此隅山城の戦い(1569)
永禄十二年、毛利氏の要請を受けた織田信長は、生野銀山を狙い羽柴秀吉を但馬へ派遣。秀吉は二万の大軍と鉄砲隊で此隅山城を電撃的に攻略。山名祐豊は敗走し、但馬十八城はわずか二週間で織田の支配下に入り、名門山名氏の滅亡を決定づけた。
報告書:永禄十二年 但馬・此隅山城の戦い - 織田信長、天下布武の西進と山名氏の落日
序章:落日の名門、嵐前の但馬
永禄十二年(1569年)、但馬国(現在の兵庫県北部)に聳える此隅山城(このすみやまじょう)を舞台に繰り広げられた戦いは、単なる一地方の城を巡る攻防戦ではない。それは、畿内を席巻し天下布武を掲げる織田信長と、西国に覇を唱える毛利元就という二大勢力の巨大な戦略が初めて交錯した、時代の転換点を象徴する出来事であった。かつて室町幕府の四職に数えられ、日本の六分の一の守護職を兼ねたことから「六分の一殿」と称された名門・山名氏 1 。その栄光も戦国乱世の荒波の中で色褪せ、但馬守護・山名祐豊(やまな すけとよ)の代には、その権威は大きく揺らいでいた。
この時期の但馬国は、東から伸張する織田氏と、西から圧力をかける毛利氏という、二つの巨大な力の「吹きだまり」と化していた 2 。祐豊はこの狭間で、危うい舵取りを迫られていた。本報告書は、利用者様がご存じの「羽柴勢が山名方の拠点を撃破」という概要に留まらず、この「此隅山城の戦い」がなぜ、どのようにして起こり、そして如何なる結末を迎えたのかを、多角的な視点から徹底的に分析するものである。特に、合戦の推移をあたかもリアルタイムで観測しているかのように時系列で再構成し、その戦略的背景、戦術的展開、そして歴史的意義を深く解明することを目的とする。
第一部:二大勢力の狭間で - 但馬侵攻に至る戦略的背景
此隅山城の戦いは、突発的に生じた武力衝突ではない。それは、織田、毛利、そして尼子という西日本の主要勢力の思惑と、但馬国内の脆弱な権力構造が複雑に絡み合った末に、必然的に引き起こされた事件であった。
第一章:織田と毛利、束の間の協調
永禄十一年(1568年)、織田信長は足利義昭を奉じて上洛を果たし、畿内における政治的・軍事的主導権を確立しつつあった 4 。これにより、信長の視線は次なる目標である西国へと向き始めていた。時を同じくして、中国地方の覇者・毛利氏は、深刻な問題に直面していた。かつて滅亡させたはずの宿敵・尼子氏の残党が、山中幸盛(やまなか ゆきもり)らに率いられ、出雲国で再興の兵を挙げていたのである 6 。
この尼子再興軍の動きに、但馬守護の山名祐豊が同調、あるいはこれを支援したことが、事態を決定的に動かす 6 。毛利氏にとって、尼子軍との戦いに専念する上で、背後に位置する但馬の山名氏が敵対行動を取ることは看過できない脅威であった。山名祐豊と、当時毛利と敵対していた備前の宇喜多直家の存在は、毛利元就にとって「大きな障害物」と認識されていたのである 8 。
自領の東西に敵を抱える状況を打開するため、元就は驚くべき一手を打つ。永禄十二年(1569年)八月、高僧であり信長とも繋がりがあった朝山日乗(あさやま にちじょう)を京都へ派遣し、織田信長に対して播磨・但馬の制圧、すなわち山名氏への攻撃を正式に要請したのだ 2 。
この一連の動きは、此隅山城の戦いが織田信長の単純な領土拡大戦略のみによって引き起こされたのではないことを示している。むしろ、それは毛利氏の戦略的要請に応える形で行われた「代理戦争」としての側面を色濃く持っていた。当時の毛利氏は尼子再興軍への対応に忙殺され、但馬へ直接軍事介入する余力がなかった。一方、信長にとっては、毛利氏に恩を売りつつ、公式な大義名分を得て西国への影響力を誇示し、来るべき中国進出への布石を打つ絶好の機会であった。両者の利害が完全に一致した結果、木下藤吉郎秀吉(きのした とうきちろう ひでよし、後の羽柴秀吉)率いる織田の大軍が但馬へと派遣されることになったのである。尼子再興軍の存在は、意図せずして織田軍を但馬に呼び込む触媒となり、西日本のパワーバランスを大きく揺り動かす引き金を引いたと言える。
第二章:揺らぐ守護の権威 - 山名祐豊と但馬国人衆
