氷見・放生津の戦い(1585)
天正十三年、「氷見・放生津の戦い」は富山の役の前哨戦。前田利家が阿尾城を攻略し、佐々成政の沿岸防衛網を破る。秀吉は越中を制圧し、前田家は加賀百万石の礎を築いた。
天正十三年、越中沿岸の攻防 ―「氷見・放生津の戦い」と富山の役の全貌
序章:越中、動乱の中心へ
天正13年(1585年)、日本の歴史が大きく動いたこの年、北陸道越中国の沿岸部、氷見・放生津(ほうじょうづ)一帯は、天下統一を目前にした羽柴秀吉の壮大な戦略の焦点となっていた。ユーザーが提示した「氷見・放生津の戦い」という呼称は、特定の単一合戦を指す固有名詞として一次史料に頻繁に登場するものではない。むしろ、これは同年夏に行われた秀吉による大規模な越中征伐、すなわち「富山の役」の序盤において、富山湾岸の制海権と戦略的要衝を巡って繰り広げられた一連の軍事行動、特に氷見の「阿尾城(あおじょう)の戦い」を中核とする沿岸制圧作戦の総称と理解するのが最も的確である 1 。
この沿岸部での攻防は、単なる局地的な前哨戦に留まらない。それは、陸路からの本隊侵攻に先立ち、敵の防衛網を無力化し、兵站線を確保するという、秀吉の周到な戦争計画の重要な一翼を担っていた。佐々成政が築き上げた越中の守りを、内陸の堅固な城塞群だけでなく、その生命線たる沿岸部から切り崩そうとする秀吉方の意図が明確に見て取れる。本報告書は、この「氷見・放生津の戦い」を「富山の役」という広範な軍事行動の文脈の中に正確に位置づけ、その背景、詳細な戦闘経過、そして北陸の勢力図を決定的に塗り替えた歴史的意義を、時系列に沿って徹底的に解明することを目的とする。
第一章:決戦前夜 ― 佐々成政、孤立への道
天正13年の悲劇に至る佐々成政の道程は、織田信長亡き後の激動の中で、旧来の秩序と価値観に殉じようとした一人の武将の苦闘の記録である。
天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いにおいて、成政は柴田勝家方に与したものの、東の上杉景勝への備えという地政学的制約から越中の地を動けず、叔父の佐々平左衛門率いる僅かな援軍を送るに留まった 4 。勝家の滅亡後、成政は天下の趨勢を鑑み、一度は秀吉に帰服する。しかし、その臣従は心からのものではなく、「信長の次男・信雄公を主君に立てること」を条件とする、あくまで織田家への忠誠を前提としたものであった 5 。
その忠義が試される時が、翌天正12年(1584年)に訪れる。織田信雄が徳川家康と結び、秀吉に対して兵を挙げた「小牧・長久手の戦い」である。成政は信雄・家康の要請に応じ、反秀吉方として明確に立場を表明。これにより、秀吉方の中核をなす隣国加賀の前田利家との対立は決定的となった 6 。同年9月、成政は1万5千を超える大軍を率いて利家の領国・能登へ侵攻し、末森城を包囲する。しかし、利家自身の迅速かつ果敢な救援により、佐々軍は手痛い敗北を喫し、越中へと撤退を余儀なくされた 1 。
末森城での敗北後、戦局が膠着する中、成政の元に衝撃的な報せが届く。秀吉の巧みな調略により、信雄が家康に無断で単独講和に応じたというのである 8 。これにより、成政が秀吉と戦うための大義名分は事実上消滅した。しかし、成政はこの現実を受け入れなかった。彼は、家康に再挙を促すべく、常軌を逸した行動に出る。天正12年の冬、厳寒の北アルプス・立山連峰を踏破し、浜松の家康の元へ直接赴くという、後世「さらさら越え」として知られる壮挙である 9 。この前代未聞の雪中行軍は、成政の不屈の精神と織田家への忠義の証として語り継がれる一方で、彼の運命を決定づける致命的な判断ミスでもあった。
浜松城にたどり着いた成政を待っていたのは、家康からの無情な拒絶であった。秀吉との和睦は既に成立しており、覆すことはできない。成政の命を懸けた説得は、完全に水泡に帰したのである 9 。この「さらさら越え」の失敗は、佐々成政の政治的・軍事的孤立を完成させた。西に前田利家、北に上杉景勝という敵対勢力に挟まれ、頼みとした徳川・織田連合からも梯子を外された成政は、秀吉という巨大な敵に対し、全くの孤立無援で立ち向かわなければならない状況に追い込まれたのである 8 。彼の行動原理は、旧織田家臣としての「義」と、秀吉が構築する新秩序という現実との間にあった埋めがたい乖離に根差していた。そしてこの「さらさら越え」は、忠義の極致であると同時に、天下の情勢を見誤った情報戦の完全な敗北を象徴する出来事となった。
