最終更新日 2025-08-30

江尻城の戦い(1568)

武田信玄は駿河侵攻で今川氏を瓦解させ、江尻湊を無血占領。海上戦略拠点として江尻城を築き、武田水軍を創設。駿河支配の要衝とし、北条・徳川との対峙に備えた。城の興亡は武田氏の盛衰を映す。
Perplexity」で合戦の概要や画像を参照

『江尻城の戦い(1568年)の真相:武田信玄の駿河侵攻と海上戦略拠点構築の全貌』

序章:崩れゆく秩序 ― 甲相駿三国同盟の黄昏

永禄11年(1568年)に武田信玄が敢行した駿河侵攻、そしてその過程で生起した「江尻城の戦い」と称される一連の出来事は、単発的な軍事衝突ではない。それは、十数年にわたる東国情勢の地殻変動がもたらした、必然的な帰結であった。この歴史的転換点の深層を理解するためには、まずその発端となった永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いまで遡る必要がある。

桶狭間の衝撃と今川家の落日

「海道一の弓取り」と謳われた今川義元の戦死は、今川家に計り知れない打撃を与えた 1 。それは単に傑出した当主を失ったという事実以上に、今川家の軍事的権威と政治的求心力を根底から揺るがす象徴的な事件であった。後継者となった今川氏真は、後世に伝わる「暗君」という評価とは裏腹に、実際には領国経営に積極的に取り組み、織田信長に先駆けて楽市政策を実施するなど、決して無能な為政者ではなかった 3 。しかし、父・義元が築き上げたカリスマ的な統率力に代わる新たな支配体制を確立するには至らず、家臣団の動揺と遠心力を抑え込むことはできなかった。

今川家の支配基盤は、その内部から静かに、しかし確実に崩壊し始めていた。特に、三河国では松平元康(後の徳川家康)が独立を果たし、遠江国では国衆の離反が連鎖する「遠州忩劇」と呼ばれる深刻な内乱状態に陥っていた 5 。今川家の統治システムは、義元という一個人の絶大な権威に過度に依存していた。その「重し」が失われたことで、各地の国衆は自らの生き残りをかけて新たな道を模索し始めたのである。氏真の政策がどれほど正鵠を射ていたとしても、一度失われた求心力を取り戻すことは、もはや不可能であった。今川家の凋落は、氏真個人の資質の問題というよりも、特定の個人に依存しすぎた統治体制そのものが内包していた構造的脆弱性が露呈した結果と言える。

甲斐の虎、海への野望:信玄の戦略転換

時を同じくして、甲斐の武田信玄は、長年にわたる信濃平定をほぼ完了させ、次なる国家戦略の岐路に立っていた。内陸国である甲斐の地政学的な限界は、信玄にとって常に克服すべき課題であった。塩をはじめとする重要物資の供給を他国に依存し、経済発展に制約を抱える状況は、国家の存立基盤そのものを脆弱にしていた 7 。信濃平定後、武田家の膨張ベクトルは、北の上杉謙信との不毛な消耗戦を続けるか、南の今川・北条領へ向かうかの二択に絞られていた 8

今川家の急激な弱体化は、信玄の目に千載一遇の好機と映った。長年の悲願であった駿河の港湾地帯を確保し、交易と水軍の力を手に入れることは、武田家をさらなる高みへと飛躍させるための絶対的な条件であった 1 。ここにきて信玄は、甲斐・相模・駿河の三国間で結ばれた「甲相駿三国同盟」という安定秩序の維持よりも、領土拡大という実利を優先する、大胆な戦略転換を決断する。これは単なる裏切り行為ではなく、武田家の国家戦略として、地政学的に最も合理的かつ必然的な選択であった。

徳川家康との密約:今川領分割計画

信玄の計画を確実なものとするため、周到な外交工作が進められた。今川領の西半分、遠江国を狙う三河の徳川家康との連携である。永禄11年(1568年)2月、両者は水面下で交渉を重ね、大井川を境界として東の駿河国を武田が、西の遠江国を徳川がそれぞれ領有するという密約を締結した 9 。この密約により、今川氏は東西から挟撃されるという絶望的な状況に追い込まれた。信玄は背後の憂いなく駿河侵攻に全戦力を投入できる体制を整え、ここに東国の勢力図を塗り替える戦いの幕が切って落とされたのである。