羽柴秀吉の侵攻を迎え撃つべき但馬国もまた、一枚岩ではなかった。山名祐豊の時代、かつて但馬一国を支配した守護の権威は地に落ち、その実質的な支配領域は本拠地である出石郡周辺に限られていた 2 。国内では、垣屋(かきや)氏、太田垣(おおたがき)氏、八木(やぎ)氏、田結庄(たいのしょう)氏といった「山名四天王」と称される有力な国人衆が台頭し、それぞれが独立した勢力として割拠していた 9 。
特に、山名氏の執事的地位にあった垣屋氏は、主家を凌ぐほどの力を持ち、時には公然と対立することもあった 12 。これらの国人衆は、東の織田、西の毛利という二大勢力の間で、それぞれが自家の存続を賭けて独自の外交を展開していた。例えば、垣屋一門の中でも庶流にあたる垣屋豊続(かきや とよつぐ)は、明確な親毛利派として行動し、主君である祐豊の意向とは別に毛利氏と連携を深めていた 3 。
このような但馬国内の分裂状況こそが、後に羽柴軍が電撃的な勝利を収める最大の要因となる。秀吉が対峙したのは、山名氏のもとに結束した「但馬国軍」ではなく、求心力を失った守護・山名祐豊の直轄軍と、日和見を決め込むか、あるいは既に敵方に内通していたかもしれない国人衆の寄せ集めに過ぎなかった。史料が「山名ノ子孫等皆国人=背カレ(国人に見限られ)」と記すように、多くの国人衆は滅びゆく主家と運命を共にするよりも、新たな覇者である織田方にいち早く恭順の意を示すことで、自家の安泰を図ろうとしたのである 8 。
さらに、信長が但馬侵攻に踏み切った背景には、軍事的・政治的動機に加え、極めて重要な経済的実利が存在した。但馬国には、当時日本有数の産出量を誇った生野銀山があった 8 。銀は戦国大名の軍事行動を支える重要な資金源であり、その価値は計り知れない 15 。経済政策に敏感であった信長が、この巨大な富の源泉を見過ごすはずはなかった。実際に侵攻後、生野銀山は速やかに織田方によって制圧されている 8 。毛利からの協力要請という「大義名分」と、生野銀山掌握という「経済的実利」。この二つが両輪となり、羽柴秀吉の但馬侵攻は推進されたのである。
第二部:戦いの舞台 - 要害・此隅山城の戦術的分析
此隅山城は、但馬守護・山名氏の本拠として、文中年間(1372-74年)に山名師義によって築かれたと伝わる、歴史ある城郭である 17 。その構造を理解することは、永禄十二年の攻防戦の実像に迫る上で不可欠である。
第一章:城の構造(縄張り)と防御能力
此隅山城は、出石神社の北方に聳える標高約140メートルの独立峰、此隅山に築かれた典型的な中世山城である 18 。その縄張り(城の設計)は、山頂に南北に長い主郭(本丸)を置き、そこから放射状に伸びる複数の尾根上に、多数の曲輪(平坦地)を階段状に連ねた「放射状連郭式」と呼ばれる形式を採用している 18 。城域は南北約750メートル、東西約1200メートルにも及び、山全体が要塞化されていた 18 。
城の防御は、自然地形を巧みに利用した土木工事によって固められていた。
- 切岸(きりぎし): 敵兵の登攀を困難にするため、山の斜面を人工的に削り出して作られた急崖。城の各所に設けられ、主要な防御施設となっていた 22 。
- 堀切(ほりきり): 尾根をV字状に断ち切り、敵が尾根伝いに侵攻するのを防ぐための空堀 19 。
- 土塁(どるい): 曲輪の縁に土を盛り上げて築かれた防御壁で、兵士が身を隠し、矢や石を放つための拠点となった 19 。
- 竪堀(たてぼり): 山の斜面に対して垂直に掘られた堀。斜面を横移動する敵兵の動きを阻害する効果があった 17 。
また、主郭に近づくにつれて登城路は険しさを増し、岩が露出する箇所もあって、甲冑をまとった兵士の進軍を容易には許さない構造となっていた 22 。城に残る遺構には、築城当初の古い様式と、戦国末期に改修されたと考えられる、より大規模で複雑な防御施設が混在しており、時代の要請に応じて城が強化されてきたことを物語っている 25 。
