水戸城の戦い(1600)
慶長五年 水戸城の戦い ― 関ヶ原の裏面史、常陸国に散った復讐の徒花
序章:天下分け目の渦中で
慶長五年(1600年)、日本全土は未曾有の緊張に包まれていた。二年前の太閤・豊臣秀吉の死は、絶対的な権力者の不在という巨大な空白を生み出し、諸大名の間に渦巻いていた野心と猜疑心を一気に解き放った。豊臣政権の屋台骨であった五大老・五奉行の体制は、筆頭大老たる徳川家康の突出した実力と政治的野心の前で急速に形骸化し、天下は再び動乱の時代へと逆行し始めていた 1 。
この危うい均衡を最終的に破壊したのが、家康による「会津征伐」であった。豊臣政権への反逆の嫌疑をかけられた会津の上杉景勝を討伐すべく、家康は全国の諸大名を率いて江戸を発ち、東国へと進軍する 3 。これは、豊臣恩顧の大名を自らの麾下に組み込むと同時に、政敵である五奉行筆頭・石田三成を大坂で孤立させるための、家康の周到な戦略であった 2 。家康の思惑通り、この「権力の空白」を好機と見た三成は、毛利輝元を総大将に担ぎ上げ、反家康の兵を挙げる。ここに、天下の覇権を賭けた「関ヶ原の戦い」の幕が切って落とされたのである 6 。
全国の大名が東軍と西軍のいずれかに与し、その去就が家の存亡を左右する極限状況の中、この天下の動乱は、中央から遠く離れた常陸国水戸の地においても、一つの悲劇的な局地戦を誘発することになる。それが本稿で詳述する「水戸城の戦い」である。この戦いは、中央の政争が生み出した権力の隙間を突き、旧時代の怨念が噴出した、時代の転換を象徴する事件であった。天下分け目の巨大な歯車が回転するその裏側で、一つの城を巡り、三者三様の思惑が交錯し、多くの血が流れたのである。
第一章:板挟みの大大名・佐竹義宣の苦悩
関ヶ原の動乱において、常陸国水戸五十万石を領する大大名・佐竹義宣は、最も困難な政治的判断を迫られた人物の一人であった。彼の苦悩の根源は、個人的な信義と、一族の存続という現実主義との間で引き裂かれたことにあった。
豊臣政権下での栄達と石田三成との盟約
清和源氏の流れを汲む名門・佐竹氏は、天正十八年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐にいち早く参陣することで、その地位を盤石なものとした 8 。秀吉の威光を背景に、長年対立してきた常陸国内の諸勢力を平定し、悲願であった領国統一を達成する 9 。そして、本拠を古くからの太田城から、常陸国の中心地である水戸城へと移し、名実ともに関東を代表する大大名として君臨した 8 。
この佐竹氏の飛躍を陰で支えたのが、豊臣政権の中枢にあった石田三成であった。義宣と三成の関係は、単なる政治的な結びつきを超えた、固い盟約と呼ぶべきものであった。かつて、縁戚であった宇都宮氏が改易された際、佐竹氏も連座の危機に瀕したが、三成の取りなしによってこれを免れている 10 。さらに、三成が主導した太閤検地により、佐竹氏の石高は二十七万石余から五十四万石余へと倍増し、その大名権力の基盤は飛躍的に強化された 12 。
この恩義に対し、義宣もまた命を懸けて応えた。慶長四年(1599年)、加藤清正ら七将が三成を襲撃した際、絶体絶命の窮地に陥った三成を自らの伏見屋敷に匿い、追手から守り抜いたのである 10 。この一件は、義宣の律儀な人柄を示す逸話として知られ、敵対する家康でさえも「律義者」と評したと伝わる 10 。しかし、この行動は同時に、佐竹義宣が「三成派」の人間であることを天下に公言するに等しいものであった。義宣にとって三成は、「治部(三成)が死んでは生き甲斐がなくなる」とまで言わしめた、かけがえのない盟友だったのである 15 。
「鬼義重」の現実主義と父子の対立
義宣のこうした情誼に厚い姿勢とは対照的に、隠居の身であった父・義重は、冷徹なまでの現実主義者であった。「坂東太郎」の異名を持ち、七人の敵を一度に斬り伏せたという逸話から「鬼義重」と恐れられた歴戦の猛将である 6 。彼は、秀吉亡き後の時流が徳川家康にあることをいち早く見抜き、佐竹家の安泰のためには、個人的な恩義を捨ててでも家康に従うべきだと強く主張した 3 。
ここに、佐竹家を揺るがす深刻な路線対立が生じる。盟友への信義を貫こうとする息子・義宣と、家の存続を第一に考える父・義重。この父子の意見の対立は、佐竹家の意思決定を完全に麻痺させてしまった 6 。
曖昧戦略が招いた権力の空白
