最終更新日 2025-09-01

江古田・沼袋原の戦い(1477)

文明九年 武蔵国江古田・沼袋原の戦い ― 太田道灌の智略と豊島氏の落日 ―

はじめに:戦国前夜の武蔵国、江古田・沼袋原に立つ

文明9年(1477年)4月、現在の東京都中野区から練馬区にかけて広がる武蔵野台地の一角で、一つの合戦が行われた。後に「江古田・沼袋原の戦い」と呼ばれるこの武力衝突は、単なる局地的な戦闘に留まらず、武蔵国の勢力図を根底から覆し、後の巨大都市・江戸の発展の礎を築く、歴史的な分水嶺となるものであった。扇谷上杉家の家宰として江戸城を拠点に台頭する新興勢力・太田道灌と、平安時代以来この地に根を張る名族・豊島氏。両者の存亡をかけた激突は、まさに戦国時代の幕開けを告げる象徴的な出来事であった。

本報告書は、この江古田・沼袋原の戦いについて、その背景にある関東地方全体の動乱から、合戦当日のリアルタイムな戦闘経過、そして戦いがもたらした歴史的意義と後世に与えた影響までを、網羅的かつ詳細に分析・解説するものである。特に、合戦の経過については、両軍の動きを時系列に沿って再構成し、その瞬間に何が起きていたのかを立体的に描き出すことを目指す。

合戦の舞台となった江古田・沼袋一帯は、当時、妙正寺川や江古田川が流れ、その周辺には湿地帯や沼が点在する、起伏に富んだ地形であった 1 。この地理的特徴が、騎馬武者を主力とする旧来の戦術に固執した豊島氏の運命を決定づけ、一方で地形を巧みに利用した太田道灌の革新的な戦術を際立たせることになる。本報告書を通じて、500年以上前の古戦場に立ち、歴史が動いた瞬間の緊張と興奮、そしてそこに生きた武将たちの決断の重みを追体験していく。

第一章:合戦の序曲 ― 享徳の乱と長尾景春の蜂起

江古田・沼袋原の戦いを理解するためには、まずその背景にある関東地方の深刻な政治的混乱に目を向けなければならない。この戦いは、独立した事象ではなく、数十年にわたり関東を覆った巨大な動乱の構造の中で必然的に発生したものであった。

関東を覆う30年の大乱「享徳の乱」

合戦の根本的な原因は、享徳3年(1454年)に勃発した「享徳の乱」に遡る 3 。これは、鎌倉公方(後に関東公方、古河公方)の足利成氏と、室町幕府を後ろ盾とする関東管領・上杉氏との間における、関東の覇権を巡る長期にわたる全面戦争であった 4 。この対立は、単なる両雄の争いに留まらず、関東各地の国人領主たちを二分し、彼らの離合集散を激化させた。約30年にも及ぶこの大乱は、室町幕府の権威を関東において完全に失墜させ、在地領主が自らの実力でのみ生き残りを図る「戦国時代」の土壌を形成したのである 3

山内上杉家の内紛「長尾景春の乱」

享徳の乱という大きな枠組みの中で、文明8年(1476年)、関東管領・上杉氏の内部で深刻な亀裂が生じる。山内上杉家の家宰職を巡る継承問題に不満を抱いた長尾景春が、主家に対して反旗を翻したのである 5 。この「長尾景春の乱」は、単なる家臣の反乱ではなかった。景春の蜂起に、相模・武蔵・上野といった広範囲の武士たちが次々と呼応し、その勢いは燎原の火のごとく関東一円に広がった 7

文明9年(1477年)正月、景春は上杉軍の対古河公方戦における最大の防御拠点であった五十子陣(埼玉県本庄市)を急襲し、これを陥落させる 8 。上杉顕定(山内家当主)と上杉定正(扇谷家当主)は上野国へと敗走を余儀なくされ、上杉方は一気に窮地に立たされた。この上杉家の内部崩壊ともいえる事態は、これまで上杉氏の支配下で不満を募らせていた在地領主たちにとって、自らの勢力を拡大し、旧来の秩序を覆す絶好の機会となった。