しかし、この堅固に見える要害には、構造的な脆弱性も内包されていた。第一に、「放射状連郭式」の縄張りは、全方位からの攻撃に対応できる反面、防御兵力を各尾根筋に分散させざるを得ない。もし、攻撃側が二万という圧倒的な兵力をもって特定の尾根に攻撃を集中させた場合、その方面の防御ラインは兵力差によって容易に突破される危険性があった。各尾根間の連携も地形的に困難であり、一点を破られれば連鎖的に崩壊しかねない構造であった。
第二に、此隅山城の防御思想は、石垣などを持たない、あくまで土木工事を主体とした中世的な山城の域を出ていなかった 8 。これは、弓矢や刀槍による白兵戦を主たる戦闘形態として想定したものである。しかし、永禄十二年の織田軍は、当時最新鋭の兵器であった鉄砲(火縄銃)を組織的に運用する能力を持っていた。史料が電撃戦の要因を「恐らく鉄砲隊の威力によるものであったろう」と推測しているように、織田軍は麓や中腹から山上の曲輪に向けて集中的な射撃を行い、城兵の防御行動を無力化する戦術を用いた可能性が高い 8 。土塁に身を隠す城兵は、絶え間ない銃撃によって頭を上げることすらできず、得意とするはずの上方からの攻撃(矢や石を落とすなど)を封じられてしまったであろう。此隅山城の防御システムは、織田軍が持ち込んだ新戦術に対し、時代遅れとなっていたのである。
第三部:電撃戦 - 羽柴秀吉の但馬侵攻と此隅山城の陥落
永禄十二年八月、但馬国の運命を決定づける戦いの幕が切って落とされた。現存する断片的な記録と、城郭構造の分析に基づき、その攻防の過程を時系列に沿って再構成する。
第一章:侵攻軍、但馬へ
『細川両家記』によれば、織田方の軍勢が但馬国へ侵攻を開始したのは、永禄十二年八月一日であった 8 。軍を率いる総大将は、当時まだ木下藤吉郎秀吉と名乗っていた後の天下人・豊臣秀吉 8 。副将格として坂井政尚が名を連ね、軍監(目付役)として毛利氏との交渉役でもあった朝山日乗が従軍した 8 。その軍勢は、池田勝正が率いる池田衆や伊丹衆といった摂津国の国人衆を中核とする、総勢二万の大軍であったと記録されている 3 。
【表1】此隅山城の戦い 主要参戦武将一覧
勢力 |
役職 |
武将名 |
兵力(推定) |
備考 |
織田軍 |
総大将 |
木下藤吉郎秀吉 |
約20,000 |
後の豊臣秀吉。当時33歳。 |
|
部隊長 |
坂井政尚 |
|
織田家譜代の家臣。 |
|
部隊長 |
池田衆、伊丹衆など |
|
織田家に服属した摂津国の国人衆。 |
|
軍監 |
朝山日乗 |
|
毛利氏からの要請を信長に伝えた僧。 |
山名軍 |
総大将 |
山名祐豊 |
数千? |
但馬守護。此隅山城主。当時56歳。 |
|
主要国人 |
垣屋氏、太田垣氏など |
|
「山名四天王」。多くは日和見か離反。 |
第二章:此隅山城攻防戦 - 時系列による再構成
【八月某日:開戦前夜】
播磨国境を越えた二万の秀吉軍は、破竹の勢いで但馬国内を進み、山名氏の本拠地である出石盆地に到達する。眼前に聳える此隅山城を幾重にも包囲し、その威容は城内の将兵を震撼させた。山名祐豊は、領国の国人衆に急使を送り援軍を要請するが、その多くは織田軍の圧倒的な兵力を前にして参陣を躊躇、あるいは既に水面下で織田方への降伏を画策していた。城は外部からの支援を絶たれ、完全に孤立した 8。
【攻撃初日(推定):黎明~午前】
夜が明けると同時に、秀吉軍の総攻撃が開始される。最初の目標は、山麓に構えられた山名氏の居館(守護館)であったと推測される。鬨の声と共に、鉄砲隊が一斉に火を噴き、その轟音と硝煙が守備兵の戦意を挫く。威嚇射撃の後、選抜された部隊が館に突入。館の守備隊は短時間の戦闘で駆逐され、守護の権威の象徴であった居館は、たちまち炎に包まれ黒煙を上げた。麓の拠点を失った城兵は、山上での籠城戦を余儀なくされる。
【攻撃初日(推定):午後~日没】
秀吉は、此隅山城の「放射状連郭式」という構造の弱点を突き、複数の尾根筋(登城路)から同時に攻撃を仕掛けた。これは、城兵の兵力を分散させ、主攻勢をかけるポイントを敵に悟らせないための陽動作戦であった可能性が高い。山名軍は、険しい岩道や急峻な切岸といった地の利を活かして必死に防戦する 22。しかし、秀吉軍は力攻め一辺倒ではなかった。中腹の比較的安全な曲輪に鉄砲隊を配置し、山上の防御拠点に向けて断続的な射撃を加える。これにより、土塁の陰から反撃しようとする城兵は次々と撃ち倒され、あるいは身動きを封じられた。矢や石を投じることすらままならず、城兵は防御機能が麻痺した状態で、じりじりと防衛線を後退させていった。