慶長五年、家康が会津征伐の号令を発した際、佐竹氏の苦悩は行動となって現れる。義宣は家康の要請に応じ、軍勢を率いて出陣する。しかし、その進軍は極めて緩慢であり、下野国赤館(現在の福島県棚倉町周辺)に至ったところで、突如として進軍を停止してしまう 17 。これは、盟友である上杉景勝と、天下の実力者である徳川家康との間で、態度を決めかねた義宣の苦衷の表れであった。
七月二十五日、下野国小山に陣を敷いていた家康のもとに三成挙兵の報が届き、有名な「小山評定」が開かれる。諸将が雪崩を打って家康への忠誠を誓い、軍勢を西へ反転させる中、義宣はまたしても明確な態度を示さなかった。彼は東軍に合流することなく、軍を率いて本拠地である水戸へと引き返してしまったのである 18 。
この一連の日和見的な態度は、最悪の結果を招いた。家康の不信感を決定的にし、戦後の過酷な処断へと繋がっただけでなく 19 、より直接的な悲劇を引き起こすことになる。すなわち、佐竹氏の主力部隊が、領国から遠く離れた中途半端な位置に留まり、本拠地である水戸城が極めて手薄な状態になるという、軍事的に最も危険な状況、すなわち「権力の空白」を生み出してしまったのである。この状況は、水戸城に怨念を抱き、雌伏の時を過ごしていた者たちにとって、千載一遇の好機と映ったに違いなかった。水戸城の戦いは、佐竹氏の外交的・戦略的失敗が直接的に引き起こした、必然の内乱だったのである。
第二章:復讐の狼煙 ― 旧領主・江戸氏の怨嗟
佐竹氏が作り出してしまった水戸城の「権力の空白」は、十年前にその地を追われた者たちの復讐心に火をつけた。彼らこそ、かつての水戸城主・江戸氏とその旧臣たちである。彼らの蜂起は単なる私怨による反乱ではなく、豊臣政権によって強制的に解体された旧秩序が、新秩序の揺らぎに乗じて噴出した、最後の抵抗運動であった。
水戸城からの追放と十年の雌伏
江戸氏は、佐竹氏と同じく常陸国に深く根を張った在地領主であった 22 。応永年間(15世紀初頭)に水戸城をその手に収めて以来、約160年にわたって水戸地方を支配してきた名族である 12 。しかし、その支配は天正十八年(1590年)に突如として終焉を迎える。
小田原征伐後、豊臣秀吉から常陸一国の支配権を公的に認められた佐竹義宣は、江戸氏当主・江戸重通に対して水戸城の明け渡しを要求した 8 。重通がこれを拒絶すると、佐竹義重が指揮する大軍が水戸城に殺到した。圧倒的な軍事力の前に、江戸氏の抵抗はわずか二日で打ち砕かれ、水戸城は落城。これにより戦国領主としての江戸氏は滅亡し、当主・重通は妻の縁を頼って下総国の結城晴朝のもとへと落ち延びていった 11 。
江戸氏の旧臣たちの運命は過酷であった。一部は新たな支配者である佐竹氏に仕え、あるいは帰農し、またある者は浪人となって糊口をしのぎながら、旧領回復の機会を十年もの間、窺い続けていた 25 。彼らにとって、佐竹氏は単に実力で自分たちを打ち破った者ではなかった。中央の権威を笠に着て、先祖伝来の地を奪った簒奪者と映っていた可能性が高い。豊臣秀吉という絶対的な権威の前では、その怨嗟を胸の内に秘めるしかなかった。
千載一遇の好機
しかし慶長五年、その状況は一変する。佐竹氏の主力が領国を離れ、天下が東西に分かれて大乱に突入した。これは、江戸氏旧臣にとって、まさに十年待ち続けた復讐と旧領回復の絶好の機会であった。中央の権威が揺らぐ今、実力で水戸城を奪還し、来るべき新時代の勝者にそれを認めさせることができれば、一族の再興も夢ではない。それは、戦国的な実力行使によって失われたものを取り戻そうとする、旧時代の価値観に基づいた、彼らにとっての極めて合理的な行動だったのである。
関ヶ原の動乱は、彼らが再び歴史の表舞台に立つための、最後の好機であった。そして彼らは、その千載一遇の機会に、一族の存亡を賭けて蜂起するのである。
第三章:慶長五年、水戸城 ― 合戦の時系列再現
天下分け目の関ヶ原の戦いが終結して間もない慶長五年十月初頭(推定)、常陸国水戸城下は静寂と緊張に包まれていた。しかしその闇の底で、十年の怨念を燃やし続けた者たちが、復讐の刃を研ぎ澄ましていた。この章では、断片的な史料を基に、水戸城を巡る一夜の攻防を時系列に沿って再現する。
決起と集結(九月下旬~十月初頭)
