須賀城であった 14 。高天神城攻略という当初の目的を達成した後も、横須賀城は遠州灘の海上交通と物流を押さえる要衝として、また地域の政治・経済の中心として、明治維新で廃城となるまで重要な役割を果たし続けた。徳川の遠江支配を盤石にした、まさに「勝利の城」だったのである。

総括

「横須賀城の戦い」とは、天正8年という特定の年に行われた戦闘ではなく、天正6年の築城から天正9年の高天神城落城に至るまでの一連の軍事・政治作戦の総称である。それは、徳川家康がかつての屈辱を晴らすため、長期的な視点に立って敵の弱点を突き、軍事力のみならず兵站、経済、そして政治的謀略を駆使して宿敵を追い詰めた、戦国史上でも屈指の戦略であった。その中核を担った横須賀城は、家康の忍耐強く、そして冷徹な戦略眼と、それを忠実に実行した大須賀康高ら家臣団の奮闘を今に伝える、歴史的なモニュメントと言えるだろう。この戦いの帰結は、武田氏の滅亡を早め、織田信長、そして徳川家康による天下統一への道を大きく切り拓いたのである。

引用文献

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  13. 高天神城攻略の起点「横須賀城」 - sannigoのアラ還日記 https://www.sannigo.work/entry/Yokosuka_Castle
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  24. 家康、高天神城を奪回 武田家は滅亡へ(1581) - 掛川市 https://www.city.kakegawa.shizuoka.jp/gyosei/docs/7520.html
  25. 【合戦解説】第二次 高天神城の戦い 徳川 vs 武田 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=3OZAbb10q_M
  26. 高天神をめぐる戦い - 掛川市 https://www.city.kakegawa.shizuoka.jp/gyosei/docs/8326.html