最終更新日 2025-09-08

河村城の戦い(1590)

河村城の戦いは、1590年の小田原征伐における豊臣軍と北条氏の支城・河村城の攻防。山中城落城後、孤立した河村城は徳川軍の攻撃を受け、殿部隊の奮戦後、無血開城。北条氏の広域防衛戦略の破綻を象徴する。

天正十八年・河村城の戦い ― 小田原征伐における一局地戦の徹底再構成

序章:天下統一の槌音と、箱根山中の要塞

天正18年(1590年)、日本の歴史は大きな転換点を迎えようとしていた。関白・豊臣秀吉が、その生涯をかけた天下統一事業の総仕上げとして、関東に巨大な独立王国を築いていた後北条氏の討伐を断行したのである 1 。この「小田原征伐」と呼ばれる一大軍事作戦には、徳川家康、前田利家、上杉景勝といった全国の大名が動員され、その総兵力は実に20万を超えたと記録されている 3 。これは、戦国時代を通じて最大規模の軍事動員であり、秀吉の圧倒的な権威と、それに抗う後北条氏の命運を決定づける最終戦争であった。

後北条氏は、本拠地である小田原城を中心に、関東一円に90以上もの支城を配した緻密な防衛ネットワークを構築し、この未曾有の国難に立ち向かおうとした 4 。その防衛網の西の玄関口、箱根外輪山の峻険な地形に築かれた要塞が、本報告書が主題とする河村城である。

一般に「河村城の戦い」として知られるこの出来事は、「箱根外輪の谷城を攻略」という一文で語られることが多い。しかし、この簡潔な記述の背後には、天下統一という巨大な歴史の奔流の中で翻弄された城と人々の、緊迫した数日間のドラマが隠されている。本報告書は、この小田原征伐という広大な戦役図における一つの局地戦、「河村城の戦い」に焦点を当てる。断片的に残された史料を、城郭構造、軍事戦略、そして当時の状況に関する専門的知見から丹念に再構築し、合戦のリアルな実像を時系列に沿って明らかにすることを目的とする。単なる城の陥落という結果だけでなく、そこに至るまでの戦略的背景、戦場の緊張、そして将兵たちの決断を深く掘り下げ、マクロな歴史の裏に埋もれたミクロな真実に光を当てる試みである。

第一章:戦いの背景 – 巨龍、関東に迫る

第一節:対立の構造 – 秀吉の天下と北条の独立

豊臣秀吉と後北条氏の対立は、単なる領土紛争ではなく、天下統一を目指す中央集権的秩序と、関東に半独立的な支配圏を維持しようとする地域権力との間の、理念を巡る衝突であった。秀吉は、天皇を権威の源泉とする関白として、全国の大名に自身への臣従、すなわち京都への上洛を再三にわたり要求した 1 。これは、戦国の世を終わらせ、統一された秩序の下で平和を構築するという秀吉の「天下惣無事」構想の根幹をなすものであった。

しかし、後北条氏四代当主・氏政と五代・氏直は、この要求に応じなかった 1 。彼らにとっては、初代・早雲以来、約100年にわたって築き上げてきた関東における絶対的な支配こそが自らの拠って立つ基盤であり、遠く離れた京の権威に頭を下げることは、その独立性を損なう屈辱的な行為と映ったのである。徳川家康を介した和睦交渉も行われたが 5 、両者の根本的な立場の隔たりは埋めがたいものであった。

この膠着状態を最終的に破綻させたのが、天正17年(1589年)10月に発生した「名胡桃城事件」である 1 。これは、秀吉の裁定によって真田氏の所領と定められていた上野国の名胡桃城を、北条方の沼田城代・猪俣邦憲が軍事力をもって奪取した事件であった 6 。この行為は、秀吉が定めた領土紛争の調停、すなわち「惣無事令」への明確な違反であり、秀吉に北条討伐の絶対的な大義名分を与えることになった。秀吉はこれを「天道に背き、帝都に対して悪だくみを企て、勅命に逆らう」行為であると断じ、全国の大名に対して北条討伐の陣触れを発したのである 6