九月十五日、美濃国関ヶ原において、徳川家康率いる東軍が石田三成の西軍に圧勝した。しかし、この決定的な情報が常陸国まで正確に伝わるには、相応の時間を要した。情報が錯綜し、天下の趨勢がいまだ不透明であると信じられていたであろう九月下旬、江戸氏旧臣の中心人物である車丹波守猛虎(くるま たんばのかみ たけとら)は、ついに蜂起を決意する 26 。
彼の呼びかけに応じ、同じく旧臣であった大窪兵蔵久光、馬場和泉守政直らが馳せ参じ、その兵力は三百余騎に達した 26 。この数は、堅固な水戸城を正面から攻め落とすにはあまりに少ない。彼らの作戦は、奇襲による城内の混乱に乗じて一気に城を乗っ取るという、一点に賭けたものであった。
手薄な城の守り
一方、守る側の水戸城は、極めて脆弱な状態にあった。城主・佐竹義宣と主力部隊は領外におり、城の守りを任されていたのは、佐竹一門の重鎮・佐竹義久(東義久)であった 27 。義久は外交手腕にも長けた武将であったが、限られた兵力で広大な城郭を守らねばならないという困難な状況に置かれていた。
さらに皮肉なことに、義久自身がその守備兵力をさらに削いでいた。彼は、父祖の代からの現実主義者であった義重の意向も汲んだのか、あるいは佐竹家がどちらに転んでも生き残れるよう保険をかけたのか、独断で三百騎の兵を割き、中山道を進む徳川秀忠の軍勢に合流させていたのである 18 。この行動は、結果的に本拠地の守りを一層手薄にし、復讐者たちに絶好の機会を与えることになった。
攻防のリアルタイム再現
【夜半】 奇襲の開始
十月のある夜、月も姿を隠す闇に紛れ、車猛虎率いる三百余騎は水戸城へと静かに接近した。彼らが狙ったのは、おそらく防御が手薄になりがちな城の裏手、搦手門(からめてもん)方面であったと推測される。息を殺して城壁に近づくと、一斉に鬨(とき)の声を上げ、城内に火矢を放ち、奇襲の火蓋を切った。静寂は破られ、城内は瞬く間に混乱の坩堝と化した。
【深夜】 城内の応戦と激闘
不意を突かれた城兵たちは一時浮き足立つが、城代・佐竹義久の冷静沈着な指揮がそれを許さなかった。「敵は少数ぞ、臆するな! 各々持ち場を守れ!」という檄が飛び、留守部隊は速やかに防衛体制を立て直す。本丸や二の丸への侵入を断固として阻止すべく、城門や塀際では、刀と槍が火花を散らす激しい白兵戦が展開された。闇の中で敵味方の怒号が飛び交い、攻める者と守る者の血が、水戸城の土を濡らした。
【未明】 膠着する戦況
江戸勢は奇襲の勢いを借りて城内の一部に突入しようと何度も試みるが、佐竹勢の組織的な抵抗に遭い、決定的な突破口を開くことができない。三百という兵力では、広大な城郭を完全に制圧するには至らず、戦況は次第に膠着状態に陥っていった。夜明けが近づくにつれ、奇襲の成功に賭けていた攻撃側の焦りは募っていった。
【夜明け】 反撃、そして潰走
東の空が白み始め、夜陰という最大の味方を失った時、戦いの趨勢は決した。奇襲の利が失われ、敵の兵力が少数であることを見極めた佐竹勢が、本格的な反撃を開始する。城代・義久の号令一下、大手門が大きく開け放たれ、城内から打って出た部隊が、疲弊した江戸勢の側面に突撃した。予期せぬ反撃に陣形を乱された江戸勢は、もはや持ちこたえることができず、総崩れとなって敗走を始めた。
【早朝】 追撃と鎮圧
「一人たりとも逃すな!」佐竹勢の執拗な追撃が始まった。蜘蛛の子を散らすように逃げる江戸勢を追い、首謀者である車猛虎をはじめ、大窪兵蔵、馬場和泉守といった中心人物が次々と討ち取られ、あるいは捕縛された 26。一夜にして水戸城を奪還するという彼らの夢は、夜明けと共に儚く潰え去ったのである。
この蜂起は、軍事的な敗北である以前に、致命的な「情報戦」の敗北であった。彼らは、関ヶ原の戦いが九月十五日に、わずか半日で東軍の圧勝に終わったという決定的な情報を、蜂起の時点でおそらく正確に把握していなかった。彼らの行動は、「西軍が勝利する、あるいは戦乱が長期化し、佐竹氏が弱体化する」という、もはや時代遅れとなった見込みに基づいていた。彼らの悲劇は、時代の大きな流れを読み違えた点にあったと言えよう。
【表】 水戸城の戦い 関連時系列表
年月日(慶長5年) |
中央の動向(関ヶ原周辺) |
常陸国の動向(佐竹氏・江戸氏旧臣) |
7月24日 |
徳川家康、小山評定で西上を決意 |
佐竹義宣、赤館で進軍を停止。家中は東西で分裂 17 |
9月15日 |
関ヶ原の戦い。東軍が圧勝 29 |
(情報未達)佐竹主力は依然領外。水戸城は手薄な状態が続く。 |
9月下旬(推定) |
