永正の乱(1508~11)
永正の乱(1508-1511):中央権力の崩壊と戦国乱世の本格化
序章:崩壊の序曲 ―「半将軍」細川政元の治世とその矛盾
戦国時代の黎明期、日本の中心・京都において絶大な権勢を誇った一人の武将がいた。室町幕府管領、細川京兆家当主・細川政元。彼は明応2年(1493年)のクーデター(明応の政変)によって将軍・足利義材(後の義稙)を追放し、自らが擁立した足利義澄を傀儡として幕府の実権を完全に掌握、「半将軍」とまで称された 1 。しかし、その栄華の頂点にあった政権は、政元自身の特異な個性と、それが内包する構造的矛盾によって、内側から静かに蝕まれていた。永正の乱という未曾有の動乱は、この政元の治世そのものに遠因があったのである。
「半将軍」政元の権勢と孤独
政元の権力は盤石に見えた。しかし、彼は修験道に深く傾倒し、生涯にわたり女人を近づけず独身を貫いた 2 。この個人的な信条は、室町幕府の根幹を支える最大の大名家・細川京兆家に、世継ぎ不在という致命的な問題をもたらした。実子のいない政元が家督相続のために取った手段は、三人の養子を迎えることであったが、この選択こそが、後に血で血を洗う内紛の引き金となる。
三人の養子、三つの思惑
政元が迎えた三人の養子は、それぞれが出自も立場も異なり、彼らの存在そのものが細川家中の対立軸を形成していった。
- 細川澄之(すみゆき) :最初に迎えられた養子。彼の父は摂関家という公家の頂点に立つ九条政基であり、武家である細川家とは血縁的に全くの「他所者」であった 4 。この異例の養子縁組は、政元が擁立した将軍・義澄(母方の従兄弟が澄之)との連携を強化する政治的意図があったとされるが、細川一門や譜代の家臣団である「内衆」からは、血統を無視した選択として強い反発を招いた 2 。
- 細川澄元(すみもと) :二人目の養子。彼は細川一門の有力な分家である阿波守護家から迎えられ、血縁的な正統性を持つ存在であった 5 。しかし、澄元の入嗣は新たな火種を生む。彼を後見するために阿波から上洛した三好之長をはじめとする家臣団は、畿内を基盤とする旧来の家臣たちにとって、自らの権益を脅かす「新興勢力」と映った 7 。
- 細川高国(たかくに) :三人目の養子。彼もまた、分家の野州家出身であり、細川一門の一員であった 8 。三人の養子の中では最も京兆家の本流に近い血縁関係にあり、畿内の国人衆との結びつきも強い、いわば「内部」の有力候補者であった 9 。
この三者三様の養子縁組は、政元の後継者指名が最後まで曖昧であったことと相まって、家臣団を二つの派閥へと分裂させた。すなわち、公家出身の澄之を推す香西元長や薬師寺長忠らを中心とした「澄之派」と、一門出身の澄元を推し、その後ろ盾である三好之長の権勢拡大を是とする「澄元派」である 7 。政元が次第に澄元を重用し、京兆家当主の通字である「元」の名を与えるなど、家督継承の意志を澄元に傾けていくと、廃嫡の危機に瀕した澄之派の焦燥感は、ついに臨界点へと達することになる 7 。
この後継者問題は、単なる個人の椅子取りゲームではなかった。その根底には、細川政権が抱える複数の深刻な断層が存在した。当初、政元が澄之を養子としたのは、将軍・義澄との関係強化という高度な政治的判断であった 2 。しかし、細川家の血を引かない「公家」出身者への家臣の反発は、政元の想定を超えて根深いものがあった 7 。その反発を和らげるため、次に血縁的正統性を持つ「武家一門」の澄元を迎えたが、今度は彼が伴ってきた三好氏という「阿波(地方)勢力」が、旧来の「畿内勢力」の激しい反発を招いたのである 7 。政元は問題を解決しようとするたびに、新たな対立の火種を生み出していた。彼の権力基盤は、まさに崩壊すべくして崩壊する運命にあったと言えよう。
【表1】永正の乱 主要人物関係図
人物名 |
立場・出自 |
主要な関係 |
細川政元 |