第二節:後北条氏の防衛戦略 – 栄光の成功体験と、その限界

20万を超える豊臣の大軍を迎え撃つにあたり、後北条氏が選択した基本戦略は、本拠地・小田原城での徹底した籠城策であった 3 。この戦略は、過去の輝かしい成功体験に深く根差していた。永禄4年(1561年)には越後の上杉謙信、永禄12年(1569年)には甲斐の武田信玄という、戦国最強と謳われた武将たちの大軍を、小田原城に籠城することで撃退した実績があったのである 3 。氏政をはじめとする北条首脳部は、今回も長期戦に持ち込み、大軍ゆえに兵站に問題を抱えるであろう豊臣軍が疲弊し、撤退するのを待つという算段を立てていた。そのために、小田原城には町全体を囲い込む壮大な「総構」を築き、難攻不落の要塞をさらに強化していた 2

この籠城策を支えるのが、関東一円に張り巡らされた「支城ネットワーク」であった 4 。小田原城を中核とし、伊豆の山中城・韮山城、相模の足柄城・河村城、武蔵の鉢形城・八王子城など、主要な街道や戦略的要衝に配置された支城群が互いに連携し、敵の進軍を阻み、補給路を脅かすことで、小田原城への圧力を軽減する役割を担っていた 4 。河村城もまた、この広域防衛システムにおいて、西の駿河・甲斐方面からの侵攻に備える重要な拠点として位置づけられていた 9

しかし、この戦略には致命的な欠陥があった。それは、上杉謙信や武田信玄といった、単一の進軍路から攻め寄せ、兵站維持能力に限界のあった旧来の敵を想定したものであった点である。彼らが依拠した過去の成功体験は、敵が長期間の包囲を維持できないという前提の上に成り立っていた。

これに対し、豊臣秀吉の軍事行動は、その規模、兵站能力、戦略思想において、全く異次元のものであった。秀吉は、東海道、東山道、そして海上からという複数のルートで同時に大軍を侵攻させ、北条氏の支城ネットワーク全体を面で制圧する作戦をとった 10 。さらに、水軍を動員して海上を封鎖し、完璧な兵站体制を構築することで、長期にわたる包囲を可能にした 6 。北条氏の防衛戦略は、前提条件が根本的に異なる新たな脅威に対し、過去の成功モデルをそのまま適用したという構造的な誤りを犯していた。一点が突破されれば、連携を前提としたネットワーク全体が機能不全に陥るという脆弱性を内包していたのである。この戦略的判断の誤りが、後の各支城における悲劇的な崩壊の直接的な伏線となる。

第二章:戦場となる城 – 河村城の構造と防御機能

第一節:歴史と地政学的重要性

河村城の歴史は古く、南北朝時代の動乱期にその名が史料に登場する 11 。文和元年(1352年)、南朝方の新田義興らがこの城に籠城し、足利尊氏方の畠山国清率いる北朝軍と2年にも及ぶ攻防戦を繰り広げたと伝えられている 13 。その後、関東管領上杉氏、次いで大森氏の支配を経て、戦国時代に入ると相模に進出してきた後北条氏の所領となった 12

後北条氏にとって、河村城は極めて重要な戦略拠点であった。城は、酒匂川が大きく蛇行する地点の丘陵上に位置し、川が形成する険しい渓谷を天然の堀として利用できる、まさに自然の要害であった 16 。この立地は、西の甲斐国(武田氏領)や駿河国(今川氏、後に武田氏領)から、酒匂川沿いの渓谷路を通って関東平野へ侵入しようとする敵を監視し、迎撃するための絶好の位置にあった 16

特に、甲斐の武田信玄との対立が激化した元亀年間(1570年~1573年)、後北条氏はこの河村城に大規模な改修を加え、防御能力を飛躍的に向上させた 13 。これは、武田氏の駿河深沢城(現在の静岡県御殿場市)に対する最前線拠点として、その役割が強く意識されていたことを示している 11 。松田城、浜居場城、河村新城といった周辺の城砦と連携し、小田原を守る西側防衛線の中核を担うべく、後北条氏の最新の築城技術が惜しみなく投入されたのである 9

第二節:城郭の縄張り – 後北条流防御思想の結晶

天正18年当時の河村城は、後北条氏による改修を経た、連郭式の堅牢な山城であった。その縄張り(城の設計)は、東西と南北の尾根が交差する地点に「本城郭」を置き、そこから放射状に複数の郭(曲輪)を配置するという、複雑かつ巧みな構造を特徴としていた 21