【攻撃二日目以降(推定):消耗戦と内部崩壊】
秀吉軍は二万という大軍の利を活かし、疲弊した部隊を次々と交代させながら、昼夜を問わず波状攻撃を続けた。一方、籠城する山名軍では、兵糧や矢弾が刻一刻と消費され、兵士たちの士気は目に見えて低下していった。外部からの援軍が到着する望みは絶望的となり、それどころか、周辺の支城が次々と織田方に降伏、あるいは落城したという凶報が城内にもたらされる 14。この絶望的な状況は、城内の結束を内部から崩壊させた。「山名ノ子孫等皆国人=背カレ」という記録が示す通り、城内に籠っていた国人衆や兵士たちの間で、祐豊を見限る動きが加速する 8。織田軍に内通し、密かに城門を開ける者や、戦闘を放棄して闇に紛れて逃亡する者が続出したと考えられる。
【落城の刻】
数日にわたる攻防の末、ついに落城の時が訪れる。内部からの手引きがあったのか、あるいは度重なる攻撃で防御兵力が完全に尽きたのか、いずれかの尾根筋の防御ラインが突破された。そこから織田軍の兵が鬨の声を上げながら、濁流のごとく城内へと雪崩れ込む。主郭(本丸)で繰り広げられた最後の抵抗も、衆寡敵せず、城は各所から火の手が上がり、炎に包まれた。この大混乱の中、山名祐豊はもはやこれまでと覚悟を決め、僅かな供回りとともに、敵の警戒が手薄な搦手(からめて、裏口)から辛くも脱出。二百年以上にわたって山名氏の居城であった此隅山城は、ここに陥落した。祐豊は再起を期すべく、当時自治都市として栄え、多くの亡命者が身を寄せていた和泉国堺を目指して落ち延びていった 2。
第三章:但馬平定
但馬国における抵抗の象徴であった此隅山城の陥落は、他の国人衆の戦意を完全に打ち砕いた。守護の本拠地が、圧倒的な兵力と新戦術の前に為す術もなく短期間で陥落したという事実は、但馬全土に衝撃となって伝わった。「山名氏に味方しても勝ち目はない」という冷徹な現実を突きつけられた国人衆は、自らの城が次の攻撃目標となる前に、雪崩を打って秀吉のもとに降伏した。
太田垣輝延が籠る竹田城もこの時に降伏し 27 、垣屋氏の居城をはじめとする但馬国内の諸城、その数十八城が、此隅山城の落城後、わずか数日のうちに次々と織田方の支配下に入った 2 。これは、秀吉が後の戦いでも多用することになる「主城を叩き、その威光によって周辺勢力を心理的に屈服させる」という戦術の、初期の成功例と言える。此隅山城の陥落は、物理的な勝利以上に、但馬国人衆の抵抗の意志そのものを破壊する「ドミノ効果」をもたらしたのである。
こうして、八月一日に始まった但馬侵攻は、わずか二週間足らずで完了した。秀吉軍は八月十三日には但馬を平定し、京都への帰国の途についている 8 。
第四部:戦後の波紋 - 但馬の権力構造の変容
此隅山城の戦いは、但馬国の権力構造を根底から覆し、山名氏の運命、ひいては織田・毛利両勢力の関係性にまで、長きにわたる影響を及ぼした。
第一章:亡命と帰還 - 山名祐豊のその後
堺へ逃れた山名祐豊であったが、その命運はまだ尽きていなかった。祐豊は、織田信長の御用商人でもあった堺の豪商・今井宗久を頼り、その仲介を通じて信長との和睦の道を探った 2 。敵対した者を容赦なく滅ぼすことで知られる信長が、なぜ祐豊の帰順を認めたのか。それは、単なる温情ではなく、高度な政治的判断に基づいていた。
当時の信長は畿内を平定したばかりであり、遠方の但馬国に代官を派遣し、直接統治を行うほどの余力はなかった。そこで、旧守護である山名祐豊を傀儡として存続させ、彼に限定的ながらも旧領である出石郡の支配を安堵することで、但馬の国人衆をまとめさせ、統治コストをかけずに但馬を織田の勢力圏に組み込もうとしたのである 2 。祐豊は信長に生殺与奪の権を握られている以上、織田方に逆らうことはできない。信長にとって、祐豊は但馬を間接的にコントロールするための、極めて都合の良い「装置」であった。