室町幕府管領、細川京兆家当主 |
三人の養子の養父。「半将軍」と称される権力者。 |
細川澄之 |
政元の養子(一人目) |
父は関白・九条政基。公家出身。香西元長らが支持。 |
細川澄元 |
政元の養子(二人目) |
阿波守護・細川家の出身。三好之長らが後見。 |
細川高国 |
政元の養子(三人目) |
野州・細川家の出身。畿内に基盤を持つ。 |
足利義澄 |
室町幕府11代将軍 |
政元が擁立した将軍。澄元を支持。 |
足利義稙 |
室町幕府10代・13代将軍 |
政元に追放された前将軍。大内義興に庇護される。 |
大内義興 |
周防などを領する守護大名 |
義稙を奉じて上洛。高国と結ぶ。 |
三好之長 |
澄元の家臣 |
阿波の有力武将。澄元と共に上洛し、勢力を拡大。 |
香西元長 |
政元の家臣 |
澄之を支持し、政元暗殺を主導。 |
六角高頼 |
近江守護 |
当初は義澄・澄元を庇護するが、後に高国方に寝返る。 |
第一章:永正の錯乱 ― 権力者の暗殺と畿内の激震(1507年)
永正4年(1507年)6月、京の夏は蒸し暑い空気に包まれていた。その中、細川政元は河内、大和、丹後など各方面へ主力を派遣しており、政権の中枢である京都の防備は危険なまでに手薄となっていた 2 。この権力の空白を、澄之派は見逃さなかった。
1507年6月23日、事件発生
その日、香西元長と薬師寺長忠が周到に練り上げた計画が実行に移された 7 。彼らが送り込んだ刺客は、政元の傍近くに仕える近習・竹田孫七 12 。孫七は、主君である政元が自邸で無防備に行水に及んだその一瞬を突き、その刃で主人の命を奪った 2 。享年41。当代随一の権力者のあっけない最期であった。この事件は、その衝撃とそれに続く混乱から「永正の錯乱」と呼ばれる 2 。
電光石火のクーデターと脱出
暗殺の成功を確認した澄之派の動きは迅速だった。彼らは直ちに兵を動かし、政敵である細川澄元の屋敷を襲撃した 4 。しかし、危機を察知した澄元は腹心の三好之長に守られ、九死に一生を得て京都を脱出。追手を振り切り、近江国甲賀郡へと落ち延びることに成功した 4 。
澄之政権の樹立と瓦解
京都を制圧した澄之は、直ちに権力の掌握に乗り出す。
- 7月 :丹波に出陣中だった澄之は京に凱旋。将軍・足利義澄から細川京兆家の家督相続を正式に認める御内書(将軍の命令書)を得て、形式上の正統性を確保した 7 。ここに、クーデターによる澄之政権が樹立された。
- 8月 :しかし、「主君殺し」という拭い去れない汚名を着た澄之政権の基盤は、あまりにも脆かった。細川一門の多くは、この暴挙を許さなかった。近江に逃れた澄元を救うべく、もう一人の養子・細川高国が立ち上がる。彼は、同じく一門の実力者である細川政賢や淡路守護の細川尚春らと連携し、「澄之討伐」の兵を挙げた 8 。
高国・澄元連合軍は京都へ進撃。8月1日、両軍は京都市中で激突する。大義名分を欠き、一門の支持を得られなかった澄之派はたちまち劣勢に追い込まれた。澄之は敗北を悟り自害。クーデターの首謀者であった香西元長、薬師寺長忠らもことごとく討ち死にし、わずか1ヶ月余りで澄之政権は瓦解した 7 。
この一連の動きの中で、高国の初動は極めて重要である。後に最大の宿敵となる澄元を、なぜこの時点で彼は助けたのか。それは、澄元個人への忠誠心からではなかった。公家出身という「アウトサイダー」である澄之が、主君殺しという禁じ手を用いて家督を簒奪したことは、細川一門全体の秩序と権威に対する許しがたい挑戦と見なされた 6 。高国にとって、まずはこの「秩序の破壊者」を排除することが、一門の論理として最優先事項だったのである 9 。共通の敵を排除した上で、自らの覇権を確立する。彼の行動は、極めて冷静かつ戦略的な判断に基づいていた。この一時的な協力関係が、やがて来るべき本格的な対立への序曲に過ぎないことは、この時点ですでに運命づけられていた。