豊島氏の参陣

この関東全域を揺るがす大乱の中で、武蔵国の名族・豊島氏もまた、長尾景春に与する決断を下す 8 。当主の豊島泰経は、弟の泰明と共に石神井城、練馬城、平塚城を拠点に蜂起した 8 。この豊島氏の参陣は、上杉方、特に扇谷上杉家の家宰である太田道灌にとって致命的な意味を持っていた。豊島氏の勢力圏は、道灌が守る江戸城と、扇谷上杉家の本拠地である河越城、そして同盟関係にある岩槻城との間に楔を打ち込む形となり、これらの重要拠点を結ぶ連絡線を完全に遮断したからである 7

江古田・沼袋原の戦いは、このように「享徳の乱」という関東全体の権力闘争を大前提とし、その中で発生した「長尾景春の乱」という上杉家の内紛に、地域の覇権を巡る「太田氏と豊島氏の私闘」が連鎖的に結びつくことで引き起こされた。それは、中央の権威が崩壊していく過程で、地域の在地領主たちが自らの利害と実力に基づいて行動を開始した、まさに戦国時代の萌芽を象徴する戦いであった。

第二章:両雄、対峙す ― 太田道灌と豊島一族

この合戦の主役は、扇谷上杉家の家宰・太田道灌と、豊島一族の当主・豊島泰経である。両者の対立は、単なる主家の代理戦争ではなく、武蔵国の支配権を巡る、旧来の名族と新興勢力とのヘゲモニー争いであった。長尾景春の乱は、この積年の対立に火をつけ、両者を全面衝突へと導く引き金に過ぎなかった。

太田道灌 ― 文武両道の麒麟児

太田道灌(実名:資長)は、永享4年(1432年)に扇谷上杉家の家宰・太田資清の子として生まれた 11 。幼少期から鎌倉五山や足利学校で学び、文武両道に優れた人物として知られていた 11 。家督を継いだ道灌は、主家である扇谷上杉家を補佐し、享徳の乱において目覚ましい軍功を挙げていく。

彼の最大の功績の一つが、康正3年(1457年)に築城した江戸城である 14 。当時の江戸は、日比谷まで入り江が広がる水陸交通の要衝であった 16 。道灌は、この地に城を築くことで、単なる軍事拠点としてだけでなく、関東一円の物流と経済を掌握する戦略的拠点としての価値を見出していた 17

さらに道灌は、軍事思想においても革新的であった。彼は、武士個人の武勇に頼る一騎討ち中心の旧来の戦法から脱却し、長槍で武装した足軽(歩兵)を集団で組織的に運用する新戦術を編み出した 18 。かねの合図で一斉に進退する訓練された足軽部隊は、当時の関東において最強の戦闘集団の一つであり、この戦術こそが江古田・沼袋原の戦いの勝敗を分かつ決定的な要因となる 19 。道灌は、主君を凌ぐほどの才能と人気を誇る、まさに戦国初期を代表する知将であった 20

豊島一族 ― 平安以来の名族の矜持と焦燥

対する豊島氏は、桓武平氏の流れを汲み、平安時代から武蔵国豊島郡(現在の東京23区北部)に広大な所領を有してきた名門中の名門であった 1 。合戦当時の当主は豊島勘解由左衛門尉泰経、その弟が平右衛門尉泰明である 22 。彼らは石神井城(練馬区)を本拠とし、練馬城、平塚城(北区)を支城として、武蔵国北部に一大勢力圏を築いていた 6

しかし、この名族のプライドと権益は、太田道灌の台頭によって大きく脅かされることになる。道灌による江戸城築城は、豊島氏の勢力圏の喉元に刃を突きつけるに等しい行為であった 24 。江戸湾の水運を抑えられ、経済的な権益を侵食されるだけでなく、軍事的な圧迫も日増しに強まっていった。豊島氏にとって、新興勢力である太田氏の存在は、自らの存亡に関わる看過できない脅威であった 27

長尾景春からの同盟の誘いは、豊島氏にとって、この積年の宿敵である太田道灌を排除し、失われた権益を回復するためのまたとない好機と映った。一説には泰経の妻が景春の妹であったとも伝わるが 9 、それ以上に、この決断は旧来の秩序を守ろうとする名族の、生き残りをかけた必然的な選択だったのである。