家康、戦後処理を開始。西軍諸将の追捕が進む 30 |
江戸氏旧臣、蜂起。水戸城を夜襲 26 |
10月1日 |
石田三成、京都六条河原で処刑 1 |
水戸城の戦い、佐竹勢の勝利で終結。首謀者ら捕縛 26 |
10月上旬(推定) |
|
捕らえられた首謀者ら、吉田台で磔刑に処される 26 |
第四章:戦後の粛清と常陸国の激変
水戸城を巡る一夜の攻防は、佐竹氏の勝利に終わった。しかし、この局地戦の終結は、常陸国における新たな、そしてより大きな激変の序章に過ぎなかった。戦後の処理は、徳川家康による新たな天下秩序の構築という、巨大な文脈の中で進められていくことになる。
反乱者の末路
水戸城奪還に失敗し、捕らえられた車猛虎ら首謀者たちの運命は悲惨であった。彼らは水戸城下の吉田台に引き出され、見せしめとして磔刑に処された 26 。これは、佐竹氏による領国支配の維持と、反抗する者への断固たる意志を示すための、戦国時代における過酷な処置であった。十年にわたる旧領回復の夢は、最も無残な形で終わりを告げたのである。
佐竹氏の凋落
国内の反乱を鎮圧した佐竹氏であったが、彼らを待っていたのは、さらに過酷な運命であった。関ヶ原の戦いにおける義宣の曖昧な態度は、新時代の覇者となった徳川家康にとって、決して許容できるものではなかった。義宣は戦後、家康や二代将軍となる秀忠のもとに何度も使者を送り、二心なきことを伝え、必死の弁明を行った 21 。しかし、一度抱かれた不信感を覆すことはできなかった。
慶長七年(1602年)五月、佐竹氏に対し、徳川家からの上意が下される。それは、先祖代々の地である常陸国五十四万石を没収し、遠く出羽国秋田二十万石へ転封(国替え)せよ、というものであった 3 。これは、石高において三分の二以上を削減されるという、事実上の大大名の地位からの転落を意味した。義理と現実の間で揺れ動き、決断を誤った代償は、あまりにも大きなものであった。徳川の天下において、日和見主義がいかに高くつくかを象徴する出来事となったのである 31 。
新たな支配者の到来と「徳川の庭」の完成
佐竹氏が去った後の常陸国は、徳川家による関東支配を完成させるための戦略的な要衝として再編されていく。佐竹氏の旧領であり、江戸の北東に位置する水戸城には、まず家康の五男・武田信吉が入るが、彼は早世する 32 。その後、十男の徳川頼宣、そして慶長十四年(1609年)には十一男の徳川頼房が二十五万石で入城し、水戸藩が成立した 32 。
これにより、水戸城は尾張・紀伊と並ぶ徳川御三家の一つ、水戸徳川家の居城として、幕末まで二百六十年以上にわたり、徳川幕府の東の守りを固める重要な拠点となる 33 。
結果として、「水戸城の戦い」とその後の佐竹氏の転封は、徳川家康による関東平野の完全な掌握、すなわち「徳川の庭」を完成させるための最後のピースを埋める役割を果たした。江戸を本拠とする家康にとって、北関東に存在する佐竹氏という巨大な外様大名は、常に潜在的な脅威であった 4 。佐竹氏の曖昧な態度と、それに乗じて発生した江戸氏旧臣の蜂起は、結果的に彼らを排除するための絶好の口実を与えた。この局地戦は、当事者たちの意図とは関わりなく、家康の天下普請を盤石なものとする上で、極めて重要な役割を担ったのである。
終章:局地戦が映し出す時代の転換
慶長五年、水戸城を舞台に繰り広げられた一夜の戦いは、関ヶ原の戦いという巨大な歴史の奔流の中に埋もれがちな、一つの局地戦に過ぎない。しかし、この戦いは、関わった三者すべてにとって忘れがたい悲劇を刻み込むと同時に、一つの時代の終わりと新しい時代の幕開けを鮮やかに映し出している。
まず、旧領回復の夢に賭けた江戸氏旧臣たちは、時代の流れを読み誤り、一族再興の道を完全に断たれた。彼らの行動は、戦国時代的な実力行使の論理に基づいていたが、それはもはや徳川家康が構築しつつある、中央集権的な新しい秩序の前には通用しなかった。彼らの死は、旧時代の価値観の終焉を象徴していた。
次に、大大名・佐竹氏は、個人的な信義と一族存続の現実主義との間で決断を誤り、先祖代々受け継いできた常陸国を失った。彼らの苦悩と凋落は、戦国時代的な「恩義」や「義理人情」が、新しい時代の冷徹な政治力学の前では、いかに脆いものであったかを物語っている。