第二章:西からの津波 ― 大内義興の上洛と政権転覆(1507年末~1508年)
細川家の内紛という畿内の混乱は、遠く西国に雌伏していた巨大な政治勢力を呼び覚ます絶好の機会となった。それは、地方権力が中央政界を覆す、戦国時代の到来を告げる津波のようであった。
周防の「亡命政権」
明応の政変で細川政元に京を追われた前将軍・足利義材(この頃は義尹、後に義稙と改名)は、周防、長門などを支配する西国随一の大大名・大内義興のもとに身を寄せ、長年にわたり亡命生活を送っていた 13 。義興は義稙を手厚く庇護し、山口に「龍福寺」を仮の御所として提供するなど、彼を「亡命中の正統な将軍」として遇した 13 。義興にとって、義稙の存在は単なる客将ではない。それは、いつか中央政界へ介入するための、この上ない「大義名分」そのものであった 16 。
好機到来と大動員
永正4年(1507年)6月の政元暗殺の報は、義興に千載一遇の好機をもたらした 17 。「半将軍」の死によって生じた畿内の権力真空は、義稙を奉じて上洛する絶好の舞台であった。義興は「将軍を奉じて上洛し、幕府の秩序を正す」という天下に響き渡る名分を掲げ、九州・中国地方の諸大名・国人に大動員令を発令。その呼びかけに応じ、後に敵味方に分かれて争うことになる安芸の毛利興元(元就の兄)や出雲の尼子経久らも馳せ参じた 18 。集結した兵力は2万5千とも言われる未曾有の大軍であった 14 。
- 1507年11月~12月 :準備を整えた義興は、ついに足利義稙を奉じ、本拠地・周防山口を出発。大軍団は海路と陸路に分かれ、瀬戸内海を東進し、年末には備後国に達した 17 。
高国の変心と新体制の成立
澄之を討ち、細川京兆家の家督を継いだ細川澄元であったが、その前途には西からの巨大な軍事的脅威が迫っていた。彼はこの国難に対処すべく、一門の重鎮である細川高国を大内氏との和睦交渉役に任命し、派遣した 9 。しかし、この人選は澄元の運命を決定的に暗転させる。
交渉の席で、高国は澄元を裏切った。彼は和睦交渉を打ち切り、大内義興・足利義稙と電撃的に結託したのである 9 。この変心の背景には、澄元の側近として権勢を振るう三好之長ら阿波勢力の台頭を快く思わない、高国配下の摂津の国人衆からの強い後押しがあった 10 。畿内勢力と阿波勢力の根深い対立が、ついに高国に澄元を見限らせたのだ。
- 1508年4月 :高国と大内義興が連携したという報は、京都に激震を走らせた。背後から高国に突かれ、正面からは大内軍に迫られる形となった将軍・足利義澄と管領・細川澄元に、もはや抵抗する術はなかった。彼らは京を放棄し、再び近江の六角高頼を頼って逃亡した 4 。
- 同年6月~7月 :大内義興は足利義稙を奉じ、抵抗を受けることなく京都に入城。6月8日に入京を果たした義興は、7月1日には幕府の実権を握る管領代に就任した 19 。そして、追放から実に15年の歳月を経て、足利義稙が征夷大将軍に再任された 7 。これに先立ち、5月には高国が細川京兆家当主(管領)の座に就くことが義稙によって公認されていた 9 。こうして、将軍・義稙、管領・高国、管領代・義興という新政権が樹立され、中央政界の構図は完全に塗り替えられた 20 。
この一連の出来事は、単なる政権交代以上の歴史的意義を持つ。それは、応仁の乱以降続いてきた畿内中心の政治力学が終焉を迎え、地方の強大な軍事力が中央の運命を決定づけるという、戦国時代特有の権力構造への完全な移行を象徴していた。大内義興の上洛は、後の織田信長による上洛の先駆けとも言える、画期的な事件だったのである。
【表2】両陣営の主要構成勢力一覧(1508年時点)
細川澄元・足利義澄 陣営 |
細川高国・足利義稙・大内義興 陣営 |
総大将・擁立者 |
総大将・擁立者 |
細川澄元(前管領) |
細川高国(新管領) |
足利義澄(前将軍) |