城の中心である本城郭の東には蔵郭、近藤郭、そして城内で最大の面積を持つ大庭郭が連なり、北には小郭と茶臼郭、南西には馬出郭や西郭が配置されていた 21 。これらの郭は、それぞれが独立した防御拠点として機能すると同時に、互いに連携して多重の防御ラインを形成していた。各郭の間は、尾根を断ち切るように掘られた深い「堀切」によって分断されており、敵が容易に次の郭へ進めないよう工夫されていた 22 。特に蔵郭と近藤郭を隔てる堀切は、幅約25メートル、深さ約12メートルにも達する城内最大のものであり、東側からの攻撃に対する強力な障壁となっていた 17

河村城の防御思想を最も象徴するのが、後北条氏が得意とした特異な堀の構造、「畝堀(うねぼり)」、またの名を「障子堀(しょうじぼり)」である 11 。これは、堀の底に土を盛り上げて畝を作り、まるで障子の桟のように区画を仕切った堀である 22 。この複雑な構造は、敵兵に対して絶大な効果を発揮した。

まず、堀底に侵入した兵士は、畝を一つ一つ乗り越えなければならず、移動速度が著しく低下する 22 。さらに、畝は横方向への移動を妨げるため、兵士は特定のルートを進むしかなくなり、城壁の上から弓矢や鉄砲で狙い撃ちにされやすくなる 16 。平坦な堀底とは異なり、身を隠す場所もほとんどない。畝堀は、単なる物理的な障害物ではなく、敵兵の動きを制御し、無力化させ、城兵が一方的に攻撃を加えるための巧妙な「キルゾーン」だったのである。河村城では、茶臼郭と小郭の間や、本城郭と小郭の間など、城の枢要部にこの畝堀が効果的に配置されており 11 、後北条流築城術の粋を集めた、戦術レベルでは極めて攻略困難な要塞であったことがわかる。


表1:河村城の主要郭と防御機能

郭(曲輪)の名称

位置

推定される機能

主要な防御設備

本城郭

城の中心部

城主・城将の居館、指揮所

周囲を複数の郭と深い堀切で防御

茶臼郭・小郭

北側

北方からの侵攻に対する第一防衛線

畝堀(障子堀)、堀切 23

蔵郭

本城郭の東

兵糧や武具の備蓄、兵の駐屯

本城郭との間に木橋の架かる堀切 11

近藤郭

蔵郭の東

東側防衛線の重要拠点

蔵郭との間に城内最大の堀切 17

大庭郭

東端

大規模な兵力の駐屯地、予備兵力拠点

城内最大の面積を持つ広大な平場 22

馬出郭・西郭

南西側

西側(敵の主侵攻路)からの攻撃への備え

堀切、土塁


第三章:両軍の布陣 – 攻め手と守り手

第一節:守将・遠山景政と籠城兵

天正18年、天下の命運を左右する大戦の渦中にあった河村城の守備を任されていたのは、後北条氏の家臣・遠山左衛門尉景政であった 12 。遠山氏は、後北条氏の家臣団の中でも江戸城の城代を務めるなど、要職を歴任した一族である 25 。景政自身も、この河村城の他に、近隣の河村新城(新庄城)の城主も兼ねていたとされ 28 、この地域の防衛責任者としての重責を担っていたことがうかがえる。

しかし、彼が率いる籠城兵力については、正確な記録は残されていない。河村城の規模や、当時の後北条氏の動員体制を考慮すると、その兵力は数百名程度であったと推定される。後北条軍の主力は農民兵であったとされており 3 、河村城の兵士たちもまた、普段は農耕に従事し、戦の際に武装して城に立て籠もる地元の武士や農民が中心であった可能性が高い。彼らは、故郷と家族を守るために城壁に立ったが、西から迫りくる豊臣軍20万という、想像を絶する大軍の報に接し、その士気は計り知れない重圧に晒されていたであろう。

第二節:徳川軍の進撃 – 足柄路を制圧せよ

一方、河村城に迫る攻撃軍の中核を担ったのは、豊臣連合軍の先鋒として最大勢力を率いた徳川家康の軍団であった 10 。その兵力は約3万に及び、小田原征伐において最も重要な役割の一つを任されていた 10 。家康は、この大軍を効率的に運用し、箱根越えの難所を突破するため、軍を複数の部隊に分けて進軍させた。