第二章:戦いの舞台 ― 越中国の戦略地政学
天正13年の戦役において、氷見・放生津を中心とする富山湾岸が主要な戦場となったのは、この地域が持つ地政学的な重要性に起因する。越中国は、経済、交通、軍事のあらゆる側面において、この沿岸地帯と分かちがたく結びついていた。
氷見と放生津は、古代より日本海交通の要衝として栄えた港湾都市であった。特に放生津は、室町時代中期に将軍職を追われた足利義材(後の義稙)が亡命政権、いわゆる「越中公方(放生津幕府)」を樹立した地であり、越中の政治的中心地としての歴史と権威を有していた 12 。これらの港を支配することは、日本海を通じた物流を掌握し、莫大な経済的利益と兵站能力を確保することを意味した 12 。
軍事的に見れば、この沿岸部は佐々成政の防衛網の鍵となる地域であった。富山湾に突き出すように位置する阿尾城は、海上からの敵の侵入を監視・迎撃する海城としての機能を有し 16 、やや内陸に入った守山城は沿岸部と内陸平野部を結ぶ結節点に位置していた 18 。そして、これらの支城ネットワークの中心に、成政の本拠地である富山城が存在した 19 。富山湾の制海権を握ることは、敵の海上補給を断ち、自軍の連絡線を維持する上で死活問題であった 20 。
成政自身もこの点を熟知しており、主たる脅威である西の前田・秀吉本隊の陸路からの侵攻に備え、加賀との国境である倶利伽羅峠一帯に36もの砦を築き、堅固な防衛線を構築していた 21 。彼の戦略は、この陸路の防衛線で敵主力を食い止めることに主眼が置かれていた。
しかし、攻め手である秀吉の戦略は、成政の想定を上回るものであった。秀吉が編成した遠征軍には、宮部継潤や細川忠興が率いる「船手衆」、すなわち水軍が明確に組み込まれていた 22 。これは、陸路からの正面攻撃一辺倒ではなく、海路を活用した多角的な作戦を企図していたことの何よりの証左である。
秀吉軍にとって、越中沿岸部を制圧することは、単なる一地方の攻略以上の意味を持っていた。それは、陸路(加賀街道)と海路(富山湾)の二正面から富山城を圧迫する「立体的包囲網」を完成させるための絶対条件であった。もし、氷見・放生津の港を事前に確保できれば、秀吉軍は兵員や兵糧、弾薬といった物資を海路で安全かつ迅速に越中西部へ揚陸させることが可能となる。これにより、成政が心血を注いで固めた倶利伽羅峠の防衛線を完全に迂回し、その背後を突くことさえできるのである。この観点から見れば、8月の秀吉本隊侵攻に先立つ6月の「阿尾城の戦い」は、この海からの橋頭堡を確保するための、極めて合理的かつ戦略的な事前作戦であったと結論付けられる。
第三章:前哨戦、燃え上がる氷見 ― 阿尾城の攻防(天正13年6月)
富山の役の火蓋は、秀吉本隊が越中の土を踏む約2ヶ月前、富山湾に面した氷見の地で切られた。佐々成政の支配体制の綻びを突き、前田利家が仕掛けた「阿尾城の戦い」こそ、来るべき決戦の帰趨を事実上決定づけた重要な前哨戦であった。
開戦に至る経緯:菊池氏の寝返り
戦いの直接的な引き金は、阿尾城主・菊池武勝の離反であった。肥後菊池氏の末裔とされる武勝は、元来佐々成政に従っていたが、成政の政治的孤立が深まり、秀吉の圧倒的優勢が明らかになるにつれ、家の存続のために新たな主を模索し始めていた 23 。この動きを前田利家が見逃すはずはなかった。巧みな調略によって、利家は武勝を自陣営に引き入れることに成功する 25 。富山湾に突き出した天然の要害である阿尾城が前田方に寝返ったことは、佐々軍の沿岸防衛網に致命的な亀裂を生じさせるものであった 16 。
戦闘経過:天正13年6月24日の激闘
菊池氏背信の報に、佐々成政は激怒した。彼は即座に、客将であり越中西部の拠点・守山城主であった神保氏張に対し、裏切りの拠点・阿尾城への攻撃を厳命した 2 。
【6月24日 午前】
命令を受けた神保氏張は、嫡男・氏則と共に兵五千を率いて守山城を出陣。一路、氷見の阿尾城へと進撃を開始した 2。佐々方としては、秀吉本隊が到着する前にこの反乱の芽を迅速に摘み取り、沿岸防衛線を再構築する必要があった。
【同日 昼過ぎ~午後】