こうして信長の許しを得た祐豊は、但馬への帰国を果たす。しかし、落城した此隅山城に戻ることはなかった。一説には、城の別名が「子盗(ことり)」に通じることを嫌ったとも言われるが、より現実的には、防御力に優れた新たな拠点が必要であったためであろう。祐豊は、此隅山の南に位置する、より険峻な有子山(ありこやま)に新城(有子山城)を築き、そこを本拠とした 2 。
第二章:新たな動乱の序章
永禄十二年の織田軍の勝利は、しかし、但馬から毛利氏の影響力を完全に排除するには至らなかった。親毛利派の垣屋豊続らは依然として勢力を保ち、但馬は織田と毛利の草刈り場としての様相を呈し続けた 3 。やがて、信長と毛利氏の関係が「束の間の協調」から全面対決へと移行すると、但馬は両勢力の代理戦争の最前線となり、再び戦火に包まれることになる 2 。
この新たな動乱の中で、山名祐豊は織田と毛利の間で旗幟を鮮明にしない、曖昧な態度を取り続けた 2 。しかし、そのような中立が許される時代ではなかった。天正八年(1580年)、中国攻めを本格化させた羽柴秀吉・秀長兄弟による第二次但馬征伐が行われる。有子山城は織田の大軍に包囲され、なすすべなく落城。高齢で病床にあった祐豊は、落城からわずか五日後にその生涯を閉じ、但馬守護としての山名氏嫡流は、ここに完全に滅亡した 1 。
この結末は、永禄十二年の此隅山城の戦いが、但馬山名氏の滅亡の「序章」に過ぎなかったことを示している。あの戦いで、山名氏は自力で領国を維持する軍事力も、国人を束ねる政治力も、既に失っていることが白日の下に晒された。その後の約十年間は、ひとえに信長の政治的意図によって生かされたに過ぎず、自立した戦国大名としての生命は、事実上、此隅山城の落城と共に絶たれていたのである。それは、死期を宣告された名門が、緩やかに滅びへと向かうための「執行猶予期間」であった。
結論:此隅山城の戦いが残した歴史的意義
永禄十二年(1569年)の此隅山城の戦いは、戦国史において複数の重要な意義を持つ、画期的な出来事であった。
第一に、 山名氏に対して は、但馬守護としての権威と軍事力を完全に失墜させ、その滅亡を事実上決定づけた。この一戦が、室町時代から続いた名門・山名氏の歴史的役割の終焉を告げる号砲となった。
第二に、 但馬国にとって は、織田信長の西国進出の波に飲み込まれ、織豊政権の支配体制下に組み込まれていく、最初の大きな一歩であった。この戦いを境に、但馬は中央の政治動向に直接的に左右される地域へと変貌を遂げた。
第三に、 羽柴秀吉にとって は、方面軍司令官として独立した大規模な軍事作戦を、電撃的な速さで成功させた初期の重要な実績となった。ここで得た経験と自信は、後の中国攻め、ひいては天下統一事業を成し遂げる上での貴重な礎となったであろう。
そして最後に、 戦国史全体において は、畿内を制した織田勢力と、西国の覇者・毛利勢力が、互いの戦略的利害のもとに初めて本格的に接触した、重要な転換点であった。この時点では協力関係にあった両者が、やがて日本の覇権を巡って激突する運命を考えると、この戦いはその後の両者の関係性を規定する、皮肉な序章であったと言える。
【表2】永禄十二年(1569年)但馬侵攻 関連年表
年月 |
出来事 |
関連勢力 |
典拠 |
||
永禄11年(1568) 9月 |
織田信長、足利義昭を奉じ上洛 |
織田、足利 |
4 |
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永禄12年(1569) 春 |
尼子勝久・山中幸盛ら、出雲で挙兵し毛利領を攻撃 |
尼子、毛利 |
3 |
||
永禄12年(1569) 8月 |
毛利元就、尼子と結ぶ山名氏の制圧を信長に要請 |
毛利、織田 |
2 |
||
永禄12年(1569) 8月1日 |
羽柴秀吉軍(2万)、但馬へ侵攻開始 |
織田 |
|
8 |
|
永禄12年(1569) 8月上旬 |
此隅山城落城。山名祐豊は堺へ逃亡 |
織田、山名 |
|
2 |
|
永禄12年(1569) 8月13日 |
秀吉軍、但馬18城を制圧し帰国 |
織田 |
|
8 |
|
