最終更新日 2025-08-31

檜山城の戦い(1588~89)

天正十七年、安東氏の内訌「湊合戦」が勃発。安東実季は檜山城に籠城し、由利衆の援軍を得て安東通季を退けた。戦後、実季は豊臣秀吉の裁定で減封されるも、秋田氏として近世大名へ。

出羽国「湊合戦」の全貌 ― 安東氏の内訌と戦国大名への道程 ―

序章:湊・檜山両安東氏の確執 ― 内紛の歴史的淵源

天正17年(1589年)に出羽国を揺るがした「檜山城の戦い」、通称「湊合戦」は、若き当主・安東実季とその一族・安東通季との間における単なる家督争いではない。その根源は、一世紀以上にわたって安東氏の内部に深く刻まれた構造的な対立と、経済圏の支配を巡る理念の衝突にまで遡る。この内紛が必然の帰結であったことを理解するためには、まず安東氏が内包していた二元的な権力構造の歴史を紐解かねばならない。

安東氏の起源と二大勢力への分立

安東氏は、鎌倉時代より津軽から出羽北部に広大な勢力圏を築いた名門である 1 。一時は蝦夷地(現在の北海道)にまで影響力を及ぼし、日本海交易を掌握する「日の本将軍」と称されるほどの権勢を誇った 3 。しかし15世紀半ば、東方から勢力を拡大してきた南部氏との激しい抗争の末、伝統的な本拠地であった津軽の十三湊を失い、主たる活動の舞台を出羽国北部へと移さざるを得なくなった 4

この出羽への移転が、安東氏の権力構造に決定的な分裂をもたらす。一方は、日本海交易の最大の拠点である土崎港(秋田湊)を掌握し、海運と商業利権を基盤とする 湊安東氏 。もう一方は、米代川流域の内陸支配と軍事の要衝である檜山城に拠点を構え、領国経営の強化を目指す 檜山安東氏 である 3 。湊安東氏が宗家、檜山安東氏が分家という位置づけではあったが、両者はそれぞれ異なる経済基盤と支持勢力を持ち、事実上、二つの独立した権力として並立する状態が長く続いた。

交易利権を巡る構造的対立

両家の対立を決定的にしたのが、領国経済の支配に関する根本的な思想の違いであった。湊安東氏は伝統的に、雄物川流域の国人領主たちに対し、比較的低率の津料(港湾使用料)を課すのみで、湊における自由な交易活動を認めていた 6 。これは、広範な国人衆との緩やかな連携を保ち、交易圏全体の繁栄を促すことで自らの利益を確保する、いわば「自由交易圏」構想であった。

これに対し、檜山安東氏はより中央集権的な戦国大名への脱皮を目指していた。彼らは、湊がもたらす莫大な富を大名権力の直接的な管理下に置くことを企図した。すなわち、交易に厳格な統制を加え、そこから得られる利益を独占することで財政基盤を強化し、周辺国人衆への支配を徹底しようとしたのである 6 。この「管理交易圏」構想は、湊安東氏の伝統的な政策と真っ向から対立するものであり、雄物川流域の国人衆にとっては死活問題であった。交易の自由を奪われることは、彼らの経済的自立性を脅かすに等しかったからである。この経済政策を巡る根深い対立こそが、湊合戦の根本的な原因であった。

過去の「湊騒動」とその遺恨

天正17年の大規模な内紛は、「第三次湊騒動」とも呼ばれるように、決して突発的な事件ではなかった。それ以前にも、両家の対立は複数回にわたって武力衝突へと発展している 6 。記録に残るものとして、第一次は天文13年(1544年)、第二次は元亀元年(1570年)に発生した 6 。特に第二次湊騒動では、湊安東氏の当主・安東茂季が兄である檜山安東氏の安東愛季の意向を受けて交易制限を試みた結果、豊島氏をはじめとする湊周辺の国人衆が大規模な反乱を起こしている 3

この反乱は愛季によって鎮圧されたものの、武力で押さえつけられた旧湊方の国人衆の不満は解消されることなく、むしろ遺恨として深く残り続けた。彼らにとって、檜山安東氏の支配は、自らの権益を不当に奪う簒奪に他ならなかった。この燻り続ける不満の火種が、強力な指導者であった安東愛季の死という権力の空白期を捉え、最大かつ最後の爆発に至るのである。