神保軍接近の報は、既に阿尾城にもたらされていた。城内では城主・菊池武勝に加え、利家が武勝の寝返りを見越して事前に派遣していた援軍が迎撃態勢を固めていた。この援軍には、後に天下にその名を轟かせる前田慶次郎(利益)や、歴戦の将である村井長頼、片山延高らが含まれていた 2。城兵と援軍を合わせた兵力は二千。対する神保軍は五千であり、籠城側は数的に著しく不利な状況にあった。
やがて城下に到着した神保軍は、兵力差を恃み、城への猛攻を開始した。しかし、阿尾城は三方を断崖に囲まれた堅城であり、前田からの援軍を得た城兵の士気は高かった。
【同日 夕刻~夜】
戦闘は熾烈を極めた。神保軍は波状攻撃を仕掛けるが、村井長頼らの巧みな指揮と前田勢の奮戦により、ことごとく撃退される 24。激しい攻防の最中、佐々・神保軍にとって痛恨の事態が発生する。総大将・神保氏張の嫡男である氏則が、乱戦の中で討死を遂げたのである 2。
司令官の跡継ぎを失った衝撃は、神保軍の士気に計り知れない打撃を与えた。攻め手は勢いを失い、これ以上の損害を出すことは得策ではないと判断した神保氏張は、断腸の思いで阿尾城の攻略を断念。軍をまとめ、守山城へと撤退を開始した 2 。
【表1】阿尾城の戦い 両軍戦力比較(天正13年6月24日)
勢力 |
総大将 |
主要武将 |
推定兵力 |
備考 |
佐々方(攻城側) |
神保氏張 |
神保氏則 |
5,000 |
守山城より出陣 |
前田・菊池方(守城側) |
菊池武勝 |
村井長頼、前田慶次郎、片山延高 |
2,000 |
前田家からの援軍を含む |
戦いの帰結と意義
阿尾城の防衛成功は、前田方にとって計り知れない戦略的価値をもたらした。これにより、秀吉・前田軍は越中沿岸部に確固たる橋頭堡を確保し、来るべき本隊上陸と海上補給路の安全を確立した。一方、佐々成政は沿岸部の支配権を失い、富山城での籠城を強いられる中で、海からの脅威にも直面することになった。
この戦いの勝敗を分けたのは、単純な兵力差ではなかった。それは第一に、菊池氏の寝返りという「内部崩壊」を誘発した前田方の優れた調略であり、第二に、その寝返りに呼応して間髪を入れずに援軍を城内に送り込んだ利家の迅速な危機管理能力であった。阿尾城の戦いは、純粋な軍事衝突であると同時に、情報戦と政治戦の勝利でもあった。秀吉本隊が動く前に、前田利家が独力で佐々方の戦力を削ぎ、戦略的優位を確立したこの一戦は、富山の役全体の行方を占う上で決定的な意味を持つものであった。
第四章:天下人の進軍 ― 豊臣秀吉の越中征伐(富山の役、天正13年8月)
阿尾城での前哨戦が前田方の勝利に終わった後、天正13年(1585年)夏、いよいよ豊臣秀吉による越中征伐の本隊が進軍を開始した。この軍事行動は、もはや「合戦」というよりも、抵抗を許さない圧倒的な武力による「制圧」と呼ぶのがふさわしいものであった。
圧倒的物量:天下人の軍勢
同年7月、紀州征伐と四国平定を立て続けに成功させた秀吉は、満を持して佐々成政討伐の大号令を発した。動員された兵力は、諸記録によれば7万から10万に達したとされ、成政の総兵力(推定2万)を遥かに凌駕していた 22 。秀吉は、この遠征軍の名目上の総大将にかつて成政が主と仰いだ織田信雄を据えるという、政治的に極めて巧みな布陣を敷いた 3 。これにより、成政は戦うべき大義名分を完全に奪われたのである。軍団には、先鋒の前田利家、主力の丹羽長重らに加え、東から呼応する上杉景勝、そして海路を進む船手衆と、北陸・信越の主だった大名が悉く組み込まれていた 22 。
【表2】富山の役における豊臣方主要軍団編成(天正13年8月)
軍団 |
指揮官 |
兵力 |
役割・特記事項 |
一番隊 |
前田利家 |
10,000 |
先鋒・加賀からの直接侵攻 |
二番隊 |
丹羽長重 |
20,000 |
主力部隊 |
三番隊 |
木村重茲、堀尾吉晴 他 |
4,900 |
中核部隊 |
四番隊 |
加藤光泰、池田輝政 他 |
7,000 |
遊撃部隊 |
五番隊 |
小島民部少輔、蒲生氏郷 |
5,500 |
後詰 |
船手衆 |
宮部継潤、細川忠興 他 |
4,000以上 |
海上からの牽制・兵站 |
番外 |
織田信雄 |
5,000 |
名目上の総大将 |
総計 |
羽柴秀吉 |
57,300以上 |
上杉景勝軍は別途。総勢7万~10万 |
(注:兵力は『陸奥棚倉藩主阿部家文書』の記述 22 に基づくが、総兵力については諸説ある)
進軍と包囲:抵抗の終焉
【8月7日】
秀吉は自ら大軍を率い、京を出陣した 22。
【8月19日】