第一章:永禄十一年十二月、武田軍、駿河へ ― 電撃侵攻の幕開け

周到な準備と外交工作を経て、武田信玄による駿河侵攻作戦は、永禄11年(1568年)12月、満を持して開始された。その進軍は、今川方の予想を上回る速度と規模で展開され、まさに電撃侵攻の名にふさわしいものであった。

(1568年12月6日~11日)甲府出陣から国境突破まで

永禄11年12月6日、武田信玄は2万5千と号する大軍を率いて、本拠地である甲府の躑躅ヶ崎館を出陣した 9 。軍勢は単一のルートではなく、複数の進路から同時に駿河国へなだれ込んだ。これは、今川方の防御を一点に集中させず、戦線を撹乱・飽和させるための戦術であった。『駿河記』によれば、信玄が率いる本隊が駿州宍原へ向かう一方で、武田四天王の一人である山県昌景が率いる精鋭部隊は内房通りへと差し向けられたと記録されている 13

武田軍の侵攻は、単なる軍事力に頼ったものではなかった。それに先立ち、国境地帯の在地勢力に対する調略が丹念に進められていた。例えば、駿甲国境に位置する富士郡の有力国衆である佐野氏は、事前に武田方への帰属を約束しており、武田軍は大きな抵抗を受けることなく駿河国内の深部へと進出することができた 15

緒戦の攻防:大宮城と内房口での抵抗

しかし、全ての今川方勢力が戦わずして膝を屈したわけではなかった。侵攻開始から3日後の12月9日、武田軍の別働隊は富士郡の要衝である大宮城(富士城)への攻撃を開始した。城主の富士信忠は今川家への忠義を貫き、果敢に防戦。この最初の攻撃を撃退することに成功した 15 。この抵抗は、今川氏の支配下に、依然として武田軍に立ち向かう意志を持つ勢力が存在したことを示している。

だが、局地的な抵抗は、武田軍の圧倒的な進撃を押し止めるには至らなかった。山県昌景が進んだ内房口では、今川家臣の荻清誉が奮戦の末に討死するなど、各所で今川方の防衛線は突破されていった 15 。武田軍は、頑強に抵抗する拠点を巧みに迂回、あるいはこれを無力化しつつ、今川氏の本拠地である駿府を目指して、その西進を続けた。侵攻開始からわずか一週間足らずで、武田軍は駿府の喉元にまで迫っていたのである。

【表1:駿河侵攻と江尻城築城に関する時系列年表】

日付(永禄11年)

武田軍の動向

今川・北条・徳川軍の動向

備考

12月6日

信玄、甲府を出陣。駿河侵攻開始。 9

総兵力は2万5千とされる。 13

12月9日

別働隊、大宮城を攻撃。 15

富士信忠、防衛に成功。 15

今川方の抵抗が始まる。

12月12日

薩埵峠へ進軍。 9

氏真、興津の清見寺に出陣。 9

今川軍、薩埵峠に約1万5千を布陣。 16

12月13日

薩埵峠を突破、駿府を占領。 11

氏真、掛川城へ敗走。岡部正綱降伏。 9

今川家臣団の大量離反が決定打となる。

12月13日

徳川家康、遠江侵攻開始。曳馬城攻略。 9

武田との密約に基づく協調行動。

12月下旬

江尻湊を確保。築城準備を開始か。 18

戦略的要地の確保と拠点化に着手。

12月27日

家康、掛川城を包囲。 9

氏真の籠城戦が始まる。

永禄12年1月

薩埵峠で北条軍と対峙。 11

北条氏政、薩埵山に着陣。 19

第二次薩埵峠の戦いへ移行。

永禄13年(1570)