第一章:束の間の統一と、新たな火種 ― 安東愛季の時代

出羽北部に覇を唱えた傑物・安東愛季の時代は、安東氏が戦国大名として最も輝いた時期であると同時に、次なる大乱の種子が蒔かれた時代でもあった。彼の強力な指導力によって成し遂げられた両家の統合は、しかし、その内実に深刻な矛盾を孕んでいた。

安東愛季による両家統合の実態

檜山安東氏の当主であった安東愛季は、湊安東氏の当主・安東堯季の娘を娶るという婚姻政策に加え、元亀元年(1570年)の第二次湊騒動を自ら鎮圧することで、弟の茂季が当主を務めていた湊安東氏の実権を完全に掌握した 5 。これにより、長年分裂していた湊・檜山両安東氏は、愛季という一人の強力なリーダーの下に統合され、安東氏は戦国大名としての地歩を固めることに成功する 3

しかし、この統合は対等な合併ではなく、実質的には「檜山安東氏による湊安東氏の吸収」であった 7 。愛季は湊周辺の支配を直轄化し、旧湊方の有力国人であった豊島氏らを抑圧した 3 。この力の支配は、表面的な統一をもたらした一方で、旧湊安東氏に連なる勢力の間に、拭い難い屈辱と不満を蓄積させる結果となった。愛季の存命中は、そのカリスマと軍事力によって不満分子は沈黙を余儀なくされたが、それは嵐の前の静けさに過ぎなかった。

愛季の死と権力の空白

天正15年(1587年)、安東氏の全盛期を築いた愛季が病により急逝する 5 。あまりに突然の死は、安東家中に大きな動揺をもたらした。家督を継いだのは、嫡男の安東実季。しかし、彼は当時わずか12歳の少年に過ぎなかった 8 。強力な求心力を失い、かつ指導者が幼弱であるというこの権力の空白は、水面下で復権の機会を窺っていた者たちにとって、千載一遇の好機と映った。

反旗を翻す者 ― 安東通季の立場と動機

この好機を捉えて反乱の狼煙を上げたのが、安東通季(道季とも記される)であった。彼は実季の従兄弟にあたり、旧湊安東氏の血を引く人物であった 5 。愛季の時代には豊島城主として遇されてはいたものの、彼の胸中には、檜山安東氏に奪われた宗家の地位と権力を奪還し、旧湊安東氏を再興するという野心が燃え盛っていた。

通季の挙兵は、単なる個人的な野心や私怨に留まるものではなかった。彼は、愛季の強権支配と交易統制策によって不利益を被っていた旧湊方の国人領主たちの不満を代弁する存在であった。彼の蜂起は、抑圧されてきた旧湊勢力による「復権運動」という大義名分を掲げており、それゆえに広範な支持を集めることが可能だったのである。愛季の死によって箍が外れた不満は、通季という旗頭を得て、ついに安東家の領国全体を巻き込む大規模な内乱へと発展していく。


表1:湊合戦 主要関連人物・勢力図

陣営

主要人物

主な味方勢力

動機・目的

実季方(檜山方)

安東 実季 (あんどう さねすえ)

由利十二頭(赤尾津氏、仁賀保氏など)

正統な家督の維持、父・愛季の政策継承

(由利衆)出羽北部の勢力均衡維持、安東氏との伝統的関係

通季方(湊方)

安東 通季 (あんどう みちすえ)

戸沢氏、小野寺氏、豊島氏、大平氏、八柳氏、新城氏

旧湊安東氏の復権、交易利権の奪還

(戸沢・小野寺氏)安東氏の弱体化と勢力圏拡大


第二章:湊合戦のリアルタイム詳報 ― 天正17年(1589年)の動乱

湊合戦の開始時期については天正16年(1588年)説と17年(1589年)説が存在するが、本報告ではより多くの史料が支持する天正17年2月開戦説を主軸に、合戦の推移を時系列で詳述する 6 。この戦いは、安東家の命運のみならず、出羽北部の勢力図を塗り替える激しい動乱であった。