表1:主要登場人物一覧

人物名

所属・役職

本合戦における役割

関連資料

太田道灌(資長)

扇谷上杉家 家宰、江戸城主

扇谷上杉軍の総大将。卓越した智略と新戦術で豊島軍を壊滅させ、武蔵国南部における支配権を確立。

11

豊島泰経

豊島氏当主、石神井城主

豊島軍の総大将。太田道灌の台頭に危機感を抱き、長尾景春に与して挙兵するも、敗北。一族滅亡の当事者となる。

22

豊島泰明

泰経の弟、練馬城主(平塚城主説も)

勇猛な武将。道灌の挑発に乗り、合戦のきっかけを作る。兄の窮地を救うも、江古田原で討死。

23

長尾景春

山内上杉家 家臣

山内上杉家に対し反乱を起こし、関東全域を巻き込む大乱の主導者となる。豊島氏が与した勢力の長。

5


第三章:文明九年四月十三日、戦端開かる ― 道灌の挑発と豊島勢の出陣

長尾景春の乱が勃発した当初、太田道灌は主家の命により駿河へ出兵中であったが、関東の危機を知るや否や、すぐさま兵を返した 7 。彼はまず景春方の諸城を攻略し、主戦線での勢いを回復させると、次なる標的を江戸城の背後を脅かす豊島氏に定めた。ここから、道灌の周到な計画に基づく戦いが始まる。


表2:江古田・沼袋原の戦い 関連年表

年月日(西暦)

出来事

概要

関連資料

文明8年(1476年)6月

長尾景春の乱、勃発

長尾景春が山内上杉家に対し、武蔵国鉢形城で挙兵。

5

文明9年(1477年)1月

五十子陣の陥落

景春が上杉方の拠点・五十子陣を急襲。上杉顕定・定正は敗走。豊島氏ら関東の諸将が景春に呼応。

8

文明9年4月13日

戦端が開かれる

太田道灌が江戸城より出陣。練馬城(平塚城)を攻撃し、豊島勢を挑発。

6

文明9年4月14日

江古田・沼袋原の戦い

道灌軍と豊島泰経・泰明軍が激突。豊島軍は大敗し、泰明は討死。

18

文明9年4月28日

石神井城の落城

道灌軍の総攻撃により、豊島泰経の本拠・石神井城が陥落。泰経は脱出。

23

文明10年(1478年)1月

平塚城の戦い

泰経が平塚城で再起を図るも、道灌に敗れ敗走。

6

文明10年4月

小机城の落城

泰経が逃げ込んだ小机城が道灌に攻略される。泰経は行方不明となり、豊島氏本家は滅亡。

6


道灌の陽動作戦

文明9年4月13日、道灌は江戸城から兵を率いて出陣した 6 。彼の最初の行動は、豊島方の城への陽動攻撃であった。かつては平塚城への攻撃とされていたが、近年の研究では、豊島泰明が城主を務める練馬城であったとする説が有力視されている 28 。道灌は練馬城に矢を射かけ、城下の村々に火を放つと、目的を達したかのようにすぐさま兵を引き始めた 30 。これは、豊島勢を城から誘い出し、自らが選定した決戦場へと引きずり出すための、計算され尽くした挑発行動であった。

豊島勢、誘い出される

この侮辱的な攻撃に対し、血気にはやる練馬城主・豊島泰明は道灌の術中にはまる 30 。彼はすぐさま城兵を率いて追撃を開始。平塚城からも救援要請が石神井城の兄・泰経のもとへ届き、泰経もまた、弟を助け、この機に道灌を討ち取らんと、石神井城と練馬城の主力を率いて出陣した 6 。こうして、豊島氏の主力部隊は、それぞれの居城から離れ、道灌が待ち受ける江古田・沼袋の原野へと進軍することになったのである。