江尻城の本格的な普請を開始。 20

駿河支配の恒久拠点化が本格化。

第二章:薩埵峠の激震 ― 今川家臣団、雪崩の如き崩壊

武田軍の電撃的な侵攻に対し、今川氏真は国家の存亡を賭けて最後の防衛線を構築しようとした。その舞台となったのが、駿府の東の玄関口にそびえる天然の要害、薩埵峠であった。しかし、ここで繰り広げられたのは、血で血を洗う激戦ではなく、戦う前に勝敗が決するという、戦国時代の非情な現実であった。

(1568年12月12日)決戦前夜:清見寺に布陣する今川氏真

武田軍接近の報を受け、今川氏真は自ら軍を率いて駿府を出陣。興津の清見寺に本陣を構えた 9 。その主力部隊約1万5千は、駿府への唯一の隘路である薩埵峠に展開された 16 。薩埵峠は、山が駿河湾に迫り、道が極端に狭まる地形であり、古来より交通の難所、そして軍事上の要衝として知られていた 22 。ここを堅固に守り抜けば、いかに武田が大軍であろうとも、その進撃を食い止めることは可能であった。今川方にとって、ここは文字通り、国の命運を賭けた決戦の場となるはずであった。

(1568年12月13日未明)裏切りの連鎖と総崩れ

だが、運命の12月13日、薩埵峠で大規模な戦闘の火蓋が切られることはなかった。決戦を前にして、今川軍の防衛線は内部から崩壊したのである。これは、武田信玄が長年にわたり、今川家臣団に対して執拗に続けてきた調略活動が、この決定的な瞬間に実を結んだ結果であった。今川家の将来に見切りをつけた重臣たちが、戦わずして次々と武田方へと寝返ったのだ 1

史料によれば、薩埵山に陣を構えていた朝比奈信置、葛山氏元、瀬名氏といった今川家の重臣たちが、戦線を放棄したと伝えられている 23 。これにより、鉄壁のはずだった今川軍の防衛網は、戦わずして無数の穴が開き、組織的な抵抗能力を完全に喪失した。総大将である氏真の周囲には、わずか七、八十人ほどの手勢しか残らないという惨憺たる状況に陥った 23 。もはや戦を継続することは不可能であり、自らの身の危険を察知した氏真は、清見寺の本陣を捨て、駿府の今川館へと撤退する以外の選択肢を失っていた 17

この一連の出来事は、「薩埵峠の戦い」が物理的な戦闘ではなく、情報戦・心理戦における武田信玄の完勝であったことを物語っている。勝敗を決したのは兵力の優劣ではなく、敵組織を内部から切り崩すという、高度なインテリジェンスの戦いであった。信玄の「戦わずして勝つ」という戦略思想が、ここに鮮やかに体現されたのである。

(1568年12月13日)駿府陥落:氏真、掛川への苦難の敗走

総大将の撤退という報は、前線に残された兵士たちの士気を完全に打ち砕いた。指揮系統を失った今川軍は総崩れとなり、武田軍はこれを追撃する形で、もはや無抵抗となった薩埵峠を難なく突破した 17

勢いに乗る武田軍は、同日のうちに駿府へと雪崩れ込んだ。さらに、馬場信春が率いる一隊は、氏真が籠城を図ろうとしていた詰城の賤機山城を先回りして占拠し、その退路を完全に断った 17 。万策尽きた氏真は、父祖伝来の本拠地である駿府をも放棄。最後の忠臣、朝比奈泰朝が守る遠江国の掛川城を目指して、西へと落ち延びていった。

この敗走は、一国の大名のものとは思えぬほど過酷なものであった。氏真の正室であり、相模の雄・北条氏康の娘でもある早川殿は、乗り物である輿すら用意できず、徒歩で険しい道のりを逃げたと伝えられている 9 。彼らが辿った経路は、主要街道である東海道を避け、山間部を縫うように進む道であったと推測されている 23 。この事実は、極めて重要な意味を持つ。一国の主が、自国の幹線道路を使えずに山中の隘路を選ばざるを得なかったということは、街道沿いの宿場や関所、在地領主たちが、もはや氏真に従わず、武田方に寝返るか、少なくとも日和見を決め込んでいたことを物理的に証明している。氏真の逃走経路そのものが、今川家の統治権力が駿河中心部ですら完全に崩壊していたことを示す、何より雄弁な証拠なのである。