足利義稙(新将軍) |
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大内義興(管領代) |
主要支持勢力 |
主要支持勢力 |
細川政賢(細川典厩家) |
畠山尚順(河内・紀伊守護) |
細川尚春(淡路守護) |
仁木高長(伊勢国人) |
三好之長(阿波) |
伊丹元扶(摂津国人) |
六角高頼(近江守護) |
内藤貞正(丹波国人) |
赤松義村(播磨・備前・美作守護) |
尼子経久(出雲) |
畠山義英(河内守護家分家) |
吉川国経(安芸国人) |
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毛利興元(安芸国人) |
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その他、大内配下の多数の国人衆 |
第三章:雌伏と反攻 ― 近江からの逆襲の狼煙(1509年~1510年)
圧倒的な軍事力の前に京都を追われた細川澄元と足利義澄であったが、彼らは決して屈服しなかった。近江国を拠点として雌伏し、虎視眈々と都を奪還する機会を窺っていた。新政権の足元が盤石でないことを見抜き、執拗な抵抗を続けたのである。
近江の亡命政権
京を追われた義澄・澄元一行を庇護したのは、近江守護の六角高頼であった 21 。六角氏は伝統的に幕府中央と対立と和睦を繰り返してきた独立性の高い大名であり、この時も反・高国政権の旗頭として彼らを迎え入れた。琵琶湖を擁する近江は、京都への玄関口であり、経済的にも豊かな土地である。この地は、澄元らにとって再起を図るための重要な前線基地となった。
1509年6月、如意ヶ嶽の戦い
雌伏の時を経て、澄元は反撃の狼煙を上げる。永正6年(1509年)6月、澄元は腹心の三好之長と共に約3千の兵を率い、琵琶湖を渡って京へ侵攻。京都の東にそびえる如意ヶ嶽に布陣した 22 。これは、新政権の意表を突く奇襲であった。
しかし、高国・大内連合軍の反応は迅速かつ圧倒的だった。彼らは2万から3万ともいわれる大軍を動員し、如意ヶ嶽に陣取る澄元軍を幾重にも包囲した 22 。兵力差は実に10倍。澄元軍は奮戦するも、衆寡敵せず、あえなく敗走。澄元と之長は命からがら戦場を離脱し、本拠地である四国の阿波へと逃げ延びた 20 。この敗北により、澄元方の畿内における足がかりは一旦失われた。
戦線の膠着
如意ヶ嶽での勝利により、高国・義興政権は当面の危機を脱し、その支配は盤石になったかに見えた。彼らは勢いに乗って近江へも侵攻し、六角氏の拠点である岡山城を攻めたが、これは容易には陥落しなかった 20 。
一方で、阿波に逃れた澄元は、そこで着実に戦力の回復に努めていた。彼の権力基盤は、大内軍の力が直接及ばない「阿波」にあった。阿波細川家と三好氏という強固な地盤が、彼の継戦能力を支え続けたのである。高国・義興政権は、京都という「点」は押さえても、畿内全域という「面」を完全に支配するには至っていなかった。各地では澄元に与する国人衆の散発的な抵抗が続き、戦線は膠着状態に陥った 20 。
この中央の混乱は、周辺地域にも波及した。例えば大和国では、細川政元政権下で勢力を伸ばしていた赤沢朝経がこの一連の戦乱で戦死したことにより、彼に追われていた筒井氏や十市氏といった旧来の国人衆が勢力を回復するなど、畿内各地の勢力図は流動化の一途をたどっていた 23 。この「畿内(高国) vs 四国(澄元)」という地理的な対立構造と、中央の不安定さが、一方の決定的勝利を困難にし、後に「両細川の乱」と呼ばれる20年以上にわたる長期内乱の原型を形成していくことになる。
第四章:決戦前夜 ― 怒涛の畿内侵攻(1511年前半)
如意ヶ嶽の敗戦から二年、阿波で力を蓄えた細川澄元は、満を持して大規模な反攻作戦を開始した。その周到に計画された電撃的な進撃は、盤石に見えた高国・義興政権を根底から揺るがし、戦局を再び大きく動かすことになる。