永禄12年(1569) 末頃 |
祐豊、今井宗久の仲介で信長に帰順し、出石郡を安堵される |
山名、織田 |
2 |
||
元亀2年(1571) |
祐豊、織田方として丹波山垣城を攻撃 |
山名 |
8 |
||
天正2年(1574) |
祐豊、有子山城を築城し本拠を移す |
山名 |
2 |
||
天正8年(1580) 4-5月 |
第二次但馬征伐。羽柴秀長軍により有子山城落城 |
織田(羽柴) |
2 |
||
天正8年(1580) |
山名祐豊、落城後死去。但馬守護山名氏の嫡流は滅亡 |
山名 |
1 |
引用文献
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- 第60号(2021/03) 豊岡と戦国大名 https://www3.city.toyooka.lg.jp/kokubunjikan/news/news60.pdf
- 戦国の動乱と垣屋 https://lib.city.toyooka.lg.jp/kyoudo/komonjo/53796b17ef4f0fcb814fdfc50b27377b3d211cf1.pdf
- 織田信長の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/26141/
- 史跡小牧山の沿革 織田信長の小牧山城 - 小牧市 http://www.city.komaki.aichi.jp/admin/event_1/events/bunkazai/1/news/enkaku/13368.html
- 1568年 – 69年 信長が上洛、今川家が滅亡 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1568/
- 山中鹿之助(山中幸盛)の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト https://www.touken-world.jp/tips/97873/
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- 戦国時代の貨幣とは?種類や歴史、入手経路を概説! https://sengoku-his.com/1109
- 山名氏城跡 此隅山城跡 有子山城跡 - 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/210750
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- 但馬 此隅山城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/tajima/konosumiyama-jyo/
- 但馬・八木城跡 - 養父市 https://www.city.yabu.hyogo.jp/soshiki/kyoikuiinkai/shakaikyoiku/1/4/yagi/2534.html
- 此隅山城 [前編] 比高130mの山上に残る但馬最大規模の山城跡。 - 城めぐりチャンネル https://akiou.wordpress.com/2015/03/08/konosumi/
- 此隅山城 [後編] 主郭西側は木々が伐採され周囲の支城が見渡せる。 - 城めぐりチャンネル https://akiou.wordpress.com/2015/03/08/konosumi-p2/
- 名城 此隅山城 - お城ファンクラブ https://oshirofan.club/KI006-konosumiyamajou.html
- 此隅山城 http://www2.harimaya.com/sengoku/zyosi/konosumi_jo.html
- 此隅山城 - - お城散歩 - FC2 https://kahoo0516.blog.fc2.com/blog-entry-425.html
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