第三章:「江尻城の戦い」の真相 ― 占領から拠点構築へ

一般に「江尻城の戦い」として知られるこの出来事は、その呼称から、既存の「江尻城」をめぐる攻防戦であったかのような印象を与える。しかし、史料を丹念に検証すると、その実態は大きく異なる。永禄11年(1568年)12月の時点では、武田軍が攻略すべき「江尻城」は、まだ存在していなかったのである。この出来事の本質は、「城の攻防戦」ではなく、「戦略的要地の確保と、それに続く新たな拠点城郭の建設」であった。

「戦い」は存在したか?:江尻湊の無血占領

駿府が陥落し、今川氏真が遠江へと敗走したことで、駿河における今川方の組織的抵抗は事実上終焉した。駿府の東に位置する江尻の港湾地域(江尻湊)も、この混乱の中で武田軍によって速やかに確保されたと考えられる。関連する史料の中に、この江尻の地で大規模な戦闘が行われたことを示唆する具体的な記述は見当たらない。

今川氏の治世において、江尻は湊を管理する代官が置かれ、海上交通と物流の要衝として重要な役割を担っていた 18 。武田軍は、この港湾機能とそれに付随する経済的基盤を、戦闘による破壊を免れたほぼ無傷の状態で手に入れた。これは、内陸国であった武田氏にとって、計り知れない価値を持つ戦略的資産の獲得を意味した。

新たな楔:馬場信春による縄張りと築城の開始

江尻の地を確保した信玄は、単なる占領に留まらず、この地を恒久的な支配拠点とするための新たな城の建設を即座に命じた。これが、後に武田氏による駿河経営の中核を担う「江尻城」の始まりである 26

軍記物である『甲陽軍鑑』によれば、この新城の設計、すなわち「縄張り」は、武田四天王の一人に数えられ、築城の名手としても名高い馬場信春(信房)が担当したとされている 19 。築城の開始時期は、駿河侵攻が一段落した永禄11年(1568年)末からと見られるが、当初は今川方の残存勢力や、救援に駆けつけるであろう北条軍に備えるための、急ごしらえの陣城、あるいは砦のような施設であった可能性が高い 26 。本格的な城郭としての普請は、後に北条軍を一時的に駿河から排除し、支配が安定した永禄13年(1570年)頃から本格的に進められたと考えられる 20

この築城という行為は、武田氏による「支配の質の転換」を象徴するものであった。単なる占領であれば、既存の今川方の施設を改修して流用すれば事足りる。しかし信玄は、馬場信春という一流の専門家を投入し、全く新しい城をゼロから築かせた。これは、旧来の今川氏の統治システムを完全に上書きし、武田氏独自の軍事・行政システムを駿河の地に移植しようとする、強い意志の表れに他ならない。武田流の築城術で固められた新城は、軍事的な拠点であると同時に、駿河の民に対して「新たな支配者は武田である」と示す、強力な政治的シンボルでもあった。

駿河経営の拠点・江尻城の誕生

こうして誕生した江尻城は、旧来の今川氏の政治的中心であった駿府館に代わり、武田氏による新たな駿河経営の中心拠点として構想された 26 。築城当初の城将(城代)には、信玄の甥にあたる武田信堯が数百の兵と共に配されたと伝わる 26 。そして、本格的な普請が進み、城の重要性が増すにつれて、武田家臣団の中でも屈指の猛将である山県昌景が城代として送り込まれた 21 。この重臣中の重臣の配置という事実からも、信玄がこの江尻城をいかに戦略的に重視していたかが明確に見て取れる。江尻城は、武田氏の駿河支配を盤石にするための、まさに地中に打ち込まれた強固な楔であった。

第四章:江尻城の構造と戦略的価値

武田信玄の命により、駿河の地に新たに築かれた江尻城は、その構造と立地において、武田氏の先進的な築城技術と明確な戦略的意図を色濃く反映していた。それは単なる防御施設ではなく、軍事、経済、政治の各側面から駿河支配を支える多機能拠点として設計されていた。