史料によれば、徳川軍を含む豊臣方は、大きく三つのルートから箱根の山々を越え、小田原を目指した 10

  1. 三島から宮城野を経て明星ヶ岳を越えるルート
  2. 箱根の鷹ノ巣城を横目に湯坂を越えるルート
  3. 足柄峠を越え、足柄城・河村新城(新荘城)を制圧するルート

河村城が直接対峙することになったのは、このうちの第三のルート、すなわち足柄路を進む部隊であった。この方面の攻略部隊の中でも、特に先鋒として勇猛を馳せたのが、徳川四天王の一人、井伊直政が率いる部隊である 29 。武田家の旧臣たちで編成され、武具のすべてを朱色で統一した「井伊の赤備え」は、その精強さで敵味方から恐れられていた 30 。直政の部隊は、この小田原征伐において山中城攻めや足柄城攻略で先鋒を務めており 29 、その勢いのまま河村城へと迫ったと考えられる。

また、いくつかの記録には、徳川家の重臣・戸田忠次の名も散見される 32 。彼が直接河村城の攻撃を指揮したか定かではないが、家康配下の有力武将として、この方面の作戦に何らかの形で関与していた可能性は高い。このように、河村城の籠城兵が対峙したのは、徳川軍の中でも選りすぐりの精鋭部隊だったのである。

第四章:河村城の戦い – 時系列による再構成

「河村城の戦い」の実態は、長期間にわたる大規模な攻城戦ではなかった。それは、後北条氏の西側防衛線が電撃的に崩壊する過程で発生した、局地的かつ決定的な戦闘であった。その運命は、隣接する最重要拠点・山中城が陥落した瞬間に、事実上決していたのである。

天正十八年三月二十九日:西の門、破られる

  • 午前: この日、小田原征伐における最初の、そして最も重要な野戦が開始された。豊臣秀吉の甥である豊臣秀次を総大将とし、徳川家康の軍勢も加わった約7万の大軍が、箱根の西の守り、山中城への総攻撃を開始した 6 。対する北条方の守備兵力は、城将・松田康長、援軍の北条氏勝らを合わせてもわずか4,000人であった 36
  • 昼過ぎ: 兵力差は15倍以上。しかし、山中城の守りは固かった。後北条氏自慢の障子堀や畝堀が、攻め寄せる豊臣兵の足を阻み、城兵は土塁の上から鉄砲を撃ちかけ、必死の抵抗を試みた 35 。戦闘は熾烈を極め、豊臣方にも一柳直末といった有力武将が討ち死にするなどの損害が出た 35 。だが、数の力は絶対であった。中村一氏配下の渡辺勘兵衛らが一番乗りを果たすと 37 、豊臣軍は次々と城内に突入。圧倒的な物量の前に、堅固な防御施設もついに破られ、山中城はわずか半日の戦闘で陥落した 6 。城将・松田康長をはじめ、多くの将兵が城と運命を共にした 36
  • 夕刻~夜: 「山中城、半日にして落城」。この衝撃的な知らせは、狼煙や、辛うじて脱出した敗残兵によって、驚くべき速さで周辺の後北条方の城砦へと伝播していった 38 。足柄城、そして河村城の守備兵たちも、この凶報に接したはずである。鉄壁と信じられていた西の門が、いとも容易く破られたという事実は、物理的な防衛線の崩壊以上に、彼らの心理に計り知れない打撃を与えた。後詰(救援軍)への期待は絶たれ、次は我が城が同じ運命を辿るのではないかという恐怖と絶望が、城内に急速に広がっていったに違いない。この心理的動揺こそが、豊臣軍の最も強力な武器であった。

三月三十日:ドミノ倒しの始まり

  • 終日: 山中城落城の報は、戦略的状況を一変させた。山中城と連携して足柄峠を守るはずだった足柄城の城主・北条氏光は、徳川軍の井伊直政隊が自らの城に迫っていることを知ると、もはや抵抗は無意味と判断した 29 。彼は本格的な戦闘を前に城を放棄し、兵を率いて本拠地である小田原城へと撤退を開始した 29

この足柄城の放棄は、河村城にとって致命的な意味を持った。西の山中城、北の足柄城という、連携すべき二つの拠点を同時に失い、河村城は完全に孤立無援の存在となったのである。城将・遠山景政は、絶望的な状況下で重大な決断を迫られた。このまま城に籠もり、玉砕覚悟で戦うのか。それとも、兵力を温存し、主君のいる小田-原城へ合流する道を選ぶのか。