開戦前夜(~天正17年2月):反実季包囲網の形成

安東通季は、挙兵に先立ち周到な準備を進めていた。彼はまず、安東氏と長年対立関係にあった内陸の有力大名、戸沢氏(角館城主・戸沢盛安)および小野寺氏(横手城主・小野寺義道)との連携を密にした 5 。安東氏の弱体化を望む両氏にとって、この内紛への介入は自らの勢力を拡大する絶好の機会であり、通季への加勢を約束した。

さらに通季は、安東愛季の交易統制策に強い不満を抱いていた湊周辺の国人領主たちへの調略を重ねた。特に、かつて愛季に本拠を追われた豊島氏をはじめ、大平氏、八柳氏といった旧湊方の有力者たちがこれに呼応し、通季を盟主とする反実季連合軍が形成された 3 。こうして、若き当主・実季は、内外の敵に包囲される絶望的な状況に追い込まれていった。

緒戦(同年2月):電撃的な湊城急襲と実季の敗走

天正17年2月、通季・豊島連合軍は行動を開始した。彼らは実季の本拠である湊城(土崎城)を電撃的に急襲する 3 。この時、実季方にとって致命的だったのは、味方であるはずの湊周辺の国人衆の大半が通季に寝返ったことであった 3 。内から崩れた実季方はなすすべもなく敗退。湊城はあっけなく通季の手に落ちた。

この敗北を受け、実季とその宿老たちは苦渋の決断を下す。父・愛季が築城を進めていた新たな本拠・脇本城は、未だ普請が不十分で防衛拠点としては心もとなかった 5 。そこで実季は、一族伝来の古くからの本拠地であり、天然の要害として知られる檜山城への撤退を決断した 5 。この撤退は、単なる無様な敗走ではなかった。平地の湊城や未完成の脇本城での決戦を避け、堅城に籠もって時間を稼ぎ、外部からの援軍を待つという、計算された戦略的判断だったのである。

檜山城籠城戦(同年2月~7月頃):絶望的な防衛戦

檜山城に逃れた実季を追い、通季方連合軍が城下に殺到した。ここから、5ヶ月以上にも及ぶ壮絶な籠城戦が始まる 9

  • 圧倒的な兵力差と新兵器: 通季方連合軍の兵力は、実季方の10倍に達したと伝えられる 2 。数千、あるいは一万に迫る大軍に対し、檜山城の城兵はわずか数百名であった。この絶望的な兵力差を覆すための切り札が、当時最新鋭の武器であった鉄砲である。実季方はわずか300挺の鉄砲を駆使し、城に押し寄せる大軍を迎え撃った 5
  • 堅城・檜山城の防御力: 檜山城は、標高145mの山に築かれた典型的な山城であった 11 。馬の蹄のようなU字状の尾根筋を巧みに利用した構造は「蝦夷館式馬蹄形山城」とも呼ばれ、高い防御力を誇った 11 。鋭く深い堀切が尾根を分断し、土塁で囲まれた桝形虎口が敵兵の直進を阻む 12 。この複雑で堅固な城郭構造は、大軍の展開を困難にし、少数の城兵による効率的な防御を可能にした。鉄砲という新兵器と、中世以来の築城術の粋を集めた山城の組み合わせが、圧倒的な兵力差を埋めるための生命線となったのである。
  • 150日間の攻防: 籠城戦は熾烈を極めた。通季方は幾度となく総攻撃を仕掛け、実季方はこれを必死に撃退した。この戦いの激しさは、「檜山城の南を流れる『むちりき川』が血で染まった」という後世の伝承にも窺える 10 。しかし、兵糧は日に日に尽き、城兵は疲弊していく。援軍の当てもないまま、檜山城は落城寸前の危機に瀕していた。

表2:檜山城籠城戦 兵力・装備比較

比較項目

実季方(籠城側)

通季方連合軍(攻撃側)

推定兵力

約800~1,000名

約8,000~10,000名

主要装備

鉄砲300挺、弓、槍

弓、槍、その他

地理的条件

堅固な山城での籠城(防御側有利)

平地からの包囲・仰攻(攻撃側不利)

戦術的特徴

鉄砲の集中運用による迎撃

圧倒的兵力による波状攻撃


転機(同年7月頃):由利衆、起つ

万策尽き、落城が時間の問題と思われたその時、戦況を根底から覆す出来事が起こる。実季の南方に位置する由利郡の国人領主連合「由利十二頭」が、実季を救援するために蜂起したのである 14