そして、この戦いの直接の当事者ではなかった徳川家でさえも、新たな怨念の種を抱え込むことになった。首謀者・車猛虎の息子である善七郎は、父の仇として家康を深く恨み、植木職人となって復讐の機会を窺ったと伝えられている 26 。一つの戦いが、また新たな憎しみの連鎖を生み出すという、歴史の非情な側面がここにも見て取れる。
結論として、「水戸城の戦い」は、単なる旧臣の反乱という枠組みを超えた、深い歴史的意義を持つ事件であった。それは、戦国時代を通じて日本社会を規定してきた「在地性」や「私的な盟約」といった価値観が、徳川による新たな「公儀」と「秩序」の前に崩れ去っていく、時代の断層を象徴する出来事だったのである。
歴史は、著名な英雄や天下分け目の大合戦だけで紡がれるのではない。名もなき人々の絶望的な戦いや、地方で起きた無数の悲劇の積み重ねの上に、新しい時代は築かれていく。水戸城を巡る一夜の攻防は、その厳然たる事実を、我々に静かに語りかけているのである。
引用文献
- 関ヶ原の戦い|日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=804
- 関ヶ原の戦いで東軍についた武将/ホームメイト - 刀剣ワールド東京 https://www.tokyo-touken-world.jp/tokyo-history/sekigahara-east/
- 関ヶ原の合戦はなかった?もしも上杉・佐竹連合軍ができていたら 久保田城で悲運の佐竹義宣は何を思ったか | グルメ情報誌「おとなの週末Web」 https://otonano-shumatsu.com/articles/398607/2
- わずか数時間で終わった決戦:天下分け目の「関ヶ原の戦い」を考察する(中) | nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b06916/
- 関ヶ原の戦いで西軍についた武将/ホームメイト - 刀剣ワールド大阪 https://www.osaka-touken-world.jp/osaka-history/sekigahara-west/
- 関ヶ原の戦いにおける東軍・西軍の武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/41104/
- 関ヶ原の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 徳川御三家のお城【水戸城の歴史】を一記事にまとめました - 日本の城 Japan-Castle https://japan-castle.website/history/mitocastle/
- 歴史館だより - 茨城県立歴史館 https://rekishikan-ibk.jp/cms/wp-content/uploads/2022/03/notice118.pdf
- 佐竹氏の歴史 - DTI http://www.remus.dti.ne.jp/~ddt-miz/satake/satake-7.html
- 水戸城 https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/zenkoku/shiseki/kantou/mito.j/mito.j.html
- 第十一章 佐竹氏の領国統一 - 水戸市ホームページ https://www.city.mito.lg.jp/uploaded/attachment/10828.pdf
- 佐竹義宣と石田三成について②~宇都宮国綱改易事件 - 古上織蛍の日々の泡沫(うたかた) https://koueorihotaru.hatenadiary.com/entry/2018/02/13/153502
- BLOG スタッフブログ - ブログ | 休暇村乳頭温泉郷【公式】 https://www.qkamura.or.jp/nyuto/blog/detail/?id=100668
- 佐竹義宣の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/38335/
- 「彼奴は人ではなし。鬼じゃ!」北条氏も恐れた、常陸国・佐竹義重が果たした責務 | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/10837
- 1600年 関ヶ原の戦いまでの流れ (前半) | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1600-1/