籠城戦を継続するための絶対条件は、兵糧の確保と後詰の見込みである 40 。しかし、20万の大軍に包囲された状況で、外部からの補給や救援は絶望的であった。このまま籠城を続ければ、兵糧が尽き、兵士を無駄死にさせるだけである 41 。遠山景政にとって、最も合理的かつ武将としての責務を果たす選択は、一人でも多くの兵を小田原城の防衛力に加えるべく、城を脱出することであった。

四月一日:足柄城、無血占領

  • 午前: 井伊直政率いる徳川軍の先鋒部隊が足柄城に到着した。しかし、そこに抵抗する城兵の姿はなく、もぬけの殻となった城を無血で占領した 29 。これにより、徳川軍は足柄路を完全に掌握し、その矛先は、眼下に位置する孤立した要塞、河村城へと真っ直ぐに向けられることになった。

【推論】四月初頭、河村城の攻防と落城

正確な日付は不明ながら、足柄城を占領した徳川軍の一部が、間もなく河村城へ到達したことは間違いない。ここからの数時間が、「河村城の戦い」として記録される、最後の激しい攻防の瞬間であった。

  • 状況設定: 遠山景政は、主力部隊の小田原城への撤退をすでに決意し、実行に移していた。しかし、全軍が安全に脱出するためには、敵の追撃を食い止め、時間を稼ぐ必要があった。景政は、最も信頼する部下たちに殿(しんがり)を命じ、城に残って最後の抵抗を試みるよう指示したと推察される。城に残ったのは、主君の脱出を助けるため、自らの命を捨てる覚悟を決めた、数十名の決死隊であった。
  • 戦闘の再構成: 徳川軍の部隊(戸田忠次の部隊、あるいは井伊直政配下の別動隊の可能性が考えられる)が、河村城の大手口方面に姿を現し、攻撃を開始した。城に残った北条方の兵士たちは、数で圧倒的に劣りながらも、城の堅固な防御施設を最大限に活用して抵抗した。畝堀や深い堀切は、徳川兵の突撃を阻み、城兵は狭間から鉄砲を撃ちかけ、必死に時間を稼いだ。
  • しかし、多勢に無勢の状況は覆せない。徳川軍は損害を出しながらも、一部隊が堀を乗り越え、城内への突入に成功した。城内では、両軍が入り乱れる壮絶な白兵戦が展開された。この最後の激しい戦闘において、籠城していた兵士のうち 31名が討ち死にした という記録が残っている 12 。これは、単なる無抵抗な降伏ではなく、名もなき兵士たちによる壮絶な最後の抵抗があったことを物語る、貴重な証言である。
  • 殿部隊は、その多くが討ち死にするか、あるいは任務を完了したと判断して城から脱出したことで、その役割を終えた。徳川軍はついに城を完全に制圧。この決死の時間稼ぎによって、遠山景政率いる主力部隊は、敵の追撃を振り切り、小田原方面への脱出に成功したと考えられる。一部で伝えられる「自焼・放棄」 23 という説は、この撤退の最終段階において、殿部隊が城内の主要な施設に火を放ち、敵による再利用を妨げた行為として解釈するのが最も自然であろう。こうして、難攻不落を誇った河村城は、その戦略的価値を失い、陥落した。

第五章:落城後 – 歴史の奔流の中へ

第一節:廃城と史跡

河村城の陥落は、後北条氏の西側防衛網の完全な崩壊を意味した。小田原征伐が終結し、徳川家康が新たな関東の支配者となると、河村城はその戦略的価値を完全に失った。対武田氏という存在意義が消滅し、新たな支配体制の下では不要と判断されたのである。こうして、南北朝時代から戦国の世を駆け抜けた名城は、歴史の表舞台から静かに姿を消し、廃城となった 12

時は流れ、かつての戦場は深い緑に覆われた。しかし、後北条氏が築いた堅固な遺構は、奇跡的に良好な状態で現代にまで残された。現在、城跡は「河村城址歴史公園」として整備され、訪れる者は、往時の姿を彷彿とさせる壮大な畝堀や堀切を目の当たりにすることができる 11 。これらの遺構は、戦国時代の築城技術の高さを物語る貴重な歴史遺産として、静かにその歴史を伝えている。