近江、越前を経て加賀に入った秀吉軍本隊は、津幡から越中領内への侵攻を開始。成政が国境に築いた砦群は、この圧倒的な兵力の前に抵抗する術もなく、次々と突破されるか、あるいは放棄された 21。時を同じくして、越後の上杉景勝も兵を出し、越中東部の国境まで進出。佐々領は東西から挟撃される形となった 22。
【8月20日以降】
秀吉軍は越中の要所を焼き払いながら、破竹の勢いで富山城へと迫った。これに対し、成政は国内三十六の城塞から兵力を引き揚げさせ、本拠地である富山城に兵力を集中。最後の望みを籠城戦に託した 3。秀吉は富山城を見下ろす呉羽山の白鳥城に本陣を構え、幾重にもわたる包囲網を敷いて富山城を完全に孤立させた 28。伝承によれば、秀吉は神通川の流れを変えて城を水攻めにすることさえ計画していたという 22。
【8月26日】
万策尽きた成政は、ついに降伏を決断する。織田信雄を仲介役として恭順の意を伝え、自ら髪を剃り落として僧体の姿となり、秀吉の本陣に出頭した 8。この際、秀吉は成政の命を助けるという寛大な処置を示した。
この越中征伐は、大規模な野戦が行われることなく、約50日の遠征で終結した 22 。しかし、これは軍事作戦であると同時に、天下人・秀吉の権威を内外に誇示するための壮大な政治的デモンストレーションであった。かつての同僚大名を悉く麾下に組み込み、圧倒的な物量で敵を屈服させる様は、「織田体制の正統な継承者は秀吉である」こと、そして彼に逆らうことがいかに無意味であるかを、まだ服従していない九州の島津氏や関東の北条氏といった勢力に見せつけるための、計算され尽くした演出だったのである。
第五章:戦いの遺産 ― 北陸の新たな秩序
富山の役の終結は、単に一人の大名の敗北に終わらず、北陸地方の政治地図を恒久的に塗り替え、その後の歴史に大きな影響を及ぼした。勝者と敗者の運命は、この戦いを境に劇的なまでに分かたれることとなる。
加賀百万石の礎の確立
戦後処理において、最大の受益者は前田利家であった。秀吉への忠誠と、阿尾城の戦いをはじめとする軍功が評価され、佐々成政の旧領のうち、越中の西半分にあたる砺波・射水・婦負の三郡が、利家の嫡男・利長に与えられた 18 。これにより、前田家は加賀・能登・越中の三国にまたがる広大な領国を支配する大大名へと飛躍を遂げた。この天正13年の加増こそ、江戸時代を通じて最大の外様大名として君臨する「加賀百万石」の盤石な基礎が確立された瞬間であった 19 。
敗将・佐々成政の末路
一方、敗将・佐々成政の後半生は悲劇に彩られている。秀吉に降伏した際、一命は助けられたものの、領地は越中東部の新川郡のみを安堵されるという大幅な減封処分を受け、その権勢は完全に失われた 7 。彼は妻子と共に大坂へ移され、秀吉の御伽衆(話し相手)として、事実上の監視下に置かれることとなった 8 。
その後、天正15年(1587年)の九州征伐で武功を挙げた成政は、その恩賞として肥後一国(約54万石)を与えられる。一見すれば破格の栄転であったが、これは秀吉の巧妙な罠であった可能性が高い。肥後は国人一揆の頻発する、統治が極めて困難な土地であった。秀吉は成政に対し「じっくりと時間を掛けて統治するように」と異例の指示を与えていたが、剛直で性急な性格の成政は、早々に太閤検地を強行し、案の定、大規模な国人一揆を招いてしまう 9 。秀吉はこの失政の責任を厳しく問い、天正16年(1588年)、成政に切腹を命じた 7 。享年53。織田信長の下で勇猛を謳われた猛将は、摂津尼崎の法園寺でその生涯を閉じた。
この一連の処置は、功績への報償という表向きの理由の裏に、かつて最後まで自分に抵抗した危険な武将を中央から遠ざけ、統治の難しい土地で力を削ぎ、最終的に合法的に排除するという、秀吉の冷徹な政治的計算があったと見るべきであろう。成政の悲劇は、彼の性格に起因する部分もあったが、それ以上に秀吉によって巧みに仕組まれた側面が強かったのである。
地域史において、氷見・放生津一帯はこれ以降、江戸時代を通じて加賀藩前田家の支配下で安定した時代を迎える。一方、敗れた佐々成政は、富山城主時代に常願寺川の治水事業(佐々堤)などで善政を敷いた側面もあり 27 、地元越中では単なる反逆者ではなく、複雑な評価を持つ悲劇の武将として記憶され続けている 7 。
結論:overlooked battle の再評価