二方面上陸作戦
永正8年(1511年)、澄元方は四国から畿内へ、軍を二手に分けて上陸させるという大胆な作戦を敢行した 10 。これは、高国方の戦力を分散させ、各個撃破を狙うものであった。
- 第一軍(和泉方面) :細川政賢、細川元常らが率いる主力部隊が、阿波から紀伊水道を北上し、和泉国の堺に上陸した。堺は当時、国際貿易港として栄える経済の中心地であり、ここを抑えることは軍事・経済の両面で大きな意味を持った。
- 第二軍(摂津方面) :淡路守護の細川尚春が率いる部隊が、淡路島から播磨灘を渡り、摂津国の兵庫に上陸した。この軍には、かねてより澄元方に与していた播磨・備前・美作の守護である赤松義村も兵を率いて合流しており、強力な布陣となっていた 10 。
連戦連勝、京への道
上陸作戦は見事に成功し、澄元方は破竹の勢いで進撃を開始する。
- 7月13日、深井の合戦 :和泉に上陸した細川政賢の軍は、これを迎撃しようとした高国方の摂津国人衆と深井城(現在の堺市中区)付近で激突。この戦いで政賢軍は圧勝し、和泉における高国方の抵抗勢力を一掃した 20 。
- 7月24日、芦屋河原の合戦 :ほぼ時を同じくして、摂津に上陸した細川尚春・赤松義村の連合軍も、高国方の重臣・瓦林正頼(別名、鷹尾城主)の軍と芦屋河原で交戦。ここでも澄元方が勝利を収め、摂津における主導権を確保した 10 。
1511年8月、京都奪還
和泉と摂津で連勝を飾った二つの軍は、ついに合流を果たし、京都へと進撃を開始した。その数、合わせて6千 18 。連勝の勢いに乗る澄元軍の猛攻を前に、京都にいた細川高国、大内義興、そして将軍・足利義稙の連合軍は正面からの決戦を避けるという判断を下す。彼らは8月16日、都を放棄し、丹波国へと一時撤退した 20 。
こうして澄元方は、京を追われてから3年の歳月を経て、ついに都の奪還に成功した。戦況は完全に逆転し、澄元と、彼が擁する前将軍・足利義澄の復権は目前に迫っているかに見えた。
第五章:天命の逆転 ― 船岡山合戦(1511年8月)
京都奪還という輝かしい勝利を手にした澄元方を、しかし、二つの予期せぬ凶報が襲う。それは、戦場の優劣をわずか数日のうちに覆し、歴史の流れを再び変える、まさに「天命の逆転」と呼ぶべき出来事であった。
第一の激震、義澄の死
京都奪還の報がもたらされた直後の 8月14日 、澄元方が擁立する最大の旗印、前将軍・足利義澄が、亡命先の近江・水茎岡山城にて病に倒れ、急逝した 20 。享年32。あまりにも若く、そしてあまりにも時機を逸した死であった。これにより、澄元軍は「前将軍を正統な位に復帰させる」という、最も強力な大義名分を突如として失った。この訃報は、軍の士気に計り知れない動揺をもたらした。
第二の激震、六角氏の寝返り
義澄の死という情報は、敵である高国・義興方だけでなく、味方であるはずの勢力の判断をも変えた。これまで義澄・澄元方を一貫して庇護してきた近江守護・六角高頼が、この機を捉えて突如として高国方へと寝返ったのである 20 。義澄という庇護すべき対象を失った以上、もはや澄元方に味方する利はないと判断したのか、あるいは丹波から迫る高国・大内連合軍の圧力に屈したのか。理由はどうあれ、この裏切りは澄元方にとって致命的であった。背後を完全に脅かされることになり、戦略的に極めて絶望的な状況に追い込まれたのである。
決戦の舞台、船岡山へ
義澄の死と六角氏の寝返り。この二つの好機を、高国・義興は見逃さなかった。丹波で軍勢を立て直した彼らは、後顧の憂いがなくなったことで、直ちに京都奪還へと進撃を開始する。京都にいた澄元方の総大将・細川政賢は、この圧倒的に不利な状況下で、京都北西の戦略的要衝である船岡山に陣を敷き、迫り来る大軍を迎え撃つ覚悟を決めた 27 。