第二節:将兵たちのその後

城と運命を共にした31名の兵士とは対照的に、将兵たちのその後は、勝者と敗者で大きく明暗が分かれた。

河村城の守将・ 遠山景政 のその後の消息を伝える確かな史料は、残念ながら現存していない。彼の名は、この戦いを最後に歴史の記録から途絶える。これは、後北条氏の滅亡という巨大な歴史の転換点において、数多の家臣たちが経験した運命の縮図と言える。主家を失い、浪人となった者、帰農した者、そして新たな主君に仕官の道を見出した者。景政もまた、どこかで生き延び、激動の時代に適応していった可能性は否定できない。実際に、後北条氏の旧臣の中には、後に徳川家康に召し抱えられ、新たな時代で活躍した者も少なくない 42 。彼の不明確な足跡は、敗者となった無数の武士たちが、新たな秩序の中で生きる道を必死に模索したであろう時代の現実を象徴している。

一方、攻撃側の将たちは、この戦功を足掛かりにさらなる栄達を遂げた。 井伊直政 は、小田原征伐後、徳川家康が関東に移封されると、上野国箕輪(後に高崎)に12万石という、徳川家臣団の中で最高の所領を与えられた 29

戸田忠次 もまた、家康の下で重用され続け、その子孫は江戸時代を通じて大名として存続した 45 。彼らの栄光は、豊臣から徳川へと続く新たな時代の支配体制を築き上げる礎となったのである。

第三節:後北条氏の滅亡

河村城をはじめとする支城が次々と陥落していく中、小田原城では約100日間にわたる籠城戦が続いていた 2 。しかし、外部からの救援は絶望的であり、豊臣方の圧倒的な包囲網と、城下に出現した石垣山一夜城が与える心理的圧力の前に、城内の士気は日に日に低下していった。

そして天正18年7月5日、ついに当主・北条氏直は降伏を決断し、小田原城は開城された 3 。戦の責任を一身に負う形で、隠居していた前当主・氏政とその弟・氏照は切腹を命じられた 46 。これにより、初代・早雲から五代にわたり、約100年間関東に君臨した戦国大名・後北条氏は、その歴史に幕を下ろしたのである。河村城で繰り広げられた小さな戦いは、この巨大な王国の滅亡へと至る、避けられない歴史の奔流の中の一つの出来事であった。

結論:小田原征伐における河村城の戦いの歴史的意義

天正18年(1590年)春に起きた「河村城の戦い」は、豊臣秀吉による天下統一事業の最終段階において、後北条氏の広域防衛戦略がいかにして崩壊したかを象徴する出来事であった。

第一に、この戦いは、後北条氏が絶対の自信を持っていた「支城ネットワーク」戦略が、豊臣軍の圧倒的な物量と、複数の進軍路から同時に侵攻する計画的な各個撃破戦術の前に、脆くも崩れ去る過程を明確に示している。最重要拠点である山中城がわずか半日で陥落したことで、連携を前提としていた河村城は戦う前から戦略的に孤立し、その存在価値を失った。これは、戦術レベルでいかに優れた城郭(畝堀などの防御施設)であっても、それを運用する大戦略が破綻した際には無力であるという、普遍的な軍事史上の教訓を提示している。

第二に、「31人の討ち死に」という断片的な記録は、この出来事が単なる無抵抗な放棄や降伏ではなかったことを示唆する。これは、主力部隊を小田原城へ退却させるための、殿部隊による決死の遅滞戦闘であった可能性が高い。この視点から戦闘を再構成することは、天下統一というマクロな歴史の潮流の陰で、自らの責務を全うするために命を散らした名もなき兵士たちのミクロな人間ドラマに光を当てるものである。歴史事象の解像度を高めるとは、こうした個々の人間の選択と行動の積み重ねとして、歴史を捉え直す試みに他ならない。

最終的に、河村城の攻防は、戦国時代的な地域権力間の抗争が終焉を迎え、統一された中央権力の下に日本全土が再編されていく時代の大きな転換点を映し出す一齣であった。堅固な山城がその役目を終え、そこで戦った将兵たちが新たな時代の秩序に吸収されていく様は、一つの時代の終わりと、新しい時代の幕開けを雄弁に物語っている。

引用文献

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  46. 小田原征伐(小田原攻め、小田原の役) | 小田原城のガイド - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/25/memo/2719.html