武田流築城術の粋:輪郭式平城と丸馬出し

江尻城は、巴川下流の平地に築かれた「平城」に分類される 26 。その縄張りは、本丸を中心に据え、その周囲を二の丸、三の丸といった曲輪と堀が同心円状に取り囲む「輪郭式」と呼ばれる構造であった 1 。これにより、どの方向からの攻撃に対しても均等な防御力を発揮することが意図されていた。

特に注目すべきは、武田氏の築城術の象徴ともいえる「丸馬出し」が、城の外郭部に三箇所も設けられていたとされる点である 1 。馬出しとは、城門の前面に設けられた小規模な区画であり、敵の城門への直進を防ぎ、側面からの攻撃を可能にする防御施設である。中でも半月状の土塁で囲まれた丸馬出しは、あらゆる角度からの攻撃に対応できる極めて防御効率の高い構造であり、武田氏が得意とした。この先進的な防御設備を備えていたという事実は、江尻城が、東の北条、西の徳川という強大な敵からの攻撃を常に想定した、最前線の戦闘拠点として設計されたことを明確に示している。

城の規模もまた、その重要性を物語っている。東西約400メートル、南北約260メートルという広大な敷地を有し、戦国末期から江戸時代初期にかけて築かれる「近世城郭」にも匹敵する規模を誇っていた 28 。この設計思想には、「防御」と「支配」という二重性が明確に見て取れる。丸馬出しや二重堀といった構造は、外部からの攻撃を撃退するための純軍事的な「防御」思想を体現している。一方で、広大な規模や、後に整備される城下町の存在は、単なる砦ではなく、広域を統治するための行政・経済の中心地としての「支配」思想を示している。江尻城は「駿河を敵から守る盾」であると同時に、「駿河を武田が治めるための矛先」でもあったのだ。

港湾都市・江尻の掌握:経済と物流の支配

江尻城が持つ最大の戦略的価値は、駿河湾の良港である江尻湊を直接その支配下に置く点にあった 18 。これにより武田氏は、長年の悲願であった「海への出口」を確保した。海上交易によってもたらされる莫大な利益を独占し、甲斐本国へ塩や各種物資を安定的に輸送する、新たな海上補給路を確立したのである。これは、武田領国の経済基盤を根本から強化し、その国力を飛躍的に増大させる可能性を秘めていた。後に城代となる穴山信君が、城下町を整備し、独自の経済圏である「江尻領」を形成したことからも、江尻が軍事のみならず経済の中心地としても極めて重要視されていたことがわかる 18

対北条・対徳川の最前線基地としての機能

地理的に見れば、江尻城は東の相模・伊豆を領する北条氏と、西の遠江・三河を領する徳川氏という、二大勢力の中間に位置していた 26 。この地勢的条件は、江尻城に最前線基地としての極めて重要な役割を与えた。東海道という大動脈を押さえ、両勢力の動向を常に監視し、有事の際には迅速に出撃できる戦略拠点として、武田氏の駿河、ひいては東海地方における覇権の維持に不可欠な存在であった。

江尻城の建設は、武田氏の戦略的重心が、従来の「山(信濃・上野)」から「海(駿河)」へと明確に移動したことを物理的に示す、何よりの証拠であった。これほどの資源と、馬場信春や山県昌景といった最高の人材を沿岸部の一点に集中投下したという事実は、信玄の戦略的優先順位が大きく変化したことを物語っている。駿河はもはや単なる征服地ではなく、武田領国の新たな重心であり、未来の発展を担う戦略的ハブと位置づけられていたのである。

第五章:武田水軍の創設と駿河湾の制海権争い

江尻城の築城は、武田氏の海洋戦略の始まりに過ぎなかった。港という「器」を手に入れた信玄は、次なる手として、その中身である「水軍」の創設に乗り出す。これにより、これまで陸の覇者であった武田氏は、新たに海の戦場へと進出し、駿河湾の制海権をめぐって、伊豆水軍を擁する北条氏との間で新たな抗争の時代を迎えることとなる。