1511年8月23日夜~24日、船岡山合戦
- 兵力差 :丹波から進撃してきた高国・義興連合軍は、依然として2万を超える大軍を維持していた 18 。これに対し、船岡山に布陣した澄元方の兵力は、総大将・細川政賢の2千、細川元常の1千、山中為俊の3千などを合わせても、総勢わずか6千程度であった 18 。兵力差は約4倍。しかも、澄元本体と三好之長は、この時まだ阿波におり、決戦に間に合わなかった。彼らの不在は、兵力以上に指揮系統の面で大きな痛手であった 18 。
- 戦闘経過 : 8月23日の夜 、大内義興麾下の手練れの軍勢が、船岡山への夜襲を敢行した 18 。不意を突かれた上に数で劣る澄元方は、たちまち混乱に陥る。暗闇の中の激戦で、軍を率いていた総大将の細川政賢が討ち死にするという最悪の事態が発生 18 。指揮官を失った軍は統制を失い、翌24日にかけての戦闘で総崩れとなった。
- 結果 :船岡山合戦は、高国・義興連合軍の圧勝に終わった。京都は再び彼らの手に落ち、澄元方の畿内における組織的抵抗はここに終焉を迎える。生き残った将兵は、阿波へと敗走していった 20 。
この劇的な逆転劇は、戦国時代の戦いが単なる兵力や戦術だけで決まるものではないことを如実に示している。義澄の死という「情報」は、敵味方の士気を左右し、六角氏の寝返りという「政治的判断」を誘発した。そして、その寝返りが澄元方の戦略的包囲という状況を生み出した。船岡山合戦は、それを支える「正統性(大義名分)」と、それを揺るがす「情報」、そしてそれに基づく「裏切り」が、いかに決定的な役割を果たすかを示す、戦国時代の縮図のような戦いであった。
【表3】永正の乱 詳細年表(1507年~1511年)
年月日 |
場所 |
概要 |
永正4年(1507)6月23日 |
京都・細川政元邸 |
細川政元、養子・澄之派の香西元長らにより暗殺される(永正の錯乱)。 |
同年 6月下旬 |
京都 |
澄之派、細川澄元の屋敷を襲撃。澄元は三好之長と近江へ逃亡。 |
同年 8月1日 |
京都 |
細川高国・澄元連合軍が澄之を攻撃。澄之は敗死し、クーデターは失敗。 |
同年 11月 |
周防国 |
大内義興、前将軍・足利義稙を奉じて上洛軍を発す。 |
永正5年(1508)4月 |
畿内 |
細川高国、澄元を裏切り大内義興と結託。澄元と将軍・義澄は近江へ逃亡。 |
同年 6月8日 |
京都 |
大内義興・足利義稙が入京。義稙が将軍に復職し、高国・義興政権が樹立。 |
永正6年(1509)6月17日 |
山城国・如意ヶ嶽 |
澄元・三好之長が京へ侵攻するも、高国・大内連合軍に大敗。澄元は阿波へ敗走。 |
永正8年(1511)7月13日 |
和泉国・深井城 |
澄元方の細川政賢軍が、高国方を破る(深井の合戦)。 |
同年 7月24日 |
摂津国・芦屋河原 |
澄元方の細川尚春・赤松義村連合軍が、高国方を破る(芦屋河原の合戦)。 |
同年 8月16日 |
京都 |
澄元軍が京都を奪還。高国・義興・義稙は丹波へ撤退。 |
同年 8月14日 |
近江国・水茎岡山城 |
澄元方が擁する前将軍・足利義澄が病死。 |
同年 8月中旬 |
近江国 |
近江守護・六角高頼が澄元方から高国方へ寝返る。 |
同年 8月23-24日 |
山城国・船岡山 |
高国・大内連合軍が船岡山に陣取る澄元方を夜襲。総大将・細川政賢が戦死し、澄元方は壊滅的敗北を喫す(船岡山合戦)。 |
終章:終わらぬ戦乱の序曲 ―「永正の乱」が遺したもの
永正8年(1511年)8月の船岡山合戦をもって、細川澄元による京都奪還の試みは潰え、ここに「永正の乱」と呼ばれる一連の動乱は一つの大きな区切りを迎えた。しかし、それは決して平和の到来を意味するものではなかった。むしろ、この乱は、より長く、より深刻な戦乱の時代の序曲に過ぎなかったのである。
「両細川の乱」への発展