由利衆、特にその筆頭格であった赤尾津氏(赤宇曾治部少輔光重と伝えられる)は、この絶体絶命の状況で実季に味方することを決断した 5 。この決断は、単なる隣人への同情や義侠心によるものではない。極めて高度な地政学的判断に基づいていた。もし通季が勝利すれば、その背後にいる戸沢・小野寺氏の影響力が安東領に及び、由利郡の北方に強力かつ敵対的な勢力ブロックが誕生することを意味する。それは由利衆にとって、自らの存立を脅かす悪夢であった。それならば、恩を売る形で弱体化した実季を救出し、地域の勢力均衡を保つ方が、長期的にはるかに得策である。由利衆の参戦は、出羽北部のパワーバランスを維持するための、計算され尽くした戦略的行動だったのである。

由利からの援軍の出現は、檜山城を包囲していた通季方連合軍に激しい衝撃を与えた。背後を突かれる形となり、挟撃の危機に陥った連合軍は統制を失い、やむなく檜山城の包囲を解いて撤退を開始した。

最終局面(同年8月頃):実季の逆襲と内紛の終結

援軍の到着によって九死に一生を得た実季は、この好機を逃さなかった。直ちに城から打って出て、敗走する通季軍の追撃を開始する 3 。勢いに乗る実季・由利連合軍の前に、士気を失った通季軍は各地で敗北を重ねた。

通季は最後の拠点である湊城に立て籠もって抵抗を試みるが、もはや趨勢は決していた。実季軍の総攻撃の前に湊城はあえなく落城 3 。通季は辛うじて城を脱出し、同盟者であった戸沢氏を頼って仙北方面へと落ち延びていった 3

こうして、天正17年2月から約6ヶ月間にわたって続いた安東家の内紛は、緒戦の劣勢を覆した実季方の大逆転勝利という形で幕を閉じたのである 3

第三章:戦後処理と中央政権の影 ― 惣無事令を巡る攻防

檜山城での劇的な勝利と湊城の奪還は、しかし、物語の終わりではなかった。戦場の勝敗が決したその時から、安東氏の存亡を賭けた新たな戦いが、中央政権を舞台に始まっていた。戦国末期の地方紛争の結末は、もはや地域の武力のみでは決まらず、天下人・豊臣秀吉の裁定という、より大きな秩序の下に委ねられていたのである。

天下統一の奔流と「惣無事令」

湊合戦が繰り広げられていた当時、豊臣秀吉による天下統一事業は最終段階を迎えていた。秀吉は天正15年(1587年)、関東・奥羽の諸大名に対し、私的な合戦を禁じる「惣無事令」を発令していた 17 。これは、大名間の領土紛争を豊臣政権の裁定によって解決させるという、新たな全国的秩序の宣言であった。

安東家の内紛は、この惣無事令に明確に違反する行為であった 19 。たとえ内輪の争いであったとしても、大規模な武力衝突は秀吉の権威への挑戦と見なされかねない。この法令違反は、勝者である実季にとっても、安東家そのものが改易(領地没収)される可能性を秘めた、極めて深刻な問題であった。

敗者・通季の最後の抵抗

戦いに敗れた安東通季は、なおも再起を諦めていなかった。彼は安東氏と敵対関係にあった南部氏の当主・南部信直を頼り、その庇護下に入った 2 。そして翌天正18年(1590年)、秀吉が小田原の北条氏を攻める(小田原征伐)と、通季は南部信直の軍勢に加わって参陣する。彼はそこで、豊臣政権の重臣である浅野長政を通じて秀吉に接触し、旧湊安東家の家名再興を嘆願した 2 。しかし、一度は実季に敗れた彼の訴えが聞き入れられることはなかった 2

勝者・実季の外交戦

一方、合戦に勝利した実季もまた、惣無事令違反の罪を問われることを恐れ、迅速な外交工作に乗り出していた。彼は、越後の大名で豊臣政権内でも大きな影響力を持つ上杉景勝に仲介を依頼。その斡旋により、政権の中枢で吏僚派の筆頭であった石田三成に直接陳情するルートを確保した 20 。戦国末期において、戦場での勝利と同じく、あるいはそれ以上に、中央政権の有力者との政治的な繋がりが自らの運命を左右することを、若き実季は理解していた。この三成とのパイプ構築が、結果的に安東家の存続を可能にする決定的な一手となる。