旧今川水軍の再編:岡部貞綱と向井正重の登用

信玄は、水軍をゼロから創設するのではなく、今川氏が有していた既存の海事勢力を巧みに吸収・再編するという現実的な手法をとった 33 。その中核として白羽の矢が立てられたのが、今川水軍の有力な将であった岡部貞綱である。信玄は彼を登用し、武田水軍の編成を命じた 33 。岡部貞綱は後に信玄から土屋姓を賜り、土屋貞綱として水軍の総指揮官的な役割を担うこととなる。

さらに、武田水軍の戦力を増強するため、外部からの人材登用も積極的に行われた。岡部貞綱の招聘に応じ、伊勢国から海賊衆として名を馳せていた向井正重とその一党が馳せ参じ、武田氏に仕えることになった 33 。彼らは、武田水軍の機動部隊として重要な戦力となった。

海の拠点ネットワーク:江尻城と持舟城

新たに編成された武田水軍は、江尻湊をその最大の拠点とした。しかし、広大な駿河湾を効率的に支配するためには、単一の拠点では不十分であった。そこで武田氏は、湾岸に点在する今川方の諸城を制圧・改修し、水軍の拠点ネットワークを構築した。

このネットワークにおいて、江尻と並んで特に重要な役割を果たしたのが、駿府の西方、用宗の地に位置する持舟城(用宗城)である 33 。この城は駿河湾に直接面した海城であり、先に登用された向井正重が城主として配され、武田水軍の西の根拠地となった 33 。江尻と持舟、この二つの拠点が連携することで、武田水軍は駿河湾全域における活動能力を飛躍的に向上させたのである 38

甲斐の虎、海で吼える:北条水軍との激突

武田水軍の出現は、長年にわたり伊豆半島を拠点とし、駿河湾の制海権を事実上掌握してきた北条水軍(伊豆水軍)との衝突を不可避なものとした 39 。元亀元年(1570年)以降、両者の水軍は駿河湾を舞台に、幾度となく海戦を繰り広げることになる 34 。特に天正8年(1580年)、武田勝頼と北条氏政の代に行われた「駿河湾海戦」は、双方の総力を挙げた大規模な海戦として記録されている 41

両水軍の戦力には、質的な違いが存在した。北条水軍が、伊豆の海賊衆を中核とした経験豊富な集団であり、大型で重武装の安宅船を主力としていたのに対し、武田水軍は旧今川勢力や外部傭兵の混成部隊という側面が強く、主力は中小型で機動力に優れた関船であった 34 。この戦力差を埋めるため、武田水軍は夜間の奇襲戦法などを駆使して、強大な北条水軍に果敢に挑んでいった。

【表2:武田水軍と北条水軍の比較】

項目

武田水軍

北条水軍(伊豆水軍)

主な拠点

江尻湊、清水湊、持舟城 18

韮山城、長浜城、伊豆沿岸諸港 42

主要な将

土屋貞綱(岡部貞綱)、向井正重、小浜景隆、伊丹康直 45

梶原景宗、清水康英、間宮武兵衛 34

主力艦船

関船(中小型・高速) 42

安宅船(大型・重武装)、関船 34

組織的特徴

旧今川水軍と外部傭兵(伊勢など)の混成部隊。急造の側面が強い。 33

伊豆の海賊衆を中核とした、伝統と経験豊富な部隊。 34

戦略目標

駿河湾の制海権確保、海上補給路の維持、伊豆への圧迫。 39

駿河湾の制海権維持、武田水軍の封じ込め、伊豆の防衛。 40

終章:江尻城が映す武田氏の興亡とその後

江尻城の築城と武田水軍の創設は、武田信玄の長年の野望を成就させた輝かしい成功の象徴であった。しかし、その成功の光は、同時に武田家の未来に暗い影を落とすことにもなる。江尻城の歴史は、武田氏の駿河支配の盛衰、そしてその後の滅亡の運命と、分かちがたく結びついている。

北条氏の介入と戦線の膠着

信玄による一方的な同盟破棄と駿河侵攻は、今川氏真の義父であり、三国同盟の一翼を担っていた相模の北条氏康を激怒させた。特に、実の娘である早川殿が徒歩で敗走するという屈辱的な仕打ちは、氏康の逆鱗に触れた 17 。北条氏は今川救援を大義名分として駿河へ出兵。永禄12年(1569年)には、再び薩埵峠を舞台に武田軍と北条軍が対峙する「第二次薩埵峠の戦い」が勃発した 14