両軍の兵力と進路

両軍の兵力について、一次史料である『太田道灌状』に具体的な記述はないが、後代の軍記物である『永享記』などには、豊島軍200騎に対し道灌軍50騎といった、道灌の武勇を強調するための誇張された数字が見られる 18 。実際の兵力は不明な点が多いものの、道灌が周到な準備と地の利を活かした戦いを挑んだことから、単純な兵力差ではなかったと推測される。

豊島軍は、石神井・練馬方面から江戸城を目指し、最短経路である江古田川沿いの道を進んだと考えられる 18 。一方の道灌は、江戸城へ引き返すふりをしつつ、豊島軍の進路を予測し、江古田・沼袋の地で待ち伏せの陣を敷いた。戦いの舞台は整った。

第四章:江古田・沼袋原の激闘 ― 合戦のリアルタイム詳解

文明9年4月14日、武蔵野の夜が明けやらぬ頃、両軍はついに江古田・沼袋の原野で対峙した。この日の戦いは、太田道灌の知将たる所以を天下に示すとともに、豊島氏の運命を決定づけるものとなる。

文明九年四月十四日 未明~早朝:運命の地での遭遇

道灌が戦場として選んだ江古田・沼袋一帯は、妙正寺川と江古田川が合流する地点にあり、湿地や沼が広がる低地と、それを見下ろす丘陵地からなる複雑な地形をしていた 1 。騎馬武者の突進力を殺ぎ、集団での行動を困難にさせるこの地形は、道灌の足軽部隊がその能力を最大限に発揮するのに最適な場所であった。道灌は、豊島軍の進路上にある江古田川の不動橋周辺に、長槍で武装した足軽の伏兵を巧みに配置し、静かに敵を待ち受けた 18

午前 ― 合戦開始:道灌の罠、発動

豊島軍の先鋒が、勢いに任せて不動橋を渡り始めたその瞬間、戦いの火蓋は切られた。道灌の合図と共に、道の両側に潜んでいた足軽部隊が鬨の声をあげて一斉に襲いかかった 18 。側面から突き出される無数の長槍と、雨のように降り注ぐ矢の前に、豊島軍の先鋒はたちまち混乱に陥る。

さらに、当時の4月は田植えの時期であり、周辺の田圃は水で満たされていた 18 。豊島軍の主力である騎馬武者たちは、ぬかるんだ湿地帯に足を取られて身動きがままならず、自慢の機動力を完全に封じられてしまった。組織的な集団戦法に慣れていない豊島方の武者たちは、統制の取れた道灌の足軽隊の槍衾の前に、なすすべもなく次々と討ち取られていく。戦いは序盤から、道灌の描いた筋書き通り、一方的な展開となった。

戦闘の頂点 ― 泰明の死

混乱の極みにあった戦場の中心で、豊島軍総大将の一人、豊島泰経が絶体絶命の危機に陥る。乗っていた馬がぬかるみにはまり、敵兵に囲まれてしまったのである 33 。後代の軍記物によれば、この窮地を救ったのが弟の泰明であった。彼は兄の元へ駆けつけ、奮戦して敵将・森定助を討ち取ったとされる 33

しかし、大勢を覆すには至らなかった。兄に石神井城への撤退を進言したものの、泰明自身は敵の猛攻の前に力尽きる。江戸時代後期の軍記物には、円城寺藤三直純の放った矢が泰明の胸板を貫き、落馬したところを首を掻き切られた、という壮絶な最期が描かれている 23 。一次史料である『太田道灌状』や『鎌倉大草紙』には通称の「平右衛門尉」が討死したと記されているのみであり 23 、これらの劇的な描写は後世の脚色である可能性が高いが、彼がこの乱戦の中で命を落としたことは紛れもない事実であった 29

午前十時頃 ― 勝敗決す

勇猛な弟・泰明の死は、豊島軍の士気を完全に打ち砕いた。指揮系統は崩壊し、兵たちは我先にと逃走を始める。戦いは午前10時頃には完全に決着したと伝わる 30 。道灌軍は追撃の手を緩めず、敗走する豊島勢を討ち続けた。この戦いで豊島方は、泰明をはじめ、譜代の家臣である板橋氏、赤塚氏など150騎以上が討死するという、再起不能に近い壊滅的な大敗を喫した 6