奥州仕置における裁定

天正18年(1590年)、小田原征伐を終えた秀吉は、東北地方の領土を再編する「奥州仕置」を断行した。この場で、安東氏の処遇が決定される。秀吉は、実季の惣無事令違反を咎めつつも、石田三成らの取りなしもあってか、安東家の存続を認めた 21

ただし、それは無罪放免を意味するものではなかった。懲罰として、安東氏が代々支配してきた広大な領地は大幅に削減され、出羽国秋田郡を中心とする5万2千石余の所領が安堵されるに留まった 5 。合戦の勝者でありながら減封という厳しい裁定は、豊臣政権の秩序に逆らうことの代償の大きさを示すものであった。

そしてこの裁定と時を同じくして、実季は一族の姓を、鎌倉時代以来の「安東」から、本拠地の名を冠した「秋田」へと改める 5 。これは単なる名称の変更ではない。「安東」という姓が象徴する、湊と檜山の血で血を洗う内紛の歴史と決別し、秀吉から新たに所領を認められた近世大名「秋田氏」として生まれ変わるという、中央政権への恭順と再出発の強い意志表示であった。中世以来の名門領主が、新たな天下の秩序の中に組み込まれていく、象徴的な瞬間であった。

結論:湊合戦が安東(秋田)氏にもたらしたもの

天正17年(1589年)の湊合戦は、安東(秋田)氏の歴史、ひいては出羽北部の戦国史における決定的な転換点であった。この半年間に及ぶ激しい内紛は、一族に深刻な傷跡を残した一方で、結果として近世大名「秋田氏」が誕生するための産みの苦しみとなった。

戦国大名としての権力確立

第一に、この合戦の勝利によって、実季は安東家内部の反対勢力を一掃することに成功した。旧湊安東氏の復権を掲げた安東通季とその与党が排除されたことで、長年にわたる湊・檜山両家の対立構造に終止符が打たれた。これにより、実季は秋田湊、豊島、大平といった地域の交易利権を完全に掌握し、秋田平野における一円的な支配体制を確立したのである 3 。内紛を乗り越えたことで、秋田氏はようやく一枚岩の強力な権力機構を持つ、名実ともに戦国大名としての地位を固めることができた。

中央政権への編入と新たな秩序

第二に、この合戦は、皮肉にも秋田氏を豊臣政権が主導する全国的な支配体制へと組み込む直接的な契機となった。惣無事令違反という形で中央政権の介入を招いた結果、秋田氏は領地の大幅な削減という痛みを伴いながらも、豊臣大名としてその存続を公的に認められた。この経験は、もはや地域の論理や武力だけでは生き残れないという、戦国時代末期の新たな現実を痛感させるものであった。安東氏から秋田氏への改姓は、この新たな秩序への適応を象徴している。

歴史的意義

総括すれば、「檜山城の戦い(湊合戦)」は、中世以来の伝統を持つ名門武士団が、内部抗争と中央政権という外部からの圧力という二つの要因を経て、近世的な大名へと変貌を遂げていく、戦国時代末期の典型的なプロセスを示す極めて貴重な事例である。そこには、圧倒的な兵力差を覆した鉄砲という新兵器の運用、堅固な山城を巡る攻防、地域のパワーバランスを読んだ外交的駆け引き、そして天下人の意向という、時代のあらゆる要素が凝縮されている。それはまさしく、出羽国における「小さな天下分け目」であり、安東氏が過去と決別し、秋田氏として新たな時代へ踏み出すための、避けては通れない試練だったのである。


巻末資料:湊合戦 詳細年表

年月

出来事

関連人物・場所

典拠・備考

天正15年(1587年)

安東愛季、死去。嫡男・実季(12歳)が家督を相続。

安東愛季、安東実季

7

天正17年(1589年)2月

安東通季、戸沢氏・小野寺氏や旧湊方国人と結び挙兵。

安東通季、戸沢盛安、小野寺義道、豊島氏

3

通季・豊島連合軍、実季の本拠・湊城を急襲し、占拠。

湊城(土崎城)