- 佐竹義久/戦国Xファイル https://www.asahi-net.or.jp/~jt7t-imfk/taiandir/x189.html
- 無題ドキュメント - 戦国新報 https://takajuu.co.jp/nakanaka/nakami/h5/425.html
- 親子兄弟が東西に分かれた大名家、そして三成の最期:天下分け目の「関ヶ原の戦い」を考察する(下) | nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b06917/
- 関ヶ原の戦い - 茨城県立歴史館 https://www.rekishikan.museum.ibk.ed.jp/06_jiten/rekisi/sekigahara.htm
- 【江戸氏から佐竹氏へ】 - ADEAC https://adeac.jp/mito-lib/text-list/d500010/ht000170
- ―常陸戦国に 名を 遺し た武家の 歴史― - 全国遺跡報告総覧 https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/46/46971/122839_1_%E6%B0%B4%E6%88%B8%E5%B8%82%E5%9F%8B%E8%94%B5%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B2%A1%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E4%BB%A4%E5%92%8C2%E5%B9%B4%E5%BA%A6%E4%BC%81%E7%94%BB%E5%B1%95%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%B0%8F%E3%81%AE%E9%87%8E%E6%9C%9B%E2%94%80%E5%B8%B8%E9%99%B8%E6%88%A6.pdf
- 江戸氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%B0%8F
- 江戸 新五郎 - 常陸大宮市ふるさと文化で人と地域を元気にする事業 https://www.hitachiomiya-furusatobunka.com/%E3%81%B2%E3%81%A8/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%96%B0%E4%BA%94%E9%83%8E/
- 古城の歴史 水戸城 https://takayama.tonosama.jp/html/mito.html
- 佐竹義久 - BIGLOBE http://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/jin/SatakeYoshihisa.html
- 佐竹義久 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E7%AB%B9%E7%BE%A9%E4%B9%85
- 1600年 関ヶ原の戦い | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1600-3/
- 「関ヶ原の戦い(1600年)」をおさらい! 豊臣後継権力をめぐる天下分け目の東西大戦 https://sengoku-his.com/1001
- 常陸佐竹氏(茨城歴史事典) https://www.rekishikan.museum.ibk.ed.jp/06_jiten/rekisi/hitatisatake.htm
- 水戸徳川家の成り立ち~秋田へ転封した佐竹氏に代わって常陸に投入された徳川親藩・譜代大名 https://articles.mapple.net/bk/6796/
- 水戸城の歴史と現在・特徴/ホームメイト https://www.homemate-research-castle.com/useful/16952_tour_033/
- 水戸城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E6%88%B8%E5%9F%8E