この戦いの勝敗は、兵力差や個々の武勇によって決まったのではない。事前に情報を集め、地形を最大限に活用し、そして足軽集団戦法という新時代の戦術を駆使した太田道灌の「知」が、武士の意地と旧来の戦術に固執した豊島氏の「武」を圧倒した結果であった。江古田・沼袋原の戦いは、戦国初期における軍事革命の縮図ともいえる戦いであった。

第五章:落日の名族 ― 石神井城の攻防と豊島氏の滅亡

江古田・沼袋原での惨敗は、豊島氏にとって終わりの始まりであった。弟と多くの家臣を失った豊島泰経は、命からがら残兵を率いて本拠地・石神井城へと逃げ帰った 31 。しかし、太田道灌の追撃は執拗かつ迅速であった。

道灌の追撃と心理戦

道灌は勝利の余勢を駆って、その日のうちに石神井城へ軍を進め、城を完全に包囲した。彼は城の南に位置する愛宕山(後世、道灌にちなみ「トーカン山」とも呼ばれた 30 )に本陣を構え、野戦陣地を構築して豊島方に無言の圧力をかけた 18 。この迅速な包囲と威圧的な陣構えは、豊島方に味方していた周辺の地侍たちを動揺させ、彼らの戦意を削ぎ、次々と離反させていく効果的な心理戦でもあった。

偽りの降伏と落城

完全に孤立し、追い詰められた泰経は、4月18日に降伏を申し出た 24 。しかし、道灌が和議の条件として提示した「城の破却」を泰経が履行しなかったため、道灌はこれを時間稼ぎのための偽りの降伏と見破った 28

4月28日(一説には21日 23 )、道灌は総攻撃を再開する。もはや豊島方に抗う力は残されていなかった。城の外郭は瞬く間に陥落し、落城が目前に迫る中、泰経は夜陰に紛れて城から脱出した 23 。平安時代からこの地を支配してきた名族の、あまりにも呆気ない本拠地の喪失であった。

豊島氏の最期

石神井城を失った後も、泰経は再起を諦めなかった。翌文明10年(1478年)1月、彼は平塚城に籠って再び兵を挙げる 6 。しかし、道灌の前にこれもまた敗れ、今度は長尾景春方の拠点である小机城(横浜市)へと逃げ込んだ 35

だが、その小机城も同年4月には道灌の猛攻の前に落城する 6 。この落城を最後に、豊島泰経の消息は歴史の記録から途絶える。こうして、武蔵国に数百年君臨した名族・豊島氏は、歴史の表舞台から完全に姿を消したのである。

第六章:戦いの遺産 ― 歴史的意義と後世への影響

江古田・沼袋原の戦いとそれに続く豊島氏の滅亡は、武蔵国南部の政治・軍事状況を一変させ、後世にまで及ぶ様々な影響を残した。

江戸の礎

最大の歴史的意義は、太田道灌が江戸を中心とする武蔵国南部の支配権を完全に掌握したことである 3 。長年にわたる脅威であった豊島氏が消滅したことで、江戸城はその戦略的価値を飛躍的に高めた。これ以降、江戸は単なる一軍事拠点から、扇谷上杉家、そして道灌自身の政治・経済・文化の中心地として本格的な発展を遂げる。道灌が築き、この戦いによって確固たるものとした江戸の基盤は、約100年後に徳川家康が関東に入府する際の礎となった。この戦いがなければ、江戸、そして東京の歴史は大きく異なっていたかもしれない。

史実と伝説の交錯 ― 照姫哀話

歴史的事件は、時として後世の人々によって物語として再生産され、新たな意味を付与される。この戦いも例外ではない。史実では、豊島泰経は石神井城落城の際に城を脱出し、その後も再起を図っている 36 。しかし、後世、特に明治時代以降に、一つの悲劇的な伝説が生まれる。それは、「落城の際、泰経は三宝寺池に身を投げ、その娘・照姫もまた父の後を追って入水した」という物語である 21