3

実季、湊城を脱出し、一族の拠点・檜山城へ撤退。

檜山城

5

同年2月~7月頃

檜山城籠城戦開始。通季方連合軍が城を包囲。

実季方(約1千)、通季方(約1万)

2

実季方は300挺の鉄砲と城の堅固さを頼りに約150日間防戦。

檜山城

10

同年7月頃

由利十二頭(赤尾津氏ら)、落城寸前の実季を救援するため挙兵。

赤尾津治部少輔、仁賀保氏ら

5

由利衆の参戦により、通季方連合軍は檜山城の包囲を解き撤退。

5

同年8月頃

実季、由利衆と共に追撃を開始。通季軍を各地で破る。

3

実季軍、湊城を総攻撃し、奪還。

湊城

3

安東通季、城を脱出し、戸沢氏を頼り仙北方面へ敗走。内紛終結。

安東通季

3

天正18年(1590年)

通季、小田原征伐に南部信直と共に参陣し、家名再興を嘆願するも失敗。

安東通季、南部信直、浅野長政

2

実季、惣無事令違反の弁明のため、上杉景勝を介し石田三成に陳情。

安東実季、上杉景勝、石田三成

20

奥州仕置にて、豊臣秀吉は安東氏の存続を認めるも、所領を減封。

豊臣秀吉

19

実季、出羽国秋田郡5万2千石余を安堵され、姓を「秋田」に改める。

秋田実季

5

引用文献

  1. 安東氏系図とその系譜意識 https://www4.hp-ez.com/hp/andousi/page10
  2. 安東愛季 統一後、再度起きた湊合戦と“秋田”~『秋田家文書』『奥羽永慶軍記』『六郡郡邑記』を読み解く――「東北の戦国」こぼれ話 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/9400
  3. 武家家伝_秋田(安東)氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/akita_k.html
  4. 安東氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%9D%B1%E6%B0%8F
  5. 檜山城の戦い - BIGLOBE http://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/ka/HiyamaJou.html
  6. 湊騒動 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%8A%E9%A8%92%E5%8B%95
  7. ”日ノ本将軍”と謳われた安東氏が築いた「檜山城」【秋田県能代市】 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/22439
  8. 秋田 - 『信長の野望天翔記』武将総覧 http://hima.que.ne.jp/nobu/bushou/nobu06_data.cgi?equal5=37
  9. 檜山城の見所と写真・100人城主の評価(秋田県能代市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/1463/
  10. 檜山安東氏城館跡(檜山城址) | 秋田のがんばる集落応援サイト あきた元気ムラ https://common3.pref.akita.lg.jp/genkimura/archive/contents-196/
  11. 元気ムラの旅シリーズ6 歴史が息づく山里・檜山探訪 - あきた森づくり活動サポートセンター https://www.forest-akita.jp/data/school-2019/school-02/school-02.html
  12. 檜山安東氏城館(秋田県能代市)の詳細情報・口コミ | ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/castles/801
  13. 檜山安東氏城館跡 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AA%9C%E5%B1%B1%E5%AE%89%E6%9D%B1%E6%B0%8F%E5%9F%8E%E9%A4%A8%E8%B7%A1
  14. 武家家伝_由利十二頭通史 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/yuri_12to.html
  15. 港合戦について知りたい。1.天正16年~17年ごろ(1588~1589)の第三次湊合戦で安東実季に助... | レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?page=ref_view&id=1000226286
  16. 武家家伝_赤尾津氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/akao_k.html
  17. 惣無事令 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%A3%E7%84%A1%E4%BA%8B%E4%BB%A4
  18. 楢 岡 城 楢 岡 城 楢 岡 氏 楢 岡 氏 - 大仙市 https://www.city.daisen.lg.jp/uploads/contents/archive_0000001614_00/nakaokajyo_pamph.pdf
  19. 出羽国 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E7%BE%BD%E5%9B%BD
  20. 安東氏関連年表~北奥羽の鎌倉時代から江戸時代 https://www4.hp-ez.com/hp/andousi/page3
  21. 古城の歴史 久保田城 https://takayama.tonosama.jp/html/kubota.html