天正13年(1585年)の「氷見・放生津の戦い」は、豊臣秀吉の天下統一事業という壮大な歴史叙事詩の中で、しばしば富山城の包囲という本筋の陰に隠れがちである。しかし、本報告書で詳述した通り、この沿岸部での一連の攻防は、単なる見過ごされがちな局地戦ではなく、秀吉の天下統一戦略の精髄が凝縮された、極めて重要な局面であったと再評価されねばならない。
阿尾城の戦いは、秀吉の戦争術が、単に圧倒的な物量に依存するものではなかったことを示している。それは、敵の内部崩壊を誘う巧みな調略、機を逃さぬ迅速な兵力投入、そして陸と海を連携させた立体的な作戦構想という、高度な戦略性の賜物であった。この前哨戦での勝利が、佐々成政の防衛計画を根底から覆し、秀吉本隊による越中平定を、ほとんど抵抗のない「制圧」へと変えたのである。
佐々成政の敗北は、一人の武将の没落に留まらず、織田信長亡き後に天下の覇権を争った旧織田家臣団の、完全な解体と再編が完了したことを象徴する出来事であった。そして、その最大の受益者として前田家が台頭し、後の加賀百万石の礎を築いた。北陸の新たな秩序は、まさしくこの氷見・放生津の戦いと、それに続く富山の役の結果として誕生したのである。したがって、この戦いは、戦国時代の終焉と近世大名領国の形成を繋ぐ、歴史の転換点に位置づけられるべき重要な戦役であったと結論付けられる。
引用文献
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- 県史跡 阿尾城跡 http://www.pcpulab.mydns.jp/main/aojyo.htm
- 「富山の役(越中征伐、1585年)」羽柴秀吉 VS 佐々成政!大軍包囲で圧倒、北陸の反秀吉派掃討作戦 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/174
- 佐々成政 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%88%90%E6%94%BF
- 佐々成政~信長の黒母衣衆筆頭、悲劇の最期 | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/5118
- 前田利家の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/38366/
- 佐々成政は「郷土の英雄」 - 富山県商工会議所連合会 https://www.ccis-toyama.or.jp/toyama/magazine/h15_m/0312toku_nari.html
- 忠節を貫いた自己信念の武将 佐々成政|まさざね君 - note https://note.com/kingcobra46/n/n84541b4ef0a1
- 負けず嫌いが身を滅ぼした豪傑型武将【佐々成政】とは⁉ - 歴史人 https://www.rekishijin.com/41108
- 富山城の歴史 - 松川遊覧船 https://matsukawa-cruise.jp/reading/history-of-toyama-castle/
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- 足利将軍がやってきた(3) | コラム - 射水市新湊博物館 https://shinminato-museum.jp/docs/column/14498/
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- とやま文化財百選シリーズ (5) - 富山県 https://www.pref.toyama.jp/documents/14266/osiro.pdf
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- 越飛戦国物語~佐々成政と富山市の観光(歴史・史跡) https://sengoku-story.com/category/etsuhi/
- とやまの歴史 https://toyama-bunkaisan.jp/history/
- なるほど!これが富山県<歴史> https://www.pref.toyama.jp/1021/kensei/kenseiunei/kensei/naruhodo/history.html