船岡山での敗北後も、細川澄元は阿波を拠点に抵抗を続けた。この戦いは、細川高国を当主とする京兆家と、細川澄元(後にその子・晴元)を当主と主張する阿波細川家による、20年以上にわたる骨肉の内乱「両細川の乱」へと発展していく 7 。畿内は、二つの細川家がそれぞれ将軍を擁立し、泥沼の抗争を繰り広げる主戦場と化した。この乱を通じて、かつて細川家を支えた多くの国人衆は疲弊し、代わりに三好氏のような新興勢力が台頭する土壌が形成されていった。
足利将軍権威の完全失墜
この乱は、足利将軍家の権威にとどめを刺した。将軍が有力守護大名の都合によって追放され、擁立されることが常態化したのである。足利義稙も足利義澄も、もはや自らの意思で政治を動かすことはできず、その存在は有力大名が自らの行動を正当化するための「玉(ぎょく)」に成り下がった。明応の政変で大きく揺らいだ将軍の権威は、この永正の乱を経て、回復不可能なまでに失墜したと言える 3 。これにより、室町幕府は名実ともに統治能力を喪失し、日本は真の意味で「力こそが正義」となる下剋上の時代へと突入した。
大内義興の長期在京と地方の動揺
乱の最大の勝者となった大内義興は、その後、永正15年(1518年)までの約10年間、京都に留まり管領代として幕政を主導した。これは彼の生涯における栄光の頂点であった。しかし、この長期にわたる当主の不在は、彼の広大な領国経営に深刻な影を落とす。義興が在京している隙を突き、出雲では家臣であったはずの尼子経久が急速に勢力を拡大し、大内領への侵食を開始した 32 。義興の栄光に満ちた京都滞在は、皮肉にも、後の大内家の衰退と、中国地方における尼子氏、そして毛利氏の台頭を促す遠因となったのである。
歴史的意義の総括
「永正の乱(1508-1511)」は、応仁の乱によって始まった室町幕府体制の崩壊を決定づけ、実力主義が全てを支配する本格的な戦国時代へと移行する、画期となる動乱であった。それは、細川京兆家という中央権力の内部崩壊に端を発し、大内義興という地方の巨大軍事力を中央に引き込み、逆にその地方の軍事力が中央の政治構造を規定するという、戦国時代特有の政治力学を初めて明確に示した事件であった。この乱を通じて、権威は地に落ち、秩序は失われ、日本全土が果てしない戦乱の渦へと巻き込まれていく。永正の乱は、まさに戦国乱世の本格的な幕開けを告げる号砲だったのである。
引用文献
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- 「永正の錯乱(1507年)」細川政元の3人の養子による家督相続争い - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/74
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- 「細川高国」細川宗家の争いを制して天下人になるも、最期は… - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/805
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- 大内義興 史上最強、最大、最高の西国の覇者 - 周防山口館 https://suoyamaguchi-palace.com/ouchi-yoshioki/
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- 大内氏遺跡|義興が築いた庭園と城塞。なぜ戦国時代西国の覇者になれた? - 史跡ナビ https://shisekinavi.com/oouchishiiseki/
- 「尼子経久」下剋上で11州の太守となり、尼子を隆盛に導く - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/812