この戦いは、双方決め手を欠き、長期間にわたる膠着状態に陥った。信玄は一時的に甲斐への撤退を余儀なくされるなど、駿河の完全平定は困難を極めた 11 。この対立の中で、江尻城は対北条の最前線を支える極めて重要な軍事拠点として、その真価を発揮し続けた。しかし、この駿河侵攻が、それまで比較的安定していた対北条関係を決定的に悪化させ、武田氏を対上杉、対徳川、そして対北条という三正面作戦へと追い込んでいったことも事実である。これは武田の国力を著しく消耗させる遠因となった。

穴山信君の統治と「江尻領」の形成

天正3年(1575年)、長篠の戦いで初代城代の山県昌景が討死すると、武田一門の中でも特に重きをなす穴山信君(梅雪)が、新たな江尻城代として着任した 26 。信君は江尻城の統治に並々ならぬ情熱を注ぎ、城郭をさらに堅固に拡張し、「観国楼」と名付けた壮麗な高櫓を築いたと伝えられている 18

信君の統治下で、江尻城はその性格を変化させていく。彼は江尻城を中心とする一帯を、半ば独立した領国であるかのように統治し、独自の経済政策を展開して「江尻領」と呼ばれる勢力圏を形成した 51 。これは、武田宗家から一定の自立性を持つ強力な支城領の誕生を意味した。この強大な権限と経済的基盤が、皮肉にも後の彼の裏切りを容易にする土壌を提供することになる。

武田氏滅亡、そして城の終焉へ

天正10年(1582年)、織田信長による甲州征伐の軍が迫ると、武田家の将来を悲観した穴山信君は、徳川家康を通じて織田方への内応を決断。武田氏の駿河方面における最大の拠点であった江尻城を、戦わずして家康に明け渡した 18 。この裏切りは、駿河方面の防衛線を一夜にして崩壊させ、武田勝頼を窮地に追い込み、武田氏滅亡の決定的な一撃となった。

武田氏の滅亡後、江尻城は徳川家の支配下に入り、家康の家臣が城代を務めた。天正18年(1590年)に家康が関東へ移封されると、豊臣家臣の中村一氏の支城となり、その役割を徐々に縮小させていく 26 。そして、関ヶ原の戦いを経て天下の情勢が安定した慶長6年(1601年)、ついに廃城となり、その約30年にわたる短い、しかし激動の歴史に幕を下ろした 26

江尻城の歴史は、戦国時代における「城」の役割の変遷を映し出している。当初は純粋な軍事拠点として築かれた城が、やがて地域の行政・経済を担う「領域支配の核」へと発展し、最終的には大名の運命を左右する「政治的・外交的な取引材料」となった。江尻城という一つの城のライフサイクルは、戦国という時代が、軍事力のみならず、経済力や外交戦略が複雑に絡み合う、より高度な総力戦の時代へと移行していく過渡期の姿を、鮮やかに映し出しているのである。

引用文献

  1. 江尻城 - Mottyの旅日記 Archive https://mottystraveldiary.hatenablog.com/entry/2024/03/20/122700
  2. 「今川氏真」亡国の暗君が平時の名君たりえた公算 教養ある文化人として家康のもと生き延びた - 東洋経済オンライン https://toyokeizai.net/articles/-/661486
  3. 今川氏~駿河に君臨した名家 - 静岡市 https://www.city.shizuoka.lg.jp/s6725/p009495.html
  4. 今川氏真は何をした人?「放り投げられた蹴鞠のように浮遊しながら生き抜いた」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/ujizane-imagawa
  5. 『今川氏滅亡』氏真は無能だったのか?恐るべき武田信玄、頼りにならない上杉謙信 https://sengokubanashi.net/history/imagawashi-extinction/
  6. 戦国時代の同盟|戦国雑貨 色艶 (水木ゆう) - note https://note.com/sengoku_irotuya/n/nf7362318df3b
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