この「照姫伝説」は、明治29年(1896年)に出版された遅塚麗水の小説『照日松』などを通じて広く知られるようになった 30 。豊島氏の系図にその名は見られず、架空の人物とされる照姫の物語は 36 、敗者への同情と悲劇のヒロインへの共感を呼び、やがて地域の歴史として人々の心に深く根付いていった。現在、練馬区では毎年春に「照姫まつり」が盛大に開催されており 36 、史実を超えた伝説が地域のアイデンティティを形成する文化資源へと昇華した好例となっている。

古戦場の現在

500年以上の時を経て、かつての戦場はその姿を大きく変えたが、今なお合戦の記憶を留める史跡が点在している。

  • 江古田原 沼袋古戦場碑 : 合戦の中心地とされる江古田公園内には、この戦いを記念する石碑が建てられている 44
  • 豊島塚 : 戦死者を埋葬したとされる塚。かつては7カ所ほどあったとされるが、都市開発によりその多くは失われ、現在は「金塚」や「お経塚」などがわずかに残るのみである 1
  • 沼袋氷川神社 : 道灌が戦勝を祈願し、杉の木を植えたと伝えられる神社。境内にはその「道灌杉」の遺構が残されている 1
  • 自性院(猫寺) : 道灌が合戦中に道に迷った際、一匹の黒猫に導かれて窮地を脱したという伝説が残る寺院。この逸話から「猫寺」として知られ、境内には猫地蔵が祀られている 1

これらの史跡は、現代の都市景観の中に埋もれながらも、かつてこの地で繰り広げられた激闘の歴史を静かに語り継いでいる。

おわりに:古戦場を歩く ― 史実が語るもの、伝説が伝えるもの

文明9年(1477年)の江古田・沼袋原の戦いは、太田道灌という一人の武将の卓越した軍事的才能が、関東の勢力図を塗り替えた決定的な戦いであった。地形を読み、新戦術を駆使し、敵の心理を突く道灌の智略は、旧来の戦い方に固執した名族・豊島氏を滅亡へと追い込み、江戸が将来、日本の中心地として発展する道を切り開いた。

この戦いの様相は、当事者である道灌自身が記した書状『太田道灌状』という貴重な一次史料によって、その骨子が伝えられている。一方で、後代に編纂された『鎌倉大草紙』のような軍記物は、物語としての面白さを加えるために、史実を脚色し、英雄譚や悲劇を織り交ぜていく 47 。そして、さらに時を経て、地域の人々の記憶の中で「照姫伝説」のような新たな物語が紡がれていく。

歴史を理解するとは、単一の事実を暗記することではない。信頼性の高い史料に基づいて客観的な事実を再構築すると同時に、なぜ人々がその出来事を特定の形で記憶し、語り継いできたのか、その背景にある心理や文化をも読み解くことである。江古田・沼袋原の古戦場跡を訪れるとき、我々はそこに、道灌の勝利という厳然たる史実と、照姫の悲劇という人々の心が作り出した伝説の両方を見出すことができる。その二つの層を見つめることで、この戦いが持つ真の歴史的深層に触れることができるのである。

引用文献

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  2. なかの物語 其の三 いつから中野と呼ばれたのか? https://www.city.tokyo-nakano.lg.jp/kanko/shiru/nakanomonogatari/sono3.html
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  37. 太田道灌はなぜ有名?江戸城を建てただけじゃない道灌の功績を紹介 - ほのぼの日本史 https://hono.jp/edo/ota-dokan/
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  40. 照姫 (豊島氏) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%85%A7%E5%A7%AB_(%E8%B1%8A%E5%B3%B6%E6%B0%8F)
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  42. 豪華絢爛な時代絵巻「照 姫 まつり」が開催 - 練馬区 https://www.city.nerima.tokyo.jp/kusei/koho/hodo/h27/2705/270517.files/270517.pdf
  43. 知られざる東京の歴史に触れるおまつり「照姫まつり」とは?参加する人がハマるその世界 https://omatsurijapan.com/blog/teruhimematsuri-recommend/
  44. 江古田古戦場の碑 クチコミ・アクセス・営業時間|中野 - フォートラベル https://4travel.jp/dm_shisetsu/11584978
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  48. 小説・鎌倉大草紙 | その他 | 新着情報 - 太田道灌 https://www.doukan.jp/news/other/2021-01-20